河内源氏を語る 二代目
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石川氏で笹竜胆の紋以外に藤紋を使っている系統って河内源氏の流れですか?
詳しい方がいたら教えて頂きたいです。 >>3
藤原氏の支流には、幾つか石川で藤紋っていうのがあるみたいですが、
河内源氏にはないのでは? 河内源氏なのかは知りませんが、源氏で藤紋を使っている氏族でネットで
検索すると石川というのが出てくるんですよ。源氏で藤紋?て思ったんですけど
なんか最近すごく気になってしまって。小山氏族の長沼氏の子孫で石川氏って
いるんですが、そこが巴紋と藤紋を使っているのは知っているんですけどね。 >>5
こんなのどうですか?石川源氏(河内源氏)以外の石川氏。
http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/21-30/isikawa.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/大和源氏
桓武平氏系石川氏とか、清和源氏だけど河内源氏じゃあない大和源氏の石川氏(陸奥石川氏)とか
藤原氏系石川氏もいるよね。
まあ、こういう別の流れと区別するために河内源氏系石川氏は特別に「石川源氏」と称されるわけだけど。 その日、頼信は焦っていました
とにかく焦っていました
「俺もヤバイのか?」
見えない闇の勢力が自分にも迫りつつあることを敏感に感じ取っていました
平忠常の乱を平定し大将軍と持て囃され平直方とも提携して坂東に足がかりを築き始めたばかりの時でした
危機を感じていました
「兄者の大和源氏のように没落したくない」
「親父の満仲のように出家して逃れるか?」
「いや頼光兄者のように歌の世界で生きるか?」
「だけど俺には才能は無いけど野望だけはある」
気が付いた時、頼信は誉田神社に駆け込んでいました
そして八幡神に縋ろうと筆を執り一心不乱に書き綴りました
応神天皇ーーーー清和天皇ー陽成ボスー元平先輩ー経基君ー満仲親父ーオレ
頼信は八幡神(応神天皇)の前で闇の勢力陽成グループに「義理を果たした」と信じました
願いは届いたのか頼信の子孫だけが武門源氏として繁栄したのでした >>1
義朝流五代(義朝-義平-頼朝-頼家-実朝)は、
河内源氏よりも、むしろ 『鎌倉源氏』 と称するべきだ まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 頼朝より以前は鎌倉に根拠を移してないんだから、>>9 の言い分はおかしい 義平は「鎌倉悪源太」だし、
鎌倉の亀ヶ谷に、義朝や義平が拠点にした源氏館(亀谷殿)があるじゃん。
それ以前にも、平直方は、源頼義や源義家に鎌倉を差し出している。 およそ鎌倉は、高山も無く、大河も無く、要害の地とも言うべからず。ただ小さき山数里四方に連なりて波濤の如し。
その間の谷々も甚だ狭く、打晴れたる平地は絶えて無し。
ただし源氏には故ある土地なれば、頼朝の都し給いしにや。
伊予守頼義、鎮守府将軍に任じ、安倍の貞任征伐の為に東国下向の時、石清水八幡宮をこの地に勧請し給う。
その後又、相模守に任じ、鎌倉に下向ありて、ここにて義家出生し給うとかや。
かく先祖由来のある地ゆえなるべし。
(『東西遊記』) >>9
>>13
主に過程、経緯、結果の三つを重視すると
確かに鎌倉源氏論も理解できなくはないかなあ >>14
>ここにて義家出生し給うとかや
河内源氏の本拠地の河内国石川郡壺井(現・大阪府羽曳野市壺井)
にある香炉峰の館に生まれたという説や鎌倉の源氏館で生まれたとの説もあるが、
どっちなんだかわからないらしいね。
>>15
そう思いますね。「鎌倉源氏三代記」という本も出ていますし。
義朝流は、五代(義朝-義平-頼朝-頼家-実朝)だと思いますが、征夷大将軍に限れば三代でしょう。 当時は惣領とか宗家って考え方が薄いだろう?
おそらく、本来の鎌倉源氏の後継者は
三浦氏の援助を受けていた源義平であり、
源頼朝は、父の義朝の京都での地位を受け継ぐ予定だった。
義平、頼朝の関係は
義朝、義賢の関係に似ている。
義朝、義平は、鎌倉での勢力拡大、
義賢、頼朝は、京都で出世を目指す予定だった。 河内源氏という言葉と使うと何となく歴史通っぽく感じるから意図的に使用してたけど、
実は違和感は少しありました
義朝流を鎌倉源氏と称する方が違和感ないかなと感じます >おそらく、本来の鎌倉源氏の後継者は
>三浦氏の援助を受けていた源義平であり
興味深いです
源義平は結構キーマンですね >>17>>19
>本来の鎌倉源氏の後継者は、三浦氏の援助を受けていた源義平であり
それは否定しないけど、三浦義澄は、平治の乱で源氏方の負けを見ると、
義平を含めた義朝流をさっさと見捨てて、一人で関東に逃げ帰っているんだよ。
鎌倉の近所の相模武士の首藤俊通、波多野延景、もそうだし、
義朝の頃からの家臣だった上総広常も同じく、逃げ帰っている。
三浦義澄は平治の乱の頃は、まだ若いんだし、
義平の外戚だっつーなら、一緒に逃げしてやるべきなのに、してない。 >>20を修正
首藤俊通は、平治の乱で戦死していました。
波多野延景は、判らないが、波多野氏は、源頼朝が挙兵に参加してますね。 義朝流=鎌倉源氏という呼称は確かにしっくり来きます 確かに 鎌倉源氏 の方が、良いと思います。
河内源氏だと、関西由来ってのだけが、意味されますからね。
リアルに拠点になっている場所を称呼にすべきでしょう。 >>21
波多野は平治の乱の二年前に義朝と決裂して主従関係を解消して
地元に帰っている。
後に頼朝が挙兵をするときも、頼朝の使者に対して
「頼朝が平氏に戦いを挑むとは、ネズミが富士山に挑むようなものだ」
といわれて追い返し、
富士川の戦いの直前に頼朝に波多野に攻め込まれて一族は逃げ出した。
その後、なんとか御家人にはしてもらえたけど。
山内首藤は石橋山で敵対したが、頼朝の乳母であった母親の嘆願により
死罪を免れ御家人にしてもらえた。 >>17
平安時代末期には、嫡流という概念は、ナイの?
>>20
三浦義澄は、残念な武士。
>>24
波多野は、兄弟で源氏と平氏に分かれたと思ったけど。 >>25
平安時代末期には、嫡流という概念は、ナイの?
ほぼない。
所領は分割相続されたら、それぞれ独立経営。
官位も自分の子昇進優先。親のメインどころを相続しても他の兄弟を面倒を見る義理もないし、他の兄弟も跡取りに従う必要はない。ただし、親が生きてる間は親の言うことを聞かなきゃいけなかったのでその間だけ一族としてまとまっていた。
> 波多野は、兄弟で源氏と平氏に分かれたと思ったけど。
兄弟で分かれたのは大庭で波多野ではない。 源義家は、鎌倉生まれの可能性があるにせよ。
中年以降は、ほとんど鎌倉に縁が無くなる。
義朝が、再び鎌倉を拠点にするまで数十年間、一応ブランクはあるんだよね。 >>26
一門の中でいちばん出世した人が同門の人々に便宜を図るような制度はあるにはあったんだよね、
かなり最小限の便宜なんだろうけど。
氏長者
もちろん、官位の高い人が長者なわけで、鎌倉時代までは武士が氏長者になったことはない。
将軍が氏長者になったのって足利義満が最初だっけ? >>28
> >>26
> 一門の中でいちばん出世した人が同門の人々に便宜を図るような制度はあるにはあったんだよね、
具体例を挙げてほしい。 >>28
> もちろん、官位の高い人が長者なわけで、鎌倉時代までは武士が氏長者になったことはない。
> 将軍が氏長者になったのって足利義満が最初だっけ?
たしか義満が最初だったと思う。
それまでの源氏の氏長者は村上源氏からでてた。
村上源氏が清和源氏に便宜を図ったていう話は聞かない。
藤原氏は摂関だね。
一応一族の藤原氏認定権をもってたみたいだけど、他になにやってたかはよくわからない。 >>26
>兄弟で分かれたのは大庭
景親は平家の家人の上総介・伊藤忠清に呼ばれ、駿河国の長田入道から
北条時政(頼朝の舅)と比企掃部允(頼朝の乳母の夫でこの時には既に死去)が
伊豆国の流人の頼朝を擁立して謀反を企てているとの密書があったと知らされる。
実際に頼朝は挙兵を決意し、内々に準備を進めていた。頼朝に同心する者の中には兄の景義もいた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています