【暗殺】宇喜多直家を語る。【毒殺】
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即死阻止。
やべ〜宇喜多氏スレッドにすればよかった。岡山県民ですら来ないだろこのスレタイ・・・ 松永久秀並に謀略の限りをしたあげく天寿を全うするってすごいよな 宇喜多直家の暗殺歴
島村盛実…直家の祖父能家の仇、復讐として殺害
中山信正…直家の舅、酒席にかこつけて暗殺
税所元常…男色家であり、美少年のハニトラで暗殺
三村家親…狙撃して暗殺
松田元賢…直家の娘婿、攻め滅ぼした後に娘が自害
後藤勝基…直家の娘婿、攻め滅ぼした後に娘が自害
浦上宗辰…直家の娘婿、元主君の浦上宗景の子。毒殺後に娘が自害
浦上久松丸…浦上宗景追放後に傀儡として擁立するも、用済みになったので毒殺
宇垣与右衛門…鹿狩りの際に誤射と称して暗殺
伊賀久隆…直家の謀略に加担していたが、用済みになったので毒殺 未亡人に目を付けた羽柴秀吉になにやらおぞましさを感じる。 でも直家と秀吉だったら
どっちの方がお福にとってもましか正直微妙な2択っていう
秀家がなついてるんだからそんなにお福にとっても
秀吉は悪いやつじゃなかったんでは まあ秀吉ならしないだろな
腹を痛めた娘たちが世をはかなんで自害してしまうまで追い詰めるようなことは >>13
晩年の秀吉は直家とは別のベクトルでやばいよな >>13
基本片っ端から女に手をつけてるじゃん
細川氏のガラシャ夫人も目をつけられて
隠されてたし。 宇喜多秀家の肖像画を見て誰かに似ていると思ったが、昔NHKのキャスターやっていた宮崎緑に似ているんだな >>20
長生きだった息子・・・
八丈島はあったかそうで流刑地とはおもえん。 大名といっても無論ピンキリだけど、あのまま大名のまま、あまり不自由せず美味いもん食って歳を重ねたら、果たして84まで生きたかなという想念はある。 八丈島で漁業や農業に従事し、体を動かして贅沢できない食生活が84まで生かしたと 弱小勢力で生き残るために謀略の限りを尽くしてきたのに
息子の代のお家騒動であっさり瓦解してしまうのが悲しい >>23
八丈島住人の先祖は秀家が多いぞ
何人流刑地で子供作ってるねんw
豪姫のほうが速く死んでなかったか? 官位高いんだから女のほうから寄ってくるだろw
地方に流された天皇も同じことしてるよ >>24
重臣に多くの知行あたえすぎた直家のツケを秀家が払った感じ
でも御家騒動〜関ヶ原のときは弟の忠家さんも生きてたけど秀家見捨ててるし
詮家さんはむしろ反秀家派の渦中のひとだし
重臣だけじゃなく一門が離反するようじゃどうしようもないね 跡取りが秀吉子飼大名化して在国せず、側近官僚と中央で浪費しまくって、領国はATMのように扱ったら
地元の家臣団はキレるわ 秀家は五大老として在京義務があるので領国に帰れないし
上方に常駐する以上浪費つってもある意味必要なコストではあるけどな
もともと秀家の統制力が弱くて豊臣家の権威で
何とか家中をまとめてたようなもんだから
秀吉死んだらそら重しがとれて崩壊する 浮田左京改め坂崎出羽が、大坂の役後、屋敷に閉じこもって反抗的態度に走ったのは、千姫の再婚相手の斡旋を進めていたのに、
突如頭越しに本多忠刻への再嫁を決定されたから頭にきたということで良いのですか? >>30
千姫を大坂城から救出したのが坂崎だとか
坂崎に再嫁させる約束だったとかいう俗説もあったな ビルみたいで、黒々とした岡山城は、安土城を模して作ったんですと >>13
直家が目をつけた時点でお福自体がすでに未亡人だから(震え声) 直家は舅や娘婿は平気で殺すけど、自分が殺した相手の娘を側室にするとかいう事はしてないな。 そして側室にした女の息子である勝頼や秀頼の代で滅んでる すなわち敗亡せし敵将の娘を近付けるは亡国の相と言える 別に直家も無理にすべての悪をコンプリートする必要ないから
姻戚複数騙し討ちでもうお腹いっぱいだから 血筋が残ってるだけでもいいじゃない
断絶した戦国大名なんて山ほどいる 生き残るために謀略を重ねる生活よりは八丈島の方が気楽かもな あからさまに大量の物資を、というわけには行かなかったろうが、豪姫の実家前田家からも仕送りがあったみたいだしな 宇喜多騒動で出て行った花房は八丈島の秀家に米を送ってるし
戸川と詮家も関ヶ原で東軍につくように言ってる
宇喜多家から出て行っても旧主への義理は果たしてるな 「秀家はアホで宇喜多は滅びるの必然だから東軍に寝返ろうよ」
って明石全登を調略しようとした手紙が残ってる戸川が
旧主にどんな義理を果たしたのかと いや、そこはそれ、旧主への追慕と、敵に回った以上敵内部の撹乱・きり崩しは、また別々の割り切りがあったのだろうよ。 >>45
当時はまだ戦国と言っていい時代だろ。
アホ当主におつき合いして滅びるという観念はなかった時代だよ。
当主個人や主家に対する好き嫌いの話ではない。 ウィキを読んだ限りだがどうも直家という人物はホモなのかドSなのか判らないがかなり女を見下していてイジメるのが好きだったんじゃないかという気がする
でなきゃ何故あんなに我が妻や娘達が死を選ぶほど冷淡で苛酷なことが重ねて出来るのか理解不能
晩年『尻はす』で苦しみぬいて死んだのは女達の呪いだったんじゃないかという気がする
どっちにしても異常人格だったんだろうな 勝つ方につくよう勧めたわけでなく、勝つために自分らの方につくよう勧めただけで、義理もくそもないだろ
徳川方にせっつかれたか、功を上げようと必死だったかだろ
それが悪いとも思わん 自分もそう思う。お家騒動で飛び出した以上
顔見知りの宇喜多旧臣に寝返りを進めるのは合理的な振る舞いで
まぁドライだけどそんなもんだろとは思うけど
そこに旧主の秀家のためにいいようとかいう義理だてや感傷なんか全然ないっしょ >>48
自害したのがおそらく確実なのは先妻と美作の後藤家に嫁いだ娘くらいで
あとの娘や妹はそもそも自害したっていう史料的根拠が軍記物にすらない
直家のせいで死んだとされてる娘以外にも、直家には娘がいっぱいいて
その子らはふつうに結婚して別に自害とかしてないし
どう考えても正室・継室以外に側室が複数いないとこんなにこども生まれないし
美女と誉れの高かったお福を継室に迎えてることを考えても
ふつうに直家は父ちゃんや息子と同じレベルでかなりの女好きだと思うけどなー 大河で最高のタイミングで毛利裏切っててわろた
策士よのう・・・ 大勢力の狭間に位置する勢力には、顔色伺いのスキルこそが、生き残る要諦なのである。 息子にそのスキルが受け継がれなかったのが悲しいけどなw 関が原に秀家じゃなくて宇喜多直家が出陣していたら
東軍も西軍も疑心暗鬼で混乱しそうだなw >>56
関ヶ原の頃は武将の質も戦国の全盛期に比べたらかなり劣化してたからな。
大勢力になった後の織田豊臣系の武将が中心だから、どこかリーマンっぽさがある。
直家の策謀に勝てそうなのが存在せんわ。 そういえば関ヶ原の時点で有力大名は家康より若い世代しかほとんど残ってなかったんだよな。
前田利家や小早川隆景は関ヶ原前に死んでるし。
五大老とはいえまだ20代でお家騒動を纏められなかった
秀家では家康に到底 抵抗できないだろう。 いくら備前中納言が豊太閤への忠誠心篤いとは云え、区々たる山陽の一藩をまとめ切れずして、どうして増して中央への関与ができようか。
その己の姿、見失っていたのであろう。 >>59
宇喜多は岡山だけじゃなくて播磨の一部も領土にしてたから
デカくてまとめるの難しいだろ
毛利ほど大きくなくても大国だよ 関ヶ原の戦いでは宇喜多勢1万7000が福島勢6000に大苦戦。ダメですね。 直前に御家騒動で寄親で軍制の核になってきた重臣が何人もいなくなったら
そらどうにもならん >>63
今の岡山の縮図ですな、実力もないのに広島さしおいて州都などと。 スレに書き込んだら暗殺されるんじゃないかと皆不安だから
書き込みすくないだけさ 直家は許してくれん。
あの世への遠流を言い渡されてしまう。 結局家臣たちは直家への恐怖や秀吉の威光で従ってただけで
秀家のことは舐めてかかってたわけだ。
譜代の家臣は宇喜多騒動で皆出て行ってしまい秀家や宇喜多家を守ろうとした者はいなかった。
明石全登は元は客分だし。 実質的に宇喜多は直家という出来星が一代で土豪から戦国大名に成りあがったので
譜代の家臣っていってもほとんど直家の代からだし
もともと宇喜多も家臣も備作の土豪で出自はかわらないわけですし
三河武士のような代々の忠誠心を期待されてもさぁ 累代なんてのも別に忠誠に及ぶ必然でもないだろ、結局は流れだわ それも一因ではあるでしょふつうに
延原や明石は浦上家の家臣としては宇喜多と同格だったし
直家の代で出自に大差ない国人を短期間で吸収して家臣化したから
知行面でも宇喜多は大身の家臣が多く大名直轄領少ないわけだし
家臣の意識の面でも結果的に秀家による家臣統制が弱くならざるをえなかったわけで 三河武士が代々の忠誠なんてのは後付けの伝説じゃん。
別段他家と違いなんてないしな。
謀反もあるし一族間争いもあるし普通の戦国の家。 >>73
関東移封で急激に領地拡大する前の徳川家の直轄領と家臣の知行の割合どのくらいよ?
宇喜多はのちに備中半国くわえたあと太閤検地で最大限見積もってもMax57万石
しかないのに2・3万石越えの家臣がごろごろいて大名直轄が石高のわりに明らかに少ないのよ 宇喜多家が生き残るには直家が長生きして暗殺なり何なりで
家臣たちの知行を削っておかないと駄目だったな >>74
そりゃ宇喜多のような一代大名と曲がりなりにも何代か経た大名との違いでしょ。
徳川並みに代数数えた大名と比較したら格別に家臣に絶対的優位に立つ家じゃないよ。
三河武士の代々の忠義なんてもんは天下とったあとで好き勝手に作ったお話だよ。
だいたい親父と祖父を家臣に殺されるわ、親父は桜井松平に圧迫されるわ、
家康もしょっちゅう家臣に背かれるわで、どの辺に三河武士の忠義なんてあるかさっぱりわからん。 宇喜多って大名にのし上るまでの経緯が経緯だからな。
>家臣たちの知行を削っておかないと駄目だったな
平和な時代ならともかく、まだ戦いの続いたこの時代に
家臣の知行削ったりしたら、それこそ収まり尽かないと思う そこのところが戦国大名から近世大名への脱皮を図れたかどうか、すなわち、国人・土豪連合の単なる盟主から、君権を確立できたかどうかの差異となる。
徳川の場合は、関東移転を契機に、必要な家臣に、必要な場所に、必要な家禄を与えるやり方に再編した。
佐竹は万石級の大身を集めて一気に抹殺した。
最上は57万石に増えたまでは良かったが、大身の重臣の統制に失敗し、自壊した
鍋島は、潰れこそしなかったが、どさくさ紛れに龍造寺を乗っ取った引け目からか、大身の重臣がうじゃうじゃいて、幕末まで尾を引いた 後世まで生き残った大名はどっかで君権を確立してるよな。
君権を確立したからといって生き残れるとは限らない点で甘くないが、
君権を確立しないと生き残れない。 伊達家なんかは藩主権力を強化しようとしてお家騒動で失敗したけど
なんとか幕末まで生き残った。
そのツケで幕末はグダグダだったけど。 一番理想なのは、大身重臣の勢力を悉く削減したうえで、間もなくこの世を去って、ホッとした家来たちが新リーダーたる秀家のもと求心力を集める…といった姿だろうか。
黒田において、死期を悟った如水がわざわざ家臣に嫌がらせをし、早く死んでくれとばかりに恨みを集め、死後、倅長政のもとに家来の求心力を集めようとしたように
だが、直家の粛正やら暗殺は、あれでもまだおっつかないほど、道半ばだったのだ >>76
忠義とか忠誠心メンタルうんぬんより宇喜多と徳川には家中の構成・統制に
構造的な違いがあったってことだろ
>>78の言うとおり豊臣政権下での移封の有無は大きいと思う
宇喜多は移封がなかったので家臣の国人領主の既得の権限が強固に残った
>>81
直家が暗殺してるのは家臣というより金川も松田、後藤や伊賀も
姻戚関係にあるほぼ対等な国人の同盟者だから一門になるべき候補を
殺してしまった面もある
宇喜多の場合、上に守護代(浦上)も守護(赤松)も残ってるなかでの
下剋上だからどうしても国人をつなぎとめるために妥協・譲歩せざるを
えなかったっていうのはあると思う
黒田も万石越えの大身の譜代がごろごろいる家だから家中の統制がままならず
忠之の代に御家騒動で潰れかけたしね 逆に考えると、秀家は御家騒動で統治手腕なしと思われてるけど
関ヶ原が直後になければ、それはそれで上手く家中の再編が進んだ気がする 陰謀ではない穏健な方法で有力家臣の石高を減らすのはこんな感じ?
・小さな罪を大きく解釈して減封する。またはいったん廃絶させるも子・弟などを少ない石高で取り立てる。
・子どもが無く死んだ時に、養子による相続を認めるものの大幅減封。
・隠居して後を継がせる際に、次男・三男への分封を勧めて、細分化する。
・藩主の養子を押し付けまくる。で、その養子にいった子たちに藩主の家督を継がせる。継いでいた養子先の家の領地は収公。 家中統制は難しいよ。
家康だって一向宗で大変な苦労をし、
武田に切り崩され、信康事件では家中が二分され、苦労に苦労重ねて関東移封でようやく落ち着いた。
何十年もかけてんだよな。
毛利元就も家中の独裁権ゲットしたのは50代になってからだし。
まだ若い秀家がお家騒動起こしたからといって統治手腕なかったとみなすのは実は酷。 宇喜多直家は毛利・尼子と並ぶ謀将だが悪どい徳ない。
なんで尼子より長く続いたか不明だ。 宇喜多家が幕末まで続いてたら直家の所業も
「乱世で生き残るには手段を選んではいられなかった」「弟や重臣たちを大事にした」とか
擁護されてたんだろうな。 >>87
そうそうw
歴史なんてそんなもん。
鍋島直茂なんてえげつないのに、それほど悪評がないのは後に家が長続きしたからだからね。 南方衆三十三人(だったっけ?)をまとめて抹殺した佐竹義重も、坂東武者の典型のように崇拝はされてもあまり貶められない理由もそこかな >>90
黒田は誅殺の報い受けたけど
宇都宮の怨念で男系断絶しちゃった >>85
>武田に切り崩され、信康事件では家中が二分され、
あれって信長が信康を除くための口実、陰謀だけどね。
そもそも、武田家は長篠の戦で事実上壊滅し、生ける屍(ゾンビ)として「活かされていた」。
武田家の領国は大して美味しくもないから、無理に操作し地政学上の混乱を生じさせる
害が大きかったため、周辺諸国はゾンビとして活かすことを選んだ。
仮に徳川に仕掛けたとしても、ゾンビの誘いに乗るなんて、それこそ古代エジプトから
21世紀に至るまで古今東西あり得ない。 >>94
その例え、素晴らしい。
ある意味、長篠後の武田は、今の北朝鮮と同じ。
戦略価値は低いが、なくなると混乱するから放っておきたい存在。 徳川は、松平と名乗っていた祖先の時から、平野を求めて松平郷からやがて岡崎まで進出をしてきた
加えて、武田旧臣団の統合も済み、山間地ばかりの甲斐・信濃に敢えてこだわる理由も少なくなってきた。
こういう背景を前提とすると、平野の広がった関東移封令は、徳川にとってはむしろ望むところだったのである。
そして、土着性が強く、塁代の縁故をタテに分国法の適用もままならぬ一族・家臣を、この際土地から切り離し、直属の代官を通じた統治を行う格好の契機となった。軍事の采配も自ら登用した侍大将にとらせる
そういう機会がなければ、あとは佐竹みたく粛正を完徹させるしかない。武田にしても穴山や小山田といった土着の重臣を何らかの機会で排除するべきであった
宇喜多も同様であり、直家が泥をすべて泥をかぶる勢い、土着性の強い一族・重臣を排除し、
代官による直接統治と、自らが登用した侍大将による軍事采配を目指す途上なのであった。
たが、志半ばで直家は倒れ、息子秀家は家臣団の統御に失敗し、挽回の機会を得ぬまま関ヶ原を向え、除封改易により、
「お家騒動を起こした貴公子」という評価だけが残った 信長も晩年は林秀貞、佐久間信盛を追放してるし
そういうのは批判を受けてもやらないといけなかったことなんだろう >>97
谷口さんって信長研究の人が書いてるけど、
あれは織田宗家集権体制を固めるための一環なんだよね。
林、佐久間を追放した結果尾張美濃中心の信忠直轄部隊が誕生したし、
近江周辺の重臣も徐々に近江から拡大する支配地へ移転していた。
信長は近江を中心とする信長直轄部隊の編制を行っていた。
本能寺の変はその過程で起こったんだよね。
戦国大名は実は同朋の連合部隊というのが実態だが、
そこから上意下達の近世大名に変換するのには血を見るもんなんだよ。 秀家はやり方が甘過ぎたのだろうが、反抗的な家臣を出来るだけ穏便に
徳川方に引き渡してあわよくば花房あたりからの情報収集を狙ったのかもね
八丈島に流されてから仕送りしても手遅れだけどね >>98
信長公記読んだら
安土城下に住んでる足軽が火事起こして
原因が女房子供家において単身赴任してたのが分かって
自軍の単身赴任者の探索したら結構いて
信忠の命じてそういう連中の家を燃やして安土に住まわせてるしな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています