加賀藩前田家100万石の存在感のなさは異常
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ちょっとズレるけど信長お気に入りの茶坊主斬り殺して
蓄電したって池田恒興もそうだな
こっちは恒興と茶坊主とそのお仲間が斬り合いになっている場に
恒興の養父が通りかかって茶坊主が死んじまったもんだから信長の性格上
これはやばいというんで恒興かっさらってその足で伊勢に隠したとか…w 茶坊主を斬ると大大名になれる。
まあ下役にも関わらず主君の威を借りて態度が大きいのもいたんだろうな とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
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VQK 徳川は時々耳にするけど、前田の子孫は、日本郵船社員だった人以外知らない
結構金持ちらしいけどその後どうなったか?
東京に住んでるはず >>227
戦前に陸軍軍人になって戦死した人がいる >>227
現当主は墓参などで、度々金沢入りしてるのが地元新聞に載ってる >>227
多分
ttp://maeda-ap.co.jp/ 18代当主前田利祐氏以外ははっきりした記載がない
その息子さんは前田利宜氏、孫は前田利恭のようだが
>>230 の前田興産社長前田利幸氏とのつながりも明確ではないね
前田育徳会という組織が有るようだ なぜ前田一族は誰一人として金沢市に住まないのかな?
歴史の継続性がなく威厳もなく安ぽっくみえる 以前前田家漁っていたらw前田興産の名があった記憶があるので上げたけど
勘違いだったかな? 明治になり各大名は爵位を授かると共に東京在住の命令が出た
そのときから東京と地元に二つ家を持つようになった
島津、毛利、皆そうなのだが、前田は東京に落ち着いたのかな 前田って腰巾着みたいなもんだろ
芸能界で言えば今田とか東野みたいなポジション 前田は幕末時、何もできなかった
佐幕でもない、尊皇でもない
形の上、大聖寺藩から戊辰戦争に少し兵を出しただけ
殆ど静観だから影響力持てるわけがなかった >>237
ズバリ金沢には愛着なかったと思う
元々ヨソからの人だし 石川県人会は石川県外の組織では?
名誉会長って何よ >>237
逆に島津、毛利ぐらいでしょ、東京と地元に家持つなんて特権は
維新の勝ち組だから可能なのであって、他の大名は東京にしか家ない
京都の公家もほとんど東京に行った
京都に残ったのは華族にもなれなかった下級の公家ぐらい >>239
加賀藩兵は長岡戦争で戦って、戦死者は石川県護国神社に祭られてる
実質5万石の大聖寺藩なんて、官軍に軍資金出した程度で出兵はしてないと思う >>240
愛着なくもない
関ヶ原後に徳川は前田に四国全島(讃岐・伊予・阿波・土佐)への加増転封持ち掛けたが、
前田は父祖が切り開いた加賀・能登・越中に居たいと言ってそのままになった 板橋区民祭りには、金沢市長より小川仙之助の子孫を呼んで欲しい >>243
ある程度以上の大身大名は国元にも屋敷持ってるぜ。
公家の場合、維新後に公家町が取り壊されたという特殊事情もあるし。取り壊しにかからなかった冷泉家だけは残ったけど。 江戸時代全期間を通じて居た土地に「愛着ない」てのも妙な話。
薩長のような「頼朝公以来」みたいな家のほうがむしろ珍しい >>248
江戸時代の大名は参勤交代で在任中の半分は江戸屋敷に詰めてたし
大名の正室と正室の子は将軍の人質として江戸留め置きのため
江戸生まれ江戸育ちの当主も多い
途中で徳川やら松平やらから養子をねじ込まれた大名家も多いし
鉢植え当主(転封して先祖代々の土地ではないところへ飛ばされる)も当たり前 >>243
佐幕派の伊達あたりの大名家さえ
子孫は仙台で伊達家の伝統を守ってますよ! >>245
>関ヶ原後に徳川は前田に四国全島(讃岐・伊予・阿波・土佐)への加増転封持ち掛けた
初めて聞いた。一次史料のある話なの? >>250
両池田もだな
関係ないけどこの前の絢子さんの晩餐会に厚子さん来てたな
品の良いお婆様って感じだった >>201
前田の周りの領地をを親藩・譜代で囲んでたしな。やらかしたらいつでも潰せるぞと言う徳川のメッセージとも取れる。 越中の一部な
徳川的には帰属未確定地だが
前田的にはエビデンス弱いけど合法と主張
重政が目付と見られがちだが、案外に利益とのトレードくらいだったのかもしらん >>104
そもそも耕作に向いてる気候には見えない
宇和島、土佐なんか一種の嫌がらせレベルの辺境地だしな 土佐なんか8万石くらいしかないだろ
電車の線路も殆ど一本だし。紀伊もそうか >>264
紀伊は港があるのと京都大阪のすぐ近くなのが大きい >>260
隣の福井藩は親藩であるにも関わらず
幕末には名君・松平春嶽が出て幕政改革を色々やってたじゃん
坂本龍馬を福井藩に呼んで資金援助をしたり
日本の近代化のためには新体制派に対してもやぶさかではなかった
前田には反骨精神がない 太閤検地で、四国全島で最低でも130万石ぐらいあったはずなので、
いっさい留保地なしの完全一円支配なら、確かに加増転封だろうと思う。
でもそうすると、四国のどこに本拠地を置いたんだろうね?
むしろ四国の難治さはここで、それぞれの平野が地理的にそれぞれそっぽを向いていて一円支配に向いていない。
>>266
福井(越前系=結城秀康の系統)は秀忠・家光以来、徹底して冷遇を受けたので、
徳川宗家に殉ずる意識は低かっただろうよ。
これは、吉宗&家斉の紀州勢に内部をメチャクチャにされた尾張家にも言える。
結局、この、東日本入口の要にある2家が造反したことで、実質的に幕府の命運は尽きた。 >>267
越前福井藩主は早くに藩祖結城秀康の血筋ではなくなってるから
秀康公の恨みとか関係ないよ
松平春嶽は田安徳川家からの養子で8代将軍徳川吉宗の曾孫に当たる
ちなみに最後の福井藩主・松平茂昭は糸魚川松平家からの養子で
血筋をさかのぼると家康の異父弟・松平康元(男系は久松)となる 福井75→67→50→25→32万石
冷遇のように見えるが
実際には福井の別家が
松江19、明石10、前橋17
出来てるから総石高では大差ない
ただ官位は一時期、侍従で
国持ち下位の毛利や鍋島クラスにまで落ちてる >>269
福井藩の中でも丸岡藩4.5、大野藩5、勝山藩3、木本藩2.5、吉江藩2.5などに分家している
減封は分家の他に2代藩主松平忠直が狂気により正室勝姫(2代将軍秀忠の三女)
を殺そうとして改易されたことによる減封(67→50)
福井藩6代藩主松平綱昌が暗愚で側近を理由もなく殺害
将軍の江戸城登城命令をさぼるなどしたため
幕府から改易相当として強制隠居させられた
しかし親藩の越前松平家を滅亡させるわけにもいかんので
官位を少将から侍従、石高半分(50→25)、江戸城詰所は御三家同等の大廊下から外様と同じ大広間と
格段に待遇を落としたうえで前藩主を呼び戻して越前松平家を存続させた 福井松平て腫れ物扱いされてたのか
そりゃ幕末に翻されても仕方ないわ 福井は加賀への監視牽制と見られがちだけど、秀康より後はあまり機能してないというか期待されてないんじゃないかな?
それでも幕末には調整役としての存在感は示せたのに、前田は内部だけでエキセントリックな動きしただけだし >>272
福井藩は秀康以降も将軍の娘が嫁ぐくらいの家格は有していたし
秀康の血筋が絶えてからは
将軍の実子や御三卿(一橋、田安)など
将軍になってもおかしくない血筋の養子が来ていたことは事実 福井の重鎮感は妥当
加賀は外様筆頭扱いで赤門持ちなのに眠ったままの獅子で終わったのはもったいないな 東海、北陸は当時の幕府の主要防衛ラインと言う観点で見ると面白いな 病床の利家が見舞いに来た家康を最後の力で暗殺しようとして
準備を命じられた利長が文字通りに接待してしまい頓挫したという話があるが実話か?
利長が家康支持なら利家没後に討伐軍出されて母を人質に取られることもなかっただろうし
実績やエピソードからも利家が父の真意を理解できないアホの子とも思えん。 >関ヶ原後に徳川は前田に四国全島(讃岐・伊予・阿波・土佐)への加増転封持ち掛けた
讃岐13
伊予45
阿波18
土佐9
で105万石
(山内の土佐20へ高直しで116万石)
越中36
能登21
加賀(白山除く)46
で103万石
(たか直しで119万石) 前田はうまく立ち回って百万石になったからな。守りに入ったわけさ。
徳川と渡り合えたのは利家だけだったがそれも家康が天下を取る前なので可能だった。
利家は大納言だったが後には、家格は官位が参議どまりで大納言・中納言の御三家の下。
幕府にとってめざわりな百万石の前田家は保身に走らざる得ない。 やはり前田、原田は兄弟で先祖は菅原というのは嘘?なのでしょうか ρ(ーoー)♪
あなたも私もアベコロナ
あいつもコイツもアベコロナ〜 家康→浅野→小早川→前田と仕官した成瀬吉正のエピソードてあんまりないね
前田利益に負けず劣らずの相当な傾奇者だと思うが >>29
尾張は後半辺りの当代は養子も多いし実質附家老2家の執権政治状態だったイメージが強いな。重臣クラスも有力氏族が多数居て、絶妙なパワーバランスだったんだろうなとは思う。 関ヶ原の毛利・吉川でさえ戦闘終了までは陣にいた
万単位の敵を戦闘に参加させなかったという貢献はしている
それにひきかえ賤ヶ岳の前田は酷すぎるよ……
そのタイミングで撤退とか佐久間盛政に謝れクズ一家 >>198
「利家とまつ」ではぼかしていたがまつはとても気の毒な人
自分の孫が自分の召使の息子の家臣になってしまった
さぞや無念だったろう 江戸時代迄の前田関連文書て残ってるならpdfで公開してくれれば良いのに >>295
将軍や大名の側室は御殿勤めの女中に手がついたのが圧倒的に多いから
側室腹の息子が家督を継げば正室から見たら「あれは女中の子…」
というのはよくある話で別に珍しくもないんじゃね
殿の側室候補として御殿へ上がることもよくあったし
名護屋城には秀吉もお気に入りの側室・淀殿と京極竜子を呼んだし
他大名も長丁場なのでお気に入りの女を呼ぶことを許した
こうして呼ばれたのが千代保(利常母)で利家の側室になるのは必然だった
まつは息子の利長が当主の時に家康の所望により徳川へ人質に出され哀れまれたが
3代目利常になるとまつと血縁がないため「用なし」として加賀へ返され
利常の実母が徳川の人質になった 藩士名簿見てると仙石氏や大垣戸田氏の庶家と思われる人間が加賀藩士になっててびっくりする。どういう経緯で仕えたのか気になる。 新番組頭格小納戸頭取の中野播磨守清茂(中野石翁)は、家斉の娘(養女、お美代の方は家斉側室)の嫁ぎ先 前田斉泰の息子、前田慶寧を、13代将軍にと目論んでおり、
家慶暗殺計画を立案した。謀議に加わったのは、中野の手先 老中林肥後守、大目付美濃部筑前守、そして、大塩残党の津久見竜軒であった 火消しの仙石なんか前田からは
「身の程を弁えぬ天下の大愚者」と散々叩かれたのに
よく加賀藩に仕えようなどと思ったもんだ 利常は養老領と称して、120万石のうち、20万石の優先処分権を得ている。
あるいは、八丈島の宇喜多秀家を加賀に引き取り、10万石を分封すると申し出ている。
最後は、大聖寺7万石、富山10万石を立藩させている >>297
利家自身も当時のお頭・信長の命で兄を差し置いて当主に
巡り巡って息子の利常もまたという話w 利家さんは義理に篤い元ヤンポジだけど実情からり計算高い薄情よ >>302
利常に家督が回ってきたのは異母兄の利長に子がなかったためで
利長の養子として家督を継いだから利家の例とは違うだろう
前田家は織田家累代の譜代ではなく四男坊の利家が家督を継げないからと
自分から家を飛び出して信長に仕官したところ兄より出世したパターンのため
兄のものを相続したとかではない
石田三成も次男坊で寺に入れられていたのに秀吉に仕官して兄より出世
石田家家督は三成が継ぎ三成が秀吉からいただいた城に
三成の父も兄も住んでいたのに近いな いやいや信長の命での相続でしょ?実子も兄貴にはいなかったし 4代藩主の前田綱紀は日本史の教科書に載っているが、それ以降の藩主はほぼ無名だよな。 >>305
だからそういってるじゃん
利家や三成は信長や秀吉に見込まれて兄を飛び越え家督を継いだ
利常は兄を超えて家督を継いだわけじゃない 幕府の目を欺くために文化に力を入れて遊び呆ける馬鹿を演じてたら本当の馬鹿になってしまったでござる >>184
加賀前田家15代当主前田利為は軍人となり陸軍大学校長,
第8師団長を経て1942年に57歳で南方で戦死したんだね? 全板規模の荒らしによる重複スレが立てられたので
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