豊臣秀吉(とよとみ の ひでよし)と呼ぶべき [転載禁止]©2ch.net
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『豊臣』という名称は姓、もしくは氏であり、
苗字ではない。
正しくは藤原道長(ふじわら の みちなが)や
源頼朝(みなもと の よりとも)と同じく
それが天皇下賜の姓であることを尊重し
豊臣秀吉(とよとみ の ひでよし)と呼称すべき。
まるで苗字のように(とよとみ ひでよし)と呼ぶのは
学問的にまったくの誤り。
ネットを通じ、教育界に呼びかけよう。 一理あるなw 浅井長政の浅井が「あさい」→「あざい」になったり、
大塔宮護良親王の大塔宮が「だいとうのみや」→「おおとおのみや」、
護良が「もりなが」→「もりよし」になったりしたからな。
大塔宮も「おおとうみや」とは読んでないから、「とよとみ」じゃなくて
「とよとみの」はあり得る。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり ま、実際江戸時代の読本なんかでは「とよとみ ひでよし」ってかながふってあるわけだが。
もう16,17世紀あたりになると、「豊臣は姓だから、の、を入れるべき」という考えかた
自体が受け入れられなかったというのが現実。普通の人は歴史マニアではないんでw
だから「とよとみの ひでよし」という呼称が現実に行われた形跡はない。
あと、苗字は古くは「の」を入れていた
くまがいの じろうなおざね
というふうにね。 姓も苗字も人の所属を示すものだから日本語的に本来は「の」が入るのかな? 室町時代や江戸時代になると名字と氏、姓との使い分けなんて
朝廷くらいしかしてねえだろ。 >>16,17世紀あたりになると、
>>「姓だから、の、を入れるべき」という考えかた自体が
>>受け入れられなかった
よくそんな適当なことが書けるなw
それでは歴代の徳川将軍は、当時、何と呼ばれたのか?
たとえば徳川慶喜を「源慶喜」と描いたとき
「みなみと よしのぶ」と呼ばれていた、とでもいうつもりなのか?
江戸時代の「とよとみ ひでよし」のフリガナに
「の」が入ってないのは、筆記者が姓と苗字を錯誤した結果であり
決してそれが正解だからではない。
まるでキミの論法は朝鮮人じゃないか。 重源は法諱で呼ばれているのに、法然は房号。
坂本は龍馬なのに、織田三郎は信長。
政子の場合、夫存命中には政子ではなかったはず。
秀吉を言うなら、正妻も吉子と呼ばれておりませんね。 源氏の長者。征夷大将軍。源朝臣〇〇
、、、徳川将軍家は源氏流を自称していた
、、、不文律で源氏でなければ征夷大将軍の宣下並びに任官されない。
、、、豊臣羽柴秀吉公が征夷大将軍に成れなかったのも源氏のではなかった為。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった その論法でいくと
・とくがわのいけやす
・たけだのしんげん
・ほうじょうのうじまさ
・さなだののぶせぎ
・うえすぎのけんしん
・だてのまさむね
・おだのののぶなが
・もうりのもとなり
とか >19
苗字と氏の違いを理解しような。
とくがわのいえやす×→みなもとのいえやす
たけだのしんげん ×→みなもとのしんげん 書き込む前にWikipediaでいいから氏、姓、苗字の違いを確認した上で議論しようよ
ついでに言うと豊臣秀吉の苗字は死ぬまで羽柴だからね 氏(うじ)は豊臣、姓(かばね)は朝臣、苗字(みょうじ)は羽柴
死没直前は、羽柴太政大臣豊臣朝臣秀吉
本姓(ほんせい)とは氏のこと
○○姓(〜せい)とは氏と苗字どちらも指す
苗字は名字とも書くけど、苗も名も土地のことを意味する ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 鴨チョウメイとか吉田ケンコウとかは有職読みで
伊藤ひろふみとか原たかしとかは本名って教科書はどっちかに統一しろ。 大河真田丸では秀頼が元服したとき
羽柴藤吉郎豊臣秀頼(はしばとうきちろうとよとみのひでより)って言ってた 秀吉が百姓出身って本当なのか? 福島正則や加藤清正は秀吉と血縁関係があるんだろ?
猛将と言われたこの2人が百姓出身とは思えない、多分元々武士だろ。俺がこういう疑問を
持つようになったのは、これまで野武士出身と言われていた北条早雲が、最近は足利幕府の
エリート武士だったと、これまでの説が否定されているから。後北条家は家康が関東を支配
するのに邪魔だったので、成り上がり者にでっち上げられたのだと。同じように秀吉も徳川家
の覇権のために成り上がり者にでっち上げられたんじゃないのか。 秀吉の父・木下弥右衛門が織田家の足軽だった説はそれなりに知られてるけど、足軽組頭だったって話もある
よく足軽=農民百姓とか村の男たちみたいなイメージされやすいけどちょっと違う
分かりやすいのがマンガ「センゴク」の元亀期ごろ(対信玄、対一向宗)の描写
権兵衛が連れて行ってる足軽たちをよく思い出してほしい
権兵衛の家中一族の侍分やそのツテで集まった人たちだよね
侍分とはいっても平時は畑を耕し筵を編むようないわゆる半農半士の人たち
そして農地が荒れたり、村からあぶれ、居着く土地なく浪々する人たちやならず者が臨時に雇われる
足軽はだいたいこういう人たちで構成されてる
徴兵はよっぽどのことがないと有りえないし、農民は一人でも減ったら困るのが領主や大名の本音だからマジモンの農民百姓はあんまりいない
こういう部分を考えると弥右衛門が我々のイメージする農民とは違う身分、社会層の出身にならないだろうか 言いやすいように呼べば良いよ
その場合、誤読が理屈よりも上に来る ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>25
> 苗字は名字とも書くけど、苗も名も土地のことを意味する
いや「苗」は漢字の意味そのまま血筋を表していて、「名」は「質の高さ」を表している
つまりどちらも血統の良さ、位の高さを意味している
氏から別れて移り住む際に地名や土地柄etcと関連付けた「苗字・名字」が用いられた為に「苗・名」の字が「土地を意味する」と勘違いされる事があるが「苗・名」はあくまでも血筋の確かさを意味している
ちなみに
例えば「藤原氏→近藤、加藤」のように氏の字を踏襲するのが苗字
そうではなく例えば「平氏→千葉、三浦」のような物が名字 明治期の「姓シ不称令」で
本来なら正式な場面でこそ名家がこれみよがしに使う
「本姓」と「シ」、、、は正式な場面で使ってはならない、、、ことになってしまったw
この場合の「シ」は八草のかばね、、、などの「かばね」や古代の氏姓制度の「かばね」を指す
日本人の9割は「本姓」=氏名=うじな、、、なんていう高級なものは不明で
苗字すら、無いかあっても正式に名乗れなかった、、、そういう連中が
壬申戸籍と「苗字必称令」で
どんな出鱈目な苗字でも創作できたし、どんな出鱈目な読み方でも届ければ
それが本名になったから
「姓」と「氏」=苗字の混同が生まれたw
夫婦別姓は間違い、、、夫婦別氏が正しいw
秀吉は出世の途中で苗字を柴田と二羽から一字ずつ貰って木下→羽柴の苗字を創作した。
藤原氏の総本家の近衛家のユウ子になる形式で
近衛前久のユウ子になり、本姓をふじはらの、、、と名乗ることで関白になる必要条件を満たしたが
それまでは信長の真似をして苗字は羽柴で、本姓はたいらの、、、を名乗っていた。
近衛前久は莫大な斡旋料を貰ってから、「萩中納言」の落胤などというばかばかしい作り話の貴種流離譚を
秀吉ごときに名乗られるのがばかばかしくなり朝廷に工作して五摂家の藤原氏の5つの苗字に次ぐ6番目の
関白になれる家の本姓として「とよとみの」を賜姓してもらった。
だから苗字は羽柴のままで、本姓が最初は「ふじはらの」、、、後に「とよとみの」を創ってもらったわけで
「とよとみの ひでよし」が正しい。
秀吉は家臣に、この「とよとみの」の本姓を名乗るのを許した、、、それに倣って
家康は「みなもとの」の本姓ではなくて「まつだいら」の苗字を大名に名乗るのを許可したから
ややこしく、この段階でも本姓と苗字の混同は始まっていたともいえる。
秀吉の親族で、大名として残った豊後日出と備中足守の木下家は、苗字は羽柴→木下に戻したものの
本姓は「とよとみの」を江戸時代を通じて届けている。 だから
本来なら
「ふじはらの」という
本姓であるべき「藤原」を苗字に使っている奴なんてのは
たいてい
明治以降の庶民が苗字必称令で勝手に届けた場合だが
実は由緒正しいのもあるる 儒学者の藤原惺窩
の子孫である。
惺窩の生家は
正真正銘の藤原氏の冷泉家で
「冷泉」が苗字で「ふじはらの」が本姓なのだが、、、
儒者になるときに
「藤原 惺窩」で通してしまった。 本姓が土地名からきてるなら豊臣って名の地名をどこかにつくったの?
大坂って姓も有り得たのかな 本姓は
土地名じゃないだろw
苗字は屋敷の所在地や荘園の土地、本姓からシナ式に一字取るとか、、、藤原氏を「藤」とし
光明子が「藤 三娘」とか名乗るように
加藤、佐藤、工藤みたいな苗字の発生とか。 ややこしいのは
日本史教科書で古代の氏姓制度に触れる記述の部分。 この場合の「氏」こそが
「本姓」に相当する。
つまり「蘇我の」臣、「物部の」連、、、、等の蘇我、物部が「本姓」=「氏名」(うじな)であり
大和朝廷での職掌や、その「氏」の由来、渡来人とか、、、を示す「姓」(かばね)のこと、、、
臣、連、直(あたえ)、首(おびと)、、、等を本姓の「姓」と同じ字で表現して「かばね」であり
肝心な「本姓」のことは「氏」と表現するから
ややこしい。
「氏」とは、「本姓」=「姓」とは区別されるべき、一般的には鎌倉時代が淵源の現代の「苗字」のことだからだ。 テレビになどに出てくる天皇?から、
名を貰った覚えはない。
そんな必要はない。
という書き込みがあったはず
たしか、かなーり前の邪馬台国スレ
どういう意味だと思う? 『聖化 日神 日霊 津』
天帝?という文字が出てきたりするけど だっ津ーの?親族、一族なのかな
『出家 菅野』
俗名と出てきたり 更に倭→日本の国号と
大王→天皇のシ号を673年頃創始した
天武が
八色の姓、、、、やくさのかばね、、、を定め
古代の氏姓制度の゜かばね」とともに
「シ」と呼ばれた。
シの字は邑の字の上の口を取った部首の字
明治期の苗字必称令で、「本姓」どころか、「苗字」すら全く無いか、あっても正式には名乗れなかった日本人の9割前後が
どんな出鱈目な苗字を創作しても届ければ、それが本名の「苗字」になってしまったし
どんな出鱈目な読み方でも、創作して届ければ、それが正式な本名の苗字に壬申戸籍になってしまったし、
例えば旗本の松平氏の知行所の農民が全員「松平」を届けて苗字にしてしまったり
入口さん、出口さんみたいに江戸時代以前にはありえない苗字を創作したり
みなもとの、たひらの、たちばなの、ふじはらの、、、のような源平藤橘の代表的な貴種流離譚の「本姓」をもっともらしく
たいら、みなもと、ふじわら、、、などと単純化した苗字に届けてしまって定着したりしてしまった。
本姓と苗字の区別は明治政府の「姓シ不称令」で、正式な場面で名家が「本姓」を名乗るのを禁止してしまうというとんでもない文化破壊をやらかしたために
名家でもたったの1つしか届けられないからと、時代によっては数ある苗字のうちの1つに絞って届けるとか
本姓が珍しいものを、思い切って苗字として壬申戸籍に届けたり
松平氏なら、大給、久松、桜井、長澤、藤井、瀧脇、、、などの所謂18の松平の系統名を苗字に届けて定着したりもした。
信州の大名だった堀氏は飯田藩主の堀さんは堀の苗字のままだが、須坂藩主の堀さんは「奥田」を苗字に届けたり、同じ藤井松平氏でも桑名藩主の系統は松平のままなのに
松山藩主の子孫は久松さんむを届けてそのままとか違う苗字になったりもした。
隈本藩主の細川氏は、室町時代には名門の三管領の一つの細川氏であったのに幽齋の時に長岡京のあった京都市南部の荘園に因んで細川の他に長岡も同時に名乗った。本姓は
勿論、「みなもとの」である。 眞田松代藩主の眞田家では「本姓」である滋野を壬申戸籍に届けようとして
結局は中止した経緯もあった。 那須の与一、、、のなすの、、、は本姓か?それとも
発生した苗字を本姓「風」にそう名乗ったのか?
江戸時代には子孫の那須七党の7つの苗字の中に「那須氏」も居れば
黒羽氏のように1万石ながら大名になった者もいた。 永井路子でさえNHKの歴史番組で源 頼朝を苗字のように平気で みなもと などと呼んでることがあったし
現在の磯田も、秀吉をとよとみ とまるで苗字の一種のように歴史番組で呼んでる。
眞田丸のNHKドラマは風俗考証、時代考証、戦陣考証の点では無知蒙昧を曝け出したコメディーだったがw
唯一、まともだったのは時代考証を担当した三流私大出身者の論文というか、悲願www
「とよとみの ひでよし であーる!」とか
「とよとみの ひでより であーる!」と役者本人に名乗らせた演出をした点。 ちなみに中国朝鮮には名字(苗字)はない
あるのは氏だけな 高校日本史教科書では
例えば
山川の
詳説日本史の場合、最近では
豊臣(羽柴)秀吉、、、と本姓と苗字の併記表現に変わっている、、、のは評価できるのだけど
肝心なふり仮名で、、、とよとみの、、、はしば、、、ではなくて
どちらも苗字と誤解されやすい
とよとみ はしば、、、、表記に留めているのは中途半端w 本姓があったとしても明治以降にそれを名乗る機会がないではないか
そもそも本姓と言ったって仮冒は多いし他姓養子も多いしあんまり意味があったとは思えない
名字だってそもそも適当に住んでるところから名乗り始めたのが大半なわけで
そう考えると苗字必称令はそんなに悪いものではないと思う
しかし歴史教育において氏と名字の違いはきちんと教えてほしいけどな
そうじゃないと分からないことも多いだろう
何で昔の人だけ「の」がつくの?とか藤原さんは突然消えた?とか
こういう疑問に中学の歴史教師くらいだと答えられなかったりするからな トミ+オミとは読まずトヨ+トミ。
豊かな臣下。が一般的ですが、遥かな先祖はトミ家(尾張氏由縁/葛城の登美家(出雲神(カモ)族))だとの認識が有った? そうじゃないと思う。
トヨトミは俗説のとおり、聖徳太子のトヨトミミから来てると思う。
天皇親政を夢見た後醍醐天皇が太子由来の寺で写経をしたり
天皇制度の熱烈支持者には太子信仰が伺える。
とにかく上の人も書いてるように
強引に「トヨトミ」と呼ばせたかったのは事実で
違うというのなら、その語源がどこにあるのか、対案を出さないと トヨトミ秀吉というのは
トヨトミミ秀吉(正徳太子のように徳のある秀吉)
という意味で、おそらく語呂合わせであろう。
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織田ザコナガの天下統一はまだか?
織田ザコナガが強いのは池沼の脳内とゲームの世界だけか?
北条義時は朝廷も叩き潰して天下の覇王になったけどな 織田軍ナンバー2では各国君主を上回れなかっただろう。 秀吉公に豊臣の姓(カバネ)を新たに創設して下賜した朝廷(天皇家)は
ひょっとしたらその出自(血筋)を朧気ながら知っていたのかもしれません。
豊(トヨ)。は豊国の宇佐族の血筋(いわゆる神武東征に豊国宇佐族勢も参画していた。勢力争いに敗れて丹波に追撃を受けて伊勢〜東海(豊が付く地名に名残)、、、に退避(最終的には関東に落ち延び国造等になった))を意味しますし、
臣(オミ)。は、元来は出雲神族の血筋(出自の近くでは尾張氏) 聖徳太子の、うまやどのとよとみみのみこ、から来てるんじゃないの? 父系の血統をあらわす血統名には「の」をつけて、
帰属する家をあらわす家名には「の」をつけないってことだよね。 豊臣秀吉は名義上藤原家(近衛家)の養子になったのだから近衛秀吉と名乗るのも可 >>80
だから近衛以外の二条家や九条家から秀吉の藤原姓は許されないと糾弾されて
藤原姓を返上しただろ
わざわざ後陽成天皇に新たな豊臣姓を下賜されて関白になった 姓 源
氏 佐々木
家 尼子
流 山中
苗字 鴻池 >>49
邑の字の上の口を取ったら「巴」になってしまうのでは…
「尸」と言いたいのではないの?
姓尸不称令 豊臣氏の政権がさらに長く続いて、一族が繁栄していたならば、分家も多く出てきた
だろうから、封じられた領地の地名にちなんで、さまざまな苗字を名乗ったに違いない。
豊臣宗家は関白となって公武の頂点に立つ家であるから、苗字を名乗らず、「豊臣」の
本姓のみ名乗るようになっていたかも知れない。
さらに繁栄が続くと、宗家もいくつかに分かれるようになり、五摂家のような家名を
名乗るようになった可能性もある。 多分馬鹿で無知だから知らないんだろうけど
一門は皆羽柴を名乗ってたぞ 大坂落城後
豊臣一門は羽柴から木下に改めたが
明治に至り羽柴に復すものも出た 豊臣の野望を作れ シナ朝鮮を経てアラブ ヨーロッパを征服するゲーム 家康の三河守叙任の下文には藤原家康になってるんだっけ?
秀吉の官職叙任の名は平秀吉だったような。 おてもやん「恵方巻きの馬鹿食い大会でまたアベコロナ爆発や
お・も・ち」 蘇我(の)倉山田(の)石川麻呂って
蘇我が氏、倉山田が家名、石川麻呂が名前でいいの?
氏と家名が中世や近世と逆だけど。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています