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【王朝交代】応神天皇とノルマン公ウイリアムT世 [転載禁止]©2ch.net
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0001日本@名無史さん
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2015/04/07(火) 08:09:21.94
海峡を渡って島国に新天地を得た征服王朝ではあるが正統性も多少有る点が酷似している

英国はその事実を隠さず誇りにしてるが
日本は事実を誤魔化して国史を捏造している
どうして?
0372日本@名無史さん
垢版 |
2017/06/11(日) 03:10:25.12
【白村江の戦いと倭国滅亡】

663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国の1000隻余りの水軍のうち400隻余りが炎上し、陸上戦でも敗北した。
後に記紀を編纂する近畿大和朝廷から見れば、これこそが政権奪取の好機だった。
中大兄皇子らが実権を握る近畿政権はもともと新羅と親交があり、積極的には朝鮮半島に援軍を送らず、百済と親しかった筑紫倭国を意図的に敗北に追い込んだ可能性がある。
中大兄皇子が唐や新羅ともとより通じていたのであれば、敗戦処理においてむしろ唐の信任を得て勢力を拡大したことも合理的に説明できる。

自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻(当時の大君と考えられる)が捕虜となり8年にわたり唐に抑留される。
筑紫には唐から郭務悰ら唐人六百人を含む2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。
668年、筑紫の駐留軍は撤退し敗戦処理が終わり、中大兄皇子は天智天皇として西は九州、東は東北南部までの統一政権を樹立した。
この敗戦処理が中大兄皇子がなかなか天皇に即位せず大兄(おおえ、皇太子)でありつづけた理由だろう。

その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に、唐の皇帝が任命する官の行政府として機能したと考えられる。
都督府制度は唐が周辺の国々を征伐した後、征服した国に設置した統治制度であり、倭国は独立国としての権限を喪失した。
こうして栄華を極めていた倭国王朝は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。

筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
実質的な権力移行により官僚は畿内に移動し、地震により倒壊した建物や仏教芸術を含む白鳳時代の文化財も畿内に移築され、主権を失っていた筑紫は震災からの復興もままならなず政治的には没落したと考えられる。

旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内には国号の変更については記録がない。
0373日本@名無史さん
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2018/01/30(火) 17:31:28.12
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MGWLH
0374日本@名無史さん
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2018/07/12(木) 16:56:10.96
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E26
0376日本@名無史さん
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2019/01/31(木) 15:27:49.13
(八幡神とは!?裏切りと争いの神)
そもそも八幡神は本来、応神天皇とは別の神、
中国または朝鮮からやって来たと自分で言っている。
『宇佐託宣集』『豊前国風土記』
720年、皇室の出身部族である隼人族を大量虐殺。
749年、聖武天皇の大仏建立に便乗して上京。
日本古来の神道を仏教に習合せしめるきっかけを作ると
ともに八幡神は出世を果たす。
この頃から九州にゆかりのあった応神天皇の経歴を利用して八幡神=応神天皇
を名乗り始める。
754年、上洛を果たした八幡神の巫女が呪詛を行った罪で配流、八幡神も
伊予国に配流される。
769年、道鏡に皇位を譲るべしと託宣して皇位及び日本国の滅亡を図る
775年、井上内親王不審死(八幡神を都に招き入れた聖武天皇の系統途絶える)
以降、天災、皇族らの不審死が相次ぐ
777年、八幡神は世間の目をかわすために出家したと宣言。
794年、桓武天皇は仏教勢力から逃れるために平安京を造営
862年、石清水八幡宮護国寺を創建(同じく九州から勧請された高良神社
を乗っ取ったのではないか?!)
939年、八幡神、平将門に「新皇」の位を授け、日本国の分断を図る
朝廷は乱平定を八幡神のご加護と勘違いし、以降頻繁に石清水八幡宮護国寺に
行幸祈願するが、そのたびごとに朝威はますます衰え、ついに
日本国内は争いが争いをよぶ戦国の世となり、皇室、朝廷は御所の築地塀
さえも修理できないほど衰亡してしまう。
1867年、朝威を回復した孝明天皇は石清水八幡宮護国寺に行幸したが
突如謎の不審死を遂げた
1868年、ながらく扇動してきた神仏習合の宗旨を捨て当時の
朝廷から贈られた八幡大菩薩を改め八幡大神へと転身する 。
0377日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/31(木) 15:30:10.26
559年、応神天皇陵前に誉田八幡宮創建
749年、東大寺造営に便乗して都に進出し始めた八幡神が
応神天皇との習合を画策
1064年、壺井八幡宮創建(石清水八幡宮から勧請とあるが、その性格から
して誉田八幡宮の応神天皇を勧請したと見るのが正解ではなかろうか)
1063年、鎌倉に壺井八幡宮から勧請して鶴岡八幡宮を造営。
以降、武家の源氏が崇敬した八幡神はこの鶴岡八幡宮の神である。


同じ八幡神でありながら、京都の八幡神と鎌倉の八幡神はまったく
性格が違うため、本来別の神であろうと思われる。
また、著名な霊能力者も全国の八幡神社の多くは乗っ取られて
八幡宮に変えられたと言っています。
応神天皇は以降の河内を基盤とする歴代天皇の河内政権の祖
であると言われている。
そのことから河内源氏が氏神として崇拝するようになり(壺井八幡宮)
そこから鎌倉に武家の神として勧請された(鶴岡八幡宮)と考えると
矛盾なく歴史がつながる。
京都にいる皇位簒奪を図った八幡神とは別の神と考えるべきだろう。
0378日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/31(木) 15:49:36.18
どちらにしても、本家である九州の八幡の神の名を名乗る時点で権威を乗っ取っているわけだが。
0379日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/01(金) 05:20:05.30
八幡は最も卑弥呼とつながりの深い日本の原始信仰に根付いてる
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