【王朝交代】応神天皇とノルマン公ウイリアムT世 [転載禁止]©2ch.net
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海峡を渡って島国に新天地を得た征服王朝ではあるが正統性も多少有る点が酷似している
英国はその事実を隠さず誇りにしてるが
日本は事実を誤魔化して国史を捏造している
どうして? 日本人の起源 〜遺伝学電子博物館
http://www.nig.ac.jp/museum/evolution/02_e.html
図25に、八集団(アフリカ人、ヨーロッパ人、アメリカ先住民、アイヌ、中国人、琉球人、
韓国人、本土日本人)において総当たりで計算したDAの値の分布を調べた。
アフリカ人は、他のどの集団と比較しても大きな遺伝距離をもっている。これとは対
照的に、東アジアの五集団は、それぞれの集団間の遺伝距離が非常に小さい。
特に、韓国人と本土日本人の二集団間の遺伝距離はゼロであった。やはりこの分析で
も、韓国人と本土日本人は遺伝的にきわめて近縁な関係にあることが明らかとなった
のである。
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_26_02.gif
つぎに、集団間で求めた遺伝距離をもとに集団の系統樹を作成した(図26)。この系
統樹では、アフリカ人が他の人類集団に先がけて分岐し、続いてヨーロッパ人が分か
れ、さらにアメリカ先住民が分岐している。最後に、東アジアの五集団が単一系統
のクラスターを形成して枝分かれしてくる。東アジア人のクラスターでは、アイヌ
が最初に分岐し、続いて中国人が枝分かれしてきたことが読み取れる。続いて琉球人
が枝分かれし、最後に韓国人と日本人が緊密なグループとして分岐してくる。 >>1
御家乗っ取りと言う出雲国譲りと物部一族の崇神天皇(物部印恵)が四道将軍を使った東征が各地の出雲族国造家の虐殺だったから
架空の神武東征や最初に殺した敵将の日本武(出雲(神門)振禰)の東征で我が子筋の散自出雲族の南関東国造家を蝦夷として討伐したと言う神話に捏造してまった後ろめたさからだろう。 神話上では
物部一族(渡来秦一族)の長が饒速日神(徐福)
崇神天皇(物部印恵)が弟の邇邇芸神
出雲大社・千家の祖(天穂日神)が徐福の元々の第一次出雲攻略の先発部隊将軍。
第二次部隊の部隊長が天若日子神(中国の七夕伝説の牽牛の人) 天の川とは、日本海で
天若日子神(中国の七夕伝説の牽牛の人)
織女は、大国主の娘の下照姫の事。
織女の機織は、錦(蝦夷)織物だったのでしょう。 >>1
応神天皇自身は渡来人ではないだろうが
渡来系で本来皇后では無かった神功皇后と、傍系皇族ないし九州土着豪族の子 >>6
父親は畿内の豪族ではなかろうか
母が新羅系ゆえ、遠征軍の大将になったとか >>7
一応、応神の父は、仲哀天皇とされているが、当時から、武内宿禰が父親と巷で噂されたと聞いてる。 王朝交代が一回もなかったならば皇祖は変わらないはずである。
神武天皇は天照大神もしくは高皇産霊尊を皇祖としていた
と日本書紀の記述を信じてみるけど、果たしてそれが一貫して守られていたんだろうか?
崇神天皇や応神天皇も先祖神が神武天皇と異なってる可能性はないだろうか?
崇神天皇の時代、天皇に強い権威を与えたのは大物主神であって、
一方天照大神はあまりに頼りなく各地を放浪させられることになる。
崇神天皇の何代か前には、神武天皇の一族は没落していたので
神武の血を引かない崇神には、天照を手放すのに特に躊躇する理由はなかった
のかもしれない。
また住吉大社には仲哀天皇が亡くなってすぐ
神功皇后が住吉大神と交わったという伝承があり、この場合、
応神の父は住吉大神、現実には神を名乗って現れた男ということになる。
応神が即位できたのは武内宿禰の存在が大きいが、応神の実の父親なのか
葛城氏として外戚としての地位を超えなかったのかそこは分からない。
また応神と関係のある神には母の故郷であろう越国の敦賀の笥飯大神、
出雲の少彦名命があり、これは応神天皇の出自を知る上で大きな手掛かり
になるだろう。 国譲りは神話上の作り話。実際に出雲国を征服したのは
崇神天皇だろう。遠い昔、神様どうしの約束し合ったこと
だから現世の人間は文句を言わず天皇家の支配に納得せよと言える。
しかし神武東征はそれ以前出雲国がまだ健在であったときに起きえたと思える。
九州南部より畿内が豊かで先進文明があれば
南方系隼人族の遠征(実際には故郷を捨てての少人数での移住で
大和に入ってから小規模な略奪・戦闘を行った。)はありえただろう。
その大将がおそらく神武といったところか?
おそらく神武の父方を何代か遡ると中国か朝鮮半島から渡来(天孫降臨)した
渡来人だろう。だが鹿児島の女性と何世代も混血したためルーツが同じはずの
饒速日命と違った外見に見えたのかもしれない? 大和に移住した神武天皇の一族はせいぜい一豪族レベルでしかなく、
大和朝廷が時間かかって国家統一したのちに歴史書を編纂するに当たって
天皇の先祖の記録を辿っていくと神武に辿り着いたので、神武から数代の
権力のない当主の「天皇即位」をでっちあげたのか、または初め大和の王は
回り持ちであり、神武一族も何人か王を出しながら没落して、もしかしたら
権力を取り戻して日本を統一するに至ったのかもしれないというところで
天皇を追号された人たちはみんな同じ血筋というわけではなかったけど、
大和朝廷は当時の文明国中国に対峙する歴史書から万世一系の皇統を外す
わけにはいかなかったのかもしれない。 「俺のことも忘れないでね」
byノルマンディー公の息子ギョーム 神功皇后は倭国(九州北部および朝鮮南部)に政略結婚で大和豪族連合の息長氏から嫁いだ姫であり
当時の倭国の王は仲哀で朝鮮攻略中に落命
朝鮮南部で成長した応神が渡来氏族を率いて九州に上陸後、倭国の王となっていた異母兄弟を殺害
さらに大阪湾に上陸後、母親の出自が息長氏であることを理由に大和豪族連合も手中に収め倭国も含めて大王に即位し大和朝廷を樹立 仲哀存命中は神功は妊娠しておらず
応神を懐妊したのは朝鮮半島からの退却戦の最中であり応神の本当の父親は仲哀の側近か協力した地元朝鮮半島南部の豪族の誰かであろう
神功の異常に長い妊娠期間がカモフラージュであり、その傍証でもある ノルマンコンクエストのウイリアム征服王の軍隊は騎馬兵が主力だった
ヘースティングスの戦いの勝利はその機動力によってもたらされたらしい
日本では応神朝以降、巨大前方後円墳が築かれるようになり
その副葬品として大陸の先進的な馬具の出土が特徴的であるらしい
発掘調査が出来るように宮内庁よなんとかしろよw ホムツワケ
ホムヤワケ
ホムタワケ
イザサワケ
イザホワケ
ミズハワケ
応神
仁徳
履中
反正
讚
珍
この辺り相当な混乱がある
大鞆と大伴は関係あるのか(応神の神武への投影?) >>15
しかし百済や新羅に対しては三輪王朝は優位を保ってたわけで、
これをどう見るか
三輪王朝から派遣された将軍が朝鮮半島の豪族を引き入れて
裏切ったという感じだろうか 百歩譲って皇后の息子であっても血統的に王位継承に正当性が無かったから
朝鮮半島の援軍を引き入れて王位簒奪をしたのかもしれない
しかし地理的にも発掘考古学的にも応神朝は水上交通の要である大阪平野と三輪朝の本拠地から離れすぎているから
異民族異文化の征服王朝と考えるのが妥当なのかな 摂津、和泉、河内は平安期まで渡来系氏族の本拠地だし
現代でも在日の占有率が高い 母親が新羅系なのは間違いないだろうな
八幡神は新羅の神だが、
これも応神が新羅と縁が深いからだろうな 継体から天智までは百済系だと思われるが
天武は異質な感じが拭えない
天武の皇子の高市が設計に関わったとされる藤原京は大内裏の配置が唐、新羅にも共通する城塞型式だからな あきたな〜
現状をみろ現状を!
半年には文化遺跡なんて呼べるものはなんにもない 1000年前の朝鮮王だってどこからか神さまがやってきて名前をくれました
朝鮮王朝の始まりです!じゃね〜か?
始祖神話を紐解くなら白頭山あたりで儀式でもやったか?
モンゴル系ならそれもあり 勘違いしてるが中国あたりってのは南部の方が先進地帯なの
北部中国の発展は南部王朝から亡命とかしたやつらが現地の王族とかと
結びついて独自政権勢力を打ち立てたのが南北中国の混乱の始まり あの辺はな
三段階に分けて考えなきゃダメなんだよ
蒙古、河北、江南てな
河北中原を支配したのは漢民族
文化背景だったらそれ以前の江南の方が先進地帯 いやいや
三国時代までは黄河文明の直系ですよ
南の方が栄えるのはその後 上で出雲を滅ぼしたのは崇神とか言っている奴がいたが
時系列的に出鱈目だろうw?
出雲国譲りは、ニニギの時代におこっているんだよ。
崇神や神武よりも前だ。 >>30
崇神=九州の物部印恵の妻が阿多津神(木花咲耶姫神)で、崇神=邇邇芸神。 その頃、ヤマトに居たのが・・邇邇芸神の兄・・饒速日神(物部始祖の徐福) 記紀編纂者の太氏(多氏)長の太安万侶 - 舎人親王が編纂終了させたのが・・古事記712年、太安万侶が天皇に献上と・・
日本書紀716年の舎人親王と太安万侶が編纂し、天皇に献上。
後の皇子が皇族主観で纏めた者。 多氏が饒速日の子孫で
舎人が邇邇芸の末代、天皇皇子。 日本書紀に関しては、各地風土記を編纂した紀清人、三宅藤麻呂が依頼を受けて、編纂とされているが、日本紀弘仁私記』や『日本紀竟宴和歌』で太安万侶と舎人親王が編纂に関わったと解る。
なので、日本書紀は各地風土記がベースとされている。 古事記・日本書紀の神話は、後付け介錯だから、元の人物が居たと言うのが前提の古文書。 このスレ的には
イギリスではウィリアム1世を初代イギリス王として扱っているように
本来なら日本の初代天皇は応神天皇が初代天皇に相応しいということかな?
ウィリアムを応神天皇とすると、ウィリアムに負けたハロルドが
仲哀天皇の皇子たちということかな?そうなるとフランスが朝鮮、
イギリスが日本で、その後フランスとイギリスの間で戦争が続いて
百年戦争終了後にイギリスで国史(記紀)が編纂されたような感じだろうか? そのときノルマンコンクエストより前のアルフレッド大王やエドワード懺悔王も
イギリス王としてカウントするように、応神以前に日本を局地的に支配していた
豪族や王も神武とか崇神というふうに天皇として扱うことで日本国の起源を
古く遡らせたということで、アーサー王ぐらいの古い伝承の人物たちになると
スサノオやオオクニヌシのように神武より昔に日本を支配していた神々の時代に
なるのかなあ…。 日本語と朝鮮語との間に英語とフランス語くらいの類縁関係があるんだろうか?
英語はドイツ語と同語族で千年前の英語の語順はかなり自由だったらしいが、
動詞の人称変化や名詞の格変化が消失してしまい、現代英語では語順が固定されて
しまった。ラテン系言語からの語彙の借用も多い。 >>40
天孫降臨には「クシフル」「ソフリ」という朝鮮語が出てるし
「韓国に向か」った土地に降臨してるので
ニニギ(のモデル)は朝鮮語話者くさい
その後で弥生人の言葉(日本語)に切り替えたと思われる ノルマンコンクエストの後、ノルマン朝は旧来の土豪貴族達から領地を剥奪して新たにノルマン貴族を封じているように
応神朝以降、大和朝廷は地方豪族を討伐して国造や伴造に再編統制して各地に屯倉や部曲を配置したりしたんだよな >>41
確かに天孫降臨の場所に「そほり」なんて言葉が着いてるよね。
日本にはかなり昔から朝鮮語話者が帰化していたんだな。
そういえば神武東征の物語にも母木邑(おものきのむら)という
地名が出てくる。母を「おも」と呼んでいた人物が大和にいたのは確か。
>切り替えた
天皇家や支配階級が先住の弥生人の言葉を話せるように努力した
ってことだろうか?確かに被支配民の言葉を全く理解できないでは
統治が難しいだろうな。日本ではスペイン人によるインカ帝国の収奪
みたいに侵略者が先住民の言語を破壊する現象は起きていないと。 ヤマトが日本列島のトップになったのは崇神代以降なんだから
ニニギの時に出雲を滅ぼしたというのはウソだろ 葦原中国の平定とか国譲りというのは、大昔人々が知る限りでは
出雲の神々が日本の支配者だったけれども、いつしか
その権力機構が瓦解していき、大和朝廷が支配域を伸ばしていくと
やがて権力の座を天皇家に譲って歴史の表から退場せざるをえなくなった
ことを神話を使って言ってるだけで、
実際にオオクニヌシがニニギに政権移譲したという話ではないのだろう。
本当にニニギが武力で出雲を占領したのなら
ニニギの代に直接出雲に降臨して神勅どおり初代天皇になればいいのであって
何に南九州の田舎に降臨して隼人族と神武天皇の先祖になって
わざわざ子孫の神武の代になってから東征しなくてもいいはず。 >>38
日本の初代天皇は応神天皇が初代天皇に相応しい
→日本の初代天皇は応神天皇が相応しい
>>45
何に南九州の田舎に→何も…
ミスだらけですみません。 景行 五十瓊敷入彦 誉津別
成務 五百城入彦 倭武
仁徳 菟道稚郎子
実際何があったのか記録が曖昧過ぎてわけわからん イギリスを征服したノルマンディー公ウイリアムの先祖は北欧ノルウェーからフランスに襲来し
セーヌ河を遡ってパリを包囲してフランス国王からノルマンディー地方の割譲をせしめたんだよな
応神の数代前の先祖も沿海州あたりから朝鮮半島に襲来したんじゃないのかな?
そして新羅?から加羅地域を割譲させ、応神の代に日本征服を成し遂げたんだと思うぞ 継体の以前以後とでは異民族と思える程の文化の断絶は無いと思うが
継体が遠祖を応神に求めていることに注目したいね
それと継体が最初に王宮としたのが樟葉宮(大阪府)で応神のかつての王宮から地理的にも近い
さらに継体自身が息長氏の出身という説もある(ご存じの様に息長氏は応神の母親である神功の出身氏族とされる)
継体は武烈で絶えた応神の出身部族(朝鮮半島南部)が送り込んだ第2派じゃないのかな?
大伴金村や物部麁鹿火という応神朝以来の伴造の首魁氏族が継体を擁立していることで何を意味しているのかが明白だね
応神本家筋によるレコンキスタだ
四世紀から六世紀初頭の日本ではノルマンコンクエストとレコンキスタが続けざまに起こったんだと思う >>51
応神も継体も半島南部から直接渡来したなら半島に記録が残るだろう
両者共に皇族ではあったのだろうと思うよ
渡来人の臣下という意味では継体朝では欽明以降は減る一方で仁徳朝の方は終止一貫して政権内部に関わってる そうすると継体は三輪王朝系の復活ということなのかな?
継体の母親は垂仁の末裔とされているし
継体が応神5世の孫だとしているのは、仲哀5世の孫ということで大王擁立に失敗した倭彦王の轍を踏まぬように
応神・仁徳朝系の政権中枢(渡来系有力氏族)に配慮してのことだろうね
祭祀面を見ても三輪王朝(崇神系)の伊勢神宮(内宮)と熱田神宮を整備している
それらに深く関係する中臣氏は後の藤原氏の母体氏族だし尾張氏は壬申の乱で天武側勝利の原動力の一つだしね
記紀の編纂は藤原不比等、太安万侶、舎人親王によるものだしな >>52
直接渡来ではなく、二人とも過去に渡来した息長の子孫な >>54
応神が息長氏の両親から生まれた子が皇子と称して即位したとすると、息長氏自体が応神代には渡来して既に100年以上経っているし
応神が皇族と息長氏の子だとすると、半島南部の出身部族が送り込んだも何もなくなる。 >>55
頭を固定概念から切り替えよう
応神自身が渡来者であり、息長氏は加羅の王族だと考えればよい
要するに応神朝の族名が「息長」
息=「オキ」とは加羅の海人族のことであり「オキナガ」とはその族長
応神の日本侵攻ルートと考えられる玄界灘には海の正倉院と言われる沖ノ島がある
沖津島、興津島、奥津島とも書くが読みは「オキツシマ」である
すなわち海人族の島
そして応神に随伴して渡来した王族が日本における息長氏のルーツであり、王族息長氏は近江、山城、越前を根拠地とした
琵琶湖淀川水系の水上交通と縁が深い
時代が降って天武朝以降では皇別氏族「息長真人」となる
「真人」の姓とは男系において他氏族の血が入っていないという意味に他ならない >>56
>>54は過去に渡来した息長氏の子孫と書いてるわけでね。
そして>>56の言う通り応神自身が渡来者、息長氏は加羅の王族、応神の侵攻に随伴して渡来した豪族が息長氏だとしたときの疑問点は
応神以前は息長氏は存在しなかったなら垂仁と天日矛の子孫たる神功は何者だろう?
加羅は統一国家ではなく、伊都国とか奴国とかと同じ小さな国邑の集まりに過ぎない。その一国の王族が少なくとも中国〜東海までを支配する大和朝廷に武力で殴り込んだってどうにもならないよ。誰も協力しないだろう。
天武だって後継者争いを勝ち抜けたのはいずれの形にせよ血縁があったからで、応神も同じだろう。
どうしても半島からの直接渡来を想定したいのであれば、息長氏の妃だった神功が半島撤退時に自らのルーツたる加羅ないし新羅の王子を仲哀との子に仕立て上げた、とした方がまだ整合性が取れる。 海人族に関しては
なんだか地中海古代史の最大のミステリー「謎の民族海の民」とオーバーラップしてロマンを感じるよ >>57
少数であっても好戦的で革新的技術を持った集団が大国を征服した例も多いと思うよ
それこそノルマンディー公ウイリアムは5000の騎兵でイングランドを征服しているし
極端な例だとのピサロらコンキスタドールによるインカ帝国征服が有名だね
しかし応神朝の征服には日本列島の地勢的要因が大きくて結構長期間を要したのかもしれないな
倭国攻略から河内王権樹立まで神功〜応神〜仁徳の50年以上掛った可能性もある
一時的に大阪平野の河内王朝と奈良盆地の三輪王朝が並立していて東国にはまた別の王権が在っただろうし
倭王武(雄略)までは国内は戦乱状態が続いていたのだろう
侵攻開始から統一まで70年近く掛ったと思う
それらを勝ち抜いた応神朝(河内王朝)の革新的技術とは「実用的な鉄製武器と馬と船」だろうね
考古学的にも河内王朝の巨大前方後円墳からの出土と伝わる武人や馬や大型船の埴輪から窺い知ることも出来るしね 日本の天皇は万政一系と言はれているが、南朝、北朝が有り今の
天皇は北朝の子孫だ。足利尊氏の子孫だ。仁徳天皇等の御陵から天皇
の骨と今の天皇とDNA鑑定をなぜしないのか。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 日本人の起源 〜遺伝学電子博物館
http://www.nig.ac.jp/museum/evolution/02_e.html
特に、韓国人と本土日本人の二集団間の遺伝距離はゼロであった。やはりこの分析で
も、韓国人と本土日本人は遺伝的にきわめて近縁な関係にあることが明らかとなった
のである。
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_26_02.gif
つぎに、集団間で求めた遺伝距離をもとに集団の系統樹を作成した(図26)。この系
統樹では、アフリカ人が他の人類集団に先がけて分岐し、続いてヨーロッパ人が分か
れ、さらにアメリカ先住民が分岐している。最後に、東アジアの五集団が単一系統
のクラスターを形成して枝分かれしてくる。東アジア人のクラスターでは、アイヌ
が最初に分岐し、続いて中国人が枝分かれしてきたことが読み取れる。続いて琉球人
が枝分かれし、最後に韓国人と日本人が緊密なグループとして分岐してくる。
http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2014/05/21/dna.jpg 子供の部屋に子供のパンティーを目の付き易い場所に置いて、招き入れ、隠しカメラで様子を撮影する。 権力者が巨大インフラを構築する主な動機として権力の誇示による統治がある
応神・仁徳朝(河内王朝)の巨大前方後円墳群は未だ統治未完を示すものである
安定政権であれば敢えて無理に巨大インフラを構築する必要はない
初期河内王朝の動員力から見ても最大限のキャパシティーを超越していたと思われる
そのような苛烈なまでの領民に対する圧政の裏返しが記紀などで記述される「かまどの煙」の仁徳天皇のエピソードではないだろうか?
統治未完での巨大インフラの構築例として秀吉の大阪城築城(小牧長久手の役の前に着工)などがある
おそらく河内王朝の大王達は同盟した豪族や未だ態度を決めかねている地方有力豪族達にその権勢を見せつけたのであろう イギリスと日本で共通してるのは征服王朝が21世紀の現代でも存続していること
しかもハノーバー英国王家も伏見宮流皇室も共に本来の嫡流からは遠い存在
ブルボン家やハプスブルク家はユーグ・カペーや神聖ローマ皇帝家の正統な後継者であったにも関わらず
大多数の同族民族の国民から打倒され滅亡している
どうしてイギリスや日本みたいな征服王朝が存命しているのか不思議だな 答えは「祭主」
イギリス国王は英国国教会の首長である「信仰の擁護者」であり、天皇は神道では現人神とされてきた
征服王朝は絶対的権力の保持の為、祭政一致の「遠い雲の上の存在」として一般国民の上に君臨する意図からだ だから何故いつの間にか征服王朝であることが前提になっているのか 神道の裏の顔は「祟り封じ」
全国各地の主要な神社は滅ぼした上古の在地豪族を封印する為 応神天皇以降が新しい王朝だとして、両者とも前王朝か前々王朝
ぐらいの王族の子孫の女性を妻に迎えているところが似ているかな?
ただしウィリアム1世の王妃は一人だが応神の場合は一夫多妻。
何故兄たちを差し置いて菟道稚郎子皇子が
跡継ぎに選ばれたんだろう?出来が良い皇子だったからか
応神天皇が和珥臣に何か配慮する理由があったとか?
それからウィリアムの妃マティルダがフランス王の外孫であるように
イギリスでは2代目以降フランス王が外祖父や外曽祖父になるような
王がしばしば登場する。藤原氏が百済の王族という説が本当であれば
日本でもイギリスと似たことが起きていたことになるのか。 奈良時代以前の天皇家って純粋に男系続きで権力を継承してきたか疑問だな。
応神天皇が仮に仲哀天皇の皇子でなくても母方を通して開化天皇に繋がっているし
次世代以降応神以前の大王の血が濃くなっていくし継体天皇が仮にどこの馬の骨か
分からないでも母方で垂仁天皇の血を引いているとか欽明天皇以降仁徳天皇の血も
濃くなるみたいになんとか政略結婚で天皇の地位を維持してきたという印象も拭えない。
実際に近親婚をした天皇もいただろうけど無理に万世一系の系図を作った結果の
架空の近親婚もありえそう。 >>75
天皇家の万世一系より
クナト大神から続く、出雲大国主の家系の方がしっかりしている件。 穂日(千家)の渡来出雲族が伝える「古事記上巻系譜」
http://homepage3.nifty.com/tora_tora/JapaneseMyth/pedigree/pedigree1.htm
↓
古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて 大和葛城地方へ移住した出雲王家の人々 その1 - アウトドアライフの記録のサイトの下方に・・
http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947/e/6c6663b99e1cc5d9cd8443606c7157c4
古代出雲王朝系図
※斉木雲州著 「出雲と大和のあけぼの」 大元出版より
出雲王家と親族と言う系譜画像写真が参考。
※名前の頭の番号が、今、分って居る、その時代の主王だった神門臣家と向家2交代王朝制度の順番です。
穂日(千家)の渡来出雲族が伝える「古事記上巻系譜」では・・
・建速須佐之男命−八島士奴美神(八島篠)−布波能母遅久奴須奴神(布葉之文字巧為)−D深淵之水夜礼花神−淤美豆奴神−F天之冬衣神−G大国主神−H鳥鳴海神−I国忍富神−J速甕之多気佐波夜遅奴美神−K甕主彦・・
向家・富家が伝える系譜は・・
諏訪家の祖、建御名方は、向家の祖、八重波津身(事代主)の子神。(鳥鳴海とは、異母兄弟。)
・御中主命=国常立命(クナト大神)
向家・富家
クナト大神−八島篠−布葉之文字巧為−D深淵之水夜礼花−淤美豆奴−F天之冬衣−八重波津身(事代主)−H鳥鳴海−I国忍富−L田干岸円味−N布忍富取成身−O簸張大科戸箕−弩美宿祢(野見宿禰)−飯入根
神門臣家
クナト大神−八島篠−布葉之文字巧為−
E八束水臣津野−赤衾伊努意保須美比古佐倭気−G八千矛(大穴持・大国主)−伊佐我(伊佐波)=出雲建子(伊勢津彦)・阿遅須枳高日子−鹽冶毘古能−J速甕之多気佐波夜遅奴美−K甕主彦−M身櫓浪−P遠津山崎帯−Q振根=倭健(日本武?)−伊賀曽熊の子↓
建部(武部)と出雲笠夜の島氏=斯摩宿禰(志摩・島−島谷(散自出雲族?)) 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) >>77
古代出雲王朝系図のついてだが
日本書紀と似た神名・人物名が見当たるが系図の中身がずいぶん違うなあ。
田岐津姫や市杵島姫、田心姫の親はアマテラスともスサノオとも書かれなく
吾田片隅とある。天火明と市杵島姫の間の子が彦穂穂出見と五十猛。
五十猛の子が天村雲。彦穂穂出見が物部氏祖でその子孫が彦渚武、
その子が彦五瀬と宇摩志麻遅とはビビるわな。
事代主の娘、蹈鞴五十鈴媛の夫が初代天皇天村雲で、
渟名川耳と玉手見のところは日本書紀と似ている。
徐福の子孫が初代天皇になったというのはなかなか興味深い。 >>72
>だから何故いつの間にか征服王朝であることが前提になっているのか
↑
古事記、日本書紀で天孫降臨って征服王朝だってことゲロって開き直ってるだろ? 応神天皇の孫、允恭天皇は事前調査をした後トリックをしこませた
くがたちを行ったのではないか?
[10636] 盟神探湯[くがたち]のトリック h22.7.30
お風呂[ふろ]を沸かすときに、お風呂の上の方だけ熱くて下のほうがまだ冷たい水のことがある。
だから、盟神探湯[くがたち]をするときに、釜[かま]の水をかき混ぜずに沸かすと上の方だけ熱くなるが、
釜の水をかき混ぜながら沸かすと全体が熱くなる。しかも、見かけの上では両方とも上の方から湯気[ゆげ]が
出ているから両者を区別できない。
上の方の水だけ熱くなった釜に手を入れても熱くないが、水全体が熱くなった釜に手を入れると熱い。
こうして、盟神探湯[くがたち]で都合のいい者だけを有罪にすることができる。
昔の人は、 盟神探湯[くがたち]で身分の高さを決めたのかもしれない。
最近盟神探湯[くがたち]がやられなくなったのは、盟神探湯[くがたち]のトリックがばれてしまったからだろう。
参考 川野延夫「哲学日記」(かなり電波っぽいがありえなくもなさそうな話を
載せてる。)http://www.h3.dion.ne.jp/~jituzai/tetunikki_index.html 応神生年から反正崩年までの三世代を長くて70年前後に納めるのは無理だろ
応神と仁徳を同世代としても二世代四人 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 縄文人のDNA分析したら、日本人と似ていなかったでござる。
どうするの?
>日本列島3集団(アイヌ,本土日本,琉球)と縄文人を用いた主成分分析の結果、
>縄文人と遺伝的に類似の集団は見られず、遺伝的に非常に特異な集団であることが明らかとなった。
http://www.jstage.jst.go.jp/pub/pdfpreview/asj/122/1_122_122.117.jpg >>81
推測はあくまでも推測に過ぎない
例えば平安期の清和源氏満仲から頼義までの僅か三世代でも
満仲誕生から頼義没年まで実に150年以上ある
したがって応神の侵攻開始から雄略崩御まで100年以上あっても何ら不思議ではない 武内宿禰は応神の実父とされる人物で仁徳55年に没し筑紫の高良大社に祀られた
応神・仁徳朝の有力氏族である蘇我氏、葛城氏、巨勢氏、平群氏の祖とされている
ここで一つ謎なのが武内宿禰が祀られた高良大社の元々祭神は高木神で武内宿禰はそれを排除して鎮座したのである
何が謎かと言えば高良大社は天孫降臨の地とされ、高木神はニニギの外孫であり神武東征ではアマテラスより重要な役割を果たしているにも拘わらずである
まるで神武朝(三輪王朝)の事績を上書きして封印するが如くである 訂正
×高木神はニニギの外孫
○高木神はニニギの外祖父 仮説なんだけど四世紀に地球規模で気候大変動があったんじゃないのかな?
ユーラシア大陸内陸部での急激な寒冷乾燥化かもしれない
フン族の圧迫が原因とされているゲルマン民族の大移動も中国での五胡十六国から南北朝時代にかけての鮮卑など騎馬民族による
河北侵入から南下は偶然にも時代的に一致している
おそらく鮮卑に圧迫された扶余族が新天地を求めて満州から朝鮮半島を南下して一旦、三韓地域を支配下に収め弁韓を橋頭堡として
海人族(倭人)の水先案内によって王家が九州に上陸侵攻してその後、河内王朝を樹立したのだと思う
朝鮮半島に残った分家が百済になったんじゃないのかな? 【噂の佳子様と眞子様の彼氏事情を、まとめました!!※秘話が満載です!】
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したがって、HTTP://matome.naver.jp/odai/2142979388269131701となります。 ユーラシア大陸内陸部での急激な寒冷乾燥化かもしれない
フン族の圧迫が原因とされているゲルマン民族の大移動も中国での五胡十六国から南北朝時代にかけての鮮卑など騎馬民族による
河北侵入から南下は偶然にも時代的に一致している
おそらく鮮卑に圧迫された扶余族が新天地を求めて満州から朝鮮半島を南下して一旦、三韓地域を支配下に収め弁韓を橋頭堡として
海人族(倭人)の水先案内によって王家が九州に上陸侵攻してその後、河内王朝を樹立したのだと思う
朝鮮半島に残った分家が百済になったんじゃないのかな? >>95
大体そんな感じだけど、移動するのは分家だと思うよ。
本家の高天原は朝鮮半島で、やがて滅びんだ。
東遷した神武も分家で、九州の本家は白村江で滅んだと。 そうそう起源二世紀ぐらいまでのゴビ砂漠や西遼地域は緑豊かな草原でモンゴル高原も
比較的温暖だったらしい
タリム盆地ではコーカソイド系の民族(白人)が麦作牧畜をしていたらしいからね 起源→紀元
あと後漢の滅亡の黄巾の乱から三国時代の動乱の背景も気候変動と人口増加による深刻な食糧難が背景らしい 海人族(倭人)≒出雲は当初、水先案内人として征服王朝大和朝廷の協力者であったけど
大和朝廷の裏切り(姦計?)により土地を奪われ信州や坂東に追いやられた
ヤマトタケルの物語は実は大和朝廷による倭人支配の謀略侵略の過程を記したもの
出雲はやがて坂東にも大和朝廷から上毛野氏などが国造として送り込まれて逼塞したんだよ >>92
応神や神功皇后は新羅と縁が深いから
普通に新羅系じゃね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています