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小早川勢自体は広島県の芸備の将兵じゃし、小早川隆景の契約家臣も養子の
小早川秀秋に従い筑前行ったもんはほとんどおらんよ。
文禄の役で九州熊本勢が李如松の遼東軍に惨敗潰走した日本軍総崩れを食い止めた
「碧蹄館の戦い」を勝ちえたんは、最も苦闘を強いられる正面ガチンコの広島勢で。
[日本軍先鋒隊は26日未明より行動を開始し、午前6時頃から礪石嶺において先陣の
立花宗茂と高橋直次が明副将(副総兵)查大受率いる明軍先鋒と激戦、立花勢は
苦戦しつつもこれを支え、小早川勢の救援をえて明軍先鋒を撃退した。この戦端が
開かれた時点では日本軍本隊はまだ漢城に在った。
午前10時頃、明軍は左・右・中央の三隊の陣形で押し寄せた。疲労の深い立花勢を
後方に下げ、替わって前面に出た小早川隆景軍の先陣二隊の内、明軍の矢面に立った
粟屋景雄隊が次々繰り出される新手を支えきれずに後退を始めると明軍はすかさず
追撃に移る。しかし戦機を待ってそれまで待機していたもう一方の井上景貞隊が
その側背に回り込んで攻撃したことで明軍は大混乱となった。その機を逃さず、
立花、高橋勢が左方から、小早川秀包、毛利元康、筑紫広門勢が右方から側撃、
隆景本隊と吉川広家、宇喜多家臣戸川達安も正面より進撃し、明軍前衛を撃破して
李如松率いる本隊に迫った。そこに明軍も副総兵楊元が火軍(火器装備部隊)を
率いて援軍として駆けつけ態勢を回復して防戦に努めるが、身動きもままならない
狭隘地に三方から包囲される形となって壊走を始める。
李如松自身も落馬したところに小早川の部将井上景貞の手勢に迫られ、一時は命も
危ない状況であったが、側近の李有声が盾となってこれを助け、李如梅、李如柏らが
なんとか救い出したと伝えられる。かくして日本軍本隊の本格的な戦闘参加を待たずに
正午頃には戦いの大勢は決し、日本軍は退却する明軍を碧蹄館北方の峠・恵隠嶺まで
追撃したが、さらに追おうとする立花勢を小早川隆景が押しとどめ、それ以上の
深追いはせず夕刻までに漢城に引き上げた。]