神功皇后とは一体なんだったのか [転載禁止]©2ch.net
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神功皇后の非実在性の否定は戦後タブーとされた様に見える
朝鮮半島が倭人の女性、しかも妊婦によって征服されたなど日教組自虐史観においてはあってはならない事なのだろう とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
G0W よくよく考えたら天皇の系譜自体もデタラメ
推古天皇なんてのもいなかったし聖徳太子も記紀の潤色
まともなのは天智以降から 白髭オヤジ武内宿禰とのセックルして生まれた子が応神天皇なら、ネトウヨは発狂www 【偽装された、ルーツ】 皇室はへブル語を公用し、公文で北イスラエル″を公言してる、嘘つきは廃止
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1534731623/l50
日本人がユダヤ人なわけない、嘘つきの天皇は廃止しろ! 成務と誕生日が一緒で
景行の命令で東国に行って武という名前を持つ
倭国の人間言うたら
武内宿祢とヤマトタケルのは同じと見ていいのでは?
仲哀の話が架空であり
ヤマト姫あたりが卑弥呼なんじゃねーのかな 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 【邪馬台国の終焉】
八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮(香椎宮)に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、仲哀の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。
倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。
仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じく景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にした。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。 気長足姫尊が大和の女帝で女王卑弥呼にあたる可能性が高いから日本書紀に魏志倭人伝を入れたんだろう。女帝として漢風諡号神功は則天武后からあやかってるから。 神功皇后の実年代は卑弥呼の120年後の4世紀末だよ。 >>400
神功皇后というか、倭人伝と言う有史実年代を根拠にするなら
朝鮮半島進出の本格化は、韓4郡撤収後の313年からであって
三韓征伐ではなく、350年からの百済新羅の建国を後援したのが日本。
戦争の相手は高句麗であって、
この際に高句麗牧童や建築や金属精錬職工、鉱山技師工夫、
を連れてきて、牛馬の御牧経営や鉄の国内生産を成功に導いている。
神功皇后時代の事績としての半島進出は、倭の五王の400年では遅いし
313年以前に楽浪帯方に進出したんじゃ、高句麗の仕業じゃなくて
高句麗と四郡を挟み撃ちにした敵国として、中国史に残っちゃうよwww
記紀での天皇の誰が? は、記紀だから比定不能でも、
半島中央への進出は、313年以降360年以前。
七支刀の369年にはこれ確定してるし、この間しかない。 ごちゃごちゃしているが、要するに神功皇后は卑弥呼より後の人物ということだよね? >>402
その質問は、時系列に従う日本の古代史の話か 物語の話しか?
記紀は時空はともかく既存の物語とすると
時系列でストーリー把握するほど、ちゃんと読んでません。
卑弥呼は247年没。倭国大乱収めて190年からずっと王宮に引きこもってた、でしょ?
記紀のお話でだけどw 神功皇后は、超お忙し屋さん。
魏は238年楽浪帯方郡奪還。この年に卑弥呼朝貢で郡太守の紹介で洛陽に上った。
この、半島ー中国ー倭 の関係で 卑弥呼の邪馬台国 の三韓征伐は無い。
日本が半島進出を覚悟する理由は
この239年公孫氏滅亡。 246年韓王朝滅亡。 です。
倭人伝の 魏ー倭 外交が247年で終る。
そもそも、日本はBC200年以前から青銅を輸入していた。
魏が滅ぼした公孫氏や箕氏韓王朝と3〜500年近く緩い友好関係にあったと見て良い。
三国志終了で中原統一による辺境制圧への危機感が、
日本を古墳時代の軍事帝国化、富国強兵に導いた。
百済新羅建国〜傀儡化・・・ ・・・ 太平洋戦争に突入・・・
歴史認識がぁがぁ。 >>403
>時系列でストーリー把握するほど、ちゃんと読んでません。
把握しないで「神功皇后が云々」とか、無理でしょ。 「神功皇后のお話」を歴史の時系列に押し込むのが無理でしょ。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 国産みとかは絵空事だけど、神功皇后は倭国内で勢力争いに勝ったから、半島を攻めに行きましょうという程度の話だよね。
九州にはそれにちなむ神社、故地なども多く、普通に歴史の一部だよ。
それ以外の地域の人には現実感がないかもしれないけど。
それは、つまりはあなたが無知なだけ。 >>409
400年以前。神仙が人格の、古墳時代の神社って何? 仙境が日本だぞwww
それにちなむ神社、故地? 火山かよ? 記紀洗脳だろ。
自然神、地場神を書き換えた記紀神話や
明治神道の神仏分離の方が日本の宗教と歴史の改竄なんだよ。
地域の人には? 仏教公伝以前の神社なんて有んのかね? >>411
藁ぶき竪穴建築の社とか文字の無い時代の石碑とか、九州にごろごろですか?
土偶は神格化してるとは思えないけど、九州じゃ神格化された形跡有るかな?
神域に墓所は禁非だし、仏教以前は憑依シャーマン
地神の対象は火山や海岸、滝、自然石、あってもシャーマンの為の柱の結界では?
宗教観ってのは、歴史で洗脳されてんだよ。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>413
後世の撹乱によりわけがわからなくなっているのはあんただ。
何が竪穴式の神社だ。
アホか。
九州北部では、紀元前の吉武高木遺跡からすでに中心となる宮は高床式だよ。
土偶なんてもっと後世のものだろ。
なんでそんなものを持ち出すのかさえ理解できない。
墓所がなんだって? なんで三韓征伐で朝鮮に勝利し一時的に支配したと大嘘ついたのかな >>415
紀元前の吉武高木遺跡 には、確かに筑紫地域の王宮はあった。
古神道神社の発祥と土偶みたいな信仰の形は繋がらないけど
九州には、他の何でもいいけど 社に座る神格化した神の形跡があるか?
と言う話をしたが、理解できない、なら、九州に土偶は無かったのかも知らん。
墓は糸島の、奴隷労働には迷惑な 王家の谷であって、
黄泉の国から帰ってきても これも迷惑な話であって、神格化はしてないだろ。 >>416
好太王碑を読むと、倭が半島のかなり奥まで侵攻したことがあったのも確かだぞ。 >>417
高祖宮の祭神は日向王家の彦火火出見であり、仮に高祖宮がかつての高千穂宮であったなら、そのまま神格化した例じゃないの?
土偶はもっと後の古墳時代になってからの文化だね。
神道はもともと偶像を用いない。
天照は八咫の鏡を自らの分身だと思えという神勅を残した。
邇邇芸が筑紫の日向に運んだと伝えられるその鏡は高祖宮に近い平原遺跡から出土した。 >>416
古事記と日本書記を並べて読んでないんで、詳しいエロい人教えて君ですが・・・
唐は日本が百済復興で白村江海戦を全面後援したことは知ってるわけだけど
五経博士や仏教公伝、七支刀とか、百済から献上させたことも書いてあるんだよね?
で、
三韓征伐は、魏志倭人伝の247年より後なわけで、
百済と新羅は倭人の支援で高句麗越しに350年位に朝貢、建国している。
これ、合戦で征伐と言うより同盟?、むしろ冊封とか調服じゃないのかな?
663年以降の、対馬国境画定ってのが、対唐和平交渉の肝であって
この時の記紀は、百済、新羅に対して一時的に支配してた、って嘘、じゃなくて、
そもそも、建国から傀儡だったことを隠してると思うね。
以降の緩衝材、新羅温存も含めて・・・ >>419
話しが通じないのは、気付いているんだけど
土偶は埴輪じゃないです・・・
縄文の具像だけど神では無く、生命の源泉女性の象徴、珍棒とペアだったりw
>天照は八咫の鏡を自らの分身だと思えという神勅を残した。
これが、古墳時代に神社が無い、って事を具現してて
古墳に死者に添えて副葬されるものだった銅鏡を、庶民が礼拝する神に化かす
っていうのは、古墳時代を忘れちゃわないと出てこない信仰の形なんだな。
またエロい人の教えを請わんといかんけど
記紀ってのは、神話の主人公(被葬者)の古墳の特定してないよね。 神社の建物は弥生時代の王宮の形そのままだろ。
副葬された鏡は、生前は故人が使用していたのだろうね。 記紀はちゃんと天皇陵を指定しているよ。
ただ、それが実際のどこであるかがわからなくなったいるだけ。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>423 マジかよwww
少なくとも皇室古墳は現存するんだから250年以降の畿内前方後円墳と大型古墳
で、年代順にまとめて同定してみりゃいいのにね。 架空の人と・・・
この250〜400年の間って、応神天皇迄の3〜5代分くらいの古墳になるんじゃないかな?
記録が記紀だと4〜500年って決まってる倭の五王ですら同定不可能なんだな。
考古学って、学問としてはやる気ないんでしょwww 天照大神は則天武后何だろ
白村江に負けて日本は唐の属国になった
アマテラス何てそれまで誰も奉って無いのに急にありがたがり
日本書紀に古事記まででき、オオキミから天皇に呼称まで変わった
皇帝から天皇へ呼称を変えたのも武則天
時代的にも一緒 日本皇族の武則天への憧れは異常。唐から周になった混乱期は律令制完成させた日本にとって国際地位を上げるのにチャンスだったんだよ。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>425
記紀では、何々天皇の陵墓はどこそこの何々陵と書いてある。
ただ、それがどこなのか地名からしてわからなくなっている。
一応、宮内庁とかが「どこそこのアレだろう」とやったが、どうやら間違いだらけで混乱している。 >>429
記紀を創作した、日本の皇室が記紀を信じて真に受けたら自滅だろ?
由々しき事態だなw
宮内庁は仕事の仕方改めた方が良いと思うwww 陵墓指定は百害あって一利なし。
明治以降に立ち入り禁止となった陵墓は、木が鬱蒼と生い茂り始め、根が地下構造物をめちゃめちゃにしてしまった。
江戸時代までの入会地や神社の管理地の方がまだ手入れされていた。
陵墓指定されなかった古墳は壊し放題になった。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. K-POPのコンサート制覇したがってるおたふくならうちにもいるよ
毎日かけごえの練習してる ということにしないと、何か都合が悪いのか?
三韓征伐を認めると不利になる立場の国の人かな?
政治的思惑で歴史を歪めるのは良くないよ。 津波に乗って行ったら相手国が降伏したなんて
普通なら歴史学者から否定しなきゃいけないと思うんだがな
あれが事実を反映してるとか
どうやったら思えるのかと 高潮に乗じて攻略した、ならば日本語としては誤りではない。
別に波乗りをしていたわけではないぞ?
記紀の批判を読むと、この手の日本語を知らないが故の誤解が多い。 >別に波乗りをしていたわけではないぞ?
>記紀の批判を読むと、
>この手の日本語を知らないが故の誤解が多い。
え、記紀に「高潮に乗じて攻略した」なんて書いてあるの? 海戦なら潮の満ち引きを知っている方が有利だ。
壇ノ浦の戦いでもそうだったよね。
潮の満ち引きの方が当時の船より速かったのだろう。
神功皇后は干珠満珠という宝玉で潮の満ち引きを操ったことになっている。
ちなみに、神功皇后がこの宝玉を祭るために祭壇を立てたことに由来する地名が壇ノ浦。
その玉は、高良大社にあったはず。
筑後の高良玉垂宮の玉垂はこの宝玉のこと。 >>441
玉垂は宝玉その物のことじゃなくて、宝玉に穴を穿って玉すだれに編んだ時の緒のこと。
後撰和歌集には詠み人知らずで「玉垂の 編目の間より 吹く風の 寒くば添えて 入れん思いを」とある。
数珠の房だと思えば良い。
別説として久留米大善寺では玉垂の玉は美称で、房そのものを示すとしてる。 神功皇后の三韓征伐は倭国が任那等に権益を持ってた事への仮託
そして三輪王朝から河内王朝への橋渡し役 >>442
あんたみたいに出典や根拠を出して説明してくれる人好きだぜ 高良大社では古くから、滴型の突起を持った宝玉を崇めている。
実物を見ることはできないが、形代が祭りには登場する。
ミニチュアのお土産もある。 干珠満珠の色や形については、高良玉垂宮神秘書に書いてある。
佐賀河上神社や神功皇后、武内宿禰、祇園山古墳との関係も書いてある。
https://lunabura.exblog.jp/28936827/ >>446
まさかスピ系に誘導されるとは思わんかったわwww ◆実年代=古事記の没年情報(卑弥呼=魏志倭人伝、※神功=日本書紀)+中国への朝貢記録+同時代人
◇奴国(博多)【後漢皇帝の冊封を受けて外交デビュー→大陸や半島との貿易&交流本格化】
漢委奴国王(情報なし)…57年(後漢光武帝より金印を賜る)
「帥升」(情報なし)…107年(後漢安帝に謁見を願い出る。生口160人を献上)
◇邪馬台国【狗奴国との争い→魏帝・西晋帝に援軍要請】
卑弥呼(〜247年)…239年/240年/243年/245年/247年(大夫…難升米、載斯、烏越、伊聲耆、掖邪狗ら)
台与(235年〜?)…248年(13歳で邪馬台国女王に共立)/266年(西晋武帝・司馬炎へ)
◇大和朝廷
T.三輪(佐紀)朝【国内統一→半島派兵(新羅攻撃)開始→任那日本府設置(鉄資源を大量獲得)】
10祟神(〜318年)…四道将軍(大彦/武渟川別/吉備津彦/丹波道主)派遣、310年頃?
11垂仁(情報なし)…330年頃没?新羅王子「天之日矛」帰化、田道間守 、野見宿禰vs当麻蹴速
12景行(情報なし)…343年頃没?日本武尊の東征&西征335年頃? 大臣・武内宿禰(〜応神)
13成務(〜355年)…国造/県主設置(国内統一完成)
14仲哀(〜362年)…新羅征伐(関門海峡開削=北朝/高句麗艦隊の瀬戸内海侵入リスク)に反対、神罰で崩御(暗殺)
神功(※〜389年)…「旨」(「泰和4年」369年銘石上神宮七支刀→372年百済・近肖古王より贈呈)
U.河内朝【半島派兵(高句麗との争い&百済支援)本格化→大将軍位を求め、南朝(東晋/宋/斉/梁)帝に朝貢】
15応神(〜394年)…「禰(でい)」
16仁徳(〜427年)…「讃」(413年/421年/425年)
17履中(〜432年)…「倭国王」(430年)
18反正(〜437年)…「珍」(438年)←没後朝貢?
19允恭(〜454年)…「済」(443年/451年)
20安康(情報なし)…「興」(460年/462年)
21雄略(〜489年)…「武」@(477年/478年)「獲加多支鹵大王」…辛亥(471)年銘稲荷山鉄剣+江田船山鉄剣
22清寧(情報なし)/23顕宗(情報なし)/24仁賢(情報なし)
25武烈(情報なし)…「武」A(502年)
V.近江朝【中央集権強化】
26継体(〜527年)…「男弟王」癸未(503)年銘人物画像鏡(隅田八幡宮) >>447
いやいや、スピ系の部分をスキップしてくれ。
その人は古文献の解析や古社の実地調査では定評があるよ。
リンクを辿れば膨大な知見が得られると思う。 漢委奴国王(情報なし)…57年(後漢光武帝より金印を賜る)
「帥升」(Shuai sheng) スサノオ…107年(後漢安帝に謁見を願い出る。生口160人を献上)
◇邪馬台国【狗奴国との争い→魏帝・西晋帝に援軍要請】
卑弥呼(Bei mei hu)ヒメ后〜247年)…239年/240年/243年/245年/247年(大夫…難升米、載斯、烏越、伊聲耆、掖邪狗ら)
台与」 トヨ津媛(235年〜?)…248年(13歳で邪馬台国女王に共立)/266年(西晋武帝・司馬炎へ)
◇大和朝廷
T.三輪(佐紀)朝【国内統一→半島派兵(新羅攻撃)開始→任那日本府設置(鉄資源を大量獲得)】
大物主を倒す易姓革命
10祟神(〜318年)…四道将軍(大彦/武渟川別/吉備津彦/丹波道主)派遣、310年頃?
11垂仁(情報なし)…330年頃没?新羅王子「天之日矛」帰化、田道間守 、野見宿禰vs当麻蹴速
12景行(情報なし)…343年頃没?日本武尊の東征&西征335年頃? 大臣・武内宿禰(〜応神)
13成務(〜355年)…国造/県主設置(国内統一完成)
14仲哀(〜362年)…新羅征伐(関門海峡開削=北朝/高句麗艦隊の瀬戸内海侵入リスク)に反対、神罰で崩御(暗殺)
神功(※〜389年)…「旨」(「泰和4年」369年銘石上神宮七支刀→372年百済・近肖古王より贈呈) −倭国中枢(北部九州)…「魏志倭人伝」
邪馬台国VS狗奴国=曹魏vs孫呉の代理戦争勃発(「孫」呉は狗奴国後背地・宮崎へ「天孫降臨」で後方支援)
→曹魏、帯方郡の張政を派遣→神武東征(敵前逃亡)狗奴国滅亡→邪馬台国勝利するも、台与で断絶→崇神の四道将軍に降伏、ヤマト王権の配下へ
−辺境地域(本州/出雲・吉備・大和)…「古事記&日本書紀」
出雲(朝鮮半島から青銅・鉄鋌の輸入販売)&吉備(瀬戸内海の製塩・桃販売)の混血王・大物主が、東海と共に唐古鍵を挟み撃ちにして征服、ヤマト王権樹立(纏向型前方後円墳)
→饒速日(神武東征)→物部氏として臣下へ→崇神、四道将軍を派遣し、邪馬台国を併合、全国統一 きちんと調べてるのは分かるんだけど、調査で得た知識3割に7割のファンタジー乗せちゃってるからスピ系やらオカ系に成り下がってるよな。 >>454
まぁ、それが彼女のビジネススタイルだからな
あれでメシ食えてるんだから俺らより数段に上 >>455
メシ食えてると数段上って解釈が分からんな >>457
たとえ7割がファンタジーでもお金を払う価値を認める第三者が数多くいる時点で上だよ >>460
古代史は真面目な学問だが
古代史本の7割はファンタジー
歴史学者の7割は営利目的 >>461
学説を否定してトンスルファンタジーを展開する朝鮮人の言い草みたいだな 香椎民だけど、幼い頃より神功皇后伝説を当たり前のように
聞いて育ち、不老水の裏には武内君という地主の家の同級生が住んでて
武内宿禰の子孫と言われていた。
明治時代まで鹿児島本線(頓宮付近)まで海があったと香椎宮参道大鳥居に
記録されていて、太古の昔は香椎宮まで海岸線だったと思っていた。
仲哀天皇が作戦会議した所らしい碑が香椎宮の山の中に立ってる。
ちなみに今の香椎宮は新しくて裏側の古宮の方が元々祀ってたとこ。
同じ校区の宇美とか志免とかも応神天皇を産んだとこだから宇美、
志免もオシメを替えた所だから志免。
こういうのがゴロゴロしてるよ。 本読んでネット見て妄想してても、しようがないでしょう。
現地においでってことだよw >>464
知らずに、神功皇后の非実在説を口走る輩がチラホラいるよ。 神功皇后とは、当時の朝鮮南部に出兵していた倭国の史実を一人の存在に仮託したものだな まあ、怪しげな伝承も一部あるけど、福岡の遺跡を見れば非実在論はトンデモに思えるね。 とはいえ伝説は後付け可能で、一度世にでると簡単に定着してしまうからな >>468
だとすれば仲哀天皇や應神天皇でも良かったはずなのに、あえて皇后にその役を当てた理由がよく分からなくてロナンを感じる >>469
仲哀天皇は、
>『日本書紀』の記述のみでも日本武尊の子である仲哀天皇が日本武尊の
>死後36年後に産まれたことになってしまう。(Wikiより)
と言う上記の記述から、架空の天皇である
架空の天皇の皇后もまた架空の存在だと思われる 計算間違いや記録の混乱はあっても、仲哀が非実在だとは思わない。
仲哀の記事は天皇家にとって危うい内容が含まれており、わざわざ創作する意味がない。
むしろ、正統性を主張するためには記載しなければいけなかった史実を含んでいるのだろう。 >>472
神功皇后が腰掛けた石、水を汲んだ井戸、軍議を開いた宮などがあったように記憶する。 仲哀と神功皇后を語らないと、応神天皇がそれ以前の天皇家と結びつかなくなってしまう。
だが、仲哀天皇の死の経緯はまるで暗殺とも取れるし、応神天皇の誕生日との関係も微妙で、神功皇后が石を抱いて出産を遅らせたことになっている。
記紀編纂の時点で仲哀天皇と応神天皇の関係についてはすでにさんざん取りざたされており、隠しようがなく、創作して誤魔化すのにも限度があったので、石を抱いたなどの言い訳を追加したのだろう。
その石が残っているのはやり過ぎだけどね。
神功皇后についてはむしろ物証が気持ち悪いくらいに残り過ぎ。
一部は偽装なのだろうが、それはあくまでも実在の記録に付け加えているだけ。
記紀について、直接の完全な創作はないだろう。
奈良時代にすでに記録が混乱していたというだけ。 >>477
例えば、明治天皇がここを何年に訪れましたと伝承があり、石碑が立っていたとする。
それがただの史実かどうか、どう判断する?
戦後の昭和天皇だと写真が残っていたりするけど、戦前まではそうではない。
科学的には神功皇后の非実在説と明治天皇の非実在説は変わらないレベルの話になる。
極論だけどね。 口伝をきちんと整理する過程で「あれ?合わんくね?どーする?」みたいな問題が起きてたんやろな。 まあ、この石を抱いて出産を遅らせましたという石があるというので、むしろ怪しすぎるものはある。
しかし、福岡を舞台にそれらしき人物がいて応神天皇を生んだのは確かなのだろう。
そうでなければ応神天皇自身が存在し得ない。 記紀でそれぞれ食い違いもあるし、日本書紀は異説も併記してある部分もある。
ただし神功皇后の部分は整理され過ぎで、かえって怪しくなった。
しかしながら、非実在は言い過ぎ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています