邪馬台国は九州南部くさい [転載禁止]©2ch.net
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邪馬台国が西都原(宮崎県西都市)である証拠。
1、地名の語末に『都』という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。
類例、京『都』、東京『都』、神武建国の伊『都』国。宇『都』宮のような音借とは違う。
西都の「西」、方位の事ではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味。
(日向地方は九州島の東海岸沿いにあり矛盾するから。)
2、日向地方は冬も温暖。真東に海がある。原文(倭人伝)に沿わせるとこうなる。
3、三角縁神獣鏡も出土。(半島や中国から1枚も出土しないので鏡は純国産。)
4、西都のオサホ塚はもともと九州で一番大きな円墳で卑弥呼の墓だから黒板勝美が
尻尾をつけて墓を捏造。さらに柵で囲って現在宮内庁が管理。そのため発掘させてくれない。
9割以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。
5、九州で一番規模のでかい古墳群遺跡は西都原である。規模のてんからいってもここが
邪馬台国の跡としてふさわしい。さらにシャーマニズムの卑弥呼とも思わせる斎殿原跡が存在。
これだけ大規模な遺跡であるから長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都であった
邪馬台国(大国)の所在が特定できないのは不可思議な話。政治的意図(半島からやってきた天皇
および天皇制)による政府の組織的隠蔽工作が行われたと思量する。これに加担する畿内説信者は
不快である。
6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は「西都原」。
7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は九州で一番人口密度が高かった。
人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。
朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書」は畿内説による歴史改竄でオサホ塚に
後方部をつける改修であり好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も同一の歴史改竄。
記紀による天皇家の出自も改竄で、現実は神武も卑弥呼も朝鮮半島からきた。
これらの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。
西都原の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。 >>245
渡来人系って、狗邪韓国だろ。それが伽耶、日本だよ。 魏志倭人伝には、対馬に行く前の朝鮮半島に狗邪韓国という国があると
書いてあるが、それは無視するのか? >>249
天照大神は、日本列島にはいなかったけどな。 >>247
大和国の先祖は倭面土だよ
邪馬台国はそれとは別 >>247
朝鮮人が邪馬台国になりすましたのが大和国。
本当は大嫌いな名前だから、すぐに元の名前、朝鮮半島にあった「日本」に変えた。 九州南部説はアリだと思うな。魏志倭人伝の風俗や漁労生活なんかも九州南部説を裏付ける。
それに日本神話のかなりの比率が日向神話。海洋民族である日本の風景に南九州はよく合う。 自分もクナ国東遷説に一票。
ただし、少数の移住程度。 漢の時代から三国志まで日本ではなぜ文字がなかったの!?
残ってなかったが正解なのかな?
この時代でもシナ人は来てただろうに 硯は出てるんだから文字はあっただろ
出土してないものは存在しなかったと思い込むのは危険 文字があれば土器や石器に刻むはずだろうがカス。
硯なんかただの楽浪文物。
実用性の無い、単なる宝器なだけ。
魏使のようなシナからの来賓はあっても、シナ人が定着した証拠遺跡も
その生活痕たる証拠土器・石器も一切無い。 福岡県糸島市の弥生時代中期の三雲遺跡からは土器に刻まれた文字も出土しているなw 文字の出土状況
3〜4世紀は墨書土器などで文字の痕跡がある。
一文字だけ書かれていることが多い。田の字が多い。
5世紀は金石文の痕跡が残る。鉄刀などに彫られた文字である。
文字の形をみると、彫りの職人は書き順やとめ、はらえなどを
意識していない、でたらめな彫り方になっており、
彫り職人は文字を使い慣れていないことがわかる。
6世紀は木簡が出始める。手習いの細片が多く、文字を習うという習慣が
始まっており、文字が下級役人に浸透し始めてきている。
7世紀には戸籍が出始める。文字を文化行政に実用的に
使用し始めていることが推測できる。
8世紀には万葉仮名など日本独自の使用法に、
魔改造が始まる。 楽浪郡と交易してたから上層部は漢字の存在をBC1C頃から知ってたと思われ。
3C頃から加羅人の帰化人が少数あったみたいだから、朝鮮語、中国語、日本語の
3ヶ国語と漢字を使いこなす帰化人もいて、卑弥呼や台与に仕えて朝鮮や中国との
交流に勤めた者もいたのではないか?
ただ漢字を本格的に普及させたのは百済からの帰化人の王仁だとされている。 西暦57年には「漢委奴國王」の金印を漢から倭奴国が賜っているから
これ以前から倭人の支配層は漢字を知ってただろうな。 中国からの渡来人を抱えていれば
いつの時代でも国書くらいはどうにかなる。
しかし、輸送タグ木簡や手習い木簡のように
多くの人間が関わる文字の痕跡は
6世紀以降と考えて良い。 中国から渡来定着した集団の痕跡は日本には無い。
先進文化は全部半島からの帰化人です。 出土品の貴重さからいうと女王国は金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が出土した日田辺り。
なお半島からは金印、鉄鏡ともに出土していない。 当時の半島は楽浪郡、帯方郡が置かれた中国の領土だから、
金印を与えるほどの国家の存在が無かったんと違うか? >>256
入れ墨いれて漁労生活してたのは宮崎だけじゃないよw
天孫族=天族は、海人族とも言われるくらい、海洋と関係が深い。
九州では特に船の遺構など沢山出ている。それに対して畿内は、天下り当時
から時が経ってその伝統と隔絶してしまったのか、優秀な船など皆無。
遣唐船なんかおもちゃw
祝詞の「筑紫の日向(ひむか)の高天原」というのは、普通に考えれば筑紫に
あったと考えるよな。宮崎には、国名以外「ひゅうが・ひむか・ひなた」地名は
皆無。筑紫には一杯あるけどね。
遺構としても、戦前何度も大発掘して神武の痕跡を探したが結局何も出てこず、
筑紫の弥生王墓に匹敵するものも皆無。巨大古墳の時代以後だろうね。そもそもが
長年の宿敵熊襲=隼人族のエリアだしさ。征服の度に多分被征服民を使って作られた
のが巨大古墳だから、その墓では古さは競えない。
装飾古墳も、北部九州から筑後川、有明海沿岸に集中していて、宮崎は少ないよね。
>>273
近攻遠交策って知ってる?直接楽浪帯方と接する敵に金印を与える理由は何ですか?
倭国の場合は、漢は勿論魏も直接攻めることが出来ない、必要も無い僻遠の地で、一方
三国時代には領域の拡大としては非常に重要だった。
だから魏志の掉尾を飾っているわけ。
でもまあ実際は金印も与えられてて、ただ戦乱が続いたから無くなったんじゃね?
日本だってたまたま出土しただけだしさw 確か刺青の世界最古の証拠遺物は日本で、しかも北海道じゃなかったかな。
刺青は縄文人の文化だよ。
弥生人は日本に来てから縄文人から取り入れただけ。 縄文弥生の分類では無く、漁労生活してたかどうかだよ。
鮫よけのためにする。
まあ縄文人も海を越えて来たかも知れないしね。 縄文人も弥生人も沿岸部の人は漁労してるでしょ。
縄文時代に弥生人の故郷の沿海州から朝鮮東岸経由で骨製の釣り針が
伝わってるし。
弥生人は朝鮮経由してないけど。 金印を貰ってから200年も経ち、漢も滅びて魏になっている。
九州の主導権が博多の奴国から宮崎の邪馬台国に移っていることは
十分あり得る。 金印は魏に最初に使いを出すときに、正統性を示すために必要だったはずです。
その金印は江戸時代まで伊都国の細石神社ありました。
よって、南九州は倭国の代表を名乗ることはできませんでした。 卑弥呼の使者は金印がなかったので、
委奴国ではなく邪馬台国とされ、
別の金印が下賜された。
日本国の使者も金印がなかったので
疑われ、日本国となった。
隋書では倭国は遂絶と書かれているが
日本国の使者は引き続き朝貢している。
漢委奴国王印の使者が来ないことを
遂絶としたのかもしれない。 それなら
邪馬台国は倭国またはその一部と認識があったんだから
邪馬台国の印が来ないからだよな >>283
邪馬台国の親魏倭王印がないから
以後の漢籍では邪馬台国の名前は
出てこない。
いずれかの時期に滅んだか
吸収合併された。 筑紫勢力 漢委奴国王(107年 後漢書)->九州王朝
肥国勢力 親魏倭王(238年 魏志)->邪馬台国->九州王朝に吸収合併
畿内勢力 元小国で倭国を併合 印綬不明(703年 旧唐書) ->大和朝廷 宮崎の都城という地名も、多くの歴史の謎が隠されていそうだ。 邪馬台国は山彦で、狗奴國は海彦。
博多の海神族の娘の豊玉姫の子供だろう。
兄弟喧嘩をしていたが、外に敵があれば協力する。
神武東征では海神族と一緒に協力していたのだろう。 対馬、壱岐、末盧(唐津)、伊都(怡土)、奴国(福岡)でいいのでは?
不彌国から南に水行だから距離よりも東の海岸として行橋あたりでは?
ここから南で、投馬国。次の陸行1月は、起点国名、方位がないので
南へ水行なら十日、南に陸行なら1月。
ということは九州の東海岸で海岸が南北になってるとこの北が投馬国で、
南が邪馬台国。現代の地図見ると、延岡から宮崎市の日南海岸がある。
この距離を計ると75km。
つまり、水行十日は、陸行1月でそれは75kmということ。
邪馬台国は宮崎市と簡単にわかる。 『隋書』に次の記述がある。
「不知里数但計以日其国境東西五月行南北三月行各至於海」
奈良から西が統一されていたみられる。福岡から奈良への直線距離は
約500km。南北は紀伊半島より、九州の南北距離が長い。
九州の南北距離は約300km。
すると1月行は、100kmとなる。
1月行は陸行1月と同じかは断定できないが。 『魏志』にもどる。
陸行1月は、30日とすると水行と陸行は、1:3になる。
まあ、妥当と思えるが陸行30日が75kmは小さいと感じる。
ところで伊都国の戸数は『魏志』では千余戸。『魏略』では「戸万余」
千と万が同じになってる。
対馬 有千余戸 (中国)
一大 有三千許家 (中国)
末盧 有四千余戸 (中国)
伊都 有千余戸 (中国)
奴 有二万余戸 (倭)
不彌 有千余家 (?)
投馬 可五万余戸 (倭)
邪馬台 可七万余戸 (倭)
倭国では数が10倍になってるのでは?
少数点がないため10倍にしてのでは。
水行10日、陸行1月は現代の表示では
水行1日、陸行3日になるのだろう。
これが75kmなら納得がいく。 放射式は成り立つか
『倭人伝』から、
(1) 始 度一海 千余里 至 対海国
(2) 又南渡一海 千余里 至 一大国
(3) 又渡一海 千余里 至 末盧国
(4) 東南 陸行 五百里 到 伊都国
(5) 東南 至 奴国 百里
(6) 東行 至 不彌国 百里
(7) 南 至 投馬国 水行 二十日
(8) 南 至 邪馬台国 水行十日陸行一月
2番目が 又南 とあるので、1は南と解る。3に又とあるので3も又南が又で南と解る。同じ事でも3つ全部文を変えている。繰り返しを嫌うのが陳寿のクセだ。いわゆる、これが美文というものである。
海を行くので水行である。次の三つは陸行である。最初は陸行とあるが、次は何もなく6番目には行のみである。東行である。これも三つ全部異なる表現を取っている。
この次は、里数表記から日数表記に変えている。ここでも、くり返し表記を嫌っている。
7は、水行の日数表示。次は、予測できる。陸行の日数表示と考えられる。
しかし、違う。八個全部異なる記述である。
全部で八個ですが、半分は四つで、4までは、
方位 距離 至 国名
5からは、
方位 至 国名 距離
4番目が伊都国であるが、一つの書物の中で、ここだけ特殊な解釈があるとするには無理がある。
ここのわずかな量の文で、解釈を変えるように書いたらほぼ全員が誤読すると思う。そのような文章は下手な文章である。正史にそのような書き方は用いない。
ただ、陳寿がくり返し記述を嫌い前と後で変えたとみていいと思う。二重にしたのである。 奴国は今の福岡県、筑紫国で、西は糸島から東は北九州、
南は久留米、柳川までの範囲だった。
奴国が玄海灘から有明海まであったことを考えるべきだ。
玄海灘では出雲と有明海では邪馬台国と交流があった。
奴国は南北に分裂していたのではないか? 「小学生より学力が足りないで賞」受賞
↓
「テンプレの誤字も直した方が良いで賞」受賞
↓
「まだわからないで賞」受賞
↓
俺は悔しくて泣いた。
↓
だが、ボキャ貧キウスの知らない単語な線もある。
↓
「無教養露見で賞」受賞
↓
❓❓❓
. /テンプレ\ 誤字ったってキウスやサイキバみたいは
/ \ 単なるタッチミスもある
. / (゚) (゚) \ ❓❓❓
| )●( | キウスが笑い者なだけ❓
. \ 廿 / 誤字って何❓
. ノ \ ❓❓❓
👆「自分で発見しないと笑いもので賞」 >>293
それなら、奴国と呼ばずに筑紫または倭国と呼べばいいんじゃないかな? 漢委奴国の王家の伝統を引き継ぐから、倭人伝でも(傍の)奴国なのだろう
ただし、卑弥呼ー台与の時代に、傍の奴国がどのはんいだったかは問題だな。
(注:漢倭奴国と書くと、漢王朝の漢と下賤の倭が隣同士になるので、それを嫌って委としたのであろう)
周知のとおり、倭人伝には2つの奴国が出てくる。
また、奴の字を含む国名もわんさとある。即断はできない。 0025 1 ◆cmsiBNFbAs 2017/04/17(月) 17:32:00.65
なお、コテハンは変えました。
似非スレで解読されましたので変えました。
さあ勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう
648 名前:日本@名無史さん 2017/04/24(月) 16:18:45.12
>>25
コテハンを解読した奴が似非スレを乱立させているということか?
2ちゃんねるの会社に訴えられるレベルの悪行だな。 水行10日は陸行1月で75km。
周の1里は75m。水行10日は1000里。
倭は10倍なので中国表示は100里。
不弥国から投馬国までは水行20日なので200里。
倭は端から端までが5000里。
半島から対馬まで1000里。壱岐まで1000里
末盧国までが1000里。伊都国までが500里。
奴国までが100里。不弥国までも100里。
狗邪韓国から邪馬台国まではたすと5000里になる。 倭種は、「東渡海千余里復有国皆倭種」とある。
倭種も倭国なのでこの千里を足すと5000里になる。
忘れました。 方位
東南大海之中
乍南乍東、
行程記事をみても、方位は、南と東しかない。陳寿の筆法?
伊都国への方位は間違っている。記述を重視して伊都国を探しても間違える。
大局観で東南にあるので、南と東で現されるということか。
こういう見方では21か国がユーターンすることは理解出来ないと考える。だから間違えた。
他の方位の記述は、
乗船南北市糴 対馬、行程記事ではない
亦南北市糴 一大国 行程記事ではない
自女王国以北 旁国 行程記事ではない
其南有狗奴国 狗奴国への行程記事 南
東冶之東 ここは東北が正しい
自女王国以北 一大率 行程記事ではない
女王国東渡海千余里 行程記事 正しくは東北
又有侏儒国在其南 行程記事 南
黒歯国復在其東南 行程記事 東南 1 ◆q8leUXpsw. こいつが邪馬台国スレを乱立させているのか?
日本史板になんの恨みが???
日本の歴史が嫌い?? 倭種へは、渡るなので倭国。国境のときは、度 になる。 さんずいの有無で意味は変わらないと思うけどな
金印に倭のことを委と彫っても意味変わらないし >>305
動詞の問題じゃないだろw
内容を考えろよ
倭人=倭国+倭種だろ 倭国(30国)=対馬、一大、末ろ、伊都、奴、不弥、投馬、
邪馬台、20国、狗奴、倭種。
狗邪韓国の南岸は、倭の北岸で南に対馬があるが、
対馬へのここのみ 度 になってる。他は 渡。
字は使い分けてる。 こんなことより、292で放射式は間違いである。
と書いたけど、九州説なら放射式 支持者多いと思う。
反論ないのかな? 説文解字によれば、
「渡」は、横?水面:〜船。〜?。〜河。?〜。?〜。?〜重洋。
とあるが、
「度」にこの意味はない。つまり誤字。 >>309
放射式なんてのを唱えてるのはごく一部だろ
たまたまそいつが九州説なだけ
それ以外の大部分の九州説は笑ってるよ 度 は、誤字ですか。
文献も注意しないといけないな。
いずれにしろ、天孫降臨が宮崎となってるのは
宮崎に邪馬台国があったとすれば、納得いく。
話とぶけど、NHKのEテレ火曜日22時から
邪馬台国してる。9日もやるけど、2日もしてた。 >>313
日向国だから天孫降臨の地と言い出したのは宇佐神宮
宇佐神宮は自分の領地があった場所を高めようと色々捏造をしている
今の宮崎県民は神話の国というのを信じているが細かく調べればおかしな事ばかり
はっきり言って起源を主張するどこかの国のいうことと変わらん
これからは間違いは間違いと認めることが大事だと思う
続日本紀によれば昔の日向国は鹿児島宮崎を含む地域だった
記紀ではともに天皇家と隼人族は同族出身としている
日本書紀では特に阿多(薩摩半島南部)と特定している
ちゃんと調べれば分かることばかり
木花咲耶姫の本名である神阿多都比売
海幸彦の子孫は隼人族の阿多君
神武天皇の妃である阿比良比売は阿多小椅の妹
代々阿多(薩摩半島南部)の人間だらけ
おまけに鹿児島県南さつま市の上加世田遺跡からは久米と墨書された遺物が出土している
これは神武天皇の部下である大久米命との関連を思わせる
よって神武天皇の出身地は鹿児島県の薩摩半島
旧加世田市から旧金峰町にかけてと思われる
なお天孫降臨が現実にあったと考えるのは無理がある
それに山上に神が降り立つというのは北方系の神話
高千穂地名の変遷
日向風土記逸文(713、引用は続日本紀797)知鋪の郷(ちほと読めるから高千穂と言い出す。本当に原本にあったか?)
宇佐八幡宮託宣(765)高智保(たかちほと言ってるのが神主だと分かる。)
和名類聚抄(925) 智保(一般には広まっていないようで、辞書にはまだ高千穂は載らず。)
大日本史(1657〜) 日向国臼杵の郡、智保、今は高千穂の庄(虚仮の一念、岩をも通す。でも正式には智保。)
(参考)1889年(明治22年)三田井村、押方村、向山村が合併し高千穂村となる。(ようやく正式に高千穂) 高天原をデカン高原だと考えて、天孫降臨を、インドのアユダ国から植民に来たことを示すという説があったな
だから日本語はタミル語に似てるんだとか
ちなみに新羅の初代王の王妃はインドのアユダ国から来たそうだ 中国の古代の地理書である山海経によると、朝鮮の隣に「天毒」という国があって、倭人が住んでるんだそうだ
ちなみに古来、中国ではインドのことを「身毒」と呼んでいたが、張騫の西域探検によって「天竺」という呼び名が伝えられ
この時代には、「天竺」と「身毒」が併用されていた時代だった
後に、三蔵法師玄奘が、その「天竺」を訪問し、「印度」が正しいと伝えたため、以後「印度」に改められた >>317
山海経・海内経にあるのは朝鮮天毒
朝鮮半島でも北部の国とされていて倭国とは関係ない >>318
倭国とは関係なくても、同じデカン高原由来の国があったというのは傍証になると思う
高句麗の言語も日本語に近かったらしいから、位置的なことも考えると、天毒は高句麗だろうな 「名は朝鮮天毒。この国の人は水に住む。ワイ(人偏に畏)・愛人がいる。」
というんだから、?人でいいんじゃね。
?が高句麗・扶余を作ったんだろうし 宮崎市郊外に生目古墳群があるけど、
邪馬台国の官の 伊支馬 と関係あるの?
こういう語呂合わせは意味ないかな? 意味なくはないだろうが、それを補強する証拠が欲しいところ。 崇神が4世紀初頭の可能性が高い。ならばそれ以前の3世紀は魏志によれば女王国の時代だ。
それに符合するかのように妃のいない天皇たちがいる。神武から6代孝安までだ。
もちろん彼らには正后(奥さん)はいる。
しかし彼らが大王ならその血を残すために複数の妃がいて当たり前。ところがいない。
つまり彼らは大王ではなかったのだ。
やはりこの時代は女王国であった。
では話は簡単。彼らの正后をみればいいのだ。その中にヒミコとトヨ(またはイヨ)がいればいい。
もしいれば邪馬台国論争は簡単に終焉する。
それがいるのだ。
@神武→ヒメタタライスズヒメ
A綏靖 →イスズヨリヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
B安寧→ヌナソコナカツヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
C懿徳→アマトヨツヒメノミコト
D孝昭→ヨソタラシヒメノミコト 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
E孝安→オシヒメ 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
見事にヒメとトヨの時代。
そして7代孝霊には複数の妃。 実質の男王は孝霊の時代から。
それは箸墓古墳の時代だ。
邪馬台国の都とは「ヒメ」タタラが住まわれた葛城、奈良県御所市。
纏向に卑弥呼はいない。
九州は論外。
これが私=天才のHPだ。
https://o-yan216.wixsite.com/mysite/home 箸墓は、ここの地名とかの説もあるらしいけど、
単純に考えれば、ホトを箸でさしてなくなったとか?
魏志には、卑弥呼の時代は 手食 と書いてある。
箸はまだないので箸墓は卑弥呼よりズート後 では? 食事用の箸は無くても葬式用の箸はあったかもしれない 日本では、弥生時代末期の遺跡から一本の竹を折り曲げピンセット状の形にした「折箸」が発見されているが、
食べ物を口に運ぶためではなく、神に配膳するための祭祀・儀式用の祭器として使われたものであろうと言われる 邪馬台国の問題が解決しないのは2つの大きな間違いのためと思う。
1つは、国名のみの21か国は、邪馬台国の北にある。
南、南と進み、邪馬台国でUターンして奴国まで戻ったとすればいい。
狗邪韓国までの7000里と倭の端から端までの5000里を足すと
12000里になる。
別記事で邪馬台国まで12000里がある。
つまり倭の最南端に邪馬台国がある。
もう1つは狗奴国は、邪馬台国の南ではなく、奴国の南と考えられる。
奴国は、福岡で確定してる。その南は熊本である。ここらもいじらずに
邪馬台国をさがしてもいいのでは? >>324
うんうん、その視点は気づかなかったけど、面白い。
でもね、いくら畿内はあれもこれも魏志の記事と合わないよねと言っても、畿内説は聞く耳持たないんだよね。 >>328
あー、邪馬台国筑後説ですね。
常にくすぶっているけど、物証が伊都説よりやや弱いんですよね。
遺跡もないわけじゃないのだけれど、平原と比べちゃうとどうしても見劣りするから。
もう少し発見があるといいのだけれど。 >>324
箸墓というのは8世紀の文献にそう呼ばれていたと書いてはありますが、
作られた当時からそう呼ばれていたかどうかはわからないでしょう? >>332
8世紀に畿内政権が律令制による全国支配を確立する中で、数百年分の歴史をさかのぼって捏造していった一部だよ。
だから"8世紀"なんだ。
それまでの筑紫倭国が7世紀中頃に白村江で大敗して滅んでしまったから。 >>333
いや、8世紀の日本書記に箸墓のことが書いてあっても、
それが8世紀にそう呼ばれるようになったかどうかはわかんないでしょう。
6世紀かもしれないし、5世紀かもしれない。 >>332
「あとで捏造したのかも」という可能性を認めると、もうどの説も成立しなくなるよ
そもそも日本書紀が捏造だったら、畿内説は終わり >>335
捏造したのかも、とかそんなのあんまり興味なくて、
畿内説がどうとかも今はまあ特にどうでもいいんだけど
日本書記に書いてあるからそうなんだ、というだけの話なら、
もう文献批判の全否定じゃん。馬鹿馬鹿しい 仮に日本書記を全面的に信じても、邪馬台国なんて書いてない。 >>336
箸墓が女王墓だと主張する根拠は箸墓伝説のみ。
>>324が指摘した通り、
箸墓伝説はその内容そのものに箸が出てくる。
その箸墓伝説が捏造だというのなら、
箸墓が女王墓であるという根拠も崩れ去る。
いいとこ取りはよくない。 re330
>あー、邪馬台国筑後説ですね。
違う説ですが、わざわざ味方されてくれてるのに、こんなこと
書くと立腹されるかもしれないけど。
このことが邪馬台国論争が起きた原因なのです。
前にも書いたけど、狗奴国は魏志を読むと奴国の南で邪馬台国の
南ではないのです。
次有奴国此女王境界所盡其南有狗奴国
其がどこを指すかですが、魏志では直前の奴国と
考えるべき。普通は邪馬台国としてるが、邪馬台国は
はるか前に出てくる。ここを指すのは無理。
奴国は女王の南の端とある。ここが間違いの原因。
奴国は南端であるが、最南端ではない。
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ーーー| |
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ーーーー
図が表示されるかわからないけど、
最南端は1つですが、最南端より、北に
南端はある。階段状を増やせばいくらでも
北に南端は存在する。
狗奴国と邪馬台国は南北ではなく東西で対立
してた。 ーーーーーー
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ーーー| |
南端| |
ーーーー
最南端
北九州と東九州の逆L字型に女王連合。
熊本を中心に西九州に狗奴国。
九州中央の山が東九州と西九州の国境。
狗奴国の北の吉野ヶ里などが北九州との国境。
ここが前線なので物見櫓やホリ、ヘイ。 >>336
文献批判というのは、思いつきであとからの捏造(箸の逸話が8世紀ごろでっち上げられたウソ伝説だ、とか)を認定することではなく
他の文献を多角的に総合(「〇〇記」には全然違う××という伝説が記されているから、本来箸ではなく△△だ、とか)して認定することですよ >>338
いいとこ取り、ってのがよくわからないんだけど、
箸墓が女王墓かどうかは別に、どっちでもいいの。
箸墓って名前が造成当時からだというのを説明する、
おれの知らない根拠があるんだったら聞きたいと思っただけよ。
無いなら無いでしょうがないよね。資料がないんだから…。 『古事記』は何故あるのか?
『日本書紀』があれば『古事記』は必要ないのでは?でも存在してる。
何故あるのか?
また、『日本書紀』は720年にでき、第41代持統天皇まで、
一方『古事記』は712年にでき第33代推古天皇まで。
何故『古事記』は33代で終わってるのか?これを調べるには
同時代にできた『日本書紀』の33代までの記事と34代以後の記事の違いを
みつければいい。
何が違うかというと日食の記事があるか、ないかである。
推古天皇は病気になり、数日後に日食が起きその数日後に崩御されてる。
この日食を除いて34代から41代までに10個の日食の記事がある。
しかし、推古天皇の晩年の日食より前には1つも日食の記事はない。
日食の記事があるのは記録であることを意味する。では日食の記事がないのは?
記録ではない。物語であることを意味する。
つまり33代推古天皇までは創作された天皇であり、
それを伝えるために『古事記』を作ったのでは?
『隋書』には600年代の推古天皇の時代が書かれているが、
これには「王の妻」とある。推古天皇は女帝である。
また、『隋書』には「後宮に女6から700人」。
大奥があることも書かれている。了 「古事記」はもともとなかったんだよ
日本書紀に古事記編纂の記録はないし、公の朝廷からは無視されて、民間に伝わっていただけのものだった
だから江戸時代には、偽書説が有力だった
古事記が偽書ではないことは、近代になってから、日本書紀の研究で明らかになった古代日本語の八母音の書き分けが、古事記にもなされていたことによってやっと立証されたものだ re343
>いいとこ取り
例えば、夜神が造る、というのがあると、
私は作り話と思うが、考古学者は、これこそ卑弥呼の
鬼道だという。こういうののみ集めて箸墓は卑弥呼の
墓とする。
モモソ姫が蛇みて腰をぬかし、その時、箸がささり
亡くなった。
箸のある時代でなければささるはずない。
また、箸がささる形をしてるというのも箸がある時代を
意味する。
箸墓と何時からよばれているかは私は知らない。
また、箸墓が何時造られたも知らない。モモセ姫が
生存してるときに造られたものかを含め私はわからないが。
モモセ姫が亡くなったとき、箸はあったのでは? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています