なぜ桶狭間の戦いの後、信長の快進撃が続いたのか?
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たしかに全国から見ても番狂わせの戦いだったけど、一大名が天下を取るまで
のし上がるまでの出来事とは思えない なにが他の大名と違ったんだろ? >>275
その拠点は古くからの拠点かどうか不明
むしろ一時的な拠点であって、長く在城していたわけじゃないんじゃないかって気がするんだが、どうだろ? >>269
現代に生まれれば、今川真司として外国勢を叩きのめしてるよWW 織田弾正家は信長の祖父、織田信定が勝幡城を築城し拠点としてから
織田弾正家にとって勝幡が一番長期になる。 信秀の代になってから信秀が勝幡に住んでた期間って短いだろ
信長に至っては、勝幡に住んでた時期なんてほとんど無い 信秀こそ勝幡の主だろう。生まれてから尾張統一を実現する為、愛知郡出進を果たすまで
居城した城だろう。その子、信長を自分の後継者として一目置いた年齢まで同城していた
のは間違いない。 尾張、美濃を制した段階で畿内には信長に対抗できる有力大名がおらず、いち早く畿内を制圧できたからだろ? >>281
おいおい
古渡城主だった時代やら末盛城主だった時代、(ひょっとすると)那古野城主だった時代のことは無視か
あと、守山にも信秀の屋敷(別邸か?)があったよな。 >>276
信長信忠誠仁
政権中枢のうち二人死亡
一人は退去
初日は正に光秀圧勝だな >>284
誠仁親王は戦場となった二条御所から退去しただけで洛中にいるし
だいたい当時の天皇は正親町天皇で正親町天皇自身は一貫して内裏にいたじゃん >>285確かに二条御所から親織田派皇族や公家を退去させるのには成功したように見えるが、信忠と光秀の話し合いの結果だしな
天皇を含め朝廷を人質にしたわけではなく 挙げ句近衛前久には逃げられる始末
まあその後は明智シンパな吉田兼見たちを従えたから 一応 内裏を管理下にはおけたみたいだが 疑問がある。今川義元が討ちとら
れて何故総退却するのか。後方に
四万の軍勢がいるなら副将に
織田軍に突撃すればいいものを。
それとも影武者すら用意していな
かったのか。大将がやられたから
といって全軍駿河かよ。 あの時代で他国への侵攻中に総大将が死んで退却しなかった例はあるのか? >>287
松平清康の死亡時と比べたら、今川軍はずいぶんと整然とした適切な退却とは思うんだよな
出先で、戦場に出ないうちに前夜の死亡だったにもかかわらず、混乱壊滅してはるばると城下町まで攻め込まれた清康の無様さは、
桶狭間当時の今川軍とは比較にならないよ。 どちらにせよ。酒盛りなんぞ
始めるから尾張まとめなんか
勝家なんかとしていた駆け出し
の若手に大敗。湯漬け>>>>>吟醸 >>291今川義元の
桶狭間酒盛りとか
後世の俗説だがな 今川とは比べ物にならない大勢力を持っていた織田だって本能寺で信長が死んだだけで壊滅した。 信忠が生きていたら、秀吉に簒奪されなかっただろうにな 家康を関東軍の盾に使わなきゃ上洛も
、石山、伊勢長島らとの伝説もなく
尾張は、義元ならずとも信玄、氏康
に落ちていたはず。しかし家康に全部
持っていかれた。 いやいや、桶狭間後ごろは、信長が故義元を尊重する動きもあったんだし、
氏真と講和して北進しようとしてただけの、史実と大差ない動きに終わってた可能性もある。 同盟ってなんぞや?物品の受け渡し
でもするのか?今川、武田、北条の
不可侵条約について上洛時、信長
にしてやられた時には全くといって
役に立たない。駿府を数年保守した
のみ。 東海道は家康、信玄コンビにかすめ獲られた。しかし、結局、甲斐、信濃も信長のものになったが。すべて1582年までの天下布武ストーリーでしかない。三法師など
含め織田の一族は殆ど信長死後、その存在なはない。つまり >>300
もうちょっとマトモな言葉で書いてもらえませんかね どうも、ジンギスカンの手口に似ているな。
信長は世界を見ていた。
日本の狭い地域の利害関係、仏教の利権、そんな旧来の体制は邪魔物でしかなかった。
信長は天才。それに比べれば、秀吉も家康も凡人。 信長の政権は最初は幕府、次に朝廷を後ろ楯として
狭い地域の利害関係の上に成立していている
敵対していなかった仏教勢力には寛大だった
他の戦国大名よりも政治面で天才的だったところがあれば教えて欲しい >>304
バランス感覚が急成長に向いてた
反面、謀反対策が甘々
内政の先進性とかは見当たらないかも 今川義元を討ち取ったことで、
得した事は、家康を三河で独立
させ同盟し三方原の信玄の攻めや
信玄上洛までの東国の憂い、備え
にした事かな。別に今川軍を織田軍
に組み入れた訳ではないし。
斎藤義竜の美濃、墨俣の一夜城、
稲葉山攻略には、桶狭間の勢いは
既に無く。単に大軍を撃退しただけ
ではないか。しかし現在も室町幕府
の形態である京都や大阪を都とする
素晴らしい信長の偉業と言える。
江戸幕府は関東幕府。1603年より
江戸が都だが。もし北条が鎌倉幕府
にしていたら関西は廃れたままです。 今川の外様で大手の家臣のうちで最も自領に近い位置の松平を離反させたのと、
それより小規模ながら尾張国内で離反して今川方に走ってた連中をつぶせたのが桶狭間の主な戦果だろ、これで得た領地はかなり大きかったはずで、かなりの戦果じゃん
松平を今川から離反させてなかったら、かなりの苦境だったんじゃないか。 領土拡大に繋がってません。尾張内
の造反は別に今川関係なく統治出来た
はずです。むしろ桶狭間は信長軍の
兵士も減らした訳であり。松平元信
さんを東方の盾に使えた成果ですが
義元討死→松平独立の過程は拙者
勉強不足の故わかりませぬ。 今川の西進に従って尾張国内の造反が進行した、造反組が軒並み今川に従属した点を考えないと駄目だぞ
この造反組を鎮圧するには今川を部分的であれ倒す必要があった。
義元本人をヌッコロスほどの戦果まで必要だったわけではないが、なんらかの勝利を挙げる必要があった。
松平独立のきっかけは義元討ち死にだ。
桶狭間の時までは今川家のために熱心に戦ってきた松平が、桶狭間の翌月ぐらいから、織田方との戦いを停止して今川領の城だけと戦うようになった。
また、尾張国内のいくつかの要地に今川直臣の武将が入城してる城もあった、特に鳴海城とかな。
桶狭間で今川軍敗走の後日、退城交渉の末に城を明け渡して去ってくれたけど、これが残ってたら尾張南部の再平定にかなり支障があっただろう。 今川氏真ら1560年健在。さらに
駿府には四万近い軍勢を残して
いたのに、何で松平独立出来たのか
相撲や野球じゃあるまいし。
よくわからん。桶狭間は大将義元
が尾張田楽狭間で酒盛り中奇襲
されたのみ。結局独立しても三河
一国。兵も一万にみたりず >>310
>何で松平独立出来たのか
のれん分けじゃないんだから、独立するというのは反旗を翻すってことだわな。許可なんか取らん。
今川家は継承時に統治上の問題が出て国内ごたごたがあったから、全力で松平をつぶしに行くことができなかった。
それでも近隣の諸豪族に命じて松平つぶしをさせようとしたのが、後の記録では「三河一向一揆」という形で残ってるわけ
あれはホントは一向一揆じゃないよ。今川家に従ってた武士たちが松平と戦ったのを、
家康は今川を裏切って勝手に独立したんじゃないということにするために一向一揆だったことにしただけ。
もちろん、独立当初の松平氏は三河のうちでもごく一部しか領有してない。三河全土を手中に収めるまでに10年ほど戦ったはずだ 氏真の器量を見限ったのかな?
後日高家にしてるくらいだから悪い感情はなかっただろうけど、
この人の下はちょっと、ってところだろうか。
織田家の人質時代に信長と触れ合っていたのも
大きかったかな。 以前は桶狭間後しばらくの間、元康は今川とも織田とも争ってたと言われてたけど、
近年のある検討によって、桶狭間以後に元康が攻め込んだ土地は全部今川方拠点だったと言われるようになった
攻め込んだ先が尾張国内の場合は織田方拠点だったと、従来は勘違いされてた模様
桶狭間の戦いがあった前後には尾張国内に今川方拠点が少なからずあったことが、従来は考慮されてなかったんだよな
そのあたりの戦況から考えて、元康が氏真と戦う姿勢を示したのは桶狭間戦から2ヶ月以内、
見限ったからと言うよりは、チャンスを見つけたから独立したって感じじゃないかな 長年かかった岐阜攻略とか、
あっちこっちの水漏れを直して回ってるような元亀騒乱とか
信長は我慢強いというか、執念深いよね 桶狭間の勝利により尾張の小豪族も信長の完全配下になったのが大きい
これで岐阜攻略にいけるからね
ただ伊勢の方が弱小勢力だったから先に攻略した方がいいと思った 家康は桶狭間後、信長追撃を氏真に
促したらしい。氏真「桶狭間でオヤジ
が討たれてコリゴリだ」家康「見損な
ったぜ」信長「家康。久しぶりやな
俺と仲間になろうぜ」この会話は。 といっても、桶狭間戦後の家康の軍事行動、攻撃遠征先をよく調べてみると、ぜんぶ今川方拠点だったみたいでなあ。
氏真とそういう交渉をするほど時間が経ってない早期から今川と決別してたと考えるべき。 いんや、家康は信長を追撃する気
マンマンだったのは、今川の家来
として松平の主従に責任感が
あったはず。しかし信長の誘いに
何故か乗ったのか。理由は氏真が
暗君と見抜いたからやな。結局は
家康は東海の治安、平定に全力を
注いだ。しかしそれがねーいつの
まにか、信長と天下を二分し太閤
の五大老を勤めあげ戦国最後の
天下人になろうとは。信長の安土
桃山時代も家康あってのもんだし。 桶狭間の戦いの頃には、尾張国内にはまだまだ今川方拠点がたくさんあってな、
桶狭間戦後に松平氏が攻め込んだ尾張国内の諸城ってのが、桶狭間の戦い以前に今川方に属していたとこばっかりだったんだよ 今川方に着いていた諸城が織田方に日和見した…という風には考えられないかね。 >>316
尾張と伊勢の間には木曽三川があるからね
江戸時代でも海上ルートを通るしかなかったし、新幹線が今のルートになったのも
地盤が軟弱で大規模な構造物を造れなかったから
伊勢を完全に制圧できたのは九鬼が配下に加わってから
同様のことは北条と里見にも言えるけど 尾張美濃伊勢は各50万石だから
この三国を穫れれば単独で敵対出来る勢力はなかなか居ませんね
今川撃退と美濃穫りまでがしんどかっただけで後は作業ゲー
家臣の忠誠上げを怠ったのが敗因 桶狭間合戦と駿河三浦家
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n341132
これ面白かった
桶狭間の戦闘って実際どうだったんだろって思ってたけど
なんかわかりやすくてすんなり飲み込めた 信長は尾張統一で、柴田勝家らとの戦でかなり戦略的にも
鍛えられたはず。家臣ならば主命に従わなければならぬが
尾張二手に分かれていたので。有能な家臣の、なぁなぁ
ではなく。つまり、尾張お家騒動により信長軍は強化され
ていたのも圧倒的兵力差のある今川
義元軍を退けた。 理 由かも知れん。 >>326 そのサイト、説がルーズじゃん。途中でうんざり。 再来年の大河の桶狭間は大河史上最も血なまぐさい桶狭間になりそうだな まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 単に、海道一の弓取りの今川を倒したという事で信長軍
の士気が上がり。諸大名の兵は桶狭間の二の舞になるの
では無いかと。更に信長は自分の経験を生かし少数の兵
相手にも注意を払ったので、1581年頃は越後、小田原、
備中攻略に至る直前まで快進撃をしたが、室町ラスト将軍の
足利義昭や本願寺、伊勢長島の一向門徒に恨まれていたの
が覇号強権が実現しなかった理由。 銃を大量に購入する財力があって、大量に購入したからだろ。
信長ほど大量に銃を導入した大名はいない。
それまでの戦いは、中距離で弓矢戦があって、その後に槍、最後は刀だった。
その前段階で銃が使えれば圧倒的に有利になるし、銃を何段階にも分けて
中距離戦でも使えたとなれば、絶対有利だよ。 >>334
球形の玉を撃つ火縄銃は現代の銃器と違って弾道が安定しなかったから、狙って打てる距離は近距離だけだぞ
長槍よりは2倍ぐらい遠くまで届く程度、3倍以上ではない
といっても、弓もさほど遠くまで打つものではないとされてたけど、
それでも鉄砲よりは遠くまで届く >>334 なんで、雑賀党は3000丁もの鉄砲を持っていたんだろう? >>334
ハード面では強いわな。
しかし肝心の信長自身が家中をまとめられないからどうしようもない。
普通強大な勢力になればなるほど周りは靡くが、信長は味方が次々と離脱している。 桶狭間は、スパイに拠る情報攪乱で義元暗殺が真相だし
美濃は、攻略前に道三が殺されててるし
信玄は、三ケ方原の直後暗殺されてるし
謙信も手取川の後暗殺されてるし
元就も中国遠征の直前に暗殺されてる
結局、信長に仕えた赤影のお蔭 >>339
根来十三忍を率いる暗闇鬼堂がもっと頑張ってれば
松永久秀が天下とってたのにな >>340
三人衆との戦いが苦しくなったからと、未だ美濃制圧も終わってなかった頃の信長に救援要請を出した零細大名が天下取りとか、ありえへん 桶狭間の後、今川の敗残兵を部隊に組み込んだからじゃないの? >>336
製鉄民か製鉄民にパイプがあるか、じゃない? 信長の近畿統一に関しては、あまり高校の入試問題には
出てこないね。北畠、六角、三好、雑賀 等について。
出てくるのは浅井、浅倉、義昭ぐらいで。近畿には一向宗
が多いんだよ。多分今も因縁があるからか伊勢長島や石山
本願寺などについてもあまり触れられていない。 >>41
亀だけど尾張はまさにそうやって生産力を急速に増大させた土地
伊勢湾の干拓が始まって可耕面積が広がったのがちょうどこの頃
前田利家の生まれた荒子城は言うなればフロンティアの最前線 >>342
組み込んでない。今川方の軍兵は、逃げ帰ったヤツらを除けば交渉で開城して帰国しただろ
(立て籠もって抵抗を続けたのが少数派で逃げ帰ったのが多数派だが)
>>336
雑賀は非常に豊かで栄えた街だったから多くの鉄砲を持ってたんじゃないのか。 信長の楽市楽座ってどれくらいの規模、業種でやってたのかな
20年以上前の岐阜県の教科書の副読本で、信長でなく信孝だけど
材木座を認める書状が乗っていた(たぶん岐阜市歴史館あたりにあると思う)
領内すべてですべての業種でやってたと思ってたのであれ、と思った記憶がある
スレ違いでしょうか 楽市・楽座は有名だが収益については南蛮貿易と違い特に
営利目的では無く、 元斎藤、浅井、浅倉家の領民に対するカーニバル的な要素
であると思う。しかし出物や美術品でも特に秀逸なものは
官位を得るために朝廷に献上したかコレクションにしたか。 美濃平定までは時間がかかったけど、それ以降は快進撃といって差し支えないだろ そうでもない
味方から裏切り者はボロボロ出てきてはそれを潰すの繰り返しだろ
挙句の果てにそれで命をとられるわけでして 単に1560年って区切りのためじゃないのか。それを言った
らおしまいだが。快進撃って長篠の戦いぐらいまでか?
毛利、上杉攻略は手をこまねていたはずだが。 名門北畠の名跡を手に入れたから
北畠織田信雄が鎮守大将軍として東国に柳営を開くのも時間の問題
西国は三好を手に入れた三好織田信孝が支配
織田信忠は太政大臣として織田本体の家督をつぐこととなる 美濃平定以後、上洛まで一気に進んだのは単に地政学的問題。
今川が弱体化して三河は味方、北条は関係ない、武田のみが強敵だけど武田は周辺敵だらけで身動き取れない。
織田は全国でも屈指の大大名で周囲に脅威がない状態。 とは言え、三好長慶が勢力を保っていたら、同盟者同士だから厄介な
外交上の駆け引きが必要だっただろう。信長の隠れた幸運は、三好長慶が
死に、三好党が解体したこと。これで厄介な外交努力が不要となった。 当時はもう単独で織田に対抗できる勢力なんて存在しなかったもんな
だから武田も包囲網を組んで対抗しようとしたわけだし 単に1560年代年齢が盛りだからじゃねーか。信玄や謙信、
氏康よりだいぶ若い。 >>1
> なぜ桶狭間の戦いの後、信長の快進撃が続いたのか?
たしかに全国から見ても番狂わせの戦いだったけど、一大名が天下を取るまで
のし上がるまでの出来事とは思えない なにが他の大名と違ったんだろ?//
桶狭間の戦術が、その後の諸政策やそれ以前の尾張統一の手腕同様、天下を取るまでの才質の結果だったんだと思うな。
今川義元が桶狭間で行軍を停止したのを偶々感知して急襲出来たのではないんじゃないかな。
祖父の今川義忠という人も塩買坂で似た様な最期を遂げているのだが、これを徹底的に研究して再現したんだと思う。
それと、信長様の十八番は敦盛で、国境への進撃前にも一指しやってるのは有名だ。
平敦盛は一の谷合戦で戦死しているんだが、これは裏手からの逆落としでの急襲だった。
桶狭間での戦術に通じるものがあるね。信長様は義元を敦盛に見立てていたんだと思う。 いやそもそも美濃落とすまで苦労してるだろw
アホの斎藤龍興相手でも数年かけて攻略してる。
美濃を落とせたのは清洲同盟で背後が安定したことと有能だった斎藤義龍が死んでくれたおかげ。
快進撃は運良く戦国時代の超大国を2つ手に入れてから。 >>359
年齢っていっても信長と同年代の大名でも、戦国レースから転げ落ちているわけで、
結局は才覚の問題でしょ >>361
> いやそもそも美濃落とすまで苦労してるだろw アホの斎藤龍興相手でも数年かけて攻略してる//
はァ? そりゃ>>360に対してかね。
尾張を挙げて義元に抗する事も可能だったんだろうが、そんな手間暇かける訳には遺憾から急襲で片付けたんだろうよ。
むろん、その手間暇は美濃に向けざるを得ないとも考えたんだろうさ、信長様は。
> 有能だった斎藤義龍が死んでくれたおかげ//
そうは思わんね。義龍が肥沃な尾張に野心を見せたなら、義元の時と同様な手口を考えたんだろうね。
穴熊には穴熊なりの退治法を選んだて事だよ。
> 快進撃は運良く戦国時代の超大国を2つ手に入れてから//
超大国は運良く手には入らない。 美濃攻略も苦労してるし、伊勢長島とか足元の一揆にも苦労してる
石山本願寺を下して以降の最後の1〜2年でしょ
この辺は他の戦国大名と量的な差はあっても質的にさほど差はない >>364
> 美濃攻略も苦労してるし、伊勢長島とか足元の一揆にも苦労してる//
そりゃ誰だって苦労するでしょ、凡愚ともどもさ。キミは苦労はキライかね。
> 石山本願寺を下して以降の最後の1〜2年でしょ//
一向宗は適当に利用もしてるでしょ、越前とかでさ。
騒乱承知で朝倉残党に任せて、果たして越前は宗教コミューンの以たる焼土と化した。
満を持して武闘派の二番家老を送り込んでいる(最高幹部は佐久間信盛だ、桶狭間の頃からその失脚までは)。
> この辺は他の戦国大名と量的な差はあっても質的にさほど差はない//
だが、結果は大差がついたんだから、運が良かったで片付ける訳にはいかないね。 >>365 エヴァ下痢坊主
・・・アホが必死に「江戸の仇を長崎で討つ」を画策してますwww
よしんば他のスレでお前がどれだけ良い事言っても
ここまで晒したアホの自爆劇場は消えないからwwwwwwwww 今川義元を討ったという尾ひれで、小大名は信長軍が精鋭
猛者の集まりと戦意を喪失したはずだ。 北畠や六角には
真似出来ない。というかチャンスが無かったのだろうが
信長は時の利を得ていたとなる。 >>363
義龍も信長同様に域内統一に手間取って苦しんだってだけだよな
信長が道三救援の時以外には美濃国内に攻め込むことをせず尾張国内統一を優先したのに対し、
義龍は国内統一より尾張国内に居る同盟者の救援を優先して信長の国内統一を邪魔するだけだったせいで美濃統一が遅れたんじゃね?
早く美濃国内を統一できてたら義龍が尾張に攻め込む可能性が高かったと思うよ
それよりさ、信長って美濃攻略を始めた頃には浅井氏はもちろん朝倉氏とも仲良くやってたんじゃなかったっけ。
美濃に接する全地域の大名と同盟して包囲しながら攻略したんじゃないの? >>371
> 美濃に接する全地域の大名と同盟して包囲しながら攻略したんじゃないの?//
そりゃ父の信秀が失敗してるだろ。てか、道三の台頭は四周勢力を排除したからだ。
> 信長が道三救援の時以外には美濃国内に攻め込むことをせず・・・
早く美濃国内を統一できてたら義龍が尾張に攻め込む可能性が高かったと思うよ//
道三義龍の交戦は美濃の内乱だろ。つまり美濃は統一されていたって事になる。
てか、オメは一体何を云ってるのかね、タラレバうざい、って以前にさ。
>>370 > 今川義元を討ったという尾ひれで//
運だけじゃなかったんだよ、てか、何でもかんでも運が良かったで片付けるのは思考停止だね。 浅井長政が背いた時、下手すりゃ、信長 秀吉 家康 が揃ってあの世
逝きっていう展開もあったんだなとふと思う。 殿軍がいてくれてたからやな。浅倉と浅井に包囲された
からな。しかし浅井長政も京に信長を上洛されたのに
結局背いたから近江を信長にあげたようなもの。秀吉と
光秀で半分こにした。 >>274 信長も長田忠致の源義朝よろしく朽木元網に殺されていたかも知れなかった >>365
天下人が部下に殺されたのは不運で片付けるんだろw >>376 > 天下人が部下に殺されたのは不運で片付けるんだろw//
はァ? 幸運と不運って物質収支が成立するのかね。
むしろ、実力で勝ち取った物を不意に失ってこその不運だろうが。
なお、丹羽長秀は当初、明智光秀の協力者だったみたいだね。
お猿さんの予想外の帰京にアワ喰って、口封じに狂奔してるしさ。
>>373 > 浅井長政が背いた時//
ある程度想定してたのと違うか? てか、担保確認だったのと違うかいな。
初めての集団自衛権行使で盲信って方が不自然だし、貰ったのではなく呉れて遣った人質では担保とは云えないんだし。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています