朝廷って慶喜の奏請に対して結局、条約に勅許を与えてるから、
少なくとも慶応元年10月の時点で尊攘は正当性失ってるんだよね。

攘夷親征計画は幕府を介さず直接朝廷が諸侯に軍事命令を下すもので、
真木和泉ら王政復古論者が推進していたし同様の効果があるのは言うまでもない。
あと、この段階になると攘夷実行に関する文言も、
幕府の4月の通達は「拒絶」「外国軍艦」という限定を付けており、
諸藩はこれをそのままの意味で受け取り、たとえば関門海峡の対岸の小倉藩は
「5月10日は外夷の拒絶の期限だから、砲撃に協力はできない」と回答し、
怒った長州諸隊は小倉藩領に侵攻して占領してしまう。これとんでもない行為なんだけど

長州藩が攘夷を実行した時も「布告したのは拒絶であるし、
細目についての問い合わせもない、襲来してもいないのに攻撃を加えるのは国の恥」
と叱責している(長州藩が5月10日に砲撃したのはアメリカの「商船」ペンブローク号)
6月に直接、諸藩に出された勅は「外夷」を広く対象として、長州を例に挙げつつ二念なく打払えと言ってるので、
長州藩がもし幕命により攘夷を実行したというなら、少なくとも幕府から叱責を受けた6月12日以降は攘夷実行について幕府にお伺いを立てるほかなく、
お伺いを立てる必要がないというならそれは勅命をじかに受けて実行したことになるから、反幕行為とみなされても致し方ない。
ところが、アーネスト・サトウが見聞したところでは長州藩は「幕命」だと言って民衆を攘夷戦争に動員しており、明らかに欺瞞。

あと孝明天皇は6月27日に容保に下した勅で、
関東下向などには自分は反対だが堂上の連中が言い張るのでとても反論できない、
「実勅」ではないので承知してくれとまで弁解してるわけで、
いくら天皇の独断で勅が出されるわけではないと言っても、正統性に重大な疑問符が付くのは言うまでもない。
実際、仮に天皇の意思だけで出された勅が無効ならば、容保はこの時点で東帰していないと違勅になるが、
その後そのような検討は全く問題になっていない。