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サムライだけが日本史ではござりません。
お公家さんもまた、
日本史の重要なテーマであらしゃいます。
中臣鎌足から近衛文麿まで。
お家芸を守り、権謀術数を尽くして悠久の時を生き抜いた
お公家さんを語りましょう。
お雑煮はもちろん、白味噌&丸餅&梅人参仕立てでござります。 中臣鎌足は武人でもあるし
当時は公家と武家に分かれてなくないか? >>3
平安の最初とか、お公家さんも武道を嗜むこともあったようですね。
鎌倉武士の象徴(と自分で勝手に思っていた)流鏑馬も、
元祖は京都のお祭りなんですね。
驚きました。
喫茶店で何気なく使う「おひや下さい」。
実はこれ、公家言葉なんですよね。
「おひや」って公家言葉。
他にも、「おつむ」とか。
あと、ご飯にお味噌汁かけて食べるのも、
お下劣な庶民の習慣かと思いきや、なんと、公家のお食事(芳飯)です。
意外と公家文化は現代に生きている。 『御堂関白記』(長和元年十二月四日・京都)
斎王定まりて後、弓場始、其の儀常の如し。能射なる者、候せず。的を射る者無し
依りて的を打たしむと云々。
射手の数少なく、三番奉仕す。猿楽の如し。
能射の者が伺候していないので的を射るものがいない。
それで的を打たせた。
弓で矢を的に射当てる事が出来ないので仕方なしに手で投げるようにして矢を的に打ち当てたの意。 >>3
公家は元々天皇ないしは朝廷のこと。
公家と武家で対比して言うようになるのは、12世紀からですね。
もっとも、その後も公家が武芸を嗜んだり、武力を行使しなかったわけではない。
大納言土御門定通が安貞元年(1227)に吉祥院の神人に鮎漁を咎められて闘争に
及び、摂関家に咎められた際には「我また武士なり」と抗弁しているように、公
家でも「武士」と自認することがあった。
『宇津保物語』は時代と共に順次改訂されていった書籍ですが、出て来る貴族と
いうものは、実力行使も抜刀も斬首も辞さない連中です。
清少納言の愛読書でもありましたが、彼女の兄からして、藤原保昌に味方して源
頼光の弟である頼親と抗争し、館を襲撃されて殺されていますね。
保元の乱で敗れた頼長を入れなかった藤原忠通は、弓馬を好んでいました。
その為、随身で乗馬が下手な者は冷遇されたということです。
九条頼経は鎌倉幕府の四代将軍でしたが、鎌倉で過保護に扱われ過ぎて乗馬が出
来ず、帰京してから他の公家に混じれずに苦労しています。
>あと、ご飯にお味噌汁かけて食べるのも、
忠通によると、飯と椀の間に匙と箸を入れて隙間を作って注げということです。
公家と弓で印象深いのは、藤原道綱ですね。
『蜻蛉日記』には弓の師匠に指導され、よく当てたことが書かれています。
『北野天神縁起』でも、道真の弓が百発百中であったとされている。
『大鏡』の道長の逸話のように、弓射は公家に必要な技能。 貴族の家職が形成されたのは、10世紀以降。
その中で「兵」を家職とした貴族から武家が生まれていった。
その一方では和泉式部の夫であった藤原保昌、清少納言の夫であった橘則光、
俊寛の祖父である大納言源雅俊などが、「させる弓箭をとる家にはあらねども」
武威を振るった者として知られています。
公家が軟弱とか大人しいというのは、江戸時代に形成されたイメージ。
庶民も平気で弓矢を扱ったり腰刀を装備したりしていますが、中世だと武士以
外でもおとなしい人間がいない。
僧兵(10世紀頃誕生)も誕生・消滅は歴史的必然であったと思います。 幕末の戊辰戦争には宮さまが官軍総大将として出陣してるよね
後光明天皇が御所で刀振り回してて京都所司代が
「天子は学問をすることと決まっています。私は責任を取って切腹せねばなりません」
と言ったら「私はいまだ武士の切腹をみたことがない。
では、今からその切腹とやらをこの場で見せよ」と言ったらしいが
江戸時代の人に軟弱イメージがあったかどうかは不明
公家の軟弱イメージは近代の時代劇の影響が大きいんじゃないの
武士に刀突きつけられて「きょーえー」みたいな感じの 後光明天皇の場合、儒学を好んで和歌や『源氏物語』を柔弱と退け、廃れた
朝儀の復興を志すなど、かなり個性的な方でしたからね。
幕末になると、復古を志して上古の天皇や側近が武威を振るっていた時代を
称揚するようになる+大塔宮も登場する『太平記』が尊重されている。
それと、言葉が足りませんでしたが、公家=柔弱というイメージを積極的に
主張したのは当の公家ではなく、江戸時代の武家の史論(公家が柔弱化して
堕落した、だから武家による支配が正当である)です。
明治になると、今度は復古に名を借りた新生のために従来の官職や服飾など
の制度を一新する必要から、「中古」は軟弱であったので、上代の尚武に立ち
帰ろうという主張が行われている。 「長袖の徒」と言えば、今でもいいイメージはない言葉だと思います。
上古には神武天皇なり神功皇后が筒袖で東夷や三韓を平らげた。
それが唐の制度を取り入れて袖を長くしてから衰退した。
だから駄目なんだという主張が、江戸時代には武家の支配のため、明治時代
には新制度導入の為に繰り広げられた。
時代劇のイメージは確かにあると思いますが、その淵源は戦前すでにあった
と思います。
武士が「公家化」したから滅んだのだという主張は、松平定信が今川氏真も
槍玉に挙げて主張しているのが古そうです。
公家文化を学ぶこと自体は成功した戦国大名もやっているのですが。
室町後期に政治的に沈滞した公家自身が、『源氏物語』などの古典の研究や
教授に生きる道を求めたことも、(衰退したから和歌や物語が目立ったのに)
和歌や物語と政治的能力・実権が相反するかのようなイメージを形成するの
に一役かったようです。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり >>11 >>12
つうか、江戸時代初期に江戸幕府がわざわざ禁中並公家諸法度を制定して
天子が学問を第一とせよなどと定める必要があったのだから
この時点でまだ武装皇族が総大将となる可能性があったからだろう
江戸時代の武家の史論(公家が軟弱…)の一次史料は?
江戸時代においても武家は幕府を転覆するときには
天子を担ぎ出し公家に相談することを当然のように考えていた
公家が軟弱で使い物にならないならそのような発想すらわかない
だいたい松平定信が「日本治りたりとても、油断するは東山義政の茶湯、
大内義隆の学問、今川氏真の歌道ぞ」
というのは武士は平時においても武道第一を忘れるなと言っただけで
彼らが「公家化した」とはどこにも書いてないのだが >>15
>江戸時代の武家の史論(公家が軟弱…)の一次史料は?
高橋昌明先生が『武士の成立 武士像の創出』終章で列挙していらっしゃいます。
>彼らが「公家化した」とはどこにも書いてないのだが
近世の武家の(建前上の、理想としての)認識が、文武両道の存在であり、それを放棄
した時(多くは文に偏った時)、中古以降は文のみの存在であった(ということにされ
た)公家と同等の存在に「堕してしまう」。
近世の(公家に対するものとしての)武家認識からすれば、ありうべからざる武家の姿
を否定する際には、公家化という発想が背後にあったのではないかと考えました。
とはいえ、はっきり述べていないのに持ち出すのは不適切でしたね。申し訳ない。
>公家が軟弱で使い物にならないならそのような発想すらわかない
どうも最初から誤解があって怒っておいでの様ですが、私は「イメージ」だと申し上げた
のであって、実態としてそうであったとは一言も申しておりません。
そういうものであった、ということにする説が、近世にせよ近代にせよ、必要に応じて存
在し、現代まで続く公家のマイナスイメージを形成したのではないか、というだけです。 ttp://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1432482234/
35 :名無しさん@1周年:2015/05/25(月) 01:10:33.70 ID:ely4zLpQ0
頼朝と義経を上に立てれば、勝てるんだよ。
蹴鞠に熱中する貴族では駄目なんだ。
こういう書き込みを見ると、公家に対する偏見があるなあ、と思います。
当時の公家が蹴鞠しかやっていなかったような認識。 公家が公家たる法律などの明確な根拠とかってあって、公家と武家、公家と町人などって明確に分かれてたの?
例えば武士が朝廷から正式に官位を授かって公家になったり、
公家が官位などを剥奪されて公家の資格を失ったりしなかったの? 江戸初期に限って考えると、禁中並公家諸法度は、ほとんど実効性がなかった、
と言えなくもない。
近世初期の公家を考えるなら、京都並びに天皇について、若干の考察が必要。
歴代天皇で、おそらく最も権威が低かった天皇の一人とも言えるであろう
後水尾天皇は、公家衆の統率に手を焼いていた。
銭湯に入るな、芝居見物はするな、鉄砲を撃つな、など、みんな天皇が
自ら指導したこと。
築地塀に穴や抜け道だらけで、一般人がしょっちゅう通り抜けていた京都御所。
猪熊事件で勅勘を被り、一時政界を退いていた烏丸光広は、
後に赦免されて復帰し、権大納言まで昇った。
彼は、能書家であり、本阿弥光悦とも親交のあったインテリだったのは周知の通り。
公家の本拠地、京都は、秀吉が城下町にしようとして挫折したところ。
家康も、京都所司代こそ置けたものの、町奉行所はなかなか置けなかった。
事実、三都の中では、町奉行所が成立したのは一番遅い。
町衆の強固な結束があったから、上からの支配が浸透しなかった。
また、失墜したとはいえ、後水尾天皇もやはり、武家にとっては特別な存在である
ことには変わりなかった。
秀吉が聚楽第に後陽成天皇を迎えた先例に倣い、家康もぜひ、武家の居館に
天皇の行幸を仰ごうとしていたが、とうとう存命中には叶わず、
子の秀忠(大御所)家光の頃、寛永三年になってようやく二条城行幸が実現。
京都はなんだかんだいって、凄いところだ。
貧乏とはいえ、お公家さんもまたしかり。 戦国貴族の生き残り戦略
まるで壊れた蓄音機かいな
しつこいくらいに コガケ♪コガケ♪コガケ♪
卒論を清書してくれたそうなお母さんのことまで書かんでええよ >序列は近衛家に次ぎ、九条家とは同格、二条家、鷹司家の上位に列した
そうなん? >>19
禁中並公家諸法度が発布されたのが慶長20年なのだから
江戸時代初期に実効性がなかったのは当たり前
発布されてないから
家康時代には間に合わず最初の発布が秀忠のとき この前の学校へ行こうSPで「公家」って名字の子がいたなあ。
読み方も「くげ」 あだ名はお公家さんっていわれてんだろうな。 「馬に乗ッつれば落つる道を知らず」の東国武士は悪所に馬を入れて戦った。
合戦の時は四季を問わず夜昼の区別もない。一年中行われるべきもので日頃からその備えを怠らなかった。
それは戦闘をもっぱらにする高度に訓練された戦士の生活に他ならない。
西国(上方)武士の合戦は季節の訪れとともに行われるもので、一種の年中行事のようなものであった。
用意した合戦は全て4〜5月頃に集中している。
(五味文彦)
要するに貴族社会のマンネリ儀式の延長線上にあったのが上方武士のオママゴト戦争。
そりゃ勝てるわけないって。 神祇官のお公家さんもよろしくね。
神祇伯
神祇大副
神祇少副 藤原北家・日野流の京都十三名家の公家・柳原氏って、江戸中期の柳原則光さんが途絶え掛けて居た「百錬抄」を継承して書き連ねた人だね。
その二男の資前さんを、丹後国二宮社家の島谷家に養子に出し、
長男の家系の五代目の柳原前光さんの娘さんが、大正天皇の母君、旧姓:柳原愛子さんだったんですね。
現天皇家とこんなに近かったとは・・ 幕末近代の天皇生母は、柳原・中山・正親町・勧修寺・・・・・あたりは
ある程度は覚えられているものなのでは >>29 公家話が好きな人間ならばそのくらいはね。 > 旧姓:柳原愛子さん
旧姓も何も最後までその名前だけど。 明治天皇の生母の中山慶子は、維新前に女院になっていても良かったようにも思うけど、
明治天皇は英照皇太后の実子(養子制度の内で最も重いもの)となっていたので、やっぱり無理か。 山形に何故か近衛という苗字が多いらしいけど五摂家筆頭の近衛家と関係はあるんだろうか
摂関家の荘園だった寒河江荘と関連がありそうだけど プレミア見れない
ブンデス見れない
CLEL見れない
代表も見れねえちきしょう
結果知らされて見れねえちきしょうクソったれ同和のクソ野郎地獄へ落ちろ
音楽聞けねえちきしょう
テレビ見れねえちきしょう
オシムは考えて走るサッカー
アンデションズはよく(十分に)考えて(タイミング計って)車のドア閉めて車(バイク)で通る嫌がらせ
同和のクズ共死ねクソ共がざまあみろ気違い共
ほれ気違い共もっともっとドア閉めろ通れ
それしか能のない能無し共がざまあみろ地獄に落ちろ。悔しいか、ざまあみろくたばれクソ同和
お前らの恐ろしさをもっと見せてみろ。そんなんじゃなんともねえぞ
袋とじ見たぞ。悔しいか、ざまあみろくたばれクソ同和
生きる権利もねえクズ共が藁地獄へ落ちろ
嫌がらせがエスカレートするのが楽しみでしょうがない。今それだけが楽しみだ。俺の生き甲斐藁。それだけ怒ってるってことだもんな藁
ラブホ行ったのがそんなに悔しいかざまあみろチンカス共が藁。思う存分楽しんでくるぞあばよ
椎名茉莉、知っちゃったよ。ラブホに来なければ知らなかったはずだけどな。サンキューお前ら藁
超美形。嬉しくてたまらん。お前らどうしてくれる?藁ほれ赤字分を取り返すために必死になれ
ピザ食ったぞ。羨ましいだろう?藁ざまあみろ
音楽聞いたぞざまあみろ
非人が美人
お前ら音楽聞かせてくれてサンキュー。それもお前らがドア閉めて通ってくれたおかげだ
テレビも見たぞざまあみろ
同和の悪口書けば書くほどドア閉めるってことは嫌がらせしてるのは同和だって証だ
とにかくドア閉めるクソ同和藁(とにかく明るい安村風)
深谷市東方の西と高橋か死ね
サッカーの動画見たぞざまあみろ
気違いなのを常識化させるのが集ストの狙い。多いほうが正しいと考える日本人に漬け込んだわけだ。例え悪いことしてても多いんだから正しいと錯覚するように。上手く法律の盲点を突いた嫌がらせだな。法律で取り締まれないことをイイことにやりたい放題
ラルクがライブやるのが悔しいかざまあみろ
メル友出来たぞざまあみろ悔しがれクソ野郎共藁 >>32
江戸時代に天皇の実母(典侍)が女院号貰ってる場合でも
実母が死ぬ数日前とかだから中山慶子が貰うのは無理でしょう
中山慶子が女院号貰えなかったのは明治時代の皇室典範で
院号、女院号制度を廃止したためだし
江戸時代だと天皇が退位、もしくは死んだら「明治院」のように呼ばれるからね 九条公、平安神宮宮司を退任したんだね。権宮司の人が代行をやってる
みたいだけど、やはり宮司には公爵家から選んでほしい。 幕末以降に新規創立の神社なんて、まぁどうでもいいや 江戸時代の人口比率
公家・神官・僧侶:1.5%
武士:7%
百姓:84%
町人:6%
穢多・非人:1.5% 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
CQTVO 全日本なぎなた連盟が伊丹市にあるのは江戸時代に同地に所領があった
近衛家との関わりからだと初めて知った。 江戸時代中期の古書にうちの苗字の公家がいたことが判明したんだが
だからって俺の中に公家の遺伝子が流れてることにはならんよな? >>46
あまり見ない苗字なら血統の可能性が高い
よく見る苗字なら血統でない場合のが多い とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
D3G >>46
南朝に仕えてた公家なら記録は抹消されてるよ、たぶん 映画などで、公家が出来ればメインで登場する時代考証が素晴らしいものってご存知の方いますか? >>1
やっぱり公家と言えば、麿呂AAの元ネタとなった、水戸黄門の悪役の一条三位だよな。
でも実際は、山野さんの話によると柳生一族の陰謀に出てくる烏丸少将みたいな
人も結構いたみたいですね。
じっさい烏丸少将はモデルになった人が実在していたそうだしな。
ちなみに烏丸少将役の成田三樹夫も仁義なき戦いのヤクザの幹部をやって
ハマっていたなぁ。 >>53
ドラマでなら「和宮様御留」かな。ストーリーは別にして。
風俗考証でいえば眉とか鉄漿とか立烏帽子とか
なあなあで済ませてるとこあるけど。 公家なんて柔弱な長袖者は日本の歴史上、有害無益な存在だった。 貴族が武や兵を蔑視して文を尊ぶ極端な風潮作ったのは、世襲兵戸制で武人を社会地位低下させ、九品官人法で文人を優遇して貴族化させた曹操様のせい 平安貴族なんて全国の荘園から上納金召し上げてる広域暴力団のボスだろ
在地領主や地方の武士は地元のヤクザ よく名前を目にするテレビプロヂューサーに旧堂上子爵家の
東園基臣氏がいるね。 先祖に公家がいるかもしれん
当時の公家は悪い事してたんかな
うちの家系は途絶えるんだが
なんかの呪いかな 987 日本@名無史さん[sage] 2019/05/16(木) 12:07:47.43 ID:
南朝の公家なんぞ百済来た朝鮮人だろ
北朝のことは知らんけど 16日にBSのNHKプレミアの五山送り火中継で
冷泉家のお盆のようすもも放映されるみたい。楽しみだ。 シン・平家物語 テーマソング
「KIYOMORI No.1」
♪おたべ喰ったって〜
和菓子喰ったって〜
京都の中では「平家」なの♪
坊主が唸ればぁ〜
公家が弾むわぁ〜
陰陽師 呪詛 アタック!
ワンツー ワンツー祈祷 護摩 !
でも、涙が出ちゃう・・・
だって、「壇ノ浦」なんだモン、、、、orz(涙
♪南無阿弥陀仏も〜 般若心経も〜
青空に高くー叫びーたい〜♪
平家 一門 NO.1
平家 清盛 ナンバー アー ワーン! 麻呂は〜でおじゃるぅ〜
白塗り頬紅お歯黒お化け
・・・っていう時代劇の公家像はどこが起源なんだろ。 自分は公家の子孫だ、ただし南朝である
日本の歴史上では南朝の資料はほぼ存在していないことになってる
が、うちにはかなりの南朝の資料がある
これは処分するべきだろうか
うちには子孫がいないので自分で途絶える
資料を残して死ぬことは考えてない
その前に処分するつもりだ
因みに自分の遺伝子は父系ハプログループDである
つまりユダヤ人のDNAの親戚にあたるDNAを持ってる 公家の子孫だと名乗っていいのは
幕末時点の公家の子孫ぐらいのものだろうな
単に大昔の先祖がとか言い出したのなら
日本全国の○藤さんなんかはみんな公家の子孫になる 江戸時代って藤原以外の公家も公家として扱われてたの?
卜部氏(吉田家)は神祇大副とかやってたみたいだけど。 公家の家に娘が嫁いだという伝承がある家の方は居ますか?
生母は「家女房」であったという記録はよくあって、子どもが公家となっていて、娘を嫁がせた
家からしたら、ものすごく名誉なことだろうに、そういう系図を出している家を見ない。
そういう色々な「家女房」の実家がたくさん出ている本とかあれば絶対買いたいのだけど。 >>78
>嫁いだ >嫁がせた
言っている事がよくわからないんだけど
「女房」という言葉を「妻=正室」だと、勘違いしているのでは
「家女房」とは、女中・使用人上がりの妾・側室を意味する言葉だよ 家女房は、当主の手が付いて当主の子供を産んだ後や、
産んだその息子が成長して次代の当主となった後でも、
お手が付く前の身分・職階に留まったままで、
以前と同様の仕事をしながら働き続ける場合も多い。 家女房は基本的に側室なのはわかっているよ。(正室が居ないので、実質的に正室格だった場合もあるけど。)
だけど、娘が公卿の側室になり、血縁上の外孫が公卿となったりしていれば、その家にとっては名誉なことで誇りなのでは?
歴史が好きな人が書き込む、こういう場所でも話すのが憚られるようなことにまでなってしまっているのか?と思うと、何か今の「正室信仰」がやば過ぎる。少し前の名門の家の血統上の女系先祖なんてほとんど側室なのに。 >>81
本当にわかっていたのかな?
わかっていたのならなぜ、「嫁ぐ」 (正式の結婚をして正室となる事)
なんて言葉を使ったの? 「嫁ぐ」=正式の結婚をして正室となる事、っていう意味で使っていないから、かな。
娘をやる側からみたら、皇后になれずにたくさんいる内の1人の女御で終わろうとも、后がねでしょ。公家の家に対してでも出した側は同じ思いで「嫁がせた」だろうと。特に貧乏な家とか正室を娶らない家とかは、正室格の家女房も居たしね。 >>77
狭義の公家である堂上家(公卿になり得る家柄)の137家を、本姓・血統の別で分けると
藤原氏 96家
源氏 18家
平氏 5家
菅原氏 6家
清原氏 3家
阿倍氏 2家
大中臣氏 1家
卜部氏 4家
丹波氏 1家
大江氏 1家
堂上家の家格の区分 (摂家、清華家、大臣家、羽林家、名家、半家) では
菅原氏から大江氏までに属する家は、全家が半家
ただし半家は藤原氏・源氏・平氏の中にもあるが >>83
>たくさんいる内の1人の女御で終わろうとも、后がね
それは平安時代とかの話
>正室格の家女房
正室格と見られる為には、実家が少なくとも堂上家の娘でない事には無理
実家が地下家・社家・御所侍等・それ以下じゃ、いつまでたっても正室「格」とは見なされないお手付き妾 >>77 >>84
そのうち久我(村上源氏)・広幡(正親町源氏)は清華、中院(村上源氏)は大臣家
の家格で源性はそれなりの一大勢力だねー >>83
>公家の家に対してでも出した側は同じ思いで「嫁がせた」だろうと。
結婚式を挙げて正室として送り出したのなら、そりゃ「嫁がせた」だろうけど
そうでないなら、最初から妾になる話が決まっていて差し出すわけじゃなし
親の感慨は、肉体労働のお清の女中として「公家奉公に出した」でしかないよ >>81
>少し前の名門の家の血統上の女系先祖なんてほとんど側室なのに。
子にとって実母の身分・出身もかなり重要要素だったのは、古代からせいぜい中世ぐらいまで
南北朝から明治ぐらいは男系だけが尊重されて、いわゆる「腹は借り物」感覚なので
実母の身分がいくら低かろうが、実父とそれに嫡母(実父の正室)の身分が高ければそれで良し
卑母の子でも嗣子に立てられれば、実父と同様の扱いがなされる >>86
堂上家の家格や本姓や本家・分家関係や旧家・新家関係に、石高はまぁリンクしているようでいて不可解な部分も多いな。
家格別に石高を見てみると以下の通り。 (家数の多い家格帯はベスト3とワースト3のみ)
・摂家 5家 : 2862 近衛。 2044 九条。 2044 一条。 1708 二条。 1500 鷹司。
・清華家 9家 : 1655 菊亭。 715 花山院。 700 久我。 〜 410 徳大寺。 403 大炊御門。 312 醍醐。
・大臣家 3家 : 502 三条西。 500 中院。 200 正親町三条。
・羽林家 66家 : 928 飛鳥井。 631 水無瀬。 500 橋本。 〜 100 西大路。 83 櫛笥。 30 (十四家)。
・名家 28家 : 1153 日野。 1004 烏丸。 858 広橋。 〜 100 芝山。 50 (五家)。 30 (五家)。
・半家 26家 : 1000 萩原。 813 高倉。 766 吉田。 〜 130 石井。 100 北小路。 30 (七家)。 古代の名族(蘇我氏、物部氏、大伴氏など)は没落して歴史の舞台から消えていったのに、
藤原氏を中心とする「公家」が明治維新まで残ったのが、何よりも不思議だ。
実権を握った武士(足利、織田、豊臣、徳川など)が天皇だけを残し、公家はすべて追放して
自分たちが公家の就いていた官位を独占し、朝廷を牛耳ることもできたはず。
天皇だけでなく、公家も残したところに謎を感じる。 >>89
五摂家の石高は別格として室町以降の武家との交わりの
濃い公家の石高がそのまま江戸期にも引き継がれた感じ?
公家屋敷の規模でみると五摂家・宮家はさすが「御殿」「御所」呼ばわり
されるだけあって広大。でもそのほかは石高に関わらずちっこいね。 三十石なんかだと本当の貧乏公家で
下女の一人も雇えるかどうかって所なのでは >>92
蔵米取りって屋敷も100坪程度(俺んちより狭い)だし
住み込みは難しそう。参内の際の従者は口入屋からの
派遣社員だろうな。 ついでに皇室なんかの石高は、
・天皇家 存命中 : 30021 天皇。 10000 本院上皇。 7000 新院上皇。 5000 三后・女院。
2000 女御。 800 東宮。 300 嫡皇子女。 50 庶皇子女。
・宮家 4家 ; 3196 桂宮。 1022 伏見宮。 1016 閑院宮。 1000 有栖川宮。
・役料 現任中 ; 500 摂政・関白。 500 藤氏長者。 200 議奏・武家伝奏。 100 職事。
120 典侍。 200 勾当内侍。 100 内侍。 60 命婦・女蔵人・御差。
内侍は新家や半家でも出仕できるので、窮乏実家の為の宮仕えかな。 >>81
>何か今の「正室信仰」がやば過ぎる。
言っている事の意味がよくわかりづらいのだけど、名門の家の当主にとって大切なのは、
自身の父の血統と自身の正妻の血統であって、自身の生母の血統と自身の妾(子の母)の血統は低くてもどうでもいい。
どのような家から正室・本妻を迎えられるか、どのような結婚式を行えるかで、家の格が上下してしまう事も多いので、
正室選びはとても重要で、正室はお飾りだろうが子を産めなかろうが、形式上は周囲からとても重んじられる。 長野の善光寺って住職がいまだに一条家→鷹司家って摂家出身を維持しててすごいな。 江戸時代の准尼門跡寺院
・長野の善光寺の大本願
・熱田の誓願寺
・伊勢の慶光院 (維新後は廃寺) 有栖川宮職仁親王(1713〜1769)の家女房で、有栖川宮織仁親王(1754〜1820)の生母である
後藤温子は「後藤左一郎」の娘と言われていますが、この後藤左一郎とは、後藤艮山(1659〜1733)
の事でしょうか。
後藤艮山は、京で医師をしていたし、左一郎という通称があったようだし、年代的にも無理では無さそうだ
し…とは思うのですが。
ご存知の方はいらっしゃいますか? 江戸時代には品川左門とか公家出身の武士も少数居たみたいだね
この辺の研究てあまりされてないけど >>90
戦国以前は分からないけど徳川は外戚組んだり公家との関係性を重視してたように思う
朝廷の要人を自分の政権の後見人として取り込む事に意味があったのでは ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています