なぜ桶狭間の戦いの後、信長の快進撃が続いたのか?
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たしかに全国から見ても番狂わせの戦いだったけど、一大名が天下を取るまで
のし上がるまでの出来事とは思えない なにが他の大名と違ったんだろ? >>257
本能寺側が何時間も戦ってたなんて記述あったか? 尾張ってカリスマ的リーダーの下で結束する観があるなぁ。
これは現代にも通じていて昭和初期の中京商業野球などの球歴などから
そんな気がする。 >>240
アホなんじゃねえか?お前は?
>信長があっけなく殺られているんだから意味ねーよw
信長もまさか身内から攻撃されるとは知らずに本能寺にいた
攻撃があると知っていれば信長も初めから二条御所にいるわ、ボケが
それに信長側なんて鎧もつけずにみな軽装で森蘭丸がいくら強くても武装した1万2千の兵相手に100人以下が勝てるわけねえだろうが
まじでアホなのか?
信忠が攻撃を受けたのは本能寺が攻撃を受けて炎上してからで防御力のある二条御所(二条城)へ移動する時間も鎧をつける時間もあった
それでも1時間ちょいしか持たなかった
そもそも明智光秀は信長だけは仕留めないといけないから初めはそちらにすべてを集中させている
信忠がいた妙覚寺はそもそも眼中にはなく信長がいた本能寺が主体だったのさえわからんとはバカか?
適当な事を言ってんじゃねーよ、アホが >>240
森可成は織田信長の柴田以前からの家臣だ
ボケが
脳みそウジわいているんじゃないのか?
桶狭間の戦いでも主力だ
信長がまだ天下統一もしていない時のわずか17歳の森乱に5万石の城主にしてんのに特別扱いではないとかねーから。 1万2千の兵相手に逃げもせずに戦った蘭丸をほめてやるべきだろう >>240
こいつは池田厨だろ
どこかのカルトが調子がいいので池田を無理やり戦国時代の織田の筆頭家老にでもしたいんだろ
そのために信長のために命を懸けて守り抜いた森蘭丸の美談を貶してばかりいる
腐りきった奴だ
現代でも日本を影で裏切っているようだから性格悪いのは遺伝しているようだな >>251
個人的な理想
信忠とお松の子と信長娘と北條氏直の子を結婚させてできた子
信長、信玄、氏康、公家三条の血を引くサラブレット >>261
二条御所には信忠だけではなく誠仁親王もいたし
本能寺並みに重要な目標でない >>271
だから信忠は妙覚寺から二条御所にはいかずにそのまま逃げるべきだった
だとすれば歴史は織田信忠の天下になっていただろう
父信長の救援に向かってしまったために二条御所でやられた 義元の首を取るとは思ってなかっただろうが、
織田家は普通に全国有数の大大名で東西の交通の要衝も抑えるキーパーソン
信長が並以上の能力の持ち主なら順当な結果 >>271
誠仁親王は危ないから戦いの前に追い出されている >>275
その拠点は古くからの拠点かどうか不明
むしろ一時的な拠点であって、長く在城していたわけじゃないんじゃないかって気がするんだが、どうだろ? >>269
現代に生まれれば、今川真司として外国勢を叩きのめしてるよWW 織田弾正家は信長の祖父、織田信定が勝幡城を築城し拠点としてから
織田弾正家にとって勝幡が一番長期になる。 信秀の代になってから信秀が勝幡に住んでた期間って短いだろ
信長に至っては、勝幡に住んでた時期なんてほとんど無い 信秀こそ勝幡の主だろう。生まれてから尾張統一を実現する為、愛知郡出進を果たすまで
居城した城だろう。その子、信長を自分の後継者として一目置いた年齢まで同城していた
のは間違いない。 尾張、美濃を制した段階で畿内には信長に対抗できる有力大名がおらず、いち早く畿内を制圧できたからだろ? >>281
おいおい
古渡城主だった時代やら末盛城主だった時代、(ひょっとすると)那古野城主だった時代のことは無視か
あと、守山にも信秀の屋敷(別邸か?)があったよな。 >>276
信長信忠誠仁
政権中枢のうち二人死亡
一人は退去
初日は正に光秀圧勝だな >>284
誠仁親王は戦場となった二条御所から退去しただけで洛中にいるし
だいたい当時の天皇は正親町天皇で正親町天皇自身は一貫して内裏にいたじゃん >>285確かに二条御所から親織田派皇族や公家を退去させるのには成功したように見えるが、信忠と光秀の話し合いの結果だしな
天皇を含め朝廷を人質にしたわけではなく 挙げ句近衛前久には逃げられる始末
まあその後は明智シンパな吉田兼見たちを従えたから 一応 内裏を管理下にはおけたみたいだが 疑問がある。今川義元が討ちとら
れて何故総退却するのか。後方に
四万の軍勢がいるなら副将に
織田軍に突撃すればいいものを。
それとも影武者すら用意していな
かったのか。大将がやられたから
といって全軍駿河かよ。 あの時代で他国への侵攻中に総大将が死んで退却しなかった例はあるのか? >>287
松平清康の死亡時と比べたら、今川軍はずいぶんと整然とした適切な退却とは思うんだよな
出先で、戦場に出ないうちに前夜の死亡だったにもかかわらず、混乱壊滅してはるばると城下町まで攻め込まれた清康の無様さは、
桶狭間当時の今川軍とは比較にならないよ。 どちらにせよ。酒盛りなんぞ
始めるから尾張まとめなんか
勝家なんかとしていた駆け出し
の若手に大敗。湯漬け>>>>>吟醸 >>291今川義元の
桶狭間酒盛りとか
後世の俗説だがな 今川とは比べ物にならない大勢力を持っていた織田だって本能寺で信長が死んだだけで壊滅した。 信忠が生きていたら、秀吉に簒奪されなかっただろうにな 家康を関東軍の盾に使わなきゃ上洛も
、石山、伊勢長島らとの伝説もなく
尾張は、義元ならずとも信玄、氏康
に落ちていたはず。しかし家康に全部
持っていかれた。 いやいや、桶狭間後ごろは、信長が故義元を尊重する動きもあったんだし、
氏真と講和して北進しようとしてただけの、史実と大差ない動きに終わってた可能性もある。 同盟ってなんぞや?物品の受け渡し
でもするのか?今川、武田、北条の
不可侵条約について上洛時、信長
にしてやられた時には全くといって
役に立たない。駿府を数年保守した
のみ。 東海道は家康、信玄コンビにかすめ獲られた。しかし、結局、甲斐、信濃も信長のものになったが。すべて1582年までの天下布武ストーリーでしかない。三法師など
含め織田の一族は殆ど信長死後、その存在なはない。つまり >>300
もうちょっとマトモな言葉で書いてもらえませんかね どうも、ジンギスカンの手口に似ているな。
信長は世界を見ていた。
日本の狭い地域の利害関係、仏教の利権、そんな旧来の体制は邪魔物でしかなかった。
信長は天才。それに比べれば、秀吉も家康も凡人。 信長の政権は最初は幕府、次に朝廷を後ろ楯として
狭い地域の利害関係の上に成立していている
敵対していなかった仏教勢力には寛大だった
他の戦国大名よりも政治面で天才的だったところがあれば教えて欲しい >>304
バランス感覚が急成長に向いてた
反面、謀反対策が甘々
内政の先進性とかは見当たらないかも 今川義元を討ち取ったことで、
得した事は、家康を三河で独立
させ同盟し三方原の信玄の攻めや
信玄上洛までの東国の憂い、備え
にした事かな。別に今川軍を織田軍
に組み入れた訳ではないし。
斎藤義竜の美濃、墨俣の一夜城、
稲葉山攻略には、桶狭間の勢いは
既に無く。単に大軍を撃退しただけ
ではないか。しかし現在も室町幕府
の形態である京都や大阪を都とする
素晴らしい信長の偉業と言える。
江戸幕府は関東幕府。1603年より
江戸が都だが。もし北条が鎌倉幕府
にしていたら関西は廃れたままです。 今川の外様で大手の家臣のうちで最も自領に近い位置の松平を離反させたのと、
それより小規模ながら尾張国内で離反して今川方に走ってた連中をつぶせたのが桶狭間の主な戦果だろ、これで得た領地はかなり大きかったはずで、かなりの戦果じゃん
松平を今川から離反させてなかったら、かなりの苦境だったんじゃないか。 領土拡大に繋がってません。尾張内
の造反は別に今川関係なく統治出来た
はずです。むしろ桶狭間は信長軍の
兵士も減らした訳であり。松平元信
さんを東方の盾に使えた成果ですが
義元討死→松平独立の過程は拙者
勉強不足の故わかりませぬ。 今川の西進に従って尾張国内の造反が進行した、造反組が軒並み今川に従属した点を考えないと駄目だぞ
この造反組を鎮圧するには今川を部分的であれ倒す必要があった。
義元本人をヌッコロスほどの戦果まで必要だったわけではないが、なんらかの勝利を挙げる必要があった。
松平独立のきっかけは義元討ち死にだ。
桶狭間の時までは今川家のために熱心に戦ってきた松平が、桶狭間の翌月ぐらいから、織田方との戦いを停止して今川領の城だけと戦うようになった。
また、尾張国内のいくつかの要地に今川直臣の武将が入城してる城もあった、特に鳴海城とかな。
桶狭間で今川軍敗走の後日、退城交渉の末に城を明け渡して去ってくれたけど、これが残ってたら尾張南部の再平定にかなり支障があっただろう。 今川氏真ら1560年健在。さらに
駿府には四万近い軍勢を残して
いたのに、何で松平独立出来たのか
相撲や野球じゃあるまいし。
よくわからん。桶狭間は大将義元
が尾張田楽狭間で酒盛り中奇襲
されたのみ。結局独立しても三河
一国。兵も一万にみたりず >>310
>何で松平独立出来たのか
のれん分けじゃないんだから、独立するというのは反旗を翻すってことだわな。許可なんか取らん。
今川家は継承時に統治上の問題が出て国内ごたごたがあったから、全力で松平をつぶしに行くことができなかった。
それでも近隣の諸豪族に命じて松平つぶしをさせようとしたのが、後の記録では「三河一向一揆」という形で残ってるわけ
あれはホントは一向一揆じゃないよ。今川家に従ってた武士たちが松平と戦ったのを、
家康は今川を裏切って勝手に独立したんじゃないということにするために一向一揆だったことにしただけ。
もちろん、独立当初の松平氏は三河のうちでもごく一部しか領有してない。三河全土を手中に収めるまでに10年ほど戦ったはずだ 氏真の器量を見限ったのかな?
後日高家にしてるくらいだから悪い感情はなかっただろうけど、
この人の下はちょっと、ってところだろうか。
織田家の人質時代に信長と触れ合っていたのも
大きかったかな。 以前は桶狭間後しばらくの間、元康は今川とも織田とも争ってたと言われてたけど、
近年のある検討によって、桶狭間以後に元康が攻め込んだ土地は全部今川方拠点だったと言われるようになった
攻め込んだ先が尾張国内の場合は織田方拠点だったと、従来は勘違いされてた模様
桶狭間の戦いがあった前後には尾張国内に今川方拠点が少なからずあったことが、従来は考慮されてなかったんだよな
そのあたりの戦況から考えて、元康が氏真と戦う姿勢を示したのは桶狭間戦から2ヶ月以内、
見限ったからと言うよりは、チャンスを見つけたから独立したって感じじゃないかな 長年かかった岐阜攻略とか、
あっちこっちの水漏れを直して回ってるような元亀騒乱とか
信長は我慢強いというか、執念深いよね 桶狭間の勝利により尾張の小豪族も信長の完全配下になったのが大きい
これで岐阜攻略にいけるからね
ただ伊勢の方が弱小勢力だったから先に攻略した方がいいと思った 家康は桶狭間後、信長追撃を氏真に
促したらしい。氏真「桶狭間でオヤジ
が討たれてコリゴリだ」家康「見損な
ったぜ」信長「家康。久しぶりやな
俺と仲間になろうぜ」この会話は。 といっても、桶狭間戦後の家康の軍事行動、攻撃遠征先をよく調べてみると、ぜんぶ今川方拠点だったみたいでなあ。
氏真とそういう交渉をするほど時間が経ってない早期から今川と決別してたと考えるべき。 いんや、家康は信長を追撃する気
マンマンだったのは、今川の家来
として松平の主従に責任感が
あったはず。しかし信長の誘いに
何故か乗ったのか。理由は氏真が
暗君と見抜いたからやな。結局は
家康は東海の治安、平定に全力を
注いだ。しかしそれがねーいつの
まにか、信長と天下を二分し太閤
の五大老を勤めあげ戦国最後の
天下人になろうとは。信長の安土
桃山時代も家康あってのもんだし。 桶狭間の戦いの頃には、尾張国内にはまだまだ今川方拠点がたくさんあってな、
桶狭間戦後に松平氏が攻め込んだ尾張国内の諸城ってのが、桶狭間の戦い以前に今川方に属していたとこばっかりだったんだよ 今川方に着いていた諸城が織田方に日和見した…という風には考えられないかね。 >>316
尾張と伊勢の間には木曽三川があるからね
江戸時代でも海上ルートを通るしかなかったし、新幹線が今のルートになったのも
地盤が軟弱で大規模な構造物を造れなかったから
伊勢を完全に制圧できたのは九鬼が配下に加わってから
同様のことは北条と里見にも言えるけど 尾張美濃伊勢は各50万石だから
この三国を穫れれば単独で敵対出来る勢力はなかなか居ませんね
今川撃退と美濃穫りまでがしんどかっただけで後は作業ゲー
家臣の忠誠上げを怠ったのが敗因 桶狭間合戦と駿河三浦家
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n341132
これ面白かった
桶狭間の戦闘って実際どうだったんだろって思ってたけど
なんかわかりやすくてすんなり飲み込めた 信長は尾張統一で、柴田勝家らとの戦でかなり戦略的にも
鍛えられたはず。家臣ならば主命に従わなければならぬが
尾張二手に分かれていたので。有能な家臣の、なぁなぁ
ではなく。つまり、尾張お家騒動により信長軍は強化され
ていたのも圧倒的兵力差のある今川
義元軍を退けた。 理 由かも知れん。 >>326 そのサイト、説がルーズじゃん。途中でうんざり。 再来年の大河の桶狭間は大河史上最も血なまぐさい桶狭間になりそうだな まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 単に、海道一の弓取りの今川を倒したという事で信長軍
の士気が上がり。諸大名の兵は桶狭間の二の舞になるの
では無いかと。更に信長は自分の経験を生かし少数の兵
相手にも注意を払ったので、1581年頃は越後、小田原、
備中攻略に至る直前まで快進撃をしたが、室町ラスト将軍の
足利義昭や本願寺、伊勢長島の一向門徒に恨まれていたの
が覇号強権が実現しなかった理由。 銃を大量に購入する財力があって、大量に購入したからだろ。
信長ほど大量に銃を導入した大名はいない。
それまでの戦いは、中距離で弓矢戦があって、その後に槍、最後は刀だった。
その前段階で銃が使えれば圧倒的に有利になるし、銃を何段階にも分けて
中距離戦でも使えたとなれば、絶対有利だよ。 >>334
球形の玉を撃つ火縄銃は現代の銃器と違って弾道が安定しなかったから、狙って打てる距離は近距離だけだぞ
長槍よりは2倍ぐらい遠くまで届く程度、3倍以上ではない
といっても、弓もさほど遠くまで打つものではないとされてたけど、
それでも鉄砲よりは遠くまで届く >>334 なんで、雑賀党は3000丁もの鉄砲を持っていたんだろう? >>334
ハード面では強いわな。
しかし肝心の信長自身が家中をまとめられないからどうしようもない。
普通強大な勢力になればなるほど周りは靡くが、信長は味方が次々と離脱している。 桶狭間は、スパイに拠る情報攪乱で義元暗殺が真相だし
美濃は、攻略前に道三が殺されててるし
信玄は、三ケ方原の直後暗殺されてるし
謙信も手取川の後暗殺されてるし
元就も中国遠征の直前に暗殺されてる
結局、信長に仕えた赤影のお蔭 >>339
根来十三忍を率いる暗闇鬼堂がもっと頑張ってれば
松永久秀が天下とってたのにな >>340
三人衆との戦いが苦しくなったからと、未だ美濃制圧も終わってなかった頃の信長に救援要請を出した零細大名が天下取りとか、ありえへん 桶狭間の後、今川の敗残兵を部隊に組み込んだからじゃないの? >>336
製鉄民か製鉄民にパイプがあるか、じゃない? 信長の近畿統一に関しては、あまり高校の入試問題には
出てこないね。北畠、六角、三好、雑賀 等について。
出てくるのは浅井、浅倉、義昭ぐらいで。近畿には一向宗
が多いんだよ。多分今も因縁があるからか伊勢長島や石山
本願寺などについてもあまり触れられていない。 >>41
亀だけど尾張はまさにそうやって生産力を急速に増大させた土地
伊勢湾の干拓が始まって可耕面積が広がったのがちょうどこの頃
前田利家の生まれた荒子城は言うなればフロンティアの最前線 >>342
組み込んでない。今川方の軍兵は、逃げ帰ったヤツらを除けば交渉で開城して帰国しただろ
(立て籠もって抵抗を続けたのが少数派で逃げ帰ったのが多数派だが)
>>336
雑賀は非常に豊かで栄えた街だったから多くの鉄砲を持ってたんじゃないのか。 信長の楽市楽座ってどれくらいの規模、業種でやってたのかな
20年以上前の岐阜県の教科書の副読本で、信長でなく信孝だけど
材木座を認める書状が乗っていた(たぶん岐阜市歴史館あたりにあると思う)
領内すべてですべての業種でやってたと思ってたのであれ、と思った記憶がある
スレ違いでしょうか 楽市・楽座は有名だが収益については南蛮貿易と違い特に
営利目的では無く、 元斎藤、浅井、浅倉家の領民に対するカーニバル的な要素
であると思う。しかし出物や美術品でも特に秀逸なものは
官位を得るために朝廷に献上したかコレクションにしたか。 美濃平定までは時間がかかったけど、それ以降は快進撃といって差し支えないだろ そうでもない
味方から裏切り者はボロボロ出てきてはそれを潰すの繰り返しだろ
挙句の果てにそれで命をとられるわけでして 単に1560年って区切りのためじゃないのか。それを言った
らおしまいだが。快進撃って長篠の戦いぐらいまでか?
毛利、上杉攻略は手をこまねていたはずだが。 名門北畠の名跡を手に入れたから
北畠織田信雄が鎮守大将軍として東国に柳営を開くのも時間の問題
西国は三好を手に入れた三好織田信孝が支配
織田信忠は太政大臣として織田本体の家督をつぐこととなる 美濃平定以後、上洛まで一気に進んだのは単に地政学的問題。
今川が弱体化して三河は味方、北条は関係ない、武田のみが強敵だけど武田は周辺敵だらけで身動き取れない。
織田は全国でも屈指の大大名で周囲に脅威がない状態。 とは言え、三好長慶が勢力を保っていたら、同盟者同士だから厄介な
外交上の駆け引きが必要だっただろう。信長の隠れた幸運は、三好長慶が
死に、三好党が解体したこと。これで厄介な外交努力が不要となった。 当時はもう単独で織田に対抗できる勢力なんて存在しなかったもんな
だから武田も包囲網を組んで対抗しようとしたわけだし ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています