神功皇后とは一体なんだったのか [転載禁止]©2ch.net
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神功皇后の非実在性の否定は戦後タブーとされた様に見える
朝鮮半島が倭人の女性、しかも妊婦によって征服されたなど日教組自虐史観においてはあってはならない事なのだろう それが「倭王旨」だとしたら七枝刀の文との整合性は取れるわな
つまり「三韓征伐」より以前から畿内は百済と同盟していて
畿内王権は百済の要請で新羅を討伐した
(九州は伝統的に親新羅だから)新羅に行く前に九州をまず討伐した
これで七枝刀を贈呈されてから九州西征〜三韓征伐〜倭の五王〜磐井の乱〜白村江〜天武政権まで説明できてしまう 日本は白村江で新羅に負けてからも執拗に「お前らは神功のころから俺らに負けて属国だったのに偉そうにするな」と上から目線で接して新羅を怒らせてるからな 百済は神功時代からの畿内王権の同盟国で
九州は磐井の乱まで基本的にずっと親新羅
日本の朝鮮半島三国の扱いは
百済=同盟国
新羅=一回やっつけた属国
高句麗=好太王に負けて以来の配慮すべき強国
ってのが8世紀まで基本的に変わらずに続くんだよ 三韓征伐の実像は
筑紫・任那を拠点に百済と協力して新羅を討伐し、その勢いで高句麗にまで攻め行ったら負けて逃げてきた
ってことだろう 伊都国は漢に冊封されまた各国の使者の目もあって、実権を奪われながらも存続していたと思われる。
神功皇后のエピソード、九州の大和朝廷派を討ち、伊都国の血を奪還する話じゃないかな。
伊都国は、倭国大乱前の畿内にあった倭国(クナ、クニ)の分家だろう。(天孫降臨)
応神が生まれて、スクナヒコナが喜ぶとあるし。 邪馬台国それに連なる大和朝廷は、旧倭国クナを倒した先住民系(縄文系+BC1000年頃に渡来し稲作をもたらした殷系の海神)の政権だろう。
神功皇后応神のエピソードは、大和朝廷に虐げられていたクナ国倭人系と関東の縄文系勢力、そして大和朝廷内の権力闘争で出雲尾張連合に劣勢だった葛城勢力が手を結び、大和朝廷の中心勢力出雲尾張事代主連合を倒す話と思うけどな。 朝鮮半島の勢力だった倭が近畿に移ってきただけな
朝鮮半島の倭からみれば日本列島は属邦
だから出雲が国をすんなり譲ったんだろ(笑) 各地の八幡宮に奉納してある武内宿禰と幼い応神帝の額縁どうにかせい!
あれだと武内のおっちゃんが父親だと刷り込まれるぜ。 >>263
そんな考古学的証拠はない
逆に日本列島が朝鮮半島を勢力圏内にしたことは何度もある
ウリナラファンタジーもいい加減にしろ! >>256
>仲哀と神功に命令して九州に派遣した「近畿の真の大王」がいるに決まってる
妄想乙 >>261
それこそ年代がめちゃくちゃでナンセンス! >>269
奈良時代は天武系なんだな。
イワレ系。
応神、聖徳太子、天智、桓武〜倭人系。
奈良時代は宮崎の石神系だよ。元は海人隼人を征伐した系統。隼人の乱があって当然。 大津皇子可哀想だな。 本当は天武と関係ない倭人系だろうな。
辞世の句
ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
ももづたふ、敦賀や鈴。
イワレと鴨を恨んでいるのかな。
雲隠りなむ、太陽が雲に隠れるのかな。
太陽は烏。
金烏臨西舎 鼓声催短命
泉路無賓主 此夕離家向
金烏の家は西にあるのかな。和泉路に賓主はなし。
我こそが応神天皇の子孫だと言いたかったんだろう。
息長氏(敦賀、鈴)、神功皇后、応神天皇。 >>267
大王が長期間都から離れるわけないでしょ >>272
大和朝廷の大王は神功皇后応神鹿島の鹿さんに討たれたんだろうな。
若草山山頂古墳、昔は牛塚と言われていたらしい。
晒し者にされ、一般人に踏みつけられ、毎年火に焼かれる。 >>266
>逆に日本列島が朝鮮半島を勢力圏内
妄想だろw
倭人ってのはもともと(紀元前から)朝鮮半島に居た
お前に日本列島から朝鮮半島に渡ったという証拠をだせと言ってもどうせ出てこないだろう
「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」(山海經 第十二 海内北經)
蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。
『前漢書地理志』に「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云。」
「然して東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行はれざるを悼み、設(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。以(ゆゑ)有るかな。楽浪海中、倭人有り。
分かれて百余国を為す。歳時を以て来たり献見すと云ふ。」 >>274
西暦57年の時点で倭国の本拠地(首都)は倭奴国(博多)だよ
倭奴国が「倭国の極南界」とあるから
倭国の領域は必然的に博多および博多の北の地域ということになる
博多の北の地域=壱岐、対馬、任那、出雲、北陸
この辺りだろう
環日本海の領域だね 博多が倭国の極南界って書かれてるから
57年の時点では中部南部九州は「倭の別種の小国」だったんだろう 倭国大乱前の倭国
瀬戸内海〜畿内だよ。
日本海側、九州、尾張は倭国ではない。 >>274
日本列島のことを知らなかった古代中国人の認識では
・朝鮮半島の南に住んでる漁師が「この海をさらに南に行くとまた島があるんです」とか言うから行ってみたらほんとに島があって人も住んでるぞ!そいつらまとめて倭人と名付けよう!
・上海の海岸に住んでる漁師が「海で遭難して東に流されたら島があって住民みんな刺青してたんだよ、でも助けてくれてここまで帰してくれた」とか言ってるぞ!刺青とか気持ち悪い!東テイ人と名付けよう!
って感じで
当然同じ日本列島のことなんだけど、当時の古代中国人の認識では別の国だと思ってるわけ
ルートが違うからね >>278
逆
日本海側が古代からの倭国
瀬戸内海〜近畿のほうが新興地域 しかし107年の倭国王帥升は畿内の王だろうね
(王が自ら外征するのは新興国の証だよね、国がデカかったら王は都から離れられない)
九州の倭奴国に金印をあげてる手前、漢王朝は困っただろう それで、どこのチンピラなんだ?
と聞いているんだよ >>253
応神って諡号つけた時点では、応神天皇が初代って認識だったの? >>253
建てない
九州の王なら畿内を征服しても九州で政務を行う 倭国の首都は任那→(対馬)→博多→畿内と移っていったんだろう
中国からの認識でも、倭国の重心位置が時代とともに南下していってる
理由は主に朝鮮半島での戦乱から逃れるため 沖縄じゃないぞ
時代が下るに従って東テイ人って言葉は使われなくなって倭人に統一される >>283
神功皇后が武内宿禰と不倫したのは有名だったらしい。
仲哀が亡くなってから応神が生まれるまでの日数に記紀がこだわっている。
石を重しにして産まれるのを遅らせたという伝承もある。 >>285
倭国の首都は、対馬(高天原)、出雲、筑紫、大和の順に移動した。 >>291
違うよ
認識が統一されるんだよ
「倭国は朝鮮半島の南の海の中にあり、それは会稽の東にあたる」って記述に変わる
東テイ人の国と倭国とを同じ地域を二重記述してたんだと気付くわけだ 後漢書では、
「倭は會稽東冶之東」にあるとし、
さらに、
「會稽海外有東鯷人」
と倭と東鯷人は別の国だと認識している >>290
高天ヶ原は任那だよ
対馬には聖地である痕跡がない
対馬が聖地なら後の天皇も参拝しにいってるはずけどその記録もない
任那は新羅領になってしまったから天皇が参拝できないのは当たり前で不自然じゃない >>288
外交上当たり前のことだよ
別の書では帥升を倭面土国(ヤマト国)の王と書いている
帥升は大型の朝貢を行っている
これは当然だけど何らかの見返りを求めてのことであって
つまり倭国内の覇権争いだろ
(卑弥呼が狗奴国に対抗するために魏に朝貢したのと同じ)
倭奴国との覇権争いを優位にするために、倭面土国の帥升は国王自ら漢に行き大型の朝貢を行ったわけだ 外國記に、
「曰:周詳泛海,落?嶼。上多?,有三千餘家,云是徐福僮男之後,風俗似?人」
とかいうのが出てくるね 帥升も倭奴国と同じ九州北部だろ。
2世紀初頭の大和には何もないぞ。
そもそも帥升の帥は太宰の帥、一大率の率と同じ。
職名だよ。 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。 倭王だから、対馬海峡周辺にいたはず。
後漢の頃は倭国の領域は狭い。 筑紫の倭王の称号として帥が使われたということだよ。 >>301
博多が極南界
出雲や北陸は博多以北だから後漢書の記述と矛盾しない てか今の天ちゃんの出発点は継体
それ以前の奴らとは無関係
出雲の国譲りからして継体のころの話 >>274
山海経を信用すると古代韓民族は存在していなかったことになるだろ
それでいいのか?
朝鮮半島は紀元前五千年頃まで無人でそれから日本列島から縄文人が進出して最初の住民となったことは
縄文土器に類似した土器の出土とミトコンドリアDNAの分布によって明らかだろが
そもそもお前
「海中有倭人」ていうのは倭人が島に住む民族であり大陸とは無関係と言ってるじゃねーか
漢文もその訓読体も読めないバカタレ文盲かよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>309
年代の根拠は?
というか、応神が現在の始祖じゃないか? >>301
俺は思うのだが
卑弥呼のいた国は邪馬台国ではないのだろう
三国志が書かれた時点で卑弥呼は故人であり現状の女王は跡を継いだ台与なのだから
「南至邪馬壹國 女王之所都」の「女王」とは少なくとも卑弥呼ではない台与かそれ以降の女王だ >楽浪海中有倭人
「〜海中〜」
楽浪郡も半島の中心部だから三方が海で囲まれてる
それにこれ古代書の定型文な
別に島嶼じゃなくても使われる
こんな初歩的なことも知らないってガイジか >>313
何言うとんやガイガイマンwwwwww
楽浪郡の東は臨屯郡で南は帯方郡だから一方向しか海に面してないだろが
生まれつきなのか怪しいお薬でもキメて知的障害でも起こしたのか知らんがはよ病院いけンゴwwwwwwwwwwwww 漢代の大楽浪郡時代でも南は真番郡だか辰国なので2方向でしかないな
まあそもそも陸路で行ける土地は絶対に「海中」なぞ言わん訳だがあのガイジの中では違うらしい はい、313のソース
https://books.google.co.jp/books?id=dopwDgAAQBAJ&lpg=PP1&hl=ja&pg=PA28#v=onepage&q&f=false >>316
違うな
その部分は「朝鮮在海中」の後に「越之象也」と文章が続く
「朝鮮在海中、越之象也」とは「朝鮮は海中に在りてこれを越える象(像/かたち)なり」となり
朝鮮が「海中にある」のではなく「海中にあってこれを越すようなもの」と言っているのだ たしか現代中国語でも「〜みたい」は「好像」っつてたなwwwwwwwwwwwwww そもそも漢書のあの部分には「象也」って表現が何度も出てくるんだよ
あれは「〜みたいだ」という断定的ではない言い方なんじゃないのか? >>316
漢書天文志だね
占いの結果、○○だったよ、と言ってるんだな
「元封中,星孛于河戍。占曰:「南戍為越門,北戍為胡門。」其後漢兵?拔朝鮮,以為樂浪、玄菟郡。
朝鮮在海中,越之象也;居北方,胡之域也」 元封中、星、河戌に字する有り。占に曰く、「南戌を
越の門と為し、北戌を胡の門と為す」と。其の後、
漢の兵、朝鮮を撃抜し、以て柴浪・玄詞郡を為る。朝
鮮は海中に在り、越の象なり。北方に居り、胡の域なり。
よく分からん
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/60997/cks_029_047.pdf 占いの結果なら必ずしも現実そのままを言う必要はないと思うんですけど(凡推理) 占いを踏まえてその結果(史実)を記述するのは、中国史書(天文志等)のパターンですね 胡越
古代中国の、北方の胡の国と南方の越の国。互いに遠く離れていること、また、疎遠であることをたとえていう語。
こんなのが関係してくるのかな 「朝鮮は海中に在って、越を表しており、北方には胡が存在する。」ぐらいか 半島の北部が漢の領土になったので、海中に在る朝鮮と北の諸国は疎遠になったよ、ですかね おんな こども 白髪白髭の男 ・・・ 八幡宮って変な組み合わせの神様だな。 継体以前の記紀の記述は説話的な創作ファンタジーなが多いので、
その利用には禁欲的でなければならない。 息長帯媛命はいたけど神功皇后では無い。
朝鮮半島に無理やり出兵したのは、斯羅地域(後の新羅国)から渡来した祖先の天日鉾命(イザナギの1人)の遺産相続問題(新羅国の建国で先祖らの旧領地の権益問題)が拗れたため。 神戸・垂水の五色塚古墳は4世紀後半。
それまで大きな墳墓のなかった神戸に突然大墳墓ができる。
凱旋する神功皇后軍を迎え撃とうとしたカゴ坂皇子の墓で間違いないであろう。
やはり神功皇后は実在した。 帯をタラシと読むのは
同じく日本書紀の中で韓訓として付される帯山城(シトロモロノサシ)のシトロ(帯は中期朝鮮語でstyi、現代朝鮮語でtti)に少し似ている
tara-siとsi-toro
まさかな 息長帯比売は新羅の天日槍アメノヒボコの子孫ではなかったのか? 「古事記原文」
爾以其御杖、衝立新羅國主之門、卽以墨江大?之荒御魂、爲國守?而祭鎭、還渡也
(神功皇后が屈服した新羅王の門に住之江大神を祀って帰った)
これ事実。
・南解次次雄(ナンカイジジユウ)=ナカツツノオ(中筒之男)
この新羅2代目王・南解次次雄が娘婿にしたのが新羅4代目王・昔脱解
・昔脱解(韓国語でソクタレ、ソコタレ)=ソコツツノオ(底筒之男)
中筒之男から底筒之男へ、住吉大神の見事なリレーw >>289
>神功皇后が武内宿禰と不倫したのは有名だったらしい。
>仲哀が亡くなってから応神が生まれるまでの日数に記紀がこだわっている。
>石を重しにして産まれるのを遅らせたという伝承もある。
記紀はとある理由で応神天皇の時代をグーーンと古く引き伸ばしてる。
そしてそれ以前の天皇も百歳を超える。
そうすると人間が十月十日で生れる事と合わなくなる。
だから応神が生まれるまでの日数に記紀がこだわっている。
そして住吉神社のように「皇后はんはうちの神様とエヘヘ…」などという馬鹿もでてきた。
そのグーーンと古く引き伸ばした理由は、神武と卑弥呼の時代が合うからだ。
さらに帥升とスサノオの時代が合う事になる。
日本の歴史がスサノオ(帥升)という神の土下座から始まることになる。
プライドとしてそれを隠し国史編纂したのだ。 >>296
>高天ヶ原は任那だよ
>対馬には聖地である痕跡がない
高天ヶ原は葛城だ。
金剛山(高天山)の中腹、今も御所市高天という地名を残す。
高鴨神社という日本最古の神社があり、その御神域は径百余歩。
祭神は古事記で最高神「迦毛大御神」
別名はアジスキタカヒコネ、剣をもち暴れている。
すなわちスサノオ。
対で祀られてるシタテルヒメはアマテラスの原型だ。
帥升=スサノオが連れた160人の生口は、
高天原の麓、黄泉の国から連れていかれた。
20世紀初頭、その場所は部落解放運動の聖地となる。 ヤマタノオロチは、元々は丹後半島だろう。
王が殺されて、一族が畿内で逃げ延びた。
その後一部伊吹山辺りに移った可能性がある。
伊吹山、ヤマタノオロチの神霊が住むと言われているな。
ヤマタノオロチ族と風宮の神との関係が気になるな。
級長津彦命
級長戸辺命
しなは息が長いという意味。
息が長い、吹子、鉄と関係あるかもしれない。
丹後半島に遅れて、畿内淡路島や池上曽根、彦根で鉄工房が始まるからな。
伊吹山、和歌では一途な想いの代名詞。
畿内に逃げ延びたヤマタノオロチ族は、助けてくれた勢力に恩義を感じていたのかもな。
伊吹山の神は、大和朝廷と最後の最後まで戦い抜いている。 >>338
>そのグーーンと古く引き伸ばした理由は、神武と卑弥呼の時代が合うからだ。
違うな。
神功皇后を卑弥呼の時代に合わせるために伸ばしたんだ。
伸ばされなかった場合、神武と卑弥呼は近い年代となる。 >>334
西求女塚古墳、乙女塚古墳等があるけどな。 【邪馬台国の終焉】
八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮のそれぞれの王(五十迹手、熊鰐)が出迎えているが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。
倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。
仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じ景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にする。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは、王朝の始祖神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。 >>309
無関係の根拠は?
継体が下克上か侵略で王位を乗っ取ったなら、激しい争いが起きているはずだ。
だけど、そんな形跡は全くない。しかも、大伴金村他重臣もそのままだ。
・争いも何もなく、どこの馬の骨か不明なやつがいきなり王になって一族を詐称した
・王の一族から後継者を選んだ
どっちが「怪しい」かな。 すごく遠い親戚を引っ張ってきて天皇にしたと、記紀に素直に書いてあるだろ。
それより、本当に断絶していそうなのは応神だろ。 畿内説を追い詰め過ぎたのかな。。。
犯罪者キナイコシの、スレッドを荒らすやり方が、ますます悪質になってきているよ、、、 大国主とスクナヒコナが国造りを完成させた国、芦原中津國。
応神が生まれて喜ぶのは、スクナヒコナだからな。
芦原中津國は何処を指していたかだな。
壬申の乱で負けた難波は奈良時代は寂れていた。
弥生時代、古代の難波はどういう場所だったのか?
下の長唄は、なにわの地が芦原中津國や食国と認識されていたのが分かる。
聖武天皇の難波行幸に従駕した笠朝臣金村(かさのあそみかなむら)の詠んだ一首
押(お)し照(て)る 難波の国は 葦垣(あしかき)の
古(ふ)りにし郷(さと)と 人皆の
思(おも)ひ息(やす)みて つれも無く ありし間(あひだ)に積麻(うみを)なす
長柄(ながら)の宮に 真木柱(まきばしら) 太高(ふとたか)敷きて 食国(をすくに)を 治めたまへば 沖つ鳥
味経(あぢふ)の原に もののふの 八十伴(やそとも)の緒(を)は 廬(いほり)して 都(みやこ)なしたり 旅にはあれども 神功皇后が三韓征伐に出立した謂れの残る和泉。
息長氏と関係がありそうな伊吹山〜敦賀。
スクナヒコナと関係があると思われるなにわ。
この辺が神功皇后、応神に何か関係ありそうだな。 >>342
それらは邪馬台国の隣にあった躬臣国の跡地
躬臣は意訳で本当はヲトモと読んで、これが大王の臣下という意味を持つ
大宝律令以降は雄伴郡として名を残し、その隣に菟原郡があった
菟原はウナヒと読みヲトモの女性形、すなわちウネメ(采女)の類語、女酋長を意味する ◎ここまでわかった日本書紀◎
2世紀末
倭国大乱と卑弥呼の即位
吉備・畿内同盟(百済、任那系)
考古学的証拠:墓、土器、特殊器台
文献的証拠:吉備に拠点を持つ孝霊天皇の娘モモソ姫が畿内の王大物主と政略結婚→大物主が死にモモソ姫が女王に
vs
山陰・北陸同盟(高句麗、新羅系)
考古学証拠:四隅突出墓の分布
文献的証拠:(3世紀後半だが)崇神代の記述 イツツヒコ「我の他に王はなし」
3世紀後半
台与の治世
吉備・畿内同盟
魏が滅び権威のバックを失い同盟が乱れ、崇神は大王位を失う
崇神、娘を宇佐の大王アマテラスの元に嫁入りさせる(トヨスキイリ姫=豊国の城に入った姫)
もう一人の娘を越の王大国魂に嫁入りさせようとするが失敗(ヌナキイリ姫=ヌナ川(越国のヒスイを産出する川)の城に入った姫)
(当然目的は山陰・北陸同盟の分断のため)
宇佐の大王アマテラスが死に嫁のトヨスキイリ姫が女王に 4世紀前半
神功皇后の登場
畿内王権の王子、山陰・北陸同盟の分断のため丹波・但馬・近江・若狭湾地域を支配する息長氏の王女と政略結婚
→山陰・北陸同盟を攻める→大王イトテが降伏し勝利
→息長の王女、さらに山陰・北陸同盟のバックにいる新羅・高句麗を叩くことを計画
→博多湾の王者住吉氏の王と相談→北部九州の有力者宗形氏、阿曇氏も協力を約束
→畿内の王子だけが反対する→畿内の王子、暗殺される
→息長の王女をリーダーに新羅討伐隊出発→新羅討伐に成功し帰国
→息長の女王、自らの子供を連れて畿内入り「これは畿内の王子の子供だ!だから王位継承権はこの子にある!」
→在畿内勢力「父親が死んでるじゃないか!誰の子かわからないだろ!帰れ!」
→仕方なく河内に王朝を立てる 女が王になるのは王である旦那が死んだとき、というのが古今東西の歴史のパターン
そして、日本書紀で「神」というのは「王」をぼかして書いた言葉であると見た
以上より卑弥呼、台与の正体と即位の流れは>>352のように筋道だてることができた そしてさらに同様のテーゼ「権力者である夫が死んだとき、嫁がリーダーとして事業を引き継ぐ」「『神』は王であり、『神憑り』説話も同盟国の王同士の相談である」をベースに神功皇后の生涯を>>353で書いた 卑弥呼は夫がいないから、そのパターンではないよ。
あと、応神は河内ではなく九州倭国。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています