なぜ桶狭間の戦いの後、信長の快進撃が続いたのか?
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たしかに全国から見ても番狂わせの戦いだったけど、一大名が天下を取るまで
のし上がるまでの出来事とは思えない なにが他の大名と違ったんだろ? まあ、桶狭間の戦いの後の美濃平定まではそこそこ時間がかかっているわけだけど 地の利があったこと 政策が型破りだったこと 部下への評価が合戦での手柄重視だったこと 表面は慇懃を装い猫を被っているが、実際は癇癪持ち・暴れん坊の徳川家康が
織田信長についたのも大きいんじゃァないの。
いつも苛立っている乱暴者の徳川家康には
血の気の多い積極果敢な織田信長の方が近寄りやすかったんじゃァないの。
お隣国の今川氏真のように
和歌も蹴鞠も剣術も筆も抜群の出来。家柄もいいと言う名門家の御曹司相手では
徳川家康、縮こまるほかにない。
なんでも鑑定団 愛のエメラルド >>7
家康はいつも負け戦だらけ
織田信長にとってはかなりお荷物で直臣より大事にされず
いつも一番死にそうな先陣ばかり 尾張へ平定したものは天下を取りやすい。
ただ、それだけのこと。
なぜならば、尾張を平定した時点で、
日本第二の平野である濃尾平野の支配が容易になる。
対抗馬の美濃は尾張に比べて地形的に一つの勢力にまとまりにくいから
美濃から尾張を征服するよりも、尾張から美濃を征服するほうが簡単だから。
日本第一の平野である関東平野は、日本の東の辺境にあるが
濃尾平野は、日本に中心部であり人口が最も多い畿内の征服が射程圏内になる。
しかも、畿内ってのは人口多いけど、地理的に複数の盆地や平野に分かれて
一つの勢力に統一されにくいので、濃尾平野の支配者にとって
容易な草刈り場となる。
そんなこんなんだから、古代から尾張は中央政権の重要な一族の直轄領になった。
古代においては、皇祖ニニギの兄のホアカリの子孫で
嫡流とされた尾張氏の支配地域。
壬申の乱のときに勝者の大海人皇子を支援した最大の勢力は尾張氏の軍で
大海人皇子側の兵力の半分は尾張氏の傘下の軍だった。
中世においては、足利幕府の中では、
足利家の分家出身の諸侯で最高家格の名門とされた
斯波氏の直轄領とされた。
近世においては、徳川幕府の中では
将軍継承権を有する徳川御三家の筆頭にあたる徳川義直の子孫の
直轄領とされた。 もし、織田家が勃興せずに、斯波氏が尾張国の支配権を保持しつづけたのならば
斯波氏のよって天下が平定されていたのかもしれない。
事実、斯波氏は、かなり最後まで、
尾張国での権力を維持し続ける可能性があった。
そうなれば、第二次足利政権が誕生していたかもね。 濃尾ってかなり開発が進んでたんだろ
平野部もそうだが伊勢湾を主体とした海商関連の記録もあるもんな
北陸方面なんて越後上布の取り引きにも苦労してるあとあるもんな 大義名分が重視されていたことを考えると、位置的に京に近かったのは大きいと思う
その点では九州や東北の大名は不利といえるし
それから巧みな外交もあったと思う 相手が格上だと下手に出て貢物をし、戦力が整えば
積極的にしかけていく 面子にこだわらない信長らしいやり方 何故名古屋人は田舎臭く、頭が悪い猿なのか?
「先祖代々骨の髄まで百姓、万年パシリの田吾作だからでつ(笑)」
尾張の歴史
◆平安時代◆
・藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)が尾張目代(遙任国司の代わりに地方官吏を監督)としてにらみを利かせる。
・熱田大宮司職を藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)に乗っ取られる。
・以後、荒廃していた熱田神宮は、藤姓熱田大宮司一族の血縁である源氏(鎌倉将軍家、足利将軍家)と結びつき発展する。
藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子→源頼朝
藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤季李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→足利義兼
◆鎌倉時代◆
・三河国高橋庄の地頭職が支配する。尾張守護職を兼務。
・鎌倉幕府の尾張国の守護所が不明なのは、守護が尾張に住んでいなかった為。
◆室町時代◆
・斯波氏(本貫地:三河国碧海郡矢作、尾張守、尾張守護)、今川氏(本貫地:三河国幡豆郡今川、尾張守護)、一色氏(本貫地:三河国幡豆郡一色、尾張分郡守護、地頭職)が支配する。
◆江戸時代◆
・尾張の支配層は追放され、尾張徳川家が支配する。
・附家老は成瀬家(三河国加茂郡)、その他平岩家(三河国額田郡)、渡辺家(三河国額田郡)、中根家(三河国額田郡)、鈴木家(三河国加茂郡)。
◆現代◆
・トヨタグループのパシリとなる。 >>9
平野が優位な土地と認識されたのは、まさに信長の時代以降。
それまでは天然の城壁である山に囲まれた盆地が大名の拠点に相応しかった。
奈良盆地や京都盆地がそれ。
堺や津島などの経済力に目をつけた信長秀吉家康の頃から
海運に適した平野部が重視されるようになった。
大阪や江戸がそれ。 >>14
鉄砲が原因なんでしょうか?
どうしても狭くなる山城よりも大きく築ける平山城、さらに大きく築ける平城
となったの?(鉄砲の射程距離的に) 美濃西部は木曽三川の輪中だらけ
集落ごとに小さくまとまっていた
当時は百姓=武装農民であり、ある程度輪中集落を飛び石攻略できれば、
オセロゲームの様に白集落間に挟まれた黒集落は白に反転、
与力合力せざるを得くなる
攻略できた輪中間は楽市楽座の自由通行とし、
輪中内警備員?を常設中央軍戦闘員に徴用
東は松平元康に預け、北に小名だらけの美濃攻略10年が寄せ手
かくして常備軍が出来たところで各地大名小名はドンドン信長配下へ
大規模戦闘なんか数える程しか起きていない 上杉、武田と隣り合っていなかった地理的有利もある 両者が牽制しあっている間に
美濃をはじめとした地盤を固めることができた 時に将軍や朝廷の権威を利用し、うまく立ち回ったから 実際は屁とも思ってなかっただろうけど >>14
少し違和感が
京都なんか山に囲まれてるっていっても
平野部はかなりの広さがあるし、水路も大阪湾から淀川 小倉池(当時)とあって
大阪に比べてもそこまで軍事的に有利で経済的に不利とは思えない 壬申の乱の時の勝者、大海人皇子側の総大将・村国男依。 詳しくないけど、桶狭間で今川軍を破った後、降伏兵を編入して軍を大きくしたとかじゃないの? @今川軍を破った後今川との国境の松平(徳川)との同盟
これにより東の今川の心配をしなくてすんだ
仮に今川を攻めて領土にしたとしても、東の北条、武田と隣接したら
東の備えをしなければいけないから、負担が増えた それを徳川
にさせる事により西(京方向)へ注力できた
A楽市楽座、南蛮貿易による利益の創出
基本的に戦国時代の大半の兵士は農民 つまり春から夏は農業をおこなう
よって戦ができるのは秋から冬 上杉軍なんかは雪の関係で実際に戦ができるのは
9月〜12月初旬位がいいところ これでは天下統一は不可能
織田軍は金があるから傭兵を雇う事により一年中戦ができる
B仏教勢力との決別
当時の仏教勢力は最大の利権団体
例えば公道に勝手に関所を作って交通料金をとったりしていた
よって商品の値段が跳ね上がり 市民が困っていた
又当時は武力を持って政治に対して自らの利権を主張拡大していた
残念ながら毘沙門天の化身の謙信とか出家をした<信玄>なんかでは
仏教勢力の利権は切り崩す事ができない
信長以降現在の様に仏教勢力は平和団体に代わっていった
こんな所かな 仏教団体に市民が困っていたと言うな、なぜ長嶋では市民が仏教団体側についたのか。 何故名古屋人は田舎臭く、頭が悪い猿なのか?
「先祖代々骨の髄まで百姓、万年パシリの田吾作だからでつ(笑)」
尾張の歴史
◆平安時代◆
・藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)が尾張目代(遙任国司の代わりに地方官吏を監督)としてにらみを利かせる。
・熱田大宮司職を藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)に乗っ取られる。
・以後、荒廃していた熱田神宮は、藤姓熱田大宮司一族の血縁である源氏(鎌倉将軍家、足利将軍家)と結びつき発展する。
藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子→源頼朝
藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤季李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→足利義兼
◆鎌倉時代◆
・三河国高橋庄の地頭職が支配する。尾張守護職を兼務。
・鎌倉幕府の尾張国の守護所が不明なのは、守護が尾張に住んでいなかった為。
◆室町時代◆
・斯波氏(本貫地:三河国碧海郡矢作、尾張守、尾張守護)、今川氏(本貫地:三河国幡豆郡今川、尾張守護)、一色氏(本貫地:三河国幡豆郡一色、尾張分郡守護、地頭職)が支配する。
◆江戸時代◆
・尾張の支配層は追放され、尾張徳川家が支配する。
・附家老は成瀬家(三河国加茂郡)、その他平岩家(三河国額田郡)、渡辺家(三河国額田郡)、中根家(三河国額田郡)、鈴木家(三河国加茂郡)。
◆現代◆
・トヨタグループのパシリとなる。 >>25
ごめん 不正確やったわ
長嶋だけやなくって、越前は一向一揆の国やし徳川の領地でも反乱はあったよね
と同時に仏教勢力が公道に勝手に関所を作って金を取ったり
座を設けてそこで権益を独占していたのも事実
(事実かどうか知らんけど、秀吉が針売りをしていたっていう話があるでしょ
あれは針やと手軽に持ち運べて大がかりにならず、座の締め付けが少ないから
逆に油なんかやと、座の締め付けが強く、座の許可を取らず無断で売ろうものなら
命の危険すらあった)これを大きな社会のあるべき姿から見るとやはり不自然不健全でしょ
当然個々の立場はあっても信長のやろうとした事は大局で見れば正しい事やし
そこに多くの人間の支持が集まったと考えてるの 尾張→美濃→近江という先進地域かつ米持ち国を進んでいけば、
そりゃ他勢力と比べてアドバンテージ大きいわな。
個別の戦闘で負けても、何度も繰り返し兵士を動員して戦争できる体力を持てる。 >>27
長島にしても越前にしても座の権益を信長が奪い取っただけなんですけど
だから庶民は本願寺側についた
信長が正義になったのは戦いに勝てたからで
正義だから勝ったのではない >>27
信長は自分に逆らったから殺したってだけで、宗教勢力を除いて庶民を救うなんて発想はないでしょ。
本願寺の自治は、一方では町の治安を守っていることにもなるんだよ。
だから庶民がみんな本願寺側についた。信長は自治を壊すテロ集団にしか見えないからね。
政教分離だと言う連中もいるが、庶民にしてみれば領主が宗教団体だろうと大名だろうと関係ない。
信長が支持されたというが、庶民は本願寺について信長に敵対していることを忘れちゃいかんな。 >>29 >>30
の言ってる庶民ってのは多分農民の事じゃないかな
当然当時は農民が大部分を占めてるけど
商、工といった人は座とか関所なんてない自由な商売を求めてたんじゃないかな
土地でいうと京 堺 大津 秀吉時代やと+博多
それに後の歴史から見ても信長の政策ってのは正解やったと考えるのが妥当じゃない?
基本的に信長、秀吉政権ってのは商業を基本として強くなった政権でしょ
逆に徳川幕府ってのは重農政権の色彩がつよいけど
勝ったから正義であって、正義だから勝ったのではないってのは50%正解って
ところじゃない?
庶民の支持なしにずっと勝ち続ける事が不可能なんは木曽義仲の例を見てもあきらかやし
信長も京に入った時は軍規をかなり厳しくしてるよね
それと<<27の宗教勢力を除いて庶民を救うじゃなくて、俺の考えは宗教勢力の利権を
を取り除いて庶民を救うね 信長は宗教団体の存続は認めてるはず そりゃ年貢収めてたのは農民だもんなw
座とか商業の、場合は通行料なのよ
その土地を通るときに収める金銭だな 信長は神仏の使いである鹿の大量虐殺による寺社への挑発・荘園の略奪・惣村強制没収略奪・京での略奪放火恐喝大虐殺・強制労働と相次ぐ臨時の税賦課
上限の設けられない軍役・軍役がない時は軍道作りを強制される。また子供が遊ぶことも禁止された。
これらに従わない場合は弾圧で村や都市ごと焦土にする(信長のこのやりかたを一国亡国と呼ばれ批判された)
信長体制とは無政治無内政体制ともいうべきもので、とても国家の体を為してない
単なるあらっぽい下克上大名のレベルからの昇華は認められない。
それに家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成がなされていないからこそ生じた問題であろう。
それを武篇道の督励で対応しただけの蒙昧ぶりが信長。
信長自身が武篇道に邁進して土地支配制度と知行制の整備を怠ってきたことに
原因があるのであって、逆に信長の限界を示すべきものとみるべきであろう。
信長は分国法すら作る知識も能力も無かった。
また甲州の治水技術は関東開発に役に立ったが織田は治水をやらないために後世に残る織田治水などは一切残らなかった。
秀吉が治水をしているのも田畑開発、水害防止、大坂から京への海上経済通商政策を理解しているから。
兵農分離の先駆けは天正13年卯月22日付けの秀吉朱印状が嚆矢。
紀州の雑賀・根来を討ったときに刀狩りを命じていて
その際に頭領の者を選んで皆殺し、平百姓は許すと書いていて
明確に兵と農を区別して国人指導層を殺し、武器を没収して完全な農民にしている。
これにより専業武士と農民が区分けされ秩序が生まれ国内は安定を迎えた。
信長にはそういう思考はなく皆殺しの撫で切りや根切りや磔など残虐な極刑による地域消滅政策。
秀吉は農村の生産力確保維持政策が基本にある。
秀吉の平和安定のための物流革命と言えば、信長死ぬや早くも 天正10年10月には京の出入口に設けられていた関所を廃止し(禁裏領率分関)、
信長のやり方の否定を開始し、次々と経済振興策を繰り出し始め、
ついには「公家武家地下商人に至っては諸役を止め、座を破らる。
これに依りて悦ぶ者多く悲しむ者少なし」などと秀吉の政策は激賞され、
「日本国の諸役、京のみいり(関銭)、兵庫の関、津々役儀かくのごとく往古より有り来る役さへあがり候処」と宣言し昔からあり続けた税の免除を開始。
「日本国諸役悉く上げ申し候処」
関所や港で商品にかける役銭をはじめとして日本国中のすべての役の賦課権を没収するまでに至り、空前の活況を示した。
信長のもとで関所や座の組合が経済活動を押さえ付けていたが(薄と言う公家が牛にまで税を賦課していたのも秀吉が完全廃止した)
これにより自由往来と自由通商が可能となり瀬戸内海から伏見〜京への河川流通網整備のため大河治水が開始された。
これが桃山文化と呼ばれ日本各地で城下町が整備され、
日本史史上最も派手で豪勢な時代と言われている。秀吉の下、インフラ整備と経済活況化への資本投入による民心安定策である。
さらに秀吉は太閤検地と身分法令において人口戸籍まで作らせて言わば国政調査をしている。
例えば伊達が朝鮮出兵で飛ばされている間を狙って石田豊前守にやらさせたりしてる。
また朝鮮出兵は看羊録によれば国内で変事を起こさせないように兵を消耗させ
戦国の気風がある荒々しい武将どもの内乱意識を消す戦後処理を謀る意図があったとする。
また土木工事も諸大名の経済力を奪い取ると同時にインフラ整備と経済活性政策であった。
秀吉は全国統一の度量衡の統一、税や法の平等を施行し、
それに反して挙兵するものは朝廷から認められた公儀政権として警察権を行使し
下克上的機運や中間搾取層の排除による既得権益の一掃と豊臣政権による官僚制を志向した。
秀吉は帝国主義・重商主義の世界史的な流れを理解し
大陸進出により、日本が強国で植民地化が不可能だと悟らせた。
看羊録には、秀吉の朝鮮出兵は諸大名の力を削いで
戦乱や領地を望む心を奪うためと書いている。
戦国の機運を終わらせるためには強権発動も必要なのだろう。 〜キリシタンはさらに悪質で領主層を惑わす〜と秀吉は書状に書いている。
秀吉が給付した領地の主人は変更することはあるが、其の地の農民の移動はない。
それなのにキリシタン大名が秀吉の許可も得ずに領地の寺社を勝手に燃やしたり略奪するのは許されない。
宣教師の企みを喝破できたのは日本の中でいまはまだ私だけだ」と言っている。
信長のようにただ単に興味本位で珍しい新しい物好きで宣教師を厚遇してるバカとは違う。
また高山右近が高槻に続き転封先の明石で寺社を破壊してたのを施薬院全宗が秀吉にチクったことで
激怒した秀吉が博多でポルトガル人の奴隷売買を糾弾したり、
牛馬は人間に仕え有益な動物なのになぜ食べるのか?と言ってたが、
(秀吉の基本思考・・・ポルトガル船でも純粋な交易のためなら寄港するのも問題なし、
秀吉から2000貫以上を給付される者がキリスト門徒になる場合は自分の許可を得よ。
それ以下の者の場合、日本の宗派は八宗あるが、キリスト教が加わり九宗になっても大して変わらんから
信教の自由は保障し何を信じようが構わない。但し、秀吉から給地を与えられた者が、権力を以って
庶民にキリスト教信者になることを強制したら罰する。)
小田原城を降伏に追い込み奥州仕置きをしようとする秀吉は
天正18年8/10に関東にも刀狩り令をだし、その中において
人を売買することを禁止し、天正16年以来で人を売買した者は
すべて返却するように命じ、売る者も買う者も処罰すると宣言している。
このことから高利貸しが政権運営する北条が滅亡するまで頻繁に奴隷売買をしていたことがわかる。
信長のような蒙昧暗愚の暴君と秀吉の差は天地の開きがある。
重商主義的・帝国主義的な植民地化がすでにフィリピンにまで押し寄せている中で
秀吉のみがキリシタンの野望を喝破し、逆に朝鮮への遠征を行うことで
日本の武威を知らしめ、陶工などを連れ帰り現在に至る名産品を生む。
秀吉は明確に日本人民の安全を謀り世界に対する武力誇示と同時に
国内混乱要因の武士層のストレスを解消させる政策を実行(神風連の乱や西南戦争を見れば明治政府の武士への扱いの苦心もわかる) 資金面から見てみよう。
永禄11年11月上洛するやさっそく
石山本願寺に礼銭五千貫を恐喝
法隆寺に防築銭千貫余を恐喝
永禄12年2月
堺の代表10人中8人を
自刃に追い込み二万貫の矢銭を恐喝。
尼崎は矢銭拒否により全焼略奪。
8月の織田による山名祐豊の但馬攻略後に
祐豊は堺の金融業者の渡辺宗陽を頼って今井宗久を紹介され
今井宗久が祐豊に年利40%で1000貫文を貸付け
それを信長への礼金として但馬復帰を許してもらってる。
信長が永禄12年からの恐喝集金システムでバブリーだったのも
志賀の陣での敗北までに浪費しまくって全部使ってしまったのだろう。
信長がやたら強気に出て、本願寺まで敵に回してしまったのも
あまりの想像を絶した大集金で舞い上がってマトモな判断力を失っていたのだろう。 永禄13年4月改め元亀元年4月に改元。
朝廷からの荘園返還要求から逃げまくる信長
比叡山の荘園横領しまくりの信長による元亀2年9月比叡山焼き討ち略奪。
元亀3年に奈良内銀子320枚・興福寺銀子100枚・東大寺銀子50枚を上納
しかし金が尽きたのか12月にも再度の要求があり成身院に銀子100枚上納の記録が残ってる。
この年は大和で地震もおきていて大和亡国と呼ばれた。
元亀4年に天皇から乱妨狼藉の禁止・禁中御警固を命じられていたのに
まずは小手調べで賀茂〜嵯峨まで燃やして恐喝し銀棒300(それぞれ重さ43匁)
恐ろしくなった上京が払った銀1300枚の受け取り拒否した上で上京を焼き討ち略奪。
(信長に金を渡しに行く際に織田軍に略奪され、改めて高利貸しから借金して信長に渡すなど酷い状態になったりした)
御所への延焼の恐れが出てきて天皇も逃亡準備。桂川が死体で埋め尽くされる大虐殺開始。
下京恐喝(銀800枚)で金品を集める。
しかしあっちゃこっちゃ延焼しまくりで火だけは統御できない。
織田軍は常に金欠だったんだろうな(ちなみにこれ以前にも京で略奪をやって織田軍と徳川軍が
略奪品を巡り衝突し織田軍が敗北している)
越前加賀で虐殺略奪大会したあとに前田や不破や佐々に越前の寺社領は
先祖の織田神社以外はすべて没収とかやってるし
宗麟とかは商人から借金したりしてるけど
信長の場合は武力をチラつかせて上納を要求する恐喝型だしな。 完全に893
しかしもう恐喝できる相手すらいなくなり
みんな貧民だらけになってしまう現実・・・北朝鮮的織田統治下全員貧困化政策。 長文は下劣だということを60年間考えて、60年後に出直してくれ 宗教団体でさえ皆殺しにできる神経は信長ならではだったと思う 一揆制圧のために
やむなく戦った例は他の大名にもあるが、積極的ではなかったし、懐柔策を取る場合も多かった
神仏に帰依するのが当たり前の時代、そこまで冷徹になれたことは、信長が頭一つ抜きん出た
要素の一つだと思う >>15
戦国時代は大名たちが治水工事を積極的に行って、それまで湿地帯だった下流域も耕作地になっていた
というのがあるんでしょうかね? >>40
ただの残酷なキチガイにしか思えませんがww 神仏であろうと焼き討ちするのは平清盛だってやっていたし
もっと罰あたりなのは高師直
程度の問題はあるにせよ信長の先輩はいるんだが
ウリジナル主張するのはどうかと思うぞ 過去には先輩はいたけど、あそこまで過激な奴はあの時代にはいなかったってことじゃね?
マジできちがいレベルだし 韓国あたりだって廃仏で壊しまくってるだろw
ならお前らはその気持ちが分かるんじゃねえのか? 寺社の持つ荘園を横領しまくった盗賊が信長。
安土城城下町も元は東大寺の荘園領を没収したもの。
これで寺社に命じて執り行う国家の祭祀事業のほとんどが中断してしまった。
また惣村が協調して領主に意見する自治を信長は嫌い、
虐殺略奪と上限設定のない果てしない軍役と軍事道路作りの賦役で疲弊させ抵抗力を失わせた。 なにいってんだこいつらwww
韓国あたりだって廃仏きめてるの国王じゃねえかよw 日本史板でいちいち韓国の名前出すなよ なんの関係もないだろ 織田がやった戦なんて火事場泥棒しかねーじゃん
美濃を斉藤の幼君&混乱&分裂で寝返りばかりなのを火事場泥棒したら負けまくり
動乱でぐちゃぐちゃになった畿内を浅井や徳川や足利義昭の力を頼って火事場泥棒したはいいが
その後信玄に負けまくり滅亡寸前
伊勢でも分裂状態の北畠を無理矢理乗っ取ったりしたしたはいいが大河内城や長島一揆に負けまくり
しまいには御館の乱や新発田の乱で極度まで疲弊した上杉を45000の大軍&神保・佐々・長など地元諸侯派遣しまくり
火事場泥棒しようとしたら越中中部〜魚津・松倉の短い区間で天正8年から2年も立ち往生するなど大苦戦。
まともにガチンコで切り取った土地なんかねーだろ 信長は地の利や自国の国力に馬鹿みたいに恵まれてたからね
斉藤…道三・義龍・龍興と三代続けての内紛と幼君で混乱しクーデター騒ぎで弱体化しきったまともに抗戦するものもなく勝手に自落
伊勢… 木造・長野・神戸・関・北畠など完全に内紛で分裂、自壊
今川…たまたまおきた遠州騒乱と松平独立で極度に弱体化
六角… 観音寺騒動と対浅井の敗戦で極度に弱体化、信長の斉藤攻めや上洛戦では信長に大いに協力
足利将軍家… 三好や松永らの反逆で権威が落ちきり形骸と化し信長に助けを求める
播磨但馬丹波…守護の赤松・小寺・別所など衰退した弱小勢力しかいない
摂津… 石高がわずか12万石しかない
浅井…もともとは織田方で上洛戦や斉藤攻略などで信長を大いに助ける。石高はわずか10万石程度
波多野…石高は10万石以下。
上杉…謙信死後の御館の乱や新発田の乱で自爆崩壊、葦名・伊達も協力して新発田支援
武田…勝頼の失政自爆と外交失敗で自爆、甲江和与反故の騙まし討ちにかかり、防衛体制解除
美濃は斉藤の元で既に統一されてるから、
濃尾平野にあった井の口居城を攻略すれば簡単に美濃平定が完了するヌルゲーっぷりと違って
山谷国といわれた信濃は要害堅固を支えに群雄割拠する戦国っぷりで、
各地域に1000〜の兵が篭る国人だらけで篭城する敵相手に信濃全域で苦労したわけだ。
岐阜県の面積: 10,620 km2(井の口居城を落とすだけで一国平定)
長野県の面積: 13,590 km2(要害堅固・縦に領土が長く交通補給路に難儀・群雄割拠)
だいたい跡部氏や逸見氏らが専横していた甲斐では、
甲斐守護武田信重が甲斐への入国を将軍から言われても拒否するほどだった。
17年後に無理やり入国させたが穴山氏に暗殺される始末。
こんなに武田の基盤は崩壊していたわけだしな。 >>50
メッケルの軍事指導嫁やw
謀略も参謀の責任の一つだ 斉藤が三代続けての内紛や幼君での混乱・クーデター騒ぎで弱体化しきっててまともに抗戦するものが皆無で自落していったし
義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけ。
その上さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてただけ。さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になる。
信長があれほど簡単に畿内での支配が可能になったのは
1561年に 十河一存 斉藤義龍
1562年 三好義賢
1563年 細川晴元 細川氏綱 三好義興
1564年 安宅冬康 三好長慶
と相次いで主要人物が馬鹿みたいな勢いで死んでいき有力者が誰もいなくなっちゃう。
これで畿内は力の空白が生まれたんだな。
特に父祖に劣らず器量に勝りて一度は天下の乱をも相鎮めた人なりと
賞賛された長慶嫡男三好義興が22歳で死去したので長慶がボケ老人になったのが痛かったな。
この畠山高政と六角義賢の挟撃策に三好義興が芥川城で指揮して勝利したことで事実上、
畠山氏と六角氏が決定的に衰退することになり果て将軍を巡るシーソーゲームに終止符が打たれた。
そして三好は分裂崩壊し、大仏を燃やした天皇は激怒し疲弊しきった勢力群の外側にいる信長に上洛を促すことになる。 信長が大名への返礼で虎や豹の皮や絹織物と言った唐国からの輸入物ばっかり贈ってる時点で経済的屈強さを物語ってる。
今川戦にしたって天文23年には信長は斎藤軍の援軍をもらい、知多半島の尾三国境にある村木城を奪い、
お隣の刈谷城の水野の安全保障を示すことで知多半島戦線を優位に進めてる。
つか発生年代からして超デタラメな桶狭間の戦いって捏造軍記だろ。
後世に作りだされた写し以外の原本確認できる一次史料からわかるのは義元が不慮になったと書いてあって、
思いがけない突然死があったと書いてるだけで、ムリくり桶狭間の戦いと結びつけているだけだし。
米による収入以外に商業による上りと税関収入がある。
信長の祖父の信貞が勢力を拡大させたのは木曽川と伊勢の通商路の津島社とその門前町と港を支配できたから。
そして信秀も熱田社とその門前町と港を支配し伊勢と知多半島に渡る商業圏を手に入れたから。
祖父や父によって二大商業圏を手に入れていたことで織田は抜きん出た国力を持つ強国を成立させていた。
それは朝廷への圧倒的献金額でもはっきりしている。
博多を押さえさらに中国との貿易をしていた大内ですらカスレベル。
信長の周りには畿内で賢主と呼ばれた大名はみんな死んでいて最盛期が過ぎ 衰退に向かっていく弱い大名ばかりだが
信玄の周辺には実力が同等国か同盟国ばかりだった。 仕方ないから謙信方面に行くしか道がなかったよね。
北条・武田・上杉の三国が互角の鼎のように竜虎獅子が合い戦う強豪っぷりだったしな。
武蔵国の名は武器の蔵と言われていたと信玄も言ってる。 家康は武田旧臣を配下に入れて翼が生えたようなもんだ。そのおかげで信濃や甲斐が統治できたしな。
そんな中で勢力拡大してた武田さんは素直に凄い 織田厨は算数ができないので、自国がチート国力であり、自国に比べて周辺には弱体化しまくってた雑魚国力の大名しかいなかった織田を棚ボタではないとか言ったり
自国が貧国・山国・雪国の制約があり
自国と同等レベルかそれ以上の国力に囲まれてる上杉や武田などを棚ボタなどと妄想したりする。
武田の場合
上杉 120万石
織田500万石 武田 100万石
徳川 40万石
織田の場合
上杉120万石(しばらくは同盟)
赤井10万石
本願寺20万石 武田100万石(徳川・上杉が抑えてて対織田戦はろくに兵も出さず)
織田500万石+徳川40万石
全然立地条件が違うわな。
織田の場合は総軍を四つにわけても各個撃破が余裕で可能な国力がしっかり整った状態で雑魚を周辺に抱えてるだけで、到底「四方を敵に囲まれてる」などとはいえない
「雑魚国力が回りに散らばってる」の方が正しい 自国はチート国力
周辺国は
斉藤…道三・義龍・龍興と三代続けての内紛と幼君で混乱しクーデター騒ぎで弱体化しきったまともに抗戦するものもなく勝手に自落
伊勢… 木造・長野・神戸・関・北畠など完全に内紛で分裂、自壊
今川…たまたまおきた遠州騒乱と松平独立で極度に弱体化
六角… 観音寺騒動と対浅井の敗戦で極度に弱体化、信長の斉藤攻めや上洛戦では信長に大いに協力
足利将軍家… 三好や松永らの反逆で権威が落ちきり形骸と化し信長に助けを求める
播磨但馬丹波…守護の赤松・小寺・別所など衰退した弱小勢力しかいない
摂津… 石高がわずか12万石しかない
浅井…もともとは織田方で上洛戦や斉藤攻略などで信長を大いに助ける。石高はわずか10万石程度
波多野…石高は10万石以下。
上杉…謙信病死、謙信死後の御館の乱や新発田の乱で自爆崩壊、葦名・伊達も協力して新発田支援
武田…勝頼の失政自爆と外交失敗で自爆、甲江和与反故の騙まし討ちにかかり、防衛体制解除 、信玄が都合よく病死
しかも、義昭が信長の下を訪問し、斉藤攻略→畿内平定までを和田や甲賀衆や浅井などの派遣により楽にお膳立てするヌルゲーっぷり。
謙信・信玄・直正・元なりらも都合いいタイミングで病死。
残ってるのは当時の織田から見れば雑魚国力の大名ばかり。
ここまでヌルゲーな大名なんて織田以外にはそうそういない。 信長があれほど簡単に畿内での支配が可能になったのは
1561年に 十河一存 斉藤義龍
1562年 三好義賢
1563年 細川晴元 細川氏綱 三好義興
1564年 安宅冬康 三好長慶
と相次いで主要人物が馬鹿みたいな勢いで死んでいき有力者が誰もいなくなっちゃう。
これで畿内は力の空白が生まれたんだな。
特に父祖に劣らず器量に勝りて一度は天下の乱をも相鎮めた人なりと
賞賛された長慶嫡男三好義興が22歳で死去したので長慶がボケ老人になったのが痛かったな。
この畠山高政と六角義賢の挟撃策に三好義興が芥川城で指揮して勝利したことで事実上、
畠山氏と六角氏が決定的に衰退することになり果て将軍を巡るシーソーゲームに終止符が打たれた。
そして三好は分裂崩壊し、大仏を燃やした天皇は激怒し疲弊しきった勢力群の外側にいる信長に上洛を促すことになる。
自国の6倍程度ある織田と交戦状態の中、家中を二つにわけた後継者争いで
周辺大名がこぞって国内に出兵してくる窮地の中の窮地で勝ち抜き
その後の内戦の中、自国の10倍もの兵力で侵攻を受けて、2年もろくに進ませず耐えた景勝や上杉 120万石 織田500万石 徳川 40万石 と計自国の6倍程度の相手と戦わなければならなかった勝頼が棚ボタとか相当馬鹿だな。
棚ボタは織田しかいねーだろ。
周辺国が悉く内訌分裂弱体化、当主の死に次ぐ死
自国がチート国力
足利将軍家や六角義秀や浅井や甲賀衆のお膳立て。
ここまで棚ボタ条件が揃ってたら毛利レベルの雑魚でも天下統一できるだろ。
信長はそんな条件ですら、家臣に殺されて家は大衰退したが。
織田厨は算数ができないから、自国と敵対大名の国力を比率で考えることはできないし
敵国が内紛だったりクーデターだったり、お家騒動だったりといった、状況を追う事ができない。
だから平然とそんな馬鹿な発言をする。 桶狭間で今川義元の首を獲ったことで、それまで信長に懐疑的だった連中が
信長を信頼するようになったってのは大きいだろうね
そうなれば元々の生産力は全国屈指の尾張
勢力を拡大させるのはそれほど難しくない その当時、信長に対抗できるだけの石高っていったら数は限られる? あくまでも目安の一つでしかないけど、慶長期の国別石高ベスト5
1位 陸奥 1,672,358石
2位 近江 775,359
3位 武蔵 667,126
4位 尾張 571,737
5位 伊勢 567,105 織田信長は尾張と美濃の二カ国を平定した時点で
石高130万石だから。
伊勢や近江を抑えて、あっというまに200万石を突破した。
武田信玄なんて、広範囲の5か国を平定しても、山ばかりの地域だから
ギリギリ100万石だろう?
小田原の北条も関東の大半を抑えて、やっと200万石
毛利元就も晩年、九州や四国にも手を広げても170万石ぐらい。 >>61
それ表高で実高250万石くらいある。家臣団も多いから相殺されるけど。 斯波氏が尾張守護に着く前は武田氏が守護やってて斯波氏が下向するときに
鎮守府将軍、藤原利仁の一族のやつが着いてきたんだと
根っからの下克上のやつなんて秀吉以外いないな
みてりゃどいつも名門だわ 当時は美濃あたりのほうが、東北や越後の石高より高かったってこと?
地形に恵まれていたんだな、信長は 太閤検地といえどどのくらい正確かは正直よくわからない部分はあるけど
当時の稲作技術だと東北や越後といった寒冷地よりも尾張や美濃の方が
安定して米作りができたのは確かだろうね >>69
正条植えの技術が上方から関東地方に伝わったのは
天保年間だというから、関東の生産性はとても低かった 70
そりゃそうだろ
関東ローム層とか火山灰の影響で何回、開墾し直していると思ってるんだよ 新潟なんか米の生産は戦国以前なんか40万石だったものが
江戸時代は600万石だぞw 新潟だけで600万じゃ豊作が続くと米が余り過ぎるw
江戸の町民て、おかず無しで米ばっか食ってたらしいけど… 英雄たちの選択文
【放送局】
NHK BSプレミアム
【放送日時】
2014年6月12日(木)20:00〜21:00
【番組概要】
「シリーズ・戦国合戦の謎(2)桶狭間の戦い・信長を天才にした逆境」
初公開!!信長の手紙▽桶狭間の戦いの内実▽降伏さえあり得た!?▽信長を天才にした逆境 尾張で50万石強
今川の本領駿河でせいぜい20万石程度じゃないのかな
はっきり言って最初から今川は劣勢だった
織田の朝廷への献金額が他国を圧倒している
明智も将軍家もそれは前々からわかっていた
織田が滅びるわけがなかった
戦国の番狂わせは美談だ
結局、今川が負ける あれは順当な歴史 信長は美濃の大垣城や刈谷の水野領分15万石もあるので
合計70万石以上は確実にある。
普通なら信長から三河に侵攻できてもおかしくないくらいだろう。 貧乏大名今川義元が上洛して天下に号令するって話がそもそもあり得ない
絶対に無理な話だった
金満信長にあっけなく討ち取られて当たり前 実は越後にも天下取りには有望な地の利があった
でも残念ながら謙信には野心がなかった >>74
これをみると今川の駿河、遠江、三河の総石高は100万石ほどだったとあるけど 100万石って、現代の資本金に換算すると
いくらぐらいなわけ? >>79
今川本国である駿河で15万石
遠江で25.5万石
三河で29.1万石
一方で尾張で57.2万石
(慶長三年の検知高を基準とした)
徳川の動向が織田・今川の雌雄を決していた
徳川が今川を離反して時点で今川の敗北は必至
恐らくは家康は人質ではなかった
横柄な態度を取り、でかい面をして一時的に今川についていたのであろう 当時の書簡などで今川氏真殿に仇討の気持ちが
あった事は、ハッキリ分っているんだが
岡崎の御曹司徳川家康が駄々捏ねて従わないどころか三河を切り崩そうとまで
するのだから始末に負えない。
遠江も独立しようとする動きも出て
さすがの氏真公も家臣団を纏まり切れず地団駄を踏んだようです。
氏真に桶狭間の敗戦の復讐戦の気持ちは
ハッキリとありました。
だけど、本領駿河15万石だけではどうにもなるまい。 本領がたった15万石なのに
25.5万石の遠江を従えて、29.1万石の三河を丸めこんで
100万石の武田、300万石の北条と三国同盟を結んでいたなんて、
義元ってすごい奴だったんじゃね?
