邪馬台国は九州南部くさい [転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
邪馬台国が西都原(宮崎県西都市)である証拠。
1、地名の語末に『都』という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。
類例、京『都』、東京『都』、神武建国の伊『都』国。宇『都』宮のような音借とは違う。
西都の「西」、方位の事ではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味。
(日向地方は九州島の東海岸沿いにあり矛盾するから。)
2、日向地方は冬も温暖。真東に海がある。原文(倭人伝)に沿わせるとこうなる。
3、三角縁神獣鏡も出土。(半島や中国から1枚も出土しないので鏡は純国産。)
4、西都のオサホ塚はもともと九州で一番大きな円墳で卑弥呼の墓だから黒板勝美が
尻尾をつけて墓を捏造。さらに柵で囲って現在宮内庁が管理。そのため発掘させてくれない。
9割以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。
5、九州で一番規模のでかい古墳群遺跡は西都原である。規模のてんからいってもここが
邪馬台国の跡としてふさわしい。さらにシャーマニズムの卑弥呼とも思わせる斎殿原跡が存在。
これだけ大規模な遺跡であるから長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都であった
邪馬台国(大国)の所在が特定できないのは不可思議な話。政治的意図(半島からやってきた天皇
および天皇制)による政府の組織的隠蔽工作が行われたと思量する。これに加担する畿内説信者は
不快である。
6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は「西都原」。
7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は九州で一番人口密度が高かった。
人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。
朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書」は畿内説による歴史改竄でオサホ塚に
後方部をつける改修であり好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も同一の歴史改竄。
記紀による天皇家の出自も改竄で、現実は神武も卑弥呼も朝鮮半島からきた。
これらの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。
西都原の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。 もう少し薩摩について勉強しなおせ
鹿児島の南国風土で人情味あふれるところなんて邪馬台国くさいけどな
それに大隅宮崎側もあるし 南九州では米が育たない
そもそも大きな権力が纏まる素地がないのだ
>>193
関門海峡を川だと思ったと考えれば本州で何も問題はない
そもそもあの狭い海峡をちょっと見て本州と九州が別の島だと認識するのは難しいことだろう >>198
その通り。
53 名前:日本@名無史さん :2016/02/29(月) 02:12:26.02
そもそも鹿児島なんぞは、古来から人も物も何も産み出さず
やった事と言えば、虐殺とレ○プ婚と犯罪者の産出のみ。
そして未だ全都道府県断トツの低学歴県であり
日本の癌である。
65 名前:日本@名無史さん :2016/03/04(金) 03:07:18.43
>>64
そう。それにプラスして>>61の人も語っている通り
・敬語の概念がない = 日本人的な奥ゆかしさ、
協調性が皆無
・本邦に類を見ない「ステガマリ」などの自爆戦術を使っていた
・統計開始以来、4年性大学進学者が全都道府県断トツで
低比率である = 低学歴 = バカの巣窟
・そもそも、曽於市と志布志湾沿岸を除いた
鹿児島県出身者は、古来より他の日本人とは血液指数、
指紋指数が全く異なる。(変死体判別に有効であり、
法医学関係では有名な話)
上記を鑑みれば、日本民族ではないとしても差し支えない。 ・木崎原、泗川を始めとする島津の戦果は全て捏造
・古代3陵墓偽造(ただの丘)
・熊襲関連艤装(熊襲は本来熊本県に盤踞したものであり、鹿児島は関係ない)
・
53 名前:日本@名無史さん :2016/02/29(月) 02:12:26.02
そもそも鹿児島なんぞは、古来から人も物も何も産み出さず
やった事と言えば、虐殺とレ○プ婚と犯罪者の産出のみ。
そして未だ全都道府県断トツの低学歴県であり
日本の癌である。
65 名前:日本@名無史さん :2016/03/04(金) 03:07:18.43
>>64
そう。それにプラスして>>61の人も語っている通り
・敬語の概念がない = 日本人的な奥ゆかしさ、
協調性が皆無
・本邦に類を見ない「ステガマリ」などの自爆戦術を使っていた
・統計開始以来、4年性大学進学者が全都道府県断トツで
低比率である = 低学歴 = バカの巣窟
・そもそも、曽於市と志布志湾沿岸を除いた
鹿児島県出身者は、古来より他の日本人とは血液指数、
指紋指数が全く異なる。(変死体判別に有効であり、
法医学関係では有名な話)
上記を鑑みれば、日本民族ではないとしても差し支えない。 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>200
食物もマズイものしかない。
鹿児島支店のやつに「森伊蔵を50本買ってこい」
と言って持ってこさせて、目の前で全部叩き割るのは楽しいぞ。 発狂しそ〜だなw
ちょっとやばいなこれ
何がやばいかは教えないけど〜 薩摩 = 卑劣な野蛮人の巣窟
最も旅行に行きたくない都道府県
九州で南の方は熊本と宮崎見たら帰ろうw >>207
まあそれは極端だが、徳之島に行くときは気をつけろ。
まかり間違えて、地元民の車にクラクションでも鳴らせば
鎌で腕を切り落とされたり、宿舎に猛毒蛇のハブを
大量に投げ込まれたりと大変な事になる。
これは真面目な話しだからよく覚えておいてくれ。 てことは、狗奴国は都城付近、天孫降臨の高千穂の峰のあたりだね >>213 狗奴国は、都城か志布志湾辺り。
高千穂峰は、単なる崇拝の対象だけで国がある訳がない。
富士山に国がないが如し。
俺、宮崎に高校までいたけど、何故高千穂峰に天孫降臨したなんて話を作ったんだろうと不思議でならなかった。
何もないところだよ。
しかし、西都原に邪馬台国があって、高千穂峡が通り道で邪馬台国に入ってきたのなら、高千穂が神聖な地名となっただろうし、霧島連山の噴火を見てそこを高千穂峰と名付けて崇拝したのはわかるようになってきた。 狗奴国は熊本だな。
其の南の其は、邪馬台国じゃないよ。 >>215 もしそうだとしたら薩摩はどこに行ったんだ?
縄文時代から貝文土器の様に高度な文化を持ってた国が話に出てこない訳がない。 >>217 それはない、古代から鹿児島の影響範囲は宮崎の南の方だけ。
方言が全く違う。
都城とかは鹿児島の勢力範囲内 >>220
日向国【ひゅうがのくに】
旧国名。日州とも。西海道の一国。現在の宮崎県。713年大隅(おおすみ)国を分置。8世紀初めに
薩摩(さつま)国を分置したとの説もある。《延喜式》に中国,5郡。国府は現在の西都市。 >>220
日向国は7世紀中期以降、律令制の成立に伴って成立した[3]。成立当初は現在の宮崎県と鹿児島県
の九州本土部分を含む広域に渡っていた[3]。
大宝2年(702年)頃に鹿児島県部分の西部が唱更国(後の薩摩国)として分立した。和銅6年
(713年)4月3日に肝杯郡、贈於郡、大隅郡、姶羅郡(現代の姶良郡とは別)の4郡が、移管し
大隅国として分立した。以後、明治初期まで日向国の領域(臼杵郡、児湯郡、宮崎郡、那珂郡、
諸県郡の5郡)に変化はなかった。ただし、米良・椎葉地域が肥後との間で近世初期まで曖昧で
あった等、領域の変化はあった[3]。 ハヤト平定以後の新しい話だろ?
邪馬台国は関係無い 西都原にも、隼人の墓といわれてる地下式の墓があるよ。 >>224
地下式横穴墓は、宮崎県の方が多いぞ。
地下式横穴墓(ちかしきよこあなぼ)とは、地面に竪穴を掘り、そこから更に横穴を掘って地中に
墓壙(玄室)をつくり、その中に被葬者を葬る墳墓である。
地上には何らの標示物もなく、田畑の耕作や農地改良の際、偶然発見されることが多かった。最近
では地中レーダー探査によって発見されることもある。西都原古墳群を北限に、一ツ瀬川、大淀
川、川内川の各流域地帯や、宮崎県中央内陸部から霧島山麓の諸県盆地にかけて分布しており、
宮崎県側で約600基、鹿児島県側で約100基が確認されている。特に、宮崎県の最西端の市えびの
市地域において、300基以上が確認されている。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/地下式横穴墓 魏志倭人伝に記載の、水行10日、水行20日、陸行一月の言っても、
シナ人の貴族の使節が今の日本人のように一生懸命歩くはずがないし、
不弥国から水行何日という表示になるのは、部下に行かせたため部下の
報告を記録したため曖昧になっているのだろう。魏史和人伝には北に
多くの傍国があったが、南には敵の狗奴国があると書いている。
位置関係から、邪馬台国は西都原しかない。 距離で記録残されても、それ読んだ人はたどり着けないよ。
何日歩きましたなら、だいたい分かる。 宮崎は鉄器と鏡が不足しているような気がするんだが、その辺どうだい? >>222 日向の国府は、日向市では無く、西都市に置かれていた。 西都原古墳群の近く。
この事からも古代の西都原は押しも押されぬ政治の中心地だったんだろう。 西都原の円墳を造っていた邪馬台国が、吉備出雲の方墳を造っていた奈良を
侵略して大和国になり、その後一部が西都原に戻り方墳と円墳を合体させた
前方後円墳を造ったのではないだろうか?その方が時代的にも合う。 >>232 違うと思うな、西都で始まった纒向型前方後円墳が大和に行って2倍の大きさで作られたという所では?
細かな時代考証は知らんが 西都原は奈良に住む人から見て、先祖が住んで西にある昔の都として
付けた名前ではないのか?
ついでに想像すると、宮崎という地名は先の都の意味ではないのか、
都城は都の城があったから付いた名前ではないのか?
そうすると狗奴国は鹿児島県になる。 邪馬台国が西都原(宮崎県西都市)である証拠。
1、地名の語末に『都』という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。
類例、京『都』、東京『都』、神武建国の伊『都』国。宇『都』宮のような音借とは違う。
西都の「西」、方位の事ではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味。
(日向地方は九州島の東海岸沿いにあり矛盾するから。)
2、日向地方は冬も温暖。真東に海がある。原文(倭人伝)に沿わせるとこうなる。
3、三角縁神獣鏡も出土。(半島や中国から1枚も出土しないので鏡は純国産。)
4、西都のオサホ塚はもともと九州で一番大きな円墳で卑弥呼の墓だから黒板勝美が
尻尾をつけて墓を捏造。さらに柵で囲って現在宮内庁が管理。そのため発掘させてくれない。
9割以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。
5、九州で一番規模のでかい古墳群遺跡は西都原である。規模のてんからいってもここが
邪馬台国の跡としてふさわしい。さらにシャーマニズムの卑弥呼とも思わせる斎殿原跡が存在。
これだけ大規模な遺跡であるから長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都であった
邪馬台国(大国)の所在が特定できないのは不可思議な話。政治的意図(半島からやってきた天皇
および天皇制)による政府の組織的隠蔽工作が行われたと思量する。これに加担する畿内説信者は
不快である。
6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は「西都原」。
7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は九州で一番人口密度が高かった。
人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。
朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書」は畿内説による歴史改竄でオサホ塚に
後方部をつける改修であり好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も同一の歴史改竄。
記紀による天皇家の出自も改竄で、現実は神武も卑弥呼も朝鮮半島からきた。
これらの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。
西都原の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。
日向国
http://komatsu0513.heteml.jp/hyuga.html 神主さんは、お祓いで
筑紫の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸の阿波岐原でイザナギの大神が禊祓いをされた時に生まれた大神たちよ。
いろいろな災難や罪や穢れを祓ってください、清めて下さい。
記紀の最初に、神がうまれる。
黄泉国から帰った伊邪那岐命は、筑紫の日向の橘の小門(おど)の阿波岐原(あわきはら)で禊祓いをした。
身に着けていた杖や帯、衣などを投げ捨てると、そこから神々が生まれた。
この伝説は、事実だろう。 魏志倭人伝に
”葬儀が終われば、家人は皆が水中で水浴び(禊だと思うが、原文の入浴に従った)をする。”
とある。 つまり誰かが死んで、イザナギが実際にみそぎをし次の王達の時代が始まったという話だろう。
筑紫の日向という表現は、筑紫と言う言葉が九州全体を指す言葉として使われていたんじゃないかな。
筑紫島=九州
つまり、九州の日向(後の国府が置かれたのが西都市だから今の日向市ではない)
日向の橘の小戸と言うのは、宮崎市の大淀川の川べりが橘と言う地名で、その下流に小戸と言う地名があり小戸神社がある。
阿波岐原(あわきはら)は、現在も宮崎市にある。 一ッ葉のシーガイアがあるあたり。 Google Mapで見てみるとよい。
宮崎市 橘 (現在 橘公園)
宮崎市 小戸 (現在 小戸町 小戸神社はこの辺りにあったが現在は少し上流に移転している)
宮崎市 阿波岐原 (小戸町の少し北)
で実際に地図上に出てくる。 これらの名前は後からつけた臭いが。 >>240 100年前から西都原古墳群の発掘は続けてるが、まだまだ手つかずの古墳が多い。
奈良や京都みたいに予算がふんだんじゃ無いからね 西都はもともと斉殿なんだから字面で考えたら
斉からの移民の土地だよね -----------
大辞林 第三版の解説
いみどの【斎殿】
「 斎館(さいかん) 」に同じ。
いわいどの【斎殿】
神をまつる建物。また,潔斎のため神職のこもる建物。
----------
江戸時代の国学者児玉実満は「笠狭大略記」という著書の中で斎殿原にサイトノハル、斉殿神社にツキドノという振り仮名をつけて次のように述べている。
御崎より寅方十五丁余御社地檍木に鎮座在座すなり。此ノ本邑を調殿邑と称す…
帝都は[木患]木斎殿 (くしきさいとの) 原と称へ、児屋根命御事は檍木斉殿(つきどの)神社と崇敬し奉る…
------
この文中に出てくる調殿(つきどの)邑は「建久図田帳」に宇佐宮領の調殿十六町とあって、西都原地方では最も早く宇佐の神領になった所である。
調殿という地名は既に平安末期から存在しているのであるが、この地名と斉殿または斎殿原とがどのような関係にあったかは明かでない。
「笠狭大略記」には斉殿神社とあるが、従来、一般には調殿という文字を使つている。何れにしても、斎殿原(さいとのはる)という呼び名は明治になっても聞かれたそうである。
では西都原という名称は何時頃から呼ばれるようにをったのであろうか。
私は以前、恐らく明治時代になってからだろうと考えていたところ、偶然にも、最近になって男狭穂塚の附近から二ケの石碑が発見された。それには、それぞれ
謹造樹萬基燈 寺原西都原 若衆中
文化十四 丁丑 稔 小陽初旬日
(hy注:寺原西都原は双行細字)
と記されてあり、既に文化十四年(1817年)に西都原という名称で呼ばれていたわけである。 >>241
なるほど!これから何か発見されるかも知れないのか。 志布志湾の唐仁古墳群は渡来人系の狗奴国の遺跡ではないか?
志布志湾は自然条件が良いため、今でもタンカー原油備蓄基地になっている。
渡来海洋民族の居住地になってもおかしくない。 邪馬台国なんてどうでもいい
どうせ熊襲とか土蜘蛛とかの酋長の国だろ >>245
渡来人系って、狗邪韓国だろ。それが伽耶、日本だよ。 魏志倭人伝には、対馬に行く前の朝鮮半島に狗邪韓国という国があると
書いてあるが、それは無視するのか? >>249
天照大神は、日本列島にはいなかったけどな。 >>247
大和国の先祖は倭面土だよ
邪馬台国はそれとは別 >>247
朝鮮人が邪馬台国になりすましたのが大和国。
本当は大嫌いな名前だから、すぐに元の名前、朝鮮半島にあった「日本」に変えた。 九州南部説はアリだと思うな。魏志倭人伝の風俗や漁労生活なんかも九州南部説を裏付ける。
それに日本神話のかなりの比率が日向神話。海洋民族である日本の風景に南九州はよく合う。 自分もクナ国東遷説に一票。
ただし、少数の移住程度。 漢の時代から三国志まで日本ではなぜ文字がなかったの!?
残ってなかったが正解なのかな?
この時代でもシナ人は来てただろうに 硯は出てるんだから文字はあっただろ
出土してないものは存在しなかったと思い込むのは危険 文字があれば土器や石器に刻むはずだろうがカス。
硯なんかただの楽浪文物。
実用性の無い、単なる宝器なだけ。
魏使のようなシナからの来賓はあっても、シナ人が定着した証拠遺跡も
その生活痕たる証拠土器・石器も一切無い。 福岡県糸島市の弥生時代中期の三雲遺跡からは土器に刻まれた文字も出土しているなw 文字の出土状況
3〜4世紀は墨書土器などで文字の痕跡がある。
一文字だけ書かれていることが多い。田の字が多い。
5世紀は金石文の痕跡が残る。鉄刀などに彫られた文字である。
文字の形をみると、彫りの職人は書き順やとめ、はらえなどを
意識していない、でたらめな彫り方になっており、
彫り職人は文字を使い慣れていないことがわかる。
6世紀は木簡が出始める。手習いの細片が多く、文字を習うという習慣が
始まっており、文字が下級役人に浸透し始めてきている。
7世紀には戸籍が出始める。文字を文化行政に実用的に
使用し始めていることが推測できる。
8世紀には万葉仮名など日本独自の使用法に、
魔改造が始まる。 楽浪郡と交易してたから上層部は漢字の存在をBC1C頃から知ってたと思われ。
3C頃から加羅人の帰化人が少数あったみたいだから、朝鮮語、中国語、日本語の
3ヶ国語と漢字を使いこなす帰化人もいて、卑弥呼や台与に仕えて朝鮮や中国との
交流に勤めた者もいたのではないか?
ただ漢字を本格的に普及させたのは百済からの帰化人の王仁だとされている。 西暦57年には「漢委奴國王」の金印を漢から倭奴国が賜っているから
これ以前から倭人の支配層は漢字を知ってただろうな。 中国からの渡来人を抱えていれば
いつの時代でも国書くらいはどうにかなる。
しかし、輸送タグ木簡や手習い木簡のように
多くの人間が関わる文字の痕跡は
6世紀以降と考えて良い。 中国から渡来定着した集団の痕跡は日本には無い。
先進文化は全部半島からの帰化人です。 出土品の貴重さからいうと女王国は金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が出土した日田辺り。
なお半島からは金印、鉄鏡ともに出土していない。 当時の半島は楽浪郡、帯方郡が置かれた中国の領土だから、
金印を与えるほどの国家の存在が無かったんと違うか? >>256
入れ墨いれて漁労生活してたのは宮崎だけじゃないよw
天孫族=天族は、海人族とも言われるくらい、海洋と関係が深い。
九州では特に船の遺構など沢山出ている。それに対して畿内は、天下り当時
から時が経ってその伝統と隔絶してしまったのか、優秀な船など皆無。
遣唐船なんかおもちゃw
祝詞の「筑紫の日向(ひむか)の高天原」というのは、普通に考えれば筑紫に
あったと考えるよな。宮崎には、国名以外「ひゅうが・ひむか・ひなた」地名は
皆無。筑紫には一杯あるけどね。
遺構としても、戦前何度も大発掘して神武の痕跡を探したが結局何も出てこず、
筑紫の弥生王墓に匹敵するものも皆無。巨大古墳の時代以後だろうね。そもそもが
長年の宿敵熊襲=隼人族のエリアだしさ。征服の度に多分被征服民を使って作られた
のが巨大古墳だから、その墓では古さは競えない。
装飾古墳も、北部九州から筑後川、有明海沿岸に集中していて、宮崎は少ないよね。
>>273
近攻遠交策って知ってる?直接楽浪帯方と接する敵に金印を与える理由は何ですか?
倭国の場合は、漢は勿論魏も直接攻めることが出来ない、必要も無い僻遠の地で、一方
三国時代には領域の拡大としては非常に重要だった。
だから魏志の掉尾を飾っているわけ。
でもまあ実際は金印も与えられてて、ただ戦乱が続いたから無くなったんじゃね?
日本だってたまたま出土しただけだしさw 確か刺青の世界最古の証拠遺物は日本で、しかも北海道じゃなかったかな。
刺青は縄文人の文化だよ。
弥生人は日本に来てから縄文人から取り入れただけ。 縄文弥生の分類では無く、漁労生活してたかどうかだよ。
鮫よけのためにする。
まあ縄文人も海を越えて来たかも知れないしね。 縄文人も弥生人も沿岸部の人は漁労してるでしょ。
縄文時代に弥生人の故郷の沿海州から朝鮮東岸経由で骨製の釣り針が
伝わってるし。
弥生人は朝鮮経由してないけど。 金印を貰ってから200年も経ち、漢も滅びて魏になっている。
九州の主導権が博多の奴国から宮崎の邪馬台国に移っていることは
十分あり得る。 金印は魏に最初に使いを出すときに、正統性を示すために必要だったはずです。
その金印は江戸時代まで伊都国の細石神社ありました。
よって、南九州は倭国の代表を名乗ることはできませんでした。 卑弥呼の使者は金印がなかったので、
委奴国ではなく邪馬台国とされ、
別の金印が下賜された。
日本国の使者も金印がなかったので
疑われ、日本国となった。
隋書では倭国は遂絶と書かれているが
日本国の使者は引き続き朝貢している。
漢委奴国王印の使者が来ないことを
遂絶としたのかもしれない。 それなら
邪馬台国は倭国またはその一部と認識があったんだから
邪馬台国の印が来ないからだよな >>283
邪馬台国の親魏倭王印がないから
以後の漢籍では邪馬台国の名前は
出てこない。
いずれかの時期に滅んだか
吸収合併された。 筑紫勢力 漢委奴国王(107年 後漢書)->九州王朝
肥国勢力 親魏倭王(238年 魏志)->邪馬台国->九州王朝に吸収合併
畿内勢力 元小国で倭国を併合 印綬不明(703年 旧唐書) ->大和朝廷 宮崎の都城という地名も、多くの歴史の謎が隠されていそうだ。 邪馬台国は山彦で、狗奴國は海彦。
博多の海神族の娘の豊玉姫の子供だろう。
兄弟喧嘩をしていたが、外に敵があれば協力する。
神武東征では海神族と一緒に協力していたのだろう。 対馬、壱岐、末盧(唐津)、伊都(怡土)、奴国(福岡)でいいのでは?
不彌国から南に水行だから距離よりも東の海岸として行橋あたりでは?
ここから南で、投馬国。次の陸行1月は、起点国名、方位がないので
南へ水行なら十日、南に陸行なら1月。
ということは九州の東海岸で海岸が南北になってるとこの北が投馬国で、
南が邪馬台国。現代の地図見ると、延岡から宮崎市の日南海岸がある。
この距離を計ると75km。
つまり、水行十日は、陸行1月でそれは75kmということ。
邪馬台国は宮崎市と簡単にわかる。 『隋書』に次の記述がある。
「不知里数但計以日其国境東西五月行南北三月行各至於海」
奈良から西が統一されていたみられる。福岡から奈良への直線距離は
約500km。南北は紀伊半島より、九州の南北距離が長い。
九州の南北距離は約300km。
すると1月行は、100kmとなる。
1月行は陸行1月と同じかは断定できないが。 『魏志』にもどる。
陸行1月は、30日とすると水行と陸行は、1:3になる。
まあ、妥当と思えるが陸行30日が75kmは小さいと感じる。
ところで伊都国の戸数は『魏志』では千余戸。『魏略』では「戸万余」
千と万が同じになってる。
対馬 有千余戸 (中国)
一大 有三千許家 (中国)
末盧 有四千余戸 (中国)
伊都 有千余戸 (中国)
奴 有二万余戸 (倭)
不彌 有千余家 (?)
投馬 可五万余戸 (倭)
邪馬台 可七万余戸 (倭)
倭国では数が10倍になってるのでは?
少数点がないため10倍にしてのでは。
水行10日、陸行1月は現代の表示では
水行1日、陸行3日になるのだろう。
これが75kmなら納得がいく。 放射式は成り立つか
『倭人伝』から、
(1) 始 度一海 千余里 至 対海国
(2) 又南渡一海 千余里 至 一大国
(3) 又渡一海 千余里 至 末盧国
(4) 東南 陸行 五百里 到 伊都国
(5) 東南 至 奴国 百里
(6) 東行 至 不彌国 百里
(7) 南 至 投馬国 水行 二十日
(8) 南 至 邪馬台国 水行十日陸行一月
2番目が 又南 とあるので、1は南と解る。3に又とあるので3も又南が又で南と解る。同じ事でも3つ全部文を変えている。繰り返しを嫌うのが陳寿のクセだ。いわゆる、これが美文というものである。
海を行くので水行である。次の三つは陸行である。最初は陸行とあるが、次は何もなく6番目には行のみである。東行である。これも三つ全部異なる表現を取っている。
この次は、里数表記から日数表記に変えている。ここでも、くり返し表記を嫌っている。
7は、水行の日数表示。次は、予測できる。陸行の日数表示と考えられる。
しかし、違う。八個全部異なる記述である。
全部で八個ですが、半分は四つで、4までは、
方位 距離 至 国名
5からは、
方位 至 国名 距離
4番目が伊都国であるが、一つの書物の中で、ここだけ特殊な解釈があるとするには無理がある。
ここのわずかな量の文で、解釈を変えるように書いたらほぼ全員が誤読すると思う。そのような文章は下手な文章である。正史にそのような書き方は用いない。
ただ、陳寿がくり返し記述を嫌い前と後で変えたとみていいと思う。二重にしたのである。 奴国は今の福岡県、筑紫国で、西は糸島から東は北九州、
南は久留米、柳川までの範囲だった。
奴国が玄海灘から有明海まであったことを考えるべきだ。
玄海灘では出雲と有明海では邪馬台国と交流があった。
奴国は南北に分裂していたのではないか? 「小学生より学力が足りないで賞」受賞
↓
「テンプレの誤字も直した方が良いで賞」受賞
↓
「まだわからないで賞」受賞
↓
俺は悔しくて泣いた。
↓
だが、ボキャ貧キウスの知らない単語な線もある。
↓
「無教養露見で賞」受賞
↓
❓❓❓
. /テンプレ\ 誤字ったってキウスやサイキバみたいは
/ \ 単なるタッチミスもある
. / (゚) (゚) \ ❓❓❓
| )●( | キウスが笑い者なだけ❓
. \ 廿 / 誤字って何❓
. ノ \ ❓❓❓
👆「自分で発見しないと笑いもので賞」 >>293
それなら、奴国と呼ばずに筑紫または倭国と呼べばいいんじゃないかな? 漢委奴国の王家の伝統を引き継ぐから、倭人伝でも(傍の)奴国なのだろう
ただし、卑弥呼ー台与の時代に、傍の奴国がどのはんいだったかは問題だな。
(注:漢倭奴国と書くと、漢王朝の漢と下賤の倭が隣同士になるので、それを嫌って委としたのであろう)
周知のとおり、倭人伝には2つの奴国が出てくる。
また、奴の字を含む国名もわんさとある。即断はできない。 0025 1 ◆cmsiBNFbAs 2017/04/17(月) 17:32:00.65
なお、コテハンは変えました。
似非スレで解読されましたので変えました。
さあ勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう
648 名前:日本@名無史さん 2017/04/24(月) 16:18:45.12
>>25
コテハンを解読した奴が似非スレを乱立させているということか?
2ちゃんねるの会社に訴えられるレベルの悪行だな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています