質問だけど水行10日って何キロなの? [転載禁止]©2ch.net
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>>51
邪馬台国畿内説の立場ではないので。
>>14
>ソウルから洛陽まで、黄海から黄河を遡って1600km水行するのに
ソウルから洛陽まで、黄海から淮水を遡って2100km水行
ソウル→漢江→黄海→淮水河口→淮水→北汝河→北汝河支流→汝陽市→陸行6km→白降河→伊河→洛陽
汝陽市部分の陸路6km以外は全て水行である。 520 名前:日本@名無史さん [age] :2015/01/23(金) 16:58:43.06
>>518水系が違っていても、近くまで川が来ている場合、山越えの必要はない。
少なくとも宝満川と衣笠川は徒歩数分圏内
595 名前:日本@名無史さん [sage] :2015/01/23(金) 20:44:38.96
この川か。
筑紫野市紫2丁目付近だけど、思ったより水があるな。
http://i.imgur.com/zH9Ooir.jpg
一般に、川の水は昔の方が豊富だったそうだけど、これなら
今でも小舟が通れるぞ。
582 名前:日本@名無史さん [sage] :2015/01/23(金) 20:13:55.51
>>539
御笠川の源流か支流なんだね。
この辺りがあやしい。
http://i.imgur.com/MLlBZJK.jpg
664 名前:日本@名無史さん [sage] :2015/01/23(金) 22:52:40.12
>>661
ここか。
http://i.imgur.com/3tJHuyy.jpg
3から真南、モロに道になってる。これだなwww >>51
>>54
>>57
「邪馬台国畿内説」の人は、邪馬台国畿内説スレに移行してください。
「邪馬台国畿内説」でない人は、このスレを続けて行きましょう。
1里=75m〜80mの短里説の人達は、このスレにドンドン書き込んでね。 >>59 正しくは畿内説の人は畿内説スレへ。九州説の人は九州説スレへ移動してくださいだな。 短里というのは狗邪韓国から不彌国までの行程の前提だから、畿内説でも九州説でも同じだよ
畿内説と九州説との対立は、不彌国から先の、里程の記載のない部分の対立 >>61
水行20日は、水行の起点(帯方郡)から終点(投馬國)までの道程2万里。
水行1日≒1000里(短里)。
魏志倭人伝では、水行1日=1140餘里となっている。
水行10日は、水行の起点(帯方郡)から終点(末盧國)までの道程11400餘里。
陸行1月は、陸行の起点(末盧國)から終点(末盧國)までの道程1000餘里。
陸行1月≒1000里(短里)。
隋書倭國伝では、陸行1月=1月行≒80km≒1000里(短里)。
>>1
水行20日=76.4m/里×1140里×20≒1742kmと計算できる。
水行10日=76.4m/里×1140里×10≒871kmと計算できる。
陸行1月=1000里=76.4m/里×1000里=76.4kmと計算できる。
帯方郡から投馬国まで道程は1742kmとなる。
帯方郡から邪馬台国まで道程は、871km+76.4km=947kmとなる。
以上より、
投馬國は筑後平野有明海沿岸部、
邪馬台国は筑紫平野東部内陸部(筑後平野内陸部+北野地域(筑後川中流域))、
と推定される。 帯方群がソウルだか平壌だか知らないが
有明まで1000kmも無いだろ >>64
行くのに半年かかることが文献上明らかな洛陽までの距離の半分ぐらいだな >>65 行くのに半年かかるなんてどこにも書かれてないけど? >>67 どこをどう読んだら、半年かかると確実に言えるの?
失礼だが、日本語の勉強と一般常識の勉強をし直したらどう? >>67 いや、それ以前に。これは一番基本的なことだけど、
あなたは魏志倭人伝の原文を読んだことがありますか? 確実に言えることは、実際に半年かけていることであって、その間どこかで休んでるかもしれないとか、先に着いてるかもしれないとかいうのは確実には言えないこと
確実に言えないことを主張するのであれば、当然、それを主張する人が立証すべき >>70 いや、そういうことではなくて、もっと基本的なことなんだけど。
倭人伝読んでてその基本的なことに気付かないの? 倭人伝には6か月でこの区間を移動したとは一切書かれていません。
大まかに言ってしまえば、6月に倭人が帯方郡に到着し、12月に詔書が出たと
あるだけ。これでこの区間の移動日数が6か月だとどうして言えるのでしょうか。
また、詔書というのは到着したその日に出るのでしょうか。
さらに、6月と12月という記述だけからどうして6か月だと言えるのでしょうか。
6月1日でも6月だし、6月30日でも6月。同様のことは12月にも言える。 > 景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏、將送詣京都。其年十二月、詔書報倭女王曰、制詔親魏倭王卑彌呼、
はっきりと「太守劉夏遣吏、將送詣京都」と書いてある。
6月何日なのかの問題は最大1か月の誤差の問題にすぎないから結論への影響は少ないとは思うが、どうしても長い期間、ないしは短い期間を主張したいのであれば、自ら立証すべきはいうまでもない。 「半年」を「約半年」に言い換えれば文句ないのか?
クレーマーみたいだなw というかこの話題って邪馬台国スレ(畿内・九州)でやればいいんじゃね。
すれ立てた佐藤とかいうやつはもういないし。 ★お願い★
このスレにはもう書き込まないでください。
畿内説の方は畿内説スレに移動してください。
九州説の方は九州説スレに移動してください。
ご協力お願いします。 >>78
南への水行の起点は、帯方郡
不彌國の城柵は、吉野ヶ里遺跡。 吉野ケ里は弥生中期から平安初期までの痕跡があります。 吉野ヶ里が衰退したのは倭國乱が始まる頃のAD130頃。
しかし、其の後も縮小して継続している。
吉野ヶ里は帥升王統の倭國である倭面土國(倭米多國)と考えられる。
「米多」の地名::米田郷、米多郷、筑志米多國、米多、前牟田、目達原、三田、豆田
帥升王統の倭國の都である倭面土國(倭米多國)が縮小又は滅亡した頃に倭國乱が始まったのである。 帯方群より出雲 20日間
出雲より大和 10日間
(完) まさか
使者が実際に陸行1月したなんて思ってる糞は居ないよな? 5 名前:日本@名無史さん :2015/01/27(火) 12:42:13.33
女王国の北に21国あるのだから、北部九州でないことは明白。
その余の、遠絶にして詳らかにできない某国というのが本州だろう。
そして、女王国の東には海があり、その向こうには倭種が住むという。
そこは四国であり、女王国は九州東部で決まり。
そして、四国の南については書いてあるが、女王国の南については
書いてない。
これは、女王国が九州東南部であり、南には他に国がないことを示している
と考えられる。
西はどうかというと、奴国という、女王国に向けて南下した不弥国の
西にある国(奴国)の南に、女王国と対立する狗奴国があると書いてある。
つまり、女王国の西は狗奴国。
魏志倭人伝は、最小限の文章で、九州全域、女王国の東西南北を
明確に記述しているのだよ。
奴国→不弥国
↓ ↓水行
↓ ↓水行
↓ 投馬国
↓ ↓水行
狗奴国 ↓陸行
女王国(海)→四国
(海) ☆ 総務省の『憲法改正国民投票法』のURLですわ。☆
http://www.soumu.go.jp/senkyo/kokumin_touhyou/
☆ 日本国民の皆様方、2016年7月の『第24回 参議院選挙』で、日本人の悲願である
改憲の成就が決まります。皆様方、必ず投票に自ら足を運んでください。お願いします。☆ 魏志倭人伝より
水行十日≒870km
水行二十日≒1500km
隋書百済傳&倭國傳より
陸行一月≒80km 本土日本人と韓国人は、遺伝距離ゼロ
全く同じ人種ってこと。
日本人の起源 〜遺伝学電子博物館
http://www.nig.ac.jp/museum/evolution/02_e.html
特に、韓国人と本土日本人の二集団間の遺伝距離はゼロであった。やはりこの分析で
も、韓国人と本土日本人は遺伝的にきわめて近縁な関係にあることが明らかとなった
のである。
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_26_02.gif
つぎに、集団間で求めた遺伝距離をもとに集団の系統樹を作成した(図26)。この系
統樹では、アフリカ人が他の人類集団に先がけて分岐し、続いてヨーロッパ人が分か
れ、さらにアメリカ先住民が分岐している。最後に、東アジアの五集団が単一系統
のクラスターを形成して枝分かれしてくる。東アジア人のクラスターでは、アイヌ
が最初に分岐し、続いて中国人が枝分かれしてきたことが読み取れる。続いて琉球人
が枝分かれし、最後に韓国人と日本人が緊密なグループとして分岐してくる。
http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2014/05/21/dna.jpg
http://www.kahaku.go.jp/research/department/anthropology/report02/s-IshidaFig1.jpg 陸行は一日20km程度、水行はヨットレースじゃないんだからやっぱり20km程度。
浅瀬の有る川を遡ったり、漕ぎ手も飯を食わないといけない。
そういう意味では、無人地帯を行くことは出来ない。
食料の補給が出来ないからね。
ポリネシアの漁民が漁をしながら遠方へ移住するのとは訳が違う。
一気に行けるのは、潮と風のいいあんばいの限られた時期。 >>89
海行一月は約80km・・・隋書百済伝より
海を行くから「海行1月」
陸を行くなら「陸行1月」
海陸の区別がないときは「1月行」
故に
陸行1月=1月行=海行1月≒80km=1047里=100餘里
又
80km=80km÷76.4m/里=1047里=1000餘里
一方
帯方郡から末盧國までは、
循海岸水行七千餘里+渡海千餘里×3回=一万餘里であり
水行十日でもある。
故に
水行1日=水行十日÷十日=10000餘里÷10≒1000餘里=80km まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 古代の中国語で「水」とは、河水(黄河)、江水(長江、すなわち揚子江)、淮水(淮河)
のように、もっぱら河川を指すものであり、海は、「海」なのです。
従って、水行は、河川航行との主張は合理的と考えます。
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/691129/578086/79470453 古代の中国語で「水」とは、「淮水」のことです。
淮水流域である北緯35度以南の河南平原を船で移動することが「水行」です。
淮水本支流湖沼を船で1日移動することが「水行1日」で、
その移動距離は約千里(80km)です。
淮水本支流湖沼の岸に沿って移動することが「水行」なので、
海を含めた水域の沿岸を移動することは「水行」とされています。 >>94
淮水を「水行」したという用例を挙げてください。 >>94
海岸を航行するときは、「海岸水行」と書いてますよ。
単なる「水行」は、川。 「孟賁,古之勇士,水行不避蛟龍,陸行不避豺狼,發怒吐氣,聲音動天」史記-卷百一十七‧司馬相如列傳第五十七
蛟龍が生息できるのは、淮水流域と長江流域である。黄河流域は蛟龍生息不可。
長江流域ではないので、水行するのは淮水流域となる。
「水」が「淮水」を意味する実例は失念。今は実例を忘れて見つからない。
「彭城要兼水陸,魏人南寇,水行自清入泗,陸行自歷城、瑕丘, 皆湊彭城,故云要兼水陸。請以皇子撫臨州事。」資治通鑑-卷一百二十五
彭城(徐州)は淮水流域にある。
>>96
海岸を航行するときは、「海岸水行」です。
単なる「水行」は、岸に沿う淡水域航行。
水域「水行」の概念に水域としての海も含まれている。 「水行」
水辺(淡水域・海水域)を岸に沿って(循岸)舟(船)で行くこと
「陸行」
内陸を(徒歩・車で)行くこと
「馬行」「草行」「泥行」「山行」「擿行」 >>98
明らかに間違ってる。
「水行」が岸に沿って進むだと、「海岸水行」は、海岸を岸に沿って進むになってしまい、
岸が重複する。そんな無駄な表現はしない。
また、川なら常に岸に進んでるわけで、言わずもがな。
「海岸水行」は、「海岸に沿って進む」だけど、単に「水行」と書いたら、川を進む
か、あるいはまったく逆に、大海の中を岸を見ずに進むという意味だよ。 >>99
>大海の中を岸を見ずに進むという意味だよ。
上記は、「海行」である。「水行」ではない。
「水行」は「岸辺に沿って水域を進む」の意味。
「循海岸水行」の「循」と「岸」は、進行している水域が海であることを重ねて強調しているだけ。 >>94-97
>古代の中国語で「水」とは、「淮水」のことです。
明らかに誤り。そもそも音が違う。
古代中国で川の固有名詞は、一音節一文字で、三水+声符というのが通例。
「河」(黄河・河水)や「江」(黄河・江水)ですらそうなのに、
済水を含めた華夏四瀆の中で、どうして淮水が「川」の代表で「水」と呼ばれるのか。
>「水」が「淮水」を意味する実例は失念。今は実例を忘れて見つからない。
そもそも古代中国で普通に「淮水」を「水」と呼んでいたのなら、
経書や正史に幾らでも用例を見出せるはずで、忘れて見つからないというのは理屈が破綻している。
例が多いなら検索で出るはずだし、見つからないほど例が少ないなら主張が通らない。
ただ「水」と書かれていても、前後の文脈からそれが「淮水」であると判読できるのは、この場合の用例にならない。
例えば、九州北部を話題にしている文章に「港」と書いてあった場合、
それが博多であると解されるのは文脈から類推できるからであって、「港」の字に博多の意味があるわけではない。
「水」単独で淮水を示すのなら、字書に解説があって良さそうなもの。しかし、ない。
ttp://tw.18dao.net/%E6%BC%A2%E8%AA%9E%E8%A9%9E%E5%85%B8/%E6%B0%B4
まさかとは思うが、説文の「准也」を「準」でなく「淮」と誤認しているのではあるまいな。 >>94-97
>淮水流域である北緯35度以南の河南平原を船で移動することが「水行」です。
この主張は以下の一文から導かれるものだと思うが、
>蛟龍が生息できるのは、淮水流域と長江流域である。黄河流域は蛟龍生息不可。
蛟龍が黄河で生息できないというのは、何に書かれているのか。
> 淮水本支流湖沼を船で1日移動することが「水行1日」で、 その移動距離は約千里(80km)です。
具体的な数字は何を出典として算定されたのか。
>淮水本支流湖沼の岸に沿って移動することが「水行」なので、
>海を含めた水域の沿岸を移動することは「水行」とされています。
漢籍での「水行」の用例で、最も古い時期に当たるのは、
史記・夏本紀の「陸行乘車、水行乘舟、泥行乘橇。」であり、
同・河渠書に「陸行載車、水行載舟、泥行蹈毳、」と異同はあるが同じ意味で出ている。
漢文というのは対比表現が多いので、この「水行」が地域を限定した意味なら、
「陸行」や「泥行」にも想定される地域がないと表現として成立しない。
「水」が淮河なら、「陸」「泥」とは、どこなのか。
当然ながら、用例と一緒に説明してもらいたい。
>海岸を航行するときは、「海岸水行」です。
これについては>>99に全面的に合意する。 >>102
>「水」単独で淮水を示すのなら、字書に解説があって良さそうなもの。
実例があるよ。
【河】 河の名、黄河の称
【江】 揚子江の称=大江・長江
【水】 河川、「淮水」「湘水」「漢水」 >>104
字書の読み方も知らない童蒙は去ね。
引用した文の上の三行も理解できない奴の来る所ではない。 >>105
辞書の読み方は少しは解かるが、字書の読み方は全く知らん。 >>106
そんな頭だから中共がどうとかバカみたいなことを平気で言えるんだよ
電波は引っ込んでろ 日数は火時計の経過時間、それと太陽方位角測定で距離を算出 >>104
その説明文をどう読むと、「水」一字で淮水を指すと言えるのか?
3の場合、「水」には河川の意味しかない。
「河」には「黄河の称」、「江」には「揚子江の称」という説明がある。
しかし「水」には、「淮水の称」という説明がない。
特定の河川を指す場合には、固有名詞の文字を加えている。
「水」を含む熟語の例として、「淮水」「湘水」「漢水」を挙げただけだ。
その説明で「水」が淮水を指すというのなら、湘水や漢水を指す場合もあるわけで、
結局文脈に拠らざるをえないではないか。
ごく普通の短文も曲解する、用例も出せない、そういう人には引っ込んでてもらいたい。
屁理屈をひねり出す知恵比べをしているのではない。 >>109
なんだ、魏志を読む時の用例は、少なくとも六朝以前とか考えていたんだけど、
そういう制約が無いなら、北史を使うね。
ちなみに、先行史書からの引き写しと見られる、倭の記事も載ってる。
流求傳
流求國居海島、當建安郡東、水行五日而至。
赤土傳
赤土國、扶南之別種也。在南海中、水行百餘日而達。
さて、建安から流求への経路、扶南から赤土への経路を教えてください。
どこの河川を航行して到達したのでしょう? まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>110
【水】 河川、「淮水」「湘水」「漢水」 ・・・の解説
河川は、北緯32°〜北緯35°の傾斜の殆どない平野にある。
この平野は多雨地帯にあって湖沼が数多く分布する。水田耕作地域である。
歴史上の政権は、この地域を支配するには治水をせざるをえなかった。「政治」の語源
この平野に分布する河川は全て淮水の本支流である。「淮水水域」
北緯35°以北の平野は少雨畑作地帯の「黄河水域」である。
北緯32°以北であっても「長江水域」はこの平野には含まれない。
この平野にある河川だけが「水」であった。
であるから、この淮水水域平野の河川の名称を「○水」と呼ばれた。 >>96
>海岸を航行するときは、「海岸水行」と書いてますよ。
>単なる「水行」は、川。
海岸を航行するときは、「循海岸水行」と書いてますよ。
しかし、「水行」には「循岸」の意味も含まれます。
「循岸」無しの水行は不可能。
単なる「水行」は、河川湖沼。 >>114
無知蒙昧の輩が、自分勝手な結論を先に拵えて、屁理屈を展開するから、
そのような支離滅裂で常人に受容されない文章を書くのだ。
>河川は、北緯32°〜北緯35°の傾斜の殆どない平野にある。
河川は、地球上のあらゆる所にある。
>この平野は多雨地帯にあって湖沼が数多く分布する。水田耕作地域である。
>歴史上の政権は、この地域を支配するには治水をせざるをえなかった。
華夏族、中華帝国の、治水における最大の関心は黄河に向けられた。
禹の伝説もそうであるし、史上何度か流路を大きく変えた黄河の話は、今更述べるまでもない。
>「政治」の語源
どこがどう語源になっているのか、全く説明できていない。
>この平野に分布する河川は全て淮水の本支流である。「淮水水域」
>北緯35°以北の平野は少雨畑作地帯の「黄河水域」である。
>北緯32°以北であっても「長江水域」はこの平野には含まれない。
冒頭からそうだが、水系や平野を緯度で恣意的に区分する正当性が全く明らかでない。
>この平野にある河川だけが「水」であった。
>であるから、この淮水水域平野の河川の名称を「○水」と呼ばれた。
「水」の一字のみで文脈に拠らずとも淮水を示すことができるなら、漢籍から用例を挙げて主張すること。
引用する字引が何であるかも示さず、その説明を曲解するような輩には、荷が重いか?
「湘水」「漢水」が例示されている時点で、既に論理が破綻しているではないか。
自分以外で、「河川」をそのように解説している学者を、一人でもいいから挙げてみよ。
誰も居ないなら、そのような支離滅裂な解説が成立する余地は皆無である。
全く以て説明の体を成していない。
屁理屈をひねり出す知恵比べをしているのではない。
食い下がれば、議論が続行するわけでもない。 思い込むのは勝手だが、議論の成立する理解能力を有しているとは、とても思われない。
はっきり言って出る幕ではない。
>>115
「水行」について詳しそうなので、是非御教授ねがいたい。
裴註所引の魏略・西戎傳に以下の文が見える。
澤散王屬大秦、其治在海中央、北至驢分、水行半歳、風疾時一月到、
沢散と驢分の位置、水行の経路について、当然知見に含まれるであろうから、どうか高説を賜りたい。
また、時代の異なる用例だが、>>103や>>111について、どういう認識をされているか。
不躾ながら、寸暇の折りに回答をいただければ幸いである。 >>117
>蛟龍が黄河で生息できないというのは、何に書かれているのか。
蛟龍(アリゲーター)は、温暖で水の豊かなところでないと生息出来ない。(生物学の常識)
黄河流域は冬寒冷で水量の変動が激しく蛟龍の生息は不可能。
>(「水行1日」80kmの)具体的な数字は何を出典として算定されたのか。
魏志倭人伝もそのひとつ
>漢籍での「水行」の用例で、最も古い時期に当たるのは、
>史記・夏本紀の「陸行乘車、水行乘舟、泥行乘橇。」であり
言語「水行」の成立は、史記よりも古い淮水水域が舞台となった東周春秋戦国時代です。
>制約が無いなら、北史を使うね
「北史」は大部分が散逸したため、10〜12世紀頃「周書」等からコピーして編纂されたものです。
どのような集団が編纂したのかは失念。
散逸した部分の「北史」は、唐初(650年以前)までに編纂された「周書」等からコピペ編纂したものです。
「周書」と「北史」のコピペ部分を比較すればどちらが原本かよくわかります。
>建安から流求への経路、扶南から赤土への経路を教えてください。
>どこの河川を航行して到達したのでしょう?
「北史」のコピー引用した先行史書が5〜6世紀のもの(梁書、周書等)であれば、
シナ大陸長江・東南海岸・南海岸・ベトナム海岸・タイ湾東岸を「循海岸水行百餘日(8000km)」(5500km)です。
マレー半島回ってミャンマーまで行っておれば航路は約8000kmです。
「澤散王屬大秦、其治在海中央、北至驢分、水行半歳、風疾時一月到」は調べてから。 >>118
>蛟龍(アリゲーター)
三国時代までの記述で、蛟龍=アリゲーターであるというのは、何を根拠としているのか。
生物学の常識ではなく、当時の中国人の知見として、何に書かれていたのか。
>>「水行1日」80km
算出した具体例を挙げよ。隋書倭国伝か?
三国志より後代の記事では、参考値にしかならないが、引用されたい。
>魏志倭人伝もそのひとつ
現時点では魏志倭人伝の諸国の推定地は、諸説紛々なので根拠にならない。
>言語「水行」の成立は、史記よりも古い淮水水域が舞台となった東周春秋戦国時代です。
ならば、先秦の「水行」で文脈に拠らず淮水であると判読できる用例を挙げよ。
また、史記・夏本紀の記事が、先秦に遡らないと断言できるのか。
少なくとも、「陸行乘車、水行乘舟、泥行乘橇。」は三国志より先行する。
「水」が淮水なら、「陸」と「泥」がどこなのか答えてもらいたい。
>「北史」は大部分が散逸したため、10〜12世紀頃「周書」等からコピーして編纂されたものです。
どうせ三国志より後代なのだから、時期や出典は拘らなくて宜しい。
余計な講釈は要らないから、海岸伝いでどうやって流求へ到達するのか解説せよ。
>シナ大陸長江・東南海岸・南海岸・ベトナム海岸・タイ湾東岸を「循海岸水行百餘日(8000km)」(5500km)です。
>マレー半島回ってミャンマーまで行っておれば航路は約8000kmです。
中国から扶南までの経路は問うていない。
扶南から赤土へ、なぜわざわざ迂遠にもタイランド湾を周回せねばならないのか。
例えば、鳥羽から伊良子へ行くのに、どうして伊勢湾を巡らねばならないのか。
>「澤散王屬大秦、其治在海中央、北至驢分、水行半歳、風疾時一月到」は調べてから。
「水行」がどうのこうの語っているくせに、すぐ答えられないなら、
直近の裴註すら碌に読んでいない証拠ではないか。 >>蛟龍(アリゲーター)
>生物学の常識ではなく、当時の中国人の知見として、何に書かれていたのか。
当時のシナ人が「アリゲーター」のことを「蛟龍」と呼んだのです。現代日本語なら「ワニ」。
当時シナに「カミツキガメ」がいたなら「蛟亀」と呼んだのでしょうね。
>>「水行1日」80km
>算出した具体例を挙げよ。隋書倭国伝か?
隋書倭国伝では「1月行」80km(=「海行1月」)がわかります。
隋書百済伝では「海行1月」80kmがわかります。
>海岸伝いでどうやって流求へ到達するのか解説せよ。
書き忘れていた。
流求傳
流求國居海島、當建安郡東水行五日而至。
この「水行」は、渡海の様な例ですね。
航路は台湾海峡を越えて、右手に台湾を見て「水行五日(400km)」で八重山群島(流求國)に着いたと読めます。
このような用例は、魏志倭人伝にも見えます。
水行10日=韓地循海岸水行7日(7000餘里)+渡海3回水行3日(1000餘里×3回)
で帯方郡から末盧國です。
>「水」が淮水なら、「陸」と「泥」がどこなのか答えてもらいたい。
「淮水水域」は東西800km南北400km(河南省。安徽省、江蘇省)の
湖沼河川が網の目のようにある低湿地と呼ばれてもよいような勾配が殆どない平野ですよ。
>>「澤散王屬大秦、其治在海中央、北至驢分、水行半歳、風疾時一月到」
今のところ、「大秦」「在海中央」「驢分」の場所が特定できませんので、未だご要望に応えられません。 >>120
9 15 53 62 93 109 120
他スレでもそうだし、結局荒らし風情は、何も議論できないわけか。
言い張るだけで、疑問に答えられないなら、自説が正しくないと認めているようなものだ。
掲示板でのコピー&ペースト連投は違反である。そんな奴の主張は合理的でもなんでもない。 >>121
>当時のシナ人が「アリゲーター」のことを「蛟龍」と呼んだのです。
自分がそう思い込んでいる、それ以上の根拠が無い、ということだな。
つまり議論に値しない、そう認めているわけだ。出典も挙げられないのだからな。
>隋書倭国伝では「1月行」80km(=「海行1月」)がわかります。
>隋書百済伝では「海行1月」80kmがわかります。
地点の推定が正しいと言い切れない以上、そのような算出に、全く価値が無い。
地球上のどこを航行しても、全く同じ条件、同じ速度で進めるわけはない。
参考値にはなるが、そんな安易な尺度を他の史料の全てに適用できるはずもない。
>この「水行」は、渡海の様な例ですね。
「水行」は専ら内水沿岸通行だと言っておきながら、文脈によって渡海と解釈するのか。
投馬國や邪馬臺國も渡海と解する者が居ても、文法として何ら誤りでないと言ってるようなものではないか。
>このような用例は、魏志倭人伝にも見えます。
酷い自己矛盾だのう。狡いと思わないのか。
「水行」で渡海を示しているのは、魏志倭人伝のどこか。文面を引用せよ。
>>「水」が淮水なら、「陸」と「泥」がどこなのか答えてもらいたい。
>「淮水水域」は東西800km南北400km(河南省。安徽省、江蘇省)の
>湖沼河川が網の目のようにある低湿地と呼ばれてもよいような勾配が殆どない平野ですよ。
回答になっていない。漢文の読解として、対比を考慮しないのだな?
つまり、「水行乘舟」が淮水であるというのは、思い込みでしかないと、そういうわけだな。
>今のところ、「大秦」「在海中央」「驢分」の場所が特定できませんので、未だご要望に応えられません。
そうかそうか。他の部分も全く要望に応えていないから気にするな。
まあ、場所の特定などせずとも宜しい。珍解釈など聞きたくもないしな。
「水行」だけでは川なのか海なのか判別できないということが理解できるなら構わない。
理解できない、川だ、と言い張るなら、少なくともどこの川なのかくらい、特定してもらわないとな。 >>94
>古代の中国語で「水」とは、「淮水」のことです。
>>118
>言語「水行」の成立は、史記よりも古い淮水水域が舞台となった東周春秋戦国時代です。
結局、「水」だけで淮水を示すような用例を挙げることができない。
要するに、そんなものは無いのだ。
めぼしい経書や史書の殆どは、ネット上で一般人も全文検索できるのに、
端的な用例が、忘れたら出て来ないというのは、言い訳として成立しない。
>>97からして、「史記」や「資治通鑑」からの引用ではないか。
先秦の史料を自分で挙げられないなら、主張が全く成立しない。
「史記」より古い史料を挙げられないのに、なぜ東周春秋戦国時代だと言い切れるのか。
恥を知らぬか。ここは信念や信仰の強さを競う場ではない。
蛟龍=アリゲーターというのは、何か面白い話が聞けるかと思って期待したが、
生物学の常識などというくせに、漢籍の出典も、そのように考察した経緯も、全く出て来ないのには呆れる。
>>103でも述べたが、漢文というのは対比表現が好きである。
「蛟龍」の「水」が淮水なら、「豺狼」の「陸」というのも、ただ漠然と陸地というのではなく、
どこかの地域を想定しているはずである。具体的にどこなのか。
因みに、「豺狼」というのは、現代の常識的な生物学では、何に該当するのか。
それにしても、コピペ荒らしよりはマシかと思ったが、結局この程度か。
屁理屈は言い続けていれば通るというものではない。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>124
幅の狭い理解能力の御方だね。
>「蛟龍」の「水」が淮水なら、「豺狼」の「陸」というのも、ただ漠然と陸地というのではなく、
>どこかの地域を想定しているはずである。具体的にどこなのか。
「豺狼」(ヤマイヌとオオカミ)は、「水域」に対する「陸域」である。
「陸域」は、少雨乾燥地帯の北緯33°以北。
紀元前のシナ文明の中心地は華北平原である。
北緯33°以北の華北平原が陸域、商殷西周代の中心地域、少雨畑作地域
北緯33°以南の華北平原が水域、多雨水稲作地域
BC17C〜BC11Cに北緯33°以北の華北平原の陸域で交易商人が、
旅中に「豺狼」から身を守る為にも使ったのが周髀(8尺棒)。 >>127
>幅の狭い理解能力の御方だね。
いやあ、お恥ずかしい。
受け売りしかできない、都合の悪い質問には答えない、誰かほどではありませんよ。
漢文は対比であると度々言ってきた。
反論が無い以上は、当然に異論は無いのであろう。
>「豺狼」(ヤマイヌとオオカミ)
「豺狼」が、「豺&狼」という並称なら、「蛟龍」も「蛟&龍」という並称になるはずである。
蛟龍=アリゲーターであるという回答は得たが、「蛟」と「龍」とはそれぞれどういう意味か。
また、「ヤマイヌ」と「オオカミ」とが、どのように異なるのか、門外漢には分からない。
現代の常識的な生物学には、学名という識別にはもってこいの方法があるので、
是非、「豺」「狼」「蛟」「龍」それぞれ学名では何というのか、解説して欲しい。
ちなみに、「アリゲーター」と同様に、「ヤマイヌ」と「オオカミ」についても、
出典となる漢籍や、そのような回答に至った過程が全く説明されていないので、
結論ありきの議論するに値しない、個人的な思い込みを披露されたものと考えて宜しいな。 さて、訊ねてもいないことは得々と語るくせに、肝心なことに答えないというのは、
ある種の人々によくあることで、今更気にしないけど、はっきりさせておこう。
「水」は一字で淮水を示すことは無い。
「水」の字は、waterでなければ、riverの意味であることが多く、特定の河川を指すことは無い。
但し、文脈によって分かる場合は除く。これは>>102の博多の例えのようなことである。
川を指し示すことが多くとも、池沼や海洋を排除するものでもないことは、字書を見てもわかる。
そして、「水行」は水上を行く意味でしかない。
中国は大陸国家であるから、専ら河川内航であろうけど、海上交通を排除しているわけではない。
「水師」「水程」が海にも使われるのと同様である。
反論があるなら、ただ言い張るのではなく、先秦の漢籍を引用すること。
今のところ、「水行乘舟」「水行半歳」、流求や赤土の件で納得できるような回答を得ていない。
思い込むのは自由だが、誰もが納得できる論拠を呈示できないなら、独りよがりの謬説である。 倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。
魏書東夷伝の倭人の条は、この有名な一文から始まる。
冒頭から倭人は海島に居るという大前提を示している。
このことは、後続する倭人についての記述の全てに掛かっている。
海を意味する文字が近接して無くとも、大海の中の山島を「水行」したことは明らかである。
海島である倭地を「水行」する場合、大陸国家の中国本土とは違うのだから、
海岸通行、もしくは渡海と考えて、何も不思議なことはない。
河川通行を完全に排除するわけではないが、海でないと断言することもできない。
また、倭が海の向こうの国なのであれば、海上を通行した推定するのが自然と考えて、何もおかしくない。
>>127
少しは期待したのだが、結局根拠も無い思い込みを繰り返して述べることしかできないか。
全く以て残念だ。
不毛な応酬をしても得るところがないので、根拠が示されない妄言には、今後コメントしない。 帯方郡
↓水行七千里
狗邪韓国
↓海渡千里
津島国
↓海渡千里
一支国
↓海渡千里
末盧国
↓陸行五百里
伊都国
↓(東南)百里
奴国
↓(東)百里
不弥国
↓(南)水行20日
投馬国
↓(南)水行10日・陸行1月
邪馬台国
女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり
畿内説は、邪馬台国から東に海を渡った倭人の住む国を明らかにせよ! なんだよ、もう出て来ないのか。
>>127で「幅の狭い理解能力」なんて捨て台詞をはいたは良いが、
自分の論理構成の方が未熟だったと、漸く気付いたか?
それならそれでめでたいが、ほとぼりが冷めるまで隠れているだけなら、未来は無いな。
>>131
そういうのは他の邪馬台国スレでやればいいのでは? これを真南に一直線に線を引いて、
「これでは海のどまんなかに出てしまいます」と
大真面目にやる学者共って本物のバカだよな >>133
具体的に誰のこと?
「共」ってくらいだから三名くらい挙げられるよね? >>128-159
もし、理解しようとする気があるなら、理解の手助けをしよう。
「豺狼」
「豺」:野生のイヌ 山イヌ、家畜のイヌ(狗)ではない。
イヌ科オオカミ型ドール属(古代中国にいた動物「豺狼」「豺蜀」)
イヌ科オオカミ型イヌ属(古代中国にいたジャッカル、コヨーテの様な動物)
「狼」:イヌ科オオカミ型イヌ属(大陸オオカミ、ジャッカル、コヨーテ)
「狗」:イヌ科オオカミ型イヌ亜属(家畜のイヌ)
よって、「豺狼」は、野生イヌの様なオオカミ又はオオカミの様な野生イヌと解することができる。
「蛟龍」:アリゲーター、シナ大陸に生息するワニ
「蛟」:咬みつく爬虫類
「龍」:想像上の大型爬虫類
よって、「蛟龍」はシナ大陸に生息するワニのアリゲーター
>>129には、ほぼ同意であるが、何に反論しているのか理解できない。
しかし、「水」は単なる河川ではなく、「淮水水域」を指す言葉である。
黄河が華北平原を南東に横断して淮水に合流していた一時期には、
北緯35°以南の華北平原の黄河流域も「淮水水域」に含まれる。
未だお望みなら、
「水行乘舟」「水行半歳」「流求や赤土の件」「華北平原の北緯33°線の補足説明」については、そのうち説明する。 >>
>>129
3世紀に貿易風を利用した大洋横断航海知識があったとの仮定があれば、
「水行半歳」は説明できます。
「水行半歳」=「水行183日」=183000里=14000km まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>136-137
根拠が全く示されていないので、個人の勝手な臆測と解釈していいのだな。
何の価値も無い駄文を、一生懸命考えてきたわけだ。
御苦労様。 >>140
自明の理を説明してもらっているのがわからないようだな。
君の言は、1+1=2の根拠を示せといっているのと同じだ。
お互いの論理が噛み合う事はないね。
君の「論理」は、私の「非論理」。「無論理」かな? >>140
自明の理なら、他に多数の人がそういうことを書いているはずだ。
また、自明の理なら相当数の学者がそれを語っているはずだ。
幾つか例示して見せよ。
例のブログくらいしか挙げられないようではダメだ。
それと、自明の理なら、なぜこんな掲示板でしつこく主張するのだ?
おまえは「1+1=2」であると、声高に主張して楽しいのか?
幼稚園児か?
私は「論理」、おまえは「非論理」。
良く分かってるじゃないか。 ちなみに「1+1=2」も説明しようとすれば出来る。
検索するといくらも出てくる。
自明の理を、誰に頼まれたわけでもないのに、わざわざ何度も掲示板に投稿するくらい、
「1+1=2」というのを広めたいなら、
「1+1=2」を自分の言葉で説明してみたらどうだね?
そうすれば、私のように、自明の理を理解しない愚か者でも、
「1+1=2」を理解しようとするかもしれない。
まあ、できないのだろうけど。 漢籍を読むのに自明の理が使えたとは、掲示板を読んでいると勉強になるわ。
これからは、根拠の無い思いつきは、自明の理だと強弁することにしようか。
相手にされなくなるだけだから、やめとくわw >>144
>漢籍を読むのに自明の理が使えたとは、掲示板を読んでいると勉強になるわ。
私は漢籍を読むのが目的ではない。
私の目的は、古代シナの歴史を探求することだ。
漢籍を読むことは探求の一法に過ぎない。
私は、生物地形地勢気象地球物理天文等の自然科学的技法も動員して、
古代シナの歴史を探求しているのだ。
生物地形地勢気象地球物理天文等自然科学を学んだ者以外では理解し難い自明の理がある。 >>142
>例のブログくらいしか挙げられないようではダメだ。
「例のブログ」とは何だ。私は知らない。 「周髀算經」には、商殷人の見た紀元前12世紀末(BC1125〜BC1113)の
天体(北極中大星)が書かれている。
君たちには文献史学だけをする者には想像もつかないだろう。 >>145
なるほど。
国語を学んでいない輩の文章とは、こんなものか。
博学多識でも国語が怪しくては無理もない。辞書を引いたことはあるか?
「自明の理」というのは、何人でも理解する説明不要の道理を指す。
碩学にしか理解しえないのは「自明の理」とは言わないの。
何をどう学んだか知らないが、程度によるぞ?
高校レベルなら、こんな所で他人に自慢するほどのこともない。
老子に「大賢は愚なるが如し」という言葉がある。
自分から学識を誇るような奴に碌なのは居ない。
まして、こんな掲示板で、説明に窮して気勢を上げる能しかないのでは、なおさらだ。
始めの内は、求められるように用例を出していたくせに、
「自明の理」だの「自然科学を学んだ」だの、言い訳しかできないのを見苦しいとも思わないようだ。
客観的に自分がどう見られているか、少し考えてみたまえ。
人一倍学んでいようと、根拠を説明できないのなら、おっさんの単なる妄想としか受容されない。
論理学の基礎も知らないようでは話にならんな。
余人に説明できないのは、余人より優秀だからではなく、余人より愚劣だからだ。
古代支那の歴史を究明する前に、自分の身の程を知った方が、今後の人生のためにもなろうぞ。 >>146
おやおや。
たかだか150に満たないこのスレを、一読すれば分かることも知らないのか。
そんな疎漏な奴に古代支那の歴史が究明できるのかね。
滑稽だし、心配だよ、もっとがんばりたまえ。
>>147
巻三十の裴註すら碌に読んでいなくて、未だに回答できないくせに、
随分と機嫌が宜しいことで。
根拠が何も無くても、説明するだけの能力が無くても、
このように勿体付けて披露すると自己満足に浸れるのか。
自分もやってもようかな、誰にも相手にされなくなるからやめておこう。
歴史の真実を探究して、好き放題に書き散らすのは、さぞや楽しい日々であろうな。
これからもがんばってね。 ご要望があったので遅ればせながら「水行半歲」について解説いたします。
「澤散王屬大秦 其治在海中央 北至驢分,水行半歲,風疾時一月到」
「澤散」:エジプト、
「大秦」:ローマ帝国
「澤散王」:ローマ人のエジプト執政官
「海」:地中海
「驢分」:中北イタリアの国、コルシカ島の対岸付近、ピオンビーノ?
「半歲」:半年の期間、6ヶ月、183日間
「水行半歲」=「水行183日」=「水行183000里」=14000km
「風疾時一月到」:疾風に乗れば1ヶ月で着く
シナから澤散(エジプト)までの航路
東シナ海―台湾海峡―南シナ海縦断―シンガポール―マラッカ海峡
―スマトラ島北端―インド洋横断―スリランカ―インド洋横断
―アデン湾―紅海―スエズ湾 >>150
なんで「水行」なのに海だけ通行してるの?
なんで河川池沼じゃないの? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています