質問だけど水行10日って何キロなの? [転載禁止]©2ch.net
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>>127
>幅の狭い理解能力の御方だね。
いやあ、お恥ずかしい。
受け売りしかできない、都合の悪い質問には答えない、誰かほどではありませんよ。
漢文は対比であると度々言ってきた。
反論が無い以上は、当然に異論は無いのであろう。
>「豺狼」(ヤマイヌとオオカミ)
「豺狼」が、「豺&狼」という並称なら、「蛟龍」も「蛟&龍」という並称になるはずである。
蛟龍=アリゲーターであるという回答は得たが、「蛟」と「龍」とはそれぞれどういう意味か。
また、「ヤマイヌ」と「オオカミ」とが、どのように異なるのか、門外漢には分からない。
現代の常識的な生物学には、学名という識別にはもってこいの方法があるので、
是非、「豺」「狼」「蛟」「龍」それぞれ学名では何というのか、解説して欲しい。
ちなみに、「アリゲーター」と同様に、「ヤマイヌ」と「オオカミ」についても、
出典となる漢籍や、そのような回答に至った過程が全く説明されていないので、
結論ありきの議論するに値しない、個人的な思い込みを披露されたものと考えて宜しいな。 さて、訊ねてもいないことは得々と語るくせに、肝心なことに答えないというのは、
ある種の人々によくあることで、今更気にしないけど、はっきりさせておこう。
「水」は一字で淮水を示すことは無い。
「水」の字は、waterでなければ、riverの意味であることが多く、特定の河川を指すことは無い。
但し、文脈によって分かる場合は除く。これは>>102の博多の例えのようなことである。
川を指し示すことが多くとも、池沼や海洋を排除するものでもないことは、字書を見てもわかる。
そして、「水行」は水上を行く意味でしかない。
中国は大陸国家であるから、専ら河川内航であろうけど、海上交通を排除しているわけではない。
「水師」「水程」が海にも使われるのと同様である。
反論があるなら、ただ言い張るのではなく、先秦の漢籍を引用すること。
今のところ、「水行乘舟」「水行半歳」、流求や赤土の件で納得できるような回答を得ていない。
思い込むのは自由だが、誰もが納得できる論拠を呈示できないなら、独りよがりの謬説である。 倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。
魏書東夷伝の倭人の条は、この有名な一文から始まる。
冒頭から倭人は海島に居るという大前提を示している。
このことは、後続する倭人についての記述の全てに掛かっている。
海を意味する文字が近接して無くとも、大海の中の山島を「水行」したことは明らかである。
海島である倭地を「水行」する場合、大陸国家の中国本土とは違うのだから、
海岸通行、もしくは渡海と考えて、何も不思議なことはない。
河川通行を完全に排除するわけではないが、海でないと断言することもできない。
また、倭が海の向こうの国なのであれば、海上を通行した推定するのが自然と考えて、何もおかしくない。
>>127
少しは期待したのだが、結局根拠も無い思い込みを繰り返して述べることしかできないか。
全く以て残念だ。
不毛な応酬をしても得るところがないので、根拠が示されない妄言には、今後コメントしない。 帯方郡
↓水行七千里
狗邪韓国
↓海渡千里
津島国
↓海渡千里
一支国
↓海渡千里
末盧国
↓陸行五百里
伊都国
↓(東南)百里
奴国
↓(東)百里
不弥国
↓(南)水行20日
投馬国
↓(南)水行10日・陸行1月
邪馬台国
女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり
畿内説は、邪馬台国から東に海を渡った倭人の住む国を明らかにせよ! なんだよ、もう出て来ないのか。
>>127で「幅の狭い理解能力」なんて捨て台詞をはいたは良いが、
自分の論理構成の方が未熟だったと、漸く気付いたか?
それならそれでめでたいが、ほとぼりが冷めるまで隠れているだけなら、未来は無いな。
>>131
そういうのは他の邪馬台国スレでやればいいのでは? これを真南に一直線に線を引いて、
「これでは海のどまんなかに出てしまいます」と
大真面目にやる学者共って本物のバカだよな >>133
具体的に誰のこと?
「共」ってくらいだから三名くらい挙げられるよね? >>128-159
もし、理解しようとする気があるなら、理解の手助けをしよう。
「豺狼」
「豺」:野生のイヌ 山イヌ、家畜のイヌ(狗)ではない。
イヌ科オオカミ型ドール属(古代中国にいた動物「豺狼」「豺蜀」)
イヌ科オオカミ型イヌ属(古代中国にいたジャッカル、コヨーテの様な動物)
「狼」:イヌ科オオカミ型イヌ属(大陸オオカミ、ジャッカル、コヨーテ)
「狗」:イヌ科オオカミ型イヌ亜属(家畜のイヌ)
よって、「豺狼」は、野生イヌの様なオオカミ又はオオカミの様な野生イヌと解することができる。
「蛟龍」:アリゲーター、シナ大陸に生息するワニ
「蛟」:咬みつく爬虫類
「龍」:想像上の大型爬虫類
よって、「蛟龍」はシナ大陸に生息するワニのアリゲーター
>>129には、ほぼ同意であるが、何に反論しているのか理解できない。
しかし、「水」は単なる河川ではなく、「淮水水域」を指す言葉である。
黄河が華北平原を南東に横断して淮水に合流していた一時期には、
北緯35°以南の華北平原の黄河流域も「淮水水域」に含まれる。
未だお望みなら、
「水行乘舟」「水行半歳」「流求や赤土の件」「華北平原の北緯33°線の補足説明」については、そのうち説明する。 >>
>>129
3世紀に貿易風を利用した大洋横断航海知識があったとの仮定があれば、
「水行半歳」は説明できます。
「水行半歳」=「水行183日」=183000里=14000km まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>136-137
根拠が全く示されていないので、個人の勝手な臆測と解釈していいのだな。
何の価値も無い駄文を、一生懸命考えてきたわけだ。
御苦労様。 >>140
自明の理を説明してもらっているのがわからないようだな。
君の言は、1+1=2の根拠を示せといっているのと同じだ。
お互いの論理が噛み合う事はないね。
君の「論理」は、私の「非論理」。「無論理」かな? >>140
自明の理なら、他に多数の人がそういうことを書いているはずだ。
また、自明の理なら相当数の学者がそれを語っているはずだ。
幾つか例示して見せよ。
例のブログくらいしか挙げられないようではダメだ。
それと、自明の理なら、なぜこんな掲示板でしつこく主張するのだ?
おまえは「1+1=2」であると、声高に主張して楽しいのか?
幼稚園児か?
私は「論理」、おまえは「非論理」。
良く分かってるじゃないか。 ちなみに「1+1=2」も説明しようとすれば出来る。
検索するといくらも出てくる。
自明の理を、誰に頼まれたわけでもないのに、わざわざ何度も掲示板に投稿するくらい、
「1+1=2」というのを広めたいなら、
「1+1=2」を自分の言葉で説明してみたらどうだね?
そうすれば、私のように、自明の理を理解しない愚か者でも、
「1+1=2」を理解しようとするかもしれない。
まあ、できないのだろうけど。 漢籍を読むのに自明の理が使えたとは、掲示板を読んでいると勉強になるわ。
これからは、根拠の無い思いつきは、自明の理だと強弁することにしようか。
相手にされなくなるだけだから、やめとくわw >>144
>漢籍を読むのに自明の理が使えたとは、掲示板を読んでいると勉強になるわ。
私は漢籍を読むのが目的ではない。
私の目的は、古代シナの歴史を探求することだ。
漢籍を読むことは探求の一法に過ぎない。
私は、生物地形地勢気象地球物理天文等の自然科学的技法も動員して、
古代シナの歴史を探求しているのだ。
生物地形地勢気象地球物理天文等自然科学を学んだ者以外では理解し難い自明の理がある。 >>142
>例のブログくらいしか挙げられないようではダメだ。
「例のブログ」とは何だ。私は知らない。 「周髀算經」には、商殷人の見た紀元前12世紀末(BC1125〜BC1113)の
天体(北極中大星)が書かれている。
君たちには文献史学だけをする者には想像もつかないだろう。 >>145
なるほど。
国語を学んでいない輩の文章とは、こんなものか。
博学多識でも国語が怪しくては無理もない。辞書を引いたことはあるか?
「自明の理」というのは、何人でも理解する説明不要の道理を指す。
碩学にしか理解しえないのは「自明の理」とは言わないの。
何をどう学んだか知らないが、程度によるぞ?
高校レベルなら、こんな所で他人に自慢するほどのこともない。
老子に「大賢は愚なるが如し」という言葉がある。
自分から学識を誇るような奴に碌なのは居ない。
まして、こんな掲示板で、説明に窮して気勢を上げる能しかないのでは、なおさらだ。
始めの内は、求められるように用例を出していたくせに、
「自明の理」だの「自然科学を学んだ」だの、言い訳しかできないのを見苦しいとも思わないようだ。
客観的に自分がどう見られているか、少し考えてみたまえ。
人一倍学んでいようと、根拠を説明できないのなら、おっさんの単なる妄想としか受容されない。
論理学の基礎も知らないようでは話にならんな。
余人に説明できないのは、余人より優秀だからではなく、余人より愚劣だからだ。
古代支那の歴史を究明する前に、自分の身の程を知った方が、今後の人生のためにもなろうぞ。 >>146
おやおや。
たかだか150に満たないこのスレを、一読すれば分かることも知らないのか。
そんな疎漏な奴に古代支那の歴史が究明できるのかね。
滑稽だし、心配だよ、もっとがんばりたまえ。
>>147
巻三十の裴註すら碌に読んでいなくて、未だに回答できないくせに、
随分と機嫌が宜しいことで。
根拠が何も無くても、説明するだけの能力が無くても、
このように勿体付けて披露すると自己満足に浸れるのか。
自分もやってもようかな、誰にも相手にされなくなるからやめておこう。
歴史の真実を探究して、好き放題に書き散らすのは、さぞや楽しい日々であろうな。
これからもがんばってね。 ご要望があったので遅ればせながら「水行半歲」について解説いたします。
「澤散王屬大秦 其治在海中央 北至驢分,水行半歲,風疾時一月到」
「澤散」:エジプト、
「大秦」:ローマ帝国
「澤散王」:ローマ人のエジプト執政官
「海」:地中海
「驢分」:中北イタリアの国、コルシカ島の対岸付近、ピオンビーノ?
「半歲」:半年の期間、6ヶ月、183日間
「水行半歲」=「水行183日」=「水行183000里」=14000km
「風疾時一月到」:疾風に乗れば1ヶ月で着く
シナから澤散(エジプト)までの航路
東シナ海―台湾海峡―南シナ海縦断―シンガポール―マラッカ海峡
―スマトラ島北端―インド洋横断―スリランカ―インド洋横断
―アデン湾―紅海―スエズ湾 >>150
なんで「水行」なのに海だけ通行してるの?
なんで河川池沼じゃないの? >>151
「水行」には、淡水域だけでなく海水域でも「水行」とする用例があります。 >>152
投馬国や邪馬台国は大海の中の山島だよね?
違うの? まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>153
>投馬国や邪馬台国は大海の中の山島だよね?
>違うの?
だから、投馬國へは帯方郡から「水行20日」、
邪馬壹國へは帯方郡から「水行10日」となっている。 >>156
あなたは
94 97 100 104 114 118 121 127 136-137 141 145-147 150 152
の誰かなのかな?
「水行二十日」「水行十日」以外にも、旅程の記事は終点のみを記しているのが殆ど。
直前に記載された地点からでなく、帯方郡からだというのは、どうやって判断するの? 真水も水、海水も水、水であることに変わりはない
水行とは、陸路行に対する水行のこと >>157
>>http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1433068961/403
その他例文W
@南水行二十日至投馬國
A南至投馬國水行二十日
@では、水行二十日は「南」を修飾します。
直前の不彌國と投馬國の距離が水行二十日となります。
Aでは、水行二十日は投馬國を修飾します。
距離の起点である帯方郡と投馬國の距離が水行二十日となります。
その他例文X
@南水行十日陸行一月至邪馬壹國女王之所都
A南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
@では、水行十日陸行一月は邪馬壹國を修飾します。
直前の不彌國と邪馬壹國の距離が水行十日陸行一月となります。
Aでは、水行十日陸行一月は邪馬壹國を修飾します。
距離の起点である帯方郡と邪馬壹國の距離が水行十日陸行一月となります。
「南至」と「南行至」の違いについて注意。
「東南至奴國百里」と「東行至不彌國百里」と同様。
上記「奴國」と「不彌國」への距離の起点は伊都國であることに注意。 >>159
>南水行二十日至投馬國
南へ水行すること二十日にして投馬國に至る。
>南至投馬國水行二十日
南の投馬國に至るには水行すること二十日なり。
>南水行十日陸行一月至邪馬壹國女王之所都
南へ水行すること十日、陸行すること一月にして、邪馬臺國に至る。女王の都とする所なり。
>南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
南の邪馬臺國、女王の都とする所へ至るには、水行すること十日、陸行すること一月なり。
>東南至奴國百里
東南の奴國に至るには百里なり。
>東行至不彌國百里
東へ行きて不彌國に至るには百里なり。
はて?
何が言いたいのかさっぱり分かりないね。
文中の修飾関係だけで、起点が変わるの?
起点が変わる時は「自郡」というふうに明示されると解すのが自然だろうね。
前二者は伊都国で、後二者が帯方郡というのも、御都合主義だし。
全四者が何れも伊都国か帯方郡というのなら、まだ付き合ってもいいけど。
>やっと理解できる方々が現れました。
要するに、常人には理解できないということかな。 >南水行十日陸行一月至邪馬壹國女王之所都
南へ水行すること十日、陸行すること一月にして、邪馬臺國なる女王の都とする所に至る。
>南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
南の邪馬臺國なる女王の都とする所へ至るには、水行すること十日、陸行すること一月なり。
この方がいいかな、大して違わないけど。 >>161
>文中の修飾関係だけで、起点が変わるの?
>起点が変わる時は「自郡」というふうに明示されると解すのが自然だろうね。
「從郡至倭」であって「自郡至倭」ではない。
「自郡至倭」ならコロコロ起点は変わらない。
「從」は「帯方郡」が経過点であること示す語である。
「從郡」:郡を通って、郡の先、郡の向こう
距離の起点になることが出来る語句
從:「從郡」
到:「到其北岸狗邪韓國」、「到伊都國」 >>161へ追加説明
@「始度一海千餘里、至對海國」
A「始度一海、至對海國千餘里」
@一海の大きさが千餘里、其北岸狗邪韓國と對海國の間の海峡(一海)の幅が千餘里。
A其北岸狗邪韓國から對海國中心地までの距離が千餘里。
「從郡至倭」で「到其北岸狗邪韓國」であることは、
其北岸狗邪韓國が韓地における倭人の中心地であることを意味する。
「歴韓國」の韓國も、韓地における倭人の小さな国である。
なぜなら、倭人条に書かれた国々は倭人の住む国々であるから。
「狗邪韓國」は韓条にも「弁辰狗邪國」とあるから、倭人と弁人が混住していたと考えられる。 http://img.hani.co.kr/imgdb/resize/2012/0607/00432833701_20120607.JPG
▲昨年7月、中国西岸骨董市場で発見され現地学術誌に公開された百済人「祢軍」の墓誌銘拓本。
今日の日本の国号が本来、百済の土地を称する言葉であり、国号成立に百済人らが関与したと
いう学説が提起された。
7世紀の百済滅亡期、義慈王と唐に投降して官吏になった後、日本に使節として派遣された「祢軍
(禰軍)」(613〜678)という人物の墓誌銘の文章に彫られた「日本」の文字が現在の日本の国号で
はなく百済の他の表現という根拠が見つかったという。この様な主張をしたのは日本古代史学界
権威である東野治之(とうの はるゆき)大阪市立大教授だ。
墓誌銘の「日本」は祢軍が日本に使節に行った背景を書いた部分に登場する。「660年官軍(唐
軍)が私たちの蕃国(百済)を平定した日…日本の残党が扶桑に立てこもって殺戮を免れ、風谷に
残った輩は盤桃を信じて堅く抵抗した…」という内容だ。
文中の「日本」を既存学界は公式国号と見たが、東野教授は「技巧を凝縮させた墓誌銘の文章と
見れば決して国号とは見られない」と否定した。墓誌銘に記録された当時、百済など中国の周辺
国は国号を使わず、扶桑・風谷・盤桃など自然環境的特徴に基づいた隠喩的名称を使ったが、唯
一、日本だけ公式国号を使ったはずがないという論旨だ。
墓誌銘の「日本」は中国から見る時「日が昇る所」という意味ですなわち百済を示すということだ。
彼は「墓誌銘で実際、倭国(日本)は‘ヘジュァ(海左:海東側)’、‘ヨンドン(瀛東:中国東側)と表記さ
れたと推定される」として「当時、国号が存在したとすれば書いた人は日本という表記を使わなか
っただろう」と主張した。
ハンギョレ新聞(韓国語) 「日本は本来百済の土、称する言葉だった」
http://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/536435.html 水行10日
出雲⇒敦賀⇒琵琶湖⇒淀川⇒木津川⇒奈良湖 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>159
目的語(終点)と修飾語(旅程)の位置が交替しても、主題(起点)は変動しない。
和文で言えば、「下り列車は東京駅に三〇分で着く」が「下り列車は三〇分で東京駅に着く」になっても、
起点は変わらないし、変えられない。明示されなくては分からないし、分かりようがない。
「東南至奴國百里」と「南至投馬國水行二十日」とでは、
里程か日程かだけで構文は変わらず、後続する文が官名と戸数を記す点も同じなのに、
どうして起点が伊都国だったり帯方郡だったり、変わってしまうの?
>>163
>「從郡至倭」であって「自郡至倭」ではない。
>「自郡至倭」ならコロコロ起点は変わらない。
>「從」は「帯方郡」が経過点であること示す語である。
申し訳ないけど、意味がさっぱり分かりない。
倭人条の冒頭には「從郡至倭」とあるけど、途中には「自郡至女王國」とある。
「自」と「從」は、音価は異なるけど、声母は破裂音で、韻母は前舌狭母音で始まるという共通点からは、
類音同義の単なる助字と解されるので、殊更厳密に意味を使い分けてるとは思えない。
「從」が起点でなく経過点なら、訓読は「郡より」でなく「郡をへて」となり、起点を別に設定しなくてはならない。
「郡を通って」なら、起点は郡から見て倭の反対方向になるし、
「郡の先」「郡の向こう」だと、起点は郡より倭に近い所になるよ?
>>164
>始度一海千餘里至對海國
始めて一つ海を度ること千餘里にして對海國に至る。
>始度一海至對海國千餘里
始めて一つ海を度りて對海國に至ること千餘里なり。
意味は変わらない。
>其北岸狗邪韓國が韓地における倭人の中心地であることを意味する。
航路の起終点というだけで中心地なら、倭地の中心は末盧國かね。 以下、裴註所引の魏略・西戎傳から引用する。
魏略を著した魚豢は、陳寿より少し前の世代に当たるが、同時代人とみなして異論はなかろうし、
用字、語法、構文においても、同時代の史家として陳寿と比較して問題はないどころか、好適ですらあろう。
從敦煌玉門關入西域、前有二道、今有三道。
從玉門關西出、經婼羌轉西、越蔥領、經縣度、入大月氏、爲南道。
從玉門關西出、發都護井、回三隴沙北頭、經居盧倉、從沙西井轉西北、過龍堆、到故樓蘭、轉西詣龜茲、至蔥領、爲中道。
從玉門關西北出、經坑、辟三隴沙及龍堆、出五船北、到車師界戊己校尉所治高昌、轉西與中道合龜茲、爲新道。
玉門関から西方へ延びる三つの道について、それぞれの経由地やら終点やらを述べている。
各文末に終点と道路名称を記しているのだから、156の主張が正しいなら「從玉門關西出」の三出はあまりにも冗長であろう。
つまり、旅程の記事では、直前の地点から任意の地点へ起点が変わる場合、明示されるというのが原則であるという好例である。
澤散王屬大秦、其治在海中央、北至驢分、水行半歲、風疾時一月到、
同一の文に「至」と「到」を見ることができる。意味に違いがあるのなら、解説をおねがいしたい。 驢分王屬大秦、其治去大秦都二千里。從驢分城西之大秦渡海、飛橋長二百三十里、渡海道西南行、繞海直西行。
「二千里」というのは、後述される「二百三十里」以下の行程の総距離である。
倭人条で、「南至邪馬臺國、女王之所都、水行十日、陸行一月。」が帯方郡からの行程であるなら、
「自郡至女王國萬二千餘里。」を行程記事の末尾に、わざわざ「自郡至女王國」を改めて書き加えて置く理由が分からない。
近接して「南至邪馬臺國、女王之所都、水行十日、陸行一月、凡萬二千餘里也。」とでも書けば良かったではないか。
「南至邪馬臺國」と「自郡至女王國」は離れて記されており、わざわざ「自郡至女王國」と断っているのだから、
「水行十日、陸行一月」と「萬二千餘里」とがイコールではないことが知れよう。
此上三國、堅昆中央、
俱去匈奴單于庭安習水七千里、南去車師六國五千里、西南去康居界三千里、西去康居王治八千里。
ある地点から複数の地点の距離を示すには、「去」を使った構文がある。
行程記事の途中で、伊都国や帯方郡からの分岐記事を示すのであれば、「去」構文にしたと考えるのが自然である。
より分かり易い「去」構文があるのに、「自」「従」「至」「到」に微言大義を与えて解釈するのは、邪道ではないか。 「去」構文にしたのでは、主人公は遠国の「女王・女王国」になってしまう
わざわざ「自郡至女王國」にしたのは、あくまで主人公は郡で、女王は臣下あるぞえ、と言わんがため
このあたりが稀代の執筆者の筆の冴え >>173
「去」にすると目的語が与格から奪格になるだけだぞ?
なんで主人公になるの? >>175
夫餘在長城之北、去玄菟千里、
北沃沮一名置溝婁、去南沃沮八百餘里、
又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。
何れも東夷傳からだが、なぜこれらは「去」を使って、天子から去ったという表現にしたのか、
筆の冴えとやらの解説をおねがいしたい。 >夫餘在長城之北、去玄菟千里
長城の北だから取るに足りない異民族扱いでよかろう
>人長三四尺、去女王四千餘里
小人の国で、政治軍事的脅威を考慮するに及ばず、さして役に立たない奴らだ
要するに差別用語だな >>177
「去」構文では後置される語が主語になるという高説にはとても感心したので、
後学のために手数ながら、>>176の三文に訓点をつけてもらいたい。 自分の訓読も示しておくので、添削してもらいたい。
夫餘は長城の北に在り、玄菟(郡)を去ること千里なり、
北沃沮は一名を置溝婁とす、南沃沮を去ること八百餘里なり、
また侏儒國有りて其の南に在り、人の長は三、四尺なり、女王(國)を去ること四千餘里なり。
何れも「を去ること」としたが、「を」は「より」「から」に置換できる。
あくまでも目的語であって、西欧の文法に則して言えば奪格に相当する。
動詞(術語)に後置される語が主語のように解される例は、
「有」「無」「多」「少」を含む文くらいのものであろう。
ついでに「自郡去女王國」という場合の訓読も、どのようにすればいいか、お尋ねしたい。
主語となる以上は、「は」「が」といった格助詞を付けるか、格助詞を付けないものになると思うが、いかがか。 倭人伝の執筆者(監修者)はいたるところで階層区分(区別・差別)の表現を取っている
すなわち基本的には文法の問題でなく、
主従隷のような上中下の身分関係をどのようにして表わすかに腐心しているように思える
そのような目で見ると、たとえば倭人伝30カ国も、
数グループに分け、巧妙に階層区分(差別)を行っていると読める >>180
>倭人伝の執筆者(監修者)はいたるところで階層区分(区別・差別)の表現を取っている
要するに、倭人条にしか関心が無い、ということを言いたいのかな。
>すなわち基本的には文法の問題でなく、
要するに、文法の話はできない、ということを言いたいのかな。
>主従隷のような上中下の身分関係をどのようにして表わすかに腐心しているように思える
根拠も示さず、ただ思うなら、誰にでもできる。
>そのような目で見ると、
個人的な主観で見ても意味が無い。
>たとえば倭人伝30カ国も、数グループに分け、巧妙に階層区分(差別)を行っていると読める
ではその巧妙な階層区分の成果を披露されたい。
腐心して表現した巧妙な階層区分というのが、用字、語法、構文を用いず、どうやって他人に伝えられるのか、
実に興味深い。 >>169
こまけー事は、いいんだよ
実際、海から川を上り、湖に川を下れば、陸行は5〜10km程度だろ >>182
そんな面倒な行程ふむなら日数かかっても関門回って瀬戸内を行くわ。
そしてその細かいことを無視した行程が水行十日なら、
陸行一月でどこまで行っちゃうんだか、出雲に戻れそう。 >>170
>「從」が起点でなく経過点なら、訓読は「郡より」でなく「郡をへて」となり、起点を別に設定しなくてはならない。
>「郡を通って」なら、起点は郡から見て倭の反対方向になるし、
正解です。
「從(从)」は現代語でいうところの前置詞の働きをしています。
(通過地点・経過コースを示し)…から,…を通って,…越しに
だから、視野点の起点は天子洛陽となり、距離の起点は「郡」となります。
距離の第一起点は、「從郡」となり、
距離の第二起点は、「到其北岸狗邪韓國」となり、
距離の第三起点は、「到伊都國」となります。
>澤散王屬大秦、其治在海中央、北至驢分、水行半歲、風疾時一月到、
>同一の文に「至」と「到」を見ることができる。意味に違いがあるのなら、解説をおねがいしたい。
上記回答は得られたことと思う。
「至」の距離の起点は「大秦」
「到」の距離の起点は「魏」 >>183
後の時代でも九州から関西へは対馬海流にただ乗りできる日本海ルートだよ
無論、
もし陸行すれば一月という事で、態々実践するほどシナ人も暇じゃないだろう >>始度一海千餘里至對海國
> 始めて一つ海を度ること千餘里にして對海國に至る。
>>始度一海至對海國千餘里
> 始めて一つ海を度りて對海國に至ること千餘里なり。
> 意味は変わらない。
誤訳された日本語で考えたらだめよ。
>航路の起終点というだけで中心地なら、倭地の中心は末盧國かね。
「到末盧國」なら倭地のひとつの中心地と言えるが、
「至末盧國」では倭地のひとつの経由地に過ぎない。
>玉門関から西方へ延びる三つの道について、それぞれの経由地やら終点やらを述べている。
>各文末に終点と道路名称を記しているのだから、156の主張が正しいなら「從玉門關西出」の三出はあまりにも冗長であろう。
玉門が終点が異なる3方面に分かれる分岐点だから、
方面別に「從」が必要。各「從」がなければ「玉門」から「龜茲」までの行ったり来たりの一本道になる。 >>184
反駁しない点については、全て是認された、とみなすほかないので、よろしく。
>視野点の起点は天子洛陽となり、
不必要な説明の典型例だね。
Wikipediaのオッカムの剃刀の解説にある「神が」と同じ。
「視野点」という不思議な単語にはきちんと定義を与えて欲しい所だが、まあ要りまへん。
野暮なことを言えば、天子は皇帝であって、洛陽は首都だし。
起点と終点はセットなので、洛陽から帯方への行程記事が無いから、洛陽は起点にならない。
正史が記述の視点を首都に置いたとするのは、暗黙の了解であろうが、行程記事で一々意識する必要性は無い。
主語と目的語で、君臣の義を説くというのも、主張の根拠が全く示されない。
臣下が主語となっている文など幾らでもあるのに、行程記事いおいてはそれが認められないというのも、全く恣意的でしかない。
倭人条だけを恣意的に解釈するための独自理論は要らない。
「自」と「從」とに主張するような使い分けがあったというなら、他から類例を紹介されたい。
で、「到」で示す地点が任意の起点になりうるという根拠が、さっぱり示されていない。
奴国から邪馬台国までの記事が、「到」で示された伊都国を起点としたものだというなら、
「到」で示された狗邪韓國からの分岐記事は、なぜ無いのか。整合性がまるでない。 >>澤散王屬大秦、其治在海中央、北至驢分、水行半歲、風疾時一月到、
>>同一の文に「至」と「到」を見ることができる。意味に違いがあるのなら、解説をおねがいしたい。
>「至」の距離の起点は「大秦」
>「到」の距離の起点は「魏」
まるで頓珍漢だね。
澤散王は大秦に屬す、其の治(所)は海の中央に在り、北の驢分に至るには、水行すること半歳なり、風の疾き時は一月にして到る、
この文が述べているのは、澤散王の治所と驢分国との距離だよ?
後続する「驢分王屬大秦、其治去大秦都二千里、」以下の文を読んでないね?
驢分の時には「其治」で驢分の治所を述べるのに、澤散の時にはどうして大秦の治所になるの?
「北至驢分」が大秦からだとするなら、「從驢分城西之大秦渡海」と矛盾するよ? 北の反対は西なの?
更に後続して「且蘭王屬大秦」「賢督王屬大秦」と出てくる。
別枝の小國が大秦に屬していると書かれているだけなのに、また術語の「屬」に後置される語が主語になるの?
漢文はSVO型。現代中文はSOV型にもなる。けど、主語が述語の後に来るということは、殆ど無いよ?
澤散はローマの属国だけど、条件が良ければ魏から一月で到達するの?
現代のヨットもびっくりの凄い高速航海技術だね。
>上記回答は得られたことと思う。
説明が漢頓珍すぎて、回答の体を成していない。 >>186
>誤訳された日本語で考えたらだめよ。
では、正しい訓読を示してもらいたい。
それほど漢文の知識があるなら、訓読くらい朝飯前だろう。
それから、目的語と修飾語の位置関係によって、主語や主題が変更される、
というような漢文法の解説は、他に誰が主張しているのか、それを知るのに適した教本なり論文なりはあるのか。
>「到末盧國」なら倭地のひとつの中心地と言えるが、
>「至末盧國」では倭地のひとつの経由地に過ぎない。
相変わらず、根拠がまるで示されていないではないか。言い張るだけなのか。
また野暮なことを言えば、中心地が幾つもあるのには違和感を覚える。要地であるなら了承するが。
「到」と「至」を端的に使い分けている用例を、三国志でなくともいいから呈示されたい。
>方面別に「從」が必要。各「從」がなければ「玉門」から「龜茲」までの行ったり来たりの一本道になる。
倭人条で伊都やら帯方やらから分岐しているなら、「從」なり「自」なりを付してあるはずである。
申し訳ないが、反論になっていない。
信念を貫くのは勝手だが、無理に出て来なくてもいいよ? 西域伝では行程が玉門で3方向に分岐している。
倭人条では、洛陽から不彌國まで一本道の行程。
奴國は伊都國との位置関係の表示で行程外。
投馬國と邪馬壹國も不彌國との位置関係の表示で行程外。
行程を示す文の構成は、「方向」+「動詞」+「至」+「目的地名」
位置関係を示す文の構成は、「方向」+「至」+「目的地名」
石頭の御方理解できるかな? >>190
反駁しない点については、全て是認された、とみなすほかないので、よろしく。
でも、魏から一ヶ月で驢分に行くにはどうしたのか、とても気になる。
>倭人条では、洛陽から不彌國まで一本道の行程。
どこにも洛陽は出て来ない。残念だね。
>奴國は伊都國との位置関係の表示で行程外。
>投馬國と邪馬壹國も不彌國との位置関係の表示で行程外。
不彌國が起点となっているのに、なぜ「東行到不彌國」ではないのか。
「至」と「到」の使い分けは、もう諦めたのか。
>行程を示す文の構成は、「方向」+「動詞」+「至」+「目的地名」
>位置関係を示す文の構成は、「方向」+「至」+「目的地名」
「行(渡)+目的語+至+修飾語」「至+目的語+行(渡)+修飾語」
確かに漢文の性質として、語順が変われば意味も変わる時があるが、大差の無いこともある。
主張は宜しいがそれならば、他の類例を挙げて説明して欲しいと、先にも願ったはずだ。
漢文読解の通例としてそのように理解するしかないなら、なぜ他書の用例が出て来ないのか。
奴国については「行」の字が無いが、「至」の一字でも到着の意味はあるし、
私や汝より漢文に精通していたであろう梁書の解釈からも、位置関係であるとは解せない。
脳軟化症から見れば常人は石頭なのかもしれない。 >>191
失礼した。
×「行(渡)+目的語+至+修飾語」「至+目的語+行(渡)+修飾語」
○「行(渡)+至+目的語+修飾語」「至+目的語+行(渡)+修飾語」 「自郡至女王國」「從郡至倭」
帯方郡から女王國(不彌國)まで12000里
不彌國は女王國に属す。
「從郡至倭」
帯方郡から邪馬壹國まで水行10日陸行1月
帯方郡から末盧國まで水行10日(11400里)
末盧國から邪馬壹國まで陸行1月(1000里)
末盧國から不彌國まで陸行600里
故に不彌國から邪馬壹國までは400里
この邪馬壹國は官伊支馬の城柵であって、「女王之所都(卑弥呼の城柵)」ではない。
石頭君は理解したくない? >>193
反論への再反論には全くなってないけど、いいのかな?
用字、文法の主張は全部放棄ということで、いいのかな?
あと一番気になる、魏から一ヶ月で驢分に行った経路を教えて欲しいんだが。 反駁しない点については、全て是認したのではなく、返答にうんざりしているだけ。
>魏から一ヶ月で驢分に行くにはどうしたのか、とても気になる。
回答済み。モンスーン・台風・サイクロンに乗った帆走。 >モンスーン・台風・サイクロンに乗った帆走。
時速18km/h
「水行半歳」なら、時速3.1km/h キチガイしかいないスレで反論するだけアホ
見守ってきたが、そろそろ潮時だな。あばよ >>195
返答に窮した言い訳としては下手な部類だね。
自説に自信があるなら時間をかけてもいいから、ちゃんと潰しておいた方がいいんじゃない?
日中から2ちゃんねるに来てるけど、そんな暇は無いのかな?
こちらは別に期限を設けてるわけでもないから、よろしく。
>>魏から一ヶ月で驢分に行くにはどうしたのか、とても気になる。
>回答済み。
いや、今初めて回答をもらったんだけど?
>モンスーン・台風・サイクロンに乗った帆走。
すげーwww
よく難破しないで辿り着いたねw
現代でも嵐の時にわざわざ航海に出る船は居ないのにw >>196
「水行半歳」は大秦からじゃないの?
>>197
じゃあね、キチガイ。 >>198
>>>魏から一ヶ月で驢分に行くにはどうしたのか、とても気になる。
>>回答済み。
>いや、今初めて回答をもらったんだけど?
ごめん、大きな勘違いをしてた。
あなたは>>150だったのね。
>>156の時点で違う人になってたと思ってたのよ。
失礼しました、そして、なんというか、お気の毒さま。 日本人の起源 〜遺伝学電子博物館
http://www.nig.ac.jp/museum/evolution/02_e.html
特に、韓国人と本土日本人の二集団間の遺伝距離はゼロであった。やはりこの分析で
も、韓国人と本土日本人は遺伝的にきわめて近縁な関係にあることが明らかとなった
のである。
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_26_02.gif
つぎに、集団間で求めた遺伝距離をもとに集団の系統樹を作成した(図26)。この系
統樹では、アフリカ人が他の人類集団に先がけて分岐し、続いてヨーロッパ人が分か
れ、さらにアメリカ先住民が分岐している。最後に、東アジアの五集団が単一系統
のクラスターを形成して枝分かれしてくる。東アジア人のクラスターでは、アイヌ
が最初に分岐し、続いて中国人が枝分かれしてきたことが読み取れる。続いて琉球人
が枝分かれし、最後に韓国人と日本人が緊密なグループとして分岐してくる。
http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2014/05/21/dna.jpg
本土の日本人は縄文人と無関係だった
http://www.kahaku.go.jp/research/department/anthropology/report02/s-IshidaFig1.jpg まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>191
>奴国については「行」の字が無いが、「至」の一字でも到着の意味はあるし、
「至」が到着の意味をもつのは、「動詞+至」の時。
「行至」「渡至」「度至」等
「至」の一字では、到着の意味はない。
「至」の一字では、「〜迄」の意味
>私や汝より漢文に精通していたであろう梁書の解釈からも、位置関係であるとは解せない。
梁書倭伝は魏志倭人伝を誤読している。
魏志倭人伝:「東南 至 奴國 百里」
「至」は起点(伊都國)と終点(奴國)の位置関係の表示。
梁書倭伝:「又 東南行 百里 至奴國」
「至」は終点(奴國)に到着の意味。 >>204
>「至」の一字では、到着の意味はない。
>「至」の一字では、「〜迄」の意味
それは目から鱗だ。以下の解説たのむ。
魏書・武帝紀
太祖至陳留、散家財、合義兵、將以誅卓。
冬十月、太祖至東阿。
太祖遂至洛陽、衞京都、暹遁走。
紹於是渡河追公軍、至延津南。
公自江陵征備、至巴丘、遣張憙救合肥。
>>私や汝より漢文に精通していたであろう梁書の解釈からも、位置関係であるとは解せない。
>梁書倭伝は魏志倭人伝を誤読している。
私はともかく、汝に、梁書や陳書と同等か、それを凌駕する書物を著す力量があるのかね。
とりあえず、漢詩の一つも作ってみれくれれれば納得しよう。
そのくらいのこともできないなら、安易に誤読しているなどと決め付けないことだ。
それから、姚思廉の見たテキストと、我々の見ているテキストが、同一であった可能性は相当低い。
我々より良質のテキストを見ていたなら、姚の解釈の方が妥当であると考えていいだろう。
さて、何よりも気になるのは、魏代のすんばらしい航海技術だよ。
暴風雨の中を進むと、魏からオリエント?に到達するらしいが、
現代でも暴風雨の中をわざわざ航海する愚かな船舶は存在しないのだが、
当時の船が、風向きも一定しない暴風雨の中を、本当に急行できたのかね?
それと、「水行半歳」は、大秦からなのか魏からなのか、はっきりしてもらいたい。 >>205
「太祖至陳留、散家財、合義兵、將以誅卓。」
「冬十月、太祖至東阿。」
「太祖遂至洛陽、衞京都、暹遁走。」
「公自江陵征備、至巴丘、遣張憙救合肥。」
上記は、状況や位置を示す単独使用の「至」である。
達して在る、及んで在る、行き着いて在る。距離を伴うと(Aから)B迄に在る。
「紹於是渡河追公軍、至延津南。」
上記は、「動詞+至」の例 「渡&追+至」
至る、きたる、到着
>我々より良質のテキストを見ていたなら、姚の解釈の方が妥当であると考えていいだろう。
君の言動は、畿内説が南を東に換えたり、
一部の九州説が伊都國は末盧國の東南を東北に換えたりしているのと同じだ。
>「水行半歳」は、大秦からなのか魏からなのか、はっきりしてもらいたい。
驢分(エジプト)から魏への「水行半歳」です。
なぜなら、風疾風時に水行一月は、順風の西から東のコースの時に可能性がある。
低気圧の進行方向や左巻きの風向きと、モンスーンの風向きから不可能ではない。
魏人のアラビア人やインド人からの伝聞知識と考えられる。
東から西のコースは絶望的な可能性。 >>206
毎度のことで悪いけど、そういう読み方が訓読だとどうなるのか、示して欲しいんだが?
もしかして、できないの?
>我々より良質のテキストを見ていたなら、姚の解釈の方が妥当であると考えていいだろう。
>君の言動は、畿内説が南を東に換えたり、
>一部の九州説が伊都國は末盧國の東南を東北に換えたりしているのと同じだ。
論点をずらしているようだが。図星すぎて返事もしたくないということでいいのかな?
漢詩の一つも作れないのに、姚思廉が誤読していると、どうして断言できるのか?
驢分の話は、つまらないから結構だ。
基本的な読解すら満足にできていない人の話を聞いても無駄だしね。
ネタで言ってるなら、ふざけるのもいい加減にして欲しいし、
まじめに言ってるなら、ちょっと救いようが無いかもね。
ま、雨天決行どころか、暴風雨中敢行には笑わせて貰ったので、それについては感謝してるよw
ありがとう。
これからもお笑い漢文講座を続けてください。 >>1
1400年前にメートル法はまだ無かったよね? たしか日本でも唐でも律令に日数あたりの里程がきまってたろ
水行十日=水行一日×十日≒千里/日×十日≒76.4km/日×十日=764km
>>207
漢文訓読がオールマイティだと思っている馬鹿発見 >>212
白文だと、語順の違いや文字の有無で大きく意味が変わるけど、
訓読では、それを表現しようがないって、例えばどんなのがある? まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 「漢文訓読がオールマイティ」なんて誰も言ってないじゃん
漢文訓読すら出来ないのに何が解るの?って話だろ
基礎の基礎が解ってない奴に何が解るの? 要は「日本語に翻訳してみろ」って話だろ
日本語に翻訳出来ないのに「この文章の意味は…」と解説した所で何の意味もない
日本語に翻訳出来ない=文意を理解していないってこと
自身が理解していない文章をどう解説しようというのか >>212
数種類の言語をある程度のレベルまで学んだ者にはわかると思うが。
*直訳
単語を置き換えただけなので、事実に基く意味が全く違うものになることがある。
*意訳
感情情緒の翻訳に重点をおく方法と、
事実の正確な伝達に重点をおく方法がある。
漢文訓読は、定型化した翻訳であるので、直訳の一例。
最近の事例の意訳
force to laber 強制労働
force to work 勤労動員(韓國では強制労働と国内向けに発表) >>213
>>217
「父母兄弟臥息異處 」
上記を訓読しても、事実の正確な伝達としての意訳は出来ない。
さて、上記は別の部屋と読むのか、別の室と読むのか、はたまたベッドは別と読むのか、どう読めばいいのだろう? >>220
>>213だけど、その例文のどこが、私が>>213で求めたような文なんだ?
私は、>>204>>206の言うような、特定の文字や語順の場合に、
それがどう訓読に反映されるのかを知りたかったのだが。
>>220は動詞が変わったり、語順が変わったりすると、意味が大きく変わるのか?
そしてそれを訓読には反映させられないのか?
>上記を訓読しても、事実の正確な伝達としての意訳は出来ない。
というけど、なら白文では、意訳に十分な情報が読みとれるのか?
白文の段階で簡潔すぎるものの不十分さを、訓読の所為にしてどうするの?
ピントのぼけたことを言うのはやめてもらいたい。 >>220
文脈で明らかな場合はなるべく簡略な文にするのが漢文の常識だろ
「屋室あり」の前提だからベッドがちがうとか部屋や違うとかでなく
建物がちがうのは明らか >>223
つまり屋室が竪穴住居でこれがいくつも集まって倭人伝のいう「1戸」になってる
この屋室は奈良時代の房戸に相当し、倭人伝のいう「戸」は奈良時代の郷戸に相当 「父母兄弟臥息異處 」
遺跡を掘っても縦穴住居の数は多くない。
父母と娘子供は竪穴住居に住み、兄弟は其々苫屋(掘立小屋)に住む。
竪穴住居1軒と2〜3軒の兄弟用小屋で一戸。
壱岐対馬や玄界灘に面した冬季強風寒冷地では、
竪穴の深い竪穴住居に、一戸全員が雑居。 コテ付けて語る前にスレタイでも見たらいいんじゃなかろうか >>1
唐六典や日本の律令から簡単に割り出せるだろ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています