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邪馬台国は九州南部くさい [転載禁止]©2ch.net
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0001日本@名無史さん
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2015/01/26(月) 11:05:07.61
邪馬台国が西都原(宮崎県西都市)である証拠。

1、地名の語末に『都』という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。
 類例、京『都』、東京『都』、神武建国の伊『都』国。宇『都』宮のような音借とは違う。
 西都の「西」、方位の事ではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味。
 (日向地方は九州島の東海岸沿いにあり矛盾するから。)
2、日向地方は冬も温暖。真東に海がある。原文(倭人伝)に沿わせるとこうなる。
3、三角縁神獣鏡も出土。(半島や中国から1枚も出土しないので鏡は純国産。)
4、西都のオサホ塚はもともと九州で一番大きな円墳で卑弥呼の墓だから黒板勝美が
  尻尾をつけて墓を捏造。さらに柵で囲って現在宮内庁が管理。そのため発掘させてくれない。
  9割以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。
5、九州で一番規模のでかい古墳群遺跡は西都原である。規模のてんからいってもここが
  邪馬台国の跡としてふさわしい。さらにシャーマニズムの卑弥呼とも思わせる斎殿原跡が存在。
  これだけ大規模な遺跡であるから長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都であった
邪馬台国(大国)の所在が特定できないのは不可思議な話。政治的意図(半島からやってきた天皇
および天皇制)による政府の組織的隠蔽工作が行われたと思量する。これに加担する畿内説信者は
不快である。
6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は「西都原」。
7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は九州で一番人口密度が高かった。
  人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。

朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書」は畿内説による歴史改竄でオサホ塚に
後方部をつける改修であり好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も同一の歴史改竄。
記紀による天皇家の出自も改竄で、現実は神武も卑弥呼も朝鮮半島からきた。
これらの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。
西都原の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。
0002日本@名無史さん
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2015/01/26(月) 12:24:28.77
倭人は帯方の東南、大海の中に在り、山東に依りて国邑を為る。
帯方郡より倭に至るには、
帯方郡
↓韓国
↓【南】海岸水行7000里
狗邪韓国
↓【南】海渡1000里
津島国(方400里、千戸)
↓海渡1000里
一支国(方300里、三千家)
↓海渡1000里
末盧国(四千戸)
↓【東南】陸行500里
伊都国(千戸)※大率が置かれる
↓【東南】100里
奴国(二万戸)
↓【東】100里
不弥国(千戸)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)
↓【南】水行10日・陸行1月
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)→【東】海渡1000里、国あり皆倭種
↓【南】4000里
侏儒国
↓【東南】船行1年
裸国・黒歯国

◎女王国以北
斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、弥奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、対蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、鳥奴国、奴国
その南に狗奴国あり。男王・卑弥弓呼。その官に狗古智卑狗あり。女王国に属せず。
◎帯方より女王国に至るまで12000里
◎倭の地を参問するに、絶えて海中洲島の上に在り、あるいは絶えあるいは連なり、周施5000里
0004日本@名無史さん
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2015/01/27(火) 09:40:45.37
冬も温暖
東に海
0005日本@名無史さん
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2015/01/27(火) 12:42:13.33
女王国の北に21国あるのだから、北部九州でないことは明白。
その余の、遠絶にして詳らかにできない某国というのが本州だろう。

そして、女王国の東には海があり、その向こうには倭種が住むという。
そこは四国であり、女王国は九州東部で決まり。

そして、四国の南については書いてあるが、女王国の南については
書いてない。
これは、女王国が九州東南部であり、南には他に国がないことを示している
と考えられる。

西はどうかというと、奴国という、女王国に向けて南下した不弥国の
西にある国(奴国)の南に、女王国と対立する狗奴国があると書いてある。
つまり、女王国の西は狗奴国。

魏志倭人伝は、最小限の文章で、九州全域、女王国の東西南北を
明確に記述しているのだよ。

奴国→不弥国
↓   ↓水行
↓   ↓水行
↓  投馬国
↓    ↓水行
狗奴国  ↓陸行
    女王国(海)→四国
    (海)
0006日本@名無史さん
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2015/01/27(火) 13:39:20.45
くさいわ
0009日本@名無史さん
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2015/02/11(水) 16:35:55.20
九州南
0011日本@名無史さん
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2015/02/22(日) 11:09:38.17
薩摩の由来は、ツングース語の薩満
0012日本@名無史さん
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2015/02/27(金) 09:01:34.72
俺、3カ月前から関心持ち始めたニワカだけど、最近南九州かもと思い始めた。
畿内は99%ない。北九州説も最近疑い始めている。倭人伝を読むカギは投馬国
がどこにあったのかだが、伊都国、奴国、不彌国は北九州でいいとして、そこから
水行20日の投馬国は北九州から外れているとしか思えず、さらに南の邪馬台国は
南九州と考えるのが自然。当時の船で水行20日でどのくらい進めるのかが問題だが。
0013日本@名無史さん
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2015/02/27(金) 11:58:22.33
754 名前:日本@名無史さん :2015/01/15(木) 00:14:06.15
卑弥呼も邪馬台国も、陳寿の頭の中では明確に特定されてる。
陳寿は、倭国は周旋五千里ばかりとし、邪馬台国は不弥国から南へ水行20日、さらに
南へ水行10日、陸行1月とした。

「そのままだと九州を通り越す」と言う奴は馬鹿。保証する。

天才陳寿は、出鱈目を書いたのではない。
彼の地図に矛盾はない。

水行は、河川交通。
魏志において、河川でなく海の場合は、必ず海と書いてある。
川を遡るのは時間がかかる。江戸時代、川越から日本橋の往復で2週間。
上りが多く、整備されていない川だと、20日で数十kmがやっとだ。

道無き道を歩くのも大変で、1日5kmも進めない。
街道が整備された江戸時代の例から、1日20km進めると言うやつはキチガイ。

陳寿が明確に特定した邪馬台国は、東に海がある。

以上を総合すると、邪馬台国は、大分から宮崎の辺り。
それ以外にはあり得ない。
0014日本@名無史さん
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2015/03/02(月) 15:22:50.55
そうだったんだ!!
0015日本@名無史さん
垢版 |
2015/03/04(水) 13:11:02.10
確かに宮崎県は西都、都城等の都がつく地名があるね。
高千穂峡、高千穂峰、どちらが天孫降臨の地であっても
宮崎県内だし、有り得ない話ではないかもね
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