質問だけど水行10日って何キロなの? [転載禁止]©2ch.net
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修験道を極める為、滝に打たれ山中を日に10里を歩く事10日と言う >>1 日本史・スレッド立てる前に質問をPart36 [転載禁止](c)2ch.net http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1431960606/ まじめな答えがほしいのならこのスレでなく上のスレで、 質問することをお勧めするよ。 520 名前:日本@名無史さん [age] :2015/01/23(金) 16:58:43.06 >>518 水系が違っていても、近くまで川が来ている場合、山越えの必要はない。 少なくとも宝満川と衣笠川は徒歩数分圏内 595 名前:日本@名無史さん [sage] :2015/01/23(金) 20:44:38.96 この川か。 筑紫野市紫2丁目付近だけど、思ったより水があるな。 http://i.imgur.com/zH9Ooir.jpg 一般に、川の水は昔の方が豊富だったそうだけど、これなら 今でも小舟が通れるぞ。 582 名前:日本@名無史さん [sage] :2015/01/23(金) 20:13:55.51 >>539 御笠川の源流か支流なんだね。 この辺りがあやしい。 http://i.imgur.com/MLlBZJK.jpg 664 名前:日本@名無史さん [sage] :2015/01/23(金) 22:52:40.12 >>661 ここか。 http://i.imgur.com/3tJHuyy.jpg 3から真南、モロに道になってる。これだなwww まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww 岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の 考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が 行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。 このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の 下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。 http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww 縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、 稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。 同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、 小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が 初めて裏付けられる資料」としている。 http://inoues.net/science/wan.html 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり >陸行1月についてまとめ >畿内説 >@河内湾→奈良 35km 1.5km/日 >A舞鶴→奈良 120km 4km/日 >九州説 >@日田→佐伯(大分) 130km 4.6km/日 >A日田→日向(宮崎) 150km 5.5km/日 >B有明海→熊本 60km 2km/日 卑弥呼が実際、景初2年の6月から12月までの6ヵ月かけて、帯方郡から洛陽まで行って、金印を授与されてるだろ。 ソウルから洛陽まで、黄海から黄河を遡って1600km水行するのに6ヵ月かかるんだから、単純な割り算で答えが出るだろ。 >>14 サンクス。水行10日で87.67キロやな 大河と海と、小さな川では、速度は全然違う。 九州に着いてからの水行は、船を乗り換えてるよね。それで川を遡上だ。 1日あたりの距離は短いね。 水の上は日付感覚おかしくなる 海軍は金曜カレーの日と決めていたけど まさか半島からでたときキムチの日とか決まっていたのか 出雲⇒敦賀⇒琵琶湖⇒淀川⇒木津川⇒大和 10日間 約400km 海流や川流に乗ると速いよ 実際に1600kmに半年かかってるのに、その4分の1の距離に10日とかないから 水行は河川交通ということだけど、川を乗り換えてる。 最初の20日は、ある川を10日+違う川を10日程度の意味だろう。 水行の起点となった不弥国は博多付近というのが有力だから、 最初は宝満川、次が衣笠川。乗り換えるのに500mほど歩く けど、この二本の川で久留米に着く。 つまり、5万戸の大規模集落である投馬国は久留米。 そこから水行10日は、久留米から日田だろう。 日田の川が尽きる場所で止む無く舟を降り、陸行になる。 >>22 一日40km 8時間移動したとして、時速5km 無論、休息日は含まない、含む意味が無い 旧日本陸軍の作戦行軍目安は25km 人数が多いと余計に時間がかかるのと、 野宿する場合には野営の準備などが必要なため。 ★警告★ 邪馬台国専門スレがいくつかありますので、そちらに書き込んでください。 あるいは、質問スレに書き込んでください。 以後このスレへの書き込みはしないでください。 当時の徒歩を、今の道路歩くのと同じに考えてる馬鹿がいるな。 だから書き込むなと言ってるだろう。 こんなことでスレを立てていたら、20日は何日なのか、南はどっちなのか、 とかしょうもないことでスレを立てる人間が出てくる。 邪馬台国スレがすでにあるんだから、そっちに書き込めよ。 案の定スレを立てた張本人はトンズラかましてるし 削除依頼出しとけよ。糞すれ立てんなボケが。 水行何日がはっきりわかってたら邪馬台国論争なんて起きとらんわ。 常識的に考えたら分かるやろが 6月に邪馬台国の使者が来て、12月に詔書が出た。 すごいね。詔書って行ったその日に出るのかぁ。 帯方郡から洛陽まで水行したとは書かれていないけど、水行したんだね。 6月の何日から12月の何日かまでかわからないけど、6か月で計算するんだね。 支離滅裂にもほどがあるわww >陸行1月についてまとめ >畿内説 >@河内湾→奈良 35km 1.5km/日 >A舞鶴→奈良 120km 4km/日 >九州説 >@日田→佐伯(大分) 130km 4.6km/日 >A日田→日向(宮崎) 150km 5.5km/日 >B有明海→熊本 60km 2km/日 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww 縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、 稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。 同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、 小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が 初めて裏付けられる資料」としている。 http://inoues.net/science/wan.html 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww 岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の 考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が 行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。 このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の 下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。 http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>1 「水行」とは「水」を行くこと。 「水」とは「淮水」のことである。 すなわち、「水行」は淮水流域の湿地帯の水域を船で行くことである。 広義では、河川湖沼海等の岸辺を見ながら水域を船で行くことを「水行」と言う。 水行10日=水行1日×10 ≒1000里×10 ≒76.4km×10 ≒764km >>9 >古代の中国語で「水」とは、河水(黄河)、江水(長江、すなわち揚子江)、淮水(淮河) 古代の中国語で、 「水」とは「淮水」のこと。 「河」は「黄河」、 「江」は「長江」のこと。 >>41 水行二十日や、水行十日陸行1月の記述もありますが、 九州から北海道まで1500km位なんですけど、 それでいいんでしょうか? 水行10日陸行(16日合計26日約)一月 ( )の部分が省略されてる。漢文は結論しか書かないから 水行十日:帯方郡西端(京畿湾徳積島)〜末盧國(唐津) 陸行1月:約1000里=約80km。 陸行1月=海行1月=1月行≒80km(隋書より) 水行二十日:帯方郡西端(京畿湾徳積島)〜一大國(壱岐)〜平戸〜島原湾〜有明海東岸 船行1年=海行12月≒1万2千里≒920km どのような説を採るにしろ、距離と日程が両方とも確定している同時代の行程記事は>>14 しかないんだから、その説で考えれば>>14 はどういう内訳になるのか整合的に説明できなければならないね 陸行一月と言うが一日30キロ歩いて一月で900キロ 博多から九州最南端まで行って戻ってもきてもまだ余るだろ >>51 邪馬台国畿内説の立場ではないので。 >>14 >ソウルから洛陽まで、黄海から黄河を遡って1600km水行するのに ソウルから洛陽まで、黄海から淮水を遡って2100km水行 ソウル→漢江→黄海→淮水河口→淮水→北汝河→北汝河支流→汝陽市→陸行6km→白降河→伊河→洛陽 汝陽市部分の陸路6km以外は全て水行である。 520 名前:日本@名無史さん [age] :2015/01/23(金) 16:58:43.06 >>518 水系が違っていても、近くまで川が来ている場合、山越えの必要はない。 少なくとも宝満川と衣笠川は徒歩数分圏内 595 名前:日本@名無史さん [sage] :2015/01/23(金) 20:44:38.96 この川か。 筑紫野市紫2丁目付近だけど、思ったより水があるな。 http://i.imgur.com/zH9Ooir.jpg 一般に、川の水は昔の方が豊富だったそうだけど、これなら 今でも小舟が通れるぞ。 582 名前:日本@名無史さん [sage] :2015/01/23(金) 20:13:55.51 >>539 御笠川の源流か支流なんだね。 この辺りがあやしい。 http://i.imgur.com/MLlBZJK.jpg 664 名前:日本@名無史さん [sage] :2015/01/23(金) 22:52:40.12 >>661 ここか。 http://i.imgur.com/3tJHuyy.jpg 3から真南、モロに道になってる。これだなwww >>51 >>54 >>57 「邪馬台国畿内説」の人は、邪馬台国畿内説スレに移行してください。 「邪馬台国畿内説」でない人は、このスレを続けて行きましょう。 1里=75m〜80mの短里説の人達は、このスレにドンドン書き込んでね。 >>59 正しくは畿内説の人は畿内説スレへ。九州説の人は九州説スレへ移動してくださいだな。 短里というのは狗邪韓国から不彌国までの行程の前提だから、畿内説でも九州説でも同じだよ 畿内説と九州説との対立は、不彌国から先の、里程の記載のない部分の対立 >>61 水行20日は、水行の起点(帯方郡)から終点(投馬國)までの道程2万里。 水行1日≒1000里(短里)。 魏志倭人伝では、水行1日=1140餘里となっている。 水行10日は、水行の起点(帯方郡)から終点(末盧國)までの道程11400餘里。 陸行1月は、陸行の起点(末盧國)から終点(末盧國)までの道程1000餘里。 陸行1月≒1000里(短里)。 隋書倭國伝では、陸行1月=1月行≒80km≒1000里(短里)。 >>1 水行20日=76.4m/里×1140里×20≒1742kmと計算できる。 水行10日=76.4m/里×1140里×10≒871kmと計算できる。 陸行1月=1000里=76.4m/里×1000里=76.4kmと計算できる。 帯方郡から投馬国まで道程は1742kmとなる。 帯方郡から邪馬台国まで道程は、871km+76.4km=947kmとなる。 以上より、 投馬國は筑後平野有明海沿岸部、 邪馬台国は筑紫平野東部内陸部(筑後平野内陸部+北野地域(筑後川中流域))、 と推定される。 帯方群がソウルだか平壌だか知らないが 有明まで1000kmも無いだろ >>64 行くのに半年かかることが文献上明らかな洛陽までの距離の半分ぐらいだな >>65 行くのに半年かかるなんてどこにも書かれてないけど? >>67 どこをどう読んだら、半年かかると確実に言えるの? 失礼だが、日本語の勉強と一般常識の勉強をし直したらどう? >>67 いや、それ以前に。これは一番基本的なことだけど、 あなたは魏志倭人伝の原文を読んだことがありますか? 確実に言えることは、実際に半年かけていることであって、その間どこかで休んでるかもしれないとか、先に着いてるかもしれないとかいうのは確実には言えないこと 確実に言えないことを主張するのであれば、当然、それを主張する人が立証すべき >>70 いや、そういうことではなくて、もっと基本的なことなんだけど。 倭人伝読んでてその基本的なことに気付かないの? 倭人伝には6か月でこの区間を移動したとは一切書かれていません。 大まかに言ってしまえば、6月に倭人が帯方郡に到着し、12月に詔書が出たと あるだけ。これでこの区間の移動日数が6か月だとどうして言えるのでしょうか。 また、詔書というのは到着したその日に出るのでしょうか。 さらに、6月と12月という記述だけからどうして6か月だと言えるのでしょうか。 6月1日でも6月だし、6月30日でも6月。同様のことは12月にも言える。 > 景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏、將送詣京都。其年十二月、詔書報倭女王曰、制詔親魏倭王卑彌呼、 はっきりと「太守劉夏遣吏、將送詣京都」と書いてある。 6月何日なのかの問題は最大1か月の誤差の問題にすぎないから結論への影響は少ないとは思うが、どうしても長い期間、ないしは短い期間を主張したいのであれば、自ら立証すべきはいうまでもない。 「半年」を「約半年」に言い換えれば文句ないのか? クレーマーみたいだなw というかこの話題って邪馬台国スレ(畿内・九州)でやればいいんじゃね。 すれ立てた佐藤とかいうやつはもういないし。 ★お願い★ このスレにはもう書き込まないでください。 畿内説の方は畿内説スレに移動してください。 九州説の方は九州説スレに移動してください。 ご協力お願いします。 >>78 南への水行の起点は、帯方郡 不彌國の城柵は、吉野ヶ里遺跡。 吉野ケ里は弥生中期から平安初期までの痕跡があります。 吉野ヶ里が衰退したのは倭國乱が始まる頃のAD130頃。 しかし、其の後も縮小して継続している。 吉野ヶ里は帥升王統の倭國である倭面土國(倭米多國)と考えられる。 「米多」の地名::米田郷、米多郷、筑志米多國、米多、前牟田、目達原、三田、豆田 帥升王統の倭國の都である倭面土國(倭米多國)が縮小又は滅亡した頃に倭國乱が始まったのである。 帯方群より出雲 20日間 出雲より大和 10日間 (完) まさか 使者が実際に陸行1月したなんて思ってる糞は居ないよな? 5 名前:日本@名無史さん :2015/01/27(火) 12:42:13.33 女王国の北に21国あるのだから、北部九州でないことは明白。 その余の、遠絶にして詳らかにできない某国というのが本州だろう。 そして、女王国の東には海があり、その向こうには倭種が住むという。 そこは四国であり、女王国は九州東部で決まり。 そして、四国の南については書いてあるが、女王国の南については 書いてない。 これは、女王国が九州東南部であり、南には他に国がないことを示している と考えられる。 西はどうかというと、奴国という、女王国に向けて南下した不弥国の 西にある国(奴国)の南に、女王国と対立する狗奴国があると書いてある。 つまり、女王国の西は狗奴国。 魏志倭人伝は、最小限の文章で、九州全域、女王国の東西南北を 明確に記述しているのだよ。 奴国→不弥国 ↓ ↓水行 ↓ ↓水行 ↓ 投馬国 ↓ ↓水行 狗奴国 ↓陸行 女王国(海)→四国 (海) ☆ 総務省の『憲法改正国民投票法』のURLですわ。☆ http://www.soumu.go.jp/senkyo/kokumin_touhyou/ ☆ 日本国民の皆様方、2016年7月の『第24回 参議院選挙』で、日本人の悲願である 改憲の成就が決まります。皆様方、必ず投票に自ら足を運んでください。お願いします。☆ 魏志倭人伝より 水行十日≒870km 水行二十日≒1500km 隋書百済傳&倭國傳より 陸行一月≒80km 本土日本人と韓国人は、遺伝距離ゼロ 全く同じ人種ってこと。 日本人の起源 〜遺伝学電子博物館 http://www.nig.ac.jp/museum/evolution/02_e.html 特に、韓国人と本土日本人の二集団間の遺伝距離はゼロであった。やはりこの分析で も、韓国人と本土日本人は遺伝的にきわめて近縁な関係にあることが明らかとなった のである。 http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_26_02.gif つぎに、集団間で求めた遺伝距離をもとに集団の系統樹を作成した(図26)。この系 統樹では、アフリカ人が他の人類集団に先がけて分岐し、続いてヨーロッパ人が分か れ、さらにアメリカ先住民が分岐している。最後に、東アジアの五集団が単一系統 のクラスターを形成して枝分かれしてくる。東アジア人のクラスターでは、アイヌ が最初に分岐し、続いて中国人が枝分かれしてきたことが読み取れる。続いて琉球人 が枝分かれし、最後に韓国人と日本人が緊密なグループとして分岐してくる。 http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2014/05/21/dna.jpg http://www.kahaku.go.jp/research/department/anthropology/report02/s-IshidaFig1.jpg 陸行は一日20km程度、水行はヨットレースじゃないんだからやっぱり20km程度。 浅瀬の有る川を遡ったり、漕ぎ手も飯を食わないといけない。 そういう意味では、無人地帯を行くことは出来ない。 食料の補給が出来ないからね。 ポリネシアの漁民が漁をしながら遠方へ移住するのとは訳が違う。 一気に行けるのは、潮と風のいいあんばいの限られた時期。 >>89 海行一月は約80km・・・隋書百済伝より 海を行くから「海行1月」 陸を行くなら「陸行1月」 海陸の区別がないときは「1月行」 故に 陸行1月=1月行=海行1月≒80km=1047里=100餘里 又 80km=80km÷76.4m/里=1047里=1000餘里 一方 帯方郡から末盧國までは、 循海岸水行七千餘里+渡海千餘里×3回=一万餘里であり 水行十日でもある。 故に 水行1日=水行十日÷十日=10000餘里÷10≒1000餘里=80km まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww 縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、 稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。 同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、 小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が 初めて裏付けられる資料」としている。 http://inoues.net/science/wan.html 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww 岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の 考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が 行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。 このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の 下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。 http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 古代の中国語で「水」とは、河水(黄河)、江水(長江、すなわち揚子江)、淮水(淮河) のように、もっぱら河川を指すものであり、海は、「海」なのです。 従って、水行は、河川航行との主張は合理的と考えます。 http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/691129/578086/79470453 古代の中国語で「水」とは、「淮水」のことです。 淮水流域である北緯35度以南の河南平原を船で移動することが「水行」です。 淮水本支流湖沼を船で1日移動することが「水行1日」で、 その移動距離は約千里(80km)です。 淮水本支流湖沼の岸に沿って移動することが「水行」なので、 海を含めた水域の沿岸を移動することは「水行」とされています。 >>94 淮水を「水行」したという用例を挙げてください。 >>94 海岸を航行するときは、「海岸水行」と書いてますよ。 単なる「水行」は、川。 「孟賁,古之勇士,水行不避蛟龍,陸行不避豺狼,發怒吐氣,聲音動天」史記-卷百一十七‧司馬相如列傳第五十七 蛟龍が生息できるのは、淮水流域と長江流域である。黄河流域は蛟龍生息不可。 長江流域ではないので、水行するのは淮水流域となる。 「水」が「淮水」を意味する実例は失念。今は実例を忘れて見つからない。 「彭城要兼水陸,魏人南寇,水行自清入泗,陸行自歷城、瑕丘, 皆湊彭城,故云要兼水陸。請以皇子撫臨州事。」資治通鑑-卷一百二十五 彭城(徐州)は淮水流域にある。 >>96 海岸を航行するときは、「海岸水行」です。 単なる「水行」は、岸に沿う淡水域航行。 水域「水行」の概念に水域としての海も含まれている。 「水行」 水辺(淡水域・海水域)を岸に沿って(循岸)舟(船)で行くこと 「陸行」 内陸を(徒歩・車で)行くこと 「馬行」「草行」「泥行」「山行」「擿行」 >>98 明らかに間違ってる。 「水行」が岸に沿って進むだと、「海岸水行」は、海岸を岸に沿って進むになってしまい、 岸が重複する。そんな無駄な表現はしない。 また、川なら常に岸に進んでるわけで、言わずもがな。 「海岸水行」は、「海岸に沿って進む」だけど、単に「水行」と書いたら、川を進む か、あるいはまったく逆に、大海の中を岸を見ずに進むという意味だよ。 >>99 >大海の中を岸を見ずに進むという意味だよ。 上記は、「海行」である。「水行」ではない。 「水行」は「岸辺に沿って水域を進む」の意味。 「循海岸水行」の「循」と「岸」は、進行している水域が海であることを重ねて強調しているだけ。 >>94-97 >古代の中国語で「水」とは、「淮水」のことです。 明らかに誤り。そもそも音が違う。 古代中国で川の固有名詞は、一音節一文字で、三水+声符というのが通例。 「河」(黄河・河水)や「江」(黄河・江水)ですらそうなのに、 済水を含めた華夏四瀆の中で、どうして淮水が「川」の代表で「水」と呼ばれるのか。 >「水」が「淮水」を意味する実例は失念。今は実例を忘れて見つからない。 そもそも古代中国で普通に「淮水」を「水」と呼んでいたのなら、 経書や正史に幾らでも用例を見出せるはずで、忘れて見つからないというのは理屈が破綻している。 例が多いなら検索で出るはずだし、見つからないほど例が少ないなら主張が通らない。 ただ「水」と書かれていても、前後の文脈からそれが「淮水」であると判読できるのは、この場合の用例にならない。 例えば、九州北部を話題にしている文章に「港」と書いてあった場合、 それが博多であると解されるのは文脈から類推できるからであって、「港」の字に博多の意味があるわけではない。 「水」単独で淮水を示すのなら、字書に解説があって良さそうなもの。しかし、ない。 ttp://tw.18dao.net/%E6%BC%A2%E8%AA%9E%E8%A9%9E%E5%85%B8/%E6%B0%B4 まさかとは思うが、説文の「准也」を「準」でなく「淮」と誤認しているのではあるまいな。 >>94-97 >淮水流域である北緯35度以南の河南平原を船で移動することが「水行」です。 この主張は以下の一文から導かれるものだと思うが、 >蛟龍が生息できるのは、淮水流域と長江流域である。黄河流域は蛟龍生息不可。 蛟龍が黄河で生息できないというのは、何に書かれているのか。 > 淮水本支流湖沼を船で1日移動することが「水行1日」で、 その移動距離は約千里(80km)です。 具体的な数字は何を出典として算定されたのか。 >淮水本支流湖沼の岸に沿って移動することが「水行」なので、 >海を含めた水域の沿岸を移動することは「水行」とされています。 漢籍での「水行」の用例で、最も古い時期に当たるのは、 史記・夏本紀の「陸行乘車、水行乘舟、泥行乘橇。」であり、 同・河渠書に「陸行載車、水行載舟、泥行蹈毳、」と異同はあるが同じ意味で出ている。 漢文というのは対比表現が多いので、この「水行」が地域を限定した意味なら、 「陸行」や「泥行」にも想定される地域がないと表現として成立しない。 「水」が淮河なら、「陸」「泥」とは、どこなのか。 当然ながら、用例と一緒に説明してもらいたい。 >海岸を航行するときは、「海岸水行」です。 これについては>>99 に全面的に合意する。 >>102 >「水」単独で淮水を示すのなら、字書に解説があって良さそうなもの。 実例があるよ。 【河】 河の名、黄河の称 【江】 揚子江の称=大江・長江 【水】 河川、「淮水」「湘水」「漢水」 >>104 字書の読み方も知らない童蒙は去ね。 引用した文の上の三行も理解できない奴の来る所ではない。 >>105 辞書の読み方は少しは解かるが、字書の読み方は全く知らん。 >>106 そんな頭だから中共がどうとかバカみたいなことを平気で言えるんだよ 電波は引っ込んでろ 日数は火時計の経過時間、それと太陽方位角測定で距離を算出 >>104 その説明文をどう読むと、「水」一字で淮水を指すと言えるのか? 3の場合、「水」には河川の意味しかない。 「河」には「黄河の称」、「江」には「揚子江の称」という説明がある。 しかし「水」には、「淮水の称」という説明がない。 特定の河川を指す場合には、固有名詞の文字を加えている。 「水」を含む熟語の例として、「淮水」「湘水」「漢水」を挙げただけだ。 その説明で「水」が淮水を指すというのなら、湘水や漢水を指す場合もあるわけで、 結局文脈に拠らざるをえないではないか。 ごく普通の短文も曲解する、用例も出せない、そういう人には引っ込んでてもらいたい。 屁理屈をひねり出す知恵比べをしているのではない。 >>109 なんだ、魏志を読む時の用例は、少なくとも六朝以前とか考えていたんだけど、 そういう制約が無いなら、北史を使うね。 ちなみに、先行史書からの引き写しと見られる、倭の記事も載ってる。 流求傳 流求國居海島、當建安郡東、水行五日而至。 赤土傳 赤土國、扶南之別種也。在南海中、水行百餘日而達。 さて、建安から流求への経路、扶南から赤土への経路を教えてください。 どこの河川を航行して到達したのでしょう? まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww 縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、 稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。 同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、 小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が 初めて裏付けられる資料」としている。 http://inoues.net/science/wan.html 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww 岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の 考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が 行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。 このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の 下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。 http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>110 【水】 河川、「淮水」「湘水」「漢水」 ・・・の解説 河川は、北緯32°〜北緯35°の傾斜の殆どない平野にある。 この平野は多雨地帯にあって湖沼が数多く分布する。水田耕作地域である。 歴史上の政権は、この地域を支配するには治水をせざるをえなかった。「政治」の語源 この平野に分布する河川は全て淮水の本支流である。「淮水水域」 北緯35°以北の平野は少雨畑作地帯の「黄河水域」である。 北緯32°以北であっても「長江水域」はこの平野には含まれない。 この平野にある河川だけが「水」であった。 であるから、この淮水水域平野の河川の名称を「○水」と呼ばれた。 >>96 >海岸を航行するときは、「海岸水行」と書いてますよ。 >単なる「水行」は、川。 海岸を航行するときは、「循海岸水行」と書いてますよ。 しかし、「水行」には「循岸」の意味も含まれます。 「循岸」無しの水行は不可能。 単なる「水行」は、河川湖沼。 >>114 無知蒙昧の輩が、自分勝手な結論を先に拵えて、屁理屈を展開するから、 そのような支離滅裂で常人に受容されない文章を書くのだ。 >河川は、北緯32°〜北緯35°の傾斜の殆どない平野にある。 河川は、地球上のあらゆる所にある。 >この平野は多雨地帯にあって湖沼が数多く分布する。水田耕作地域である。 >歴史上の政権は、この地域を支配するには治水をせざるをえなかった。 華夏族、中華帝国の、治水における最大の関心は黄河に向けられた。 禹の伝説もそうであるし、史上何度か流路を大きく変えた黄河の話は、今更述べるまでもない。 >「政治」の語源 どこがどう語源になっているのか、全く説明できていない。 >この平野に分布する河川は全て淮水の本支流である。「淮水水域」 >北緯35°以北の平野は少雨畑作地帯の「黄河水域」である。 >北緯32°以北であっても「長江水域」はこの平野には含まれない。 冒頭からそうだが、水系や平野を緯度で恣意的に区分する正当性が全く明らかでない。 >この平野にある河川だけが「水」であった。 >であるから、この淮水水域平野の河川の名称を「○水」と呼ばれた。 「水」の一字のみで文脈に拠らずとも淮水を示すことができるなら、漢籍から用例を挙げて主張すること。 引用する字引が何であるかも示さず、その説明を曲解するような輩には、荷が重いか? 「湘水」「漢水」が例示されている時点で、既に論理が破綻しているではないか。 自分以外で、「河川」をそのように解説している学者を、一人でもいいから挙げてみよ。 誰も居ないなら、そのような支離滅裂な解説が成立する余地は皆無である。 全く以て説明の体を成していない。 屁理屈をひねり出す知恵比べをしているのではない。 食い下がれば、議論が続行するわけでもない。 思い込むのは勝手だが、議論の成立する理解能力を有しているとは、とても思われない。 はっきり言って出る幕ではない。 >>115 「水行」について詳しそうなので、是非御教授ねがいたい。 裴註所引の魏略・西戎傳に以下の文が見える。 澤散王屬大秦、其治在海中央、北至驢分、水行半歳、風疾時一月到、 沢散と驢分の位置、水行の経路について、当然知見に含まれるであろうから、どうか高説を賜りたい。 また、時代の異なる用例だが、>>103 や>>111 について、どういう認識をされているか。 不躾ながら、寸暇の折りに回答をいただければ幸いである。 >>117 >蛟龍が黄河で生息できないというのは、何に書かれているのか。 蛟龍(アリゲーター)は、温暖で水の豊かなところでないと生息出来ない。(生物学の常識) 黄河流域は冬寒冷で水量の変動が激しく蛟龍の生息は不可能。 >(「水行1日」80kmの)具体的な数字は何を出典として算定されたのか。 魏志倭人伝もそのひとつ >漢籍での「水行」の用例で、最も古い時期に当たるのは、 >史記・夏本紀の「陸行乘車、水行乘舟、泥行乘橇。」であり 言語「水行」の成立は、史記よりも古い淮水水域が舞台となった東周春秋戦国時代です。 >制約が無いなら、北史を使うね 「北史」は大部分が散逸したため、10〜12世紀頃「周書」等からコピーして編纂されたものです。 どのような集団が編纂したのかは失念。 散逸した部分の「北史」は、唐初(650年以前)までに編纂された「周書」等からコピペ編纂したものです。 「周書」と「北史」のコピペ部分を比較すればどちらが原本かよくわかります。 >建安から流求への経路、扶南から赤土への経路を教えてください。 >どこの河川を航行して到達したのでしょう? 「北史」のコピー引用した先行史書が5〜6世紀のもの(梁書、周書等)であれば、 シナ大陸長江・東南海岸・南海岸・ベトナム海岸・タイ湾東岸を「循海岸水行百餘日(8000km)」(5500km)です。 マレー半島回ってミャンマーまで行っておれば航路は約8000kmです。 「澤散王屬大秦、其治在海中央、北至驢分、水行半歳、風疾時一月到」は調べてから。 >>118 >蛟龍(アリゲーター) 三国時代までの記述で、蛟龍=アリゲーターであるというのは、何を根拠としているのか。 生物学の常識ではなく、当時の中国人の知見として、何に書かれていたのか。 >>「水行1日」80km 算出した具体例を挙げよ。隋書倭国伝か? 三国志より後代の記事では、参考値にしかならないが、引用されたい。 >魏志倭人伝もそのひとつ 現時点では魏志倭人伝の諸国の推定地は、諸説紛々なので根拠にならない。 >言語「水行」の成立は、史記よりも古い淮水水域が舞台となった東周春秋戦国時代です。 ならば、先秦の「水行」で文脈に拠らず淮水であると判読できる用例を挙げよ。 また、史記・夏本紀の記事が、先秦に遡らないと断言できるのか。 少なくとも、「陸行乘車、水行乘舟、泥行乘橇。」は三国志より先行する。 「水」が淮水なら、「陸」と「泥」がどこなのか答えてもらいたい。 >「北史」は大部分が散逸したため、10〜12世紀頃「周書」等からコピーして編纂されたものです。 どうせ三国志より後代なのだから、時期や出典は拘らなくて宜しい。 余計な講釈は要らないから、海岸伝いでどうやって流求へ到達するのか解説せよ。 >シナ大陸長江・東南海岸・南海岸・ベトナム海岸・タイ湾東岸を「循海岸水行百餘日(8000km)」(5500km)です。 >マレー半島回ってミャンマーまで行っておれば航路は約8000kmです。 中国から扶南までの経路は問うていない。 扶南から赤土へ、なぜわざわざ迂遠にもタイランド湾を周回せねばならないのか。 例えば、鳥羽から伊良子へ行くのに、どうして伊勢湾を巡らねばならないのか。 >「澤散王屬大秦、其治在海中央、北至驢分、水行半歳、風疾時一月到」は調べてから。 「水行」がどうのこうの語っているくせに、すぐ答えられないなら、 直近の裴註すら碌に読んでいない証拠ではないか。 >>蛟龍(アリゲーター) >生物学の常識ではなく、当時の中国人の知見として、何に書かれていたのか。 当時のシナ人が「アリゲーター」のことを「蛟龍」と呼んだのです。現代日本語なら「ワニ」。 当時シナに「カミツキガメ」がいたなら「蛟亀」と呼んだのでしょうね。 >>「水行1日」80km >算出した具体例を挙げよ。隋書倭国伝か? 隋書倭国伝では「1月行」80km(=「海行1月」)がわかります。 隋書百済伝では「海行1月」80kmがわかります。 >海岸伝いでどうやって流求へ到達するのか解説せよ。 書き忘れていた。 流求傳 流求國居海島、當建安郡東水行五日而至。 この「水行」は、渡海の様な例ですね。 航路は台湾海峡を越えて、右手に台湾を見て「水行五日(400km)」で八重山群島(流求國)に着いたと読めます。 このような用例は、魏志倭人伝にも見えます。 水行10日=韓地循海岸水行7日(7000餘里)+渡海3回水行3日(1000餘里×3回) で帯方郡から末盧國です。 >「水」が淮水なら、「陸」と「泥」がどこなのか答えてもらいたい。 「淮水水域」は東西800km南北400km(河南省。安徽省、江蘇省)の 湖沼河川が網の目のようにある低湿地と呼ばれてもよいような勾配が殆どない平野ですよ。 >>「澤散王屬大秦、其治在海中央、北至驢分、水行半歳、風疾時一月到」 今のところ、「大秦」「在海中央」「驢分」の場所が特定できませんので、未だご要望に応えられません。 >>120 9 15 53 62 93 109 120 他スレでもそうだし、結局荒らし風情は、何も議論できないわけか。 言い張るだけで、疑問に答えられないなら、自説が正しくないと認めているようなものだ。 掲示板でのコピー&ペースト連投は違反である。そんな奴の主張は合理的でもなんでもない。 >>121 >当時のシナ人が「アリゲーター」のことを「蛟龍」と呼んだのです。 自分がそう思い込んでいる、それ以上の根拠が無い、ということだな。 つまり議論に値しない、そう認めているわけだ。出典も挙げられないのだからな。 >隋書倭国伝では「1月行」80km(=「海行1月」)がわかります。 >隋書百済伝では「海行1月」80kmがわかります。 地点の推定が正しいと言い切れない以上、そのような算出に、全く価値が無い。 地球上のどこを航行しても、全く同じ条件、同じ速度で進めるわけはない。 参考値にはなるが、そんな安易な尺度を他の史料の全てに適用できるはずもない。 >この「水行」は、渡海の様な例ですね。 「水行」は専ら内水沿岸通行だと言っておきながら、文脈によって渡海と解釈するのか。 投馬國や邪馬臺國も渡海と解する者が居ても、文法として何ら誤りでないと言ってるようなものではないか。 >このような用例は、魏志倭人伝にも見えます。 酷い自己矛盾だのう。狡いと思わないのか。 「水行」で渡海を示しているのは、魏志倭人伝のどこか。文面を引用せよ。 >>「水」が淮水なら、「陸」と「泥」がどこなのか答えてもらいたい。 >「淮水水域」は東西800km南北400km(河南省。安徽省、江蘇省)の >湖沼河川が網の目のようにある低湿地と呼ばれてもよいような勾配が殆どない平野ですよ。 回答になっていない。漢文の読解として、対比を考慮しないのだな? つまり、「水行乘舟」が淮水であるというのは、思い込みでしかないと、そういうわけだな。 >今のところ、「大秦」「在海中央」「驢分」の場所が特定できませんので、未だご要望に応えられません。 そうかそうか。他の部分も全く要望に応えていないから気にするな。 まあ、場所の特定などせずとも宜しい。珍解釈など聞きたくもないしな。 「水行」だけでは川なのか海なのか判別できないということが理解できるなら構わない。 理解できない、川だ、と言い張るなら、少なくともどこの川なのかくらい、特定してもらわないとな。 >>94 >古代の中国語で「水」とは、「淮水」のことです。 >>118 >言語「水行」の成立は、史記よりも古い淮水水域が舞台となった東周春秋戦国時代です。 結局、「水」だけで淮水を示すような用例を挙げることができない。 要するに、そんなものは無いのだ。 めぼしい経書や史書の殆どは、ネット上で一般人も全文検索できるのに、 端的な用例が、忘れたら出て来ないというのは、言い訳として成立しない。 >>97 からして、「史記」や「資治通鑑」からの引用ではないか。 先秦の史料を自分で挙げられないなら、主張が全く成立しない。 「史記」より古い史料を挙げられないのに、なぜ東周春秋戦国時代だと言い切れるのか。 恥を知らぬか。ここは信念や信仰の強さを競う場ではない。 蛟龍=アリゲーターというのは、何か面白い話が聞けるかと思って期待したが、 生物学の常識などというくせに、漢籍の出典も、そのように考察した経緯も、全く出て来ないのには呆れる。 >>103 でも述べたが、漢文というのは対比表現が好きである。 「蛟龍」の「水」が淮水なら、「豺狼」の「陸」というのも、ただ漠然と陸地というのではなく、 どこかの地域を想定しているはずである。具体的にどこなのか。 因みに、「豺狼」というのは、現代の常識的な生物学では、何に該当するのか。 それにしても、コピペ荒らしよりはマシかと思ったが、結局この程度か。 屁理屈は言い続けていれば通るというものではない。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww 縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、 稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。 同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、 小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が 初めて裏付けられる資料」としている。 http://inoues.net/science/wan.html 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww 岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の 考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が 行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。 このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の 下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。 http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>124 幅の狭い理解能力の御方だね。 >「蛟龍」の「水」が淮水なら、「豺狼」の「陸」というのも、ただ漠然と陸地というのではなく、 >どこかの地域を想定しているはずである。具体的にどこなのか。 「豺狼」(ヤマイヌとオオカミ)は、「水域」に対する「陸域」である。 「陸域」は、少雨乾燥地帯の北緯33°以北。 紀元前のシナ文明の中心地は華北平原である。 北緯33°以北の華北平原が陸域、商殷西周代の中心地域、少雨畑作地域 北緯33°以南の華北平原が水域、多雨水稲作地域 BC17C〜BC11Cに北緯33°以北の華北平原の陸域で交易商人が、 旅中に「豺狼」から身を守る為にも使ったのが周髀(8尺棒)。 >>127 >幅の狭い理解能力の御方だね。 いやあ、お恥ずかしい。 受け売りしかできない、都合の悪い質問には答えない、誰かほどではありませんよ。 漢文は対比であると度々言ってきた。 反論が無い以上は、当然に異論は無いのであろう。 >「豺狼」(ヤマイヌとオオカミ) 「豺狼」が、「豺&狼」という並称なら、「蛟龍」も「蛟&龍」という並称になるはずである。 蛟龍=アリゲーターであるという回答は得たが、「蛟」と「龍」とはそれぞれどういう意味か。 また、「ヤマイヌ」と「オオカミ」とが、どのように異なるのか、門外漢には分からない。 現代の常識的な生物学には、学名という識別にはもってこいの方法があるので、 是非、「豺」「狼」「蛟」「龍」それぞれ学名では何というのか、解説して欲しい。 ちなみに、「アリゲーター」と同様に、「ヤマイヌ」と「オオカミ」についても、 出典となる漢籍や、そのような回答に至った過程が全く説明されていないので、 結論ありきの議論するに値しない、個人的な思い込みを披露されたものと考えて宜しいな。 さて、訊ねてもいないことは得々と語るくせに、肝心なことに答えないというのは、 ある種の人々によくあることで、今更気にしないけど、はっきりさせておこう。 「水」は一字で淮水を示すことは無い。 「水」の字は、waterでなければ、riverの意味であることが多く、特定の河川を指すことは無い。 但し、文脈によって分かる場合は除く。これは>>102 の博多の例えのようなことである。 川を指し示すことが多くとも、池沼や海洋を排除するものでもないことは、字書を見てもわかる。 そして、「水行」は水上を行く意味でしかない。 中国は大陸国家であるから、専ら河川内航であろうけど、海上交通を排除しているわけではない。 「水師」「水程」が海にも使われるのと同様である。 反論があるなら、ただ言い張るのではなく、先秦の漢籍を引用すること。 今のところ、「水行乘舟」「水行半歳」、流求や赤土の件で納得できるような回答を得ていない。 思い込むのは自由だが、誰もが納得できる論拠を呈示できないなら、独りよがりの謬説である。 倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。 魏書東夷伝の倭人の条は、この有名な一文から始まる。 冒頭から倭人は海島に居るという大前提を示している。 このことは、後続する倭人についての記述の全てに掛かっている。 海を意味する文字が近接して無くとも、大海の中の山島を「水行」したことは明らかである。 海島である倭地を「水行」する場合、大陸国家の中国本土とは違うのだから、 海岸通行、もしくは渡海と考えて、何も不思議なことはない。 河川通行を完全に排除するわけではないが、海でないと断言することもできない。 また、倭が海の向こうの国なのであれば、海上を通行した推定するのが自然と考えて、何もおかしくない。 >>127 少しは期待したのだが、結局根拠も無い思い込みを繰り返して述べることしかできないか。 全く以て残念だ。 不毛な応酬をしても得るところがないので、根拠が示されない妄言には、今後コメントしない。 帯方郡 ↓水行七千里 狗邪韓国 ↓海渡千里 津島国 ↓海渡千里 一支国 ↓海渡千里 末盧国 ↓陸行五百里 伊都国 ↓(東南)百里 奴国 ↓(東)百里 不弥国 ↓(南)水行20日 投馬国 ↓(南)水行10日・陸行1月 邪馬台国 女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり 畿内説は、邪馬台国から東に海を渡った倭人の住む国を明らかにせよ! なんだよ、もう出て来ないのか。 >>127 で「幅の狭い理解能力」なんて捨て台詞をはいたは良いが、 自分の論理構成の方が未熟だったと、漸く気付いたか? それならそれでめでたいが、ほとぼりが冷めるまで隠れているだけなら、未来は無いな。 >>131 そういうのは他の邪馬台国スレでやればいいのでは? これを真南に一直線に線を引いて、 「これでは海のどまんなかに出てしまいます」と 大真面目にやる学者共って本物のバカだよな >>133 具体的に誰のこと? 「共」ってくらいだから三名くらい挙げられるよね? >>128-159 もし、理解しようとする気があるなら、理解の手助けをしよう。 「豺狼」 「豺」:野生のイヌ 山イヌ、家畜のイヌ(狗)ではない。 イヌ科オオカミ型ドール属(古代中国にいた動物「豺狼」「豺蜀」) イヌ科オオカミ型イヌ属(古代中国にいたジャッカル、コヨーテの様な動物) 「狼」:イヌ科オオカミ型イヌ属(大陸オオカミ、ジャッカル、コヨーテ) 「狗」:イヌ科オオカミ型イヌ亜属(家畜のイヌ) よって、「豺狼」は、野生イヌの様なオオカミ又はオオカミの様な野生イヌと解することができる。 「蛟龍」:アリゲーター、シナ大陸に生息するワニ 「蛟」:咬みつく爬虫類 「龍」:想像上の大型爬虫類 よって、「蛟龍」はシナ大陸に生息するワニのアリゲーター >>129 には、ほぼ同意であるが、何に反論しているのか理解できない。 しかし、「水」は単なる河川ではなく、「淮水水域」を指す言葉である。 黄河が華北平原を南東に横断して淮水に合流していた一時期には、 北緯35°以南の華北平原の黄河流域も「淮水水域」に含まれる。 未だお望みなら、 「水行乘舟」「水行半歳」「流求や赤土の件」「華北平原の北緯33°線の補足説明」については、そのうち説明する。 >> >>129 3世紀に貿易風を利用した大洋横断航海知識があったとの仮定があれば、 「水行半歳」は説明できます。 「水行半歳」=「水行183日」=183000里=14000km まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww 縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、 稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。 同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、 小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が 初めて裏付けられる資料」としている。 http://inoues.net/science/wan.html 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww 岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の 考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が 行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。 このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の 下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。 http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>136-137 根拠が全く示されていないので、個人の勝手な臆測と解釈していいのだな。 何の価値も無い駄文を、一生懸命考えてきたわけだ。 御苦労様。 >>140 自明の理を説明してもらっているのがわからないようだな。 君の言は、1+1=2の根拠を示せといっているのと同じだ。 お互いの論理が噛み合う事はないね。 君の「論理」は、私の「非論理」。「無論理」かな? >>140 自明の理なら、他に多数の人がそういうことを書いているはずだ。 また、自明の理なら相当数の学者がそれを語っているはずだ。 幾つか例示して見せよ。 例のブログくらいしか挙げられないようではダメだ。 それと、自明の理なら、なぜこんな掲示板でしつこく主張するのだ? おまえは「1+1=2」であると、声高に主張して楽しいのか? 幼稚園児か? 私は「論理」、おまえは「非論理」。 良く分かってるじゃないか。 ちなみに「1+1=2」も説明しようとすれば出来る。 検索するといくらも出てくる。 自明の理を、誰に頼まれたわけでもないのに、わざわざ何度も掲示板に投稿するくらい、 「1+1=2」というのを広めたいなら、 「1+1=2」を自分の言葉で説明してみたらどうだね? そうすれば、私のように、自明の理を理解しない愚か者でも、 「1+1=2」を理解しようとするかもしれない。 まあ、できないのだろうけど。 漢籍を読むのに自明の理が使えたとは、掲示板を読んでいると勉強になるわ。 これからは、根拠の無い思いつきは、自明の理だと強弁することにしようか。 相手にされなくなるだけだから、やめとくわw >>144 >漢籍を読むのに自明の理が使えたとは、掲示板を読んでいると勉強になるわ。 私は漢籍を読むのが目的ではない。 私の目的は、古代シナの歴史を探求することだ。 漢籍を読むことは探求の一法に過ぎない。 私は、生物地形地勢気象地球物理天文等の自然科学的技法も動員して、 古代シナの歴史を探求しているのだ。 生物地形地勢気象地球物理天文等自然科学を学んだ者以外では理解し難い自明の理がある。 >>142 >例のブログくらいしか挙げられないようではダメだ。 「例のブログ」とは何だ。私は知らない。 「周髀算經」には、商殷人の見た紀元前12世紀末(BC1125〜BC1113)の 天体(北極中大星)が書かれている。 君たちには文献史学だけをする者には想像もつかないだろう。 >>145 なるほど。 国語を学んでいない輩の文章とは、こんなものか。 博学多識でも国語が怪しくては無理もない。辞書を引いたことはあるか? 「自明の理」というのは、何人でも理解する説明不要の道理を指す。 碩学にしか理解しえないのは「自明の理」とは言わないの。 何をどう学んだか知らないが、程度によるぞ? 高校レベルなら、こんな所で他人に自慢するほどのこともない。 老子に「大賢は愚なるが如し」という言葉がある。 自分から学識を誇るような奴に碌なのは居ない。 まして、こんな掲示板で、説明に窮して気勢を上げる能しかないのでは、なおさらだ。 始めの内は、求められるように用例を出していたくせに、 「自明の理」だの「自然科学を学んだ」だの、言い訳しかできないのを見苦しいとも思わないようだ。 客観的に自分がどう見られているか、少し考えてみたまえ。 人一倍学んでいようと、根拠を説明できないのなら、おっさんの単なる妄想としか受容されない。 論理学の基礎も知らないようでは話にならんな。 余人に説明できないのは、余人より優秀だからではなく、余人より愚劣だからだ。 古代支那の歴史を究明する前に、自分の身の程を知った方が、今後の人生のためにもなろうぞ。 >>146 おやおや。 たかだか150に満たないこのスレを、一読すれば分かることも知らないのか。 そんな疎漏な奴に古代支那の歴史が究明できるのかね。 滑稽だし、心配だよ、もっとがんばりたまえ。 >>147 巻三十の裴註すら碌に読んでいなくて、未だに回答できないくせに、 随分と機嫌が宜しいことで。 根拠が何も無くても、説明するだけの能力が無くても、 このように勿体付けて披露すると自己満足に浸れるのか。 自分もやってもようかな、誰にも相手にされなくなるからやめておこう。 歴史の真実を探究して、好き放題に書き散らすのは、さぞや楽しい日々であろうな。 これからもがんばってね。 ご要望があったので遅ればせながら「水行半歲」について解説いたします。 「澤散王屬大秦 其治在海中央 北至驢分,水行半歲,風疾時一月到」 「澤散」:エジプト、 「大秦」:ローマ帝国 「澤散王」:ローマ人のエジプト執政官 「海」:地中海 「驢分」:中北イタリアの国、コルシカ島の対岸付近、ピオンビーノ? 「半歲」:半年の期間、6ヶ月、183日間 「水行半歲」=「水行183日」=「水行183000里」=14000km 「風疾時一月到」:疾風に乗れば1ヶ月で着く シナから澤散(エジプト)までの航路 東シナ海―台湾海峡―南シナ海縦断―シンガポール―マラッカ海峡 ―スマトラ島北端―インド洋横断―スリランカ―インド洋横断 ―アデン湾―紅海―スエズ湾 >>150 なんで「水行」なのに海だけ通行してるの? なんで河川池沼じゃないの? >>151 「水行」には、淡水域だけでなく海水域でも「水行」とする用例があります。 >>152 投馬国や邪馬台国は大海の中の山島だよね? 違うの? まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww 縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、 稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。 同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、 小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が 初めて裏付けられる資料」としている。 http://inoues.net/science/wan.html 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww 岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の 考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が 行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。 このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の 下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。 http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>153 >投馬国や邪馬台国は大海の中の山島だよね? >違うの? だから、投馬國へは帯方郡から「水行20日」、 邪馬壹國へは帯方郡から「水行10日」となっている。 >>156 あなたは 94 97 100 104 114 118 121 127 136-137 141 145-147 150 152 の誰かなのかな? 「水行二十日」「水行十日」以外にも、旅程の記事は終点のみを記しているのが殆ど。 直前に記載された地点からでなく、帯方郡からだというのは、どうやって判断するの? 真水も水、海水も水、水であることに変わりはない 水行とは、陸路行に対する水行のこと >>157 >>http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1433068961/403 その他例文W @南水行二十日至投馬國 A南至投馬國水行二十日 @では、水行二十日は「南」を修飾します。 直前の不彌國と投馬國の距離が水行二十日となります。 Aでは、水行二十日は投馬國を修飾します。 距離の起点である帯方郡と投馬國の距離が水行二十日となります。 その他例文X @南水行十日陸行一月至邪馬壹國女王之所都 A南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月 @では、水行十日陸行一月は邪馬壹國を修飾します。 直前の不彌國と邪馬壹國の距離が水行十日陸行一月となります。 Aでは、水行十日陸行一月は邪馬壹國を修飾します。 距離の起点である帯方郡と邪馬壹國の距離が水行十日陸行一月となります。 「南至」と「南行至」の違いについて注意。 「東南至奴國百里」と「東行至不彌國百里」と同様。 上記「奴國」と「不彌國」への距離の起点は伊都國であることに注意。 >>159 >南水行二十日至投馬國 南へ水行すること二十日にして投馬國に至る。 >南至投馬國水行二十日 南の投馬國に至るには水行すること二十日なり。 >南水行十日陸行一月至邪馬壹國女王之所都 南へ水行すること十日、陸行すること一月にして、邪馬臺國に至る。女王の都とする所なり。 >南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月 南の邪馬臺國、女王の都とする所へ至るには、水行すること十日、陸行すること一月なり。 >東南至奴國百里 東南の奴國に至るには百里なり。 >東行至不彌國百里 東へ行きて不彌國に至るには百里なり。 はて? 何が言いたいのかさっぱり分かりないね。 文中の修飾関係だけで、起点が変わるの? 起点が変わる時は「自郡」というふうに明示されると解すのが自然だろうね。 前二者は伊都国で、後二者が帯方郡というのも、御都合主義だし。 全四者が何れも伊都国か帯方郡というのなら、まだ付き合ってもいいけど。 >やっと理解できる方々が現れました。 要するに、常人には理解できないということかな。 >南水行十日陸行一月至邪馬壹國女王之所都 南へ水行すること十日、陸行すること一月にして、邪馬臺國なる女王の都とする所に至る。 >南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月 南の邪馬臺國なる女王の都とする所へ至るには、水行すること十日、陸行すること一月なり。 この方がいいかな、大して違わないけど。 >>161 >文中の修飾関係だけで、起点が変わるの? >起点が変わる時は「自郡」というふうに明示されると解すのが自然だろうね。 「從郡至倭」であって「自郡至倭」ではない。 「自郡至倭」ならコロコロ起点は変わらない。 「從」は「帯方郡」が経過点であること示す語である。 「從郡」:郡を通って、郡の先、郡の向こう 距離の起点になることが出来る語句 從:「從郡」 到:「到其北岸狗邪韓國」、「到伊都國」 >>161 へ追加説明 @「始度一海千餘里、至對海國」 A「始度一海、至對海國千餘里」 @一海の大きさが千餘里、其北岸狗邪韓國と對海國の間の海峡(一海)の幅が千餘里。 A其北岸狗邪韓國から對海國中心地までの距離が千餘里。 「從郡至倭」で「到其北岸狗邪韓國」であることは、 其北岸狗邪韓國が韓地における倭人の中心地であることを意味する。 「歴韓國」の韓國も、韓地における倭人の小さな国である。 なぜなら、倭人条に書かれた国々は倭人の住む国々であるから。 「狗邪韓國」は韓条にも「弁辰狗邪國」とあるから、倭人と弁人が混住していたと考えられる。 http://img.hani.co.kr/imgdb/resize/2012/0607/00432833701_20120607.JPG ▲昨年7月、中国西岸骨董市場で発見され現地学術誌に公開された百済人「祢軍」の墓誌銘拓本。 今日の日本の国号が本来、百済の土地を称する言葉であり、国号成立に百済人らが関与したと いう学説が提起された。 7世紀の百済滅亡期、義慈王と唐に投降して官吏になった後、日本に使節として派遣された「祢軍 (禰軍)」(613〜678)という人物の墓誌銘の文章に彫られた「日本」の文字が現在の日本の国号で はなく百済の他の表現という根拠が見つかったという。この様な主張をしたのは日本古代史学界 権威である東野治之(とうの はるゆき)大阪市立大教授だ。 墓誌銘の「日本」は祢軍が日本に使節に行った背景を書いた部分に登場する。「660年官軍(唐 軍)が私たちの蕃国(百済)を平定した日…日本の残党が扶桑に立てこもって殺戮を免れ、風谷に 残った輩は盤桃を信じて堅く抵抗した…」という内容だ。 文中の「日本」を既存学界は公式国号と見たが、東野教授は「技巧を凝縮させた墓誌銘の文章と 見れば決して国号とは見られない」と否定した。墓誌銘に記録された当時、百済など中国の周辺 国は国号を使わず、扶桑・風谷・盤桃など自然環境的特徴に基づいた隠喩的名称を使ったが、唯 一、日本だけ公式国号を使ったはずがないという論旨だ。 墓誌銘の「日本」は中国から見る時「日が昇る所」という意味ですなわち百済を示すということだ。 彼は「墓誌銘で実際、倭国(日本)は‘ヘジュァ(海左:海東側)’、‘ヨンドン(瀛東:中国東側)と表記さ れたと推定される」として「当時、国号が存在したとすれば書いた人は日本という表記を使わなか っただろう」と主張した。 ハンギョレ新聞(韓国語) 「日本は本来百済の土、称する言葉だった」 http://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/536435.html 水行10日 出雲⇒敦賀⇒琵琶湖⇒淀川⇒木津川⇒奈良湖 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww 縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、 稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。 同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、 小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が 初めて裏付けられる資料」としている。 http://inoues.net/science/wan.html 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww 岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の 考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が 行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。 このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の 下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。 http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>159 目的語(終点)と修飾語(旅程)の位置が交替しても、主題(起点)は変動しない。 和文で言えば、「下り列車は東京駅に三〇分で着く」が「下り列車は三〇分で東京駅に着く」になっても、 起点は変わらないし、変えられない。明示されなくては分からないし、分かりようがない。 「東南至奴國百里」と「南至投馬國水行二十日」とでは、 里程か日程かだけで構文は変わらず、後続する文が官名と戸数を記す点も同じなのに、 どうして起点が伊都国だったり帯方郡だったり、変わってしまうの? >>163 >「從郡至倭」であって「自郡至倭」ではない。 >「自郡至倭」ならコロコロ起点は変わらない。 >「從」は「帯方郡」が経過点であること示す語である。 申し訳ないけど、意味がさっぱり分かりない。 倭人条の冒頭には「從郡至倭」とあるけど、途中には「自郡至女王國」とある。 「自」と「從」は、音価は異なるけど、声母は破裂音で、韻母は前舌狭母音で始まるという共通点からは、 類音同義の単なる助字と解されるので、殊更厳密に意味を使い分けてるとは思えない。 「從」が起点でなく経過点なら、訓読は「郡より」でなく「郡をへて」となり、起点を別に設定しなくてはならない。 「郡を通って」なら、起点は郡から見て倭の反対方向になるし、 「郡の先」「郡の向こう」だと、起点は郡より倭に近い所になるよ? >>164 >始度一海千餘里至對海國 始めて一つ海を度ること千餘里にして對海國に至る。 >始度一海至對海國千餘里 始めて一つ海を度りて對海國に至ること千餘里なり。 意味は変わらない。 >其北岸狗邪韓國が韓地における倭人の中心地であることを意味する。 航路の起終点というだけで中心地なら、倭地の中心は末盧國かね。 以下、裴註所引の魏略・西戎傳から引用する。 魏略を著した魚豢は、陳寿より少し前の世代に当たるが、同時代人とみなして異論はなかろうし、 用字、語法、構文においても、同時代の史家として陳寿と比較して問題はないどころか、好適ですらあろう。 從敦煌玉門關入西域、前有二道、今有三道。 從玉門關西出、經婼羌轉西、越蔥領、經縣度、入大月氏、爲南道。 從玉門關西出、發都護井、回三隴沙北頭、經居盧倉、從沙西井轉西北、過龍堆、到故樓蘭、轉西詣龜茲、至蔥領、爲中道。 從玉門關西北出、經坑、辟三隴沙及龍堆、出五船北、到車師界戊己校尉所治高昌、轉西與中道合龜茲、爲新道。 玉門関から西方へ延びる三つの道について、それぞれの経由地やら終点やらを述べている。 各文末に終点と道路名称を記しているのだから、156の主張が正しいなら「從玉門關西出」の三出はあまりにも冗長であろう。 つまり、旅程の記事では、直前の地点から任意の地点へ起点が変わる場合、明示されるというのが原則であるという好例である。 澤散王屬大秦、其治在海中央、北至驢分、水行半歲、風疾時一月到、 同一の文に「至」と「到」を見ることができる。意味に違いがあるのなら、解説をおねがいしたい。 驢分王屬大秦、其治去大秦都二千里。從驢分城西之大秦渡海、飛橋長二百三十里、渡海道西南行、繞海直西行。 「二千里」というのは、後述される「二百三十里」以下の行程の総距離である。 倭人条で、「南至邪馬臺國、女王之所都、水行十日、陸行一月。」が帯方郡からの行程であるなら、 「自郡至女王國萬二千餘里。」を行程記事の末尾に、わざわざ「自郡至女王國」を改めて書き加えて置く理由が分からない。 近接して「南至邪馬臺國、女王之所都、水行十日、陸行一月、凡萬二千餘里也。」とでも書けば良かったではないか。 「南至邪馬臺國」と「自郡至女王國」は離れて記されており、わざわざ「自郡至女王國」と断っているのだから、 「水行十日、陸行一月」と「萬二千餘里」とがイコールではないことが知れよう。 此上三國、堅昆中央、 俱去匈奴單于庭安習水七千里、南去車師六國五千里、西南去康居界三千里、西去康居王治八千里。 ある地点から複数の地点の距離を示すには、「去」を使った構文がある。 行程記事の途中で、伊都国や帯方郡からの分岐記事を示すのであれば、「去」構文にしたと考えるのが自然である。 より分かり易い「去」構文があるのに、「自」「従」「至」「到」に微言大義を与えて解釈するのは、邪道ではないか。 「去」構文にしたのでは、主人公は遠国の「女王・女王国」になってしまう わざわざ「自郡至女王國」にしたのは、あくまで主人公は郡で、女王は臣下あるぞえ、と言わんがため このあたりが稀代の執筆者の筆の冴え >>173 「去」にすると目的語が与格から奪格になるだけだぞ? なんで主人公になるの? >>175 夫餘在長城之北、去玄菟千里、 北沃沮一名置溝婁、去南沃沮八百餘里、 又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。 何れも東夷傳からだが、なぜこれらは「去」を使って、天子から去ったという表現にしたのか、 筆の冴えとやらの解説をおねがいしたい。 >夫餘在長城之北、去玄菟千里 長城の北だから取るに足りない異民族扱いでよかろう >人長三四尺、去女王四千餘里 小人の国で、政治軍事的脅威を考慮するに及ばず、さして役に立たない奴らだ 要するに差別用語だな >>177 「去」構文では後置される語が主語になるという高説にはとても感心したので、 後学のために手数ながら、>>176 の三文に訓点をつけてもらいたい。 自分の訓読も示しておくので、添削してもらいたい。 夫餘は長城の北に在り、玄菟(郡)を去ること千里なり、 北沃沮は一名を置溝婁とす、南沃沮を去ること八百餘里なり、 また侏儒國有りて其の南に在り、人の長は三、四尺なり、女王(國)を去ること四千餘里なり。 何れも「を去ること」としたが、「を」は「より」「から」に置換できる。 あくまでも目的語であって、西欧の文法に則して言えば奪格に相当する。 動詞(術語)に後置される語が主語のように解される例は、 「有」「無」「多」「少」を含む文くらいのものであろう。 ついでに「自郡去女王國」という場合の訓読も、どのようにすればいいか、お尋ねしたい。 主語となる以上は、「は」「が」といった格助詞を付けるか、格助詞を付けないものになると思うが、いかがか。 倭人伝の執筆者(監修者)はいたるところで階層区分(区別・差別)の表現を取っている すなわち基本的には文法の問題でなく、 主従隷のような上中下の身分関係をどのようにして表わすかに腐心しているように思える そのような目で見ると、たとえば倭人伝30カ国も、 数グループに分け、巧妙に階層区分(差別)を行っていると読める >>180 >倭人伝の執筆者(監修者)はいたるところで階層区分(区別・差別)の表現を取っている 要するに、倭人条にしか関心が無い、ということを言いたいのかな。 >すなわち基本的には文法の問題でなく、 要するに、文法の話はできない、ということを言いたいのかな。 >主従隷のような上中下の身分関係をどのようにして表わすかに腐心しているように思える 根拠も示さず、ただ思うなら、誰にでもできる。 >そのような目で見ると、 個人的な主観で見ても意味が無い。 >たとえば倭人伝30カ国も、数グループに分け、巧妙に階層区分(差別)を行っていると読める ではその巧妙な階層区分の成果を披露されたい。 腐心して表現した巧妙な階層区分というのが、用字、語法、構文を用いず、どうやって他人に伝えられるのか、 実に興味深い。 >>169 こまけー事は、いいんだよ 実際、海から川を上り、湖に川を下れば、陸行は5〜10km程度だろ >>182 そんな面倒な行程ふむなら日数かかっても関門回って瀬戸内を行くわ。 そしてその細かいことを無視した行程が水行十日なら、 陸行一月でどこまで行っちゃうんだか、出雲に戻れそう。 >>170 >「從」が起点でなく経過点なら、訓読は「郡より」でなく「郡をへて」となり、起点を別に設定しなくてはならない。 >「郡を通って」なら、起点は郡から見て倭の反対方向になるし、 正解です。 「從(从)」は現代語でいうところの前置詞の働きをしています。 (通過地点・経過コースを示し)…から,…を通って,…越しに だから、視野点の起点は天子洛陽となり、距離の起点は「郡」となります。 距離の第一起点は、「從郡」となり、 距離の第二起点は、「到其北岸狗邪韓國」となり、 距離の第三起点は、「到伊都國」となります。 >澤散王屬大秦、其治在海中央、北至驢分、水行半歲、風疾時一月到、 >同一の文に「至」と「到」を見ることができる。意味に違いがあるのなら、解説をおねがいしたい。 上記回答は得られたことと思う。 「至」の距離の起点は「大秦」 「到」の距離の起点は「魏」 >>183 後の時代でも九州から関西へは対馬海流にただ乗りできる日本海ルートだよ 無論、 もし陸行すれば一月という事で、態々実践するほどシナ人も暇じゃないだろう >>始度一海千餘里至對海國 > 始めて一つ海を度ること千餘里にして對海國に至る。 >>始度一海至對海國千餘里 > 始めて一つ海を度りて對海國に至ること千餘里なり。 > 意味は変わらない。 誤訳された日本語で考えたらだめよ。 >航路の起終点というだけで中心地なら、倭地の中心は末盧國かね。 「到末盧國」なら倭地のひとつの中心地と言えるが、 「至末盧國」では倭地のひとつの経由地に過ぎない。 >玉門関から西方へ延びる三つの道について、それぞれの経由地やら終点やらを述べている。 >各文末に終点と道路名称を記しているのだから、156の主張が正しいなら「從玉門關西出」の三出はあまりにも冗長であろう。 玉門が終点が異なる3方面に分かれる分岐点だから、 方面別に「從」が必要。各「從」がなければ「玉門」から「龜茲」までの行ったり来たりの一本道になる。 >>184 反駁しない点については、全て是認された、とみなすほかないので、よろしく。 >視野点の起点は天子洛陽となり、 不必要な説明の典型例だね。 Wikipediaのオッカムの剃刀の解説にある「神が」と同じ。 「視野点」という不思議な単語にはきちんと定義を与えて欲しい所だが、まあ要りまへん。 野暮なことを言えば、天子は皇帝であって、洛陽は首都だし。 起点と終点はセットなので、洛陽から帯方への行程記事が無いから、洛陽は起点にならない。 正史が記述の視点を首都に置いたとするのは、暗黙の了解であろうが、行程記事で一々意識する必要性は無い。 主語と目的語で、君臣の義を説くというのも、主張の根拠が全く示されない。 臣下が主語となっている文など幾らでもあるのに、行程記事いおいてはそれが認められないというのも、全く恣意的でしかない。 倭人条だけを恣意的に解釈するための独自理論は要らない。 「自」と「從」とに主張するような使い分けがあったというなら、他から類例を紹介されたい。 で、「到」で示す地点が任意の起点になりうるという根拠が、さっぱり示されていない。 奴国から邪馬台国までの記事が、「到」で示された伊都国を起点としたものだというなら、 「到」で示された狗邪韓國からの分岐記事は、なぜ無いのか。整合性がまるでない。 >>澤散王屬大秦、其治在海中央、北至驢分、水行半歲、風疾時一月到、 >>同一の文に「至」と「到」を見ることができる。意味に違いがあるのなら、解説をおねがいしたい。 >「至」の距離の起点は「大秦」 >「到」の距離の起点は「魏」 まるで頓珍漢だね。 澤散王は大秦に屬す、其の治(所)は海の中央に在り、北の驢分に至るには、水行すること半歳なり、風の疾き時は一月にして到る、 この文が述べているのは、澤散王の治所と驢分国との距離だよ? 後続する「驢分王屬大秦、其治去大秦都二千里、」以下の文を読んでないね? 驢分の時には「其治」で驢分の治所を述べるのに、澤散の時にはどうして大秦の治所になるの? 「北至驢分」が大秦からだとするなら、「從驢分城西之大秦渡海」と矛盾するよ? 北の反対は西なの? 更に後続して「且蘭王屬大秦」「賢督王屬大秦」と出てくる。 別枝の小國が大秦に屬していると書かれているだけなのに、また術語の「屬」に後置される語が主語になるの? 漢文はSVO型。現代中文はSOV型にもなる。けど、主語が述語の後に来るということは、殆ど無いよ? 澤散はローマの属国だけど、条件が良ければ魏から一月で到達するの? 現代のヨットもびっくりの凄い高速航海技術だね。 >上記回答は得られたことと思う。 説明が漢頓珍すぎて、回答の体を成していない。 >>186 >誤訳された日本語で考えたらだめよ。 では、正しい訓読を示してもらいたい。 それほど漢文の知識があるなら、訓読くらい朝飯前だろう。 それから、目的語と修飾語の位置関係によって、主語や主題が変更される、 というような漢文法の解説は、他に誰が主張しているのか、それを知るのに適した教本なり論文なりはあるのか。 >「到末盧國」なら倭地のひとつの中心地と言えるが、 >「至末盧國」では倭地のひとつの経由地に過ぎない。 相変わらず、根拠がまるで示されていないではないか。言い張るだけなのか。 また野暮なことを言えば、中心地が幾つもあるのには違和感を覚える。要地であるなら了承するが。 「到」と「至」を端的に使い分けている用例を、三国志でなくともいいから呈示されたい。 >方面別に「從」が必要。各「從」がなければ「玉門」から「龜茲」までの行ったり来たりの一本道になる。 倭人条で伊都やら帯方やらから分岐しているなら、「從」なり「自」なりを付してあるはずである。 申し訳ないが、反論になっていない。 信念を貫くのは勝手だが、無理に出て来なくてもいいよ? 西域伝では行程が玉門で3方向に分岐している。 倭人条では、洛陽から不彌國まで一本道の行程。 奴國は伊都國との位置関係の表示で行程外。 投馬國と邪馬壹國も不彌國との位置関係の表示で行程外。 行程を示す文の構成は、「方向」+「動詞」+「至」+「目的地名」 位置関係を示す文の構成は、「方向」+「至」+「目的地名」 石頭の御方理解できるかな? >>190 反駁しない点については、全て是認された、とみなすほかないので、よろしく。 でも、魏から一ヶ月で驢分に行くにはどうしたのか、とても気になる。 >倭人条では、洛陽から不彌國まで一本道の行程。 どこにも洛陽は出て来ない。残念だね。 >奴國は伊都國との位置関係の表示で行程外。 >投馬國と邪馬壹國も不彌國との位置関係の表示で行程外。 不彌國が起点となっているのに、なぜ「東行到不彌國」ではないのか。 「至」と「到」の使い分けは、もう諦めたのか。 >行程を示す文の構成は、「方向」+「動詞」+「至」+「目的地名」 >位置関係を示す文の構成は、「方向」+「至」+「目的地名」 「行(渡)+目的語+至+修飾語」「至+目的語+行(渡)+修飾語」 確かに漢文の性質として、語順が変われば意味も変わる時があるが、大差の無いこともある。 主張は宜しいがそれならば、他の類例を挙げて説明して欲しいと、先にも願ったはずだ。 漢文読解の通例としてそのように理解するしかないなら、なぜ他書の用例が出て来ないのか。 奴国については「行」の字が無いが、「至」の一字でも到着の意味はあるし、 私や汝より漢文に精通していたであろう梁書の解釈からも、位置関係であるとは解せない。 脳軟化症から見れば常人は石頭なのかもしれない。 >>191 失礼した。 ×「行(渡)+目的語+至+修飾語」「至+目的語+行(渡)+修飾語」 ○「行(渡)+至+目的語+修飾語」「至+目的語+行(渡)+修飾語」 「自郡至女王國」「從郡至倭」 帯方郡から女王國(不彌國)まで12000里 不彌國は女王國に属す。 「從郡至倭」 帯方郡から邪馬壹國まで水行10日陸行1月 帯方郡から末盧國まで水行10日(11400里) 末盧國から邪馬壹國まで陸行1月(1000里) 末盧國から不彌國まで陸行600里 故に不彌國から邪馬壹國までは400里 この邪馬壹國は官伊支馬の城柵であって、「女王之所都(卑弥呼の城柵)」ではない。 石頭君は理解したくない? >>193 反論への再反論には全くなってないけど、いいのかな? 用字、文法の主張は全部放棄ということで、いいのかな? あと一番気になる、魏から一ヶ月で驢分に行った経路を教えて欲しいんだが。 反駁しない点については、全て是認したのではなく、返答にうんざりしているだけ。 >魏から一ヶ月で驢分に行くにはどうしたのか、とても気になる。 回答済み。モンスーン・台風・サイクロンに乗った帆走。 >モンスーン・台風・サイクロンに乗った帆走。 時速18km/h 「水行半歳」なら、時速3.1km/h キチガイしかいないスレで反論するだけアホ 見守ってきたが、そろそろ潮時だな。あばよ >>195 返答に窮した言い訳としては下手な部類だね。 自説に自信があるなら時間をかけてもいいから、ちゃんと潰しておいた方がいいんじゃない? 日中から2ちゃんねるに来てるけど、そんな暇は無いのかな? こちらは別に期限を設けてるわけでもないから、よろしく。 >>魏から一ヶ月で驢分に行くにはどうしたのか、とても気になる。 >回答済み。 いや、今初めて回答をもらったんだけど? >モンスーン・台風・サイクロンに乗った帆走。 すげーwww よく難破しないで辿り着いたねw 現代でも嵐の時にわざわざ航海に出る船は居ないのにw >>196 「水行半歳」は大秦からじゃないの? >>197 じゃあね、キチガイ。 >>198 >>>魏から一ヶ月で驢分に行くにはどうしたのか、とても気になる。 >>回答済み。 >いや、今初めて回答をもらったんだけど? ごめん、大きな勘違いをしてた。 あなたは>>150 だったのね。 >>156 の時点で違う人になってたと思ってたのよ。 失礼しました、そして、なんというか、お気の毒さま。 日本人の起源 〜遺伝学電子博物館 http://www.nig.ac.jp/museum/evolution/02_e.html 特に、韓国人と本土日本人の二集団間の遺伝距離はゼロであった。やはりこの分析で も、韓国人と本土日本人は遺伝的にきわめて近縁な関係にあることが明らかとなった のである。 http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_26_02.gif つぎに、集団間で求めた遺伝距離をもとに集団の系統樹を作成した(図26)。この系 統樹では、アフリカ人が他の人類集団に先がけて分岐し、続いてヨーロッパ人が分か れ、さらにアメリカ先住民が分岐している。最後に、東アジアの五集団が単一系統 のクラスターを形成して枝分かれしてくる。東アジア人のクラスターでは、アイヌ が最初に分岐し、続いて中国人が枝分かれしてきたことが読み取れる。続いて琉球人 が枝分かれし、最後に韓国人と日本人が緊密なグループとして分岐してくる。 http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2014/05/21/dna.jpg 本土の日本人は縄文人と無関係だった http://www.kahaku.go.jp/research/department/anthropology/report02/s-IshidaFig1.jpg まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww 縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、 稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。 同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、 小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が 初めて裏付けられる資料」としている。 http://inoues.net/science/wan.html 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww 岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の 考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が 行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。 このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の 下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。 http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>191 >奴国については「行」の字が無いが、「至」の一字でも到着の意味はあるし、 「至」が到着の意味をもつのは、「動詞+至」の時。 「行至」「渡至」「度至」等 「至」の一字では、到着の意味はない。 「至」の一字では、「〜迄」の意味 >私や汝より漢文に精通していたであろう梁書の解釈からも、位置関係であるとは解せない。 梁書倭伝は魏志倭人伝を誤読している。 魏志倭人伝:「東南 至 奴國 百里」 「至」は起点(伊都國)と終点(奴國)の位置関係の表示。 梁書倭伝:「又 東南行 百里 至奴國」 「至」は終点(奴國)に到着の意味。 >>204 >「至」の一字では、到着の意味はない。 >「至」の一字では、「〜迄」の意味 それは目から鱗だ。以下の解説たのむ。 魏書・武帝紀 太祖至陳留、散家財、合義兵、將以誅卓。 冬十月、太祖至東阿。 太祖遂至洛陽、衞京都、暹遁走。 紹於是渡河追公軍、至延津南。 公自江陵征備、至巴丘、遣張憙救合肥。 >>私や汝より漢文に精通していたであろう梁書の解釈からも、位置関係であるとは解せない。 >梁書倭伝は魏志倭人伝を誤読している。 私はともかく、汝に、梁書や陳書と同等か、それを凌駕する書物を著す力量があるのかね。 とりあえず、漢詩の一つも作ってみれくれれれば納得しよう。 そのくらいのこともできないなら、安易に誤読しているなどと決め付けないことだ。 それから、姚思廉の見たテキストと、我々の見ているテキストが、同一であった可能性は相当低い。 我々より良質のテキストを見ていたなら、姚の解釈の方が妥当であると考えていいだろう。 さて、何よりも気になるのは、魏代のすんばらしい航海技術だよ。 暴風雨の中を進むと、魏からオリエント?に到達するらしいが、 現代でも暴風雨の中をわざわざ航海する愚かな船舶は存在しないのだが、 当時の船が、風向きも一定しない暴風雨の中を、本当に急行できたのかね? それと、「水行半歳」は、大秦からなのか魏からなのか、はっきりしてもらいたい。 >>205 「太祖至陳留、散家財、合義兵、將以誅卓。」 「冬十月、太祖至東阿。」 「太祖遂至洛陽、衞京都、暹遁走。」 「公自江陵征備、至巴丘、遣張憙救合肥。」 上記は、状況や位置を示す単独使用の「至」である。 達して在る、及んで在る、行き着いて在る。距離を伴うと(Aから)B迄に在る。 「紹於是渡河追公軍、至延津南。」 上記は、「動詞+至」の例 「渡&追+至」 至る、きたる、到着 >我々より良質のテキストを見ていたなら、姚の解釈の方が妥当であると考えていいだろう。 君の言動は、畿内説が南を東に換えたり、 一部の九州説が伊都國は末盧國の東南を東北に換えたりしているのと同じだ。 >「水行半歳」は、大秦からなのか魏からなのか、はっきりしてもらいたい。 驢分(エジプト)から魏への「水行半歳」です。 なぜなら、風疾風時に水行一月は、順風の西から東のコースの時に可能性がある。 低気圧の進行方向や左巻きの風向きと、モンスーンの風向きから不可能ではない。 魏人のアラビア人やインド人からの伝聞知識と考えられる。 東から西のコースは絶望的な可能性。 >>206 毎度のことで悪いけど、そういう読み方が訓読だとどうなるのか、示して欲しいんだが? もしかして、できないの? >我々より良質のテキストを見ていたなら、姚の解釈の方が妥当であると考えていいだろう。 >君の言動は、畿内説が南を東に換えたり、 >一部の九州説が伊都國は末盧國の東南を東北に換えたりしているのと同じだ。 論点をずらしているようだが。図星すぎて返事もしたくないということでいいのかな? 漢詩の一つも作れないのに、姚思廉が誤読していると、どうして断言できるのか? 驢分の話は、つまらないから結構だ。 基本的な読解すら満足にできていない人の話を聞いても無駄だしね。 ネタで言ってるなら、ふざけるのもいい加減にして欲しいし、 まじめに言ってるなら、ちょっと救いようが無いかもね。 ま、雨天決行どころか、暴風雨中敢行には笑わせて貰ったので、それについては感謝してるよw ありがとう。 これからもお笑い漢文講座を続けてください。 >>1 1400年前にメートル法はまだ無かったよね? たしか日本でも唐でも律令に日数あたりの里程がきまってたろ 水行十日=水行一日×十日≒千里/日×十日≒76.4km/日×十日=764km >>207 漢文訓読がオールマイティだと思っている馬鹿発見 >>212 白文だと、語順の違いや文字の有無で大きく意味が変わるけど、 訓読では、それを表現しようがないって、例えばどんなのがある? まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww 縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、 稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。 同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、 小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が 初めて裏付けられる資料」としている。 http://inoues.net/science/wan.html 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww 岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の 考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が 行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。 このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の 下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。 http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 「漢文訓読がオールマイティ」なんて誰も言ってないじゃん 漢文訓読すら出来ないのに何が解るの?って話だろ 基礎の基礎が解ってない奴に何が解るの? 要は「日本語に翻訳してみろ」って話だろ 日本語に翻訳出来ないのに「この文章の意味は…」と解説した所で何の意味もない 日本語に翻訳出来ない=文意を理解していないってこと 自身が理解していない文章をどう解説しようというのか >>212 数種類の言語をある程度のレベルまで学んだ者にはわかると思うが。 *直訳 単語を置き換えただけなので、事実に基く意味が全く違うものになることがある。 *意訳 感情情緒の翻訳に重点をおく方法と、 事実の正確な伝達に重点をおく方法がある。 漢文訓読は、定型化した翻訳であるので、直訳の一例。 最近の事例の意訳 force to laber 強制労働 force to work 勤労動員(韓國では強制労働と国内向けに発表) >>213 >>217 「父母兄弟臥息異處 」 上記を訓読しても、事実の正確な伝達としての意訳は出来ない。 さて、上記は別の部屋と読むのか、別の室と読むのか、はたまたベッドは別と読むのか、どう読めばいいのだろう? >>220 >>213 だけど、その例文のどこが、私が>>213 で求めたような文なんだ? 私は、>>204 >>206 の言うような、特定の文字や語順の場合に、 それがどう訓読に反映されるのかを知りたかったのだが。 >>220 は動詞が変わったり、語順が変わったりすると、意味が大きく変わるのか? そしてそれを訓読には反映させられないのか? >上記を訓読しても、事実の正確な伝達としての意訳は出来ない。 というけど、なら白文では、意訳に十分な情報が読みとれるのか? 白文の段階で簡潔すぎるものの不十分さを、訓読の所為にしてどうするの? ピントのぼけたことを言うのはやめてもらいたい。 >>220 文脈で明らかな場合はなるべく簡略な文にするのが漢文の常識だろ 「屋室あり」の前提だからベッドがちがうとか部屋や違うとかでなく 建物がちがうのは明らか >>223 つまり屋室が竪穴住居でこれがいくつも集まって倭人伝のいう「1戸」になってる この屋室は奈良時代の房戸に相当し、倭人伝のいう「戸」は奈良時代の郷戸に相当 「父母兄弟臥息異處 」 遺跡を掘っても縦穴住居の数は多くない。 父母と娘子供は竪穴住居に住み、兄弟は其々苫屋(掘立小屋)に住む。 竪穴住居1軒と2〜3軒の兄弟用小屋で一戸。 壱岐対馬や玄界灘に面した冬季強風寒冷地では、 竪穴の深い竪穴住居に、一戸全員が雑居。 コテ付けて語る前にスレタイでも見たらいいんじゃなかろうか >>1 唐六典や日本の律令から簡単に割り出せるだろ 国土を過大に見積もらせるために、同じところを行ったり来たりしてる可能性さえあるよ。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww 縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、 稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。 同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、 小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が 初めて裏付けられる資料」としている。 http://inoues.net/science/wan.html 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww 岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の 考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が 行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。 このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の 下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。 http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>231 瀬戸内ならジグザグに進むだけで相当距離が延びる。 漢書や魏志で書かれた日本の呼称は「倭」の一文字。 シナの王朝が国外に与えた呼称で、一文字って他にどんな例があるのか。 >>233 >>235 に加えるなら、濊、貊、氐、奚、羌、羯、とか、 取り込まれたものでは、莱、閩、粤、俚、とか、 今に残るものでは、壮、苗、瑶、白、彝、とか、 たくさんあるが、何を言いたいんだ? >>236 漢字一文字はシナ諸王朝と同格で、二文字より格上ってのは俗説か ところで?、トリビアで大阪湾(チヌの海)には右回りで還流する速い流れがあります。 神武天皇らの船舶が明石海峡(速吹の水門)を東に抜けた途端に未知の速い海流に流され アレヨアレヨという間に大阪岸(住之江?)に流れ着いた。故に浪速と名付けた。 謡曲『高砂』で高砂から住之江(住吉大社)へ向かう行は、明石海峡に向かう引き潮と大阪湾の速い還流に乗れば約1日弱の船旅 淡路島の霊泉水が船で毎日樽に入れて朝廷に送られていた。 この還流を利用して河内、和泉地域と対岸の淡路島東浦側は歴史的に往来(船舶)が意外と簡単な為、結び付きが強い。 冬場の季節風で海が荒れる河内、和泉沿岸の漁労民らが淡路島の島陰で比較的海が穏やかな淡路島東浦側に移り仮小屋を建て漁労をしていました。、 渦潮で有名な鳴門海峡の最大流速は20〜25Km(大潮。瀬戸内海と太平洋(紀伊水道)との内外の落差2m) また、明石海峡は意外と流れが速く最大流速は15Km以上。 同じく、紀淡海峡も流れが速く最大流速10Km以上。 >>237 それ司馬遼太郎だろ、最初に言い出したの。俗説だよ >ところで?、トリビアで大阪湾(チヌの海)には右回りで還流する速い流れがあります。 それで難波津の代わりに大和田の泊の福原京が出てきたのかね。 江戸の世に下ってさえ、播磨明石でなく摂津兵庫津という価値観だったのだろう。 北前船とかでね。 >>242 >で、南への水行の起点となった不弥国はどこ? 不彌國は吉野ヶ里遺跡(魏使佐賀ルート説に基いて) 不彌國からの水行はありません。 投馬國と邪馬台国は不彌國に南接して並んであります。 投馬國は有明海沿いの筑後平野(5万戸)。 邪馬台国は筑後平野の内陸部(+北野地域)(7万戸) 例えば瀬戸内海を昼間は本州から四国、夜間は四国から本州というように ジグザグに進めば、魏の使いに国土の大きさも方向感覚も誤魔化せるよ。 東に行ってるのにずっと南に進んだように思わせ、しかも相当の距離を 進んだかのように誤解させられる。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww 縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、 稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。 同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、 小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が 初めて裏付けられる資料」としている。 http://inoues.net/science/wan.html 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww 岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の 考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が 行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。 このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の 下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。 http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 520 名前:日本@名無史さん [age] :2015/01/23(金) 16:58:43.06 >>518 水系が違っていても、近くまで川が来ている場合、山越えの必要はない。 少なくとも宝満川と衣笠川は徒歩数分圏内 595 名前:日本@名無史さん [sage] :2015/01/23(金) 20:44:38.96 この川か。 筑紫野市紫2丁目付近だけど、思ったより水があるな。 http://i.imgur.com/zH9Ooir.jpg 一般に、川の水は昔の方が豊富だったそうだけど、これなら 今でも小舟が通れるぞ。 582 名前:日本@名無史さん [sage] :2015/01/23(金) 20:13:55.51 >>539 御笠川の源流か支流なんだね。 この辺りがあやしい。 http://i.imgur.com/MLlBZJK.jpg 664 名前:日本@名無史さん [sage] :2015/01/23(金) 22:52:40.12 >>661 ここか。 http://i.imgur.com/3tJHuyy.jpg 3から真南、モロに道になってる。これだなwww 舟の中で何日も接待していたから、邪馬台国まで行くのが遅れたのだろう 岸の人足が舟を縄で引っ張って進むんだから、時間かかるよ。 柳川の川下りでは、船頭の爺さんが、空舟を竹竿ついてさかのぼっていってたな。 流速が少なくて、堀が浅いからできるんだろうけどね。 で、昔水路として使われていそうな川で、しばしばいい具合に浅い川が見られることがある。 そもそも、帯方郡から女王国まで1万2千里だと言ってるが、 帯方郡から朝鮮半島南部まで7千里、朝鮮半島南部から対馬まで1千里、 対馬から壱岐(一大国)から1千里、壱岐から末盧国(長崎県松浦)まで1千里、 末盧国から伊都国(福岡県糸島)まで5百里と言っているので、 と言っているので、この時点で既に1万5百里。 大和までは、1万2千里の数字では無理ですな。 ところが漢書だと 朝鮮半島南部から邪馬台国まで7千里なんだよな >>252 >ところが漢書だと >朝鮮半島南部から邪馬台国まで7千里なんだよな 漢書の何処に書かれてあるか、 何処にも無い。 >陸行1月についてまとめ >畿内説 >@河内湾→奈良 35km 1.5km/日 >A舞鶴→奈良 120km 4km/日 >九州説 >@日田→佐伯(大分) 130km 4.6km/日 >A日田→日向(宮崎) 150km 5.5km/日 >B有明海→熊本 60km 2km/日 1月行=陸行1月=海行1月≒80km 5月行=海行1.5月+陸行3.5月≒400km(対馬北端〜大隅半島) 3月行=海行0.5月+陸行2.5月(五島西端〜豊後水道) 1月行=陸行1月=海行1月≒80km 5月行=海行1.5月+陸行3.5月≒400km(対馬久ノ下崎〜大隅半島佐多岬) 3月行=海行0.5月+陸行2.5月(五島大瀬崎〜大分佐伯市鶴御崎) 1月行=陸行1月=海行1月≒80km 5月行=海行1.5月+陸行3.5月≒400km(対馬久ノ下崎〜大隅半島佐多岬) 3月行=海行0.5月+陸行2.5月≒240km(五島大瀬崎〜大分佐伯市鶴御崎) 1か月が80kmとか100%ありえないだろ。 1日2km程度しか進めなくなる。 そのうえ、陸行と水行の単位を同系列で論じてるしwww 道が整備されてるわけでもないだろうから、1日あたり5キロがせいぜいだよ。 また痴呆老人が湧いてるのかwwwwww うはw 直線距離とかwwww >>259 >そのうえ、陸行と水行の単位を同系列で論じてるしwww 陸行500里=水行500里≒40km >1か月が80kmとか100%ありえないだろ。 1月行=80kmとすると、 陸行1月=陸行(1月行)=陸行80km=80km 海行1月=海行(1月行)=海行80km=80km 隋書百済伝俀國伝で確認できますよ。 >>263 意味わかってる? 陸行と水行が同じ速さだったのか…ってことが 問題なんだよ。 隋書倭国伝が九州のことを指しているという根拠ないし 普通に考えれば、「博多から畿内までかかった1月」という行程に 都合を合わせるために、月日で九州の大きさを示したんだろうね。 この隋書倭国伝の時点で、九州島の測量はされていただろうからね。 そうでないと、この時点で二種類の単位があることになっちゃうからね。 >>264 >意味わかってる? 意味は理解出来ています。 「陸行」「水行」「海行」は、進行する場所と方法の違いを示しているに過ぎない。 他例 陸行1日、水行1日、馬行1日、渡1000里(水を渡る時)、度1里(谷を渡る時) ・天皇家の祖先は山都から出たことにしよう。 ・博多から1400里ぐらいじゃね。 ・よし、九州の描写で固めるぞ。 ・日数は1月だな。大和まででそれぐらいかかってたから。 ・都合を合わせるために九州の大きさも月で表示しとこww まさにこれw >>263 ,>>267 の 再度の修正 1月行=陸行1月=海行1月≒80km 5月行=海行1.5月+陸行3.5月≒400km(対馬北端久ノ下崎〜大隅半島佐多岬) 3月行=海行0.5月+陸行2.5月≒240km(平戸島西端〜大分佐伯市鶴御崎) 他例追加 陸行1日、水行1日、馬行1日、船行1年、渡1000里(水域を渡る時)、度2里(谷等非水地域を渡る時) >>269 久留米氏、乙です。 ところで久留米氏は邪馬台国はどこにあったと考えている方でしたっけ >>270 邪馬台国の範囲は、筑後平野内陸部と北野地域(筑後川中流平野)で、 女王國の範囲は筑後平野(奴國・不彌國・投馬國・邪馬台国・他)です。 女王之所都は久留米南部(三潴に近い所)で邪馬台国の領域内にあります。 (根拠は日本書紀景行紀にある。) 又別に、邪馬台国の都は、広川か八女(八女丘陵の北側か南側)である。 >>271 すいません、名前に全て出ていたんですね。失礼しました。 又も修正 >>270 邪馬台国の範囲は、筑後平野内陸部と北野地域(筑後川中流平野)で、 女王國の範囲は筑紫平野ほぼ全域(奴國・不彌國・投馬國・邪馬台国・他)です。 女王之所都は久留米南部(三潴に近い所)で邪馬台国の領域内にあります。 (根拠は日本書紀景行紀にある。) 又別に、邪馬台国の都は、広川か八女(八女丘陵の北側か南側)である。 女王国以北特置一大率検察諸国畏憚之常治伊都国於国中有如刺史 女王国の北に伊都国(福岡県糸島市)があるそうで 大和とは無縁ですな >>274 女王国以北特置一大率検察諸国畏憚之常治伊都国於国中有如刺史 女王国の北に伊都国(佐賀市大和町大字久池井惣座)があることになる。 伊都國は女王國(筑紫平野のほぼ全域)の北端になる。 >陸行1月についてまとめ >畿内説 >@河内湾→奈良 35km 1.5km/日 >A舞鶴→奈良 120km 4km/日 >九州説 >@日田→佐伯(大分) 130km 4.6km/日 >A日田→日向(宮崎) 150km 5.5km/日 >B有明海→熊本 60km 2km/日 ヤマトが近畿の奈良(ヤマト)なら、 半島から九州北部に渡った後、瀬戸内海や山陽道を行くのが順当なところ。 ですが、吉備王国がヤマト朝廷と関係が良くない、反目〜敵対していたとしたら、、、 九州から関門海峡を抜けた後、瀬戸内海を通行するのは危険。(中世の瀬戸内海各地の海賊(水軍)は名残では?) 安全上、豊予海峡を南下して一旦太平洋に出て足摺岬を廻って(一旦上陸して土佐国沿岸を行き)室戸岬の手前で再度船に乗り換えて海上を航行。 (土佐藩の参勤交代の行程がこれ。) 室戸岬を越え、伊島(剣山と熊野本宮の中間点。真北は淡路島の大和大国魂神社(二宮)〜加古川河口)を見つけたら急いで航路を北にとり、満ち潮に乗って紀伊水道に入り 遥かに沼島が見えて来たら航路を東側の友ヶ島の方向に取って紀ノ川河口を目指します 。 紀ノ川河口〜遡上して橋本辺りで上陸して、北に少し行けば 高天原のヤマト(都の意味) 高天原は高天山(金剛山)の東側(奈良県側)の高原地帯。とりわけ高天地区を指します。 これは、延喜式の中で正式にネタバラシされて公認されるところ。 >>9 全く嘘。 魏志倭人伝 從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。 帯方郡より倭に至るには、海岸に沿って水行、韓国を経て、南へ行ったり、東へ行ったりして、 北岸の狗邪韓国に到ること七千余里。 帯方郡からどうやって河だけを渡って狗邪韓国へ行くのかな? w 因みに、と言うか長江(揚子江)や黄河他の大河を知る中国人に取っては 例えば瀬戸内海はそれらの川幅にも満たないもの。 (本州四国の三架橋ルートは考え方として、例えば長さ500キロの中国の大河に橋を架けるのと代わりない。と関係者は曰っていました) >>286 海と川の区別がつかないなんて中国人をバカにしてる もうこのスレに書き込むのやめませんか? 畿内説スレか九州説スレで事足りる話ですよね。 あっちのスレもこっちのスレも確認しないといけないの面倒なんですが… そうだな。そろそろやめるか。 じゃ続きは九州説スレと畿内説スレでやるということで…。OK? >>270 >>274 >邪馬台国の都は、広川か八女(八女丘陵の北側か南側)である。 邪馬台国の中心地である「官有伊支馬」の居る場所は、八女室岡遺跡群が最有力であることを書き足します。 どの遺跡かはまだ特定できていません。 ★★★★★★★★★★★★お願い★★★★★★★★★★★★ このスレにはもう書き込まないでください。 佐藤と名乗るスレ主がトンズラしています。 内容的にも邪馬台国スレで間に合いますので、今後は 畿内説スレか九州説スレで議論の継続をお願いします。 そういう意味ではなくなって、瀬戸内海は酔っ払い寝ぼけた中国人には河川と勘違いする位の規模。 (瀬戸内海は場所にも依るけど意外な程流れが早い) 時代が下り、外国からの使節団は直接、首都港湾の難波津(墨廼江)には 行く事を禁じられていて その手前の敏馬(ミヌメ)の泊(神戸市灘区沖合い)に定錨して 敏馬神社の迎賓館に一旦入り、生田神社で醸した御酒で歓待する決まりが有った。 (安全保障上の問題と防疫(過去、半島からの使節団が来る度毎に疫病(天然痘)が蔓延したことから)の為。ワンクッションを置いた) ★★★★★★★★★★★★お願い★★★★★★★★★★★★ このスレにはもう書き込まないでください。 佐藤と名乗るスレ主がトンズラしています。 内容的にも邪馬台国スレで間に合いますので、今後は 畿内説スレか九州説スレで議論の継続をお願いします。 >>292 日本語が読めんのかボケ。もうこのスレは終わりにしようと 言ってるんだ。与太話なら他のスレでやれや >>281 >帯方郡からどうやって河だけを渡って狗邪韓国へ行くのかな? 「帯方郡より倭に至るには、海岸に沿って水行、韓国を経て、南へ行ったり、東へ行ったりして、 北岸の狗邪韓国に到ること七千余里。」は、私の訳を引用しているようですが、 >>9 は私じゃないよ。 ★★★★★★★★★★★★お願い★★★★★★★★★★★★ このスレにはもう書き込まないでください。 佐藤と名乗るスレ主がトンズラしています。 内容的にも邪馬台国スレで間に合いますので、今後は 畿内説スレか九州説スレで議論の継続をお願いします。 必死とか草とかくだらないこと書いて煽ってないで、 もう書き込むなよ。 邪馬台国関連のスレがどんだけあると思ってるんだ。 しょうもない内容でスレを立てるな。そしてそのスレに書き込むな。 いちいち徘徊して回るの面倒くさいんだよ。 もう書き込むなボケが もうこのスレでは議論しない。そうしないと、 どのスレが何なのか分からなくなるし、残したいスレが このスレのせいで沈んでしまう。 とにかく迷惑だからもう書き込まないこと。 ★★★★★★★★★★★★お願い★★★★★★★★★★★★ このスレにはもう書き込まないでください。 佐藤と名乗るスレ主がトンズラしています。 内容的にも邪馬台国スレで間に合いますので、今後は 畿内説スレか九州説スレで議論の継続をお願いします。 >>299 なんでそんなに必死なのかね。 単なる君ごときの都合で人に動いてもらおうというのだから、もう少し礼儀ってものを わきまえる必要があるんじゃないのかね? 君のような野人には無理かな。議論も含めて。 >>302 じゃ俺からも言わせてもらうわ。 書き込むな。ボケ。 内容があるスレならまだしも、畿内説スレか九州説スレで 事足りる。これ以上邪馬台国スレ増やすな。 他のスレが消えるんだよ。こういう迷惑な単発質問スレを立てられると。 ★★★★★★★★★★★★お願い★★★★★★★★★★★★ このスレにはもう書き込まないでください。 佐藤と名乗るスレ主がトンズラしています。 内容的にも邪馬台国スレで間に合いますので、今後は 畿内説スレか九州説スレで議論の継続をお願いします。 >>303 なんか別の人間みたいな書き方してるけど、文章の雰囲気が >>299 とそっくりなんだけど。使う語彙とか、必死過ぎるところとか。 なんでそんなに必死なの? ヴァカ? ★★★★★★★★★★★★お願い★★★★★★★★★★★★ このスレにはもう書き込まないでください。 佐藤と名乗るスレ主がトンズラしています。 内容的にも邪馬台国スレで間に合いますので、今後は 畿内説スレか九州説スレで議論の継続をお願いします。 あひゃあああああああああああああああああああああああああああああ ぷぎゃああああああああああああああああああああああああああああああ たしゅけてぇええええええええええええええええええええええええええ もれるぅうるるるるうううううううううううううううううう 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。 ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww 岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の 考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が 行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。 このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の 下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。 http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。 ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww 縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、 稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。 同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、 小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が 初めて裏付けられる資料」としている。 http://inoues.net/science/wan.html 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり /:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ /:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::://ヽ:::::::::::::::| l:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::// ヽ::::::::::::::l l:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/:::「'ヽ:::::::::::// ヽ:::::::::::| |::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ノl:::ノ l:::::::/ ヽ::::::::| ノ:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/ ゙゙ ノ:::/ ,,;;;;;;,, 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また、東の海を渡るとはどこの海を指しているのでしょうか。 さらに、伊都国、奴国、不弥国と現代の市町村レベルサイズで 既に5-6ヶ国の記載があるのに、西日本全体で30ヶ国を想定するのは無理です。 それが九州説であれば、狗奴国は熊本の事、 東の海を渡るとは当然、豊後水道でさらに倭種の国は四国、中国。 邪馬台国が福岡県サイズとすれば、30ヶ国の数は適正。(現代の自治体数) 全てが違和感なくすっきり説明できます。 何より、当時の中国人・日本人が東も南も分からない愚か者の集まり とするならば、そのような質の低い当時の日本人が、すでに3世紀に 西日本全域を支配している国家を形成していたと信じる方が支離滅裂なことだと思います。 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。 ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww 岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の 考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が 行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。 このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の 下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。 http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった ・邪馬台国のライバル国である南の狗奴国の説明 熊襲 ・東の海を渡った所にさらに倭種の国 伊勢湾以東の国々 ・邪馬台国に属する国は30ヶ国 近畿以西 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。 ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww 岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の 考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が 行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。 このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の 下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。 http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 315 :日本@名無史さん:2015/09/20(日) 21:42:18.08 /:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ /:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::://ヽ:::::::::::::::| l:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::// ヽ::::::::::::::l l:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/:::「'ヽ:::::::::::// ヽ:::::::::::| |::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ノl:::ノ l:::::::/ ヽ::::::::| 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と約束をして楚国を辞しました (この時点では全くの空手形) やがて重耳公は帰国を果たして国内を掌握して中原の大国、普国の王(この当時は公爵国)となりました。 そうこうしていると楚国との関係が風雲急を告げ両国が戦争に突入。 普国の正規軍数十万を率いて文公(重耳)自ら出陣。 いよいよ楚国正規軍数十万と遭遇。いよいよ戦端が開かれようとした矢先、 何故か普国正規軍がいきなり退却を始めました。 呆気に取られた楚国正規軍は当然、追撃を開始。 3日の行軍距離(三舍)に至り退却を停止。反転して陣を立て直して楚国正規軍と対峙。 楚国のかつての恩に対して昔の約束を果たした云々 当時、1日当たりの正規軍の行軍距離(一舍)は約30Km。三舍を避ける=3日分90Kmを退却。 >>318 >1日当たりの正規軍の行軍距離 30里じゃなかったっけか? 牛馬がいた大陸は道もあっただろうし、荷物は牛馬に載せて歩けた。 倭国には牛馬いないからな。 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。 ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww 岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の 考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が 行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。 このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の 下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。 http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった あひゃあああああああああああああああああああああああああああああ ぷぎゃああああああああああああああああああああああああああああああ たしゅけてぇええええええええええええええええええええええええええ もれるぅうるるるるうううううううううううううううううう 291 :日本@名無史さん:2015/08/31(月) 21:48:54.21 ★★★★★★★★★★★★お願い★★★★★★★★★★★★ このスレにはもう書き込まないでください。 佐藤と名乗るスレ主がトンズラしています。 内容的にも邪馬台国スレで間に合いますので、今後は 畿内説スレか九州説スレで議論の継続をお願いします。 292 :日本@名無史さん:2015/08/31(月) 21:49:22.48 そういう意味ではなくなって、瀬戸内海は酔っ払い寝ぼけた中国人には河川と勘違いする位の規模。 (瀬戸内海は場所にも依るけど意外な程流れが早い) 時代が下り、外国からの使節団は直接、首都港湾の難波津(墨廼江)には 行く事を禁じられていて その手前の敏馬(ミヌメ)の泊(神戸市灘区沖合い)に定錨して 敏馬神社の迎賓館に一旦入り、生田神社で醸した御酒で歓待する決まりが有った。 (安全保障上の問題と防疫(過去、半島からの使節団が来る度毎に疫病(天然痘)が蔓延したことから)の為。ワンクッションを置いた) 293 :日本@名無史さん:2015/08/31(月) 21:54:47.32 ★★★★★★★★★★★★お願い★★★★★★★★★★★★ このスレにはもう書き込まないでください。 佐藤と名乗るスレ主がトンズラしています。 内容的にも邪馬台国スレで間に合いますので、今後は 畿内説スレか九州説スレで議論の継続をお願いします。 294 :日本@名無史さん:2015/08/31(月) 21:56:57.65 >>292 日本語が読めんのかボケ。もうこのスレは終わりにしようと 言ってるんだ。与太話なら他のスレでやれや /:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ /:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::://ヽ:::::::::::::::| 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l;;;;;;:::::::::::::::.....;;;;............;;;;;;''ノ l l l '''''''''''''''''''''''''''''''''''''' ̄l | | >>318 どれほど優れた考察であろうと晋を普とか平気で書くような人は見下す 遣唐使の九州から直接上海方面に向かう南路では、 時間の幅が大きいが、約千キロを20日程度で移動している。 この航路では夜間に停泊して休むということはできないので 一日50キロ、時速にして1ノットから1.5ノットってところか。 遣唐使って、500年もあとの話じゃんかよw いまアメリカ西海岸のロサンゼルスまで船で11日で行けるからって、 400年前の支倉常長たちが伊達藩からアカプルコまでそんなに早く行けるわけがない 不弥国から投馬国までの水行二十日はまぁ妥当で問題ないと思うんだが 問題は投馬国から邪馬台国までが遠すぎる。どう解釈したらいいのだろう >>328 中国の3世紀の船や航海術と8世紀の船や航海術は全く変わってないからな。 >>329 不弥国から投馬国までの水行二十日じゃなくて 帯方郡から投馬国までが水行二十日ねw >質問だけど水行10日って何キロなの? 水行10日は短里で4400里、kmでは330qほど。 泳いで渡った可能性が微粒子レベルで存在している・・・? >不弥国から投馬国までの水行二十日じゃなくて >帯方郡から投馬国までが水行二十日ねw ↑おまえの珍説なんかどうでもいいんだが 距離に置き換えるには大唐六典はさして役に立たないからな >>333 同意見だな帯方郡から投馬国までが水行二十日 7000里を水行二十日 同じ様に水行十日は狗邪韓國(投馬国)から末廬國までの4400里だな。 まあ総里程じゃないとしたら、クリークであちこちクニまわりしてたら 10日ぐらいはいくかもね。魏への遣使がほんとに呉からの脅威を恐れ てのことなら、魏の軍事顧問なんて来た日にはそれはもう歓待の嵐だろ うしw 水行10日って、10日かかったという意味だけど、追い風を待つからな。 秀吉の時代、朝鮮の使節が釜山から対馬にわたるときは2日くらいで着いたが、 帰りは冬期の季節風が強かったので、逆風となってなかなか帰れず、じつに一ヶ月もかかっている。 水行10日は短い距離の可能性があるね。 なにをもって非常識な長さと考えるかは、その時代の常識がなにかを知らなければ分からない となると、その後500年以上経った飛鳥・奈良時代の遣隋使、遣唐使のときの所要時間はまったく参考にならないし ましてや江戸時代の船の所要時間なんかはまったくあてにならない 唯一、同時代の記録としてあてになるのは>>55 ぐらいか だいたい30ノットで240時間だから1.4万キロ 地球半周くらいだね ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と 生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの 導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。 ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆ 日本史より謎な金儲けできる方法とか グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』 WBANF とても簡単な稼ぐことができるホームページ 念のためにのせておきます 検索してみよう『立木のボボトイテテレ』 BZJ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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