神功皇后とは一体なんだったのか [転載禁止]©2ch.net
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神功皇后の非実在性の否定は戦後タブーとされた様に見える
朝鮮半島が倭人の女性、しかも妊婦によって征服されたなど日教組自虐史観においてはあってはならない事なのだろう >>9
出雲の息がかかった倭人が半島に進出して新羅の王(脱解尼師今)となったと考えてもおかしくない 日本書紀によると、神功皇后が、かつて「山門(やまと)」と呼ば
れたこの地の土蜘蛛・田油津媛(タブラツヒメ)を討ったとのこと
です。また、その兄である夏羽(ナツハ)が軍勢従えてやって来た
のですが、妹が討たれたと知り、逃げ去りました。
http://jyashin.net/evilshrine/gods/tsuchigumo_shrine/tsuchigumo_trip_chikugo_0101.html
人を誑かすタブラツヒメは、鬼道を使っていたのだろう。 >>8>>11
古代日本にはやたらと女酋長が多く出てくるな
鬼道ってのは女が政治に携わる事をいうのか? 土蜘蛛は女酋長みたいだね。みんなヤマトに滅ぼされたけど。 景行から神功は、福岡を支配する
豪族だろうね。
景行は本拠地筑前から、
肥国と激しい戦いの後、筑後に進出。
肥国と停戦、不戦協定を結び、
豊国、熊襲国を征服。 神功皇后の九州までの移動ルート
気比神社
↓
武庫
↓
播磨
↓
牛窓
↓
渟田門
↓
鷹飛原神社
↓
沙麼の浦
↓
豊浦宮 神功皇后伝説由来の地名の一覧ってどっかにないんですかねえ?
誰か研究してると思うんですけど 何か食い詰めた三韓が攻めてきた。
稲作で兵糧がある日本が勝った。
でも当事は文字が無いので口伝に
なった。
後年「あれ実は最初の対外戦争だったんじゃね?」
って事になって大急ぎで古代の
おまいらにアニメ化させたのが
神功皇后ちゃん。
但し古代の女酋長がモデルになった
可能性までは否定出来ない。
朝鮮にもそれらしき名前(細鳥女)
が残ってるので。 >>12
日本に限らず古代は女酋長や女領主がいっぱい居る。
新羅にも居た。
でも中華で女性蔑視ブームが発生して、この近代化
に乗り遅れたらヤバイいんじゃね?
って雰囲気になって女系皇統(欠史八代)を無かっ
た事(神話化)にした。
朝鮮でも同じ事が起こったと思われる。
彼らの異様な焚書趣味の根底にはそういう思想がある。
恐らく朝鮮半島にも漢4郡等の史書があったんだろう
けど残ってない。檀君何とかはその残滓。
日本もそうなりかけたが、国学者達が目覚めて歴史を
守った。 息長氏の姫が皇族に嫁ぎ、産まれた皇子が推す勢力があって、皇太子を排除して即位した
同時期に日本の軍勢が新羅の王都に攻め込んだ
この二つは事実だろう おきながって海人族だけど海人(あま)帯(たらし)アマテラスってことじゃないの?
ところで武内宿禰って蘇我の祖といわれているけど蘇我と物部は同属だよね
武内宿禰は彦太押信の孫だけどもこれフトオシじゃなくてどう考えてもフツヌシだ
武というのはもののふの語源につながるのではないか 『三国史記』にでてくる倭の将軍于道朱君が建内宿禰という説はある >>1>>8
卑弥呼は、外交にはおろか、内政にもタッチしてない。
政治は、弟にやってもらっていた。
むしろ、時代的には、卑弥呼の親族の トヨ が、神功皇后に相当すると思う。
トヨが卑弥呼の後を継いだと記録があるし、
その時期には、大和朝廷が急速に集権化を行っている。
卑弥呼とトヨは、親族だろうけど、方針が全然違うんじゃないのかな? 近所にいるでしょ
とくに重要な日、変わった日でもないのに、
小豆の入った赤飯を持ってきてくれる人
そういうことだよ 日本書紀の記述どおりに
神功・応神・仁徳の三世代で二百年ということはまずありえない。
神功皇后が卑弥呼より百年以上後の人物でないと
天皇家の家系図が途切れてしまう。
それとも実際には天皇家の系図は仲哀と応神の間で切れていて
日本書紀の編纂者がこの間に卑弥呼をつなぎとして置いたのだろうか? 神功皇后伝説は高句麗南侵の経緯に酷似しているのでこの時期にヤマトに亡命して来た亡命高句麗王族の四方山話
亡命高句麗王族は自分達の兵装がヤマトより進んでいた事から欲を掻いて多勢に無勢にも拘わらず兵を開き70年弱ヤマトと戦った後講和してオオキミと姻戚関係になったので四方山話が挿入された ヤマトは二正面作戦を強いられていた時期が有ったかも知れない承平・天慶の乱みたいに >>26
なんで南進した側の王族が亡命するんだよ。普通亡命するのは南進された側だろ 日本・中国・朝鮮の史料では、倭人が朝鮮半島に侵攻していると書いてるのに、
史料に書いてない逆のパターンを想定している人が多くて驚く。
しかも、根拠は特になし。 倭人が朝鮮半島に侵攻する出来事がしょっちゅうのことだったなら
そのうちのどの出来事が記紀の示す神功皇后の記事に当たるんだろう?
実際に神功皇后が新羅征伐などしていなくても中国・朝鮮の資料を使って
もっともらしくごまかすことができるんじゃないかな。
神功皇后は本当に夫とされる仲哀天皇の死後幼いわが子の
摂政を務めたのか?神功皇后の摂政年数から60年(干支は60年で一巡)
引くと9年になる。じゃあ9年間わが子の摂政をしたのか?
しかしこの9年は仲哀天皇の在位年数と同じである。彼女の摂政年数は
実はゼロ年であって俺は彼女が産んだとされる応神天皇は、
仲哀天皇の死後生まれたのではなく既に成人しており、
仲哀天皇にとって赤の他人か傍系によるクーデターによって
仲哀天皇の一族が放逐されたのではないか?、彼女は仲哀・応神
の間を血で繋げる役割を記紀編纂者に託されたのではないかと思ったりもする。
実は血がちゃんと繋がっていて、天皇のお付きの妾にすぎない女性が
本妻の産んだ二皇子を殺して我が子を皇位に付けた、古代にそんな出来事が
絶対になかったとは言えないが。 >>28 わからんw
>>29 神功皇后は高句麗衰亡期に入ってる頃だよねつまりその時期に日本に亡命した者のそれより遥か以前の興隆期の先祖の手柄話が新羅征伐であり神功皇后伝説に変化したんじゃないかな >>29 26は書き方が拙かったねスマソ
高句麗興隆期の事件→高句麗新羅征伐
高句麗衰亡期の事件→日本への亡命 そももそ仲哀天皇からして景行・成務天皇からの継承経緯が不自然きわまりないのだが。 神武天皇のライバルの長脛彦と、
応神天皇のライバルの二王子(麛坂皇子,忍熊皇子)、
継体天皇のライバルのヤマトヒコは共通点があるとかなんとか。
ナガスネという地名と籠坂という地名は近隣で、
ヤマトヒコは仲哀の子孫と言う設定 日本の資料の三世紀後半に、半島進出の(新羅攻め)の記事があり、
半島の記録にも同様にある。
記録に残る七支刀が出土している。
当時何らかの事件があり、優れたシャーマンだった王族出身の妃が、
危機のヤマトを率いて戦ったという伝承があったとしか思えない。
捏ち上げるなら、立派な天皇が半島へ攻め込んでぶんどったとすればいいのだから。 三国史記于老列伝によると、
「沾解王七年癸酉に倭国使臣の葛那古を新羅が接待したとき、于老は戯れに、早晩、汝の王を塩奴(塩を焼く奴)とし王妃を飯炊き女とすると言ったので、
倭王は大いに怒って将軍の于道朱君を派遣し、新羅を攻めて于老を火あぶりの刑に処した。
その後、味鄒王(沾解王の次代で第十三代国王)の時代に、倭の大臣が新羅を訪問したとき、
于老の妻はこの者を欺いて饗宴のうえで捕らえ、火あぶりにして怨みを晴らした。
そこで、倭は怒って新羅の都・金城を攻めたが、勝利をおさめられずに帰った」
ここでいう、葛那古が葛城襲津彦、于道朱君が武内宿祢という説がある。 >>37
その将軍が王族とかではない応神天皇であり、
そいつがヤマトをのっとったんじゃね?
で、応神と仲哀をつなげるために神宮皇后を作り出したとか >>39
だからなんでそんなひねくれた解釈が必要なんだよ?
「倭国が新羅を攻めて属国にした」という分には記紀の伝承になんの問題もないだろ
そもそものっとったのなら、のっとられらほうの悪業を書き上げるだろ
自分を偽って嬉しいか? 勝利者なのに自分を偽る必要ないだろ
仮面かぶる必要あるならまだ天下とってなくて戦いの途上だってことだろ
そんな中途半端な段階で歴史を捏造なんて悠長なことしてないっつの >>20
神功皇后の出身氏族息長氏が、どういう遺物から海人族と言われるの?
史家山尾幸久氏は、その著『日本古代王権形成史論』に以下の記述を
している。
「息長氏は、5世紀の中葉から後半ごろ裏日本に来着した新羅文化を
背景にもつ加耶系有力氏族そのものであるか、またその強い影響下に
そのころ在地に台頭した集団・・・・・」 >>37
>危機のヤマトを率いて戦ったという伝承があった・・・・・・・・・・・・・・・
三韓征伐という海外侵攻が、危機のヤマトとかいう国難になるのか
理解できません。
>日本の資料の三世紀後半に、半島進出の(新羅攻め)の記事・・・・・・・・・
>半島の記録にも・・・・・・・・・・・・・
と書かれた倭国・半島それぞれの記録名は、何ですか?
記紀の記す神功皇后三韓征伐年代は、AD200年代とは違うが? >>39
何故のっとるの?
ヤマト王権には多くの豪族が参集している。
おまえさんがいうことを実現させるには、多くの豪族を打ち破り、さらに
海外遠征をしなくてはいけない。大半を海外に向けたら、国内で反逆が起きる。
敵兵を残らず殺してしまったら、海外遠征する兵士が足りないw
全国で王(豪族の首長)だけを殺害する下克上が起き、各地の武人がすべて
征服王に従うという奇跡が起きない限り困難。
秀吉のようなのが現れて、と言いたいのかも知れんが、秀吉は信長の
後継者となったからだよ。それに一代で終わったしw
応神以降も有力豪族の系譜は途絶えていない。 >>42
伽耶出身のわけのわからない氏族に安曇、住吉の海人系が加勢するだろうか
しかも、潮満潮干の珠はそんじょそこらの珠じゃないです
ヒコホホデミが豊玉姫から借り受けた
海人族の正当な後継者が持つものだと思います 27 名前:日本@名無史さん :2015/03/19(木) 18:56:29.55
邪馬台国は宮崎県にあった。
謎が解けたよ。
宮崎を日向と名付けたのは景行天皇で、神武東征の時には、宮崎は日向では
なかった。
つまり、天孫降臨の地は宮崎ではなく、後から宮崎を日向と偽称させた。
なぜか?
邪馬台国は大和朝廷に滅ぼされた土蜘蛛であったが、これを明らかにすることは
できなかった。
なぜなら、邪馬台国は魏の冊封国であり、これを滅ぼしたとしたら、中華帝国
への反乱ということになってしまうからだ。
そこで、大和朝廷は、卑弥呼と台与の事績を神功皇后一人の記とするなどの
混乱を見せつつ、これらが皇統であるかのような偽装を行った。
神功皇后は、日本が倭国であるかのような偽装を行うための架空の人物であり、
だこらそれは女性である必要があった。
そして、もう一つの偽装が、宮崎を日向の呼び、天孫降臨の地であるかのように
詐称したことだ。
なぜ宮崎だったのか。
それは、宮崎が邪馬台国だったからだ。
卑弥呼や台与が神功皇后であったかのように記述したのと同様、邪馬台国
を天孫降臨の地であるかのように詐称させることで、大和朝廷が邪馬台国
を滅ぼしておらず、むしろ正統な後継者であるかのようにする偽装が完成した。
このように、宮崎を天孫降臨の地であるかのように詐称したのは意味が
あり、そこが邪馬台国であったからだ。 応神天皇に抹殺された仲哀天皇一族‐記紀の数字が語る古代史
http://marishi.weblogs.jp/blog/2009/07/post-62e7.html
仲哀天皇(推定生没年359年〜380年、22歳)(推定在位期間372年〜380年)
応神天皇(推定生没年363年〜403年、41歳)(推定在位期間381年〜403年)
両者は親子ではない。
神功皇后は実在したとしても仲哀の皇后でありえない。
神功の摂政期間はゼロ年である。 神功皇后の伝承が残る土地は沢山ありますが
空海や役小角や安倍晴明のように後世創作された伝説も当然あるはずですよね
その手の研究が書かれている書籍はないでしょうか?
あまり研究が進んでいない分野だったりします? 2世紀説が正しいとすれば七支刀は箸墓に二本あると言う事
になって神功皇后(卑弥呼)は政略結婚で魏に贈られた人質
であると思われる。
狗邪韓国経由で魏に贈られたが後に魏が黄幢を授けて傀儡と
して 仲哀、忍熊、弟媛の支配する正統邪馬台を滅ぼして女王
となる。
確かに国中服さず反乱を起こされたのは当たり前だね?
後には神格化され八幡神になったと思われるがいかがか?
弥生時代〜古墳時代は騎馬民族時代とするべき。
結論、邪馬台国は魏の傀儡政権だった。 4世紀人物説であれば卑弥呼とは別人の可能性もあり、
史料や伝説の類似はのちの時代の習合が原因であると
推定される。
4世紀説が実証されれば2倍暦説が正しいと実証される
だろうし出土人骨から当時の平均年齢が30歳であるに
も関わらず長命であるという中国史書の記述に考古学
的裏付けが与えられ証明される事だろう。
神功を殺害したのは魏ではなくて高句麗か新羅という
可能性が濃厚となる。
応神天皇が新羅か高句麗の王族の子孫である可能性も
あるだろう。
仲哀敗戦後に倭国から贈られた人質でその人質にを傀
儡として高句麗の騎馬民族に奈良と太宰府は蹂躙され
忍熊王子らは反乱軍ではなく侵略者と戦った偉大なる
忍熊大王だったと思われる。
各地に残る伝説は大陸系征服王朝の苛烈さを物語る物
であろう。
だが、次第に土着系が時が経つにつれて盛り返して来
て神功傀儡に率いられた侵略者渡来人豪族達の多くも
土着系に寝返ったのだと思う。
清寧天皇に子が無かったのはそういう関係であろう。
だが、更に時が経つとまたまた渡来系が逆転して応神
の5代末裔と称して土着系を滅ぼしたと考えられる。
武烈は崇神王朝の流れを汲む土着系だったのかもしれ
ない。 結論、
神功皇后は騎馬民族高句麗の傀儡か
王族血統獲得の為の人質であった可
能性が高い。
朱蒙は弓の達人だし神功も弓の達人。
アマテラス=タラシヒメ=柳花
応神=朱蒙 高句麗に対馬海峡を渡る造船技術はない
それとも海チョコボの背中に田植えしながら騎海チョコボ民族がクエクエとジャップランドを征服したのかね?
ホ妄想よ 神功皇后は、仲哀天皇の側室であって、正室ではない。
彼女の出自も、正室よりは皇室本家よりも遠い傍系皇族。 岩戸を開かす(新王朝)為の天宇津女命。
ウズは偉大。ウズ女は偉大な女、、、大倭姫(大倭の女王、女帝)
天手力男命。は武内宿禰命。
古い天照皇大神(古い王権)、、、仲哀天皇を謀って葬りさり
(この際には普通なら大葬の筈が国が穢れたとして大祓の神事をした。)
新たな若々しい天照皇大神、、、ホムタワケ=応神天皇を引き(担ぎ)だして
新王朝を樹立。
淡路島の北端のアマの岩屋(石屋神社/イザナキの幽宮伝承地。//天地大明神)で岩戸開き?の神事を懇ろになさってから出陣。
御帰還?の際には凱旋のお礼参り。幼少(稚)の新たな天照皇大神=応神天皇を引き連れて、、、 応神河内王権の最高神を祀る住吉大社。
祭神はツツノオ三神。
ツは都で十につながり、十は最高。重ね重ねで廿。旧来の最高の更に上の超最高。
祭礼の際の拍手(手打ち式)の儀礼は生国魂神社とほとんど同じもの。
う〜ちましょ!。パンパン。(も一つセ)パンパン。(祝うて三度)パパン、(、、、)パン。(、、、)パンパン。パンパン。オォ!\(^o^)/ 神功皇后が活躍した時代は四世紀後半だろ。
七支刀、高句麗の記述。
息子の応神が活躍したのが五世紀初頭だから、時代はあってる。
>>54
皇族なのに側室ってか。 息長氏って、有力子孫が残ってないからあれだけど、ヤマト王権誕生時の有力者なんじゃないかなあ。
丹波氏もそうなんだけどね。丹後から近江、尾張にかけての地域の有力者なんだろうと思うなあ。
卑弥呼を共立した氏族の一つと言う感じ。
ヤマト黎明期から、応神の頃までの天皇家も含むヤマト連立政権というか。
オレは崇神天皇じゃなくて彦坐王が後継者のはずだったんじゃないかと思ってる。
だから、狭穂彦が王位を狙ったというか。反乱ではなくて奪い返したのか、全く逆で
崇神がクーデターを起こしたのかも知れん。
彦坐王は、丹波一族の母を持ち、息長の娘を妃にした。
初代斎宮の倭姫命は、母は日葉酢媛命で丹波一族だ。
この時代、母から女王の血筋というか聖なる血脈を引き継がないと王の神聖さが
担保されなかったんだろう。
神功皇后が女でありながら天皇のごとく扱われ、臣下が異を唱えているようすは
見えないところを見ると、彼女がそういう血筋で神聖さと武運を持った女性だった
からとしか思えない。
後代の男系子孫にこだわる考え方からすれば、こんなのをでっち上げる必要は全くない。
仲哀が自分で行けばいいのだから。
細かい物語は作ってあるとしても、神功皇后の実在や系譜をでっち上げてるとは
思えない。
三世紀後半、軍隊を率いて戦い、戦勝をあげ、百済から七支刀を受け取り、
高句麗にも恐れられた女性皇族がいた、という事実があったんだろう。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>57
おまえ、頭が悪いなw
正室だとか側室だとか、言い方はどうでも良いんだよw
第一夫人とか第二夫人って言い方でも良い。
仲哀天皇の第一皇子や第二皇子の生母と
第4皇子である応神天皇の生母である神功皇后の出自を比べてみろ。
どちらが本来の皇后というか第一夫人だということが、よくわかる。
どっちも神武皇統だけど、前者のほうが皇室本家に近い。 日教組自虐史観の在日朝鮮人が何を書いても説得力はない
時に最近は2ch日本史にはなりすましのチョンが多い >>62
後者のほうは高祖父が兄弟というぐらい離れていて
前者のほうはもろにいとこどうしですもんね。
天皇の血が濃い皇子が当然貴い。
日本書紀編纂当時の天皇は応神天皇の子孫であり、
側室あるいは後妻の子どもが仲哀天皇の正統な跡継ぎ
二人を抹殺した上で天皇になったものだから
それを取り繕ってごり押しでも母親は正妻という立場にしない
といけなかったのかもしれませんね。
そういう取り繕いが全くない歴史書のほうが珍しいでしょう。 >>64
>天皇の血が濃い皇子が当然貴い。
いつからそうなったんだい?
20代くらいまでのはそうは見えないけどな。
後に天皇になった人を生んだ生母が皇后ということにしたのは同意する。
そもそもそんな古くに「皇后」なんて名称があったはずはないし、皇后のような
正室扱いがあったかどうかも不明。
有力豪族同士の政略結婚が基本で、雄略以降は有力豪族を潰したから、
随分変わったかも知れんが、継体の例もあるしね。 >>37
三世紀後半って書き間違い?
四世紀後半なら同意するよ。 >>39
神功は仲哀(14代)の皇后ではなく、『紀』が皇后も子も記さない13代
成務の皇后だった?
日本古代(真実)史 849.神功とは誰か:宝賀寿男さん説 2009/10/11
ttp://blogs.yahoo.co.jp/raccoon21jp/34388777.html 三世紀初頭の時点で天皇家が絶対的権力と神聖性と正統性を持っていたなら、
混乱は起きないし、卑弥呼共立もないんだよ。
なのに、天皇の血筋に近いほうが正妻でその子が貴いって、おかしいと思わんのかね?
四世紀〜5世紀初頭の古墳は、200m程度のものがたくさんある。
櫻井周辺と佐紀、馬見が大半だが、丹後と播磨にもある。
まあ、有力者同士で婚姻関係を結んでいてその子供の代とかだと一族と言えるかも
しれんから、広い意味での天皇家といえるかも知れんけどな。
倭の五王の時代、倭王は部下にも官位を求めているから、その頃でも絶対的権力とは
少し違うんだろうけどな。
何が理由かは分からんが、挙国一致で半島へ攻め込んだ。一度とは限らない。
任那地域を脅かされ、交易が途絶えたとか、追い出されそうになったことが
理由かもしれない。
ともかく、神功皇后のおかげで半島での権益を確保できたんだろうな。
そして、そのことは当時の日本にとってものすごく重要な事だったということだ。 皇室の祖先にそれなりの神聖性や正統性が無かったら、
群雄割拠してればいいだけなのに何故に卑弥呼を共立したんだ?
卑弥呼の後も同族の台与を共立してるし。
男子だと争いが起きそうだから女子にするってのはまんま上代と同じだ。
江戸時代にはそっちこっちに大規模な城郭があったけど、あれは独立政権の証か?
みな徳川に臣従してたと思うんだが。
使者や部下に官位をもらうと絶対的な権力じゃないって理路がいまいちわからん。
秀吉は朝廷から部下の分の官位ももらったけど、相対的な実力者にすぎなかったのか。 上代の体制、統治はひょっとして
基本的な部分は何ら変わらずに江戸時代迄継承されていたのでは?
祭祀を司り国の権威的な象徴の天皇(君臨すれど統治せず)と実際に統治に当たる覇者の大王家(将軍家)
徳川将軍(大王)家は大国主命。(オホナムチ命)
各藩はそれぞれに自活自立した(半)独立国。
藩主は小国王、、、小国主命(ナヌシ。ナ=国、領地。/スクナヒコナ)。国造。宿祢。 オカ板で見たはず
ザンボット3
このようなアニメの中に真実が隠されていたんだよ 神功皇后は父方が神武皇統だけど
母方が、新羅の王族の末裔だったアメノヒボコの後胤でしょう?
三韓征伐は、それも影響しているんじゃね?
彼女の母方の意思も影響している。 >>68
倭国大乱や卑弥呼の共立をみて思うのだが
あれは、戦国時代というよりも
南北朝時代や壬申の乱のイメージのほうが強いだろう?
卑弥呼は倭国の初代倭王ではなく、その前に王がいて、その王と卑弥呼は同じ王家、
王位継承争いが起こったので、倭国大乱になった。
そして、王家から卑弥呼が家臣によって共立された。
王朝がかわったのならば、そこで新しい国家が誕生するという解釈なのに
魏志倭人伝では、倭国大乱前も後も、同じ国家が存続しているという認識。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった http://marishi.weblogs.jp/blog/cat5697871/
孝昭〜孝元の「孝一族」は邪馬台国の時代の天皇。
卑弥呼は孝昭天皇の妃、倭国の大井媛で、台与は孝霊天皇の妃
倭国香媛(意富夜麻登玖邇阿礼比売命)かもしれない。
孝霊と倭国香媛(台与)の間の皇女が倭迹迹日百襲姫命であり
(崇神天皇の時代に57歳あたりで没する。)、卑弥呼と三輪山伝説と
箸墓伝説が崇神天皇の時代の出来事として女王にならなかった彼女に
仮託されたようである。 多臣や猪使連は神武天皇の傍系子孫なんだろうけど
神武の嫡流はたったの34年で断絶しちゃったんだね。 懿徳天皇の年齢
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage604.htm
懿徳天皇と孝昭天皇の間は断絶しているのかもしれないし
していないのかもしれない。していないと仮定すると
天皇の寿命はおよそ50歳。ただ懿徳天皇が自分の姪を妻にする
理由がはっきりしないし同様に姪を娶ったとされる孝安天皇同様、
年代引き伸ばしを図ってるように見えなくないという気がしないでもない。 神功皇后は福岡周辺で多くの事跡が神社などに残っていて、
祀られている神社も多い。
神功皇后の元になった福岡の女王の伝承があって、
それが神功皇后の部分に組み込まれているとかんがえる。 >>73
その前の男王が天皇家かどうかは分からんけどね。
卑弥呼と崇神に近い血縁があるなら、はっきりと書くんじゃないかな。
息子が崇神だとかさ。
無関係とは思わんけど、崇神以前のはそこまで有力者だったとは思えんからな。
天皇だと書いてるけど、それは後代に付けられたもの。
天皇家自身が、崇神のことを「ハツクニシラススメラミコト」と言ってるんだから
そこで大きな変化があったんだろうな。
神武=初めてヤマトに入った初代
神武〜孝霊=30カ国のうちの一つの国の王
孝霊〜開化=連合政権を共立した一つ
崇神=ヤマト連立政権の王 >>80
>福岡周辺で多くの事跡が神社などに残っていて、祀られている神社も多い・・・・・・
神功皇后をご祭神とする福岡県の神社といえば、香椎宮、筥崎宮、宇美社が
著名ですが、他には何々社があるのでしょうか? >>83
私が知っている中では
住吉神社、宮地嶽神社、千栗八幡宮、高祖神社なども
神功皇后が祀られていますね。
また、佐賀の與止日女神社は神功皇后の妹だとか。
ただ、No.1の主神格ではなくて、No.2、No.3の位置に
祀られていることが多く、
高祖神社では既に原型の神社があり、
それを再興したことで祀られたようです。
比較的後世に福岡周辺部を支配した勢力なのかな?
と想像しています。 神功皇后が分かれば日本史は分かる。
応神を認めても、神功皇后非実在説をとったり、
崇神を認めた上でも、同様なのがある。
安直な非実在説で切り捨てれば事は簡単だ。
ただし、非実在説を明確に論じたものはない。
はっきりしていることは、卑弥呼ではない。
日本書紀の分注は紀年法をその時代に当てはめたことと、
女王というような共通点があるから、魏志倭人伝に飛びついただけのもの。
実在、非実在にかかわらず、100〜150年の開きがある。
このことは現在の考古学等(土器編年は諸説あるが)
でほぼ明らかになっている。 >>73
魏志倭人伝が、30の国があり使役が通ずると書いてるわけだから。
神聖ローマ帝国の皇帝位みたいに、いくつかの有力王が皇帝位を争っているみたいな。
新羅は王統が何度も変わったが、新羅という国は変わってないだろ。 >>86
またそれか。
部族連合だとかのありきたりの思い込みをそのままなぞってるだけじゃん
魏志を読む限り、倭国の王は邪馬台国王卑弥呼と狗奴国王卑弥弓呼と伊都国王某の3人しかいない。
伊都国王は有名無実のほとんど名誉職みたいなもの
それ以外の諸国のトップは王じゃなくて「官」だと書いてあるぞ
後漢書には邪馬台国の王は「大倭王」だと書いてある。
この地位をめぐって卑弥呼と卑弥弓呼が争ったわけだろ
素直に原文よめば、どう考えても>>73氏の言い分のほうが妥当じゃんよ >>87
うん、じゃあ、卑弥弓呼って王族ならどういう人だと思うの? 壬申の乱か。
メスリ山古墳と桜井茶臼山古墳が鍵かな。
あれはいったい誰なんだろうな?
西殿塚古墳へ行ったことがあるが、周辺の畑とかの石垣に、石の間に大量の
土器片が積んであるね。 >>73
そうなんだけど、納得出来ない点がある。
卑弥呼以前の王って天皇家(崇神の祖先)だと思うの?
天皇家自身の伝承では、6代孝安天皇までは奈良盆地の南部の御所周辺しかないんだよな。
7代孝霊が黒田になるけどさ。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>88
卑弥呼の兄弟か、それに近いくらいの親戚、少なくとも同じ一族だろうね
魏志の記述が簡単すぎて詳しいことはわからない
しかしヒコミコの当て字なら男性王族の意味だし
もし卑弥呼とは別の一族なら、邪馬台国側の人間がヒコミコという敬称でよぶことはないだろう
魏志の情報は邪馬台国側を経由して入手された情報で
狗奴国から直接えられたものじゃないだろうし
>>90
なにがいいたいのかいまいち意味がわからないのだが。
それって畿内説と九州説のどっちを前提にしていってるの?
それによって話の内容がかなりかわっちゃうよね? >>93
>魏志の記述が簡単すぎて詳しいことはわからない
のに
>卑弥呼の兄弟か、それに近いくらいの親戚、少なくとも同じ一族だろうね
というのはどういうことか
>ヒコミコの当て字
呼はヲだから違うね >>94
兄弟か、それに近いくらいの親戚、少なくとも同じ一族ぐらいのことは
ヒコミコという呼称から推定できるがそれ以上のことは
魏志の記述が簡単すぎて詳しいことはわからない、といってるんだが
読んでわからんかね。古代史論争以前に国語の勉強したほうがいいんじゃないの?
>呼はヲ
そういう説もあるようだね。有力説でもないようだが。 >>95
王の実名だか、王を表す現地語だかも定かでないのに、
類似してるから親族とか、論理の飛躍にはついていけないよ。
当時の呼をコと発音するなんて説にもならないが。
古代史の勉強ばかりしてないで、国語の勉強もした方がいいね。 じゃおまえの説では卑弥弓呼をどう解釈するの?
実名なの?称号なの?地名なの?それ以外の何かなの?わからないの? どこをどう読んでも地名という解釈にはならんだろ。
なぜ地名という発想が出てくるんだか。 で?おまえは地名じゃなくて何だって言いたいの?
地名に違いないなんて主張してるやつはいないのに誰に絡んでんだよw
おまえの説をさっさといえや 絡んでるのは地名なんて口走ってる偉そうな誰かだと思うが?
実名か称号か王を意味する狗奴の言葉だろうが断定する材料は無い。 断定する材料がないってのは共有された認識だろう
問題は「卑弥弓呼」って言葉は推定する材料ですらないのかってこと で、どうなの?
卑弥弓呼はなんなのかわからないから「断定はできない」としよう。
断定ではない「推定として」はどうなの?
推定すらもできなくて古代史論争に混ざってるわけじゃないだろ なんでそんなに必死なのかいまいちよくわからんが、
断定にしろ推定にしろ自説を持って披露しないと、
論争に参加してはいけないという思い込みには賛同しないよ。 「ヒミコ」が固有名詞ではなく、「○○ヒメのみこと」だとすれば、
「卑弥弓呼」は「○○毘古(彦)のミコト」だろうね。 そういう事は女性ではない、もしくは女性であっても体面のために男性の名前を名乗っていた事になるかもしれませんね。 >>69
関白になってるじゃん。
そんで、他の大名に官位を与えている。
徳川も、家光までは京都で将軍宣下を受けている。
4代からはそんなことはしていない。
絶対的権力者になると、他人からもらう権威は必要なくなるんだろうな。
自分で将軍を名乗って、事後報告。
王には「それなりの」正当性と神聖性はあったと思うよ。
でも、倭国大乱になってるわけだから、「絶対的な」王の地位ではなかったてことだろうな。
弥生後期には各地に「王墓」が作られているから、王の家系というか族長の家系
のようなものは出来てたんだろうな。
神様の子孫ばかりだから、我こそが正統だっていう争いはあったのかも。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています