長屋王について
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・生年問題(684年説or676年説)
・王・親王問題
・長屋王の変とは何だったのか?
・その他
これらについて語り合いましょう 多分親父が太政大臣だったからじゃね
当時の太政大臣は皇太子みたいなもんだったから、草壁と同じように、その子を親王扱いしたんじゃね
文武も皇孫だけど皇子扱いだったし。
ぶっちゃけ、いくら律令で決めても、天皇が例外認めればそれで通る世の中だったし。 高市皇子(壬申の乱の英雄)と御名部皇女(元明の同母姉)の子だから皇子(親王)扱いかな
それだから吉備内親王の夫になれた訳だし
長屋と吉備の子は男系原則で言えば三世王なのに元明の勅で二世王扱いだし
・二世王なら初叙は従四位下
・三世王なら初叙は従五位下
ところが長屋王は二世王なのに文武の勅で初叙いきなり正四位上
初叙で正四位上は今も破られてない記録かな
臣籍降下した天皇の子や摂関家の子でも初叙で正四位上に叙爵された
例は無いはず 長屋王が高位スタートだったのは、皇位継承を諦める見返りとしての官界デビューだったからじゃないか、
って意見を概説書で読んだ覚えがある。
ただ、草壁直系は首皇子(聖武)だけで、草壁や文武のように夭折してしまう懸念はあっただろうから、
その時は長屋王本人じゃなく、吉備内親王との子供に皇位継承させるつもりがあったんじゃないかな。
そう考えると、長屋王の変で吉備内親王とその間の子供も消された理由が想像出来そうだよね。 >>4
文武は母親が天皇(元明天皇)だよ
同母妹の吉備内親王も内親王だし >>6
不比等の娘の母に持つ長屋王の子は助命されてるしな。 >>6
長屋王の父高市皇子が天武天皇の第一皇子で
生前は太政大臣にまで登って行政のトップにあっただろ
だからその嫡男である長屋王が高位スタートなのはおかしくないんだが
元明天皇が息子の文武天皇が臣下の藤原宮子に産ませた孫(首皇子=聖武天皇)よりも
娘の吉備内親王が皇族の長屋王との間に産んだ孫に期待していたというのはあるんだろう
吉備内親王の子は本来3世王なのに母方によって2世王に繰り上げられているからね >>8
母の元明が即位したのは、文武が崩御した後だから時系列的に無関係。
珂瑠が生まれた時、既に父草壁が皇太子なので、早ければ生まれた時から、
遅くても高市皇子薨去後の立太子までには皇子扱いされていたと思う。
その辺は、持統の意向でどうにでもなったと思う。
珂瑠が皇子扱いされるのと同時に、姉妹の氷高や吉備も同じように皇女扱いされたと思う。 >>11
草壁皇子は即位してないのに死後、岡宮御宇天皇と諡名され天皇扱いを受けたから
そのあたりからの皇子号かもしれない
現在でも宮内庁が草壁皇子陵墓比定地を「岡宮天皇陵」として管理している 草壁皇子が即位しなかったのは高市皇子に遠慮したからかな?
大津皇子暗殺のこともあったろうけど。 >>13
母が采女出身と身分が低すぎる高市皇子に皇女の母を持つ草壁皇子が遠慮したということはないだろうが…
この時代は中大兄皇子・大友皇子など天皇になるべき人がすぐには即位しないで
皇太子のまましばらく様子見ていたこともあるので一概には言えない
草壁皇子は2年で亡くなったので病気で政務が執れなかった説は根強いけど ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています