池田屋事件直後の元治元年(1864)6月7日付京都守護職会津松平家在京老臣の公的書簡である(『会津藩庁記録』4巻、664〜668頁)
新選組が会津松平家へ「少しの間もそのままにしていてはいけないと思うので、すぐさま出動し長州を召捕りたい、そのための人数を拝借し、会津公用人も一人出張して頂きたい」と願ったというのである(意訳)。
原口氏はこの書簡に古高が「御所辺放火」を供述したという記載が全くなく
そして事件から4日過ぎた6月9日付の一橋慶喜書簡(松平慶永宛)に、古高が「風便を待ち、御所を焼払」う計画をもつものだったと突然「御所放火」が登場することを指摘する。

つまり長州が京に放火して天皇を拐うというのは
会津・新撰組によるでっちあげ。
近代、現代だけでなく、当時からせこい工作やってるのが会津だよ。