太閤検地で、四国全島で最低でも130万石ぐらいあったはずなので、
いっさい留保地なしの完全一円支配なら、確かに加増転封だろうと思う。
でもそうすると、四国のどこに本拠地を置いたんだろうね?
むしろ四国の難治さはここで、それぞれの平野が地理的にそれぞれそっぽを向いていて一円支配に向いていない。

>>266
福井(越前系=結城秀康の系統)は秀忠・家光以来、徹底して冷遇を受けたので、
徳川宗家に殉ずる意識は低かっただろうよ。
これは、吉宗&家斉の紀州勢に内部をメチャクチャにされた尾張家にも言える。
結局、この、東日本入口の要にある2家が造反したことで、実質的に幕府の命運は尽きた。