公家総合スレッド! [転載禁止]©2ch.net
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サムライだけが日本史ではござりません。
お公家さんもまた、
日本史の重要なテーマであらしゃいます。
中臣鎌足から近衛文麿まで。
お家芸を守り、権謀術数を尽くして悠久の時を生き抜いた
お公家さんを語りましょう。
お雑煮はもちろん、白味噌&丸餅&梅人参仕立てでござります。 >>1
やっぱり公家と言えば、麿呂AAの元ネタとなった、水戸黄門の悪役の一条三位だよな。
でも実際は、山野さんの話によると柳生一族の陰謀に出てくる烏丸少将みたいな
人も結構いたみたいですね。
じっさい烏丸少将はモデルになった人が実在していたそうだしな。
ちなみに烏丸少将役の成田三樹夫も仁義なき戦いのヤクザの幹部をやって
ハマっていたなぁ。 >>53
ドラマでなら「和宮様御留」かな。ストーリーは別にして。
風俗考証でいえば眉とか鉄漿とか立烏帽子とか
なあなあで済ませてるとこあるけど。 公家なんて柔弱な長袖者は日本の歴史上、有害無益な存在だった。 貴族が武や兵を蔑視して文を尊ぶ極端な風潮作ったのは、世襲兵戸制で武人を社会地位低下させ、九品官人法で文人を優遇して貴族化させた曹操様のせい 平安貴族なんて全国の荘園から上納金召し上げてる広域暴力団のボスだろ
在地領主や地方の武士は地元のヤクザ よく名前を目にするテレビプロヂューサーに旧堂上子爵家の
東園基臣氏がいるね。 先祖に公家がいるかもしれん
当時の公家は悪い事してたんかな
うちの家系は途絶えるんだが
なんかの呪いかな 987 日本@名無史さん[sage] 2019/05/16(木) 12:07:47.43 ID:
南朝の公家なんぞ百済来た朝鮮人だろ
北朝のことは知らんけど 16日にBSのNHKプレミアの五山送り火中継で
冷泉家のお盆のようすもも放映されるみたい。楽しみだ。 シン・平家物語 テーマソング
「KIYOMORI No.1」
♪おたべ喰ったって〜
和菓子喰ったって〜
京都の中では「平家」なの♪
坊主が唸ればぁ〜
公家が弾むわぁ〜
陰陽師 呪詛 アタック!
ワンツー ワンツー祈祷 護摩 !
でも、涙が出ちゃう・・・
だって、「壇ノ浦」なんだモン、、、、orz(涙
♪南無阿弥陀仏も〜 般若心経も〜
青空に高くー叫びーたい〜♪
平家 一門 NO.1
平家 清盛 ナンバー アー ワーン! 麻呂は〜でおじゃるぅ〜
白塗り頬紅お歯黒お化け
・・・っていう時代劇の公家像はどこが起源なんだろ。 自分は公家の子孫だ、ただし南朝である
日本の歴史上では南朝の資料はほぼ存在していないことになってる
が、うちにはかなりの南朝の資料がある
これは処分するべきだろうか
うちには子孫がいないので自分で途絶える
資料を残して死ぬことは考えてない
その前に処分するつもりだ
因みに自分の遺伝子は父系ハプログループDである
つまりユダヤ人のDNAの親戚にあたるDNAを持ってる 公家の子孫だと名乗っていいのは
幕末時点の公家の子孫ぐらいのものだろうな
単に大昔の先祖がとか言い出したのなら
日本全国の○藤さんなんかはみんな公家の子孫になる 江戸時代って藤原以外の公家も公家として扱われてたの?
卜部氏(吉田家)は神祇大副とかやってたみたいだけど。 公家の家に娘が嫁いだという伝承がある家の方は居ますか?
生母は「家女房」であったという記録はよくあって、子どもが公家となっていて、娘を嫁がせた
家からしたら、ものすごく名誉なことだろうに、そういう系図を出している家を見ない。
そういう色々な「家女房」の実家がたくさん出ている本とかあれば絶対買いたいのだけど。 >>78
>嫁いだ >嫁がせた
言っている事がよくわからないんだけど
「女房」という言葉を「妻=正室」だと、勘違いしているのでは
「家女房」とは、女中・使用人上がりの妾・側室を意味する言葉だよ 家女房は、当主の手が付いて当主の子供を産んだ後や、
産んだその息子が成長して次代の当主となった後でも、
お手が付く前の身分・職階に留まったままで、
以前と同様の仕事をしながら働き続ける場合も多い。 家女房は基本的に側室なのはわかっているよ。(正室が居ないので、実質的に正室格だった場合もあるけど。)
だけど、娘が公卿の側室になり、血縁上の外孫が公卿となったりしていれば、その家にとっては名誉なことで誇りなのでは?
歴史が好きな人が書き込む、こういう場所でも話すのが憚られるようなことにまでなってしまっているのか?と思うと、何か今の「正室信仰」がやば過ぎる。少し前の名門の家の血統上の女系先祖なんてほとんど側室なのに。 >>81
本当にわかっていたのかな?
わかっていたのならなぜ、「嫁ぐ」 (正式の結婚をして正室となる事)
なんて言葉を使ったの? 「嫁ぐ」=正式の結婚をして正室となる事、っていう意味で使っていないから、かな。
娘をやる側からみたら、皇后になれずにたくさんいる内の1人の女御で終わろうとも、后がねでしょ。公家の家に対してでも出した側は同じ思いで「嫁がせた」だろうと。特に貧乏な家とか正室を娶らない家とかは、正室格の家女房も居たしね。 >>77
狭義の公家である堂上家(公卿になり得る家柄)の137家を、本姓・血統の別で分けると
藤原氏 96家
源氏 18家
平氏 5家
菅原氏 6家
清原氏 3家
阿倍氏 2家
大中臣氏 1家
卜部氏 4家
丹波氏 1家
大江氏 1家
堂上家の家格の区分 (摂家、清華家、大臣家、羽林家、名家、半家) では
菅原氏から大江氏までに属する家は、全家が半家
ただし半家は藤原氏・源氏・平氏の中にもあるが >>83
>たくさんいる内の1人の女御で終わろうとも、后がね
それは平安時代とかの話
>正室格の家女房
正室格と見られる為には、実家が少なくとも堂上家の娘でない事には無理
実家が地下家・社家・御所侍等・それ以下じゃ、いつまでたっても正室「格」とは見なされないお手付き妾 >>77 >>84
そのうち久我(村上源氏)・広幡(正親町源氏)は清華、中院(村上源氏)は大臣家
の家格で源性はそれなりの一大勢力だねー >>83
>公家の家に対してでも出した側は同じ思いで「嫁がせた」だろうと。
結婚式を挙げて正室として送り出したのなら、そりゃ「嫁がせた」だろうけど
そうでないなら、最初から妾になる話が決まっていて差し出すわけじゃなし
親の感慨は、肉体労働のお清の女中として「公家奉公に出した」でしかないよ >>81
>少し前の名門の家の血統上の女系先祖なんてほとんど側室なのに。
子にとって実母の身分・出身もかなり重要要素だったのは、古代からせいぜい中世ぐらいまで
南北朝から明治ぐらいは男系だけが尊重されて、いわゆる「腹は借り物」感覚なので
実母の身分がいくら低かろうが、実父とそれに嫡母(実父の正室)の身分が高ければそれで良し
卑母の子でも嗣子に立てられれば、実父と同様の扱いがなされる >>86
堂上家の家格や本姓や本家・分家関係や旧家・新家関係に、石高はまぁリンクしているようでいて不可解な部分も多いな。
家格別に石高を見てみると以下の通り。 (家数の多い家格帯はベスト3とワースト3のみ)
・摂家 5家 : 2862 近衛。 2044 九条。 2044 一条。 1708 二条。 1500 鷹司。
・清華家 9家 : 1655 菊亭。 715 花山院。 700 久我。 〜 410 徳大寺。 403 大炊御門。 312 醍醐。
・大臣家 3家 : 502 三条西。 500 中院。 200 正親町三条。
・羽林家 66家 : 928 飛鳥井。 631 水無瀬。 500 橋本。 〜 100 西大路。 83 櫛笥。 30 (十四家)。
・名家 28家 : 1153 日野。 1004 烏丸。 858 広橋。 〜 100 芝山。 50 (五家)。 30 (五家)。
・半家 26家 : 1000 萩原。 813 高倉。 766 吉田。 〜 130 石井。 100 北小路。 30 (七家)。 古代の名族(蘇我氏、物部氏、大伴氏など)は没落して歴史の舞台から消えていったのに、
藤原氏を中心とする「公家」が明治維新まで残ったのが、何よりも不思議だ。
実権を握った武士(足利、織田、豊臣、徳川など)が天皇だけを残し、公家はすべて追放して
自分たちが公家の就いていた官位を独占し、朝廷を牛耳ることもできたはず。
天皇だけでなく、公家も残したところに謎を感じる。 >>89
五摂家の石高は別格として室町以降の武家との交わりの
濃い公家の石高がそのまま江戸期にも引き継がれた感じ?
公家屋敷の規模でみると五摂家・宮家はさすが「御殿」「御所」呼ばわり
されるだけあって広大。でもそのほかは石高に関わらずちっこいね。 三十石なんかだと本当の貧乏公家で
下女の一人も雇えるかどうかって所なのでは >>92
蔵米取りって屋敷も100坪程度(俺んちより狭い)だし
住み込みは難しそう。参内の際の従者は口入屋からの
派遣社員だろうな。 ついでに皇室なんかの石高は、
・天皇家 存命中 : 30021 天皇。 10000 本院上皇。 7000 新院上皇。 5000 三后・女院。
2000 女御。 800 東宮。 300 嫡皇子女。 50 庶皇子女。
・宮家 4家 ; 3196 桂宮。 1022 伏見宮。 1016 閑院宮。 1000 有栖川宮。
・役料 現任中 ; 500 摂政・関白。 500 藤氏長者。 200 議奏・武家伝奏。 100 職事。
120 典侍。 200 勾当内侍。 100 内侍。 60 命婦・女蔵人・御差。
内侍は新家や半家でも出仕できるので、窮乏実家の為の宮仕えかな。 >>81
>何か今の「正室信仰」がやば過ぎる。
言っている事の意味がよくわかりづらいのだけど、名門の家の当主にとって大切なのは、
自身の父の血統と自身の正妻の血統であって、自身の生母の血統と自身の妾(子の母)の血統は低くてもどうでもいい。
どのような家から正室・本妻を迎えられるか、どのような結婚式を行えるかで、家の格が上下してしまう事も多いので、
正室選びはとても重要で、正室はお飾りだろうが子を産めなかろうが、形式上は周囲からとても重んじられる。 長野の善光寺って住職がいまだに一条家→鷹司家って摂家出身を維持しててすごいな。 江戸時代の准尼門跡寺院
・長野の善光寺の大本願
・熱田の誓願寺
・伊勢の慶光院 (維新後は廃寺) 有栖川宮職仁親王(1713〜1769)の家女房で、有栖川宮織仁親王(1754〜1820)の生母である
後藤温子は「後藤左一郎」の娘と言われていますが、この後藤左一郎とは、後藤艮山(1659〜1733)
の事でしょうか。
後藤艮山は、京で医師をしていたし、左一郎という通称があったようだし、年代的にも無理では無さそうだ
し…とは思うのですが。
ご存知の方はいらっしゃいますか? 江戸時代には品川左門とか公家出身の武士も少数居たみたいだね
この辺の研究てあまりされてないけど >>90
戦国以前は分からないけど徳川は外戚組んだり公家との関係性を重視してたように思う
朝廷の要人を自分の政権の後見人として取り込む事に意味があったのでは 九條道孝の生母は誰かな?
英照皇太后と同母とするなら南大路大和守の娘になるけど
九條家の資料でも見つからない しかし、ほとんどの九條家資料で九條幸経と九條道孝の実父のことが記載されていないのかな?
九條幸経
実父母鷹司政通、家女房
公式上の実父母九條尚忠、唐橋姪子
九條道孝
実父母九條尚忠
公式上の実父母九條幸経、酒井肫子 系図見ると村上源氏も宇多源氏も実質全部藤原氏だな
近江の佐々木氏と伊勢国司北畠庶流の末裔のほうがよっぽど正当な源氏だわ 養子・婿養子をはさんだ事がなくて
実男系のみで始祖まで系譜をさかのぼれる家系など
滅多にないよ 徳大寺家と烏丸家は密子(隠し子)が家督を継いでいる。
徳大寺公純 鷹司輔煕の密子
烏丸光胤 中御門宣誠の密子 >>90
もし平家が長続きしていたら、平家が家格第一の公家(+武家も兼任)になって、
藤原氏は没落していた可能性がある
数代にわたって平家が天皇の外戚になれば、摂関も平家が奪い、平家が摂関家に
なったかもしれない
足利将軍家は摂関家をしのぐ勢力になったが、摂関を奪うことはなかった >>107
清盛が藤氏の相続に介入したように、傀儡にすることはあっても、摂関を奪うのはもう無理だったろうと思う。
摂関は既に御堂流の家職になってて、外戚の有無は関係がなくなっていたから、仮に清盛流平氏の天下が長続きするなら、太政大臣か何か分からないが、別にトップの官職が出来たんだろう。
でも、現実は公家層は清盛流平氏による官職独占に我慢がならなかった。頼朝の鎌倉殿プランってのは公家層にとってもそこそこ満足がいく話だったと思うよ。 公卿の地位にあるのは頼朝だけで、源氏一門(のちに北条氏も)が受領だからな
公家からすれば、平家に比べて不満がないよな では、豊臣政権が長続き(近代を迎えるまで)していたら、関白は豊臣氏の家職になって
摂関家はもはや摂関家ではなくなっていたのかな?
豊臣氏が天下人なんだから、五摂家と摂関の持ち回りなんてしないよね?
公卿も豊臣一門や五大老が独占して、公家は高位の官位に就けなくなる
公家自体は残ったと思うけど、公家社会の極官や昇進の秩序は滅茶滅茶になったと思う 長期政権になる段階で公家と武家の官職はやっぱりどこかで分離せざるをえなくなるんじゃない。 徳川政権になったとき、豊臣政権下での公家の不満を受けて、公家と武家の官位を分離したんだよな 来年1月からアニメで平家物語やるよ
TVアニメ「平家物語」
https://youtu.be/n27irsU7x6c >>109
その辺が頼朝の天才たる所以だよな
清盛や秀吉とは違い、どうやったら持続可能な政権を作れるかということを主眼に置いている
まあ、それでも結局持続可能ではなく長男次男がともに暗殺されて滅びたわけだが >>107
鎌倉時代は西園寺家が代々の天皇の外戚だったが
摂関にはなれなかったからな
藤原道長以降は天皇の外戚であろうがなかろうが
摂関の座は世襲になっている
>>110
秀次死後は秀吉が再度関白になることはなく太閤のまま政治を行っている
秀吉の時代には武家が高官に就いたけど
秀吉自身は公家制度の廃止や解体は行っていないので共存する予定だったんじゃない
秀吉は大阪城が有名だけど天下を取ってからは聚楽第(後に伏見城)に住んで
いつでも参内可能だったんだよね
江戸に住んで4代から13代まで一度も参内しなかった徳川将軍と違って 貴族勢力とは魏文帝曹丕様のフォロワーである。
三月三日の雛祭り、九月九日の重陽は魏の文帝が催したものを貴族がまねた代表的イベントであり、天皇様が愛好した菊は魏文帝曹丕様が愛好したのが起源だ。 秀次死後は関白は空位になっている
結局関ヶ原合戦の後に家康が奔走して関白に公家が就任 秀次事件がなければ、秀次は長期にわたって関白に就位していたはず。
(当時、秀次は若かったから)
秀次は聚楽第において行政の責任者になっており、その地位と関白は結びついていた。
その後、秀次の息子か秀頼が関白になり、関白は豊臣氏の世襲になった可能性がある。
つまり、関白を行政の責任者とする一種の幕府になったということだ。
(征夷大将軍、近衛大将ではないので、幕府ではなく政所などと呼んだと思うが)
それとも、関白は秀吉・秀次の2代限りで、その後は摂家に返したのだろうか? >>117
関白有資格者だった近衛信尹、二条昭実が権力争いしている間に両方とも力を失い
後陽成天皇が関白を豊臣に命じた経緯がある
摂関常置や五摂家の世襲は藤原氏側の要望によってそうなっただけで
天皇のほうからそれを望んだわけではないからね
>>118
関白が豊臣の世襲ならその下に五摂家のための役職が作られただけかと
豊臣政権は本拠地を都(聚楽第)におき
秀吉が天皇のお傍へ参内するのは勿論、天皇も秀吉の聚楽第に遊びに来ているし
公家と武家は天皇の下に融合してたからね 平安上級貴族(公家の先祖)の天下人像=魏ノ文帝ノ所謂ル文章經ムル㆑國之大業。不朽之盛事ナル者也。 江戸初期は尾張藩の志水氏とか加賀藩の品川氏みたいな公家出身の武家も少数居るんだよな 堂上家の子孫で構成される堂上会は現在でも皇室と近い関係にある
今年の新年祝賀の儀でも堂上家の代表が天皇に挨拶を述べに参内した >>122
公家は戦国時代以降は基本貧乏だからな
江戸時代は下級公家から武家転向はちょこちょこあるよ。 皇親と公家の上下関係はどうやったの?
例えば親王なら一品みたいなやつがあるし
諸王も多分普通に官位あるよね?
皇親より官位が高ければ臣下でありながら皇親に対して恭しくはしなかったの? 江戸時代の世襲親王家と摂関の序列の話は有名すぎるので知ってます。それ以外で。 >>3
武人と武士は違う。
鎌足も守屋も、武士に非ず >>124
摂家の鷹司の生まれでも寺に入れられそうになって関東へ家出した、松平信平とかはどうよ? >>123
天皇一家のいわゆる内廷と旧華族、特に堂上家との関係は微妙という記事を読んだことあるけどね。世紀のご成婚時のゴタゴタが結局修復できていないとか。当時の侍従長がどうも根回しを全然しなかったらしい。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています