源頼朝、足利尊氏、徳川家康の中で最も重要なのは
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>>375
このスレで分かったことは三河馬鹿が
頭の悪いゴミだということだけだよ >新聞を墨から墨まで読んで
隅から隅までの間違いだろの指摘はどーした?w
ここはあえて釣られてやるのがつーちゃんねるだと言っただろ
頭の働かないダサい奴め
369 :日本@名無史さん:2014/06/19(木) 05:14:50.61
>>367
自演は慈円の間違いだろはまだかよw
ここはあえて釣られてやるのがつーちゃんねるだ
ダサい奴めw ■真福寺(愛知県岡崎市)
推古天皇二年(西暦594年)物部の守屋の次男真福が山の頂きより霊光かがやき端雲たなびくをみて不思議に思い訪れたところ、
滾々と湧き出る泉を発見した。しばしたたずんでおられた真福は日頃信仰しておられた薬師如来が水中より顕れ出られ、
(是好良薬今留在此)と誦して再び泉の中に姿を消された。
これを目の当たりにして非常に感激し末代まで伝えようとして本堂を建立したのが真福寺の始まりである。鎌倉時代には最も栄え、36坊の末寺を有した。現在は、身体健康と目のお薬師様として愛知県下はもとより全国より多くの信仰を集めています。
■名 称 霊鷲山降劒院真福寺
■建 立 聖徳太子建立 三河国最古寺院
■本願施主 物部の大将守屋の次男 真福
■国宝なし
■重要文化財 木造慈恵大師坐像
どうよ尾張ザル関東ザルたちよ
これが滝山寺とともに三河が日本史を築いた証だ
これが三河ネットワークの凄さだ
関東には聖徳太子建立なんて
こんな凄い古刹はないだろ
ダサいや奴めw 頼朝からすれば足利は家人の一人でしかないし
家康は頼朝の真似っこに必死だったし
ぶっちぎりで頼朝だろ
敵じゃないね >>372>>378
そんなに自慢したい
飛鳥時代から続くオラが岡崎村の寺なのに
坐像一体だけ重文指定なんだな
江戸初期に一部消失したとは言え
寺伝やら古文書の類はファンタジーなのね
滝山寺と一緒だなw まぁアレだ
パゴヤの頼朝=旗屋武者王には負ける(笑)w ■三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流、本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(実父は季範長男の範忠)→足利義兼→足利義氏(三河守護)
11世紀
・1044年、藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・1060年、藤原保相(季兼(三河四郎大夫)の祖父の兄)が、私領を三河国碧海郡志貴荘として立券する、知行は保相→資良(保相の息)→惟信(資良の息)→惟信の娘(平信範の母)が伝領した
・1062年、藤原実範(三河守、藤原季兼(三河四郎大夫)の父)が死去する
・季兼(三河四郎大夫)は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り、三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着する
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券し、甥(高橋惟康)を領主に据える
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を 支配下におく
・1076年、藤原季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)が三河守になる
・同時期、季綱(三河守、季兼(三河四郎大夫)の弟)が、鳥羽の別邸を白川院に献上する(後に
鳥羽殿)
・季範(三河四郎大夫)は、藤原資良(父は藤原保相(季兼(三河四郎大夫)の祖父の兄)が尾張守になり、尾張目代を務める(死ぬまで、息子と共に三河に住みながら尾張目代を務めた)
・1084年、藤原顕季が尾張守になる
・季兼(三河四郎大夫)は、松御前(尾張員職の娘)と結婚し、1090年、藤原季範(額田冠者)が生まれる
・1099年、藤原長実(美福門院父)が尾張守になる 12世紀
・1101年、季兼(三河四郎大夫)が死去する
・1114年、藤原顕頼(母は季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)の娘、季範(額田冠者)の従兄弟)が三河守になる
・1114年、季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪) ←大宮司職を乗っ取られる(笑)
・1130年、季兼(三河四郎大夫)室の松御前(尾張員職の娘)が、三河国設楽郡(愛知県新城市稲木)で死去する(城ヶ峰(愛知県新城市)の山頂に墓あり)
・1136年、藤原顕長(父は藤原顕頼(母は季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)の娘、季範(額田冠者)の従兄弟)が 三河守になる
・1137年、季範(額田冠者)は、神のお告げで大宮司職を五男範雅に譲る
・1137年、鳥羽院が、鳥羽殿内に安楽寿院を創建する
・1140年、季範(額田冠者)が、滝山寺内(三河国額田郡)に、夫婦で蓮華寺造営、仏性灯油料として三河国額田郡恵那河内郷(愛知県岡崎市米河内)を寄進する
・1142年、源義国が、足利荘を安楽寿院に寄進する
・季範(額田冠者)の娘(由良御前)が源義朝の正室になり、1147年、源頼朝が生まれる
・季範(額田冠者)の娘(養女(実父は季範長男))が源義康の正室になり、1154年、足利義兼が生まれる
・1155年、季範(額田冠者)、源義国が死去する
・1157年、源義康が死去する
・1159年、由良御前が死去する
・1160年、源義朝が謀殺される
・1168年頃、三河国碧海郡碧海荘が立券され、鳥羽院に寄進される(寄進者は藤原範忠か?)
・1185年、源頼朝が幕府を開く
・1199年、源頼朝、足利義兼が死去する
13世紀
・1219年、源実朝が暗殺され、1221年、承久の乱で三河の藤姓熱田大宮司家の所領が没収されると、足利義氏が縁故者として三河の権益を継承する ←足利王国の誕生 尾張の支配者変遷
尾張氏 熱田大宮司。尾張国造、つまり尾張の古代豪族。
藤原氏 尾張氏の婿となり大宮司職を継承。初代は三河四郎大夫季範(源頼朝の外祖父)。
小野氏 武蔵国多摩郡(東京都)出身、横山党。平氏追討戦で活躍。尾張国守護として3代任じられる。
中条氏 武蔵国北埼玉郡中条発祥の横山党小野氏族。小野氏に代り尾張守護に任じられる。頼平(神奈川県)ら剣の中条流で知られる一族。基本的に鎌倉在住。
名越氏 北条氏族(神奈川県)。鎌倉末期の守護。
中条氏 再び
南北朝以降は土岐、足利、今川、一色・・・と移り変わり、織田氏の登場を待つ。
長秀の剣法中条流は、中条氏の祖小野氏時代より刺撃の術を伝え、中条頼平に至り特に精妙となり。
これを平法とも中条流ともいった。これが長秀に伝わり、長秀が念流系の中条流の中興の祖といわれた。
(『豊田市史』より抜粋、『大日本剣道史』) >>381
武力だけなら尊氏だろ。頼朝は政治力の勝利だ。 >>385
三河岡崎バカって
藤姓熱田神宮の反論は結局何〜にも出来ないのねw
次は真福寺と滝山寺の反論まだぁ〜w >尾張国造
国名が、他国の地名の他国人由来は尾張だけ
大和国葛城郡高尾張の尾張氏が移住して来て、国名が尾張になる
ダサいダサ過ぎるw 畿内の河内やら古代からの優れた地方豪族である尾張氏や毛野氏
頼朝も尊氏とも接点も多い
残念なことにそのころの三河は土人と獣の動物天国
やっと鎌倉時代になって足利家の植民地となって人が住むようになった >尾張氏(関西人)
国名が、他国の地名の他国人由来は尾張だけ
大和国葛城郡高尾張の尾張氏が移住して来て、国名が尾張になる
ダサいダサ過ぎるw >>392
てか
その頃は三河って名前や岡崎って名前なんか無かったよ
単なる原っぱ 何でもいいが、パゴヤは出入り禁止なw
源頼朝、足利尊氏、徳川家康とパゴヤは関係ねーからw
何回も言わせんな、パゴヤ 歴史なんてタイミングと偶然がほとんどだろ
みんなそれぞれ違う時代に同じ環境で生きてたら
多分誰も何も出来ずに終わるだろう >>393
出雲もだろ
丹波の出雲氏が移住して来て国の名になった 歴代江戸幕府将軍の格付け
S 徳川家康
A 徳川家光
B 徳川綱吉、徳川吉宗、徳川慶喜
C 徳川秀忠、徳川家綱、徳川家宣、徳川家治
D 徳川家斉、徳川家慶、徳川家茂
E 徳川家継、徳川家重、徳川家定 >>397
そりゃその通りだ。(・_・)
個人が優れているから、英雄になるわけじゃない。
生まれた場所、時代、身分、全てがマッチしたからこそ、英雄になれる。(・_・) >>401
ほんと最近思うけど運命って決まってるんだって思うよ
日本史上最悪な時代は第二次大戦
あの時代に生まれたらどうしようもないわw >>396 >>397 >>399 >>401 関が原スレでは家康の兵は弱兵で意見が一致。 三河は武篇の国なる故、五千あらば上方の二万にかけあひ申べく候。(中略)三方ヶ原御合戦に、討死の三河武者下々迄、勝負を仕らざるは一人もなく候。
たけき武篇の家、和朝に上杉謙信・徳川家康なり。
(『甲陽軍鑑』) >>404
『甲陽軍鑑』は徳川時代になって書かれた可能性が高いから、
そこの三河賛美を素朴に認めるわけにはいかんよ。(・_・) この3人より恵まれた環境で、天下とれなかった奴はカス 頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw
156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん
頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない
>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw
ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
だよねじゃねーつーのw >>393
>国名が、他国の地名の他国人由来は尾張だけ
>大和国葛城郡高尾張の尾張氏が移住して来て、国名が尾張になる
お前、バカ丸しで出イタすぎる 頭の悪いニートの三河馬鹿が暴れ出したな
で、源頼朝の母方を辿ると古代豪族・尾張氏になるという事実は
いい加減理解できたのかね?
ニート君 頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw
156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん
頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない
>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw
ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
だよねじゃねーつーのw 頼朝、尊氏、家康
仕えるなら尊氏がいい
アタフタしたい 頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw
156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん
頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない
>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw
ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
だよねじゃねーつーのw 三河馬鹿って足利尊氏が三河生まれとか言ってる馬鹿だろw 頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw
156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん
頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない
>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw
ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
だよねじゃねーつーのw 出現に於いて最も重要なのは国司から実権を剥ぎ取り始めた頼朝だが
結果に於いて最も重要なのは国司から実権を剥ぎ取りきった家康 三河馬鹿って足利尊氏が三河生まれとか言ってる馬鹿だろw 家康の頃は、国司は名義だけで実態が消滅してるだろう。 足利尊氏と直義―京の夢、鎌倉の夢(吉川弘文館/峰岸純夫著)
http://ecx.images-amazon.com/images/I/51D3SU0yeaL._SL500_.jpg
足利尊氏・直義兄弟が貞氏を父に上杉頼重娘の清子を母として生まれたのは
鎌倉大倉邸(ないし近くの上杉邸)であろう。 1310年頃に三河にいた事が確認できる頼重だが、それ以前の1305年頃からいれば、当然生誕地は三河と言う事になる
■上杉氏
上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。 元暦二年六月大十六日丁卯。典膳大夫。近藤七等爲關東御使。帶 院宣。巡檢畿内近國。成敗土民訴訟。然間。當時其誤不聞。二品内々被感仰之處。尾張國有玉井四郎助重云者。本自爲先猛悪。
令懷諸人愁之由謳歌。近日殊又有違 勅之科。仍件兩人爲尋沙汰。雖遣召文敢不應。還及謗言。于時久經等言上子細之間。爲俊兼奉行。今日被仰助重云。違背 綸命之上者。不可住日域。依令忽緒關東。不可參鎌倉。早可逐電云々 かりに頼朝の血筋が100年後まで続いていたら
子孫の男子は少なくとも数百人に達していただろうから
そのときには足利氏は源氏でも末流扱いだろう 日本史は、清盛登場から足利義満が死ぬまでが一番おもしろいな >一番おもしろいな
頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw
156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん
頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない
>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw
ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
だよねじゃねーつーのw 東武士は大方強敵どもなり
上方の弓矢すえになりたる国ども
上方衆恩も存ぜず強き弱きの弁えもなく義理をも恥をも捨て候て
上方武士は、歩の頸を一つ取りは、侍の頸を十も取りたるやうに、針ほどの事を棒程に過言を申と、山本勘助が話を聞き候如くあるべきなり。
信州(武士)弓矢功者の事は、侍の事は申に及ばず、百姓まで勝負のすべをよく存じたる
信州弓箭つよき事、大形ならざるに付、忰者・中間まで武勇をたしなみ、にげおつる者さのみ無之して
関東の儀、昔より弓箭国と申は、まず武蔵は武の蔵とやらん承及候。(中略)よき武士あまた候て、(中略)弓矢巧者、手柄武士達際限なく御座候事、老若共に沢山なる儀は、積もられぬ程にて候
三河は武篇の国なる故、五千あらば上方の二万にかけあひ申べく候。(中略)三方ヶ原御合戦に、討死の三河武者下々迄、勝負を仕らざるは一人もなく候。
たけき武篇の家、和朝に上杉謙信・徳川家康なり。
(『甲陽軍鑑』) >>400
家光の評価が異常に高いけどさ、これは忠臣・松平伊豆守のおかげだよ。
家光自身は凡庸で弟の方が優秀だったというのは定説だからね。 http://hideyo-noguchi-mri.com/council
あの神の手、福島孝徳脳外科医も野口英世支持者だ
http://m2.upup.be/j3GS6yJ1hv
野口英世と大隈重信
http://l2.upup.be/CfE8fOSdgr
野口英世と東郷平八郎
http://m2.upup.be/qH7YjpjAGW
日本人最初のカラー写真、野口英世(大正3年アメリカで撮影)
野口英世
学位は医学博士(京都大学)、理学博士(東京大学)。称号はブラウン大学名誉理学博士、イェール大学名誉理学博士、パリ大学名誉医学博士、サン・マルコス大学名誉教授・名誉医学博士、エクアドル共和国陸軍名誉軍医監・名誉大佐。
1907年(明治40年) - ペンシルベニア大学名誉修士
1918年(大正7年) - エクアドル陸軍名誉軍医監 名誉大佐、グアヤキル大学名誉教授、キトー大学名誉教授
1920年(大正9年) - サン・マルコス大学名誉教授 名誉医学博士
1921年(大正10年) - ブラウン大学名誉理学博士、エール大学名誉理学博士
1925年(大正14年) - パリ大学名誉医学博士
受賞歴
1913年(大正2年) - 勲三等(スペイン)、勲三等(デンマーク)
1914年(大正3年) - 勲三等(スウェーデン)
1915年(大正4年) - 勲四等旭日小綬章
1920年(大正9年) - ジョン・スコット・メダル名誉章(フィラデルフィア)
1924年(大正13年) - レジオンドヌール勲章(フランス)
1925年(大正14年) - 正五位、コーベル賞牌
1928年(昭和3年) - 勲二等旭日重光章、防疫功労金牌(フランス) スレタイの「源頼朝、足利尊氏、徳川家康の中で最も重要なのは?」
この3名、歴史的に重要じゃなかった人物だと思いますよ。 >>432
同じ戦力で正面から戦をすれば
尊氏>家康>>>頼朝 頼朝はまともな戦力で戦った時は以外と強い。
対佐竹 勝利
対奥州 勝利
負けた時は戦力的に問題外過ぎ
平治 敵三千以上 自軍 八百(しかもうち三百は途中で敵に寝返り)
石橋山 敵三千、味方三百 源頼朝は大阪の天皇の分家の源氏で
摂津国の源氏を祖とする河内の源氏 >>431
頼朝≒泰時
尊氏<義満
家康(やはり徳川15代では飛び抜けた存在) >>428
武蔵国→備中伊勢氏に無双されてしまうw
信州→弱兵だと侮っていた尾張兵と近江兵が襲来すると逃亡、唯一戦場となった高遠城はわずか一日で陥落w
結局、かつて東国に強い武士がいたのは、蝦夷討伐のための関西から精兵の派遣先だったからってだけ。
それがなくなったらただの雑魚地域。 >>437
北条の兵は相模伊豆の兵士で武蔵と同じように強いと言われてんだから
そこに並べるのはちがうだろ >>438
早雲はほとんど領土を持ってない状態から30日で伊豆一国を切り取ってるからなあ。
大元はそのときに働いた備中か京都から連れてきた手勢だろう。 >>439
最近の研究ではだいたい明応2年から明応7年の約5年間で、ということになってるよ。 「夷種衆多、逓相合従、賊徒数万、窮寇死戦、一以当百、難与争鋒」
夷(えびす)の種(ともがら)は衆多くして、逓(たがい)に相合従す。賊徒数万、窮寇死戦せば、一もて百に当りて、与(とも)に鋒(ほこのさき)を争ひがたし。
(『藤原保則伝』古代政治社会思想)
「戦士勇山東之民一兮当千、豈以皇畿近州之嬰児、対東関蛮夷之勇健乎」
戦士の勇、山東の民一にして千に当たる。あに皇畿近州の嬰児を以て、東関蛮夷の勇健に対せんや。
坂東武士の勇健は一騎当千の強さである。畿内近国の赤ん坊のような弱い武力で、強健な東国武士に手向いできようか。
(『吉田定房奏状』中世政治社会思想・下) 河内物部氏は個人としてはパッとした人物を出せずに滅んだし、○○源氏なんて言っても住居は京や鎌倉。
渡辺党は埼玉、楠木も埼玉の武蔵七党出身。
鴻池→島根、住友→福井、三井→三重。
幕末は超が付くほど悲惨。
大阪は剣も戦も日本一弱い。
戦国時代を除いても人物は愛知の方が遥かに出てる。
それも派手な尾張よりも堅実な三河に人物は多い。 渡辺←嵯峨源氏(京都)
楠木←橘氏(奈良)
鴻池←近江源氏(滋賀)
住友←蘇我理右衛門(大阪)
三井←近江藤原(滋賀)
甲子園優勝回数
1位 大阪21
2位 愛知18
3位 兵庫13
日本一強いのが大阪人 日本人メジャーリーガー通算war
2位 野茂英雄 大阪
3位 黒田博樹 大阪
5位 ダルビッシュ 大阪
6位 大家友和 京都
7位 上原浩治 大阪
7位 長谷川滋利 兵庫
1位は尾張のイチローだけどね
三河って誰かいるのかなあ イチローはゴキローだろw
岩瀬がいるな
岩瀬と言えば幕末三俊の岩瀬忠震 長州ネトサポのプロパガンダ
縄文土器は朝鮮土器
天皇は夫余(穢族で後の満州族)
弥生人も朝鮮北東部の穢族
すり替えのプロパガンダはスレ一覧見れば分かるよな
お探し学者が無茶苦茶なこじつけするのも長州プロパガンダ
考古学、人類学、遺伝子学全て無茶苦茶な歪曲は長州プロパガンダ 先祖代々パシリが勝てるのか?勝てるわけないだろがw
最大の皇室領荘園だった豊田市に繋がる鎌倉将軍家、足利将軍家、徳川将軍家、トヨタグループが、今も昔も、皇室を庇護する日本の番長なんだからよw
■三河国高橋荘・高橋新荘
豊田市全域は源頼朝の曽祖父が開発し、後に皇室に寄進された最大の皇室領荘園
高橋新荘から松平家が、高橋荘からはトヨタ自動車が発祥した
・開発者は源頼朝の曽祖父、藤原季兼か?
・寄進者は藤原季兼の妹の子供、高橋惟康(藤原伊周の孫)か?
・平安末期〜戦国期に見える荘園名
・矢作川中流域の低地と山間部、豊田市(旧上郷町・高岡町を除く)・三好町・藤岡町・小原村にまたがる大荘園
・八条院領目録に院分御荘として「参河国高橋荘」「参河国高橋新荘」とあり、鳥羽院政期の院領寄進系荘園の一例とみられる
・寄進者は藤原(高橋)惟康か←藤原伊周の孫、源頼朝曽祖父の妹の息子
・八条院没後、春華門院昇子ー順徳天皇ー後高倉院→安嘉門院邦子ー亀山天皇ー後宇多天皇ー昭慶門院憙子と相伝される
・昭慶門院目録に、高橋荘は亀山院の時石清水八幡宮に寄進、新荘は冨小路前大納言(小倉実教)とあるのは領家職とみられる ■源頼朝と従兄弟2人の関東支配の裏歴史
1181年:源頼朝は藤姓足利氏を滅ぼし、三河の母方従兄弟の源義兼に足利荘を安堵する(源姓足利氏の始まり)
1181年:源頼朝の意向で、足利義兼は北条時子(政子の妹)と結婚する
1182年:源頼朝の従兄弟の寛伝が、頼朝の推挙により日光山満願寺19世座主になる
■日光山
源頼朝が母方の従兄弟(寛伝)を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた
源頼朝
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→女(由良御前)→源頼朝
足利義兼(初代足利氏)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→女(実父は季範長男の範忠)→足利義兼
寛伝(寛典・観纒とも、額田僧都、式部僧都と称された、日光山満願寺19世座主)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝
寛伝年表
・1142年、生まれる
・叔父の三河法橋裕範(源頼朝の母の弟)、粟田口法眼長暹(源頼朝の母の弟)を頼って滝山寺(三河県岡崎市)で仏門に入る
・仁和寺で修行
・1182年、源頼朝の推挙により日光山満願寺19世座主になる
・宗徒と面会する際、御簾を半分にしか上げず紛紜、2ヶ月で三河国(三河県岡崎市)に戻る
・菩提寺の滝山寺(三河県岡崎市)僧侶になり、66郷を領し精舎一区を創建する
・鑁阿寺奥院の法界寺に、宋版の一切経を納める(後に一切経は、足利義氏により鑁阿寺に)
・高野山御影堂に大鐘を施入する
・1201年、頼朝公の3回忌、滝山寺内に惣持禅院を創建し、本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩を安置する
・惣持禅院に供僧10人を常置し10町の土地を寄進する
・1205年、死去する 源頼朝は嫡男の正室に、曽祖父が開発した荘園の荘官をしていた足助重長の娘を選んだ
源頼朝の曽祖父は三河県豊田市民→三河県岡崎市民
源頼朝の祖父は三河県岡崎市民
源頼朝の嫡男の正室(辻殿)は三河県豊田市民
その嫡男の息子が鎌倉鶴岡八幡宮でやらかした公暁
・吾妻鏡では辻殿を妻、若狭局を愛妾としている
・源頼家(2代目鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市))→由良御前→源頼朝 →頼家→公暁
・辻殿
足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)→辻殿(母親は源為朝の娘)→公暁
■修禅寺(静岡県伊豆市修善寺964)
木造大日如来坐像
http://www.butsuzoutanbou.org/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0/%E9%9D%99%E5%B2%A1%E7%9C%8C/%E4%BF%AE%E7%A6%85%E5%AF%BA/
本尊の大日如来像は1984年に解体修理され、像内から銘文と納入品が発見された。これによって、1210年に実慶が造ったものとわかった。
実慶は「運慶願経」(1183年)に名前の見える慶派の仏師である。この修理の時点では作品は知られておらず、重要な発見となった。新聞でも報じられたそうである。
納入品は美しい布に包まれた髪の毛であった。
髪はB型とO型の血液型の人のものであるとのことで、2人分であることが判明している。1210年というのは、この地で非業の最期をとげた鎌倉幕府の2代将軍源頼家の7年忌にあたることから、頼家ゆかりの人の髪と考えられる。
『吾妻鏡』の1210年7月8日の条に頼家の妻辻殿が出家をしたという記事があり、辻殿の髪と思われる。またもうひとりは、母である北条政子である可能性がある。 平安末
尾張系京都伊豆人源頼朝「日本一の猛者といえば武蔵国住人熊谷次郎直実」
藤原摂関家出身の慈円「武蔵国住人畠山重忠最強伝説」
鎌倉
最強鎌倉武士「下野の足利忠綱怪物伝説」
徒然草の吉田兼好「相州鎌倉住人安達泰盛こそ武士中の武士」
南北朝
武蔵武士系河内国住人楠木正成「ガチンコ決戦なら武蔵相模の二国>その他オールジャパン」
戦国
剣豪将軍足利義輝「剣日本一は上州の上泉信綱、西国一は肥後の丸目長恵」
奈良興福寺「やはり甲斐越後が最強」
三河者の武田家軍師山本勘助「関西侍は下の下」
戦国最強甲斐侍「関東武士は馬上戦闘&長刀、関西武士は下馬戦闘」
越後の豪族北条氏「畿内、中国侍は町人似の弱兵」
尾張の太田牛一「馬上巧者の関東衆西上野小幡党」
宣教師フロイス「島津軍は弓が多く長刀を操る」
戦国末
薩州島津家当主「信州真田兵が日本一」
ミスター三河武士大久保彦左衛門「上方奉行は口だけの腰抜け」
幕末
江戸本所の暴れん坊勝子吉&信濃の最強力士雷電「江戸の平山先生最強伝説」
豊後中津の天才剣士島田虎之助「幕臣男谷先生を筆頭に江戸の剣客は強すぎる」
陸奥の大剣豪千葉周作「江戸の高柳先生や男谷先生には生涯勝てない」
江戸の幕臣勝海舟「白井(江戸人)の剣は神の領域」
近代
東京出身の文豪芥川「千葉の山田次郎吉先生が最強」
水戸の高野茂義&岡崎の三橋鑑一郎「天下第一の名人は栃木鹿沼の下江先生」
別府の堀「水戸の門奈正最強」
京都の大日本武徳会「技の水戸人門奈、気の水戸人内藤」
昭和天皇「天覧武道大会全制覇の法神流(群馬)」 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 3人とも重要だけど、足利尊氏は確実に2ランク位落ちる。 1頭…足利尊氏
2オデコ…足利義詮
3目…足利義満
4鼻…足利義持
5口…足利義量
6顎…足利義教
7首…足利義勝
8肩…足利義政
9鎖骨…足利義尚
10胸…足利義稙
11みぞおち…足利義澄
12ヘソ…足利義晴
13下っ腹…足利義輝
14ひでぇ奴…足利義栄
15お尻…足利義昭
おkかな 頼朝の源氏直系、信長の織田氏はエゴイスト過ぎて子孫が政権維持できず
秀吉の豊臣氏も唐入りの野心で金を食いつぶして二代で崩壊
北条、足利両氏も政権崩壊後は影響力維持できず
藤原と徳川両氏のみが政権崩壊後も影響力を駆使し続けた
この両一族の権謀術数DNAは現在まで引き継がれている こんな感じ
頼朝: 田舎侍のみこしに過ぎないと思っていたが、意外にずるがしこく、京都にも精通し、後白河院がバカだったので、関東に一大勢力を築いた。体制を維持するという視点はなかった。残された人たちは常にバトルロワイヤル。
尊氏: 気前がよくなんだか武士の受けがいいので、どんなに窮地に陥ろうとついてくる武士がいた。そんな感じでずるずると死ぬまで楽しく生きた。体制の維持については人任せだった。そのため、おもしろくないと人はついてこないというタレント主義の足利幕府が作られた。
家康: 地道に勢力を伸ばし、最後には天下人となった。後継育成と体制の維持という視点を生前から持っていた。
>>460
織田信吉とやらがいつ天下を取ったんだよ
みゃ〜みゃ〜泣きながら真っ黒けの炭になった濃尾平野の間抜けはスレ汚した 江戸庶民は
徳川家康なんか知らないだろう
草紙や舞台で取り上げるの禁止だったし 『室町幕府東国支配の研究』 江田郁夫 高志書院
東国大名の存在は、擾乱以降、不安定な状況が続いていた畿内の政治、軍事情勢を回復するうえでも重要な役割を果たした。
尊氏は文和2(1353)年に東国大名を率いて大挙上洛した。
このとき尊氏に従って活躍した「東国ノ諸大名并軍勢」として次のようなものがいた(『源威集』)。
佐竹右馬頭義篤、同刑部大輔師義、結城中務大輔直光、同大内刑部大輔重朝、常陸大椽入道浄永、那須備前守資藤、
小田讃岐守孝朝、小山左衛門佐氏政、武田陸奥守信武のほか、高坂氏重らの平一揆や白旗一揆である。
尊氏勢上洛のさいには、「関東ノ武威ヲ恐テ、洛中ノ敵従退散」、「其武勢ニ恐、山陰道南方ノ御敵、不戦洛中ヲ退散ス」という(『源威集』)。
上洛してくる東国勢の精強は、南朝方もよく知るところであった。
足利政権にとって東国大名の保持する軍事力は、まさに切り札的な存在だったといえる。
その点は、畿内での戦闘においてもいかんなく発揮され、南朝らは以降も何度か入京を果たすものの、結局は一時的なものにとどまっている。 最近になって尊氏が意外と重要なんじゃないかと思い始めてきた
後醍醐という強烈なカリスマ性を持った天皇に対して、
南北朝の初期に北朝の優位を決定づけ、観応の擾乱で勝利
敵としては一番やりづらい相手で、いつ足をすくわれてもおかしくない感じなんだが、
あのストレス状況でも田楽に狂ってたような意味不明な性格で乗り切った感じw 徳川家康は、1590年初めて江戸に入国しました。藁葺き屋根の家が百ほどの大湿地帯に過ぎませんでした。
徳川家康は、後世にもっとも影響を与える日本人です。
入国当時湿地が広がり農業に適さない寂れた場所、いかにも粗相で町屋など茅葺きの家、百ばかり、ここもかしこも潮入りの芦原の寒村に過ぎなかったという。 江戸湊は頼朝の挙兵の時から要衝だったけどね
江戸湾−旧利根川−香取海の結節点として栄えた湊
だから頼朝は江戸氏を孤立させるために房総・豆相の水軍で江戸湾を封鎖して武蔵へ侵入 甲陽軍鑑
・東国武士はどこも強敵
・特に信濃勢は恐るべき相手
・武蔵武士は個人の戦闘能力が高い
・東海では三河が最強
・三河武士は戦慣れしている
・三河勢5千で関西勢2万に対抗できる
・家康軍の戦死者を見ると敵に背を向けている者は一人も居ない
・信長軍は数は多いが一兵、一兵は大したことない
・信長軍限定では美濃兵が最強
・尾張から都までの間では一戦ごとに我々と力の差が開いて行く
・尾張>伊勢>近江>山城(最弱) しかし、その治世は安定しないだろうがね。
結局は仕える物が仲違いしちまうのさ。 九州に逃げ出したくせになんだが逆転の高氏、ミラクルすぎて、
見方にすると頼りなく、敵にすると怖いw 尊氏は負け方が上手いというか、後で見ると上手く負けたようにみえる
大事な場面では結構勝ってるし 尊氏は天下取った武将ではぶっちぎりのラッキーマンだからなあ
能力以上の戦功を挙げ、能力以上の部下を得て、能力以上の地位を得た
本人に能力が無い事は尊氏本人が一番、解ってるから、源氏の棟梁なのに異様に自信がないw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています