邪馬台国は九州南部くさい [転載禁止]©2ch.net
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邪馬台国が西都原(宮崎県西都市)である証拠。
1、地名の語末に『都』という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。
類例、京『都』、東京『都』、神武建国の伊『都』国。宇『都』宮のような音借とは違う。
西都の「西」、方位の事ではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味。
(日向地方は九州島の東海岸沿いにあり矛盾するから。)
2、日向地方は冬も温暖。真東に海がある。原文(倭人伝)に沿わせるとこうなる。
3、三角縁神獣鏡も出土。(半島や中国から1枚も出土しないので鏡は純国産。)
4、西都のオサホ塚はもともと九州で一番大きな円墳で卑弥呼の墓だから黒板勝美が
尻尾をつけて墓を捏造。さらに柵で囲って現在宮内庁が管理。そのため発掘させてくれない。
9割以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。
5、九州で一番規模のでかい古墳群遺跡は西都原である。規模のてんからいってもここが
邪馬台国の跡としてふさわしい。さらにシャーマニズムの卑弥呼とも思わせる斎殿原跡が存在。
これだけ大規模な遺跡であるから長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都であった
邪馬台国(大国)の所在が特定できないのは不可思議な話。政治的意図(半島からやってきた天皇
および天皇制)による政府の組織的隠蔽工作が行われたと思量する。これに加担する畿内説信者は
不快である。
6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は「西都原」。
7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は九州で一番人口密度が高かった。
人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。
朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書」は畿内説による歴史改竄でオサホ塚に
後方部をつける改修であり好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も同一の歴史改竄。
記紀による天皇家の出自も改竄で、現実は神武も卑弥呼も朝鮮半島からきた。
これらの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。
西都原の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。 旧ソ連の人類学者、レヴィンの研究
http://www2.cc22.ne.jp/hiro_ko/9-0roots.html
【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 縄文人か弥生人か 2008.08.25 MSN産経新聞
レヴィンは、第二次大戦直後、シベリアに抑留された元日本兵約1万300人を調査。朝鮮半島では、一重まぶたに伴い涙丘がまぶたで覆われる「蒙古ひだ」が多いが、日本では近畿に最も多く、東西へ向かうにしたがって少なくなることを指摘した。
レヴィンは頭の形態や身長、ひげの濃さなども調べた結果、「日本人には、蒙古ひだが小さくひげが濃いアイヌ系要素と、蒙古ひだが大きくひげが薄い朝鮮系要素という二大要素がある」と分析。
「アイヌ系」は縄文人の古い特徴を受け継ぎ、近畿に多い「朝鮮系」は弥生以降の渡来人の新しい特徴を持つという。 ■■■悪の化身『台湾人工作部隊』による二段構造の江南改竄詐欺の手口A■■■
@バカを確実にダマし落とすために、まず朝鮮人のふりをしながら日本人が
朝鮮人と同じ人種かのようなコピペを貼りまくって嫌がらせをしまくる。
(台湾人の自家発電に、おのれ、朝鮮人め!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、ホワイトナイトがごとく何十年も
かけて作り上げてきた、それはそれは高度な改竄用の捏造創作を使って
勝手に自分たちの祖先、長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南ブタ土人」が日本人の祖先になりました。 天孫降臨の地が南九州というのは、確かに邪馬台国との関係を思わせるな。 『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、
改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、
故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有
大山為限、山外即毛人之國。
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、
東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。
『新唐書』日本伝
其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。
※「筑紫」=北九州
(まとめ)
日本と倭国は別種。
日本はどこかの小国だったが倭国を併合した。(旧唐書)
日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は北九州にいた。(新唐書) 倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中、依山島而居。東西五月行、南北三月行。世與中國通。
其國、居無城郭、以木為柵、以草為屋。四面小島五十餘國、皆附屬焉。其王姓阿毎氏、置一大率、檢察諸國、皆畏附
之。設官有十二等。
倭国とは、古の倭奴国なり。京師から一万四千里、新羅の東南の大海中に在り、山島に依って暮らす。東西に五カ
月の行程、南北に三カ月の行程。代々中国と通じている。その国、居住地に城郭がなく、木を以て柵とし、草を以て
屋根とする。四面の小島、五十余国、皆、これに附属している。その王姓は阿毎氏、一大率を置き、諸国を検察させ、
皆はこれを畏怖している。官には十二等級を設けている。
これは九州の話しですね。 倭国は山島であり、日本国は大山で
区切られた国である。
地勢の描写が違う。 倭国は周囲5千里の島で阿蘇山があることになってるが、日本国は東の大山が境界
とされてる。
倭国は九州で、日本国は本州のうち富士山から西だ。 >>34
>倭国とは、古の倭奴国なり。京師から一万四千里
京師とは首都を指すが、ここではソウルのことだろう。畿内説論者が頑固に
固執する1里=400メートルで計算すると5600キロという途方もない数字に
なるんだがw もう長里説は諦めろw 九州説でも1里の長さにはいろいろあるが、
仮に1里=70メートルとすると980キロだ。地図でソウル→木浦→釜山→博多の
距離を調べると800キロ余りでほぼ一致する。
「京師はソウルじゃない。長安(今の西安)だ」という反論はあるだろうが、
それでも西安→博多は、西安→ソウルを黄河で下り、黄海を船で渡ってソウルに至る
約1800キロを加えても2800キロしかならず、5600キロには到底及ばない。
結論: 1里=400メートルは、もはやあり得ない。 >>37
× 西安→ソウルを黄河で下り、
○ 西安から黄河河口まで船で下り、
× 2800キロ
○ 2600キロ >>33
>その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、
>東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。
東界の大山・・・・南アルプスと富士山
北界の大山・・・・北アルプス(特に立山連峰)
西界の大海・・・・島根沖の日本海?
南界の大海・・・・太平洋
毛人の国・・・・・フォッサマグナ(糸魚川〜静岡)の東側
東西南北に各数千里・・・・1里=70メートルとして、5千里なら各350キロ
奈良を中心にして、北は糸魚川、南は串本、東は沼津、西は石見あたりか。
東西方向は五千里では足りず8千里くらいか。
>>39
日本国は倭国を征服してるから、西は九州まで含まれると思う。 日本国と倭国が一緒になる前は、倭国は九州、日本国は本州だったということだね。 『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、
改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、
故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有
大山為限、山外即毛人之國。
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、
東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。
『新唐書』日本伝
其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。
※「筑紫」=北九州
(まとめ)
日本と倭国は別種。
日本はどこかの小国だったが倭国を併合した。(旧唐書)
日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は北九州にいた。(新唐書) >※「筑紫」=北九州
筑紫嶋というのは九州島のこと。よって、北九州とは限らない。 筑紫城は旧筑紫国の城だろうね。
今で言えば、九州城とか本州城
という用法はあまりなさそう。 基本的に筑紫といえば福岡県辺りを指す。
島が付けば九州を指す。
島が無ければ、ほとんど福岡だろうな。 お前ら分国令前の国割りやらその地の名前知らないの? 古くから名前がついてその地が確定してるのは
筑紫、日向、吉備、古志、毛野、陸奥、紀、出雲など >>42
それ明確に答え出てるだろ、筑紫にいたのは男王。
つまり北部九州は女王国ではないという事だから。
倭人伝の男王が国内を司ったという記述とも合致してるしな。 倭国と日本国は別で、倭国は日本に滅ぼされたんだが。 天孫降臨は4世紀に北九州へ。
神武東征が、畿内の銅鐸が破壊・隠滅された5世紀。 一口に北九州と言っても西からヒ、ツクシ、トヨと三カ国あったわけやん
人口面でも面積でもヒが一番大きい国だったのに、なぜツクシの方に主体があったとするのか 記紀では筑紫(福岡)なんぞほとんど話題にもなっていない。 有明海周囲は、ヒの領域と思われるが、
久留米が筑紫なのは、ヒが負けたんだろうね。
ただし、チクシも大牟田を越えて
侵攻するだけの体力はなかった。
肥前と筑後の国境の吉野ヶ里、
安永田遺跡は戦で亡くなった
兵士の痕跡。
筑後と肥後の国境の大牟田周辺からは製鉄遺跡や鉄器武器が多く出る。 おいおい、冷静に!
筑紫は普通に博多だよ♪
後漢書:倭奴国は倭国の極南界である。
(つまり、倭国は博多湾岸に都を置き、朝鮮南部から九州北部を支配する国)
倭奴国とは金印「漢倭奴国王」の金印をもらった国。
(つまり倭奴国は当時の倭国の覇者)
倭国の覇者は博多湾岸を中心に、倭奴国、邪馬台国、大国主命、天孫族がそれぞれその時代その時代に覇者になっていた。
(博多は古代中国では「覇家臺」と書かれ、意味は代々皇帝が家を置くところ、都するところの意。)
旧唐書:倭国とはいにしえの倭奴国なり。
(つまり倭国=倭奴国=都は筑紫)
元(モンゴル)の書:倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
その昔唐が百済を攻めた時百済は 倭奴 の兵を借りたが白村江で敗れた。
倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも(半島から)撤退した。
今の 倭奴 は昔の(唐に負けたような)倭奴ではない・・・
(つまり元軍は日本を侵略するのが目的だったが、何故か全軍を博多に集結させた。それはなぜか??
そう、博多は古より 倭国=倭奴国=筑紫 の都 覇家臺 だったからだ♪)
もういい加減あきらめな♪
中国記述、日本の記紀、考古学、統計学、その他遺跡や文献等々、日本のいにしえの舞台は 博多=筑紫 だったのだよ♪
統計学でも福岡がほぼ100%に近いと言われるのも納得だ♪
次点の佐賀ですら0.01%
奈良に限ってはほぼ0にちかい0.00%
文献にしろ文献に順ずる遺跡にしろ出土品にしろ筑紫=福岡は他を圧倒してるんだからな♪ おいおい、冷静に!
筑紫は普通に博多だよ♪
後漢書:倭奴国は倭国の極南界である。
(つまり、倭国は博多湾岸に都を置き、朝鮮南部から九州北部を支配する国)
倭奴国とは金印「漢倭奴国王」の金印をもらった国。
(つまり倭奴国は当時の倭国の覇者)
倭国の覇者は博多湾岸を中心に、倭奴国、邪馬台国、大国主命、天孫族がそれぞれその時代その時代に覇者になっていた。
(博多は古代中国では「覇家臺」と書かれ、意味は代々皇帝が家を置くところ、都するところの意。)
旧唐書:倭国とはいにしえの倭奴国なり。
(つまり倭国=倭奴国=都は筑紫)
元(モンゴル)の書:倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
その昔唐が百済を攻めた時百済は 倭奴 の兵を借りたが白村江で敗れた。
倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも(半島から)撤退した。
今の 倭奴 は昔の(唐に負けたような)倭奴ではない・・・
(つまり元軍は日本を侵略するのが目的だったが、何故か全軍を博多に集結させた。それはなぜか??
そう、博多は古より 倭国=倭奴国=筑紫 の都 覇家臺 だったからだ♪)
もういい加減あきらめな♪
中国記述、日本の記紀、考古学、統計学、その他遺跡や文献等々、日本のいにしえの舞台は 博多=筑紫 だったのだよ♪
統計学でも福岡がほぼ100%に近いと言われるのも納得だ♪
次点の佐賀ですら0.01%
奈良に限ってはほぼ0にちかい0.00%
文献にしろ文献に順ずる遺跡にしろ出土品にしろ筑紫=福岡は他を圧倒してるんだからな♪ 筑紫が久留米を獲った痕跡が景行天皇の
高良山への仮宮の構築。
ここでおそらくヒと不戦提携して、
背後の危険が収まったあとで、
熊襲への侵攻。
ヒも肥後の方から侵攻したかもしれない。 宋書に出てくる 筑紫の日向宮 ♪
これももちろん 福岡の日向宮 の意味だよ♪
宮崎はクマソだからあきらめなされ♪
「天皇、筑紫日向より豊州箕島に入られた・・・」
これも宮崎の人からしたら
「神武天皇が九州島の日向から豊国箕島に入られた・・・」
になるんだろうね♪
いやまてよ!同じ九州なのに(笑)
筑紫の日向の橘の小戸
(筑紫国の日向の岬の小戸)
筑紫の日向の高千穂のクシフル岳
(筑紫国の日向の山のクシフル岳)
これが正解♪
宮崎は日向だけで都合よく解釈しないようにね♪
クマソの都さん♪ 筑紫がそのまま島の名前になっている時点ではもう大和に征服された後だろ >>58
邪馬台国は宮崎県にあった。
謎が解けたよ。
宮崎を日向と名付けたのは景行天皇で、神武東征の時には、宮崎は日向では
なかった。
つまり、天孫降臨の地は宮崎ではなく、後から宮崎を日向と偽称させた。
なぜか?
邪馬台国は大和朝廷に滅ぼされた土蜘蛛であったが、これを明らかにすることは
できなかった。
なぜなら、邪馬台国は魏の冊封国であり、これを滅ぼしたとしたら、中華帝国
への反乱ということになってしまうからだ。
そこで、大和朝廷は、卑弥呼と台与の事績を神功皇后一人の記とするなどの
混乱を見せつつ、これらが皇統であるかのような偽装を行った。
神功皇后は、日本が倭国であるかのような偽装を行うための架空の人物であり、
だこらそれは女性である必要があった。
そして、もう一つの偽装が、宮崎を日向の呼び、天孫降臨の地であるかのように
詐称したことだ。
なぜ宮崎だったのか。
それは、宮崎が邪馬台国だったからだ。
卑弥呼や台与が神功皇后であったかのように記述したのと同様、邪馬台国
を天孫降臨の地であるかのように詐称させることで、大和朝廷が邪馬台国
を滅ぼしておらず、むしろ正統な後継者であるかのようにする偽装が完成した。
このように、宮崎を天孫降臨の地であるかのように詐称したのは意味が
あり、そこが邪馬台国であったからだ。 天皇、筑紫日向より豊州箕島に入られた・・・
豊国ではなく豊州となってるあたり、このころは福岡県東部の旧豊国は
天孫族が治める地域、支配下になったんだろうね♪
神武東征は福岡平野の天孫族による筑豊等の旧豊国侵攻の可能性もあるしね。
神武か天孫族が豊国を奪い、その後機内へ東征する際に豊国箕島に寄り箕島神社を建立した♪
「いにしえ天孫ここより発ち、日向の旧都へ向かった。ここは天照大御神の・・・」
行橋や京都郡に伝わる話しだけど、神武は豊国を天孫族の将軍として制圧したあと京都郡あたりに
居してたのかもね♪
そして、今だに現福岡県域の天孫族が治める地域でも、今だに天孫族に従わない豪族が多いと嘆き、東征を決意する。
そして京都郡から発ち筑紫の日向に向かったと言う話しなのかもね♪
邪馬台国は行橋あたりも怪しいね♪
それか卑弥呼が行橋あたりの邪馬台国をおさめていたが博多湾周辺の中心豪族に推薦され、伊都国で女王として君臨したとかね♪
まあ基本は博多湾周辺からの話しでしょ♪ 『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、
改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、
故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有
大山為限、山外即毛人之國。
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、
東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。
『新唐書』日本伝
其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。
※「筑紫」=北九州
(まとめ)
日本と倭国は別種。
日本はどこかの小国だったが倭国を併合した。(旧唐書)
日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は北九州にいた。(新唐書) いつまで工作してんの?
日本史板機能しなくなってんじゃん >>27
おおむねこういう感じなんじゃねーかと思うけど、
証拠がな… 天皇家の先祖は、阿毎とういう氏だったんだろう。
済州島にいた騎馬民族だよ。 半島で賭け事とか禁止されてそれから逃れたやつらが今じゃ済州島に訪れて
ギャンブルにこうじる場所になってるぞ ラスベガスみたいな感じになってたりあるいはカジノみたいに
発展したりしてるのはマカオ、済州島、香港、あとどこがある? カジノって〜のはよ〜するに公営ギャンブルではない
完全な民間ギャンブルのことな
上がりなどはほとんど投資家のフトコロに入る 日本でも昔は寺院あたりを中心に賭博が行われていた時代もあるみたいだが
江戸時代あたりの博打打ち〜ってのは今のヤクザの起源な
ショバ代だの吹かすのは賭博の場所を貸した家賃みたいなものの語源 さ〜それを参考にしてるのかど〜かは分からないよな〜
893だの吹かしてるやつらは自分が被害者てかに重ねてるわけ? 短里があり得ないって言っているアホは、今の地図を見ながらおよその距離を地図上で物差しで測ってみろよ。
1里=400メートルなんて500%あり得ないんだよ。こういう地道なことを一切しないで、「学界の権威が
信じているんだから間違いない」と思っているのは、新興宗教の盲信と同じだよ。歴史を読めば、中世ヨーロッパの
カトリック教会がいかに間違っていたかわかるはずなんだけど。「倭人伝に書かれているのは直線距離じゃない。
だから短里説などあり得ない」と言うような反論をするくらいならまだマシだが、ここにいるドアホは
「とにかく違うはずしか言えない」 自分の頭で考える力がゼロ。オレオレ詐欺にひっかかるなよ www >>75さん。他のスレでも荒らしてますね。ご苦労様です 【5月5日 AFP】日本語の方言の多くは約2200年前に朝鮮半島から移住してきた農民たちに由来する
「英国王立協会紀要(Proceedings of the Royal Society B)」
もう1つの説は、紀元前200年ごろの朝鮮半島からの人の大量流入が日本の先住文化に非常に大きな影響を及ぼしたとするもので、
先住民が大規模な移住を余儀なくされ、彼らの話していた言語もほとんどが置き換えられたと考える。最近の考古学上およびDNAの証拠は、
いずれもこちらの説が有力であることを示している。
http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/science-technology/2798334/7175562 大和言葉古語を朝鮮から探して来いよw
大和朝廷の支配者言語は大和言葉今の京都弁でも日本語でもない何度言えば
理解できるんだよw まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 62を見て、そうなのかと納得しました。
アマチュアレベルな自分ですが。 まぁ普通に読めば九州南部
大陸から海を渡ってくる船と倭国内を移動する船は違う船だったろうし
国内は視察、接待を受けながらの旅だったと思う。だから
水行○日はかかった日数というより、かけた日数とみた方が良いと思う。
陸行も同様。
邪馬台国は川の氾濫する宮崎より、盆地の都城が一番可能性が高い。
経済の中心部は北部だったろうけどね まぁ素直にめば九州北部有明海東岸。
「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
洛陽を出発した魏使は、船で淮水を下り(淮水行)、
淮水河口から黄海を渡り、帯方郡徳積群島で乍南し、珍島で作東し、
韓地西岸南岸の諸韓国を歴して、狗邪韓國の南岸に到着する。
帯方郡を通って、狗邪韓國の南岸までのその水行は、七千餘里。
「(從郡)南至投馬國、水行二十日」
帯方郡を通って、不彌國の南の投馬國に至る道程は、水行で二十日(約2万里)。
「(從郡)南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月」
帯方郡を通って、不彌國の南の女王の都する所である邪馬壹國至る道程は、
水行で十日(11400餘里)と陸行1月(1月行=約1000里=80km)。
陸行の起点は末盧國であるから、邪馬壹國は不彌國の南400里(約30km)。
邪馬壹國の位置は八女(広川町・八女市) 当時の魏では太陽方位角測量は既に行われていて、距離の記述は測量値 27 名前:日本@名無史さん :2015/03/19(木) 18:56:29.55
邪馬台国は宮崎県にあった。
謎が解けたよ。
宮崎を日向と名付けたのは景行天皇で、神武東征の時には、宮崎は日向では
なかった。
つまり、天孫降臨の地は宮崎ではなく、後から宮崎を日向と偽称させた。
なぜか?
邪馬台国は大和朝廷に滅ぼされた土蜘蛛であったが、これを明らかにすることは
できなかった。
なぜなら、邪馬台国は魏の冊封国であり、これを滅ぼしたとしたら、中華帝国
への反乱ということになってしまうからだ。
そこで、大和朝廷は、卑弥呼と台与の事績を神功皇后一人の記とするなどの
混乱を見せつつ、これらが皇統であるかのような偽装を行った。
神功皇后は、日本が倭国であるかのような偽装を行うための架空の人物であり、
だこらそれは女性である必要があった。
そして、もう一つの偽装が、宮崎を日向の呼び、天孫降臨の地であるかのように
詐称したことだ。
なぜ宮崎だったのか。
それは、宮崎が邪馬台国だったからだ。
卑弥呼や台与が神功皇后であったかのように記述したのと同様、邪馬台国
を天孫降臨の地であるかのように詐称させることで、大和朝廷が邪馬台国
を滅ぼしておらず、むしろ正統な後継者であるかのようにする偽装が完成した。
このように、宮崎を天孫降臨の地であるかのように詐称したのは意味が
あり、そこが邪馬台国であったからだ。 神功皇后は余計だな
卑弥呼や台与の事績と神功皇后の事績とでは、まるで共通点はない
むしろ、「卑弥呼や台与に相当する人物が、日本史上どこにもいない」ことを根拠にしたほうが論理整合する >>1
邪馬壹國は筑紫平野の東部(北野地域、筑後平野内陸部)
女王國は筑紫平野の大部分(肥前国庁址付近の伊都國地域を除く)
伊都國は女王國成立以前の倭國の首都、 伊都國(倭都であった國の意) まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 奴国の東百里に不弥国があり、不弥国から水行と陸行を兼ねて、
「南」へ下って邪馬台国がある
南だからねえ
瀬戸内海は東なので 邪馬台国が大和王権でないなら、滅ぼされて奴隷になった被差別部落だろうな。 南九州はむしろ天孫降臨の地だ
クマソは熊本南部から鹿児島北部 27 名前:日本@名無史さん :2015/03/19(木) 18:56:29.55
邪馬台国は宮崎県にあった。
謎が解けたよ。
宮崎を日向と名付けたのは景行天皇で、神武東征の時には、宮崎は日向では
なかった。
つまり、天孫降臨の地は宮崎ではなく、後から宮崎を日向と偽称させた。
なぜか?
邪馬台国は大和朝廷に滅ぼされた土蜘蛛であったが、これを明らかにすることは
できなかった。
なぜなら、邪馬台国は魏の冊封国であり、これを滅ぼしたとしたら、中華帝国
への反乱ということになってしまうからだ。
そこで、大和朝廷は、卑弥呼と台与の事績を神功皇后一人の記とするなどの
混乱を見せつつ、これらが皇統であるかのような偽装を行った。
神功皇后は、日本が倭国であるかのような偽装を行うための架空の人物であり、
だこらそれは女性である必要があった。
そして、もう一つの偽装が、宮崎を日向の呼び、天孫降臨の地であるかのように
詐称したことだ。
なぜ宮崎だったのか。
それは、宮崎が邪馬台国だったからだ。
卑弥呼や台与が神功皇后であったかのように記述したのと同様、邪馬台国
を天孫降臨の地であるかのように詐称させることで、大和朝廷が邪馬台国
を滅ぼしておらず、むしろ正統な後継者であるかのようにする偽装が完成した。
このように、宮崎を天孫降臨の地であるかのように詐称したのは意味が
あり、そこが邪馬台国であったからだ。 いや、邪馬台国が大和王権でないならの話だから、クマソの南熊本、北鹿児島あたりが邪馬台国になるわけで
そのさらに南に位置する南九州は狗奴国だったことになるよ 熊本から、どんどんどんどん東へ行けば間違いなく海に出る
何の問題があろうか 熊本だったら西の海のこと書いてるわ。
阿蘇山超えて東の海には行かない。 ・計其道里、当在会稽東冶之東。
・女王国東渡海千余里、復有国、皆倭種。又有侏儒国在其南。
だから、西の海のことも、東の海のことも、書いているではないか。
上の二文は、対をなしているのだ。
、 >>113
>・計其道里、当在会稽東冶之東。
これ、百余国の倭国全体のことだよ。
倭人在帶方東南大海之中
依山島為國邑
舊百餘國漢時有 分からん奴だ
つまり会稽から、遥か海を越えた先の倭国ことを書いているのだ。
同様に、女王国からはるか先の東の海を渡る・・・、で何の不都合もないのだ。 >>112
邪馬台国女王之所都は、日向と肥後の中間の高千穂町にあったのだ。
これなら女王国は東の海に面してるで文句有るめえ。 ま、日向の東は日向灘、そのまた先は太平洋で陸地はありやせんぜ。
東九州に有るとしても、邪馬台国は福岡県・大分県どまりだからな。 1-1で、邪馬台国の所在地は、九州島内しか考えられないことが分かった。
では、邪馬台国は九州のどこにあったのだろうか。
まず検討すべきは、1-1に書いた倭人伝の12である。
「女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国あり、皆倭種なり」
とある。つまり、
「女王国の東側は海に面しており、東に千余里(約七五〜九〇キロ)ほど海を渡ると、また国があって、倭人と同種の人が住んでいる」
と言うのである。
ここで女王国というのは、倭国全体であろうか。または倭国の中の女王のいる邪馬台国のことであろうか。それを決めるのは、10と11である。まず、10には、
「女王国より以北は、その戸数・道里、得て略載すべきも、其の余の旁国は遠絶にして、得て詳かにすべからず」
とあり、つまり、
「女王国の以北にも、その他の地にも国がある」
ことを、示している。また11も、
「女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ」
となっており、女王国が決して倭国全体を示す言葉でないことを、証明している。
つまり「女王国は、倭国の中の一国であり、女王の都する所、つまり邪馬壱国」なのである。したがって、
「邪馬台国の東側は海に面している」
ことになる。
http://www.b-net.kcv.jp/~ryhei/1-2yamakokuiti.htm >>115
>分からん奴だ
>つまり会稽から、遥か海を越えた先の倭国ことを書いているのだ。
>同様に、女王国からはるか先の東の海を渡る・・・、で何の不都合もないのだ。
邪馬台国からはるか陸行した先の東の海を渡るという記述があるか? >記述があるか?
このような考え方そのものがおかしい
倭人伝は、(おそらく割り当てられた)2000字ほどの中に、詰め込めるだけ詰め込んで書かれた。
当時の学者数人がかりで、省略できる部分は徹底的に省略されたことだろう。
であるから、その省略された部分を如何に補って読めるか・・・、それが勝負どころなのだ。 戦国時代に島津は九州南部の熊本も宮崎も領有している
九州の西側の国が東側をも領有していたとして、なんらおかしな点はない 宋書における倭国には阿蘇山があるが、魏志倭人伝にはない。
男女の多くが臂(肩から手首まで)、顔、全身に刺青をし、水に潜って魚を捕る。文字はなく、
ただ木に刻みをいれ、繩を結んで(通信)する。仏法を敬い、百済で仏教の経典を求めて得、
初めて文字を有した。卜筮を知り、最も巫覡(ふげき=男女の巫者)を信じている。
阿蘇山があり、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し、俗人はこれを異となし、因って祭祀
を執り行う。如意宝珠があり、その色は青く、雞卵のような大きさで、夜には光り、魚の眼の
精霊だという。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun9-zuisho.htm 宮崎の「崎」は「ひがし」の意味である。
つまり宮崎とは「宮の東」という意味なのである。
ではこの場合の「宮」とはなんぞや?? それは、云うまでもなく女王国の宮殿のことだったのであろう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています