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質問だけど水行10日って何キロなの? [転載禁止]©2ch.net
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0001佐藤
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2015/05/20(水) 10:08:38.86
質問だけど水行10日って何キロなの?
0167日本@名無史さん
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2015/07/29(水) 22:52:59.30
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
0168日本@名無史さん
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2015/07/29(水) 22:53:32.63
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
0170日本@名無史さん
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2015/07/30(木) 13:20:07.53
>>159
目的語(終点)と修飾語(旅程)の位置が交替しても、主題(起点)は変動しない。

和文で言えば、「下り列車は東京駅に三〇分で着く」が「下り列車は三〇分で東京駅に着く」になっても、
起点は変わらないし、変えられない。明示されなくては分からないし、分かりようがない。

「東南至奴國百里」と「南至投馬國水行二十日」とでは、
里程か日程かだけで構文は変わらず、後続する文が官名と戸数を記す点も同じなのに、
どうして起点が伊都国だったり帯方郡だったり、変わってしまうの?

>>163
>「從郡至倭」であって「自郡至倭」ではない。
>「自郡至倭」ならコロコロ起点は変わらない。
>「從」は「帯方郡」が経過点であること示す語である。
申し訳ないけど、意味がさっぱり分かりない。
倭人条の冒頭には「從郡至倭」とあるけど、途中には「自郡至女王國」とある。
「自」と「從」は、音価は異なるけど、声母は破裂音で、韻母は前舌狭母音で始まるという共通点からは、
類音同義の単なる助字と解されるので、殊更厳密に意味を使い分けてるとは思えない。
「從」が起点でなく経過点なら、訓読は「郡より」でなく「郡をへて」となり、起点を別に設定しなくてはならない。
「郡を通って」なら、起点は郡から見て倭の反対方向になるし、
「郡の先」「郡の向こう」だと、起点は郡より倭に近い所になるよ?

>>164
>始度一海千餘里至對海國
始めて一つ海を度ること千餘里にして對海國に至る。
>始度一海至對海國千餘里
始めて一つ海を度りて對海國に至ること千餘里なり。

意味は変わらない。

>其北岸狗邪韓國が韓地における倭人の中心地であることを意味する。
航路の起終点というだけで中心地なら、倭地の中心は末盧國かね。
0171日本@名無史さん
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2015/07/30(木) 13:21:04.44
以下、裴註所引の魏略・西戎傳から引用する。

魏略を著した魚豢は、陳寿より少し前の世代に当たるが、同時代人とみなして異論はなかろうし、
用字、語法、構文においても、同時代の史家として陳寿と比較して問題はないどころか、好適ですらあろう。

 從敦煌玉門關入西域、前有二道、今有三道。
 從玉門關西出、經婼羌轉西、越蔥領、經縣度、入大月氏、爲南道。
 從玉門關西出、發都護井、回三隴沙北頭、經居盧倉、從沙西井轉西北、過龍堆、到故樓蘭、轉西詣龜茲、至蔥領、爲中道。
 從玉門關西北出、經坑、辟三隴沙及龍堆、出五船北、到車師界戊己校尉所治高昌、轉西與中道合龜茲、爲新道。

玉門関から西方へ延びる三つの道について、それぞれの経由地やら終点やらを述べている。
各文末に終点と道路名称を記しているのだから、156の主張が正しいなら「從玉門關西出」の三出はあまりにも冗長であろう。
つまり、旅程の記事では、直前の地点から任意の地点へ起点が変わる場合、明示されるというのが原則であるという好例である。

 澤散王屬大秦、其治在海中央、北至驢分、水行半歲、風疾時一月到、

同一の文に「至」と「到」を見ることができる。意味に違いがあるのなら、解説をおねがいしたい。
0172日本@名無史さん
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2015/07/30(木) 13:21:40.07
 驢分王屬大秦、其治去大秦都二千里。從驢分城西之大秦渡海、飛橋長二百三十里、渡海道西南行、繞海直西行。

「二千里」というのは、後述される「二百三十里」以下の行程の総距離である。
倭人条で、「南至邪馬臺國、女王之所都、水行十日、陸行一月。」が帯方郡からの行程であるなら、
「自郡至女王國萬二千餘里。」を行程記事の末尾に、わざわざ「自郡至女王國」を改めて書き加えて置く理由が分からない。
近接して「南至邪馬臺國、女王之所都、水行十日、陸行一月、凡萬二千餘里也。」とでも書けば良かったではないか。
「南至邪馬臺國」と「自郡至女王國」は離れて記されており、わざわざ「自郡至女王國」と断っているのだから、
「水行十日、陸行一月」と「萬二千餘里」とがイコールではないことが知れよう。

 此上三國、堅昆中央、
 俱去匈奴單于庭安習水七千里、南去車師六國五千里、西南去康居界三千里、西去康居王治八千里。

ある地点から複数の地点の距離を示すには、「去」を使った構文がある。
行程記事の途中で、伊都国や帯方郡からの分岐記事を示すのであれば、「去」構文にしたと考えるのが自然である。
より分かり易い「去」構文があるのに、「自」「従」「至」「到」に微言大義を与えて解釈するのは、邪道ではないか。
0173日本@名無史さん
垢版 |
2015/07/30(木) 13:56:39.91
「去」構文にしたのでは、主人公は遠国の「女王・女王国」になってしまう

わざわざ「自郡至女王國」にしたのは、あくまで主人公は郡で、女王は臣下あるぞえ、と言わんがため
このあたりが稀代の執筆者の筆の冴え
0174日本@名無史さん
垢版 |
2015/07/30(木) 14:25:18.34
>>173
「去」にすると目的語が与格から奪格になるだけだぞ?
なんで主人公になるの?
0175日本@名無史さん
垢版 |
2015/07/30(木) 14:34:35.37
天子の元から去ってしまってはイカンだろう
0176日本@名無史さん
垢版 |
2015/07/30(木) 14:48:03.94
>>175
 夫餘在長城之北、去玄菟千里、
 北沃沮一名置溝婁、去南沃沮八百餘里、
 又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。

何れも東夷傳からだが、なぜこれらは「去」を使って、天子から去ったという表現にしたのか、
筆の冴えとやらの解説をおねがいしたい。
0177日本@名無史さん
垢版 |
2015/07/30(木) 15:03:16.79
>夫餘在長城之北、去玄菟千里
長城の北だから取るに足りない異民族扱いでよかろう

>人長三四尺、去女王四千餘里
小人の国で、政治軍事的脅威を考慮するに及ばず、さして役に立たない奴らだ

要するに差別用語だな
0178日本@名無史さん
垢版 |
2015/07/30(木) 15:12:57.42
>>177
「去」構文では後置される語が主語になるという高説にはとても感心したので、
後学のために手数ながら、>>176の三文に訓点をつけてもらいたい。
0179日本@名無史さん
垢版 |
2015/07/30(木) 15:37:57.55
自分の訓読も示しておくので、添削してもらいたい。

夫餘は長城の北に在り、玄菟(郡)を去ること千里なり、
北沃沮は一名を置溝婁とす、南沃沮を去ること八百餘里なり、
また侏儒國有りて其の南に在り、人の長は三、四尺なり、女王(國)を去ること四千餘里なり。

何れも「を去ること」としたが、「を」は「より」「から」に置換できる。
あくまでも目的語であって、西欧の文法に則して言えば奪格に相当する。
動詞(術語)に後置される語が主語のように解される例は、
「有」「無」「多」「少」を含む文くらいのものであろう。

ついでに「自郡去女王國」という場合の訓読も、どのようにすればいいか、お尋ねしたい。
主語となる以上は、「は」「が」といった格助詞を付けるか、格助詞を付けないものになると思うが、いかがか。
0180日本@名無史さん
垢版 |
2015/07/30(木) 15:52:48.56
倭人伝の執筆者(監修者)はいたるところで階層区分(区別・差別)の表現を取っている
すなわち基本的には文法の問題でなく、
主従隷のような上中下の身分関係をどのようにして表わすかに腐心しているように思える
そのような目で見ると、たとえば倭人伝30カ国も、
数グループに分け、巧妙に階層区分(差別)を行っていると読める
0181日本@名無史さん
垢版 |
2015/07/30(木) 16:09:35.07
>>180
>倭人伝の執筆者(監修者)はいたるところで階層区分(区別・差別)の表現を取っている
要するに、倭人条にしか関心が無い、ということを言いたいのかな。

>すなわち基本的には文法の問題でなく、
要するに、文法の話はできない、ということを言いたいのかな。

>主従隷のような上中下の身分関係をどのようにして表わすかに腐心しているように思える
根拠も示さず、ただ思うなら、誰にでもできる。

>そのような目で見ると、
個人的な主観で見ても意味が無い。

>たとえば倭人伝30カ国も、数グループに分け、巧妙に階層区分(差別)を行っていると読める
ではその巧妙な階層区分の成果を披露されたい。

腐心して表現した巧妙な階層区分というのが、用字、語法、構文を用いず、どうやって他人に伝えられるのか、
実に興味深い。
0182日本@名無史さん
垢版 |
2015/07/30(木) 20:09:39.31
>>169

こまけー事は、いいんだよ
実際、海から川を上り、湖に川を下れば、陸行は5〜10km程度だろ
0183日本@名無史さん
垢版 |
2015/07/30(木) 20:34:14.36
>>182
そんな面倒な行程ふむなら日数かかっても関門回って瀬戸内を行くわ。
そしてその細かいことを無視した行程が水行十日なら、
陸行一月でどこまで行っちゃうんだか、出雲に戻れそう。
0184日本@名無史さん
垢版 |
2015/07/30(木) 22:35:07.09
>>170
>「從」が起点でなく経過点なら、訓読は「郡より」でなく「郡をへて」となり、起点を別に設定しなくてはならない。
>「郡を通って」なら、起点は郡から見て倭の反対方向になるし、

正解です。
「從(从)」は現代語でいうところの前置詞の働きをしています。
(通過地点・経過コースを示し)…から,…を通って,…越しに

だから、視野点の起点は天子洛陽となり、距離の起点は「郡」となります。
距離の第一起点は、「從郡」となり、
距離の第二起点は、「到其北岸狗邪韓國」となり、
距離の第三起点は、「到伊都國」となります。

>澤散王屬大秦、其治在海中央、北至驢分、水行半歲、風疾時一月到、
>同一の文に「至」と「到」を見ることができる。意味に違いがあるのなら、解説をおねがいしたい。

上記回答は得られたことと思う。
「至」の距離の起点は「大秦」
「到」の距離の起点は「魏」
0185日本@名無史さん
垢版 |
2015/07/30(木) 23:43:29.67
>>183

後の時代でも九州から関西へは対馬海流にただ乗りできる日本海ルートだよ

無論、
もし陸行すれば一月という事で、態々実践するほどシナ人も暇じゃないだろう
0186日本@名無史さん
垢版 |
2015/07/31(金) 08:55:41.95
>>始度一海千餘里至對海國
> 始めて一つ海を度ること千餘里にして對海國に至る。
>>始度一海至對海國千餘里
> 始めて一つ海を度りて對海國に至ること千餘里なり。
> 意味は変わらない。

誤訳された日本語で考えたらだめよ。

>航路の起終点というだけで中心地なら、倭地の中心は末盧國かね。
「到末盧國」なら倭地のひとつの中心地と言えるが、
「至末盧國」では倭地のひとつの経由地に過ぎない。

>玉門関から西方へ延びる三つの道について、それぞれの経由地やら終点やらを述べている。
>各文末に終点と道路名称を記しているのだから、156の主張が正しいなら「從玉門關西出」の三出はあまりにも冗長であろう。

玉門が終点が異なる3方面に分かれる分岐点だから、
方面別に「從」が必要。各「從」がなければ「玉門」から「龜茲」までの行ったり来たりの一本道になる。
0187日本@名無史さん
垢版 |
2015/07/31(金) 09:25:35.22
>>184
反駁しない点については、全て是認された、とみなすほかないので、よろしく。

>視野点の起点は天子洛陽となり、
不必要な説明の典型例だね。
Wikipediaのオッカムの剃刀の解説にある「神が」と同じ。
「視野点」という不思議な単語にはきちんと定義を与えて欲しい所だが、まあ要りまへん。
野暮なことを言えば、天子は皇帝であって、洛陽は首都だし。
起点と終点はセットなので、洛陽から帯方への行程記事が無いから、洛陽は起点にならない。

正史が記述の視点を首都に置いたとするのは、暗黙の了解であろうが、行程記事で一々意識する必要性は無い。
主語と目的語で、君臣の義を説くというのも、主張の根拠が全く示されない。
臣下が主語となっている文など幾らでもあるのに、行程記事いおいてはそれが認められないというのも、全く恣意的でしかない。

倭人条だけを恣意的に解釈するための独自理論は要らない。
「自」と「從」とに主張するような使い分けがあったというなら、他から類例を紹介されたい。

で、「到」で示す地点が任意の起点になりうるという根拠が、さっぱり示されていない。
奴国から邪馬台国までの記事が、「到」で示された伊都国を起点としたものだというなら、
「到」で示された狗邪韓國からの分岐記事は、なぜ無いのか。整合性がまるでない。
0188日本@名無史さん
垢版 |
2015/07/31(金) 09:26:18.67
>>澤散王屬大秦、其治在海中央、北至驢分、水行半歲、風疾時一月到、
>>同一の文に「至」と「到」を見ることができる。意味に違いがあるのなら、解説をおねがいしたい。
>「至」の距離の起点は「大秦」
>「到」の距離の起点は「魏」
まるで頓珍漢だね。
澤散王は大秦に屬す、其の治(所)は海の中央に在り、北の驢分に至るには、水行すること半歳なり、風の疾き時は一月にして到る、
この文が述べているのは、澤散王の治所と驢分国との距離だよ?
後続する「驢分王屬大秦、其治去大秦都二千里、」以下の文を読んでないね?
驢分の時には「其治」で驢分の治所を述べるのに、澤散の時にはどうして大秦の治所になるの?
「北至驢分」が大秦からだとするなら、「從驢分城西之大秦渡海」と矛盾するよ? 北の反対は西なの?
更に後続して「且蘭王屬大秦」「賢督王屬大秦」と出てくる。
別枝の小國が大秦に屬していると書かれているだけなのに、また術語の「屬」に後置される語が主語になるの?
漢文はSVO型。現代中文はSOV型にもなる。けど、主語が述語の後に来るということは、殆ど無いよ?
澤散はローマの属国だけど、条件が良ければ魏から一月で到達するの?
現代のヨットもびっくりの凄い高速航海技術だね。

>上記回答は得られたことと思う。
説明が漢頓珍すぎて、回答の体を成していない。
0189日本@名無史さん
垢版 |
2015/07/31(金) 09:29:21.00
>>186
>誤訳された日本語で考えたらだめよ。
では、正しい訓読を示してもらいたい。
それほど漢文の知識があるなら、訓読くらい朝飯前だろう。

それから、目的語と修飾語の位置関係によって、主語や主題が変更される、
というような漢文法の解説は、他に誰が主張しているのか、それを知るのに適した教本なり論文なりはあるのか。

>「到末盧國」なら倭地のひとつの中心地と言えるが、
>「至末盧國」では倭地のひとつの経由地に過ぎない。
相変わらず、根拠がまるで示されていないではないか。言い張るだけなのか。
また野暮なことを言えば、中心地が幾つもあるのには違和感を覚える。要地であるなら了承するが。
「到」と「至」を端的に使い分けている用例を、三国志でなくともいいから呈示されたい。

>方面別に「從」が必要。各「從」がなければ「玉門」から「龜茲」までの行ったり来たりの一本道になる。
倭人条で伊都やら帯方やらから分岐しているなら、「從」なり「自」なりを付してあるはずである。
申し訳ないが、反論になっていない。

信念を貫くのは勝手だが、無理に出て来なくてもいいよ?
0190日本@名無史さん
垢版 |
2015/07/31(金) 11:33:42.55
西域伝では行程が玉門で3方向に分岐している。

倭人条では、洛陽から不彌國まで一本道の行程。
奴國は伊都國との位置関係の表示で行程外。
投馬國と邪馬壹國も不彌國との位置関係の表示で行程外。

行程を示す文の構成は、「方向」+「動詞」+「至」+「目的地名」
位置関係を示す文の構成は、「方向」+「至」+「目的地名」

石頭の御方理解できるかな?
0191日本@名無史さん
垢版 |
2015/07/31(金) 12:14:55.80
>>190
反駁しない点については、全て是認された、とみなすほかないので、よろしく。

でも、魏から一ヶ月で驢分に行くにはどうしたのか、とても気になる。

>倭人条では、洛陽から不彌國まで一本道の行程。
どこにも洛陽は出て来ない。残念だね。

>奴國は伊都國との位置関係の表示で行程外。
>投馬國と邪馬壹國も不彌國との位置関係の表示で行程外。
不彌國が起点となっているのに、なぜ「東行到不彌國」ではないのか。
「至」と「到」の使い分けは、もう諦めたのか。

>行程を示す文の構成は、「方向」+「動詞」+「至」+「目的地名」
>位置関係を示す文の構成は、「方向」+「至」+「目的地名」
「行(渡)+目的語+至+修飾語」「至+目的語+行(渡)+修飾語」
確かに漢文の性質として、語順が変われば意味も変わる時があるが、大差の無いこともある。
主張は宜しいがそれならば、他の類例を挙げて説明して欲しいと、先にも願ったはずだ。
漢文読解の通例としてそのように理解するしかないなら、なぜ他書の用例が出て来ないのか。

奴国については「行」の字が無いが、「至」の一字でも到着の意味はあるし、
私や汝より漢文に精通していたであろう梁書の解釈からも、位置関係であるとは解せない。

脳軟化症から見れば常人は石頭なのかもしれない。
0192日本@名無史さん
垢版 |
2015/07/31(金) 12:18:42.81
>>191
失礼した。
×「行(渡)+目的語+至+修飾語」「至+目的語+行(渡)+修飾語」
○「行(渡)+至+目的語+修飾語」「至+目的語+行(渡)+修飾語」
0193日本@名無史さん
垢版 |
2015/07/31(金) 12:22:06.62
「自郡至女王國」「從郡至倭」
帯方郡から女王國(不彌國)まで12000里
不彌國は女王國に属す。

「從郡至倭」
帯方郡から邪馬壹國まで水行10日陸行1月
帯方郡から末盧國まで水行10日(11400里)
末盧國から邪馬壹國まで陸行1月(1000里)
末盧國から不彌國まで陸行600里
故に不彌國から邪馬壹國までは400里

この邪馬壹國は官伊支馬の城柵であって、「女王之所都(卑弥呼の城柵)」ではない。

石頭君は理解したくない?
0194日本@名無史さん
垢版 |
2015/07/31(金) 12:35:37.88
>>193
反論への再反論には全くなってないけど、いいのかな?
用字、文法の主張は全部放棄ということで、いいのかな?

あと一番気になる、魏から一ヶ月で驢分に行った経路を教えて欲しいんだが。
0195日本@名無史さん
垢版 |
2015/07/31(金) 13:03:51.39
反駁しない点については、全て是認したのではなく、返答にうんざりしているだけ。

>魏から一ヶ月で驢分に行くにはどうしたのか、とても気になる。

回答済み。モンスーン・台風・サイクロンに乗った帆走。
0196日本@名無史さん
垢版 |
2015/07/31(金) 13:14:48.98
>モンスーン・台風・サイクロンに乗った帆走。

時速18km/h

「水行半歳」なら、時速3.1km/h
0197日本@名無史さん
垢版 |
2015/07/31(金) 13:15:57.11
キチガイしかいないスレで反論するだけアホ
見守ってきたが、そろそろ潮時だな。あばよ
0198日本@名無史さん
垢版 |
2015/07/31(金) 13:17:33.14
>>195
返答に窮した言い訳としては下手な部類だね。
自説に自信があるなら時間をかけてもいいから、ちゃんと潰しておいた方がいいんじゃない?
日中から2ちゃんねるに来てるけど、そんな暇は無いのかな?
こちらは別に期限を設けてるわけでもないから、よろしく。

>>魏から一ヶ月で驢分に行くにはどうしたのか、とても気になる。
>回答済み。
いや、今初めて回答をもらったんだけど?

>モンスーン・台風・サイクロンに乗った帆走。
すげーwww
よく難破しないで辿り着いたねw
現代でも嵐の時にわざわざ航海に出る船は居ないのにw
0199日本@名無史さん
垢版 |
2015/07/31(金) 13:19:07.48
>>196
「水行半歳」は大秦からじゃないの?

>>197
じゃあね、キチガイ。
0200日本@名無史さん
垢版 |
2015/07/31(金) 14:52:08.76
>>198
>>>魏から一ヶ月で驢分に行くにはどうしたのか、とても気になる。
>>回答済み。
>いや、今初めて回答をもらったんだけど?
ごめん、大きな勘違いをしてた。
あなたは>>150だったのね。
>>156の時点で違う人になってたと思ってたのよ。
失礼しました、そして、なんというか、お気の毒さま。
0201日本@名無史さん
垢版 |
2015/07/31(金) 17:06:27.63
日本人の起源 〜遺伝学電子博物館
http://www.nig.ac.jp/museum/evolution/02_e.html

特に、韓国人と本土日本人の二集団間の遺伝距離はゼロであった。やはりこの分析で
も、韓国人と本土日本人は遺伝的にきわめて近縁な関係にあることが明らかとなった
のである。
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_26_02.gif

つぎに、集団間で求めた遺伝距離をもとに集団の系統樹を作成した(図26)。この系
統樹では、アフリカ人が他の人類集団に先がけて分岐し、続いてヨーロッパ人が分か
れ、さらにアメリカ先住民が分岐している。最後に、東アジアの五集団が単一系統
のクラスターを形成して枝分かれしてくる。東アジア人のクラスターでは、アイヌ
が最初に分岐し、続いて中国人が枝分かれしてきたことが読み取れる。続いて琉球人
が枝分かれし、最後に韓国人と日本人が緊密なグループとして分岐してくる。

http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2014/05/21/dna.jpg

本土の日本人は縄文人と無関係だった
http://www.kahaku.go.jp/research/department/anthropology/report02/s-IshidaFig1.jpg
0202日本@名無史さん
垢版 |
2015/07/31(金) 20:37:46.31
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
0203日本@名無史さん
垢版 |
2015/07/31(金) 20:38:26.31
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
0204日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/02(日) 09:40:38.89
>>191
>奴国については「行」の字が無いが、「至」の一字でも到着の意味はあるし、

「至」が到着の意味をもつのは、「動詞+至」の時。
「行至」「渡至」「度至」等

「至」の一字では、到着の意味はない。
「至」の一字では、「〜迄」の意味


>私や汝より漢文に精通していたであろう梁書の解釈からも、位置関係であるとは解せない。

梁書倭伝は魏志倭人伝を誤読している。

魏志倭人伝:「東南 至 奴國 百里」 
「至」は起点(伊都國)と終点(奴國)の位置関係の表示。

梁書倭伝:「又 東南行 百里 至奴國」 
「至」は終点(奴國)に到着の意味。
0205日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/03(月) 12:05:56.31
>>204
>「至」の一字では、到着の意味はない。
>「至」の一字では、「〜迄」の意味
それは目から鱗だ。以下の解説たのむ。

 魏書・武帝紀
  太祖至陳留、散家財、合義兵、將以誅卓。
  冬十月、太祖至東阿。
  太祖遂至洛陽、衞京都、暹遁走。
  紹於是渡河追公軍、至延津南。
  公自江陵征備、至巴丘、遣張憙救合肥。

>>私や汝より漢文に精通していたであろう梁書の解釈からも、位置関係であるとは解せない。
>梁書倭伝は魏志倭人伝を誤読している。
私はともかく、汝に、梁書や陳書と同等か、それを凌駕する書物を著す力量があるのかね。
とりあえず、漢詩の一つも作ってみれくれれれば納得しよう。
そのくらいのこともできないなら、安易に誤読しているなどと決め付けないことだ。
それから、姚思廉の見たテキストと、我々の見ているテキストが、同一であった可能性は相当低い。
我々より良質のテキストを見ていたなら、姚の解釈の方が妥当であると考えていいだろう。

さて、何よりも気になるのは、魏代のすんばらしい航海技術だよ。
暴風雨の中を進むと、魏からオリエント?に到達するらしいが、
現代でも暴風雨の中をわざわざ航海する愚かな船舶は存在しないのだが、
当時の船が、風向きも一定しない暴風雨の中を、本当に急行できたのかね?
それと、「水行半歳」は、大秦からなのか魏からなのか、はっきりしてもらいたい。
0206日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/03(月) 21:55:01.73
>>205
「太祖至陳留、散家財、合義兵、將以誅卓。」
「冬十月、太祖至東阿。」
「太祖遂至洛陽、衞京都、暹遁走。」
「公自江陵征備、至巴丘、遣張憙救合肥。」

上記は、状況や位置を示す単独使用の「至」である。
達して在る、及んで在る、行き着いて在る。距離を伴うと(Aから)B迄に在る。

「紹於是渡河追公軍、至延津南。」

上記は、「動詞+至」の例 「渡&追+至」
至る、きたる、到着


>我々より良質のテキストを見ていたなら、姚の解釈の方が妥当であると考えていいだろう。

君の言動は、畿内説が南を東に換えたり、
一部の九州説が伊都國は末盧國の東南を東北に換えたりしているのと同じだ。


>「水行半歳」は、大秦からなのか魏からなのか、はっきりしてもらいたい。

驢分(エジプト)から魏への「水行半歳」です。
なぜなら、風疾風時に水行一月は、順風の西から東のコースの時に可能性がある。
低気圧の進行方向や左巻きの風向きと、モンスーンの風向きから不可能ではない。
魏人のアラビア人やインド人からの伝聞知識と考えられる。
東から西のコースは絶望的な可能性。
0207日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/03(月) 22:22:21.90
>>206
毎度のことで悪いけど、そういう読み方が訓読だとどうなるのか、示して欲しいんだが?
もしかして、できないの?

>我々より良質のテキストを見ていたなら、姚の解釈の方が妥当であると考えていいだろう。

>君の言動は、畿内説が南を東に換えたり、
>一部の九州説が伊都國は末盧國の東南を東北に換えたりしているのと同じだ。
論点をずらしているようだが。図星すぎて返事もしたくないということでいいのかな?
漢詩の一つも作れないのに、姚思廉が誤読していると、どうして断言できるのか?

驢分の話は、つまらないから結構だ。
基本的な読解すら満足にできていない人の話を聞いても無駄だしね。
ネタで言ってるなら、ふざけるのもいい加減にして欲しいし、
まじめに言ってるなら、ちょっと救いようが無いかもね。
ま、雨天決行どころか、暴風雨中敢行には笑わせて貰ったので、それについては感謝してるよw
ありがとう。
これからもお笑い漢文講座を続けてください。
0208日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/06(木) 07:32:09.81
>>1
1400年前にメートル法はまだ無かったよね?
0209日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/06(木) 08:15:15.47
アホか
0210日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/07(金) 07:03:28.77
たしか日本でも唐でも律令に日数あたりの里程がきまってたろ
0211日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/07(金) 10:52:00.11
  
水行十日=水行一日×十日≒千里/日×十日≒76.4km/日×十日=764km
0212日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/07(金) 11:02:57.26
  
>>207

漢文訓読がオールマイティだと思っている馬鹿発見
0213日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/07(金) 17:45:39.62
>>212
白文だと、語順の違いや文字の有無で大きく意味が変わるけど、
訓読では、それを表現しようがないって、例えばどんなのがある?
0214日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/07(金) 19:51:03.03
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
0215日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/07(金) 19:51:44.00
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
0216日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/07(金) 23:37:47.84
「漢文訓読がオールマイティ」なんて誰も言ってないじゃん
漢文訓読すら出来ないのに何が解るの?って話だろ
基礎の基礎が解ってない奴に何が解るの?
0217日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/07(金) 23:46:47.24
要は「日本語に翻訳してみろ」って話だろ
日本語に翻訳出来ないのに「この文章の意味は…」と解説した所で何の意味もない
日本語に翻訳出来ない=文意を理解していないってこと
自身が理解していない文章をどう解説しようというのか
0218日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/07(金) 23:46:57.80
>>212

数種類の言語をある程度のレベルまで学んだ者にはわかると思うが。

*直訳
  単語を置き換えただけなので、事実に基く意味が全く違うものになることがある。
*意訳
  感情情緒の翻訳に重点をおく方法と、
  事実の正確な伝達に重点をおく方法がある。

漢文訓読は、定型化した翻訳であるので、直訳の一例。


最近の事例の意訳
force to laber 強制労働
force to work 勤労動員(韓國では強制労働と国内向けに発表)
0220日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/08(土) 02:03:42.76
>>213
>>217

「父母兄弟臥息異處 」

上記を訓読しても、事実の正確な伝達としての意訳は出来ない。

さて、上記は別の部屋と読むのか、別の室と読むのか、はたまたベッドは別と読むのか、どう読めばいいのだろう?
0221日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/08(土) 11:43:53.05
>>220
>>213だけど、その例文のどこが、私が>>213で求めたような文なんだ?

私は、>>204>>206の言うような、特定の文字や語順の場合に、
それがどう訓読に反映されるのかを知りたかったのだが。

>>220は動詞が変わったり、語順が変わったりすると、意味が大きく変わるのか?
そしてそれを訓読には反映させられないのか?

>上記を訓読しても、事実の正確な伝達としての意訳は出来ない。
というけど、なら白文では、意訳に十分な情報が読みとれるのか?
白文の段階で簡潔すぎるものの不十分さを、訓読の所為にしてどうするの?

ピントのぼけたことを言うのはやめてもらいたい。
0222日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/08(土) 21:09:49.22
古代の中国語で「水」とは、河水(黄河)、江水(長江、すなわち揚子江)、淮水(淮河)
のように、もっぱら河川を指すものであり、海は、「海」なのです。
 従って、水行は、河川航行との主張は合理的と考えます。
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/691129/578086/79470453

水行
http://www.gcbcn.org/news/article.php?articleid=6299
http://jiejiaoxian.booksrc.net/491.html


魏志倭人伝は、海岸水行と渡海と水行を厳密に区別していたんだね。
0223日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/08(土) 21:16:09.11
>>220
文脈で明らかな場合はなるべく簡略な文にするのが漢文の常識だろ
「屋室あり」の前提だからベッドがちがうとか部屋や違うとかでなく
建物がちがうのは明らか
0224日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/17(月) 20:13:32.54
>>223
つまり屋室が竪穴住居でこれがいくつも集まって倭人伝のいう「1戸」になってる
この屋室は奈良時代の房戸に相当し、倭人伝のいう「戸」は奈良時代の郷戸に相当
0225久留米
垢版 |
2015/08/18(火) 13:35:07.31
「父母兄弟臥息異處 」

遺跡を掘っても縦穴住居の数は多くない。
父母と娘子供は竪穴住居に住み、兄弟は其々苫屋(掘立小屋)に住む。
竪穴住居1軒と2〜3軒の兄弟用小屋で一戸。

壱岐対馬や玄界灘に面した冬季強風寒冷地では、
竪穴の深い竪穴住居に、一戸全員が雑居。
0226日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/18(火) 14:00:14.25
コテ付けて語る前にスレタイでも見たらいいんじゃなかろうか
0227日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/18(火) 19:25:24.10
>>1
唐六典や日本の律令から簡単に割り出せるだろ
0228日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/18(火) 21:15:04.92
国土を過大に見積もらせるために、同じところを行ったり来たりしてる可能性さえあるよ。
0229日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/18(火) 22:15:24.03
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
0230日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/18(火) 22:16:03.50
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
0231日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/18(火) 23:48:15.53
>>228
そんな子供騙しが通用するかっつの
0233日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/20(木) 19:45:06.60
漢書や魏志で書かれた日本の呼称は「倭」の一文字。

シナの王朝が国外に与えた呼称で、一文字って他にどんな例があるのか。
0235日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/20(木) 21:26:49.24
>>233
填とか韓とか?
0236日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/20(木) 22:01:17.33
>>233
>>235に加えるなら、濊、貊、氐、奚、羌、羯、とか、
取り込まれたものでは、莱、閩、粤、俚、とか、
今に残るものでは、壮、苗、瑶、白、彝、とか、
たくさんあるが、何を言いたいんだ?
0238日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/21(金) 06:39:38.04
ところで?、トリビアで大阪湾(チヌの海)には右回りで還流する速い流れがあります。

神武天皇らの船舶が明石海峡(速吹の水門)を東に抜けた途端に未知の速い海流に流され
アレヨアレヨという間に大阪岸(住之江?)に流れ着いた。故に浪速と名付けた。

謡曲『高砂』で高砂から住之江(住吉大社)へ向かう行は、明石海峡に向かう引き潮と大阪湾の速い還流に乗れば約1日弱の船旅

淡路島の霊泉水が船で毎日樽に入れて朝廷に送られていた。
この還流を利用して河内、和泉地域と対岸の淡路島東浦側は歴史的に往来(船舶)が意外と簡単な為、結び付きが強い。
冬場の季節風で海が荒れる河内、和泉沿岸の漁労民らが淡路島の島陰で比較的海が穏やかな淡路島東浦側に移り仮小屋を建て漁労をしていました。、
0239日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/21(金) 07:00:30.02
渦潮で有名な鳴門海峡の最大流速は20〜25Km(大潮。瀬戸内海と太平洋(紀伊水道)との内外の落差2m)
また、明石海峡は意外と流れが速く最大流速は15Km以上。
同じく、紀淡海峡も流れが速く最大流速10Km以上。
0241日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/25(火) 16:02:13.56
>ところで?、トリビアで大阪湾(チヌの海)には右回りで還流する速い流れがあります。

それで難波津の代わりに大和田の泊の福原京が出てきたのかね。
江戸の世に下ってさえ、播磨明石でなく摂津兵庫津という価値観だったのだろう。

北前船とかでね。
0243久留米
垢版 |
2015/08/27(木) 10:41:14.52
>>242
>で、南への水行の起点となった不弥国はどこ?

不彌國は吉野ヶ里遺跡(魏使佐賀ルート説に基いて)

不彌國からの水行はありません。
投馬國と邪馬台国は不彌國に南接して並んであります。
投馬國は有明海沿いの筑後平野(5万戸)。
邪馬台国は筑後平野の内陸部(+北野地域)(7万戸)
0244日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/27(木) 13:33:24.25
例えば瀬戸内海を昼間は本州から四国、夜間は四国から本州というように
ジグザグに進めば、魏の使いに国土の大きさも方向感覚も誤魔化せるよ。
東に行ってるのにずっと南に進んだように思わせ、しかも相当の距離を
進んだかのように誤解させられる。
0245日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/27(木) 19:08:17.22
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
0246日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/27(木) 19:08:52.98
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
0247日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/28(金) 15:54:28.74
520 名前:日本@名無史さん [age] :2015/01/23(金) 16:58:43.06
>>518水系が違っていても、近くまで川が来ている場合、山越えの必要はない。
少なくとも宝満川と衣笠川は徒歩数分圏内

595 名前:日本@名無史さん [sage] :2015/01/23(金) 20:44:38.96
この川か。
筑紫野市紫2丁目付近だけど、思ったより水があるな。
http://i.imgur.com/zH9Ooir.jpg

一般に、川の水は昔の方が豊富だったそうだけど、これなら
今でも小舟が通れるぞ。

582 名前:日本@名無史さん [sage] :2015/01/23(金) 20:13:55.51
>>539
御笠川の源流か支流なんだね。

この辺りがあやしい。
http://i.imgur.com/MLlBZJK.jpg

664 名前:日本@名無史さん [sage] :2015/01/23(金) 22:52:40.12
>>661
ここか。
http://i.imgur.com/3tJHuyy.jpg

3から真南、モロに道になってる。これだなwww
0248日本@名無史さん
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2015/08/28(金) 17:33:43.61
舟の中で何日も接待していたから、邪馬台国まで行くのが遅れたのだろう
0249日本@名無史さん
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2015/08/28(金) 19:32:29.85
岸の人足が舟を縄で引っ張って進むんだから、時間かかるよ。
0250日本@名無史さん
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2015/08/29(土) 10:39:12.62
柳川の川下りでは、船頭の爺さんが、空舟を竹竿ついてさかのぼっていってたな。
流速が少なくて、堀が浅いからできるんだろうけどね。

で、昔水路として使われていそうな川で、しばしばいい具合に浅い川が見られることがある。
0251日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/29(土) 14:53:35.98
そもそも、帯方郡から女王国まで1万2千里だと言ってるが、
帯方郡から朝鮮半島南部まで7千里、朝鮮半島南部から対馬まで1千里、
対馬から壱岐(一大国)から1千里、壱岐から末盧国(長崎県松浦)まで1千里、
末盧国から伊都国(福岡県糸島)まで5百里と言っているので、
と言っているので、この時点で既に1万5百里。

大和までは、1万2千里の数字では無理ですな。
0252日本@名無史さん
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2015/08/29(土) 20:14:21.01
ところが漢書だと
朝鮮半島南部から邪馬台国まで7千里なんだよな
0253久留米
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2015/08/30(日) 15:03:17.41
>>252
>ところが漢書だと
>朝鮮半島南部から邪馬台国まで7千里なんだよな

漢書の何処に書かれてあるか、
何処にも無い。
0254日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/30(日) 21:51:16.93
>陸行1月についてまとめ

>畿内説
>@河内湾→奈良 35km 1.5km/日
>A舞鶴→奈良 120km 4km/日

>九州説
>@日田→佐伯(大分) 130km 4.6km/日
>A日田→日向(宮崎) 150km 5.5km/日
>B有明海→熊本 60km 2km/日
0255久留米
垢版 |
2015/08/30(日) 22:52:52.64
  
1月行=陸行1月=海行1月≒80km

5月行=海行1.5月+陸行3.5月≒400km(対馬北端〜大隅半島)

3月行=海行0.5月+陸行2.5月(五島西端〜豊後水道)
0256久留米
垢版 |
2015/08/30(日) 23:26:32.30
    
1月行=陸行1月=海行1月≒80km

5月行=海行1.5月+陸行3.5月≒400km(対馬久ノ下崎〜大隅半島佐多岬)

3月行=海行0.5月+陸行2.5月(五島大瀬崎〜大分佐伯市鶴御崎)
0257久留米
垢版 |
2015/08/30(日) 23:36:32.13
      
1月行=陸行1月=海行1月≒80km

5月行=海行1.5月+陸行3.5月≒400km(対馬久ノ下崎〜大隅半島佐多岬)

3月行=海行0.5月+陸行2.5月≒240km(五島大瀬崎〜大分佐伯市鶴御崎)
0259日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/31(月) 00:17:37.90
1か月が80kmとか100%ありえないだろ。
1日2km程度しか進めなくなる。
そのうえ、陸行と水行の単位を同系列で論じてるしwww
0260日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/31(月) 01:31:24.80
道が整備されてるわけでもないだろうから、1日あたり5キロがせいぜいだよ。
0262日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/31(月) 09:30:34.44
また痴呆老人が湧いてるのかwwwwww

うはw 直線距離とかwwww 
0263久留米
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2015/08/31(月) 09:36:18.74
>>259
>そのうえ、陸行と水行の単位を同系列で論じてるしwww

陸行500里=水行500里≒40km

>1か月が80kmとか100%ありえないだろ。

1月行=80kmとすると、

陸行1月=陸行(1月行)=陸行80km=80km

海行1月=海行(1月行)=海行80km=80km


隋書百済伝俀國伝で確認できますよ。
0264日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/31(月) 09:39:29.78
>>263 意味わかってる? 陸行と水行が同じ速さだったのか…ってことが
問題なんだよ。
0266日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/31(月) 09:58:36.14
普通に考えれば、「博多から畿内までかかった1月」という行程に
都合を合わせるために、月日で九州の大きさを示したんだろうね。
この隋書倭国伝の時点で、九州島の測量はされていただろうからね。

そうでないと、この時点で二種類の単位があることになっちゃうからね。
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