邪馬台国は九州南部くさい [転載禁止]©2ch.net
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邪馬台国が西都原(宮崎県西都市)である証拠。
1、地名の語末に『都』という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。
類例、京『都』、東京『都』、神武建国の伊『都』国。宇『都』宮のような音借とは違う。
西都の「西」、方位の事ではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味。
(日向地方は九州島の東海岸沿いにあり矛盾するから。)
2、日向地方は冬も温暖。真東に海がある。原文(倭人伝)に沿わせるとこうなる。
3、三角縁神獣鏡も出土。(半島や中国から1枚も出土しないので鏡は純国産。)
4、西都のオサホ塚はもともと九州で一番大きな円墳で卑弥呼の墓だから黒板勝美が
尻尾をつけて墓を捏造。さらに柵で囲って現在宮内庁が管理。そのため発掘させてくれない。
9割以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。
5、九州で一番規模のでかい古墳群遺跡は西都原である。規模のてんからいってもここが
邪馬台国の跡としてふさわしい。さらにシャーマニズムの卑弥呼とも思わせる斎殿原跡が存在。
これだけ大規模な遺跡であるから長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都であった
邪馬台国(大国)の所在が特定できないのは不可思議な話。政治的意図(半島からやってきた天皇
および天皇制)による政府の組織的隠蔽工作が行われたと思量する。これに加担する畿内説信者は
不快である。
6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は「西都原」。
7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は九州で一番人口密度が高かった。
人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。
朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書」は畿内説による歴史改竄でオサホ塚に
後方部をつける改修であり好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も同一の歴史改竄。
記紀による天皇家の出自も改竄で、現実は神武も卑弥呼も朝鮮半島からきた。
これらの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。
西都原の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。 筑紫がそのまま島の名前になっている時点ではもう大和に征服された後だろ >>58
邪馬台国は宮崎県にあった。
謎が解けたよ。
宮崎を日向と名付けたのは景行天皇で、神武東征の時には、宮崎は日向では
なかった。
つまり、天孫降臨の地は宮崎ではなく、後から宮崎を日向と偽称させた。
なぜか?
邪馬台国は大和朝廷に滅ぼされた土蜘蛛であったが、これを明らかにすることは
できなかった。
なぜなら、邪馬台国は魏の冊封国であり、これを滅ぼしたとしたら、中華帝国
への反乱ということになってしまうからだ。
そこで、大和朝廷は、卑弥呼と台与の事績を神功皇后一人の記とするなどの
混乱を見せつつ、これらが皇統であるかのような偽装を行った。
神功皇后は、日本が倭国であるかのような偽装を行うための架空の人物であり、
だこらそれは女性である必要があった。
そして、もう一つの偽装が、宮崎を日向の呼び、天孫降臨の地であるかのように
詐称したことだ。
なぜ宮崎だったのか。
それは、宮崎が邪馬台国だったからだ。
卑弥呼や台与が神功皇后であったかのように記述したのと同様、邪馬台国
を天孫降臨の地であるかのように詐称させることで、大和朝廷が邪馬台国
を滅ぼしておらず、むしろ正統な後継者であるかのようにする偽装が完成した。
このように、宮崎を天孫降臨の地であるかのように詐称したのは意味が
あり、そこが邪馬台国であったからだ。 天皇、筑紫日向より豊州箕島に入られた・・・
豊国ではなく豊州となってるあたり、このころは福岡県東部の旧豊国は
天孫族が治める地域、支配下になったんだろうね♪
神武東征は福岡平野の天孫族による筑豊等の旧豊国侵攻の可能性もあるしね。
神武か天孫族が豊国を奪い、その後機内へ東征する際に豊国箕島に寄り箕島神社を建立した♪
「いにしえ天孫ここより発ち、日向の旧都へ向かった。ここは天照大御神の・・・」
行橋や京都郡に伝わる話しだけど、神武は豊国を天孫族の将軍として制圧したあと京都郡あたりに
居してたのかもね♪
そして、今だに現福岡県域の天孫族が治める地域でも、今だに天孫族に従わない豪族が多いと嘆き、東征を決意する。
そして京都郡から発ち筑紫の日向に向かったと言う話しなのかもね♪
邪馬台国は行橋あたりも怪しいね♪
それか卑弥呼が行橋あたりの邪馬台国をおさめていたが博多湾周辺の中心豪族に推薦され、伊都国で女王として君臨したとかね♪
まあ基本は博多湾周辺からの話しでしょ♪ 『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、
改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、
故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有
大山為限、山外即毛人之國。
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、
東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。
『新唐書』日本伝
其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。
※「筑紫」=北九州
(まとめ)
日本と倭国は別種。
日本はどこかの小国だったが倭国を併合した。(旧唐書)
日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は北九州にいた。(新唐書) いつまで工作してんの?
日本史板機能しなくなってんじゃん >>27
おおむねこういう感じなんじゃねーかと思うけど、
証拠がな… 天皇家の先祖は、阿毎とういう氏だったんだろう。
済州島にいた騎馬民族だよ。 半島で賭け事とか禁止されてそれから逃れたやつらが今じゃ済州島に訪れて
ギャンブルにこうじる場所になってるぞ ラスベガスみたいな感じになってたりあるいはカジノみたいに
発展したりしてるのはマカオ、済州島、香港、あとどこがある? カジノって〜のはよ〜するに公営ギャンブルではない
完全な民間ギャンブルのことな
上がりなどはほとんど投資家のフトコロに入る 日本でも昔は寺院あたりを中心に賭博が行われていた時代もあるみたいだが
江戸時代あたりの博打打ち〜ってのは今のヤクザの起源な
ショバ代だの吹かすのは賭博の場所を貸した家賃みたいなものの語源 さ〜それを参考にしてるのかど〜かは分からないよな〜
893だの吹かしてるやつらは自分が被害者てかに重ねてるわけ? 短里があり得ないって言っているアホは、今の地図を見ながらおよその距離を地図上で物差しで測ってみろよ。
1里=400メートルなんて500%あり得ないんだよ。こういう地道なことを一切しないで、「学界の権威が
信じているんだから間違いない」と思っているのは、新興宗教の盲信と同じだよ。歴史を読めば、中世ヨーロッパの
カトリック教会がいかに間違っていたかわかるはずなんだけど。「倭人伝に書かれているのは直線距離じゃない。
だから短里説などあり得ない」と言うような反論をするくらいならまだマシだが、ここにいるドアホは
「とにかく違うはずしか言えない」 自分の頭で考える力がゼロ。オレオレ詐欺にひっかかるなよ www >>75さん。他のスレでも荒らしてますね。ご苦労様です 【5月5日 AFP】日本語の方言の多くは約2200年前に朝鮮半島から移住してきた農民たちに由来する
「英国王立協会紀要(Proceedings of the Royal Society B)」
もう1つの説は、紀元前200年ごろの朝鮮半島からの人の大量流入が日本の先住文化に非常に大きな影響を及ぼしたとするもので、
先住民が大規模な移住を余儀なくされ、彼らの話していた言語もほとんどが置き換えられたと考える。最近の考古学上およびDNAの証拠は、
いずれもこちらの説が有力であることを示している。
http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/science-technology/2798334/7175562 大和言葉古語を朝鮮から探して来いよw
大和朝廷の支配者言語は大和言葉今の京都弁でも日本語でもない何度言えば
理解できるんだよw まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 62を見て、そうなのかと納得しました。
アマチュアレベルな自分ですが。 まぁ普通に読めば九州南部
大陸から海を渡ってくる船と倭国内を移動する船は違う船だったろうし
国内は視察、接待を受けながらの旅だったと思う。だから
水行○日はかかった日数というより、かけた日数とみた方が良いと思う。
陸行も同様。
邪馬台国は川の氾濫する宮崎より、盆地の都城が一番可能性が高い。
経済の中心部は北部だったろうけどね まぁ素直にめば九州北部有明海東岸。
「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
洛陽を出発した魏使は、船で淮水を下り(淮水行)、
淮水河口から黄海を渡り、帯方郡徳積群島で乍南し、珍島で作東し、
韓地西岸南岸の諸韓国を歴して、狗邪韓國の南岸に到着する。
帯方郡を通って、狗邪韓國の南岸までのその水行は、七千餘里。
「(從郡)南至投馬國、水行二十日」
帯方郡を通って、不彌國の南の投馬國に至る道程は、水行で二十日(約2万里)。
「(從郡)南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月」
帯方郡を通って、不彌國の南の女王の都する所である邪馬壹國至る道程は、
水行で十日(11400餘里)と陸行1月(1月行=約1000里=80km)。
陸行の起点は末盧國であるから、邪馬壹國は不彌國の南400里(約30km)。
邪馬壹國の位置は八女(広川町・八女市) 当時の魏では太陽方位角測量は既に行われていて、距離の記述は測量値 27 名前:日本@名無史さん :2015/03/19(木) 18:56:29.55
邪馬台国は宮崎県にあった。
謎が解けたよ。
宮崎を日向と名付けたのは景行天皇で、神武東征の時には、宮崎は日向では
なかった。
つまり、天孫降臨の地は宮崎ではなく、後から宮崎を日向と偽称させた。
なぜか?
邪馬台国は大和朝廷に滅ぼされた土蜘蛛であったが、これを明らかにすることは
できなかった。
なぜなら、邪馬台国は魏の冊封国であり、これを滅ぼしたとしたら、中華帝国
への反乱ということになってしまうからだ。
そこで、大和朝廷は、卑弥呼と台与の事績を神功皇后一人の記とするなどの
混乱を見せつつ、これらが皇統であるかのような偽装を行った。
神功皇后は、日本が倭国であるかのような偽装を行うための架空の人物であり、
だこらそれは女性である必要があった。
そして、もう一つの偽装が、宮崎を日向の呼び、天孫降臨の地であるかのように
詐称したことだ。
なぜ宮崎だったのか。
それは、宮崎が邪馬台国だったからだ。
卑弥呼や台与が神功皇后であったかのように記述したのと同様、邪馬台国
を天孫降臨の地であるかのように詐称させることで、大和朝廷が邪馬台国
を滅ぼしておらず、むしろ正統な後継者であるかのようにする偽装が完成した。
このように、宮崎を天孫降臨の地であるかのように詐称したのは意味が
あり、そこが邪馬台国であったからだ。 神功皇后は余計だな
卑弥呼や台与の事績と神功皇后の事績とでは、まるで共通点はない
むしろ、「卑弥呼や台与に相当する人物が、日本史上どこにもいない」ことを根拠にしたほうが論理整合する >>1
邪馬壹國は筑紫平野の東部(北野地域、筑後平野内陸部)
女王國は筑紫平野の大部分(肥前国庁址付近の伊都國地域を除く)
伊都國は女王國成立以前の倭國の首都、 伊都國(倭都であった國の意) まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 奴国の東百里に不弥国があり、不弥国から水行と陸行を兼ねて、
「南」へ下って邪馬台国がある
南だからねえ
瀬戸内海は東なので 邪馬台国が大和王権でないなら、滅ぼされて奴隷になった被差別部落だろうな。 南九州はむしろ天孫降臨の地だ
クマソは熊本南部から鹿児島北部 27 名前:日本@名無史さん :2015/03/19(木) 18:56:29.55
邪馬台国は宮崎県にあった。
謎が解けたよ。
宮崎を日向と名付けたのは景行天皇で、神武東征の時には、宮崎は日向では
なかった。
つまり、天孫降臨の地は宮崎ではなく、後から宮崎を日向と偽称させた。
なぜか?
邪馬台国は大和朝廷に滅ぼされた土蜘蛛であったが、これを明らかにすることは
できなかった。
なぜなら、邪馬台国は魏の冊封国であり、これを滅ぼしたとしたら、中華帝国
への反乱ということになってしまうからだ。
そこで、大和朝廷は、卑弥呼と台与の事績を神功皇后一人の記とするなどの
混乱を見せつつ、これらが皇統であるかのような偽装を行った。
神功皇后は、日本が倭国であるかのような偽装を行うための架空の人物であり、
だこらそれは女性である必要があった。
そして、もう一つの偽装が、宮崎を日向の呼び、天孫降臨の地であるかのように
詐称したことだ。
なぜ宮崎だったのか。
それは、宮崎が邪馬台国だったからだ。
卑弥呼や台与が神功皇后であったかのように記述したのと同様、邪馬台国
を天孫降臨の地であるかのように詐称させることで、大和朝廷が邪馬台国
を滅ぼしておらず、むしろ正統な後継者であるかのようにする偽装が完成した。
このように、宮崎を天孫降臨の地であるかのように詐称したのは意味が
あり、そこが邪馬台国であったからだ。 いや、邪馬台国が大和王権でないならの話だから、クマソの南熊本、北鹿児島あたりが邪馬台国になるわけで
そのさらに南に位置する南九州は狗奴国だったことになるよ 熊本から、どんどんどんどん東へ行けば間違いなく海に出る
何の問題があろうか 熊本だったら西の海のこと書いてるわ。
阿蘇山超えて東の海には行かない。 ・計其道里、当在会稽東冶之東。
・女王国東渡海千余里、復有国、皆倭種。又有侏儒国在其南。
だから、西の海のことも、東の海のことも、書いているではないか。
上の二文は、対をなしているのだ。
、 >>113
>・計其道里、当在会稽東冶之東。
これ、百余国の倭国全体のことだよ。
倭人在帶方東南大海之中
依山島為國邑
舊百餘國漢時有 分からん奴だ
つまり会稽から、遥か海を越えた先の倭国ことを書いているのだ。
同様に、女王国からはるか先の東の海を渡る・・・、で何の不都合もないのだ。 >>112
邪馬台国女王之所都は、日向と肥後の中間の高千穂町にあったのだ。
これなら女王国は東の海に面してるで文句有るめえ。 ま、日向の東は日向灘、そのまた先は太平洋で陸地はありやせんぜ。
東九州に有るとしても、邪馬台国は福岡県・大分県どまりだからな。 1-1で、邪馬台国の所在地は、九州島内しか考えられないことが分かった。
では、邪馬台国は九州のどこにあったのだろうか。
まず検討すべきは、1-1に書いた倭人伝の12である。
「女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国あり、皆倭種なり」
とある。つまり、
「女王国の東側は海に面しており、東に千余里(約七五〜九〇キロ)ほど海を渡ると、また国があって、倭人と同種の人が住んでいる」
と言うのである。
ここで女王国というのは、倭国全体であろうか。または倭国の中の女王のいる邪馬台国のことであろうか。それを決めるのは、10と11である。まず、10には、
「女王国より以北は、その戸数・道里、得て略載すべきも、其の余の旁国は遠絶にして、得て詳かにすべからず」
とあり、つまり、
「女王国の以北にも、その他の地にも国がある」
ことを、示している。また11も、
「女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ」
となっており、女王国が決して倭国全体を示す言葉でないことを、証明している。
つまり「女王国は、倭国の中の一国であり、女王の都する所、つまり邪馬壱国」なのである。したがって、
「邪馬台国の東側は海に面している」
ことになる。
http://www.b-net.kcv.jp/~ryhei/1-2yamakokuiti.htm >>115
>分からん奴だ
>つまり会稽から、遥か海を越えた先の倭国ことを書いているのだ。
>同様に、女王国からはるか先の東の海を渡る・・・、で何の不都合もないのだ。
邪馬台国からはるか陸行した先の東の海を渡るという記述があるか? >記述があるか?
このような考え方そのものがおかしい
倭人伝は、(おそらく割り当てられた)2000字ほどの中に、詰め込めるだけ詰め込んで書かれた。
当時の学者数人がかりで、省略できる部分は徹底的に省略されたことだろう。
であるから、その省略された部分を如何に補って読めるか・・・、それが勝負どころなのだ。 戦国時代に島津は九州南部の熊本も宮崎も領有している
九州の西側の国が東側をも領有していたとして、なんらおかしな点はない 宋書における倭国には阿蘇山があるが、魏志倭人伝にはない。
男女の多くが臂(肩から手首まで)、顔、全身に刺青をし、水に潜って魚を捕る。文字はなく、
ただ木に刻みをいれ、繩を結んで(通信)する。仏法を敬い、百済で仏教の経典を求めて得、
初めて文字を有した。卜筮を知り、最も巫覡(ふげき=男女の巫者)を信じている。
阿蘇山があり、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し、俗人はこれを異となし、因って祭祀
を執り行う。如意宝珠があり、その色は青く、雞卵のような大きさで、夜には光り、魚の眼の
精霊だという。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun9-zuisho.htm 宮崎の「崎」は「ひがし」の意味である。
つまり宮崎とは「宮の東」という意味なのである。
ではこの場合の「宮」とはなんぞや?? それは、云うまでもなく女王国の宮殿のことだったのであろう。 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 「邪・馬台国」
邪は、よこしま・ずるい、などの意味を持つ。
ゆえに「よこしま馬台国」とは、
善良な馬台国を乗っ取った「よこしま野郎たちの国=邪・馬台国」、という意味を込めているのであろう。
邪・馬台国は共立女王で良く衆を惑わしてはいるが、
そのもとに、征服された「馬台国」という国があったに違いないのだ。 従・自を伴う記述は、従〜到または自〜至間の国々と、
それらをつなぐ政治経済生活のための交流に必要な道(街道)をセットで表わしている。 いわば点と線で構成されている。
以下のように、従や自を伴わないケースは、
街道の概念を含まず、単に国々等の地理的な所在ないし方角のみ示す。
例えば狗奴国との間に、日常交流のための街道はなかったのであろう。
・其南有狗奴国(女王境界南有狗奴国)
・女王国東渡海千余里、 <祖母山>
宮崎県の最高峰である祖母山は(そぼさん)は、標高1,756mの麗峰で、
別名、姥岳(ウバタケ)と呼ばれる。
山域は、熊本県、大分県、宮崎県の3県にまたがっており、
山頂部は、大分県豊後大野市、同竹田市および宮崎県西臼杵郡高千穂町の境にある。
祖母山一帯は銅、錫、鉛、マンガン、水晶などの鉱物資源が豊富で、
有史以来、昭和中期まで採掘が行われていた。
なかでも祖母山山麓の尾平鉱山は、元和3年(1617年)に開鉱され、
昭和29年(1954年)に閉山されるまで、日本有数の鉱山として栄えた。
このほか大分県側に九折鉱山、木浦鉱山、
宮崎県側には見立鉱山、土呂久鉱山など多数があった。 なお熊襲征伐のため、景行天皇が日向へ下ったおりには、
この尾平鉱山脇を登って、祖母山へ繋がる尾根の鞍部を越える尾平峠(尾平越え)を通り、
宮崎県側へ入ったと伝えられる。まことに由緒ある峠道ではある。 台地(ウィキペディアより)
台地(だいち)とは、地形学用語の plateau や tableland 、あるいは地質学用語の platforme に対応する訳語である。山や丘陵より高度や起伏が小さいものを指す。
てことで、>>131は明らかに誤り
「台地」という訳語は、「台」のような「地」という意味で考案されたものであり
その「台」とは、邪馬台国の時代においては、天帝の代理人として地上を委ねられた天子の居所という意味 ちなみに、その「台」から「台地」への意味の変遷過程は
台=「天子の居所」→「神聖な場所」→「命をつなぐ食事の場所」→「食卓」
tablelandを食卓の地ととらえて台地と訳すに至る 投馬の国が久留米ということまでは、共通理解なんだよな。
名前的にも何か符合するんだっけ? >>135
それに台を当てたのは、通じるからだろ。 >九州西岸説は、陸行1月を説明できない
>>124
陸行(水行10日陸行16日合計26日約)1月
( )の部分が省略されてる。漢文は結論しか書かない。
前原伊都国から日向の西都原まで26日(約1月) 久留米から熊本だと、水行10日は分かるんだが、陸行1月が全く説明できない。
そのまま海を行けばいいんじゃね?
久留米から西都原なら、川で日田まで行って、そこからどうしても陸行になる。
一月くらいかかっただろ。
東に海があって、その向こうは四国だ。 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり <天才伊作読みをベースに、ついに全解読された倭人伝の行程!!>
帯方郡
↓【乍南乍東】 海岸水行 到 7000里 狗邪韓国
↓【南】 渡三海3000里 至
末盧国 (四千戸・佐賀県唐津市)
↓【東南】 陸行500里 到
伊都国 (千戸・小城市船塚)郡使所駐 世有王 置一大率 →→ 【東南】 至 奴国100里 (二万戸・佐賀市)
↓【東】 行 至
不弥国100里 (千戸・神埼市/吉野ヶ里)
↓ ↓
↓ ↓【南】 至
↓ 邪馬台国女王所都 (帯方郡から)水行10日陸行1月 (七万戸・熊本県山鹿市/菊池市/阿蘇市等)
↓
↓【南】 至
投馬国 (帯方郡から)水行20日 (五万戸・宮崎県宮崎市/西都市等) >>144 の脚注
・ 但し、行程が「動詞+到・至」の場合は順次読み、「至」のみの場合は分岐式(行止り式)読み とする
・ 但し、自女王国以北其戸数道里可得略載、故に、里数なき投馬国は女王国の南に有る
・ 但し、自郡至女王国万二千余里、故に、不弥国〜女王所都間は1400里なり
・ 但し、女王の境界尽きるところの南に不属の狗奴国有り 末盧国東南陸行500里の伊都国から、道は奴国と不弥国へ分かれる。
邪馬台国へ向うには、東南の方角(東南至)の奴国へは寄らず、直接東行して不弥国(佐賀県神埼市・吉野ヶ里)へ至る。
この吉野ヶ里(不弥国)から見ると、
南の方角(南至)に(帯方郡から)水行20日の投馬国がある。
また同様にして南の方角(南至)に、(帯方郡から)水行10日+(末盧国上陸後)陸行1月の邪馬台国女王之所都がある。
吉野ヶ里から見て、
南の方角に、投馬国(宮崎市・西都市)と邪馬台国(山鹿市・菊池市・阿蘇市等)があるという記述は、いかにも不自然と思われるかもしれない。
しかし、ここから南(正確には南南東)に伸ばした直線の約80km先に熊本県山鹿市・菊池市・阿蘇市等があり、
さらにその直線の先、吉野ヶ里から180kmほどのところに宮崎市・西都市があるのである。
まさに、「南至る投馬国」、「また同様にして南至る邪馬台国」なのである。 放射読みなんて、こじつけのための屁理屈だよ。
それでは、魏に行程が伝わらない。 >>146
この説では伊都国は糸島ではないんだよ。
伊都国は佐賀平野西部の小城市船塚遺跡の辺り(久留間)。
そこから東南方向(100余里)に奴国・佐賀市は有る。 ぷhさああああああああああああああああああ
ひゅああああああああああああああああああ
た、たしゅけてえええええええええええええ 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 伊都国は糸島以外あり得ん。
糸島の、それも中央付近でないとな。 末盧国 四千戸(佐賀県唐津市)、東南陸行500里 到伊都国
唐津市から東南陸行500里なら、誰がどう読んでも佐賀平野である。
そしてその伊都国の位置は、小城市船塚古墳辺りだろう。
(糸島なんか、間違っても気違っても行くわけがない) 末盧国から東南ではないんだがな。
伊都国=糸島から東南だよ。
奴国は福岡西部しかあり得ない。
末盧国
↓陸行五百里
伊都国
↓(東南)百里
奴国
↓(東)百里
不弥国
↓(南)水行20日
投馬国
↓(南)水行10日・陸行1月
邪馬台国
女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり >>154
いや、末盧から伊都も東南だよ。
それでも、唐津の先端から糸島だけどな。 唐津市中原(松浦港)から糸島は北東の方角だ。
半島先端の呼子からでも、糸島は東の方角にあたる。
(糸島は末蘆国の東南などという論は信頼性に欠ける、まったく説得力無し) 唐津の先端から糸島は東南だよ。
伊都国が佐賀なら、そこから東南へ、そして東へ行って、何川を水行するね? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています