【日本の狩猟民】 マタギ [転載禁止]©2ch.net
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マタギは数々の文学作品や漫画、映画の題材になっています。
そんなマタギについて語りましょう。 マタギってやっぱり山々をまたいで移動するってのが語源なのか? マタギに対する当時の人々の接し方はあまり良くないイメージがあるんだけど
実際はどうだったんだろう >>3
単に、一つの職業集団として扱っていたよ。
閉鎖的で超独特なオキテを守らないとその職業集団に入れないのだが、それは程度の差こそあれどの職業にもあった。
まあ、基本は貧乏だから、下に見られていたが、藩によっては鉄砲の所持を認められていた。
でも、戦争の時にはかり出された は〜?
おかしな具合いで変な自慢するキチさんがいるんだね マタギとして生きる理由は
当時、東北地方は農作物が育ちにくいという背景もあるのでしょうか?
かなり過酷な職業だと思います ところが、いざ大飢饉となると、マタギの知識がある集落だけは餓死者を出さなかった
という記録すらあったりする。
江戸時代は稲作に比重が置かれすぎていたからね。 いつまで勘違いしてるんだかw
世界の中心にでもなったのか >>11
土地が限られていたからね。
後は、害獣処理を農民から期待されたってのもある。
江戸時代に、鉄砲所持を許可されたマタギがいたのは、盛岡藩と秋田藩だけだったんじゃないのかな?
この2藩は戊辰戦争で戦っているから、リアルでマタギ同士の鉄砲の撃ち合いなどあったに違いない。 マタギという存在が歴史上初めて確認されたのは、いつ頃なのでしょう?
江戸時代にはすでに確認されているわけですよね 「マタギは東北及びアイヌ語で、猟人のことであるが、奥羽の山村には別に小さな
部落をなして、狩猟本位の古風な生活をしている者にこの名がある。・・・
マタギは冬分は山に入って、雪の中を幾日となく旅行し、熊を捕ればその肉を食い、
皮と熊の胆を付近の里へ持って出て、穀物に交易してまた山の小屋へ帰る。時には、
峰伝いに上州、信州の辺まで、下りて来ることがあるという」・・・柳田国男は「山
の人生」で、秋田の旅マタギについて記している。
http://www.akita-gt.org/study/bunka/tabi-matagi.html マタギは秋田の阿仁マタギが最も有名。
熊の胆を藩主に納める代わりに鉄砲所持を許可された。 >>18
調べてみた。「マトギ」か!!
マトギが使っていた「山刀」は、まさに阿仁マタギの山刀とそっくりだ。
何らかの文化的つながりがあるのかもな。
先が尖った山刀は車の中に置いているだけで、警察から職質あったら逮捕されるレベルw
(実際捕まった人がいたそうな) 要するに、狩猟採集の縄文文化を最近まで受け継いでいたんでしょ。
アイヌの影響というより、アイヌと本土の縄文人に共通する文化であり、言葉だったと。 まあ、アイヌは基本的に川の生活の方がメインの文化だし、そのためアイヌ語地名も川を中心に銘々されている。
家を作ったのは河岸段丘の上だったけどね。洪水を避けるためにね。
だから、基本的にはマタギとはちょい違う文化なのかも知れないんだよな。
一応、マタギはアイヌ語らしき言葉を使っていたけどさ。でも、それは一部だった。 北海道という地形の影響だろ。
地域の環境には逆らえないよ。 いや、東北地方でもそうだった。基本的に川での生活がメイン>アイヌ ファイナルファンタジー12にシカリというジョブがあったな 神武東征に出てくる、兄ウカシ、弟ウカシもアイヌ語だな。 >>27
そうなの??アイヌ語としてはどんな意味? 青森県津軽のマタギは、ほぼ阿仁マタギの影響下にあった。阿仁からの移住者も多かったからね。
江戸時代はマタギの鉄砲所有を認めておらず、マタギは大抵ヤリを持って熊やカモシカを狩った。
冬に、熊穴に入り、寝ぼけている熊を足でどんどん外に押して外にいる仲間が仕留めたという話もある。
白神山地のマタギのコトは、探検家の根深誠氏による大量の記述がある。
白神山地は標高はそれほど無いが、軟弱地盤で、林道やトロッコ鉄道を作っても、集中豪雨で直ぐに
寸断されるために結果的に奥地の山林が残された。その豊かな自然で人々は熊を狩った。 兄弟がいたとされる宇陀がアイヌ語地名っぽくないんだよなあ。まあ、とりあえず保留だな。 ウダは、アイヌ語だと砂浜だね。海岸でも内陸でも。
宇陀の地形は知らないが。 調べた。そんな用例ないぞw
i-uta-ni で「それを つく 木」で、杵に関した地名を表す場合があるが、単独では用例は無い。
ut はわき腹のことだ。
utka でわき腹のように波になっている浅瀬。
utnay でわき腹のように分岐している沢。
いまいちピントこないな。 アイヌ語地名でウダが「砂地」として使われている具体例は? >>37
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/宇太町
銅鐸の名称がはじめて用いられたのは8世紀に編纂された続日本記においてである。
和銅六年(713年)に大和国宇陀郡において見つかった銅鐸が献上されたと記されて
いる。
大倭國宇太郡波坂郷人大初位上村君東人得銅鐸於長岡野地而獻之高三尺口徑一尺其制異常音協律呂勅所司蔵之 >>38
宇陀はウタだったのか。
砂地だというのが本当なら、アイヌ説が強まるね。 >>37
調べた。
ota が砂浜ね。確かにアイヌ語だ。でも、>>37はさすがにソースにならんだろw
歌志内市は ota-usi-nay で 砂浜 そこにたくさんある 沢 だな。
これを日本語化するときに、ota → uta となったわけだ。
でも、アイヌ語地名は我田引水的解釈が沢山あり、あまり妙な解釈をすると白眼視されるのがオチなのは事実。
まあ、いずれにせよスレ違いなんだけどね。 神武東征で討たれた異民族は被差別部落民となっていくんだよな。
古墳作りもやらされた。 神武東征は負けっぱなしで
最後に先住民と停戦した
こいつら物部氏は天皇の側近になった 神武東征に出てくる地域を見てみろよ。
被差別部落になってるから。 とすると神武天皇の九州から連れてきた息子が原因でね? 鉄砲を扱ったマタギは戦争にもかり出された。
日清日露、などの明治以降の戦闘は一般人も徴兵されたからジョガイするが、戊辰戦争では武士と一緒に戦った。
もちろん、当時の兵器は火縄銃は既に旧式も良いトコになっていたので、活躍の場は限られていたがそれでも頑張って
マタギも戦った。
特に、南部藩の雫石マタギのエピソードは凄い。
最新兵器を持っている長崎藩の指揮官をマタギが狙撃して死亡させている。
当時は火縄銃と最新式銃の性能差はすさまじく、普通は対抗できるモノではないはず。
狙撃したマタギはその後逃げ延びて、天寿を全うしている。 南部藩は日本で一番一揆が頻発した藩だった。この一揆の陰にマタギがいる。
南部藩でも住民のあいだに不穏な空気が広がっていた地区は、鉄砲所持は普段は許可されず
害獣が出た時に貸し出されるシステムであった。ただ、この規制はかなりゆるかった…
一揆を起こす際に、マタギはイノシシの害を訴え、鉄砲の貸し出しを許してもらった。
そして…一揆成功。そりゃ、鉄砲を持っているほうが強い。しかも、地元山林に精通している。 南部藩ってマタギで有名だったのか
知り合いが南部にいたので、驚き
もっと南部藩のマタギについて語ってほしい 秋田名物のきりたんぽ鍋は、異論もあるけど実は南部藩のマタギ料理だという話があるな。
食材や調理法が違うから、別の料理とされているが、「きりたんぽ」を最初に文書に記録したのは
菅江真澄で下北半島で記録している。
また、鹿角に南部の殿様が来た時に、マタギが振る舞った料理がきりたんぽとも言われている。 この話から、少なくとも南部藩ではマタギに対する差別なんて大して無くて、殿様に料理をふるまって
うまいうまいと殿様が食べていたという話もあるわけだ。
地元では、いくらなんでも盛岡の殿様じゃなくて、鹿角の一部地域を管理していた武士なんじゃないのか
とも言われているけどね。 柳田國男はやや異種的に見られていたなんてコト言っていたな。
でも、民話を見ても大した扱いの違いは無かった。まあ、基本は貧乏だけどね。
マタギの最も有力な根拠地の阿仁マタギだけど、阿仁ってのは日本有数の鉱山があったトコで、
そこにいる人も皆、基本は金持ち。全国から技術者が来ていた。
だから、米もどんどん他の地区から入れるし、その地区の直ぐ近くの山間に住んでいたのがマタギだ。
金を持っているけど、鉱山特有の肺病で寿命が短い人は、どんどん金を消費しただろう。
マタギはそういう人に、熊の肉や皮を売っていたのだろうな。 マタギと山伏に関連性があるなんて驚いた
ウィキで知る限り、獲物を得たあとの儀式が修験道に似ているとか
マタギと修験道ってどう考えても結びつかないけど、どうしてマタギは修験道に影響を受けたと考えていますか? マタギまではいかないけど、本格的な猟師が再脚光浴びてるね。
フランス料理のジビエ料理が流行ってて、狩猟獣が高値で取引されてる。
勿論、血が回らないように狙いどころを的確にし、解体の手際の良さ(素早い内臓処理・血抜き)が条件だけど。
しかし、ブルゴーニュの豊潤なワインと、シカや羆、青首鴨を合わせると、あまりの旨さに陶酔してしまうな。 『被差別部落一千年史』(岩波文庫/高橋貞樹著/大分県出身)
P186
部落民の分布は、穢多の水上(えたのみなかみ)と称せられる近畿地方を中心として最も多い。
兵庫県のごときその最たるもので、和歌山、三重、奈良、大阪、京都等いずれも多数の部落がある。
これらの一県一郡の各部落の中心をなすものは、その地方での大部落である。
関西地方は部落数が多いだけでなく、また一部落の人口が大で、職業も部落の事業をそのまま踏襲している。
大阪西浜(旧渡辺村)は、全国の中心をなすほどの大部落である。
P193
近畿、山陰等は差別の程度が濃厚であって、山陽、四国、九州等はこれに次いだ差別程度である。
部落の分布の多いところほど差別が甚だしく、関東中部、北陸、東北地方に至るに従い差別の度も少ない。 >>52
マタギは日光あるいは、真言宗の巻物を持って山野を巡っていたからなあ。
修験道は明治時代に廃仏毀釈で一時禁止されたけど、岩手では結構残っているんだよね。
修験道は、民話を見てもほとんど蝦夷と対決したって話ばかりで…実際どうなんだろうね。
三湖物語なんて、モロに修験道と蝦夷の対決だ。
修験道とマタギが結びついたのは、そりゃ獣を殺すからだろうなあ。だから、巻物をもらいに
日光とかに出かけた。 >>53
色々狩猟された獣は食べたけど、やっぱり現在の家畜がおいしいなあw
品種改良されただけあるよ。でも、下処理などで、全く違うんだろうなあ。 >>55
興味深いお話をありがとうございます
物語の話は初めて知りました
修験道の巻物に関しては羽黒山があるのに、わざわざ日光なのですか? >>58
そいや、山形県の修験道ってどんな感じ?
秋田県の修験道は一部を除いてほぼ廃れた感じだ。一部残っていたのは、男鹿三山と鳥海山あたりか?
秋田と山形の境界にある山でも、「修行者が戒律を守らなかった」とか「山賊行為を働いたから征伐された」なんて
のばっかりで、ほぼ壊滅状態なんだよね。
能代市あたりじゃ地元の支配者を修験道の修行僧が殺しちゃうという事件があって、それで支配者が不在になった
為、敵対する大名(秋田氏)が勢力を伸ばすことができたのだけど、逆に危険視されて寺院が焼かれたというトコ
もあったりする。その後、住民は皆、修験道系の天台宗は危険だからと、曹洞宗に宗旨変更させられた。 >>59
58じゃないが
羽黒山は女性にも門戸を開いて流行ってる感じ
宿坊もけっこう有る
まあ観光化が激しいが厳しい修行をしてる人がいるのかは不明 >>60
そりゃ、親戚にマタギがいたから。または、地域の飲み会でそういう肉を持ち込む人がいたから。 >>59
おっと。秋田市にある太平山を忘れていた。
全国各地にある、太平山とか三吉神社の総本山なんだっけ。
これは、江戸時代も保護されたからね。
山形の出羽三山もいつか登ってみたいな。 >>65
鳥海山山麓にある百宅もマタギ集落なんだよね。
マタギは普通は日光天台宗系の巻物をもっていたりするんだけど、この地区のマタギは真言宗系なのかな?
百宅からも登山道があるし、当然修験道とマタギの交流は密にあっただろう。
戊辰戦争の時の行動はどんなのだろうな?鉄砲を持てたのか分らないが、戦闘にも狩り出されたのだろうか? 老犬神社 南部藩のマタギの悲しい物語。
http://www.city.odate.akita.jp/dcity/sitemanager.nsf/doc/rouken.html
南部藩のマタギ定六は死んでしまう。その後、彼の妻と、忠犬シロは最後に秋田藩の藩堺に移住する。
この話を見ると、南部藩でも免許を持つと鉄砲を所持できるようになっていたようだね。
ちなみに、この神社の付近では明治維新の際の戊辰戦争で南部藩と秋田藩の交戦が何度も繰り返され
何人もの人が死んでいる。 >>68
こういう話は知ってる人が提供してくれないと中々見つけられないので
ありがたいです アイヌ語地名、マタギ言葉とアイヌ語
1805年、漂泊の旅人・菅江真澄は、4年間アイヌの暮らしと民俗文化を記録した後、
阿仁を訪れ、アイヌ語地名やマタギ言葉にアイヌ語が多いことを指摘している。
「高い橋を渡ると笑内(おかしない)という部落があった。松前の西の磯伝いにも
可笑内(おかしない)というところがあった・・・何ナイ、かにナイという内(ない)は、
もと沢という蝦夷の言葉で、昔はこの辺にも蝦夷が住んでいたのであろう」・・・アイヌ
語地名が多いことを指摘している。ちなみに 阿仁は、アイヌ語の「アンニ」で、木立
の茂る様を表しているという。
「山ひとつ越えると根子という部落があった。この村はみな、マタギという冬狩り
をする猟人の家が軒を連ねている。このマタギの頭の家には、古くから伝えられる巻
物を秘蔵している・・・かれらの使う山言葉の中には・・・蝦夷言葉もたいそう多かっ
た。」・・・山言葉(マタギ言葉)の中にアイヌ語が多いことも指摘している。
http://www.forest-akita.jp/data/school2014/school-04/school-04.html 戊辰戦争と根子マタギ・佐藤松五郎
共同墓地に「官軍秋藩 佐藤松五郎墓」と彫られた墓石が建っている。江戸末期、
会津や伊達、南部、庄内など東北の雄藩は「奥羽列藩同盟」を結成して幕府側につい
た。しかし、秋田藩は弘前藩と並んで官軍側につき、四方を敵に囲まれる結果となっ
た。その際、秋田藩は、射撃の名手が多く団体行動を得意とする阿仁や仙北地方の
マタギを士分格として召し抱え、特殊部隊を組織して戦った。根子の佐藤松五郎は、
その戊辰戦争で戦死したマタギである。
http://www.forest-akita.jp/data/school2014/school-04/school-04.html >>71
ちなみにその松五郎は、狙撃戦で死んだのではなく、南部藩の砲弾の破片があたり、破傷風か何かで死んでいる。
根子マタギの話題はまだあるが後ほど。 根子マタギのもの凄いけど、ちょっと…な話!
さて、昭和初期、秋田市の商店で強盗が発生する。目撃証言から、犯人は阿仁町根子在住の男と推定された。
ところが、男にはアリバイがあった。男は集落で何度も目撃されており、当時既に汽車は阿仁町まで通っていたが
その汽車に乗っていたという目撃談もない。
その男は無罪かと思われた。ところが意外なコトにアリバイが崩れた。
男はマタギで、根子と秋田市の間にある山林をたった1夜で歩いて踏破し、強盗を働きまた帰って来たのだった。
まあ、悲しい話になってしまったが、マタギの超人的な身体能力のほどがうかがえる話でもある。 今個人的に、一番面白い…漫画、ヤングジャンプの「ゴールデンカムイ」。
マタギの話も出て来て、設定がなんとも綿密で面白い。
やはり、史実を元にして話を膨らませると面白いな。 アイヌと縄文の関係の証拠
ニール・ゴードン・マンロー『先史時代の日本』
http://tresi-nonno.blogspot.jp/2012/06/blog-post_15.html?m=1
比較で私は、日本の貝塚の頭蓋とアイヌの頭蓋の同一を確立して、それらが同じストック
であるという結論ヘ導かれた。小金井教授(今その方は私の標本の調査をしています)は、
私のために第2番頭蓋と或るアイヌ頭蓋の輪郭を親切に描いてくれました。私はその輪郭
を図420に置いた。2つの分離された頭蓋の比較、それは理解されるであろう、実例で単に
作られた。
図420 横浜市三ツ沢貝塚から出土した頭骨とアイヌ頭骨
http://2.bp.blogspot.com/-mL7QoD2Ihjs/T9vfny4AC8I/AAAAAAAAAFA/jbBsU8mTa2A/s1600/15xweb6.gif >>75
学問の暴力―アイヌ墓地はなぜあばかれたか
江戸末期、犯罪として裁かれたアイヌ墓地発掘は明治以降、「学術調査」の名の下に
公認され、アイヌ民族の抵抗は無視され続けた。
小金井良精、児玉作左衛門など代表的アイヌ学者たちの動きを追い、学問に内在す
る「暴力への意志」を浮き彫りにする。
http://assabu.exblog.jp/9037809/
「諸資料の分析の前提に、これはアイヌのもの、これは和人のものとするのは明らかに方法論的
に欠陥がある」(海保嶺夫1983「序 中性蝦夷史料について」『中性蝦夷史料』三一書房)
「アイヌ研究者」(考古学者もこれに含められるだろう)が陥りやすい方法論的矛盾を指摘したもの
であり、「もはやナンセンスとしか言いようがな」く、「まったくの循環論法にほかならない」という
植木(p218)の厳しい指摘と同義の批判である。
現在の北海道考古学は、この批判に対する有効な反論をもっていない。 http://www.douhoku.org/ainu/diarylog/200808221.htm
小金井良精はアイヌ民族の目を避けて「なるべく見附けられないようにといい合せ」「見張りを置いて
発掘にとりかかった」と思い出を書いていたので、ひどいと感じていたのですが、小金井は明治初期
の日本の医学が発展していく際の要の人物だったのですね。
亡くなって間もなく脳髄が残っている遺体も持ち帰ったことなどもかかれており(同書P64)、読むのが
辛くなりました。
アイヌ人骨盗堀の関連で731部隊とつながる人物も出てきます(「学問の暴力」P77)
↑
これは、京大の清野謙次のコト。 東北のマタギの武勇伝なんてカスだな。
素手で戦ったとか…
やるなら北海道に来てヒグマとやれよ。
本物のヒグマ、知らないだろ?
顔は碁盤よりデカいぞ。 mixiで医者を誹謗中傷していた上小阿仁村の男
http://or2.mobi/data/img/101859.jpg
■マタギ…(27歳) 元ダイドー社員 http://www63.tok2.com/home2/ahonokouji/sub1-35.html
2.縄文犬と弥生犬
日本犬は、「南方系」と「南方と北方との混血系」とに大きく分かれるという。
縄文時代の日本列島樺太、千島には、体高40cmくらいの小型で、キツネのような
顔立ちをした「縄文犬」がいたのだが、渡来してきた弥生人が連れてきた犬と混血
し、やがて、柴犬、紀州犬、甲斐犬、四国犬などに分岐するもとになる、前頭部に
くぼみを持ち、頬骨が張り出した「弥生犬」が形成されたらしい。一方、そのまま
沖縄で生きてきた犬は、琉球犬の祖犬となり、北海道の犬は北海道犬の祖犬となっ
た。北海道犬と琉球犬が近縁であることが、血中タンパク質の遺伝子組成を比較し
た最新の調査で確認されたという。
「動物考古学」の西本豊弘・国立歴史民俗博物館教授によれば、犬を見ていくこ
とで、歴史の中での日本人の動きを探ることができるという。紀元前7000年から
8000年くらいの縄文時代の犬の骨が、愛媛と神奈川の遺跡で見つかっている。当時の
犬が人間と同じように埋葬されていたことから、縄文時代人は犬をとても大事にした
らしいことがわかる。縄文犬は狩猟犬として扱われていたようであるが、狩猟中に
怪我をして骨折した犬も多く役に立たなくなっても大切に飼育されていたらしい。
しかし、弥生時代になると犬に対する扱いは激変する。犬の種類も代わり、ほと
んど埋葬されなくなり、骨もバラバラの状態で出土し、解体痕が認められる。要する
に食料とされていたのである。このことからも、弥生人が縄文人とは別の民族であっ
たことが推測される。弥生人は、水田稲作農耕の技術だけでなく、食犬習慣も持って
きたのである。狩猟民には貴重な存在であった犬も、農耕民にとっては番犬か、食用
犬としてしか役に立たなかったのであろう。 >>80
上小阿仁村は、奥地の萩形だけマタギ集落だ。 東北地方にアイヌの足跡を辿る: 発掘人骨頭蓋の計測的・非計測的研究
http://www.jstage.jst.go.jp/article/asj/117/2/117_2_65/_pdf
川久保善智
D2でもMMDでも,縄文人に最も近いのは北海道アイヌであったが,東北地方の
古墳時代人(計測的分析では古代人も含む)がこれに次いでおり,古墳時代でも
江戸時代でも,九州→関東→東北→北海道アイヌまたは東日本縄文人という,
明瞭な地理的勾配が観察された。同様の地理的勾配は,判別分析においても
確かめられた。 個々に潜伏させた狙撃兵として優秀だろう
先にあちらに発見されたらただの人 >>85
戊辰戦争の時は、エンフィールド銃対火縄銃になったから、銃の性能が全く違うので残念ながら大活躍とは…
まあ、>>45みたいな例もあるから、性能が段違いの時には、潜伏兵になって一撃狙撃後は山林をひたすら
逃げるしかないだろうなあ。 >>21
>マタギはアイヌ語らしき言葉を使っていた・・・・・・
東北のまたぎは日常は日本語を使っていたが、山に入ると日常使っていない
アイヌ語を山の神様に聞かれないように使ったらしい。
またぎについて 太田和親 2007年4月8日
ttp://www13.ueda.ne.jp/~ko525l7/a2.htm 勘違いしてる人が多いけど、アイヌ語は縄文語の方言だよ。
日本語は、朝鮮由来の言葉で、縄文語をほぼ駆逐してしまった。 南部信直がマタギの許可を出してたって話があるけど
マタギは許認可制だったのかな?
許可された人間以外は狩猟が制限されていたとか? それは当然だろうなあ。
南部藩は三閉伊一揆で鉄砲を渡したら一揆で使われたりしたからな。
常時使用を許すととっても危険。 戦国時代はヤリだった模様。
津軽藩は最後までヤリだったから、仕方ないので鉄砲を持っている秋田藩の阿仁マタギと連絡とって、
秋田の方に熊を追い込み、鉄砲でやつけてもらったという話もある。 火縄銃とスナイドル銃ってそんなに差はないぞ
幕末ボルトアクションライフルはドライゼ銃とかが有名だけど
数なかったんでね。 >>91
息を吐くように嘘を吐くな
朝鮮語によって駆逐されたのなら日本語はもっと朝鮮語に近いはずだぞ 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
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