雪斎の知略だったのかもしれないけど >>83
それに加えて信玄も三国同盟を破棄してるんだよね
これじゃー、氏真が気の毒すぎる >>84
さながら
雪斎は孔明
義元は劉備
といったところだろう
いや、桶狭間前のこの二人はそれ以上の離れ業をやっている >>1
快進撃なってねーよ。
信長関連だとコレと武田滅亡の流れよく誤解されてるから別にいいけど。 快進撃っていうより、どうやって台頭していったかのほうがしっくりくる 美濃平定のあと快進撃だろ
美濃攻略は7年くらい掛かってない? 名古屋から米原か京都まで新幹線で一往復すれば岐阜の地勢が天下取りにどれだけ寄与したか解る
京側には開けた通商路が在り北側は飛騨山系が障壁と立ち東側には木曽三川が江戸期以降とは比べ物にならない暴れ川状態で天然の水濠を為し大阪城スケールで見れば巨大な水城だった
守るも攻めるも思いのままで税金も取り放題だったが露天商の出店税は免じたらしい なんか本能寺の変の動機と関係がありそうな資料が発見されましたね 大河でパワハラ、板挟み、朝廷の陰謀の三重苦の光秀が見たいw 明智光秀主役だと平清盛みたいに視聴率振るわなそうw だから娘のガラシャとセットで主役扱いの誘致活動なんだろ 30代後半で漫画家になろうとしている童貞ひきこもりなバカを発見
2chねらーに荒らされている。足立区に住んでいるそうだ。
http://inumenken.blog.jp/archives/7002197.html むしろちんたらしすぎだろ
関西平定してから10年以上無為に過ごしてる 桶狭間で義元を討ち取り、今川軍は駿河に総退却したが
その信長の奇襲計の武功は当時、東海道の小大名であった
ため天下に知れ渡るとは思わないが。三国志演義の玄徳と
似たエピソードだ。むしろ信長の台頭は 斉藤義竜を倒し
浅井長政と同盟を結んで足利義昭を迎えいれてからだろう。 いやいや駿遠三の主がやられたんだぜ
甲子園ベスト8ぐらいのインパクトはあるだろう ベスト8は言い過ぎとしてもベスト16以上は確実だな。
「初出場校、出場回数20回優勝3回の強豪校をサヨナラで破る」
当時の今川勢力圏と駿府って今の愛知県と名古屋ぐらい影響力ありそうだし。 うん。
天下に知れ渡るとまでは行かんとしても、「知らんヤツは情弱www」と言われるぐらいの事件だよな、当時としては。 >>101
そりゃそうだが、まだ武田信玄も成長途上の小国だった頃だし、上杉謙信もさほど強大じゃなかった時代だ。
今川は全国有数の大大名ではあっただろ 史実ってここ三戦じゃないんだからそもそも史実を語る板じゃないの? 結局、北条、武田とは同盟しているが均衡状態(同盟)
なので支配下は松平元信など。家康や信長などの若い新鋭
大名を突っついてた感じだな。もし尾張を抜けたら上洛
ルートは美濃か伊勢どちらを通るつもりだったのか。
北畠か斎藤か。 >>104
上洛じゃなく領土拡大だろ
伊勢にはほぼ確実に手を出すはず
美濃には手を出すかどうか不明だが、全く無視ってことはないだろう
おおかた、武田と分け合って美濃分割にでもしたんじゃなかろうか。 今川は北条を倒し関東菅領になるべきだった。尾張は実は伊勢からの徴兵もあったはずだ。関西の
兵は富貴な作物が実り石高が高いので、東海道の広さだけ
の兵(もののふ)は弱かったと考えられる。理由は武田の
騎馬軍団。馬がなければ弱い。 >>106
もともと、今川と北条は仲が良かった、今川が武田と同盟するまでは長く蜜月が続いてた
だから、北条を倒す選択肢はない 北条家は前に今川を付けてもいいね。
今川北条家と言ってもいいね。
北条家の方がはるかに筋が通っています。
最後の最後まで今川氏真にお味方したのは北条家。
それに比べれば今川義元はだらしないよ。一時
今川義元は甲斐と結び北条氏綱をカンカンに
怒らせているからね。
北条早雲以来、義理堅いのが北条家が300万石にまで
昇りつめた秘訣なのです。
なんでも鑑定団 愛のエメラルド 義元が甲相駿三国同盟を目指した際、北条家は武田との遺恨を捨てられずに反発した
しかし、あくまでも三国同盟の確立にこだわった義元が、一時的に北条と争ってでも三国同盟の確立を、という姿勢をとったのが、氏綱を怒らせた原因。
この三国同盟によって武田との関係改善に成功したことは、北条家の勇躍に大きな効用をもたらした。
三国同盟なしには北条家が関東に覇権を確立できなかったかもしれないよ 桶狭間の後は美濃攻略で足踏みしてんだけど…
快進撃は大国の尾張伊勢美濃を抑えてからだよ 一般的な認識だと桶狭間から飛躍したって思っている人が多そうだな
たしかにインパクトは大きかったかもしれないけど 美濃攻めも後半に入ってからは、将来の伊勢攻めを見越した準備も始めてるし、
畿内の大名たちの中に味方を作るべく外交交渉もかなり進めてるよな
美濃制圧が佳境を迎える前から松永との同盟がすでに成立してるほどだ。
おそらく浅井との同盟は美濃攻めをはじめる前から交渉を進めてたんじゃないか。
で、美濃攻めを始めてからかなり早い段階で同盟は成立してたんじゃないかと思う。
どう考えても、武田との同盟より先に締結されてるよな。 若い元信(家康)を人質にし当時の信長しか攻撃出来な
かったんでしょう。 同盟なんて戦国時代にはナンセンス。単に
勝てないだけ。もし尾張を通過しても、斎藤道三の美濃を
越えるのも難しく上洛は仕方なくのセレモニー に 近い。 三国同盟を先導した頃の今川の勢力は、武田より上だったんだが。
武田領が甲斐一国と信濃のごく一部だけだった頃に今川は三河の制圧をほぼ終了している。
元康はすでに家臣団に組み込まれてる段階だしな でも駿遠三3か国で尾張一国程度の国力しかないよな
尾張統一した織田にとって今川は本当に脅威だったの? >>115
桶狭間の当時は尾張の1/3ぐらいは今川領だろ 尾張に侵攻する際に、義元は伊勢の北畠と緊密に連携取ってるんだよね
伊勢湾の制海権を掌握して、信長を窒息させようというのが狙い
実際、信長は津島や熱田の現金収入に頼ってたわけだし
こうやって考えると、信長にとっては出撃するしか選択肢なかったんだろうな
籠城してもその間に津島や熱田が敵の手に落ちれば負け確定なわけだし 上洛の通過点である。当時戦国大名でファーム的存在の
尾張の信長の 湯漬け に 負けた。それだけじゃで。しかし
足利家のお気にである今川義元を討った信長に足利義昭は
良く上洛を依頼したんだな。 鉄砲買ったり、城を次々改修したり、作ったり、金の使い方が半端無い
それだけ金を集める手腕があったからだろう 地理や経済面で考察するのも面白けど、人材で抜きん出てたってこともあるのかな?
そのへんに興味があって >>113
桶狭間の頃は道三じゃなくて龍興だと思う。
当主は若年ボンクラでも、美濃勢自体は強いから、簡単には通れないのは確かだろうけど。 結局、龍興でも美濃通過しても近江浅井、京都には松永久秀
大和には六角。上洛を果たすには五年かかるはずだ。
全軍四万五千の兵の兵糧などについても疑問だし。駿河や
遠江については武田、北条の三同盟を解消され後ろから
こられたら今川は一溜まりもない。つまり上洛は四すくみ
状態での出陣だろ。 結局数年後氏真で
滅んだが。 そもそも今川は上洛のために桶狭間へ赴いたのではない。領土拡大のためで、
長年にわたって争い続けてきた信長にできるだけ大きなダメージを与えて尾張における領土を一気に拡大しようとしたわけ
そっから先の近隣国は将来の課題。
その紛争に際し、いくつかの勢力とは同盟しつつ別勢力と戦うって点は信長と同じだが、
同盟相手は信長の場合とは異なるはずで、戦争相手の構成は全く異なったものになる。
ところで松永の拠点は京都じゃなく大和だし六角は大和じゃなく近江なんだが。 ふむ。確かに六角は近江で、松永は大和だ。訂正しよう。
しかし考えたら上洛は破竹の勢いなら一年もかからず成し
得ただろう。
信長は1550年代尾張を統一するのに拱いていたからな。
圧倒的な兵力の差やキャリアの違いがあるのにも関わらず
奇襲でやられた。信長の名は武田、北条、足利家を震撼
させたに違いない。 尾張の おおうつけ が 日本の三分の一を統一するのは
並々ならぬものだった。 織田は早くから浅井や松永と同盟していたから六角や三好と戦いながら上洛した
今川は、同盟相手が異なっている可能性が高い。
六角や三好と同盟して浅井や松永と戦いながら上洛だったかもしれん。 >>117
当時、市が定期的に立っていた町は
駿河:駿府、沼津
遠江:浜松、島田
三河:吉田、岡崎、刈谷
尾張:清洲、熱田、津島、岩倉、尾張一宮、犬山、国府宮、半田、起
伊勢:桑名、四日市、伊勢神戸、安濃津、松阪、宇治山田、亀山
美濃:加納、大垣、関、美濃加茂、鵜沼、羽島(大須)
静岡寄りの地域より名古屋寄りの地域のほうが商業が盛んで、
しかも尾張の場合、主だった集落や市は極端に西に寄っている。
もともと西尾張は水害が多く、たびたび戦乱も発生したが、
それでもこういう分布になったのは美濃や伊勢との繋がりが大きかった証左。 もともと信長は天下取りを夢見ていたか疑問だが、当初は
那古屋を併合するだけでも精一杯。
なのに尾張に侵攻してきた今川をくだしてからの勢いで
美濃を攻略し浅井長政に近江南部を通過させてもらい
上洛。義昭を御輿にし堺の鉄砲軍団、雑賀衆を屈服させ
近畿を制覇してしまった。さらに室町幕府を潰した。センセーショナルな一戦だぎゃ。 信長が天下取りというものを意識しはじめたのは美濃攻めの後半に入ってからでしょ、
遅くとも美濃攻めが終わるまでには、天下を意識して、諸方面に同盟工作をしてる。
ただし、その時点での天下は、京都を支配するという意味でしかないが。
いわゆる天下統一、日本全域を束ねようという意識を持ち始めたのは、おそらく晩年に入ってから。
最大限に早く見積もっても義昭追放の前後が上限だろう 義昭を京都から追放してから、信長は室町幕府を滅ぼした
が、いわゆる安土城 に楽市楽座を設け安土桃山時代を確立
した訳だが。浅井長政を倒し近江の国を光秀と秀吉に二分
させて、朝倉を姉川の闘いで滅ぼしたが その時1573年前後
甲府の武田信玄が亡くなった。確かに
義昭を追放してからの領土拡大につき
後年秀吉のような小田原攻めや島津攻略とまではいかず
毛利水軍と対峙応援に駆けつける本能寺で、チャビンの
光秀に討たれた 家来に恵まれたってのもでかいと思うけどね それを活かす信長も流石だが >>33
>また甲州の治水技術は関東開発に役に立ったが織田は治水をやらないために後世に残る織田治水などは一切残らなかった。
ルイス・フロイスが秀吉の水攻めの采配を見てその治水技術に随分と感心しているけど
じゃあこれは一体どこで身につけたの? 京都から追放しただけで幕府を滅ぼしてない
京都追放後も安芸で幕府は存続し権威を持ち続けている
当時の感覚では大内や三好のように
信長も一時的に京都を占領した奴の1人に過ぎない 幕政を動かしていた官僚たちの大半は義昭に同行せず京都残留、信長に従っていた
室町将軍15代に含まれない堺幕府が幕府の官僚の少なからぬ部分を引き入れていたのと違い、鞆幕府(公方)としての義昭は幕府の名に値しない亡命政権。
将軍職を保持しているだけで政治的な実態はすでに失っている。
この時点で信長は、簒奪者・成り上がり扱いながらも、すでに天下人であり、室町幕府に代わる新政権として広く認められている。
それゆえに、室町幕府滅亡とみなされるわけ。 快進撃は美濃穫ってからでしょ。結構な年数かけてるよね美濃に >>135
信長はまだ尾張統一してなかったし
今川は北畠と組んで海上封鎖してる
当時の信長はジリ貧状態 実際の兵力は
今川1万7400(69万6千石)
織田1万4300(57万2千石)
ただし桶狭間に布陣した今川本隊はわずかに兵3500のみ
織田勢は兵力で圧倒していたにも関わらず奇襲戦法を採用
卑劣さの隠蔽工作の成果が広く世に知られる「桶狭間の奇跡」
・・・ってことでOK? 北部や西部の一部が織田領じゃなかったり、南部や東部を中心にかなり今川領になっていたりするからな
尾張の半分ぐらいは信長の領地じゃない
信長が動員した兵力は5000以上はいるとは言え、万には遠く届かないだろ
それに、桶狭間での衝突より以前の前哨戦の段階で、1500以上の兵が敗走ないし壊走して失われてるしな
主要な城の残留部隊を差し引いたら、2千数百ぐらいしか桶狭間の現場には行ってないんじゃないの。 京周辺を、最大瞬間風速的に制圧しただけでしょ。
木曽義仲より少し上のレベル。 石高の割に桶狭間で用意できた兵って3千程度だったんだな 異常に少なすぎない? 弓、槍、斬馬刀持っていたのはそんな程度じゃね?
鉄生産量が江戸時代より多いとも思えんし
大半、投石部隊や棍棒部隊の方が多かったりしても不思議じゃない 国府を落として尾張一円支配できたのが桶狭間の直前だし。
雑兵でよければもっと集められるけど募兵は計画的にやるもので
攻められたから募兵するんでは間に合わない。 国を奪われるかもしれん大ピンチに3千弱ぐらいしか集められなかったってのがな…
時間があれば8千ぐらいは集められたんだろうか?石高に関しては他国より
だいぶ恵まれていたようだけど 今までもさんざん言われてるように、尾張の半分くらいは信長の支配下じゃなかった上に
それ以外にも信長に懐疑的な連中は少なからずいたから
例えば柴田勝家なんかも、桶狭間で活躍したことを示す資料は残ってないし >>145
国府って清洲じゃなかったの?
岩倉とか犬山あたりには斉藤と連携してたんじゃなかろうかって感じの親族やら守護代がいたが。
それより、南部を含め広範囲に今川領が散在してたことを考えれば、
尾張のうち信長の支配下に合った範囲が限られてるだろ。半分よりは広かっただろうが、尾張一円とは言えないはず 何やかんやで 室町幕府や朝廷にコネがあったのが 幸いした >>1
桶狭間→織徳同盟で遠江甲斐の緩衝地帯を設け
美濃攻めに集中し、次に京都へ洛上
あの時代天下取りを本気で考えていたのは信長だけ 足利義昭がいなかったら上洛もへったくれもなかったんだが >>134
ただその後織田信長が本能寺で討たれたからもう少しで室町幕府の再興はあった
明智光秀は殷の紂王みたいな暴君信長を討ち取るという大義を掲げて朝廷と幕府に忠義の士になれる可能性はあった
信長絶対史観の本能寺の変より山崎の合戦がその後の日本の命運を分けたと思うね
織田信長は過大評価されてて遅かれ早かれ謀叛を起こされた可能性は高いし 褒美をくれるわけでもない朝廷や幕府に、当時の武士が忠誠を示すって
ちょっと考えにくいんだけどな
お飾りとしては利用するけど、それ以上の利用価値は認めてないってのが
基本的なスタンスじゃないの? 信長が全国統一を果たしていたら京都の旧勢力が駆逐されていたと思う
帝号を僭称することになっていたかも >>155
ならねぇよ
信長の経歴見ればすぐわかるだろ
信長が天皇を廃するとか馬鹿な作家や脚本家の妄言 >>154
そこまで軽視されてはいない
よく効くジンクス、程度には効用を認められてるから、ゲンかつぎ・縁起担ぎ程度ではあっても、それなりに尊重していた
うっかり変なことして戦争でトラブル起こるとイヤだからな。
とてもそんなこと聞けん、みたいな受諾しがたい命令は全部無視だ。
不利になる命令だけじゃなく、負担が大きすぎると思ったら断るのが普通。まあ、いろいろと口実を作って丁寧に断るんだがな。 >>154
だから神輿を担ぐんだよ
実権は本能寺の変後だったら秀吉で山崎の合戦の結果が違ってたら光秀主導の勝ってたら室町幕府再興でそもそもその前なら信長なんだから
ただ信長の場合は絶対君主制的なものを目指してたから幕府のみならず天皇を引きずり下ろしてた可能性は高い
そしたら日本は大混乱するから野望の大陸進出どころではない
日本のその後の展開を見ると光秀の理想である室町幕府再興でも行けた可能性も高い
それが良いところは徳川の江戸幕府よりも地方の自主が強いところで江戸幕府以上に海外にも目を向けられたかも知れない
つまりは明治維新後の国民国家がもう少し早く誕生した可能性もある
江戸幕府でもフランスのナポレオン >>158
訂正
×光秀主導の勝ってたら室町幕府再興
○光秀主導で実権を握る室町幕府再興
江戸幕府でもフランスのナポレオンの国民国家の強さの情報は海外の情報を規制してたのに入ってたみたいだしね
というよりそもそも信長の野望である明征服の為の大陸進出は秀吉の朝鮮出兵である程度は試された結果から分かるのは
あの時代に大陸進出しても朝鮮統治が精一杯でもう少し南蛮貿易に目を向けた方が日本の飛躍に繋がったかも知れないということ
一般的には南蛮貿易による日本の海外雄飛の可能性を信長に託してるけど信長には無理だと思う
その後の徳川は幕府の権力が強くて海外貿易は長崎のみに規制されてその可能性が大幅に閉ざされた結果から信長に託してるだけ >>156
信長が天下統一したら天皇は廃帝でしょ
信長は利用出来るものは利用するけど天下統一後に天皇の利用価値があるとは思えない
かと言って伝統を重んじる男でもないし信長が生きていたら天皇を超える権威を手に入れようとするはず ぶっちゃけ信長様の政権自体 室町幕府のパクりだしな
天皇をドウコウしたかな〜
南蛮貿易も 足利将軍家と「てゆーか,義昭」縁切りしちまって 明との貿易出来なくなったから 仕方なく始めたようなもんだし 信長しか京都に進んで天下を取る事を考えていなかった 信長って何も斬新なことしてないよ
やったのは秀吉
信長の朝廷対応も経済政策も
過去の武家政権や他の戦国大名と大差ない
信長が天皇廃するとかあり得ない 信長は古い秩序や権威を蔑ろにしている
少なくとも将軍家を追放したんだからあり得なくはない
それに天下統一後に何をするか分からんと当時の朝廷に思われてもおかしくはない >>164信長は追放した足利義昭に帰洛要請の手紙を何枚も書いてる
何れも直筆で 1560年前後、信長軍は五千騎しかいなかった。斎藤道三と
同盟していたが、他大名に攻めるも
守るも出来ず尾張統一の地方戦をしていた。過ぎない。
それが今川に勝ってから兵力は八千ぐらいに増えている。
しかし斎藤義竜も二万ほどの兵がいたのに墨俣城などの
計略で美濃を攻略。 1568年には三万の兵を持つ大名として
、足利義昭に利用されたが最終的には200年続いた室町幕府
を崩壊させた。まさに奇謀妙計のうつけものが海道一の弓
取りと言われるなどとは…。 >>167
は?
五千騎って騎兵で五千?
その時期、どこの大名がそんな大軍を動員できたんだよ
今川とか北条でも、あと少し足りないぐらいだろ。
と、表現ミスにうるさいツッコミをば 多分、信長の馬廻りって二百くらいだったんじゃないかな >>168
騎兵の数じゃねえよ。
一騎当千という言葉の千も千騎だと思っているのかね。 清洲同盟がでかい
家康と同盟を結んで国境を決めることで小勢力が日和見できなくなってしまった
清洲同盟で信長は尾張の完全掌握を成し遂げたのさ 勝幡城を拠点としていた織田弾正忠家は中島郡と海部郡の二郡を基盤としていた。
次いで愛知郡という流れ。 旧日本軍が軍記物を鵜呑みにして迂回奇襲説を正しいと誤認したのが
桶狭間の真実をわかりにくくしてるんだよな
それプラス軍部が迂回奇襲説を信じ込んじまったもんだから
インパール作戦みたいな無謀な計画がそのまま実行されたという側面もあるわけで 迂回奇襲は否定されてるけど、後年の行動見てると信長が何も考えずに出撃したとも考えにくいんだよね。
不利なら不利なりに目的を持って行動するタイプだと思う。
戦力比が大幅に違うのに野戦を挑んだってことはやっぱり本隊狙い、あるいは奇襲狙いだったとは思う。 でも善照寺砦の戦いでは、佐々隼人正と千秋季忠指揮下の三百人の部隊も奇襲に失敗してる
動き読まれたのに奇襲成り立つかな やっぱ暗殺
戦のドサクサに紛れて暗殺したんだな
だって今川の城を囲んだ信長が仕掛けた戦だぜ
勝つための算段をしてたはず 今って桶狭間の奇襲説とそうじゃない説、どっちが主流なんだろうね?
個人的には奇襲であってほしいがw >>181
奇襲じゃなくて
降伏したと見せかけての騙し打ちだよ 藤本正行だったかなあ?
この人の書いた本では否定されてた。
たしかテレビではもう奇襲説は否定されてたぞ 駿河欲しさに武田の間者が動いて信長を助けた説を唱えていた人いなかったっけ?
駿河といえば本来は武田の任国だからな 西本願寺高速偈
http://www1.axfc.net/u/3347922
信長の本願寺侵攻にそなえ
手早くお勤めを済ませてしまおうと
このような猛スピードの経読になったのが
今日まで受け継がれてきた由
これもある意味では信長の遺産か >>185どうかな?今川主導とはいえせっかく三国同盟結んだのに今川義元が死んだら水の泡やん
まあ信長との同盟もあっさり破る信玄公だから不思議ではないけど >>189迂回奇襲攻撃説の場合 桶狭間にせっかく雹が降ったのにわざわざ晴れてから攻撃とか「今まで信長は電撃作戦の際には雷雨など雨天時を選んでるのに」おかしな記述がある
逆に手紙を使った騙し討ちなら信長は
斎藤や義昭そして今川に頻繁に使ってる
まあ騙し討ち説の根拠はこんな感じ >>190
なるほど、特に記述はないけど可能性としてありそうってことね
まあ、信長ならどんな手を使ってでも打ち取りそうだけど
でも、そうすると居場所の情報提供に1番の手柄と矛盾するんじゃない?
騙し討ちなら場所の特定の必要もないし 187
その同盟が結ばれるまで武田と今川はずっと敵だぞ >>191そこは確かに まあ敢えて言うなら今川本陣を見つけた梁田?が信長の主家斯波家家来だった時斯波家と織田宗家の抗争に関する情報を信長に提供して恩賞を貰ってるから太田牛一がそこんとこを混同して書いたとか 190
同じくその手口を得意としていたのが武田信玄だ
結論でたな
信長の師匠は武田信玄 信長は上洛する前は信玄に対し平身低頭して貢ぎ物をこれでもこれでもかと
贈っている、態度が豹変したのは1570年ころの話
天下布武の朱印を使い始めてから >>194
信長ヲタは、よく「信長は秀吉の師匠だから信長>秀吉」というが、その理論だと信玄>信長だな。 >>196結果論だがあの総無事例の圧倒ぶりを見るに光秀死後だと
秀吉>信長かな >>189
出典は無いけど
・今川は名だたる武将達が討ち死にしたのに信長側には無い事
・戦の行軍途中にも拘わらず、義元が宴会をしていた事
結果を見れば騙し討ちなのは明らか。
今川配下に裏切り物が居たと思われる >>198
まあ圧倒的に有利な今川方の武将に敗色濃厚な信長がどんな条件を出せたかは謎だが
前にも偽手紙で騙して今川に寝返った武将を義元に殺させたし
今回も偽手紙で騙したか? まあ、
大高城が堕ちた時点で、これ以上反攻してくるバカは居ない
と、考えるが常識だろうな もしくは、当面は亀のように引きこもりつつ、今川軍退却の際に追撃線をしかけて虎口を脱しようとすると考えるか。
追撃戦ってわりとよくあったみたいだしな。信秀なんか何度もそれで負けてるぐらい。 義元は優秀ではあったが、所詮ボンボンだった
脳あるバカは、ツメが甘い >>202
そのボンボンに二万人が従ったんだがな
ついでにそのボンボンは桶狭間以前だが
信長みたいにせっかく稲葉山落としたのに斎藤龍興を取り逃がしたり
姉川で浅井を取り逃がしたり
長篠で武田勝頼を取り逃がしたりはしてない そんなマヌケに討たれるぐらいだから、詰めが甘いんだろ その詰めが甘い奴が提唱した三国同盟に 武田信玄や北条氏康が参加してるんだが 信長オタは、なぜか信長が本能寺で死んだという事実を語ると激怒する。
しかし他の武将が信長に倒された事実は嬉々として語る。
他の武将のオタは、現実に信長に倒されたことを指摘されても現実を直視しているから怒らない。 つか,間抜けとか以前に信長ほど部下に裏切られた大名も珍しいだろ
何人の配下が反旗を翻してるんだよ あれだけ部下に裏切られるって事は,それ即ち詰めが甘いって事じゃないの?
配下が反旗を翻しまくってるのにそれを顧みようとせずに,ついに裏切りで殺されるって… まあ革命児だからな
革命家はいつの時代も命がけで時代を動かしているんだよ >>208
離反対策の方向性が間違ってたんじゃね?
離反される度に敵対者への報復が厳しくなっていった以外の対策が見えてこない 無理をしたからこそ勢力を拡大することが出来たという面を無視するのは片手落ち。
ところで部下の離反とはいうが、どこまでが部下といえるんだ?
浅井とか別所も部下に入るんか?
個人的には浅井は部下じゃないと思うが、別所は微妙かな? >>211
浅井は、信長は部下と思ってて淺井家のひとは部下とは思ってなかったとかそれぐらいだろ
別所は、信長は自分の部下じゃなく秀吉の部下と思ってたんじゃないか 尾州錯乱でさんざん一族郎党と殺し合って浅井や荒木をあっさり信じちゃうお人好しな信長様 >>212
別所は中国遠征以前から信長に臣従してるからそれはないんじゃないかな?
浅井は徳川同様、自分の言うことを聞いて当然の、下位の同盟相手という認識だったと思うが明確な根拠はない。 桶狭間の戦いもそうだが、森可成がいたからだろ
柴田勝家も破り、仲間にし前田利家も救った、
早死にだけが惜しまれるが、上洛までは間違いなく森可成が織田軍では一番の将
今の歴史ではありえないほど評価が低いが
よく読むと森可成がいなければ、織田信長が天下を取れなかったことがわかる
秀吉も竹中半兵衛もその過程の中で出てきて、森可成の恩恵に授かっている 今川の首を打ち取ったのも毛利某で森可成と源義家の血縁
桶狭間の戦いには前田利家も参加しているが、前田利家をこっそり桶狭間の戦いに参加させたのも森可成
柴田も織田を裏切って間もないから、そんなに活躍するわけがない
これは書いた奴と柴田の関係を見れば一目瞭然
森可成の活躍で桶狭間の戦いの勝利できたのは確実だろ
織田信長と森可成は桶狭間の勝利を確信していたことが読み取れる 早死したので、知名度は柴田勝家や前田利家以下だけだが、二人を救ったのは森可成
織田信長が森乱(蘭丸)を異常に可愛がったのも父の功績があったからこそ
それが他国の戦国武将には全くわからないので信長が蘭丸と肉体関係にあるのではと噂した 森家は親子ともにありえないほど勇猛でかなり無謀という印象があるな。
鬼武蔵の名前が有名になりすぎて親の功績が霞んでる感がある。 まあ、実態としての活躍度はともかく、それなりに優秀な重臣ではあっただろうな
たぶん、蘭丸とかは、豊臣政権下における三成(ただし秀長や利休の存命時の)みたいな役割だったしな。
ただ、フィクションを信じすぎな感じがする216-217の言はスルーせざるを得ない 蘭丸ってたかが近習だろ
奉行として諸大名との取次を担った石田と同じとは有り得ん だよなw
多分信コンスレで論破されてた森ないし乱丸厨だとは思うが。
三成でいうなら万見重元、長谷川秀一あたりだろ。 信長公記みてそう感じたのだが
筆者は柴田の元家来で真実を書いているが、どうも森可成を嫌っている
それが原因で森の名前はあまり有名ではない。
おそらく森が柴田を破った時に太田も何か言われたのだろう
意図的に文章を抜かしたりしている 倍以上の軍勢の柴田勝家軍を破った森可成がそもそも弱いわけがない
桶狭間の戦いでも明らかに森可成が中心
上洛までの織田の中核は森可成で評価があまりにも低すぎる 信長が非嫡統って説が囁かれてたが、実際は長男ではなく三男だったみたいね 森可成が信長のために死んで、信長が領土を広げ
また蘭丸が信長と共に死んで
秀吉や柴田が偉くなりすぎたから、今の評価があるだけだ
秀吉や柴田は家督争いから美濃攻略まではほとんど活躍していない
活躍したのは信長と森可成
その後から柴田や秀吉が活躍し始める >>220
長谷川竹と森乱を筆頭に幾人かの近習がわりと重要な役割を担当してるだろ
近習から転じて地方派遣され、武将として活動した人間もいる
政権の規模が拡大すればするほど近習の役割は増大するものだし、政権末期にはそれなりの重要な地位だったんじゃないかと思う
>>222-223
いや、それは無理すぎだろ
>>224
長男じゃなく三男だったのは事実
ただ、嫡統じゃなかったって説は極めて少数派
いや、信長の家系そのものが嫡流じゃなかったのも事実だよ。本家は守護代の家だから。
オレ的には、信秀の嫡男扱いされてたのは信長じゃなく信行だったと考える方が面白いと思ってるが、その説は支持者が少ない。というか論拠不足すぎる。 つうか蘭って本能寺で信長と一緒に死んだというだけで
寵愛だ重用だと過大評価されてるような気がしなくないかな。 ぶっちゃけ池田の息子達の方が森の息子達より重用されたいたと思うわけだが 細川の息子もだな
信長の前でも臆することなく物事をハキハキと言うんで逆に
すごく可愛がられたという逸話があるのも池田兄弟だしな むしろはっきりと言いすぎる家系なのか徳川幕府時代は幕末まで
幕府に目を付けられる羽目にもなるというw
徳川の女となんてぜってー結婚しないだの徳川の女なんて神仏に
逆らってでもいやだーとダダをこねたあげく結婚したらしたで
いつでも実家に帰っていいぞと言いまくってた子孫まで出す始末w >>226
信長公記にも森可成が柴田勝家の軍を共に蹴散らしたこと書いてあるだろ?
桶狭間でも先陣切って行ったのは森可成と書いてある
太田丑一は森可成の事をよく書いていないが、それでも事実は一応書いている >>209
革命という意味なら信長は何もしていないんだけどね。
源平以来の武士の世と言う旧体制の中で動いていだけ。
むしろ戦乱の世を終焉させた家康の方が革命だよ。 >>232
革命的なのは徳川の方だろうけど、革命--天命が革まる--という意味では、信長も革命ではあるだろ
三職推任問題の時点で天命---天皇が天下の采配を委任すること?---が革まったと言えるわけでな
ってかなり強引な見解だな
ただまあ。
中国の天命の根源たる天下と日本の天下が全く異なる意味である以上、日本の天下観に基づいた天命というものを仮想することはできなくはないわけで。
当時の日本における天下の意味内容を考えれば、天皇が天下の采配を委任することをもって革命と呼ぶことが不可能ではないと思うんだよな。 >>230
だがその対徳川の娘戦で病を理由に篭城を決め込むも
看病戦法により落城したのもまた事実だけどなw >>229
忠興の忠は信忠からなんだっけか。
いずれは信忠軍団に入っただろうから戦国DQN四天王中2人も
信忠は率いることになったかもしれんのかw
ある意味最凶軍団になってたやもしれんのう…怖 >>228-229
そうか? 森蘭丸の方が有名だと思うが
信長に仕えて本能寺で死んでいったから偉いよな
そんな衝撃的な最後を送ったのでまた他の奴らが嫉妬するわけなのだがw >>227
それもお前の勘違いだろw
蘭丸は15歳くらいで城を貰い受け5万石の城主になっているぞ
仕事の社長秘書もきちんとこなしていた 本能寺の変の討ち死にも偶然ではなく
常に信長の身の回りの世話をしていた
城ももらったが、城には住んだことはないはず >>237
間違えた、17-18歳の時に信長より城を与えられて城主になっている。
しかし、なんだかねえ、同じ信長の家来の同士の話をしているのにこっちがかわいがられたとか何を言っているのだか?
蘭丸、よくぞ殿をお守りしての討ち死に!見事!とかあってもよさそうなものだが
この現代人にもありがちな自己中心さが織田家を滅ぼしたのは間違いないな
信長が絶対に裏切らない蘭丸を最後の最後までそばにおいていた気持ちがわかる 信長があっけなく殺られているんだから意味ねーよw
二条御所の連中みたいに数回明智軍を追い返して協議までやって
重臣に重傷負わせて何時間も奮闘したって言うなら話は別だがね。
そもそも蘭丸ないし森厨が森は特別扱いされた()風を吹かせなければ
ここまで言われることもなかったろうに。 会社とかに結びつけるの無理だと思うぞ
なんつうか言ってること変ですね
会社やらなんやら明治以降の話だからな 城もらったといっても武田が滅んだ後の岩村城だからなんともだな。
そばに置いていたのも森の本拠地である兼山は鉱山抱えていた関係から
なんじゃないの?
まあ武田の金山衆がやってくればどこぞに転封されそうでもある配置。 某城介さんが愛しのお松を連れて来いだとよ
「わし、毛利攻め終わったらお松っちゃんと結婚するんだ
失われた15年分を取り返すんだ」と息巻いてるぜ それだけ待ったならさぞ激しい新枕になるのだろうねぇ…
まあその前に親父が信玄に含むことあるからまずは儂と令出しそうだが 信長の側近中の側近、森可成、長谷川秀一、大津長昌、堀秀政、矢部家定。 >>1
尾張を制していたから
当時、朝廷への献金額は織田家がトップじゃなかったか
今川の本領駿河なんて貧乏小国
番狂わせじゃなくて、織田家が圧倒的に優勝候補だった >>247
言っとくが今川義元が出した御所の修繕費用は織田信秀の三倍だぞ >>245
激しいどころか待ちすぎて逆にできないんじゃね? 好きすぎるとやれないっていうあれか
それはそれで困った話だからやはり信長コースでFA 信長と松姫の子供or信忠と松姫の子供、どっちがすごいの? 信長と松姫の場合DNA同士が大喧嘩するだろうから
そもそも着床しそうにないw DNA同士が大喧嘩しても着床することにはするぞ
その後生まれた子供の資質については保証しないが 大喧嘩の末に決裂しての多胎児も考えられるかもよw
織田DQN四天王になるか織田四名臣ないし四迷臣になるかは未知数 信長の戦国武将としての能力がズバ抜けて高かったからだろうな
信長は天才だったのだよ まあ弱兵で有名な尾張兵を率いてあれだけの戦勝を重ねたのは評価できる。 >>240
あっけなく殺されてないだろ
たった、あれだけの手勢で何時間も戦った
実際は、投降を呼びかけても一向に信長が出てこないので
光秀が、火を放っていぶり出そうとしたが、そのまま焼け死んだか、逃げ去った
とした方が合点がいく 同時代の資料で尾張の弱兵に言及したものってあるの? >>257
本能寺側が何時間も戦ってたなんて記述あったか? 尾張ってカリスマ的リーダーの下で結束する観があるなぁ。
これは現代にも通じていて昭和初期の中京商業野球などの球歴などから
そんな気がする。 >>240
アホなんじゃねえか?お前は?
>信長があっけなく殺られているんだから意味ねーよw
信長もまさか身内から攻撃されるとは知らずに本能寺にいた
攻撃があると知っていれば信長も初めから二条御所にいるわ、ボケが
それに信長側なんて鎧もつけずにみな軽装で森蘭丸がいくら強くても武装した1万2千の兵相手に100人以下が勝てるわけねえだろうが
まじでアホなのか?
信忠が攻撃を受けたのは本能寺が攻撃を受けて炎上してからで防御力のある二条御所(二条城)へ移動する時間も鎧をつける時間もあった
それでも1時間ちょいしか持たなかった
そもそも明智光秀は信長だけは仕留めないといけないから初めはそちらにすべてを集中させている
信忠がいた妙覚寺はそもそも眼中にはなく信長がいた本能寺が主体だったのさえわからんとはバカか?
適当な事を言ってんじゃねーよ、アホが >>240
森可成は織田信長の柴田以前からの家臣だ
ボケが
脳みそウジわいているんじゃないのか?
桶狭間の戦いでも主力だ
信長がまだ天下統一もしていない時のわずか17歳の森乱に5万石の城主にしてんのに特別扱いではないとかねーから。 1万2千の兵相手に逃げもせずに戦った蘭丸をほめてやるべきだろう >>240
こいつは池田厨だろ
どこかのカルトが調子がいいので池田を無理やり戦国時代の織田の筆頭家老にでもしたいんだろ
そのために信長のために命を懸けて守り抜いた森蘭丸の美談を貶してばかりいる
腐りきった奴だ
現代でも日本を影で裏切っているようだから性格悪いのは遺伝しているようだな >>251
個人的な理想
信忠とお松の子と信長娘と北條氏直の子を結婚させてできた子
信長、信玄、氏康、公家三条の血を引くサラブレット >>261
二条御所には信忠だけではなく誠仁親王もいたし
本能寺並みに重要な目標でない >>271
だから信忠は妙覚寺から二条御所にはいかずにそのまま逃げるべきだった
だとすれば歴史は織田信忠の天下になっていただろう
父信長の救援に向かってしまったために二条御所でやられた 義元の首を取るとは思ってなかっただろうが、
織田家は普通に全国有数の大大名で東西の交通の要衝も抑えるキーパーソン
信長が並以上の能力の持ち主なら順当な結果 >>271
誠仁親王は危ないから戦いの前に追い出されている >>275
その拠点は古くからの拠点かどうか不明
むしろ一時的な拠点であって、長く在城していたわけじゃないんじゃないかって気がするんだが、どうだろ? >>269
現代に生まれれば、今川真司として外国勢を叩きのめしてるよWW 織田弾正家は信長の祖父、織田信定が勝幡城を築城し拠点としてから
織田弾正家にとって勝幡が一番長期になる。 信秀の代になってから信秀が勝幡に住んでた期間って短いだろ
信長に至っては、勝幡に住んでた時期なんてほとんど無い 信秀こそ勝幡の主だろう。生まれてから尾張統一を実現する為、愛知郡出進を果たすまで
居城した城だろう。その子、信長を自分の後継者として一目置いた年齢まで同城していた
のは間違いない。 尾張、美濃を制した段階で畿内には信長に対抗できる有力大名がおらず、いち早く畿内を制圧できたからだろ? >>281
おいおい
古渡城主だった時代やら末盛城主だった時代、(ひょっとすると)那古野城主だった時代のことは無視か
あと、守山にも信秀の屋敷(別邸か?)があったよな。 >>276
信長信忠誠仁
政権中枢のうち二人死亡
一人は退去
初日は正に光秀圧勝だな >>284
誠仁親王は戦場となった二条御所から退去しただけで洛中にいるし
だいたい当時の天皇は正親町天皇で正親町天皇自身は一貫して内裏にいたじゃん >>285確かに二条御所から親織田派皇族や公家を退去させるのには成功したように見えるが、信忠と光秀の話し合いの結果だしな
天皇を含め朝廷を人質にしたわけではなく 挙げ句近衛前久には逃げられる始末
まあその後は明智シンパな吉田兼見たちを従えたから 一応 内裏を管理下にはおけたみたいだが 疑問がある。今川義元が討ちとら
れて何故総退却するのか。後方に
四万の軍勢がいるなら副将に
織田軍に突撃すればいいものを。
それとも影武者すら用意していな
かったのか。大将がやられたから
といって全軍駿河かよ。 あの時代で他国への侵攻中に総大将が死んで退却しなかった例はあるのか? >>287
松平清康の死亡時と比べたら、今川軍はずいぶんと整然とした適切な退却とは思うんだよな
出先で、戦場に出ないうちに前夜の死亡だったにもかかわらず、混乱壊滅してはるばると城下町まで攻め込まれた清康の無様さは、
桶狭間当時の今川軍とは比較にならないよ。 どちらにせよ。酒盛りなんぞ
始めるから尾張まとめなんか
勝家なんかとしていた駆け出し
の若手に大敗。湯漬け>>>>>吟醸 >>291今川義元の
桶狭間酒盛りとか
後世の俗説だがな 今川とは比べ物にならない大勢力を持っていた織田だって本能寺で信長が死んだだけで壊滅した。 信忠が生きていたら、秀吉に簒奪されなかっただろうにな 家康を関東軍の盾に使わなきゃ上洛も
、石山、伊勢長島らとの伝説もなく
尾張は、義元ならずとも信玄、氏康
に落ちていたはず。しかし家康に全部
持っていかれた。 いやいや、桶狭間後ごろは、信長が故義元を尊重する動きもあったんだし、
氏真と講和して北進しようとしてただけの、史実と大差ない動きに終わってた可能性もある。 同盟ってなんぞや?物品の受け渡し
でもするのか?今川、武田、北条の
不可侵条約について上洛時、信長
にしてやられた時には全くといって
役に立たない。駿府を数年保守した
のみ。 東海道は家康、信玄コンビにかすめ獲られた。しかし、結局、甲斐、信濃も信長のものになったが。すべて1582年までの天下布武ストーリーでしかない。三法師など
含め織田の一族は殆ど信長死後、その存在なはない。つまり >>300
もうちょっとマトモな言葉で書いてもらえませんかね どうも、ジンギスカンの手口に似ているな。
信長は世界を見ていた。
日本の狭い地域の利害関係、仏教の利権、そんな旧来の体制は邪魔物でしかなかった。
信長は天才。それに比べれば、秀吉も家康も凡人。 信長の政権は最初は幕府、次に朝廷を後ろ楯として
狭い地域の利害関係の上に成立していている
敵対していなかった仏教勢力には寛大だった
他の戦国大名よりも政治面で天才的だったところがあれば教えて欲しい >>304
バランス感覚が急成長に向いてた
反面、謀反対策が甘々
内政の先進性とかは見当たらないかも 今川義元を討ち取ったことで、
得した事は、家康を三河で独立
させ同盟し三方原の信玄の攻めや
信玄上洛までの東国の憂い、備え
にした事かな。別に今川軍を織田軍
に組み入れた訳ではないし。
斎藤義竜の美濃、墨俣の一夜城、
稲葉山攻略には、桶狭間の勢いは
既に無く。単に大軍を撃退しただけ
ではないか。しかし現在も室町幕府
の形態である京都や大阪を都とする
素晴らしい信長の偉業と言える。
江戸幕府は関東幕府。1603年より
江戸が都だが。もし北条が鎌倉幕府
にしていたら関西は廃れたままです。 今川の外様で大手の家臣のうちで最も自領に近い位置の松平を離反させたのと、
それより小規模ながら尾張国内で離反して今川方に走ってた連中をつぶせたのが桶狭間の主な戦果だろ、これで得た領地はかなり大きかったはずで、かなりの戦果じゃん
松平を今川から離反させてなかったら、かなりの苦境だったんじゃないか。 領土拡大に繋がってません。尾張内
の造反は別に今川関係なく統治出来た
はずです。むしろ桶狭間は信長軍の
兵士も減らした訳であり。松平元信
さんを東方の盾に使えた成果ですが
義元討死→松平独立の過程は拙者
勉強不足の故わかりませぬ。 今川の西進に従って尾張国内の造反が進行した、造反組が軒並み今川に従属した点を考えないと駄目だぞ
この造反組を鎮圧するには今川を部分的であれ倒す必要があった。
義元本人をヌッコロスほどの戦果まで必要だったわけではないが、なんらかの勝利を挙げる必要があった。
松平独立のきっかけは義元討ち死にだ。
桶狭間の時までは今川家のために熱心に戦ってきた松平が、桶狭間の翌月ぐらいから、織田方との戦いを停止して今川領の城だけと戦うようになった。
また、尾張国内のいくつかの要地に今川直臣の武将が入城してる城もあった、特に鳴海城とかな。
桶狭間で今川軍敗走の後日、退城交渉の末に城を明け渡して去ってくれたけど、これが残ってたら尾張南部の再平定にかなり支障があっただろう。 今川氏真ら1560年健在。さらに
駿府には四万近い軍勢を残して
いたのに、何で松平独立出来たのか
相撲や野球じゃあるまいし。
よくわからん。桶狭間は大将義元
が尾張田楽狭間で酒盛り中奇襲
されたのみ。結局独立しても三河
一国。兵も一万にみたりず >>310
>何で松平独立出来たのか
のれん分けじゃないんだから、独立するというのは反旗を翻すってことだわな。許可なんか取らん。
今川家は継承時に統治上の問題が出て国内ごたごたがあったから、全力で松平をつぶしに行くことができなかった。
それでも近隣の諸豪族に命じて松平つぶしをさせようとしたのが、後の記録では「三河一向一揆」という形で残ってるわけ
あれはホントは一向一揆じゃないよ。今川家に従ってた武士たちが松平と戦ったのを、
家康は今川を裏切って勝手に独立したんじゃないということにするために一向一揆だったことにしただけ。
もちろん、独立当初の松平氏は三河のうちでもごく一部しか領有してない。三河全土を手中に収めるまでに10年ほど戦ったはずだ 氏真の器量を見限ったのかな?
後日高家にしてるくらいだから悪い感情はなかっただろうけど、
この人の下はちょっと、ってところだろうか。
織田家の人質時代に信長と触れ合っていたのも
大きかったかな。 以前は桶狭間後しばらくの間、元康は今川とも織田とも争ってたと言われてたけど、
近年のある検討によって、桶狭間以後に元康が攻め込んだ土地は全部今川方拠点だったと言われるようになった
攻め込んだ先が尾張国内の場合は織田方拠点だったと、従来は勘違いされてた模様
桶狭間の戦いがあった前後には尾張国内に今川方拠点が少なからずあったことが、従来は考慮されてなかったんだよな
そのあたりの戦況から考えて、元康が氏真と戦う姿勢を示したのは桶狭間戦から2ヶ月以内、
見限ったからと言うよりは、チャンスを見つけたから独立したって感じじゃないかな 長年かかった岐阜攻略とか、
あっちこっちの水漏れを直して回ってるような元亀騒乱とか
信長は我慢強いというか、執念深いよね 桶狭間の勝利により尾張の小豪族も信長の完全配下になったのが大きい
これで岐阜攻略にいけるからね
ただ伊勢の方が弱小勢力だったから先に攻略した方がいいと思った 家康は桶狭間後、信長追撃を氏真に
促したらしい。氏真「桶狭間でオヤジ
が討たれてコリゴリだ」家康「見損な
ったぜ」信長「家康。久しぶりやな
俺と仲間になろうぜ」この会話は。 といっても、桶狭間戦後の家康の軍事行動、攻撃遠征先をよく調べてみると、ぜんぶ今川方拠点だったみたいでなあ。
氏真とそういう交渉をするほど時間が経ってない早期から今川と決別してたと考えるべき。 いんや、家康は信長を追撃する気
マンマンだったのは、今川の家来
として松平の主従に責任感が
あったはず。しかし信長の誘いに
何故か乗ったのか。理由は氏真が
暗君と見抜いたからやな。結局は
家康は東海の治安、平定に全力を
注いだ。しかしそれがねーいつの
まにか、信長と天下を二分し太閤
の五大老を勤めあげ戦国最後の
天下人になろうとは。信長の安土
桃山時代も家康あってのもんだし。 桶狭間の戦いの頃には、尾張国内にはまだまだ今川方拠点がたくさんあってな、
桶狭間戦後に松平氏が攻め込んだ尾張国内の諸城ってのが、桶狭間の戦い以前に今川方に属していたとこばっかりだったんだよ 今川方に着いていた諸城が織田方に日和見した…という風には考えられないかね。 >>316
尾張と伊勢の間には木曽三川があるからね
江戸時代でも海上ルートを通るしかなかったし、新幹線が今のルートになったのも
地盤が軟弱で大規模な構造物を造れなかったから
伊勢を完全に制圧できたのは九鬼が配下に加わってから
同様のことは北条と里見にも言えるけど 尾張美濃伊勢は各50万石だから
この三国を穫れれば単独で敵対出来る勢力はなかなか居ませんね
今川撃退と美濃穫りまでがしんどかっただけで後は作業ゲー
家臣の忠誠上げを怠ったのが敗因 桶狭間合戦と駿河三浦家
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n341132
これ面白かった
桶狭間の戦闘って実際どうだったんだろって思ってたけど
なんかわかりやすくてすんなり飲み込めた 信長は尾張統一で、柴田勝家らとの戦でかなり戦略的にも
鍛えられたはず。家臣ならば主命に従わなければならぬが
尾張二手に分かれていたので。有能な家臣の、なぁなぁ
ではなく。つまり、尾張お家騒動により信長軍は強化され
ていたのも圧倒的兵力差のある今川
義元軍を退けた。 理 由かも知れん。 >>326 そのサイト、説がルーズじゃん。途中でうんざり。 再来年の大河の桶狭間は大河史上最も血なまぐさい桶狭間になりそうだな まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 単に、海道一の弓取りの今川を倒したという事で信長軍
の士気が上がり。諸大名の兵は桶狭間の二の舞になるの
では無いかと。更に信長は自分の経験を生かし少数の兵
相手にも注意を払ったので、1581年頃は越後、小田原、
備中攻略に至る直前まで快進撃をしたが、室町ラスト将軍の
足利義昭や本願寺、伊勢長島の一向門徒に恨まれていたの
が覇号強権が実現しなかった理由。 銃を大量に購入する財力があって、大量に購入したからだろ。
信長ほど大量に銃を導入した大名はいない。
それまでの戦いは、中距離で弓矢戦があって、その後に槍、最後は刀だった。
その前段階で銃が使えれば圧倒的に有利になるし、銃を何段階にも分けて
中距離戦でも使えたとなれば、絶対有利だよ。 >>334
球形の玉を撃つ火縄銃は現代の銃器と違って弾道が安定しなかったから、狙って打てる距離は近距離だけだぞ
長槍よりは2倍ぐらい遠くまで届く程度、3倍以上ではない
といっても、弓もさほど遠くまで打つものではないとされてたけど、
それでも鉄砲よりは遠くまで届く >>334 なんで、雑賀党は3000丁もの鉄砲を持っていたんだろう? >>334
ハード面では強いわな。
しかし肝心の信長自身が家中をまとめられないからどうしようもない。
普通強大な勢力になればなるほど周りは靡くが、信長は味方が次々と離脱している。 桶狭間は、スパイに拠る情報攪乱で義元暗殺が真相だし
美濃は、攻略前に道三が殺されててるし
信玄は、三ケ方原の直後暗殺されてるし
謙信も手取川の後暗殺されてるし
元就も中国遠征の直前に暗殺されてる
結局、信長に仕えた赤影のお蔭 >>339
根来十三忍を率いる暗闇鬼堂がもっと頑張ってれば
松永久秀が天下とってたのにな >>340
三人衆との戦いが苦しくなったからと、未だ美濃制圧も終わってなかった頃の信長に救援要請を出した零細大名が天下取りとか、ありえへん 桶狭間の後、今川の敗残兵を部隊に組み込んだからじゃないの? >>336
製鉄民か製鉄民にパイプがあるか、じゃない? 信長の近畿統一に関しては、あまり高校の入試問題には
出てこないね。北畠、六角、三好、雑賀 等について。
出てくるのは浅井、浅倉、義昭ぐらいで。近畿には一向宗
が多いんだよ。多分今も因縁があるからか伊勢長島や石山
本願寺などについてもあまり触れられていない。 >>41
亀だけど尾張はまさにそうやって生産力を急速に増大させた土地
伊勢湾の干拓が始まって可耕面積が広がったのがちょうどこの頃
前田利家の生まれた荒子城は言うなればフロンティアの最前線 >>342
組み込んでない。今川方の軍兵は、逃げ帰ったヤツらを除けば交渉で開城して帰国しただろ
(立て籠もって抵抗を続けたのが少数派で逃げ帰ったのが多数派だが)
>>336
雑賀は非常に豊かで栄えた街だったから多くの鉄砲を持ってたんじゃないのか。 信長の楽市楽座ってどれくらいの規模、業種でやってたのかな
20年以上前の岐阜県の教科書の副読本で、信長でなく信孝だけど
材木座を認める書状が乗っていた(たぶん岐阜市歴史館あたりにあると思う)
領内すべてですべての業種でやってたと思ってたのであれ、と思った記憶がある
スレ違いでしょうか 楽市・楽座は有名だが収益については南蛮貿易と違い特に
営利目的では無く、 元斎藤、浅井、浅倉家の領民に対するカーニバル的な要素
であると思う。しかし出物や美術品でも特に秀逸なものは
官位を得るために朝廷に献上したかコレクションにしたか。 美濃平定までは時間がかかったけど、それ以降は快進撃といって差し支えないだろ そうでもない
味方から裏切り者はボロボロ出てきてはそれを潰すの繰り返しだろ
挙句の果てにそれで命をとられるわけでして 単に1560年って区切りのためじゃないのか。それを言った
らおしまいだが。快進撃って長篠の戦いぐらいまでか?
毛利、上杉攻略は手をこまねていたはずだが。 名門北畠の名跡を手に入れたから
北畠織田信雄が鎮守大将軍として東国に柳営を開くのも時間の問題
西国は三好を手に入れた三好織田信孝が支配
織田信忠は太政大臣として織田本体の家督をつぐこととなる 美濃平定以後、上洛まで一気に進んだのは単に地政学的問題。
今川が弱体化して三河は味方、北条は関係ない、武田のみが強敵だけど武田は周辺敵だらけで身動き取れない。
織田は全国でも屈指の大大名で周囲に脅威がない状態。 とは言え、三好長慶が勢力を保っていたら、同盟者同士だから厄介な
外交上の駆け引きが必要だっただろう。信長の隠れた幸運は、三好長慶が
死に、三好党が解体したこと。これで厄介な外交努力が不要となった。 当時はもう単独で織田に対抗できる勢力なんて存在しなかったもんな
だから武田も包囲網を組んで対抗しようとしたわけだし 単に1560年代年齢が盛りだからじゃねーか。信玄や謙信、
氏康よりだいぶ若い。 >>1
> なぜ桶狭間の戦いの後、信長の快進撃が続いたのか?
たしかに全国から見ても番狂わせの戦いだったけど、一大名が天下を取るまで
のし上がるまでの出来事とは思えない なにが他の大名と違ったんだろ?//
桶狭間の戦術が、その後の諸政策やそれ以前の尾張統一の手腕同様、天下を取るまでの才質の結果だったんだと思うな。
今川義元が桶狭間で行軍を停止したのを偶々感知して急襲出来たのではないんじゃないかな。
祖父の今川義忠という人も塩買坂で似た様な最期を遂げているのだが、これを徹底的に研究して再現したんだと思う。
それと、信長様の十八番は敦盛で、国境への進撃前にも一指しやってるのは有名だ。
平敦盛は一の谷合戦で戦死しているんだが、これは裏手からの逆落としでの急襲だった。
桶狭間での戦術に通じるものがあるね。信長様は義元を敦盛に見立てていたんだと思う。 いやそもそも美濃落とすまで苦労してるだろw
アホの斎藤龍興相手でも数年かけて攻略してる。
美濃を落とせたのは清洲同盟で背後が安定したことと有能だった斎藤義龍が死んでくれたおかげ。
快進撃は運良く戦国時代の超大国を2つ手に入れてから。 >>359
年齢っていっても信長と同年代の大名でも、戦国レースから転げ落ちているわけで、
結局は才覚の問題でしょ >>361
> いやそもそも美濃落とすまで苦労してるだろw アホの斎藤龍興相手でも数年かけて攻略してる//
はァ? そりゃ>>360に対してかね。
尾張を挙げて義元に抗する事も可能だったんだろうが、そんな手間暇かける訳には遺憾から急襲で片付けたんだろうよ。
むろん、その手間暇は美濃に向けざるを得ないとも考えたんだろうさ、信長様は。
> 有能だった斎藤義龍が死んでくれたおかげ//
そうは思わんね。義龍が肥沃な尾張に野心を見せたなら、義元の時と同様な手口を考えたんだろうね。
穴熊には穴熊なりの退治法を選んだて事だよ。
> 快進撃は運良く戦国時代の超大国を2つ手に入れてから//
超大国は運良く手には入らない。 美濃攻略も苦労してるし、伊勢長島とか足元の一揆にも苦労してる
石山本願寺を下して以降の最後の1〜2年でしょ
この辺は他の戦国大名と量的な差はあっても質的にさほど差はない >>364
> 美濃攻略も苦労してるし、伊勢長島とか足元の一揆にも苦労してる//
そりゃ誰だって苦労するでしょ、凡愚ともどもさ。キミは苦労はキライかね。
> 石山本願寺を下して以降の最後の1〜2年でしょ//
一向宗は適当に利用もしてるでしょ、越前とかでさ。
騒乱承知で朝倉残党に任せて、果たして越前は宗教コミューンの以たる焼土と化した。
満を持して武闘派の二番家老を送り込んでいる(最高幹部は佐久間信盛だ、桶狭間の頃からその失脚までは)。
> この辺は他の戦国大名と量的な差はあっても質的にさほど差はない//
だが、結果は大差がついたんだから、運が良かったで片付ける訳にはいかないね。 >>365 エヴァ下痢坊主
・・・アホが必死に「江戸の仇を長崎で討つ」を画策してますwww
よしんば他のスレでお前がどれだけ良い事言っても
ここまで晒したアホの自爆劇場は消えないからwwwwwwwww 今川義元を討ったという尾ひれで、小大名は信長軍が精鋭
猛者の集まりと戦意を喪失したはずだ。 北畠や六角には
真似出来ない。というかチャンスが無かったのだろうが
信長は時の利を得ていたとなる。 >>363
義龍も信長同様に域内統一に手間取って苦しんだってだけだよな
信長が道三救援の時以外には美濃国内に攻め込むことをせず尾張国内統一を優先したのに対し、
義龍は国内統一より尾張国内に居る同盟者の救援を優先して信長の国内統一を邪魔するだけだったせいで美濃統一が遅れたんじゃね?
早く美濃国内を統一できてたら義龍が尾張に攻め込む可能性が高かったと思うよ
それよりさ、信長って美濃攻略を始めた頃には浅井氏はもちろん朝倉氏とも仲良くやってたんじゃなかったっけ。
美濃に接する全地域の大名と同盟して包囲しながら攻略したんじゃないの? >>371
> 美濃に接する全地域の大名と同盟して包囲しながら攻略したんじゃないの?//
そりゃ父の信秀が失敗してるだろ。てか、道三の台頭は四周勢力を排除したからだ。
> 信長が道三救援の時以外には美濃国内に攻め込むことをせず・・・
早く美濃国内を統一できてたら義龍が尾張に攻め込む可能性が高かったと思うよ//
道三義龍の交戦は美濃の内乱だろ。つまり美濃は統一されていたって事になる。
てか、オメは一体何を云ってるのかね、タラレバうざい、って以前にさ。
>>370 > 今川義元を討ったという尾ひれで//
運だけじゃなかったんだよ、てか、何でもかんでも運が良かったで片付けるのは思考停止だね。 浅井長政が背いた時、下手すりゃ、信長 秀吉 家康 が揃ってあの世
逝きっていう展開もあったんだなとふと思う。 殿軍がいてくれてたからやな。浅倉と浅井に包囲された
からな。しかし浅井長政も京に信長を上洛されたのに
結局背いたから近江を信長にあげたようなもの。秀吉と
光秀で半分こにした。 >>274 信長も長田忠致の源義朝よろしく朽木元網に殺されていたかも知れなかった >>365
天下人が部下に殺されたのは不運で片付けるんだろw >>376 > 天下人が部下に殺されたのは不運で片付けるんだろw//
はァ? 幸運と不運って物質収支が成立するのかね。
むしろ、実力で勝ち取った物を不意に失ってこその不運だろうが。
なお、丹羽長秀は当初、明智光秀の協力者だったみたいだね。
お猿さんの予想外の帰京にアワ喰って、口封じに狂奔してるしさ。
>>373 > 浅井長政が背いた時//
ある程度想定してたのと違うか? てか、担保確認だったのと違うかいな。
初めての集団自衛権行使で盲信って方が不自然だし、貰ったのではなく呉れて遣った人質では担保とは云えないんだし。 こういう事、あるでしょ
「オレとオマエ、実際に会った事もない。話した事もないだろ?」 農民というか、
他の職も兼ねているような人
一部そのような人達がいたでしょ
祭祀関係者? >>380 > なぜ農民の方が偉いんだ?と思っている人もいるよ//
そりゃ直接納税者なんだもん。
>>378 > 本当に妄想ばかりだな//
何でもかんでも運が良かっただけ、てのが思考停止の妄想に他ならん。
丹羽長秀に関しては(>>377後段)不自然すぎだろ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E7%BE%BD%E9%95%B7%E7%A7%80
> 若狭では武田元明が明智方について没落・・・明智光秀の娘婿にあたる津田信澄を共謀者とみなして殺害//
口封じとしか思えんのだがな。京極高次は取り逃がした様だがね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%A5%B5%E9%AB%98%E6%AC%A1
> 高次は妹の竜子が嫁いでいた若狭国の武田元明と共に光秀に与し、羽柴秀吉の居城である長浜城を攻めるが・・・
竜子の嘆願などにより、高次は許されて秀吉に仕えることとなり//
若狭って云わば丹羽長秀の領国だよね。京極兄妹って生き証人だたんだろうさ。
清洲会議での丹羽長秀の挙動も得心がいくってもんだ。 信長が大勢力を得たのは実力で部下に背かれたのは不運
んなバカなw
最後まで部下を押さえきれない程度の実力だっただけ。 >>385 > 信長が大勢力を得たのは実力で部下に背かれたのは不運 んなバカなw//
莫迦は運が良くて大勢力、なんて云ってるオメだろ普通にさ。
> 最後まで部下を押さえきれない程度の実力だっただけ//
部下って別段、マイコン受けてるわけじゃないだろ。
オメには部下ってのがいなさそうなのと、誰ぞのアフォな部下だった経歴くらいしかなさそうなのがモロバレだよ藁 いくらほざいたって信長が天下をとれなかった事実は変わらんけどなw
お前が事実を認めることが出来ない妄想厨であることモロバレ
早く現実を直視しろよ >>387
> いくらほざいたって信長が天下をとれなかった事実は変わらんけどなw//
はァ? それがオメの論点なのかね。ならばコミュ障のオメが転訛を取ればよかろ、簡単だろ、何時ものように妄想に耽るだけでエエんだしさ。 !!注意換気!!
※常識的に事実でなければこの様な内容は書けません!
極悪人、押川定和の被害にご注意下さい。
我々は水戸のサポーターや関係者で押川定和の悪事の被害者を中心に集った団体だ。8割ぐらいはメインスタンドで観戦している。
押川定和は
『ゴール裏で戦う会』
のリーダーで元鹿島サポーター。
SNSで数千もの架空アカウントを作り水戸の関係者の情報を盗み出し個人のSNSを炎上させるなど攻撃を仕掛ける。
SNSで限界になると人を利用して情報を盗み出す。その人がその後どうなろうがお構い無しの使い捨て。押川に誰が騙されて巻き込まれるか分かりません。
皆さん注意して下さい。
Twitter、Facebook、mixi、超水戸、ニコニコ動画など可能な範囲で全てで悪行を行っている。
『悪行の事実を突き付けると全てを自演や同一扱いで煙に巻こうとする。』
悪行が事実の為、表舞台には出れないが2ちゃんねるで反応はする。
水戸の関係者になりすまして未だに水戸スレに書き込み続けている。
現在は悪事が公に広まり鹿島には行けなくなる。しかしながな水戸への悪行は続行中。
押川定和の悪事は犯罪の領域に達している。
押川は現在、悪事が公に広まり鹿島には行けなくなる。しかしながな水戸への悪行は続行中。
勤め先・株式会社WEIC(ウェイク)104-0053
東京都中央区3-1
http://www.ntt.com/bizhosting-basic/data/case2_1.html 舛添要一 吉川美鈴エァクレーレン社長と卵サンドの行方が悲しい・・ 」
の記事を投稿しました http://r10.to/hbYy9L 舛添要一と出版社社長の間にいる女取締役の正体が ヤ バ す ぎ る !!!
と ん で も な い 新事実が次々暴露キタ━━━━━(°∀°)━━━━━! !!
https://www.youtube.com/watch?v=gggGKs88xA8 なんか今川と織田とではそこまでの石高に差は無かったってことになってるけど、これマジ?
小国が大国を破ったと思い込んでたわ 普通に名古屋と静岡行けば解る。名古屋駅の高島屋でも何でもいいけど見下ろせば
遥かにだだっぴろい。犬山城から見下ろせばもっとだ。その点静岡は清水港から
見ても山が見える位。最も余りだだっ広いと各地へ予備兵力を置かなければならない
のでやはり桶狭間はそれなりの大勝であったには違いないだろう。 >>393
今川は駿河・三河・遠江の3国を支配して70万石
織田は尾張1国で57万石
今川義元のほうは他に甲斐・信濃を支配する武田
関東一円を支配する後北条と三国軍事同盟を結んでたからね
桶狭間後は三河の松平元康がいち早く今川から離反し織田に通じ
武田までが三国軍事同盟を破棄して織田から嫁をもらい今川に侵攻してくるが >>394
だから信長は予備兵力の大部分を城に残したまま
三千程度の足腰に自信のある若者たちを
付いてこれる者だけ付いて来いと駆り出して
桶狭間で奇襲攻撃したのだろう
だだっ広い平野では勝てないから狭間でやったわけで >>393
経済力は熱田の港を押さえてた信長が強かったんじゃないかな?
それにしては桶狭間の三千人って動員は少なすぎる。
実際は一万はいたのでは? 土地の広さで言えば、今川の領土ってだだっ広いけど、石高はそこまでじゃないんだよな 未開の地が多かったのでは?
富士山近辺なんて今とは比べ物にならないぐらい樹海が広がってただろうし >>398
江戸時代は大阪・伊勢と関東を結ぶ東海道航路があったから豊かだったけど
今川さんの時代は関東はまだ田舎だったからね
もし桶狭間が無くて、今川が熱田を抑えたら
愛知から静岡の海岸線のラインが日本の中心部になっていたかもな 戦国大名は有力武装地方領主、地侍の合従連合連立だった
有能当主が死ねば直系子孫が必ずしも当主になれなかった
勢力図ガラガラ変わったのが一つの証左だろう
地侍連立に頼らず、次男三男で固めた信長親衛隊作った
各方面部隊指揮官も能力主義だったのも証明根拠 >>401
訂正
直系子孫が(*有力大名家を継げても*)必ずしも(*領地全部継承*)当主になれなかった いや静岡狭いって・・・藤枝とか行ってみ。海、盆地、山だよ。まともなのは浜松
位じゃないの。 樹海のどこを開拓しろ、と。白糸の滝越えたら林しかない。今道路通っているだけ
マシ。w >>404
樹海だが、富士山の火山灰の影響で水はけが良いので畑作しかないが、
さて、何を作るのだろうか・・・・・。
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