源頼朝、足利尊氏、徳川家康の中で最も重要なのは
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>>1
家康
日本人の精神をもっとも知り抜いた人物だな
今でも十分通用するコミュ力あるわ
日本で天下とるには狸親父になるしかないんだなw
俺には無理だわwww 藤原経忠→信輔→信隆→信清→信子(源実朝正室)
藤原経忠→信輔→信隆→七条院(三河国分国主)→後鳥羽天皇→昇子内親王(母は九条兼実(三河国知行国主)の娘)、順徳天皇准母)
藤原経忠→信輔→信隆→七条院(三河国分国主)→後鳥羽天皇→土御門天皇(母は源在子(母親の養父は藤原範季)
藤原経忠→信輔→信隆→七条院(三河国主)→後鳥羽天皇→順徳天皇(母は藤原範季娘)
藤原経忠→信輔→信隆→親輔(三河守)
藤原経忠→信輔→信隆→信行→忠輔(三河守)
藤原経忠→信輔→親信→水無瀬親兼(室は足利義兼の娘)
藤原経忠→忠能→一条長成→源義経(養子) >>256
京都者が百人居たら99人はクズだろう
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南京のクーニャンハンター京都16師団の将兵はレイテでも女子供を殺しまくる
のちのレイテ戦で真っ先に逃げたのも16Dの京都歩兵第9連隊と福知山歩兵第20連隊です 藤原経忠→信輔→信隆→信清→女→四条隆衡→隆親(三河国知行国主、妾に足利義氏(三河守護)娘)
藤原経忠→信輔→信隆→信清→信子(源実朝正室)
藤原経忠→信輔→信隆→七条院(三河国分国主)→後鳥羽天皇→昇子内親王(母は九条兼実(三河国知行国主)の娘)、順徳天皇准母)
藤原経忠→信輔→信隆→七条院(三河国分国主)→後鳥羽天皇→土御門天皇(母は源在子(母親の養父は藤原範季)
藤原経忠→信輔→信隆→七条院(三河国分国主)→後鳥羽天皇→順徳天皇(母は藤原範季娘)
藤原経忠→信輔→信隆→親輔(三河守)
藤原経忠→信輔→信隆→信行→忠輔(三河守)
藤原経忠→信輔→親信→水無瀬親兼(室は足利義兼娘)
藤原経忠→忠能→一条長成→源義経(養子)
藤原経忠→女→成親→阿野公佐(母は俊成(三河守)娘、室は阿野全成の娘)
藤原顕憲→盛憲→清房→上杉重房
藤原顕憲→能円(正室は藤原範子)→女→土御門天皇
源雅通→通親(正室は藤原範子(再婚))→中院通方→土御門顕方(妾に吉良長氏娘)
藤原能兼→範兼→女(範子)→土御門天皇
藤原能兼→範兼→女(範子)→中院通方→土御門顕方(妾に吉良長氏娘) 藤原能兼→範季→源範頼(養子、三河守)→範円(三河国正法寺僧)
藤原能兼→範季→女(養女)→土御門天皇
藤原能兼→範季→女→順徳天皇
藤原能兼→範季→範茂→範房(三河守)
藤原能兼→範季→範茂→女(四条隆親(三河国知行国主)室)
藤原能兼→範季→範茂→女(忠成王妃)
藤原能兼→範季→女(吉田資経(三河守)室) 三河の藤姓熱田大宮司家
・家祖:藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)
・系図:藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))
☆源頼朝、★足利義兼
藤原実範
・藤原成季
・藤原季綱(三河守)→①へ
・藤原季重
・藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→④へ
・藤原行綱
・興義
・実慶
・三位女→高橋惟康(伊勢新二郎大夫、三河国加茂郡高橋庄(八条院領目録にあり)領主)
①藤原季綱
・藤原友実→②へ
★藤原実兼→藤原通憲(信西)→成範→女(長谷部信連室)
・藤原悦子(鳥羽天皇乳母)→葉室顕頼(三河守)→藤原俊成(養子、三河守)
・他多数
②藤原友実
・藤原能兼→藤原範季(後白河院近臣、順徳天皇の外祖父、源範頼養父)→③へ
・女子→源頼政(上西門院に出仕、伊豆守、源三位)→④
・他多数 ③藤原範季
・源範頼(養子、三河守)→源範円(正法寺(三河国宝飯郡)僧)→吉見為頼(初代吉見氏)
・藤原範時(八条院蔵人)
・藤原範茂(子孫は高倉家(羽林家))
・藤原重子(修明門院、順徳天皇母)→順徳天皇
・藤原範光(養子(実父は藤原範兼)、後鳥羽院近臣)
:藤原範子(養女(実父は藤原範兼)、後鳥羽天皇乳母、土御門天皇外祖母)→源在子→土御門天皇
・藤原兼子(養女(実父は藤原範兼)、後鳥羽天皇乳母)
・他多数
④源頼政
・源仲綱(大内守護)→有綱(伊豆守)→女子(源義経室)
・源国政(初代山県氏)
・源兼綱(実父は頼政兄の頼行)→大河内顕綱(初代大河内氏(三河国額田郡大河内)か?)
・源頼兼(大内守護)
・源広綱(実兄の仲綱に養子入り、駿河守)
・二条院讃岐
⑤藤原季兼
・藤原季範(蔵人所雑色、初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→⑥へ
・藤原憲実(法眼)→藤原仲経(九条院蔵人、玄番助大夫、美濃国土岐多良庄地頭)
・女子→二階堂行政(鎌倉幕府の政所令・後に別当、初代二階堂氏) ⑥藤原季範
・藤原範忠(後白河院上北面、大宮司、三河国滝山寺大檀那、室は美福門院女房上総)→⑦へ
・藤原範信(式部丞、上野介、大宮司(星野大宮司)、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野))→⑧へ
・藤原範雅(後白河院上北面、大宮司)→⑨へ
・藤原範綱(大学助大夫)
・藤原範智 (法眼、園城寺)→三条局(源実朝御所縫殿別当)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)
・粟田口長暹(法眼、三河国滝山寺、仁和寺、守覚法親王近習)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
☆由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進、征夷大将軍)
★女子(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人、上総介)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)
⑦藤原範忠
・藤原忠季(大宮司、刑部丞、蔵人所雑色)→藤原忠兼(備中守、大宮司)→海東忠成(猶子、大江広元の四男、初代海東氏、大宮司)
・野田清季(大宮司(野田二郎大宮司)、三河国野田城主、初代野田氏(三河国設楽郡野田))→鷹司朝季(鷹司冠者)→野田朝氏(大宮司、室は足利義兼の娘)
・藤原能季(相模守)
・藤原範高(検非違使、蔵人所、大宮司)
・寛伝(額田僧都、日光山満願寺19世座主、三河国滝山寺)
・任暁(仁和寺)
★女子→足利義兼(八条院蔵人)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)
⑧藤原範信
・藤原範清(検非違使、上西門院蔵人、星野左衛門大夫、頼朝右大将拝賀先駆)
・藤原憲朝(八条院判官代、駿河守、初代千秋氏(三河国設楽郡千秋))→藤原範俊(左馬助、大学助、源実朝近習)
・藤原信綱(駿河守、尾張国海東郡地頭)
・藤原信雅(高松院蔵人)
・藤原憲行
・藤原実豪(延暦寺権僧正) 崇徳院妾は、源頼朝と初代源姓足利氏たる足利義兼の従兄妹
崇徳院
中宮 皇嘉門院(三河国吉良荘領家、兄弟に九条兼実(三河国知行国主))
妾 兵衛佐局(三河の藤姓熱田大宮司家か、源頼朝の親類(吾妻鑑))→重仁親王(乳母は池禅尼(三河守頼盛の母))
妾 女子(父:源師経(三河権守、母:由良御前姉妹、源頼朝・足利義兼従兄妹)
源頼朝の母親の姉妹の子供、頼朝の従兄弟が崇徳院の妾になっている
もう一人の妾、兵衛佐局も三河の藤姓熱田大宮司家出身説があるそうだが、その子供の重仁親王の乳母は池禅尼
池禅尼の息子が三河守頼盛だ
吉良荘は崇徳院の正室、皇嘉門院領で、寄進したのは三河の藤姓熱田大宮司家と思われる
補足説明だが、頼朝を捕縛し助命嘆願した三河守頼盛家人の平宗清は三河目代だった ■源為義乳母父:首藤資道
首藤資清(初代首藤氏、三河国住人)→資道(源義家郎党、三河国住人(尊卑分脈))
■源義朝乳母:鎌田通清(初代鎌田氏)の嫁
首藤資清(初代首藤氏、三河国住人)→資道(源義家郎党、三河国住人(尊卑分脈))→鎌田通清(初代鎌田氏)→政清(源義朝乳母兄弟)
■源頼朝乳母:山内首藤俊通(初代山内首藤氏)の嫁(山内尼)
首藤資清(初代首藤氏、三河国住人)→資道(源義家郎党、三河国住人(尊卑分脈))→親清→義通→山内首藤俊通(初代山内首藤氏)→経俊(源頼朝乳母兄弟) 高階惟長→滝口惟忠→大平惟行(三河国滝山寺)
高階惟長→惟重→高重氏→師行→師秋(家時置文保管者)→師有(関東執事)
高階惟長→惟重→高重氏→師行→師秋(家時置文保管者)→三郎(三河国滝山寺)
高階惟長→惟重→高重氏→師行→師冬(関東執事、三河守、室は高師泰の娘、高師直猶子)
高階惟長→惟重→高重氏→師行→女(高師直室)
高階惟長→惟重→高重氏→師氏(三河国額田郡菅生郷・比志賀郷)→師重(三河国額田郡菅生郷)→師泰(初代幕府執事)→師世(幕府執事)→いち(三河国総持寺住持)
高階惟長→惟重→高重氏→師氏(三河国額田郡菅生郷・比志賀郷)→師重(三河国額田郡菅生郷)→師泰(初代幕府執事)→師秀
高階惟長→惟重→高重氏→師氏(三河国額田郡菅生郷・比志賀郷)→師重(三河国額田郡菅生郷)→師泰(初代幕府執事)→明阿(高師冬妻、三河国総持寺開基)
高階惟長→惟重→高重氏→師氏(三河国額田郡菅生郷・比志賀郷)→師重(三河国額田郡菅生郷)→師泰(初代幕府執事)→師武(国司師武)?
高階惟長→惟重→高重氏→師氏(三河国額田郡菅生郷・比志賀郷)→師重(三河国額田郡菅生郷)→師直(幕府執事、三河守)→師夏
高階惟長→惟重→高重氏→師氏(三河国額田郡菅生郷・比志賀郷)→師重(三河国額田郡菅生郷)→師直(幕府執事、三河守)→師詮
高階惟長→惟重→高重氏→師氏(三河国額田郡菅生郷・比志賀郷)→師重(三河国額田郡菅生郷)→師直(幕府執事、三河守)→師冬(関東執事、三河守、室は高師泰の娘、高師直猶子)
高階惟長→惟重→高重氏→師氏(三河国額田郡菅生郷・比志賀郷)→師重(三河国額田郡菅生郷)→師直(幕府執事、三河守)→師兼(初代三河守護、高師直猶子)
高階惟長→惟重→高重氏→師氏(三河国額田郡菅生郷・比志賀郷)→師重(三河国額田郡菅生郷)→貞円(三河国滝山寺)
高階惟長→惟重→高重氏→師氏(三河国額田郡菅生郷・比志賀郷)→女(稲荷女房、三河国額田郡比志賀郷) ◆鎌倉末期、足利氏御領◆
■知行国
・三河国(1221年~)
・上総国(1259年~)
■奉行人(倉持文書(足利氏所領奉行注文、御領奉行の事))
・足利庄担当
奉行頭人:南右衛門入道(高頼基、高師直祖父兄弟)
奉行人:駿河六郎二郎、横瀬五郎入道、粟飯原十郎、醍醐三郎入道、堀松三郎二郎、寺岡太郎左衛門尉
・上総国担当
奉行頭人:三戸八郎左衛門入道(三戸為澄、三浦為澄の孫)
奉行人:寺岡左衛門入道、彦部二郎左衛門尉、海老名七郎太郎、有木中務丞六郎、源民部七郎、村上助房
・三河国担当
奉行頭人:上椙三郎入道(上杉頼重、尊氏祖父)
奉行人:倉持新左衛門尉、設楽太郎兵衛入道、梶原太郎左衛門尉、小嶋三郎、有富三郎、明石二郎左衛門尉、大炊助
■所領一覧(倉持文書(足利氏所領奉行注文、御領奉行の事))
【東北】
陸奥国
・賀美郡(宮城県加美郡) 【関東】
下野国
・足利庄(栃木県足利市全域及び佐野市・館林市の一部)
上野国
・広沢郷(群馬県桐生市広沢町)
・大佐貫郷(群馬県邑楽郡明和村)
上総国
・市東西両郡(千葉県市原市)
安房国
・朝平郡(千葉県安房郡東南部)
相模国
・愛甲荘(神奈川県愛甲郡・厚木市)
・宮瀬村(神奈川県愛甲郡清川村)
【東海】
三河国
・額田郡(三河県岡崎市・額田郡)
・設楽郡(三河県新城市・北設楽郡)
・富永保(三河県新城市富永)
【北陸】
能登国
・土田上荘(石川県羽咋郡志賀町) 【関西】
山城国
・久多大見(京都市左京区内)
丹波国
・八田郷(京都府綾部市)
・漢部郷(京都府綾部市)
丹後国
・宮津荘(京都府宮津市)
河内国
・田井荘(大阪府八尾市内か)
和泉国
・放光寺(大阪府岸和田市)
【四国】
阿波国
・秋月荘(徳島県板野郡土成町)
【中国】
備前国
・宇甘郷(岡山県御津郡御津町)
美作国
・垪和東郷(岡山県久米郡旭町・中央町)
・垪和西郷(岡山県久米郡旭町・中央町)
・新野郷(岡山県津山市)
・田中郷(岡山県津山市)
・田邑郷(岡山県津山市)
・讃甘荘(岡山県英田郡大原町)
・稲岡南荘(岡山県久米都久米南町) 【九州】
筑前国
・戸栗重富(福岡県福岡市西区戸切・早良郡早良町重留か)
不明
賀治山村、黒田保、友子荘、阿土熊 3代目松平信光創建
・信明光寺(1451年創建) 1479年、後土御門天皇勅願所綸旨発給
・妙心寺(1461年創建) 1481年、後土御門天皇勅願所綸旨発給
信光が創建した信明光寺だが、開いた坊さんの師匠は増上寺を中興した聖聡で、聖聡の母親は新田義貞の娘 北条が乗り越えられなかったのは、頼朝が構築した三河システム(三河縁者が武家社会を牛耳るシステム)
男系、女系共に源頼朝に近い足利氏が使命感をもって、武家社会を源頼朝の三河システム(三河縁者が武家社会を牛耳るシステム)に戻したんだよ
その三河システムの存在は政子ちゃんは周知の事だ
頼朝やその息子孫がいなくなって、政子が頼りにしたのは三河で繋がる人々だったのは明白だろう、政子の葬儀奉行は三河守護の足利義氏だった
・金剛三昧院(本尊、愛染明王は北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し、頼朝公の等身大の坐像念持仏として作成)
・建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建する
・承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰する
・貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立する
・嘉禎4年(1238年)、足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納める
・源実朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源実朝
・葛山景倫(願性)
藤原実範(三河守)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)
・安達景盛
小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛(三河国小野田荘地頭、1221年まで三河守護だったか?)
・足利義氏
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護) 一見して、三河とは関係ないと思われる源義国と源義重だが、義重の祖母は三河物部氏の娘
中原季成(三河物部氏)→女→女→源義重→世良田義季→頼氏(三河守、三河守護代)
中原氏は、三河物部氏の興原氏から分かれた中原氏 日本の最初の王(ニギハヤヒ?事代主?)は三河国出身の可能性が高い
三河県豊橋市石巻小野田の石巻山は三輪山の奥院であると大神神社の社伝に書いてあり
昔は石巻山を神山(ミワヤマ)と呼んでいて、そこから三輪山になったらしい
纒向遺跡の東海色はよく知られているが、纒向は追い出されたが、時代を下り源頼朝、足利尊氏、徳川家康と三河は関東関西を圧倒した
グーグルマップで見るとよく分かるが、大神神社の鳥居と拝殿は三輪山の正面に向いていない、三輪山の南側にズレている
実は三輪山の奥院、三河の神山(石巻山)に向いているわけだな 梅松論には、東国を征伐する歴史を語る記事で、日本武尊に言及している
つまり義家流源氏は、東国征伐のルーツを日本武尊に求めていた事が分かる
日本武尊と言えば、草薙剣
三河の藤姓熱田大宮司家の血を引く源頼朝、足利尊氏の使命感の源泉でもある
日本武尊の実在モデルが建稲種命なら、三河に墓がある
正法寺古墳がその墓で、祀る神社が旗頭神社だ
正法寺古墳
https://ja.m.wikiped...F%E5%B0%BE%E5%B8%82)
幡頭神社
https://ja.m.wikiped...AD%E7%A5%9E%E7%A4%BE
そして正法寺古墳の裾には、足利尊氏再興の正法寺がある
三河を探れば、全部意味があるんだよ
正法寺
https://jinja.dr-lea...ji-nisio-kiraokkawa/
寺宝
足利尊氏寄進 扁額
足利義満寄進 太刀、獅子頭、扁額
日本武尊の双子の兄弟を祀る、猿投神社
https://yaoyorozulab...azujinja-kira-nisio/
足利尊氏は、猿投神社の東の宮を創建し、槍と鏡奉納した 最上氏
大崎氏・最上氏の祖
http://www.inn-suzuki.com/info.html
>中新田城
>斯波家兼が奥州探題に任ぜられ、三河の国からこの地方に赴任
斯波家兼(足利家兼)
父:足利宗氏
母:長井時秀(大江広元の曾孫、室は安達義景の娘(安達泰盛の姉妹)の娘)
空華集 「東海道三河州碧海荘,寔今政府左金吾(斯波義将)祖宗九京(初代から先代)之地也」
「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠とした
永源寺
中世、三河国碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に三河国碧海荘は斯波義将の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文明17年9月15日条)。 清洲城の築城者は、元岡崎市民と西尾市民の娘の間の子供の斯波義重
斯波義重
・斯波氏(武衛家)6代当主
・管領
・越前、尾張、遠江、加賀、信濃守護
・正三位
父:斯波義将
・斯波氏(武衛家)5代当主
・管領
・越前、越中、信濃守護
・従三位
母:吉良満貞の娘
・父は西条吉良氏
・父は三河国西条城主
・父は引付頭人
空華集 「東海道三河州碧海荘,寔今政府左金吾(斯波義将)祖宗九京(初代から先代)之地也」
「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠とした 黒本尊
製作:恵心僧都源信
所有者の変遷
源頼義
↓
源義家
↓
源為義
↓
源義朝
↓
平重盛
↓
平清盛
↓
常磐御前
↓
源義経
↓
明眼寺(現在は妙源寺、三河県岡崎市)
↓
徳川家康
↓
増上寺
恵心僧都源信創建、源空寺(三河県岡崎市)、誓願寺(三河県岡崎市)
源頼義創建、長瀬八幡宮(三河県岡崎市)、上の宮熊野神社(三河県碧南市) 徳川家康は受け継ぐ遺伝子
源義家
足利義兼
足利義氏
今川国氏
一色公深
吉良長氏
源為朝
安達盛長
足助重範
楠木正成
■今川記(1553年成立)より
松平信光(第3代目当主)
正室:一色氏の娘
一色満範の娘の仮定する
源義家→義国→義康→足利義兼(初代源姓足利氏)→義氏→泰氏→一色公深(初代一色氏)→範氏(母親は今川国氏(初代今川氏)の娘)→範光→詮範→満範→娘→松平親忠→長親→信忠→清康→広忠→徳川家康
■熊野国造家 和田家系図より
松平親忠(第4代目当主)
正室:鈴木重勝の娘
・加茂(足助)重長→足助重秀(母親は源為朝の娘)→重朝(母親は安達盛長の娘)→重方→親方→貞親→重範→鈴木重員(母親は楠木正成の娘)→重勝→娘→松平長親→信忠→清康→広忠→徳川家康 大嘗祭
天武 悠紀:播磨、主基:丹波
持統 悠紀:播磨、主基:因幡
文武 悠紀:尾張、主基:美濃
元明 悠紀:遠江、主基:但馬
元正 悠紀:遠江、主基:但馬
聖武 悠紀:備前、主基:播磨
孝謙 悠紀:因幡、主基:美濃
淳仁 悠紀:丹波、主基:播磨
称徳 悠紀:美濃、主基:越前
光仁 悠紀:三河、主基:因幡
桓武 悠紀:越前、主基:備前
平城 悠紀:伊勢、主基:備前
嵯峨 悠紀:三河、主基:美作
淳和 悠紀:美濃、主基:丹波
仁明 悠紀:近江、主基:備中
文徳 悠紀:伊勢、主基:播磨
清和 悠紀:三河、主基:美作
陽成 悠紀:美濃、主基:備中
光孝 悠紀:伊勢、主基:備前
清和天皇の三河と美作の田んぼは、鎌倉期の足利御領(三河国幡豆郡、美作国英多郡)内にあった
そして、三河国幡豆郡は清和天皇皇女の一身田だった由緒を持つ
下野ガー、足利ガーとか、どうでもいいから 3代目松平信光創建
・信明光寺(1451年創建)
1479年、後土御門天皇勅願所綸旨発給
・妙心寺(1461年創建)
1481年、後土御門天皇勅願所綸旨発給
4代目松平親忠創建
・大恩寺(1477年創建)
1493年、後土御門天皇勅願所、紫衣着用が許される 蜷川氏
元は物部氏の流れを汲むとされる宮道氏
蜷川氏は、越中国新川郡蜷川郷から発祥した。すなわち宮道式俊・親直父子は、治承四年(1180)の源頼朝の旗揚げに参じて功があり、越中国砺波・新川の両郡を領した。
室町幕府において、政所執事を世襲した伊勢氏の家臣であり、親直から数えて3代目の蜷川親当の頃より政所代を世襲することとなった
蜷川氏の当主は代々新右衛門と名乗っており、蜷川新右衛門といえば、テレビアニメ『一休さん』(1970年-1982年)に足利義満の側近で寺社奉行の武士蜷川新右エ門が登場する
宮道氏
饒速日命を祖とする物部守屋の後裔(物部氏より分かれる)と称する。ほかに日本武尊系宮道氏
発祥地は三河国宝飯郡宮道郷(現在の三河県豊川市)と推定される。
宮道天神社(三河県豊川市)
源頼朝は上洛の折、安達盛長に代参を命じ、京からの帰路、鞍馬装束を奉納 >>626
まずな疑問に思え、何故豊田佐吉は東(関東)に向かわず西(三河)に向かったのか
豊田佐吉は三河譜代藩文化の三河吉田藩領で生まれ育った
豊田佐吉の親戚は三河の豊橋にいる
つまり、浜松より豊橋寄り
の人間なんだよ
尚且つ、静岡といえども、駿河、伊豆など縁もゆかりもない
豊田佐吉
1867年3月19日三河吉田藩山口村で生まれる。
1875年、下等小学校入学(坊瀬の妙源寺の寺子屋が途中で川尻小学校に変わる)。
1878年春、小学校在学中、三河県岡崎市の岩津天満宮へ参拝、徒歩で往復。
1878年12月、吉津村川尻小学校を卒業。
1885年、二俣紡績(遠州紡績会社)への就職を希望。父の反対で断念。
1886年2月 山口夜学会を山口観音堂で実施。
1886年春、佐吉は朋輩の佐原五郎作と無断で東京方面へ出奔。
1887年春、徴兵検査を受けるが、抽選のがれで入隊できず。
1887年暮、三河県豊橋市中八丁の大工・岡田波平のもとで修行。
1889年正月、再度家を出る。神奈川県横須賀の佐原谷蔵宅に寄寓。
1889年春、愛知県知多郡岡田村へ織機の研究。
1890年4月、東京上野で開催の第3回内国勧業博覧会を見る。
1890年11月11日、豊田式木製人力織機を発明、特許申請。
1891年5月14日付で、豊田式木製人力織機の特許を得る。
1892年10月、東京浅草外千束に住む。
1892年、織機研究のため埼玉県蕨市、高橋新五郎を訪ねる。
1893年3月26日、佐原豊作の三女たみと結婚、東京で暮す。
1893年年末、東京を引き揚げ、妻たみと山口村へ帰る。
1894年正月、家出。三河県豊橋市曲尺手町の叔父・森重治郎宅へ。妻は取り残される。 藤原経忠→信輔→信隆→信清→信子(源実朝正室)
藤原経忠→信輔→信隆→七条院(三河国分国主)→後鳥羽天皇→昇子内親王(母は九条兼実(三河国知行国主)の娘)、順徳天皇准母)
藤原経忠→信輔→信隆→七条院(三河国分国主)→後鳥羽天皇→土御門天皇(母は源在子(母親の養父は藤原範季)
藤原経忠→信輔→信隆→七条院(三河国主)→後鳥羽天皇→順徳天皇(母は藤原範季娘)
藤原経忠→信輔→信隆→親輔(三河守)
藤原経忠→信輔→信隆→信行→忠輔(三河守)
藤原経忠→信輔→親信→水無瀬親兼(室は足利義兼の娘)
藤原経忠→忠能→一条長成→源義経(養子)
藤原経忠→女→成親→阿野公佐(母は俊成(三河守)娘) 三河国分国主、知行国主
1191年07年:九条兼実(知行国主)、関東申次、嫡男の嫁は一条全子(坊門姫の娘)
1199年02年:吉田経房(知行国主)、初代関東申次、母の兄弟に藤原俊成(三河守) 、孫が水無瀬信成(父は藤原親兼(室に足利義兼の娘)、後鳥羽院の命で養子入り後に水無瀬殿を譲られる)娘
1200年03月:七条院(分国主) 、姪は坊門信子(源実朝室)
1227年11月:七条院(分国主)、再任
1234年01年:四条隆親(知行国主)、室に足利能子(足利義氏(三河守護)の娘)
1240年12月:葉室資頼(知行国主)、藤原顕頼(三河守、正室は藤原季範従兄弟)の玄孫、すぐに四条隆親と交代
1240年12月:四条隆親(知行国主)、再任
1254年04月:平敦朝
1288年02月:西園寺実兼(知行国主)、関東申次
1301年02月:持明院統(伏見院)(分国主)
1303年04年:持明院統(伏見院)(分国主)
1321年06年:日野俊光(知行国主)、辞退
1321年06年:西園寺実衛(知行国主)、関東申次
1324年01月:持明院統(花園院)(分国主) 大草家料理書
「宇治丸かばやきの事。丸にあぶりて後に切也。醤油と酒と交て付る也。又山椒味噌付て出しても吉也。」
大草衆
大草衆とは、大草氏の惣領を中心に時衆の阿弥号(観阿弥、世阿弥も時衆)を持つ者(同朋衆)を取り込み形成された一種の職能集団で強い仲間意識で連帯していた。
阿弥号を持つ者は、主として身分が低い者が身分制度から抜け出て南北朝や応仁の乱の乱世で、己の才で主に芸術面で活躍することができた。
大草衆は庖刀式などの儀式のみならず、書式、書札式、礼式、数式、絵図式、礼法、兵法、歳時記 十節句、年中行事、臨時儀礼(冠婚葬祭等)、音声などを自らの職能とし室町幕府を文化面で支えた。
大草流は武家諸礼式の流派小笠原流や伊勢流と、ならぶ故実の伝承者であり、群書類従で有名な大草家料理書、大草殿より相伝の聞書などは、大草流の伝え事のほんの一部でしかないのである。
大草流庖丁道
https://ja.wikipedia...E9%81%93 ;
大草氏
http://www2.harimaya..... ;
>家伝によれば、三郎左衛門尉公経が足利尊氏に仕えたとあり、公経をもって始祖にしている。
> 三河国額田郡大草(三河県幸田町)を領して、大草を家号にしたと伝える。 尊氏が一番偉いにきまってるじゃないか。頼朝の子孫が失った源氏将軍を再興して徳川に伝えたんだから。
北条も建武政府も織田も豊臣もすぐに滅びて清和源氏の天下が長く続いたのは尊氏の功績。 >>698
家康は初期は藤原氏名乗ってた
征夷大将軍なら源氏かなあってことで
新田流得川氏に繋げる家系図出して清和源氏ということにした
鎌倉時代は源氏将軍はさっさと終わって摂家将軍に
そして親王将軍だった時代が一番長い
初代征夷大将軍は坂上田村麻呂だし
征夷大将軍は源氏のものではないわけだが >>699 そうじゃない
新田流清和源氏の子孫を自称したのは、祖父清康の代からのことで、家康はそれを受け継いだまで
ところが、三河守になる際に源氏のままでは難しかったらしく、藤原姓を名乗った
源氏に戻そうとしたのは秀吉が生きてた頃からで、将軍職の就任とはあまり関係ない 源氏将軍を再興して武家政権を正しいあり方に戻した尊氏は偉大。 >>0700
源氏に戻したのは秀吉の次を狙ったから。秀吉が将軍になりそこねたのを見て、やはり清和源氏じゃなければダメだと確信したんだ。 >>702 貴方の認識は、古い学説に基づいたものですよ
新しい研究では、家康が源氏に戻したのは、遅くとも1592年のことだとわかってる。秀次が関白をしていて、家康が秀吉の次を狙える状況じゃない頃のこと
秀吉が将軍になりそこねたというのも、林羅山が豊臣滅亡後に述べた話が元になってる。これは、秀吉がなりたくてもなれなかった将軍に家康はなれたから、豊臣より徳川の方が偉いという刷り込みを狙った、徳川プロパガンダのための創作
実際のところは、秀吉が征夷大将軍になろうとすればなれたことは、同時代の多聞院日記の記述によって判明していることです 建武政権や織田政権や豊臣政権が短命だったのは武士たちが清和源氏にして征夷大将軍を棟梁に仰ぎたかったから。 源頼朝
源尊氏
源家康
一人だけ僭称が混じってますな 清和源氏でなければ武士が心服しなかったってことだね。 頼朝も家康ももし居なくても誰か他の人が代わりをしてそうだけど
尊氏だけは居なかったら誰も代わりしてなさそうなイメージ 将軍は源氏でなければというのは足利将軍家と徳川将軍家が15代続いたことから来る結果論だろう
2代目か3代目の基盤固めが失敗したら鎌倉源氏将軍みたいに短命になるわ 征夷大将軍、征東将軍は義仲以前、実朝以降の親王将軍、摂家将軍や南朝の親王将軍が居る。
足利が15代も世襲したことにより将軍は清和源氏のイメージが着いたんだろうね >>0709
1,足利氏は清和源氏嫡流にして最強最大の御家人。北条氏の専制に不満を持つ御家人の期待は足利氏に集まった。
2,足利氏にはもともと天下取りの野望があって機会を伺っていた。
つまり尊氏でなくても一旦天下が乱れたら足利氏の当主が武家の棟梁になって天下を平定するのは約束されていたこと。 足利は得宗との縁戚関係で幕府内の地位が高かったんじゃないの
源氏嫡流扱いではないでしょ >>0711
北条は足利を警戒していたから縁戚関係で懐柔と統制を図った。北条氏を母に持たない家時は疎まれて自害に追い込まれた。尊氏は祖父家時と同じく上杉氏を母に持つから祖父の無念を晴らして源氏を再興すべく決起した。 北条が征夷大将軍にならなかった理由で「出自が低いから」というのはよく聞く話だが、じゃあなんで秀吉は関白になれたの? 北条を母に持たない尊氏は北条にとっていやな存在だった。ましてや登子が男子を生んでから尊氏の立場は極めて不安定になった。父の喪中と本人の病中に出陣させたのも、お前なんか要らないんだぞというメッセージ。清和源氏嫡流のメンツにかけて決起せざるを得なかった。 つまり長崎円喜に代表される得宗被官と足利尊氏に代表される御家人層の対立を無能な高時は調停できなかったということ。 >>711
鎌倉時代の足利氏は北条得宗家の縁戚という地位もあるが、頼朝と近い「源氏御門葉」という地位もある
所領や一門の数も多く、一定の官位も帯びて御家人の中では家格も格段に高い
当時、反乱の求心力になるとしたら、足利尊氏をおいてほかにはない
頼朝や家康より希少性の高い存在だったと思う 頼朝はともかく家康は天下を取るべくして撮ったんだよ。秀次が失脚したとき家康の天下は約束された。家康は着々と天下取りの布石を打っていった。秀吉が死ぬと熟柿が落ちるように天下は家康の手に落ちた。 頼朝も尊氏も家康も清和源氏だ。偶然なわけないだろ。 松平元康さんは仮冒だけどな
血縁で言えば阿野全成や義円の子孫の方が近いのに足利が河内源氏筆頭の扱いになったのは北条との縁戚じゃないの 家康が源氏を仮冒したのはそうしなければ将軍になれなかったから。 頼朝は朝廷に逆らわない平将門として東国の棟梁になったからスケールが小さい
今でいう維新の会代表みたいな感じ 朝廷との関係でいうなら、スケールが一番大きいのは頼朝でも尊氏でも家康でもなく、足利義満だろ
頼朝と家康は子や孫を入内させて朝廷の権威にすがろうとしたが、義満はむしろ朝廷を圧倒しようとした >>722
頼朝も家康も初代将軍
足利も初代の尊氏は娘を天皇に入内させるようとしていた
尊氏は鶴王という娘を崇光天皇に入内させようとしたが
鶴王が早世し実現しなかった
鶴王は死後に頼子と命名され
天皇の妃に殉じて従一位が贈られ大夫人の称号を受けた 清和源氏の中でも河内源氏、河内源氏の中でも義家流が嫡流なんだ。幕府を開いたのはみんな義家流。 建武政権も織田政権も豊臣政権も短命に終わったのは清和源氏将軍をトップに据えなかったから。 松平・徳川が清和源氏新田流を称したのは家康の祖父・清康の時代で、征夷大将軍任官とは関係ない
家康の前期には三河守任官にも苦労するくらいの家格に過ぎなかった
家康の天下が近づいたのは晩年になってからで、もともとは三河の土豪に過ぎない いつなぜ清和源氏を称したかはどうでもいい。秀吉がなれなかった征夷大将軍になれたのは清和源氏を称してたから。関白と征夷大将軍のどっちが偉いかなどもどうでもいい。武士が心服するのは清和源氏兼征夷大将軍だけ。 >>729 秀吉は征夷大将軍になれなかったのではなく、なれたけどならなかったのだと、>>703にも書いてあるだろ 新田は足利よりも家格が上なんだ。太平記にも「源家嫡流の名家」と書いてある。家康の深謀遠慮恐るべし。 家康は今川にも信長にも秀吉にも面従腹背しながらチャンスを待ってたんだよ。 征夷大将軍は摂家(藤原氏)や皇族が任官している例を見れば、清和源氏とは必ずしも関係がない
源頼朝自身、いくつかの「将軍」と名のつく武官職からたまたま征夷大将軍に任官したに過ぎない
征夷大将軍任官=鎌倉幕府開始ではないことも、すでに明らかになっている
近年の研究成果を踏まえた議論をしよう 摂家将軍も宮将軍も源氏将軍を阻止するための一時しのぎに過ぎない。尊氏は、源氏の天下を奪い、祖父を自害に追い込んだ北条氏を倒して源氏将軍を再興する機会をずっと伺ってたんだ。高時は馬鹿だから尊氏の本心を見抜けなかった。 松平のルーツは徳阿弥とかいう遊行僧という説もあるね
清和源氏とは無縁でしょ 新田氏の徳阿弥が松平家に婿入りしたってことらしい。 源氏将軍の源実朝自身が自分の後継者を後鳥羽院の皇子、すなわち親王将軍にしようとしていた
まさか実朝自身が源氏将軍を阻止しようとしていたということ?
そうではあるまい
清和源氏以外の高貴な人物を鎌倉殿(将軍)に迎える構想は、源氏将軍生存中にすでにあったということだよ
きちんと近年の研究成果を踏まえた意見をお願いしたい 実朝生存中に後鳥羽院の皇子を将軍に迎える計画を推進したのは義時と政子。和歌と蹴鞠にうつつを抜かして関東武者から見放された実朝は逆らえなかった。 実朝は現実逃避して和歌に耽り、宋に逃亡しようとした。まともな政治判断ができる人間ではなかった。 頼朝担ぎ上げた坂東武者の多くは坂東八平氏だし
東国の独立さえ脅かさなければ将軍は誰でも良かった
というか鎌倉は子供のうちにだけ在位させて成人したら退位を繰り返してた 天下取りは足利氏の宿願。北条氏に面従腹背しながら機会を伺っていた。高時は馬鹿だから尊氏の野望を見抜けなかった。見抜いてたら時家と同じように自害に追い込んだろうに。 源頼朝との血の近さで言えば
源希義-吉良希望-希仁-希綱-希満
源範頼-範圓-吉見為頼-義春-義世-尊頼
の方が近いけど命脈を保てなかったのは 血筋頼みじゃない家康がトップ
次点で尊氏。この人だから絶妙な(つーか意味不明な)なバランスで乱世を乗り切った
論外は頼朝。ずーっと運頼みの棚ボタ人生、その運も使い果たしたら怪死
頼朝だったら清盛の方を推す 家康も豊臣秀吉、前田利家が相次いで亡くなった棚ぼたでしょ 「和歌と蹴鞠にうつつを抜かし」という実朝像は、近年の研究で否定されている
実朝は大江広元や北条義時の補佐を受けながらも、自分の意思と実力を備えた主君だったし、
関東武士からも広範に支持されていたこともわかっている
和歌や蹴鞠は公卿だけでなく、武士にとっても大切な素養であった
実朝自身が親王将軍を後継者にしようとしたこともわかっている
「鎌倉殿の13人」もこういう近年の研究を取り入れて描かれていたよ 実朝は「唐様で書く三代目」をそのまま実践したんだね。源氏将軍を絶やそうとする義時の策謀にみごとに嵌ってしまった。 「北条義時や関東御家人が源氏将軍(実朝)を倒そうとした」という見方は、近年では否定されている
実朝が暗殺されたのは公暁による単独犯行であり、北条氏はその黒幕ではない
実朝が「無能な三代目」という見方も否定されている
吾妻鏡の読解が進んだため、旧来の見方が否定されていることに注意しよう 公卿に実朝を殺させ、将軍殺害の罪で公卿を殺せば手を汚さずして源氏断絶と幕府乗っ取りが成し遂げられる。結果を見れば誰が仕組んだかは明らか。 「公暁に実朝を殺させ」という見方は、近年ではされなくなり、公暁による単独犯行の見方が有力になっている
源氏断絶・幕府乗っ取りという解釈は、ほぼ20世紀までの研究
この解釈に疑問が提起され、実朝の人間像や実朝期の幕政が根本的に見直された
従来の解釈を安易に「明らか」と考えてはならない 公暁をそそのかしたのは三浦義村だが、義村も義時に踊らされてたんだ。 織豊の天下が長く続かなかったことを考えると
徳川将軍家を続けるのに重要な役割果たしたのは何気に秀忠なんじゃ 関東御家人は源氏将軍(実朝)を倒そうとはしてない
義時(と義村)が実朝及び源氏将軍候補を殺しただけ 実行犯が頭巾を被ってたのがミソ
つまり中の人が公暁本人かどうかわからないw >>0755
秀忠は関ケ原に遅参するし嫁はんに頭が上がらないボンクラだよ。 >>公暁をそそのかしたのは三浦義村
これは作家の永井路子氏が提唱し、石井進東大教授が認めたことで、かつては有力な学説になった
昭和54年の大河ドラマ「草燃える」でも、この永井説に沿って描かれた
だが、研究が進んだ今日では支持されなくなっている
「北条義時や三浦義村が実朝暗殺を企て、その黒幕となった」というのは、実朝の人間像を誤って理解してきたこと、
当時の幕政の実態を見誤ったことから導かれた誤りである 実朝が自我を持ち始めたから、もう可愛いオバカ人形じゃないから、消されたのでは?
実朝が大御所となり源家が力を持ち始めたら、北条ふっ飛んじゃうもん 義時は実朝暗殺を事前に知ってたから逃げたんだよ。秀吉の大返しと同じだな。 実朝暗殺計画を知ってながら阻止しようとしなかった義時は黒に決まってる。 実朝は文弱に流れて関東武士の信任を失ってしまった。本人もそれに気づいて宋に逃げようとした。 実朝の無能と不人気が公暁や義村や義時の野望を燃え立たせてしまったんだね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています