北条氏は絶対に桓武平氏である! [転載禁止]©2ch.net
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平直方の子孫だと信じて疑わないそこのアナタ、
気の済むまで書いちゃって下さい。 >>84
そうなの?
安藤氏の内輪もめに双方からわいろもらって
即座に解決できなかったとか
得宗家も飾りみたいなもんになってたとか言うけど 徳川末期てなにか経済や政治がなんかおかしくなってたんだっけ >>88
ゼルダファンボーイなんだよ
けれど泰時のほうが文明の指導者らしいんじゃないかと思った 家紋研究家の高澤等は、同じ三つ鱗紋を用い、
北条氏のように大蛇伝説[4]を持つ豊後緒方氏の祖である大和大神氏の一族ではないかと論考している。
また三嶋大社とも縁があり、伊豆国造とつながりがある
日下部氏一族ではないかという推察もある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F#起源
本当は大神や日下部だったとして
平を名乗った理由って何なの 北条氏は桓武平氏である。
北条家が頼朝を傀儡として
清盛一門から、政権を奪取したのである。
シン・平家物語 テーマソング
「KIYOMORI No.1」
♪おたべ喰ったって〜
和菓子喰ったって〜
京都の中では「平家」なの♪
坊主が唸ればぁ〜
公家が弾むわぁ〜
陰陽師 呪詛 アタック!
ワンツー ワンツー祈祷 護摩 !
でも、涙が出ちゃう・・・
だって、「壇ノ浦」なんだモン、、、、orz(涙
♪南無阿弥陀仏も〜 般若心経も〜
青空に高くー叫びーたい〜♪
平家 一門 NO.1
北条 時政 ナンバー アー ワ〜ン! 将門が怨霊が 頼朝を関東に呼び寄せ
桓武平氏である北条時政を使い
源氏から鎌倉幕府を奪い関東に政権を打ち立てた。
その後一時源氏一門が盛り返し室町幕府により
再び京に政権が移ったが、、
再び平の朝臣織田信長により戦国時代は終わり
その子分秀吉、信長の弟分家康の徳川幕府を
関東に呼び寄せ 長く関東に実権を留めた。
明治の世になり 天皇を 江戸に 呼び寄せたのだ。
だから、帝は京に帰らず 現在は 桓武平氏系
坂東天皇・将門ダイナステイーなのである。
平家の天皇 坂東天皇 将門
地鎮 神田明神 敬うべし 平家滅亡後の文治元年頼朝の命を受けた時政が千騎の兵を率いて入京した際
親戚たちが集まって頼朝に対してのとりなしを要請したとか
彼らが伊勢から来たなら北条氏は伊勢平氏の傍流ということになる >>98 >>85
文治元年北条時政入京時に伊勢の親戚団が上京面会?
ありえないだろ?マスコミのない時代に伊勢の住人が
どうやって時政入京情報を得られるんだよ?
北条氏が伊豆国国衙勤めの役人の子孫>>85?
実質鎌倉北条氏初代の時政は読み書きできぬ文盲だったというぞ。
桓武平氏流の国衙役人の家で読み書きできぬはありえない。
桓武平氏流は仮冒で事実は伊豆地方の在地小土豪だったのだろう。
偶々当初は迷惑だったろう流人とおのれの娘の縁で出世した。 いそじん「マンボウと吉村式のマスク会食で
大阪コロナが大爆発や
よっしゃ、よっしゃあ」 >>104
自筆の症状が残っていてきれいな字で教養を感じさせるって書いてあったぞ
ただ本家筋ではなかったらしい 直方流は源氏の婿を持つことを強調するための仮冒で、維平だか別の平氏系統の京
武者が、伊豆の土豪の北条氏の婿になった説もあるな。
じゃあ、元の北条家はと言うと、三嶋大社に縁があるので日下部氏とか、大蛇伝説
があるので大神氏とか諸説あり。 >>108
それについても確証がなく主流になるには至ってないね
今は一応「直方流とはいうものの時政に至る系譜は曖昧」ということになっているみたい >>108
>維平だか別の平氏系統の京
>武者が、伊豆の土豪の北条氏の婿になった説・・・・・
貞盛後裔の有名な伊勢平氏維衡が伊豆北条氏になった?誰の唱えた説なの? 北条時政は無位無官だったけど、従兄弟の北条平六時定は北条介なんだよ。
時政の祖父は時家だが、時政の父親は、時方という説と時兼という説があるが、時方のほうだろうな。
時家ー時兼ー時定と直系で北条介。これが本来の北条嫡流。
時方と時兼は兄弟で、時方は和田四郎時方を名乗っていた。つまり、時方ー時政の流れは、北条氏傍流。 京武者の家系の場合、身分は内裏の近くでお仕えするのだから身分は高いけど、
地方の武士団として見た場合、その地方への土着度が低いので、小規模の武士団しか持っていない。
清和源氏をみても、本来の嫡流の摂津源氏は、京武者の家系なので、地位は高いけど、
武士団としても見た場合は小規模だが、
庶流の河内源氏は、地方に活路を見出して、地方で大武士団の親分になるに至った。
桓武平氏高望王流をみても、庶流の平良文の後胤は、中央政界での出世は早い男から外れて、
坂東に早い時期から土着して、大きな武士団を構築していったけど
嫡流に近い平貞盛、平直方の後胤は、京都での出世を目指していて、地方への土着度が低いので
武士団としてみれば小規模。 平貞盛の次男の維衡の子孫が、伊勢平氏。
平貞盛の長男の維将の子孫は、熊谷氏と北条氏と横江氏であり、彼らは伊勢平氏ではない。
清盛と時政は、ずっと前に親戚だったという意識で、同族意識はない。 熊谷氏は武蔵土着の私市党や丹党の出身という系図もあるな。
地理的な関係とか考えるとそっちの方が妥当。 >>114-115
直方流平氏出身の直貞がそこに養子入りして躍進したって説もあるな >>111
時定が任じられたとおっしゃる北条介というのは国衙のどういう役職なの?
伊豆介や駿河介なら其の国の次官と理解できるが? 普通に伊豆介じゃないの?
例えば三浦介=相模介だと思ってたけど >>118
なるほど近世旗本の自称官職大岡「越前守」同様の
中世三浦氏の自称官職三浦介(=相模介)の類の〇〇介か。
任じられた官職とは違う自称官職の事だったんだね? 三浦氏の場合、累代にわたって介の地位にあったか不明だけど、
先祖に介や権介がいて、その名乗りを子孫が引き継いだことはあるだろう
平安末期〜鎌倉期に官職を自称した例ってあったの? 先祖に介or権介を務めた人物がいたか、
実際に累代にわたって務めていたか、だと思ってたけどな
介といっても終身ではなく、任期はあるだろうし
怪しむ気持ちは分かるけど、完全な自称だと決定づけるソースはあるのかい >>119
はあ?
自称官職?大岡越前守が?
なにそれ? >>122 >>121
介or権介は国衙の官職なのだから終身制なんぞありえない。
先祖に介や権介がいて名乗りを子孫が引き継いだ即ち任命されていないのに
特定の氏が名乗り続けたら自称だよ。名字同様にね。 とりあえず北条も三浦も在庁官人なのはまちがいないだろうな >>123
江戸時代の大岡越前守や吉良上野介が判り易いが
むろん大岡忠相や吉良義央が越前国や上野国の長官や次官では
なかったし治めたり領地を持ったりなどしていない。
彼ら大名・旗本が慣例の官職名を江戸幕府に申請して
朝廷から官位推戴権を得ている幕府が重複等を確認の上
許可していた。つまり幕府公認の自称官職だった。 >>124
例えば上総広常は「介八郎」という通称が示すように、
少なくとも上総介(正確には権介)の八男だったからこそであって
後世の自官や百官名と同一視できない
千葉氏の場合、寄進状が残っていて、常重が下総権介だったことが分かっている
ただ、「千葉介」については鎌倉時代以降に名国司(売官)として下総介(or権介)を得て
やがてそれを通称としていった可能性はある
三浦氏もおそらく上記と似たような経緯だろう
これらの介(権介)は全て平安末期の官職であって、
当時は武士の間で官職を自称する風潮はない
そして北条氏だが在庁官人だったのはほぼ間違いないだろうから、
一族の中で伊豆介(or権介)についた者がいても別におかしくはない
>>126
それは自称官位ではなく、武家官位というもの
朝廷が持つ本来の官位では定員数に不足が出てしまうために
当時の公権力によって正式に定められたもので、自称とは違う 戦国には自称の官位を名前としてるやつなど腐るほどおるがな え、違うの?ずっと桓武平氏の平貞盛系統とばかり思っていた。 従五位下大岡越前守藤原忠相
どう考えてもこれ正式だろ? >>134 >>133
話が嚙み合っていないな。従五位下大岡越前守>>132という官位・官職が
公式・正式かといえば江戸幕府の承認した呼称だから公式の官位・官職。
今日は天皇誕生日だが朝廷が定めた律令制度上の越前「守」は越前国の
統治長官であるのに大岡忠相は越前国の統治行為なぞ行っていない。
江戸期には形骸化していた律令制官職ではあるが語義通りの職務を担当して
おらぬ官職の名乗りは正式ではあるが自称官職と捉えられるということ。
一族の誰かが律令制上の官職伊豆介(or権介)についた>>127事実があっても
任命された当人以外が伊豆介(or権介)を名乗ればそれは自称・私称。
任命された当人も任期を過ぎれば前・伊豆介(or権介)。 >江戸期には形骸化していた律令制官職ではあるが語義通りの職務を担当して
>おらぬ官職の名乗りは正式ではあるが自称官職と捉えられるということ。
本来の職務を担っていようがいまいが、それは自称とは何ら関係ない
お前が言っている通り、公的に許可された官職なんだから、
それは自称ではなく、公称を許可されたもの
それを自称官職と捉えているのは、一部の現代人だけ
> >>135
よく知らんで申し訳ないが、大岡「越前守」ってのは江戸幕府の取り決めだけじゃなく、
きちんと朝廷の除目によって任命されてるってことでOK? >>139
意地悪とかじゃなくて、マジな話そのくらい常識だと思ってた >>116
熊谷直実についていえば、私市党で親族でもある久下直光にいつも押さえ付けられて
いた訳だからなあ。躍進したと言えるのか? ただの朝鮮人だよ
伊豆国田方郡北条(静岡県伊豆の国市)を拠点とした在地豪族で、平直方を始祖と自称する
自称。ぷぷ
卑しい一族だから自称するんだし、頼朝3代皆殺しにした素行の悪さみて気づかない?
どうみてもこいつらが土着しただけ
↓
716年、朝廷が駿河など7ヶ国に居住していた旧高句麗から渡来系移民1,799人を武蔵国の一部に移し、高麗郡を設置したとされる
https://ja.wikipedia.org/wiki/高麗郡
フビライの国書の本文「かつて中国と通好していた日本が、自分の代になってから1人も使者を送ってこないのは、日本国王が諸事情を知らないのではないかと懸念しています。我が意を伝えるために、使いの者に書を持たせました。これからは互いに仲良くしていくことを望みます。兵を用いるのを誰が望むでしょうか」
これ見て⇒要約するなら「お前、家来になれ」と言ってきたのです。
こんなトチ狂ったリテラシーで国書無視を連発するのは北条か李明博みたいな朝鮮人だけだ
源氏の直系の家系と
北九州日本人の貴重な命を鮮人成り上がり北条ごときのせいで失った罪は
永遠に消えることはない 犬に土下座させたのは
徳川綱吉と北条最後の執権だけ
他にも参勤交代とか気持ち悪い風習や
関東政権が日本より関東なのも、工作だけはやたら得意なのも朝鮮人らしい特徴 >>95
下記と同じWikiからの引用かよ?
"突出した戦力を有して"いなかったも何も石橋山の戦に一族から
数人程度しか動員できなかった点で弱小土豪だったのだろう
"『吾妻鏡』が40歳を越えた時政に「介」や都の官位などに就かず、
ただ「北条四郎」「当国の豪傑」とのみ記していること、保有武力に
関しても石橋山の戦いの頼朝軍の構成を見る限り突出した戦力を
有していたとは言いがたい・・・・"
https://ja.wikipedia.org/wiki/北条氏#起源
時政以前の系譜の通説は下記でよいのか?
直方→○○→○○→時家→時方→時政 全板規模の荒らしによる重複スレが立てられたので
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