明智光秀はなぜ織田信長に謀反したのか?3 [転載禁止]©2ch.net
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野望説、怨恨説、左遷・追放恐怖説、理想相違説、四国説、ノイローゼ説
朝廷黒幕説、イエズス会黒幕説、秀吉黒幕説、家康黒幕説、 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった いずれにしても明智光秀が信長を殺す気だったのは間違いないだろ。
黒幕がいたって光秀にその気がなきゃ成立しないんだし。
信長はそういう運命だったってことで終了。 信長は、主君(斯波義統)を弑した謀反人(織田信友)を滅ぼすという名目で
まんまと、主家そのものを乗っ取って、尾張を支配下に置いたわけだが、
全く同じことを秀吉にやられたわけだよね。
秀吉も、幼少の主君を立てておいて、その権威を利用して自分が権力を確立
→確立し終わったら、その幼主は自分の臣下にって流れだが、
全く同じことを家康にされている。
歴史は繰り返すっていうか、因果応報ってすごいなって思う。 >>1
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適度な円相場 「1ドル=85〜90円ぐらい」★3 【大好き!www】
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1356127992/ >>1
甲斐武田家の弱体化と本願寺の大阪からの退去
↓
その結果、織田家弾正忠家の譜代筆頭である佐久間信盛の役割低下
↓
外様トップの光秀による讒言で、譜代筆頭の佐久間信盛とその子(正勝)の追放
↓
佐久間家所領は織田家が収公、光秀は畿内の責任者に。勝家は織田家筆頭家老に。
↓
勝家に逆らった柴田一族が逐電し、光秀の家臣に。
↓
佐久間信盛追放で逼塞していた譜代衆(特に柴田と佐久間)と光秀ら外様の対立激化
↓
柴田やその重臣の佐久間一族が、巻き返しを図る。佐久間正勝の織田家再仕官に成功する。しかも信忠の家臣に
↓
ほぼ同時期に、光秀の遠方への転封話が持ち上がり、明智家中には困惑ムード
↓
甲斐武田家征伐で光秀軍勢の沈滞ムードがフロイスに記録される
↓
四国政策が変更、長宗我部討伐が決定。 長宗我部とのコネや交渉が、全部ムダに終わる。
↓
光秀は、織田家での前途に絶望し、謀反を決める。 上杉にかかりっきりだった柴田に政争している暇なんてねーよ。
第一、明智も柴田も方面軍団長でその上に猪子、さらにその上に武井が
君臨していたんだから対立なんてしていたらまず猪子から何かしらの
アクションがあって然りなはずだがそんな動きはない。 >>13 景勝は御舘の乱が影響で弱体化、本能寺がなければ、勝頼と同じ運命だったのでは?
だから、柴田は秀吉や光秀にくらべて楽だったはず。与力大名も 前田 佐々 不破
と豪華の面子だ。秀吉なんか 弟小一郎 姻戚の浅野 昔なじみの蜂須賀 半兵衛
に官兵衛位。 よく毛利と対峙したもんだ。 >景勝は御舘の乱の影響で弱体化、本能寺がなければ、勝頼と同じ運命だったのでは?
確かに、そう思う。
越中なんて、本能寺が無ければ、あと少しで柴田勢が、制圧出来た。
越中を制圧すれば、そこから越後南部に侵攻し
北信濃から越後中部にも同時進行して、越後上杉氏(と言うか長尾氏)は、ジエンド。
楊北衆は、謙信やその父の長尾為景の頃から、言う事聞かないし、
織田勢(柴田勢)が、越後南部や中部を攻撃したら、伊達が、楊北衆と手を組んで
越後北部に侵攻する。もうそうなったら、越後上杉氏(長尾氏)は、終了。 >>13
信忠への世代交代もあって、織田家では若手近習の台頭が著しい。
そして、そいつらと光秀の関係は、最悪。
信長は、その情報を信じなかったけど。
森蘭丸は、光秀の謀反の可能性を信長に報告しいている有様。 >>16
>森蘭丸は、光秀の謀反の可能性を信長に報告しいている有様。
これの出典は? >>18
教えてくれないのはネットソースや孫引きだから?
食事中の粗相の話なら、出典は「常山紀談」。
「常山紀談」は、18世紀中頃に編纂された逸話集。
どのような経緯で採録されたか不明で、信憑性に疑問が生じるのは当然。
洛中で噂を聞いた話なら、出典は「森家先代実録」。
「森家先代実録」は、19世紀初頭に編纂された家記。
系図もそうだけど、自家の人物を顕彰するためもあり、記事の全てを事実と即断はできない。
成利が光秀の謀叛を予測していたかどうかは、断定できない。
というか、おそらく予測していなかったと考えた方が自然。
本能寺で異変に接した信長は、
「三河物語」によれば、「城介が別心か?」と発言した。
成利から注進を受けていたなら、まず疑るのは光秀では?
「信長公記」によれば、「これは謀叛か?如何なる者の企てぞ?」と下問したところへ、
成利が「明智が者と見え申し候」と答え、「是非に及ばず」とそっけなく返している。
件の成利と対話しているのだから、成利の先見性を褒めたり、自分の目が曇っていたことを悔やんだり、
そういう逸話が残っても良さそうだが、他書にも全く見えない。
所見を乞う。 >>19
>成利から注進を受けていたなら、まず疑るのは光秀では?
そのご注進を信長は、信じなかったんだが? >>19
>自分の目が曇っていたことを悔やんだり
信長は、リアルに本能寺で悔んでいるよ。 柴田って織田家の部将でも、最大の所領だし、
佐久間信盛の後になると、宿老筆頭だし、それに、織田家の出身地を任されている。
勝家は、自ら剣神社に奉納しているし、神社の増改築をしている可能性もある。
織田家って、もともと剣神社の神主だよね。
これを見ても、勝家は、織田家の中でかなり良い待遇じゃないのかな? >>20
注進の時点で信じなかったにしても、現実に謀叛が起きたのなら、脳裏に過ぎるだろう。
そもそも、注進したという事実が、諸書の記述を総合して、積極的に是認できるものではない。
>>21
成利からの注進があって、それを容れなかったことを悔やんだかどうかは、分からない。
悔やんだというのは、何を悔やんだのか、それは何から知れるのか?
成利が光秀の逆心を信長に注進したけれど退けられたというのは、現段階では史実として認められない。 >>13
>明智も柴田も方面軍団長でその上に猪子、さらにその上に武井が君臨していた
近習の実質的権限は、重たいのだろうが、
所領や兵力の動員数などを見ると、方面軍司令官には、かなわないと思うけど。
弱体化しているとはいえ、リアルに上杉や毛利などと言った
敵を抱えている方面軍司令官を差し置いて、近習の意向ばかりを聞く信長とも思えない。
ただ方面軍司令官であっても、
近習(特に奥右筆)のサボタージュは、
色々と怖いから気を使うのかも知れないけどね。
また、逆にいくら近習であっても家臣1の筆頭家老には、気を使うかもしれないし。 猪子は信長と軍団長のパイプ役、そして平たくいえば軍団を含めて
家臣達の監視役(戦場でもね)だから軍団長より上だろうな。
公家はもとより村井のような立場でもかなり気を使っていた相手。 光秀は、台頭しつつあった若手近習とは、かなり対立していた可能性が高い。
もしかすると、光秀の出雲・石見への転封話も、若手近習から出てきた話かも。 信長は家臣に嫌われていたからいつ殺されても不思議じゃない。
嫌われていたことの出典?
自分で探せよ >>22 次席家老の丹羽長秀の処遇がいまいちだね。 天がくだしる五月かなだろ
天王山で負けた後は天海になってんだから >>19>>23で指摘した、史料自体の価値、諸書の記事の整合性、追加の疑問に対して、
誠実な応答が無いので、当方の主張が是認されたものと看做さざるをえない。
補足するが、「常山紀談」と「森家先代実録」で、経緯が全く合致せず、
何れも真で二度注進したのか、一方が偽なのか、何れも偽なのか、判断しようがない。
注進があったことを肯定するにしても、どのように評価しているのか。
おそらくきちんと評価していないのだろう。だから安易に史実と断定するのだろう。
成利が光秀の逆心を信長に注進したけれど退けられたというのは、現段階では史実として認められない。
以後、何事も無かったかのように、再び主張することのないようにおねがいしたい。
人並みの知性と羞恥心があるなら。 >>12
>光秀による讒言
既に前スレ751でも言及されたことだが、繰り返し述べておく。
「佐久間軍記」は17世紀になってから成立したと見られる。
比較的早くに成書した史料ではあるものの、家記であるから記事の採用は慎重にするのが常道である。
信盛の追放理由に讒言を挙げているが、誰によるのかは示されていない。
下って18世紀最末に編纂された「寛政重修諸家譜」が、讒言の主を光秀とする。
諸家の呈譜を主たる資料として完成したものであるから、当該記事も佐久間氏の提出資料に依拠していると見られるが、
約2世紀前の「佐久間軍記」に見えない記事であり、孤立した記事でもあるから事実と即断できない。
「佐久間軍記」は、讒言の主を知っていたなら、なぜ記述しなかったのか。
信長が讒言を容れて信盛を処分したとするなら、信栄が再仕した時点で、
讒言した者への処分も為されるのが自然であろうに、光秀が咎めを受けた形跡はない。
佐久間氏に関連した史料にしか讒言の記事が見えないこと、
光秀が讒言したという記事の初出が遅すぎること、
以上の点から、光秀が讒言したとは断定できないし、讒言していないと考えた方が自然であり、
そもそも信盛が讒言されたか否かも不明としか言えない。
所見を乞う。 >>25
それでも天狗にならなかった猪子や武井は凄いよね。
万見や乱丸もこの2人をかなり怖がっていたらしい。 >>32
近習の実質的な権限はともかく、
所領や兵力の動員数なんかは、方面軍司令官には敵わないだろう。
あと佐久間信盛や柴田勝家なんかは、
宿老筆頭なので、その点でも権限的に凌駕出来たのかどうか? >>33
所領の大きさや動員数と政権内権限は別ものだよ。
それじゃ佐久間や柴田が武井や猪子へ命令を出すなり上位を示すような話を
逸話でもいいから提示して欲しい。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>32
逸話なんかからだと相手が信長寵愛の小性だろうとひるむことなく
厳しくする時は厳しく説教諫言当たり前、信長の目前ではたいたこともあり。
そしてそれを信長も容認しているのだから普通に怖いだろ。
他の人は憚る信長の寵愛という盾がまず利かないんだから。 >>35
だったら何故、光秀(畿内方面軍司令官)は、謀反を起こせたんだよ!?
と言う疑問が出てくるのと、同時に、
こちらは、近習の実質的な権限の強さは、認めているんだけど?
織田政権の中央政権化や集権化が、始まれば、近習のパワーアップは尚更。 __,,-ー―‐-x、_ (漏れは、元宏池会の戦後レジーマーだし…(
/~ ,,ィォャ-ー…、:::::丶、 ) そろそろゲル一派に寝返るかな… )
/: : ,,ィ`~ .\:::::`'、 ( r'⌒`ー〜 ⌒
./:::::/ __, ヽ,ミミヽ ` '⌒ ̄
/彡/: : : __,, ―‐‐ : : :ミ从)、 〇
{ ll|{: : : ,,ィ=≡、 : .}州|l} O°
{州|: : ,,r≡=-'、 .,ィー-、 .ミ/'~`, o
,,ヘl|lj. ィ'ンt-j、: .〈rーヒッァ Y リ.j ゚
.{れ、! ´``¨ノ.::: ..:.` .=-' }yシ {
ヽrヘ ~ /" y、 .} ノ
.ヽ,ヘ i' `^.ー"~´ ヽ ./-'′
.`ー、 ,r'ニニニ≧ッ`, /
ヘ ノ`  ̄ ̄"´ ヽ/.|、
.ヘ  ̄ /:: /|:..\ ̄`ー- 中央集権化、なんて言ったって家臣が従わなきゃ絵に描いた餅にもなりゃしねえわ。 織田政権といっても、豊臣政権に比べて微少な地方政権に過ぎないね。足利幕府末期
の山城国一国も保てないに比べてましだが。 >>41
つまり、武井や猪子なんて、たいした事無いんだろう。
この時代に武力無き権限と言っても、限界あるだろうし。 やはり京を追放された義昭の密命があったんだろう。理由は織田氏は
ニューホープ大名。同じ下克上でも、道三の家来であった光秀は室町
幕府や公家への忠誠心があったに違いない。まずは全国統一しようと
したのは信長ぐらいですからね。他の大名は自国を守るための近隣の
領土拡大や地方制圧です。毛利なんかも中国地方 のみの雄ですし。
つまり天下そのものを変えようとした信長の急変に、いつかこの風雲児
を取りのぞかなければならないと思ったんだ
ろう。他の理由はキリシタンにもあり本国への報告なぞで海外でも
浮いた存在にも関わらず 地球儀を見て、偉ぶっていた。あとは義昭に
海外の王との謁見もあったやも知れん。クークックッ 信長にどの程度の意思があったかなんて、本人がその能力がない以上妄想以外のなにもんでもないから。
光秀謀反によって潰える程度だよ、所詮は。 >>43
武井より下の右筆楠でも信長から軍団長への文書発給命令を一時留置き
発給時期を独自で決められる位の権限はあったよ(当代記より)
これは楠が思う処ありと独断で行なったことだけど信長は咎めていない。
つまり軍団長より権限がないのであればこのようなことはできないから
少なからず軍団長と同等の権限は持っていたと見るのが普通で楠より
上の武井ならなおその権限は強いのは明らか。
猪子は複数の史料から見るに軍鑑/軍監、戦後処理を含めた戦の後始末他
と重大な責任を伴うものに付いていてこれらは普通一門など余程の信頼や
立場のある者でないと付けない。軍監ともなると今でいう軍警察みたいな
ものだから軍団長も縄目にできる権限は普通に持ってるよ。 だから秀吉は猪子に贈物したり度々手紙を出したりと誼を通じていたのか。
それでもこういう人たらしと言われる所以の小技をもってしても
左右されずにいた猪子もただ者ではないな。 譜代系宿老が、信長の近習衆を
うまく取り込んで色々運動していたとも見える。
佐久間正勝の(信忠)家臣への復帰なんてのも、その筋だったりして。
近習だって一門衆や譜代系部将には、気を使っていたかも。
それゆえの光秀の遠国への転封構想だったのかも知れない。 >秀吉は猪子に贈物したり度々手紙を出したりと誼を通じていたのか。
水野信元や佐久間信盛が追放されたのも、
その辺にヌカリがあったからなのだろうか?
秀吉がやっている以上。
柴田や佐久間もヤラン訳にはいかないだろうからね。 .
【報道威圧発言】「自民、感じ悪いよね」国民に広まると危機 石破氏★2
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1435885773/
21 もともと、安倍おろしの筆頭だった石破。 こいつこそ、平成の明智光秀だ。
617 21
明智光秀はなぜ織田信長に謀反したのか?3
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1435378230/
11 1
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適度な円相場 「1ドル=85〜90円ぐらい」★3 【大好き!www】
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1356127992/ 「一番得した者を疑え」というので、それは秀吉なりと、後知恵の論がありますが、
本当に得したのは、朝廷に実権のある実力公卿達であり、寺社勢力なのではないでしょうか。
秀吉の立場にある者というなら、柴田勝家こそ最適でしょ。
報せを受けたのもほぼ同じぐらい。臨戦態勢にあったのも同じ。
しかも、柴田本軍2万8千は後詰めで、前線ではない。上杉軍対峙の前線に困難は無し。
かつ、上杉軍は兵力の追加が出来ない。柴田本軍が抜けても影響無し。
秀吉より有利。
柴田軍が中央へ出られなかったのは、報せを受けた直後、現地では数百年に一度という豪雨で、
九頭竜川が大氾濫、10日近く越前平野が一面の湖水となって軍隊移動が不可能だったため。
戦前すでに、陸軍の研究でわかっており、戦後の歴史気象学でも明らかなこの事実を
なぜ一般社会では論じないのでしょうかね。
史学界では通説なのに。 朝廷にせいにしたり、家康のせいにしたり、秀吉のせいにする
まじで明智光秀の子孫は今も昔も性格がすごく悪い
誰がどう見ても下剋上の世の中でずる賢い明智光秀が信長を騙し討ちにしただけだ >>52
ずる賢いというか、下克上は当時は非難の対象ではなく
騙されたとしたら騙された方がアホだったというだけ。
信長親子を同時に葬れば(特に信忠は濃尾甲信の太守で遊軍なので必殺)
他の重臣は遠方で敵と戦っている(秀吉は苦戦だとして援軍を要請)
その間に畿内で勢力を固め天下人になれるぞい。 明智の末裔を罵ったって仕方があるまい。
それに明智単独で確定したわけでもないだろ。
そんなんで罵るなら例えば武田遺臣末裔達だって罵ってみろよ。
こっちなんて明智と違い確定なのに武田滅亡は勝頼が悪いで終わったまま。 武田の滅亡は信玄5:勝頼2:家臣2:他1あたりかな
勝頼だけにその責を負わせるのはあまりにも酷 当たり前だけど滅亡は複数の要因が重なった結果だろうから誰が悪いどうのは
なかなか決められるものではないと思う
しかし、武田のあの崩れ方は正直ないわーと思うな まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
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小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
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岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>59
かつ、よりわるいのはやっぱぷらじゃないか 武田勝頼は天地人とすべて損ねてたよな
運のない感じ 諏訪の仇を勝頼が討ち、武田を仇を秀信が討つ
無情の世の因果は巡る…南無南無 >>60 たられば言ったら仕方がないが、勝頼は景虎を推して 北条 上杉 武田 の
三国同盟にもちこんだらどうだったろう。 カゲトラ推したら北条はいいけど上杉側に遺恨残すんじゃないの?
あちらも半々に分かれてた訳でもなさそうだし
あの時点で一番強そうな北条を味方につけないといけないのは多分正解とは思うけど。 弟が危ないのに義弟におっぽり投げて佐竹とけんかしに行く氏政なので
どこまで本気だったのか正直わからない。
叔父の氏照は親織田派、佐竹も織田とは良好なので同盟組めたかは疑問。 後北条は小田原以外ほめられたことないよね
どうしてこう時流よめずに没落したのか惜しまれるわ 明智光秀が巧妙で信長騙して佐久間を追い出し信長を騙し殺しただけ。
朝廷も秀吉も家康も関係ない
子孫が明智光秀を庇いたいがためにああでもないこうでもないと言いがかりをつけているだけ >>69-71 ちょっと スレちがい気味になるが、3国同盟が相なって本能寺が
予定通り起こったとしたらどうなるだろう。全く、わからんですな? まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>73
甲相越?の同盟なっても天下に号令すんのは義昭じゃないか
毛利とともに上洛。
秀吉は光秀うつも織田家とりまとめてるうちに家康ふくむ甲相越駿四国が壁で尾張の一勢力で終わるとか >>70
>叔父の氏照は親織田
氏照は落ちてきた松姫一行を匿って世話したり信忠からの召し出しに応えて
行くことになった時に松姫に何かと用立てたとかの記録があるけど
何かそれと関係してるのかな?
取りようによっては松姫を差し出したとも考えられるけど何か算盤はじいてた? 北條の立場的にただで差し出したとする方が無理あるだろ
信忠もただで出すとは思っていないだろうから土産持たせてるだろ
それこさ上野の件とか妹の嫁入りとかおいしい土産をね 関東の同盟が、光秀秀吉の力関係に影響はしないと思うからまず秀吉の勝ちになるんじゃないの? >>81 毛利が、どう動くか? そんなに、早く和睦したかな? >>82
毛利自体は割と反応とろいよね
とろいからこそ秀吉は東へ駒を進めやすかったと思う
でもそれで例えば関東の四強がそれなりに団結したら攻めようがないと思う
結局史実は徳川が北条をフォローしきれなかったし、上杉没落、はやくに武田滅亡、今川徳川に蹂躙と食い合っちゃったから
秀吉はタイミング良かったよね
本来なら挟撃される位置関係で信長と同じ心配しててもおかしくないのに。 秀吉が九州平定後関東仕置きをはじめた際、まずは徳川、ついで東北としめていったが北条は言うこと聞かなかった
そこで徳川がある程度あいだにはいって折衝してたけど
ってそういう話 >>79
氏照といえば信長に鷹を送った時に遅いと不興をかったこの遅いは
松姫の件もあるのではないかという見方もあるらしいやね。
織田はかなり早い段階から松姫が氏照の元にいることを知っていて
あえて北條の出方を試したのでは?みたいな感じだったように記憶。 >>83 しかし、京都に一番早くつくのは秀吉かな? 景虎の勢いが振るわなければ
柴田が抑えを残して京都に攻め上らんだろうか? 史実からすれば柴田勢は明智光秀討伐に間に合わなかったわけで、(京都への大返しについての)秀吉優位は変わらないかと。
特に今回関東の同盟が成った場合の条件つきなら尚更柴田は下手に動けないと思う >>89
滝川軍が氏照領の深部(丹沢とか)へも入ってあれこれやっているから
滝川軍を通じて信忠から氏照へ松が領内に来たら連絡するように依頼は
当たり前にしていそうだからなあ。 >>91 そう言えば、3国同盟ができた時には、滝川は関東に深く入り込んで
ませんね。滝川と光秀というのはないですかね? 滝川の部隊がどのへん
展開してるか未知数ですが。 信長は明智光秀には大甘
信長を騙して佐久間追い出し長期間好き勝手やっていた
信長に叱られて当然の部分がある 明智光秀は詐欺師だから信長を裏切るのは当然
信長家臣団が外征に出ているのを見通して
天下横取りのために謀反を起こしただけ >>92
それもあるし氏照以前に氏政らが既に信長を接待しているし駿河大宮に
泊った時に北条も接触しているらしいから遅いというのはおかしいよね。 もう少し明智光秀に根回しの才能があったら秀吉の踏み台にならなかったかもなあ まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>96
そうなると氏照不興の一因はやはり前出の松姫が絡んでるっぽいか…。
いやね、氏照不興という日付と金照庵にせよ心源院にせよ松姫が
どちらかの寺に移った(入った)日付がとても近いのがただの偶然にしては
できすぎているようにも思えて気になっているのだ。 >>53
下剋上は非難の対象だよ
道三とか織田分家とか、主家や守護から権威を簒奪した歴史ある家は戦国時代でも非難されている
非難しつつ、自分達も同じ事をやるというダブスタで倫理観麻痺と上っ面が横行していたのは近代史と同様 >>102 戦国大名で下剋上でないのは、主な所では、佐竹 武田 今川 大内 大友 島津
位なもんじゃない。 まあ、謙信が下剋上なしに、関東管領を相続したが。 上杉のは中国の禅譲みたいな感じもするが。
力関係が逆転しててうんもすんもなくってイメージだな >>103
下剋上かは微妙だが武田は信虎追放時にかなり非難されていなかったっけ?
>>101
記録どおり氏照は知っていたのか実際は知らずにいて信長や信忠に言われ
調べてみたら本当に松姫がいたからまずは急ぎ移動してもらったのか。 >>105 信虎の暴虐非道ぶりをあることないことを宣伝したのが信玄ならば
それもそうなんだろうね。
>>104 謙信が強要したわけじゃあるまい。 >>105
もし後者だったら氏照もさすがにビビったろうな。
まじで?いつの間に入ったんだみたいな感じでね。
逸話だとこの頃に氏照の配下達が求婚を迫りに押しかけているんだよな。
あまりにもしつこい奴は於松自らに説教されて追い返されたらしいw >>107
信忠の耳にその話が入ったらそいつら確実に打ち首もんだなwww みんな、光秀が微賎の身から信長に引き立てられたという通説に囚われているんじゃないのか?
光秀は御供衆の細川藤孝や足利庶流で御部屋衆の三淵藤英、上野秀政と同格で連署しているし、
義昭が出奔した後は、幕臣の大部分を組下にしている。
光秀が通説に言われているように、細川の中間だったり、諸国流浪の身だったら、
判物に著名なんかできるわけないし、プライドの高い幕臣を部下にできるわけもない。
光秀は有職故実に通じていたが、当時はそれなりの家柄の人間でなければ
有職故実の知識は得られなかった。
光秀はもともとは明智氏ではなく、奉公衆のトップの家柄の人間が
何らかの事情で明智を名乗ることになったのではないのか? 卑賤の身から成り上がったと言われていたが、実は名門の出だった例としては、北条早雲がある。
早雲は幕府政所執事を世襲する伊勢家の出で、超エリートだった。
早雲の出自が最近までわからなかったくらい、室町幕府の研究は遅れている。
最後の正式な政所執事は伊勢貞孝だが、貞孝は三好長慶に討たれ、わずかに孫が二人生き残る。
そのうちの一人を婿にして、後見したのが光秀だ。
光秀は伊勢家の地盤を引き継いだだけでなく、政所執事代行的な役割を信長から与えられ、
奉公衆をまとめている。
朝倉や細川の家臣だったとしたら陪臣にすぎず、直参の奉公衆の上に立つなんてできはしない。
伝承のように土岐源氏だったとしても、まだ格が違うだろう。 家康饗応の失態が本能寺の遠因のひとつとあるけれども
公家対策で室町ばりの礼法に通じていた惟任日向守がまさかという
これも後世に尾ひれがついた話としか思えない。
今川家というのは相当家格が高く鎌倉からの家柄だけれども >>111
光秀は御供衆の細川藤孝と同格ではなくて
細川藤孝の家来
それは一次史料で確認できてるでしょ 若狭の刀工冬広の子とか、朝鮮人とかという話はあるね。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>114
細川の中間という記述が出てくるのは、光秀が死んだ後だ。
一次資料ではあるが、光秀の生前に書かれたものではない。
神田千里の研究で明らかなように、室町幕府の権威と行政機構は
織田政権の続いた期間、ずっと健在だった。
義昭が都落ちしたことで室町幕府が終わったような誤解があったが、
義材以降、将軍の都落ちは珍しいことではなく、将軍がいなくても
幕府の統治機構は機能するようになっていた。
光秀の最初の文書は、信長が義昭を将軍位につけた一月後、
村井貞勝と連署した安堵状だ。
貞勝が織田家を、光秀が幕府を代表して、署名したのだ。
幕府の権威が健在で、プライドの高い幕臣がたくさんいたのに、
通説のような卑賤の出だったら、幕府を代表して署名なんて出来ない。
近年の研究で明かになったように、信長は中世の破壊者でも、改革者でもなく、
室町幕府をはじめとする権門勢力を温存したまま、畿内支配を行なっていた。
通説の光秀像は、一昔前に流行した中世の破壊者=信長には適合するが、
現在の信長理解には適合しない。 >>120
多聞院日記とフロイス日本史は無視ですかそうですか >>123
光秀の出自に関しては細川家の資料や多聞院日記と矛盾してませんが? 織田軍団長の中で、どこの馬の骨?な連中が秀吉、光秀、一益。
当たり前だが、彼らはペーペーから成り上がったのだから、相当な能力の持ち主。
つまり、中でも一番の出世頭である光秀は、後に天下を取った秀吉と同等か、
それ以上の能力と信長が認めた事になる。
元々、光秀は織田家仕官前も斉藤、朝倉、細川、足利将軍家、とコロコロと主人を
変えてるから、自分の野望のためには主家を裏切る事に抵抗の無い人物。
そもそも織田家は反乱、謀反が多い。
弟の信勝、義弟の浅井、爆弾正、荒木、波多野兄弟etc、と枚挙に暇がない。
つまり、織田家中には常に不穏な空気が漂っていて、謀反が起きやすい状況だった事になる。
謀反が起きやすい状況とは、謀反が成功しそうな雰囲気って事。
自分が反乱蜂起したら、一緒に付いてきてくれる連中が多そうだと思える状況って事やね。
光秀には天下人クラスの才能があり、そもそも忠義者じゃなく、更に織田家には謀反が
成功しそうな空気が溢れていた、となると、光秀はチャンスに謀反起こしても当然なんだよね。
事実、他の連中には出来なかった信長を討つ事に成功してるワケだし、機会を見る目や能力は
一流だったって事やね。
しかし誤算は結局、誰も付いてきてくれなかった事。
不穏な空気は漂っていても、結局、反乱者に付く者は織田家中には、居なかったワケだ。 >>126
斎藤に仕えてたって何が出典?
>そもそも織田家は反乱、謀反が多い。
どこの戦国大名も似たようなもんだと思うけど、
印象論じゃなくて定量的に多いって誰かの先行研究ある? 明智光秀は単なる詐欺師
信長を騙して佐久間を追い出し
最後の最後には信長に従順なそぶりを見せて騙して乱を起こし信長を殺した 佐久間の追放は光秀の讒言のせいってのは俗説やろ
佐久間信盛は、織田が尾張の一部の領主だった頃からの協力者豪族だから、
他の家臣とは別格だとの奢りがあったんだろうな
で、その職務態度にムカついたノブがキレたんやろ
でも佐久間には追放or手柄な2択だから、追放オンリーだった林サド侯爵と比べるとまだ優しい対応じゃね? >>126
それは一昔前の説。光秀に求められた能力は、秀吉や一益とはまったく異なる。
秀吉や一益は最下層からの成り上がりでもつとまる仕事しかしなかったが、
光秀が担当したのは、政所執事を代行して、幕府の統治機構を運営するとともに、
儀典長として、朝廷との折衝や儀式を仕切る仕事だ。馬揃えも、光秀が仕切った。
信長時代の幕府勢力は、従来考えられていたよりも強大で、信長の天下構想は
幕府の統治機構を温存して利用することだったということがわかってきた。
最新の学説を読め。 滝川は一族から信忠の乳母兼信長側室が出たり池田との親戚説も
有力になってるから最下層ということはまずないだろ >>120
多聞院日記とフロイス日本史を完全否定しているけれども
君の持論である明智光秀は室町幕府の高官出身という
一次史料が全然出てきてないんだけど? そもそも中世以来の権門を維持していたら、三職推任で三つとも要らないなんて言わないだろう。
寧ろ伝統とは正反対だったんだろ。
義満と同じことがしたかったのだろうし。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 例えば征夷大将軍になりたいとして義昭からどうやって将軍職を奪うん? 刀で脅して譲位させればいいんじゃないの?
関東でも管領を禅譲してたろ。 >>137
朝廷に働き掛けて将軍解任できないのかね?
それをすると朝廷権威が建前としては上になるからそこが問題になるのか?? 将軍職の権威なんてその時勢の力関係次第でしょ
義昭以前の数代なんてないがしろにされまくり
勝手に将軍擁立しまくりで朝廷はろくに口はさめなかった 近江を、足軽出身の羽柴秀吉と二分されたり。 元斎藤家の
重臣として不当な人事を受けていたからじゃないかな。
それは信長が権限を持っていなかったと思う。もともと
信長は尾張統一に、柴田勝家らと合戦するほどに父親織田
信秀と反りはあわず。お濃の方との婚儀により斎藤道三と
は昵懇だが。斎藤義竜らの一味は尾張の敵。つまり信長は
光秀を斬らず登用した訳だが。まぁ木下藤吉郎の出世すら
憚られていたのだが 。結局、柴田、前田、丹羽の影響力
強し、あとは光秀は延暦寺や石山本願寺の 僧らと通じて
いた説もある。 >>142
>元斎藤家の重臣
とりあえずこのソースきぼん ソースにはなってないが、斎藤家の親戚だったそうだ。さらに
謀叛に関して言えば 光秀は家康の大阪、堺の見物の案内人
をさせられていたらしい。羽柴は毛利攻めで高松城陥落
寸前。結局、身銭切ってまで家康を接待しなくてはいけず
さらに秀吉以外の武将らが信長のやり方に異を唱え始めて
謀叛を企てていたのを気づき諫めたものを提言聞かない
からどちらにせよいずれ誰かに奪われるなら自分が。
となったんでしょうな。結局理由は信長は尾張平定すら
強引だったんやな。 つまり足軽あがりの秀吉以外は信長を
「うつけ」だと思っていたはずだ。つまり身分の低い人間
しかついてこなかった。信長の失敗。 本能寺の本来の目的は信長の家康粛清にあった、となると
色々辻褄があってくるんだよ
1:信長にとって武田が天目山で滅んだ時点で家康も用済み
2:家康を倒すためには非常手段を用いるしかない。(関ヶ原で石田は家康暗殺要請をけって敗戦)
3:信長、本能寺に家康おびきよせて光秀に暗殺させる計画を思いつく。(そのためには信長自身もほぼ丸腰にならなくては家康の猜疑心を招く)
4:当然家康暗殺計画は信長の肚のうちにあるだけ。
5:家康暗殺実行を光秀に命令(ただ深い根回しはできず)
6:光秀(敵や裏切り者と違い律儀に同盟組んでくれていた家康すら殺すのか…)
7:光秀:敵は本能寺にあり(家康)
8:光秀(どうせならこのまま信長をもやってしまおう。そうでなきゃいつ自分がやられるかもわからんし。
ついでに家康もやれればちょうどいい。) 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 土岐は今、雨が下汁皐月哉。首だ!首だ!信長の首じゃあ!探すのじゃあ! まあ光秀にしてみたら、信長が全力でボケてるのに
突っ込まないわけにいかないと思ったんだろうな… 目の前に信長父子が多くない共回りでほぼ確実に殺害出来る
自分は軍を動かしても遠征言われてるので違和感なし
有力武将の多くは敵と対峙してるか、平定終了したばかり
唯一近いのは丹羽&信孝だけ
ついでに家康すら堺で遊んでる
神のお導きかと思ったかもな
まぁ野心あれば何か仕掛けても決して不思議ない条件下
細川父子の行動見ても、光秀が広義の天下は無理にしても
狭義の天下くらいは分が悪いながらも不可能とは思えないくらいの可能性はあったんじゃね
結論は野心 >>153
確定はしていないけど有力とされている。末裔は否定しているけどね。
少なくとも、木村重成みたいに、公式発表の木村重茲の息子であることが
「あり得ない」というような状態ではない。
(誰も父と兄、姉たちが皆殺しになった元凶の人のために尽くそうとは思わない) 大義名分、野心、怨恨…って截然と区別できるのかねえ。
どんなに野心があっても大義名分のないところでは挙兵の正統性に苦しむわけだし、
信長を討つのにどんな正義があろうが結果的に自分が受益者になるのは避けがたいわけだし。
光秀としては甲州征伐の完了後、織田家領国が急激に拡大した結果、宿老が遠隔地の最前線に異動させられ、
従来からの外交方針が覆されて四国征伐、さらに毛利家との息つく間もない全面戦争という事態に至って、
これは専横な秩序紊乱行為であり、同時にその専断によって自分に被害が及ぶのを防ぐべきだと考えた。
信長自身も秩序の保持者としてふるまってきたわけだから、その当人が秩序紊乱を始めた以上、
排除すべきである、仮に自分がそれで利得を得たとしても正義の行動であると考えても何の不思議もない。 光秀は細斎宛ての書簡で野心がないことを強調し、子の忠興を取り立てるためにやったんだと言ってるのは、
味方に引き込むための口舌というより、何で俺のやったことを分かってくれないかな〜という苛立ちに近い感覚だと思うんだよね。
だから自分は引退して子世代にゆだねるみたいなことまで言ったと。
まあ>>130が言うように、信長が室町幕府機構に依存し、
目指してた天下静謐の形態も室町のそれと連続性を持ってるという前提で考えることは意味があるよ。 >>134
三職推任を断ったつっても、征夷大将軍は足利家の世襲職で、
当の義昭が毛利家の庇護下にある以上、少なくとも毛利家討伐後の課題で時期尚早
と認識しててもおかしくないよ。
義昭が京に戻って将軍職を辞するのは関白となった秀吉の九州征伐後の話だし >>161
細川忠興19歳
明智光慶13歳
光秀が引退するなんて、いつの事だか分かんないわさw >>163
いや、その書状を、光秀の勧誘工作だけが目的みたいに見るのはどうかということ。 信長「俺、役目果たしたんで天に帰るわ。光秀あとヨロ。」
光秀「ちょ!! どーすんすか?この状況?」
信長「知らん。秀吉か家康にでも相談してちょ。あとルイスには内緒な。」
光秀「いやいやいや!!バレますって〇〇〜。」
信長「めんどくしゃ〜で!!おみゃーが〇〇に頼めばえーがな!!」
光秀「え〜...大丈夫かな〜?」
信長「でーじょーぶだで!!Win-Winでかんわ。」
光秀「も〜。しんどいわ〜。」
信長「時間厳守な!!」 160
正義って重要じゃないよ
その上をいくのが真実だからな 真実を振りかざした正義ってのもまた重要じゃないしな バカ明智光秀オタの妄想は見るに堪えんなw
江戸時代の軍記物の方がはるかに正しいわ
明智子孫の説など論外w >>170 こんばんわ にわか信長ファンです
あなたの自説ご披露されたし まあ信長が死んだあとどう収めるかちゃんと謀ってない時点で正義じゃなく、一番いい言い方しても「正義に似た短気」でしかないな
たまたま(陰謀説もあるけど)秀吉が神がかった対応見せたからいいようなものの、混乱しかもたらさない可能性の方が圧倒的に高いし
秀吉と事前に共謀していて騙された説採用なら同情はするが、どちらにせよたとえ正義だとしても頭の悪い幼稚な正義をほめる気にはならない なるほど
僕は信長さんは自分に定められた期限までに できるだけ後の世に光る才能を刈り集め
天皇を中心とした日本国にふさわしい信仰体制の整理をしたかったんじゃないかと思います
武力では誰が上に立とうが 中心は天皇という神なんです
本能寺の変は信長さんと光秀さんの自作自演ではないですか?
もちろん秀吉さん家康さんも この信長昇天の儀に同意したんでは? 野望だろ
光秀の裏表の激しさ、人を騙す方法を自慢してたくらいだしな
黒幕、政治体制を正すとかないな。
天下が見えた。だから取った。 易々と討ち取られた信長がマヌケすぎた。
奇跡のような秀吉の大返しがなければ
光秀の宣伝によって信長はマヌケな大悪党という評価が定まって、今も続いてるんだろうな。 >>172
信長みたいに大虐殺を繰り返すだけの暴君を排除しただけでも正義だよ。 成り上がり家臣が挙兵して成り上がり主君を殺害したという平凡な話が京で起きたにすぎないのだが、
その平凡な話を野心と把握するか、何らかの正当性を見いだすかで色々変わってくるのだろうな >>172
出口戦略も考えず挙兵したというのがよく批判される所だが、
室町幕府の将軍だって結構出たとこ勝負で殺されてるからなw 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 明智光秀が出世できたのは全部信長のおかげ
どうして出世できたのか?
それは明智光秀が信長の機嫌を取るのがうまくお世辞上手だったから
しかもマメで定期的にお歳暮やお中元などのような贈り物をして信長の機嫌を常に取っていた
戦にもこまめに出て負け戦も多かったが、信長のために働くふりをしていた
そして信仰心故か?なかなか本願寺に手を出せない佐久間を信長に追い出させたのも光秀だった しかし本能寺の変前くらいになるとその嘘がすぐに発覚して信長に叱られるようになる
甲州征伐でも出ていないのに参加したふりをして信長にいい印象を植えつけようとするが
バレバレの嘘のために信長に叱られる
しかも家康の接待にも失敗して怒られてしまう
この時は信長は既に実権を息子の信忠に譲っていて、明智光秀もボケたので地方へと左遷するつもりでいた
ただ信長はもう使えない光秀を地方に隠居させて平穏な余生を送らせて、若い信忠らにすべてを任せるつもりでいた 信孝、長秀は兵が四散したから結果的には戦いを挑めなかったけど、大坂にはいたんだよな
四国遠征軍なんだからそれなりの兵がいただろうに、なんで明智は軍事的空白だと思ったんだろ?
兵が四散するなんて予測できたのかな? 大方,当時の状況から信長が横死したらてんでバラバラになる事を予想してたんでしょ。
実際そうなってるわけだし。 実際そうなったから否定しづらいけど、バラバラになる蓋然性ってそんなに高くない気がする
寄せ集めなのが痛かったのか、本人がその場を離れてたのが痛かったのか、あるいはただ単に将としての能力が低かったのか
いずれにしても兵が四散したのは明智が知り得ない要因のように思う
やっぱり本能寺の変って黒幕とか計画性とか一切なくて、とっさの行動でやっちゃったんだろうなー 黒幕があるからこそ知り得た
…とふつうに言えそうだが。 大坂の軍勢が京都まですぐには押し寄せてこないことを事前に知り得た人物が黒幕という意味?
偶発的要因が多いのに予測するのは難しいのでは?
一番近くにいるまとまった軍勢なのだから、本当に計画的犯行なら事前に何らかの対策は講じるはずだと思う
秀吉が中国大返しによる急襲によって光秀を討ったという説明が多いけど、実際には決戦まで10日もあった
でも、もし信孝の軍勢が健在なら、もっと早く決戦を迫られていた可能性がある
つまり、決戦まで意外と時間的余裕があったにも関わらず、光秀側が決戦の準備をできていないあたりに無計画さを感じるけどな 信孝の軍勢を四散させたかったら、本能寺の第一報が届いた時に大袈裟な噂でも流せばいいんじゃない?
秀吉の軍勢も四散の可能性はあったわけで。だから先に金を配ったんじゃない? >>187
傭兵集団だから,大将とられたらバラバラになると思うけどね >>190
なるほど
摂津衆は逆に秀吉が流言でつなぎとめているし、同じことを光秀が四国遠征軍に行った可能性はあるね
というか、それぐらいは当然やったと考えたほうがいいのか…
それがたまたま上手くいったから、信孝は放置して近江方面に兵を展開したのかな
もっと研究が進むといいなあ
>>191
でもほかの軍勢は四散してないよ
四散することを前提に計画を立てれるほど確実じゃない 統率力の違いじゃないの?
秀吉も勝家もそれなりの統率力があったから自軍の崩壊は免れたけど,滝川一益は似たようなことになってるし。 滝川一益は神流川の戦いしてるんだから同じってことはないだろ
甲斐信濃なら体制崩壊したけど、占領まもない地域だから大坂とは事情が異なる 秀吉ががんばって帰ってきたからそんなに四散しなかっただけじゃないの。
秀吉が慎重なタイプで日和見を決めたら、情勢はかなり変わったでしょ。 もちろん四散する軍勢が増えたかもしれないが、事件の全容が情報伝達して混乱が落ち着く(つまり四散しない)可能性もある。
IFの結果として他の軍勢が四散するかどうかは今となっては分からないとしか言いようがない。
ただ、信長が死んでも現場の指揮系統が機能していれば軍勢は維持できるのではないかな、というのが根拠は無いけど私見かな。
当時の1兵卒からみれば、直属の上司以外の存在は意識する機会すら無かったと思う。
いずれにしても、四散すること前提で計画はたてられないという点には変わりはないので、仮に本能寺が計画的犯行だとしたら、目と鼻の先にいる信孝軍にどの様に対応するつもりだったのか興味はある。 信孝が四国に出発する前を狙って本能寺を攻めたとしたら、何か考えはあったかもしれん 四散してない方面軍は秀吉軍と柴田軍ぐらいじゃないの? ここでいう四散するって、戦う前に脱兵により軍勢が消滅するという意味だよな?
いわゆる方面軍で他に四散したところあったっけ? というか実際に戦闘をしていた方面軍は四散してない
戦闘状態になかった方面軍は四散した
ただそれだけだろ そんなに単純化するのは難しくね?
それをいうなら瀧川だって交戦中ではなかった。
信孝の場合、新規の寄せ集めの軍勢だったことの方が要因としては大きいと思う。
だから、四散とはいっても、自軍の勢州衆は残っていたのかもしれない。
ただ、これは結果を知っているからそういう要因があると解るのであって、事前には分からない。 そう。
だから結果として一益軍は四散崩壊してるじゃん。
結局戦ってる最中とそうでなかった方面軍に分かれると思うけどね。 だからさ、その一益軍は、三倍とも言われる超大軍の後北条相手に戦って大敗したから瓦解したんだろ。
大規模野戦に臨むだけの戦力を維持していたから戦えたんだよ。
ちなみに、神流川の戦いは山崎の戦いよりも時間的には後だぞ?
信孝軍のように戦う前に四散するのとは全く違う。
もし仮に信孝が光秀に戦いを挑んで負けた結果として戦力喪失したのなら、誰も不思議に思わないだろ。
この文脈で一益と信孝をなぜ同じに扱いたがっているのか、ちょっと理解できない。 北条軍を相手にする前に豪族たちの離反が相次いだんじゃなかったか?
だから結局金で雇われた傭兵と同じだろ というか方面軍の瓦解を意味ありげに考えすぎ
神とも呼ばれたトップが倒れれば、戦闘状態にない各軍団長クラスの軍隊の瓦解は当然でしょ
結局金で雇った兵隊の寄せ集めなんだから、信長信忠親子さえ殺せば信孝ぐらい蹴散らせると光秀が考えても全く不思議じゃない >>203
兵隊や地方豪族はその地域で最も強大な軍や大名に従うわけで,一益と北条をくらべた場合は北条だった
一方,畿内の信孝軍と光秀軍を比較した場合に信孝軍は光秀軍に敵わないと考えて四散した >>203
確かにそういう側面はあるね。
でも、そんなに離反者がでたんだっけ?
瀧川のオープンな対応に感動したという逸話のほうが有名じゃない?
上野一国の瀧川に対して関東の覇者が襲い掛かったのだから、もともとそれくらいの国力差があったんじゃないかな。
本能寺の変が起こるまでは瀧川の後ろ盾が怖くて後北条は動けなかっただけで。
>>205
別に瓦解/四散を意味ありげに考えているわけじゃないよ。
あり得ることではあると思う。
ただ、瓦解したという歴史を知っているから、瓦解した理由を我々はあれこれ考えることができるけど、「事前に確実視できることではない」といっている。
確実ではない以上、本当に光秀が計画的にクーデターを起こしたのであれば、最寄りのまとまった軍勢である信孝軍への対策があって然るべきじゃないか?
結局、少なくとも名目上は、史実でも数日後に秀吉軍という増援を受けた信孝軍が光秀を討っているわけだし、事前に計画するなら事件直後の最大の懸念事項であったはずなんだよね。
でも、何か対策したという話を聞かないなあと思っていて、もしそういう話が残っているなら、だれか詳しい人がいたら教えてほしいと思っている。 ごめん。間違い。
>>207の前半は>>206宛だった 計画的ならもっと色々方策を立ててるはず、光秀も利三も頭回る人なんだし。
四国調略のことで変を起こしたなら、長宗我部と示し合わせて信孝勢をなんとかせにゃならんし、
女婿の信澄が居たんだから、連絡を取るはず。
俺が光秀で計画的に周到に事を進めるなら、信孝が四国へ渡ってから事を起こすよ。
どうせ信長・信忠の手兵はたかがしれてるんだし。 >>207
>本能寺の変が起こるまでは瀧川の後ろ盾が怖くて後北条は動けなかっただけ
そうそう。だからそういう事なんじゃない?
信長って人物は当時としてはそういう位置づけ。だからその信長が横死すれば各軍団の瓦解は免れないと思うんだけどね。 >>211
そういうことってどういうこと?
各方面軍の瓦解は免れない?
免れてるじゃん 交戦中の方面軍は瓦解してないよ。情報統制などがとれてるからね
それ以外の方面軍は瓦解してる いわゆる方面軍って当時は以下の五つですかね?
羽柴: 交戦中 備中高松城
柴田: 交戦中 越中魚津城
明智: 準備中 丹波亀山城
瀧川: 準備中 上野厩橋城
信孝: 準備中 摂津大坂城
明智は京都で交戦中と考える?
まあとにかく、結果的に本能寺の変後の早い段階で戦力喪失したのは下の3つだけど、事情は大きく異なる。
信孝は自滅して半減、明智と瀧川は壊滅的大敗、という意味でも信孝だけ異質だね。
例えば当時、東国で敵対していたのは上杉だけなのだから、もし瀧川が交戦するとしたら上杉か?
交戦中に北条が攻めてきたら、南北から挟み撃ちでもっと簡単に瓦解するだけでは?
何故、交戦中なら瓦解しなかったと思うのか、理解できない。
瀧川は位置が悪かった。
交戦中だろうが準備中だろうが、北条が全力で攻めてきたら勝ち目がない。
だから交戦中とか情報統制とか関係なくね? 仮にそうだったとしても,準備中だった方面軍は全て壊滅してる
戦闘中だった方面軍は全て壊滅してない
これは歴然たる事実だろ
明智軍は中国方面軍の援護&裏切った本人だから分けて考えるべきだが >>214
俺が言ってるのは,なぜ交戦中だと瓦解しないと思うのか,ではなく,瓦解していないのは戦闘中だったから,だよ
実際,戦闘中の方面軍は100%が瓦解せずに引き上げているし,準備中の方面軍は全てが瓦解してる
この事実は無視できんでしょ
全力で(総兵力で?)攻めて来られたらヤバいのは滝川軍だけではなく秀吉軍もでしょうに。実際,5万の増援が来たといって
信長に助力を乞うてるんだから >>215
>>216
同じような書き込みだけど、同一人物ですか?
さすがに因果関係と相関関係は区別しましょうよ。
瓦解しなかった軍勢は交戦してたからといって、瓦解しなかった理由が交戦してたからというのは論理的飛躍です。
瀧川軍は変事に交戦してなかったからといって、別に統制が取れなくなったわけじゃないです。
交戦中なら統制がとれた、という理屈はそもそもおかしいし、百歩譲って正しいとしても瀧川には当てはまりません。だって交戦してなかったけど変後にも統制をとって大軍勢相手に戦っているんだから。
>>216の最後の部分は自己矛盾ではないですか?
毛利の援軍がきたら羽柴軍も瓦解してたというなら、変が起こったときに交戦中かいなかは関係ないですよね。 あの時に明智光秀が謀反を起こさなかったとしても、遅かれ早かれ秀吉が謀反を起こしてた?
その謀反を起こした秀吉を光秀が討伐してた?
光秀に謀反を起こすように間接的に光秀を秀吉が煽った? 信孝と丹羽の兵の集まりが悪く、また変後なぜ兵が散ってしまったんだろう? >>219
以前に別スレで出ていたような気がするが…
信孝と丹羽は四国平定のために軍を住吉に駐屯させていたが
本能寺の変の時には信孝も丹羽も徳川家康の接待を命じられて堺に行っており不在だった
総大将と副将が不在のうちに信長・信忠討たれるの知らせが軍に届いてしまい
指揮官のいない軍隊は統率が取れずバラバラに逃げ帰ってしまった
信孝と丹羽は中国地方から秀吉が帰って来るのをまってようやく合流した 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>220 信孝と丹羽の兵は、兵が逃げるまえから5000位で、集まらないから、信孝と
丹羽は頭を抱えていたという話がある。信長の息子と織田の二番家老の軍にしては
少なすぎないか? >>224
本能寺の前、四国征討軍は1万4000いた
織田信長が兵を付けているのだから兵が集まらないというわけがない
信孝や丹羽が地元民を徴兵して渡航しようとしたんじゃないぞ? 明智が朝鮮人だったから。信長は舶来人の女(ポルトガル人)と舶来品を好んだからね。 >>225 まあ、高山や中川の動きがげせんが。高山や中川は誰の組下。 まあ、根拠はないけど、あの信長の思想や考え方、やり方じゃあ、
遅かれ早かれ、誰かに抹殺されてたと思うよ。
たまたま明智光秀だっただけだ。
殺されなかったとしても信長が死んだ途端、恨みをかっていた連中に逆に織田家が皆殺しにされてたかも知らんね。
だって領地拡大、恐怖政治一辺倒で制度作りってものに全く無頓着だっただろ。
やったことは、キリシタンに感化されて西洋かぶれを演出しただけだったじゃん。
まあそのおかげで秀吉が天下統一しやすくなったんだけどな。 まあ、信長はキリシタンにカネもらってブイブイ言わしてただけだからな。
領地経営には何の関心もなくて、臣下に任せっきり。
戦が上手いわけでもなかったし、押しが強いのだけが取り柄だったみたいだ。
サイコパスならありがちだが。 家康を推すためだろ
その後は身を隠して天海として家康をサポート 日本国政府が出来て百五十年あまりだが、おそらくほとんどの国民は重んじ、恭順ている
かたや二百数十年続く室町幕府をぶっ壊し、戦火を拡大させる織田家は恐怖でしかないよな
明智光秀はもっとスタンダードに、大内細川三好のような執権政治が理想だったんだろう 日本史の大事件なのに、お前らの捜査力はその程度か…
鬼女の捜査力に頼るほかないな… >>233
ゲームで、好きなキャラが信長に殺されたんかい? 昭和の頃、北朝鮮工作員に金天海という人がいてな
この人朝鮮のため、日本で革命起こそうと頑張ったらしい
今話題の光秀=天海で考えると、光秀も革命起こしたかったんじゃね?
そのためには超絶勤皇家の信長が邪魔だった
実際変後の朝廷は急速に没落していく >>224
丹羽を買いかぶりすぎ
柴田や羽柴は方面軍だが丹羽は遊撃軍の隊長クラス >>241 じゃ、柴田や羽柴 滝川は方面軍 丹羽 明智 は遊軍か? 滝川 荷が
重いな。柴田は謙信なき上杉は弱体しているし。秀吉は信長の本拠に近い。 江戸時代の将軍家は、英語で「国王」と呼ばれていた。
大名を英語で「王子」と呼ぶ。
王子で優秀な人がいれば国王になれたわけだ。
新井白石は、この仕組みを「神に由来する」とした。
逢沢誠志斎は、「神とは天皇家だろう」とした。
アヘン戦争で、清国がイギリスに破れたことから、
アジアの地図は、英国>清国>李子朝鮮≧徳川日本という図式ができ、
日本国は、アジア地域での「唯一のチャンス」をものにした。
それが、明治革命だった。
革命とは「生産手段の抜本的変革」を意味し、天皇の座を争う熾烈な闘いが繰り広げられた。
屍の前には猿田彦の石碑がたてられ、
庶民は「見ざる言わざる聞かざる」と刻印した。
明治天皇が、川手文治郎や、中山みき、出口王仁三朗に勝っても、
いい教えは教派神道として残っている。
覇権国家の言語による政治を「パワーポリティクス」というが、これをやったのが長州藩だ。
神道とは、「天皇を敬え」「政府にしたがえ」という教えで、それ以外の教義はないと考えられている。
八百万の神も、スピノザが語ったことをもとにしているし、自分の体を痛め付けたり、暴力を振るってまで天皇になりたいものは自信がないということはアリストテレスが言った。
日本国がワールドパワーになるための唯一のチャンスとは、激しい権力闘争にあったのかもしれない。
さて、日本という国は島国であり、外国の情報によって、政治の世界を左右する人は「陰陽師」と呼ばれている。
織田信長が殺された理由も、外国の情報にあったのは明かだ。 信長は皇室を超えた権威になろうとしてた。
尊王派の光秀は皇室を守ろうとしたんだよ >>244
光秀が仮に勤王だったとしても、その部下たちまで勤王だったわけじゃなかろう
部下たちが「反対。やりません」と言えばそれで話が終わるんだが 光秀自身が非勤皇
親王を歩かせようとしたり(あの時代でこの行為はとんでもない無礼行為)
朝廷の金奪ったり
あと当時の史料にも「勤皇家の信長様が光秀とか言う人に(当時はまだ光秀有名人じゃない)に殺されちゃったよぉ〜」
ってあるじゃん 公家衆とは親密だったようだが、勤王家ではないのか? 過去スレ漁ってたら信忠の正室に皇室ないし公家の姫が内定していたという
レスがあったけどこれ本当の話? それ、完全なデマだよ
まず公家達が記録を残していないことで察しろよ 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 結論
過去のことなんて誰も見た人間がいないからワカラナイ クラスの目立たない女。
孤立したイケメンの標的になる。
本当はグラウンドのあの人が理想だった。
見つめていたかったのは世界の広い人。
目立たない男が本当はイエスだと知らなかった。
30代後半になって、世界を広げた目立たない男にすべてを話した。
私はソープで営業をしていました。
水野あおい 見つめていたい: http://youtu.be/cvD-bz5JNzI
なぜ、このようなアイドル(偶像)が生まれたかというと、
詩篇に「王は美を愛した」とあることに由来する。
詩篇【45:11】王はあなたの美を望んだ。
織田信長がプロテスタントの影響を受けて、細川ガラシャをアイドルにしたのは目に見えている。
ハイカラな名前でそれを感じて欲しい。
しかし、自分の家の王様は光秀であり、そのマリア崇拝の現実を目の当たりにした光秀の怒りは大きかった。
敵は本能寺にあった。
力士として横綱になった秀吉は、光秀を討った。
喜び信長の言っていることは良くわからなかったけど、キリスト教を禁止したのだ。 こういうのは
本人にインタビューする以外永遠の謎だよな ただの主殺し天下を横取りしたかったが 明智に従う武将がいなかった。信長公に厚遇されていたのに 裏切り者でしかない >>1
金柑頭とハゲをバカにされ
扇子でペチペチ叩かれながらパワハラをされて、
全財産没収のうえ、新しい給料は出来高制だと言われて敵地へ左遷されたら
どんな会社員でも謀反するだろう 明智光秀が謀反を起こしたのではなく、羽柴秀吉が謀反を起こし、それを討伐しようとした明智光秀が返り討ちにあった、
とかだと面白いかなーとかオモタ >>245
息子の秀光やら臣下のものが勝手にうごいて光秀があとからしらされた説もあるよな 家康説に一票。だって堺から伊賀を通って帰ったり手際いいことこの上ないよ。後ろで家康が糸を引いて天下とろうと思ったら、ラッキーマンの秀吉に先越されたんだよ 秀吉も家康も結託してた、
または秀吉光秀結託するも秀吉に裏切られた
とかもありえなくはないかなと。 今日の朝日の“ののちゃん”見てみろい。
おまいらの主張よりよっぽどましだぞ。. すまん朝日は取ってないし周りにも読者は居ない、良かったらかいつまんで頼む 家臣A「光秀さま、後世の人々にとって信長は大変な人気者なんです」
光秀「えっウソ!」
家臣B「従って本能寺の変は歴史上のチョー大事件なのです」
光秀「マジかよ」
光秀「信長の評価高すぎ騒ぎすぎ
だって尾張、美濃、伊勢、近江半国以外は自律性を認めたみなし領国じゃん
調停者として君臨しようってそれ、足利幕府だし
ろくに検地もやらないでどこが改革者だよ」
光秀「加害者の動機を特定したいならまず被害者の身元をよく調べてみろよ」
『当時の光秀にしてみりゃ暫定天下人三好長慶の後ガマをついやっちまった程度』説 >>269
実際なんで戦後になって織田信長が大人気となったかねえ
それまではやはり無茶無謀な評価だったのに。 長慶の後釜ならついやっちゃっていいってことにはならないだろ
松永は長慶殺してないぞw 信長の「天下布武」はあくまでも畿内におけるものというのが歴史学者の一般的な学説。
本能寺の変は「武田滅亡」という巨大空白地の出現によって一気に政権のバランスを崩したのが遠因。 男なら誰しも天下を取ってみたいと思うだろ。それだけの理由だ。 【ゲスウヨ】 ハイ、予告通り、欧米から経済崩壊、最後のトドメは、バカウヨの望む中国からの・・・ではなく、日本からの株式大暴落www(笑) 【カスウヨ】
マイト レーヤの出現のタイミング
近い将来、欧米で株式市場が破綻すれば、マイト レーヤは直ちに出て来られるでしょう。崩壊によって生じる現実感覚が、マイト レーヤが待っておられる要素の一つです。
最初になくなるのは世界の株式市場でしょう。
差し迫る株式市場の暴落は、他の人々が飢えている間にお金を儲けることの結果です。かれらは自分の財産を隠し、犯罪的雰囲気さえも創出しています。
彼らはただ座って待っているだけです。世界を餌にして生きており、何も還元しません。 来るべき株式市場の崩壊は必然的に多くの失業者を出すでしょう。
日本から始まる世界的株式市場の大暴落
ウォールストリートの大暴落(1997年)につながったプロセスが、いま日本におけるプロセスの中に写し出されており、再び株式市場の暴落につながるでしょう。
終いには政府にも支えることができなくなり、どん底に落ちていきます。日本がアメリカ国債の25%を引き出すと世界経済が破綻し、マイト レーヤは出現するでしょう。
彼は日本人ではありませんが、日本語で話すでしょう。彼は、非常に物静かなやり方で話します。彼の最初の控えめな態度に混乱してはなりません。
非常に間もなくマイト レーヤを、テレビで見るでしょう。マイト レーヤは毎日テレビに現れ、質問に答えるでしょう。彼は「匿名」で働いております。
マイト レーヤが公に現れるにつれてUFOが、とてつもない数で姿を表すでしょう。
日本国民はどう対処すればいいのか。
新しい政権は民意を反映し、適切な食糧、住宅の供給、健康管理、教育が最も重要な責任となるでしょう。そして最後に防衛です。
抑制のない成長に基づく現在の経済の終焉を見るでしょう。自由貿易はよくありません。物は需要がある場所で生産されるべきだからです。
民衆の指導者は職業的政治家ではない人々から見つかるのです。国民の意志を裏切ることは、極端な場合、自殺や殺人にまでつながります。(安倍ちゃんサヨナラ笑) >>274
とりあえず会社を興して社長になりたいわな 武田側に下った岩村城が織田側に倒されたのが引き金になったのでは?
地理的に岩村から峠ひとつで明智。人や物の交流も盛んだったと思う。
岩村には光秀の縁者もいたであろう。
岩村城の戦いは武田家の滅亡のみならず、本能寺の変にも繋がっていると思う。 織田信長北朝南朝で検索して感想カキコせい、工作員のクズども! >>261
独裁者秀吉ならいくらでも歴史改ざんできるよな 改ざんというと
秀吉が中国大アタック返しでストレート勝ちしたアレか 秀吉は息子のDNA鑑定する勇気はなかっただろうが、アタック返しはできる 実は謀反を起こしたのが信長で光秀に成敗されたのが本能寺のへへんのへん。 黒い!潰れた広鼻!ぶ厚い唇!土人!南方ヅラ!マニラ顔!
赤の遺伝子afb1b3。 南方モンゴロイド。
それはマニラのスラムに漂う腐った屎尿の臭い。
この世で最も不浄な臭くて汚らしい穢れた遺伝子。
台湾人、中国人、朝鮮人にもたっぷりと入っている。
赤の遺伝子afb1b3が入ると南方人になり、日本人種が穢れる。
gm遺伝子
http://www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/001Gmidensi_1/asiaandjp.gmidennshi.nobunnpu.jpg 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:64a812ccf8e4a0c33443d7cecf6a78f3) 自称光秀の子孫の明智さんがまたテレビに出てたな。テレビ局は自称子孫が好きだな。 自称子孫は明智姓に改姓したのは明治のころと言ってたが
江戸時代に姓のなかった者が適当に姓を作ったどさくさにまぎれて
改姓したのだろうか ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 ハズレ。
弥生土器の登場が最古水田登場の数世紀前だから弥生人は稲作を伝えられないんだよ。
正解は、弥生人が沿海州南岸から来た後で、彼ら自身の手で半島から稲作を導入した。 明智の子孫がうじゃうじゃ出てきて逆に織田の子孫は肩身が狭いな >>292
知能指数低そうだなおまえw
稲作と渡来人は全然関係ないの。
渡来人は稲作を持ってこなかったんだよ。
つか、持ってこれないの。
渡来人が伝えた弥生土器の登場年代が、最古水田の登場年代の
数世紀前もだから、渡来人は稲作を伝えられる訳がないんだよ。
分かるか言ってる事?
渡来人が北方から来た、その何百年もあとに半島から稲作が
伝わっただけの話。 悪かった満州が大稲作地帯なの忘れてたわ
ジャポニカ種も鴨緑江周辺が発祥だった
重ね重ねスマン ちょっと違う。
弥生土器から渡来人の渡来は稲作の何世紀も前の出来事なの。
だから渡来人は稲作と全然関係ないの。
渡来人のずっと後に稲作は伝わっただけの話なの。
分かったか? >>293
織田の自称子孫はオリンピックに出てたしw 自作自演で稲作も弥生土器も半島やら沿海州からの渡来ってことの
話に何か展開してるし。
信長を殺せるタイミングが目の前にあるとなったら、光秀に関わらず
謀反してそうだな。複数の理由が重なって起きてるんだろうけど。信長も
秀吉ももう少し長生きしてたら面白い展開になったのに。 信長はどのみち謀反を起こされて壊滅していたよ。
土台がしっかりしてない土地に楼閣を建てて重みに耐えきれず崩れたようなものだ。 >>288
信成並みの稚拙な家系詐称だったりしてね。 ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 >信長の遺骸は阿弥陀寺に有ったのか??行方しれずがTVでは通説だが。
ところが、遺骸が見つかっているという話も残されているのだ。
本能寺近くの阿弥陀寺には信長と信忠の墓があるのだ。
阿弥陀寺は、清玉上人が近江の坂本に創建したことにはじまり、
信長の帰依を受け京に遷ったとされている。
阿弥陀寺の『信長公阿弥陀寺由緒之記録』(享保16年)によれば
「変勃発を知った京都阿弥陀寺(京都市上京区)の住職(清玉上人)が、僧徒二十人ばかりを召し連れて本能寺に駆けつけると
本能寺の墓地の後ろにある藪の中で織田方の数人の武士が信長の遺体を 焼いていたので頼み込んでその骨をもらいうけ
(本能寺の僧のような顔をして)本能寺を脱出、阿弥陀寺に持ち帰った。」
また、旧本能寺跡のそばには信長首洗いの井が残されていて
その水で住職が信長の遺体 (おそらく持ち帰ったのは首のみ) を洗ったと言い伝えられている。
なお、変後約一ヶ月たった7月11日、山科言経はこの阿弥陀寺に詣でて信長以下
本能寺の犠牲者を弔っていることが記録に残っている。
明智の首も亦、其死骸と共に同所に持ち来れり。是れ日本全国を覆すの野心を抱きし者の、憐れなる最期なり。
神の正義は、彼の恐るべき陰謀を企てし後、十二日以上の生命を彼に許し給はざりき。
彼の首級は、先づ((信長の遺骨の前に捧げられ))、其後、三七[信孝]の命に依り、
胴と継ぎ合せ、市外にて十字架に架せられたり。
光秀の首は、その死骸(胴体)とともに本能寺に持って来られ、
信長の遺骨の前に献じられたといいます。
その後、信孝の命によって、首と胴はつなぎ合わされ、市外で「十字架に架せられた」、
つまり磔(はりつけ)にされたのです。
奈良・興福寺の「多聞院日記」6月18日条には、
本能寺には光秀をはじめ首3000ほどがあったというと記されています。
このことについて、ルイス・フロイスの「日本耶蘇会年報」を見ておきましょう。
>小栗栖で没した明智光秀の首と胴は、どこに行き、どうなったのか?
同時代の日記を見ると、山科言経(ときつね)の「言経卿記」には、天正10年(1582)6月15日条に、
郷人に一揆として討たれた光秀について、「首、本能寺へ上げ了(おわ)んぬ」と書かれています。
里人に討たれ、その首は京都・本能寺へ持って行ったというのです。
吉田兼和(兼見)の「兼見卿記」の同日条には、
光秀は醍醐辺で一揆に討ち取られ、
その頸(くび)は村井清三、三七郎殿へ持参されたと記されています。 つづく16日条には、「向州[日向守=光秀のこと]頸、筒体、
本応寺[本能寺]にこれを曝すと云々」という記事があり、
光秀の首と胴体が本能寺に晒されたと分かります。 奈良・興福寺の「多聞院日記」6月18日条には、
本能寺には光秀をはじめ首3000ほどがあったというと記されています。 このことについて、ルイス・フロイスの「日本耶蘇会年報」を見ておきましょう。
少々グロテスクなので、ご注意を。
明智、莫大の黄金を与ふるを約し、坂本[城]に入るまで救助せんことを土民等に頼みしが、
彼等[土民ら]は刀及び背に負ひし僅少の品物を奪はんと欲し、彼[光秀]に一槍を附け、
其首を斬りしが、彼等は其首を三七[織田信孝]に献ずる勇気も悪意もなく、他の一人、此務をなしたり。 而して城中[勝竜寺城]の諸人、其他多数を熱心に斬首し、都の信長の御殿に差出せしもの、
一度に千余級に達し、供養のため、悉[ことごと]く整列せしめ、
(夏の真中なりしかば)臭気甚だしく、彼の傲慢なりし暴君[信長]に相当せりと思われたり。
風、同方向より吹寄する毎に、臭気の為め、我等の会堂に居る能(あた)はざる程なりき。 討たれた光秀の首と、他の1000ほどの首が本能寺に並べられたというのです。
夏場のことなので、その臭気ははなはだしく、
イエズス会士たちは会堂にいられないほどだったと伝えています。 此斬首は可なり長く続き、多くの場所にて行われたり。
其後二日を経て、パードレ・オルガンチノ、他の一人のパードレと共に、
右信長の御殿の前を過ぎしが、首級三十余を、羊か犬の頭にてもあるが如く、
一本の縄に貫きて、売らんとする者を見たり。此憐れむべき人々は、
此の如き棒物をなすを以て、最も彼の霊を喜ばすものなりと信ぜるなり。 明智の首も亦、其死骸と共に同所に持ち来れり。是れ日本全国を覆すの野心を抱きし者の、
憐れなる最期なり。神の正義は、彼の恐るべき陰謀を企てし後、十二日以上の生命を彼に許し給はざりき。
彼の首級は、先づ信長の遺骨の前に捧げられ、其後、三七[信孝]の命に依り、胴と継ぎ合せ、
市外にて十字架に架せられたり。 光秀の首は、その死骸(胴体)とともに本能寺に持って来られ、信長の遺骨の前に献じられたといいます。
その後、信孝の命によって、首と胴はつなぎ合わされ、市外で「十字架に架せられた」、つまり磔(はりつけ)にされたのです。
惨いと言えば余りにも惨い、この処断。父を誅した逆臣の首と胴を縫合して、磔にしたのです。
遺児・信孝の思いは、いかばかりだったでしょうか。 首塚を築く 念のため、他の史料も見ておきます。
「言経卿記」7月2日条には、粟田口に去る○日(日は空白)に、
明智日向守の首とむくろなどを接合したものが張り付けに懸けられた、斎藤利三も同じである、と書かれています。
斎藤利三は光秀の重臣で、捕らわれて六条河原で斬首されていました。 そのあとに続けて、「其外(そのほか)、首三千余、同所ニ首塚ヲ築かれ了(おわ)んぬ」とあって、
光秀と利三が磔になった粟田口に首塚が築かれたと記しています。
首塚については、「兼見卿記」6月23日条に、「頸塚を粟田口之東□□之北に築くと云々」とあり、
村井清三らを奉行として22日から築き始めたと記されています。 ・6月13日、勝竜寺城を脱した明智光秀は、山科、醍醐あたりで郷人に討たれ、首を取られた。
・その首と胴体は、本能寺に運ばれ、他の首(1000、あるいは3000)とともに並べられた。
・首と胴体は接合され、斎藤利三の遺骸とともに、粟田口で磔にされた。
・6月23日、粟田口の東に首塚が築造された。
◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 なるほど
短粒種は日本発祥で半島に伝わったということか
俺もおかしいと思ったんだ
もともと半島は冷涼稲作不適地僅かに南部がぎりぎり稲作ができる所、何故温暖作物がそのようなルートを辿って日本に伝わったのか不思議だった
やはり江南から琉球先島諸島を飛び石で伝わって冷涼地に適した品種改良のちそれを持って植民地化してた半島に持込伝えた説が正しかったんだ
古墳も鏡も出土するのは日本製ついで稲作もか 社会ってのは常に有為転変するものだ。若い連中はそれに合わせて、ちゃんとやっていけるけど、年寄りはそうはいかない。だもんだから「今の若いものは……」なんて批判する。
口で言うだけならまだいいが、伸びる芽まで摘んでしまっちゃ駄目だよね。そうなったら、「老害」以外の何物でもないからね。
そう考えたから、俺は第一線から身を引いたんだ。人間、はじめるよりも終りのほうが大事なんだよ。
本田宗一郎 猛獣が人を襲う動画を見ていて分かるのは、背を向けたり余所に注意を向けたりしたらスイッチを入れちまう。信じた者が殺される。
戦国大名は現在だと暴力団が近いと思われる。
何故なら仕事の目的あるいは仕事そのものが上納であるという共通点があるから。
暴力団員は自分と年齢や資金力や軍事力が近いなら、貢ぐ関係を露骨に嫌がる。
信長と光秀は、知れば知るほど権勢に大差が見られない。光秀が信長を討ったのはごく自然な行動のように思われる。 家康の饗応を巡って信長と光秀の激しいやり取りがあったと伝えています。
それは饗応のあとではなくて、前の打合せの時のようで、しかも信長と光秀ふたりだけの密談だった」
とのこと。ということは、推測すると信長から家康暗殺指令がでて光秀は反対したから叱責された?
光秀は家康に味方したか?
ドラマで私恨説ばかり見てきたから定説と思ってたわ、戦国最大のミステリーだとか。 明智光秀は変当時本当は何歳だったのか
55才説から67才なんて説もあるが 55歳説は、二次資料の明智軍記にある光秀辞世の句から
67歳説は、三次資料の当代記の「光秀、67歳」という注から
高柳氏はどっちも信用でけんわ、という説 ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 >>327
家康暗殺指令出ても光秀が反対する必要はないよな
なんの義理もない >>340
光秀は腐った鯛を家康に出したとされているが、それは信長から家康暗殺指令を受けていたからだったかもしれない
が、腐った鯛くらいで人は死なない
家康がこの鯛腐ってるぞと怒ったのを見た信長が暗殺指令を悟られないようにするため
光秀を罵倒し、鞭打ちの刑にしたのかもしれない
それは光秀謀反の15日前の事件であった。 織田信長について語りたいんだけど
信長の本スレってここでいいの? タイムトラベルができるようになったら
・謀反直前の明智光秀にインタビューする
・邪馬台国の存在確認
・弥生人の正体解明
・銀貨30枚握った瞬間のユダにインタビュー
この順番で旅行したい じつは信長を操っていたのが光秀。
信長を第六天魔王に仕立てたのは光秀。
家康暗殺を薦めたのも光秀。
ところが逆上した信長に蹴倒された。
もうこりゃだめだとさすがに光秀も悟った。
光秀の高齢を強調するが天下とりに逆に意欲満々なのが光秀の方。
信長の天下布武はせいぜい畿内までで本人は事なれりと遊びまくっていた。
それが例のあの大茶会。 >>327
家康暗殺を拒否したからといって信長を殺すまでの動機にはならないかな。
家康と親密だったわけではないだろうし、本能寺の警備が手薄でそのチャンスを狙ったのは違いないだろうけど。 思いつきだろ
用意周到だったら頼みとする細川や筒井に逃げられる事はなかったし
毛利上杉北条ともうまく連携をとっていたはず、もちろん徳川とも となるとやはり怨恨説だったのかねえ
精神消耗による誤選択 信長が順調に勢力拡大して天下統一しそうだと思った時、
光秀はずっと理不尽な仕打ちをされ続け、冷遇され片隅においやられる未来を予想してしまった >>348
それも有名な説だよね
佐久間盛信が更迭されたり林佐渡が過去の話むしかえされたりと古参すら冷遇され、そのうえで信雄信孝を信忠体制かためるために他家の頭領にすえていく血脈政治をみて明智家の未来を信じていけなくなったのだとも思う
しょせんは駒だもんな ヤケのヤンパチ謀叛をやりそうにない奴が謀反したので議論になる それほど殺したくなるくらいのクソだったんだな信長は ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 共同通信
天皇陛下が皇太子さまに皇位を譲る生前退位に向けた法改正を
政府が検討していることを巡り、天皇陛下自身は早期退位の希望を
持たれていないことが15日、政府関係者への取材で分かった。
陛下は例年、年明けと夏に定期健康診断を受けているが、現在は
目立った不安は見つかっていない。最近も宮内庁側と公務の
負担軽減が話題になった際、陛下は「まだまだこのままの
ペースで臨む」と明言。側近らにも、退位という文言や時期を
明示したことはないという。
2016/7/16 02:00 NHKに勅使が行って太政大臣、関白、征夷大将軍のどれでもいいよと
言わなければならないのかw 雅子妃って言いたくないから
家では小和田さんと呼んでいる 明智光秀の末裔を自称する明智憲三郎氏の新説
-本能寺の変は、信長・光秀主従による家康殺害計画(6月2日夕宴)だったのを、光秀が信長を裏切り、6月2日の早朝に討ってしまったハプニング。
-秀吉は事前に察知していて、変後すぐ、三河に帰った家康が光秀援軍の準備をしている間に、「中国大返し」で光秀を破って天下を取った。 >>365
裏切ったのならハプニングじゃないじゃん >>286
子孫が語る情報を取り上げるのに、
肝心の子孫そのものの検証はまったくしていない。
最近のテレビはお粗末だなあ。半分は子孫が本当かどうかで探ってもいいくらいなのに。 ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 子孫だから何なんだよって感じだな。
代々伝わる極秘資料でもあるなら話は別だが、自称子孫が妄想を語ってるだけだろ? いまさら明智の末裔です、なんて証明のしようがないよな 「女が男を育てる」という発想は1986年にアメリカで漫画化された。
当時大ブームだったおニャン子クラブにはこのような作品はない。
1990年代にribbon が、ポイズンの退屈~めまいへの招待状という曲を出している。
女性副大統領候補も出た。
ribbon Silent Summer '91 日比谷野音 ポイズンの退屈 80p: http://youtu.be/ukXeDaCqLIQ スペインにあるエル・エスコリアル修道院の古い書物
日本王国記の記述の中に
信長の言葉として
「私は、自ら死を招いたな。」という言葉が記されている。 ハプスブルク家。
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/1325367/439553/107906479
嘘をつかない理由は賢くなりたいから。
カルナップ暗殺がなければオーストリアは落とせなかった。
若い女と学者たち。
医学部の礎。近代家族。 光秀って本願寺勢に囲まれて死にかけた時に信長自ら出陣して命助けてるのに謀反なんてする訳ないじゃん BC3C末、徐福一行の故郷、江蘇省北部では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。 逆恨みはある。
何十回も命を助けて貰ったとしても、
なぜか助けられた人が助けた人を恨んでいるということはある。
他人からはなぜそのようにひねくれた感情を抱くのか理解できないが、
たしかに逆恨みはある。
だから当人に聞かない限り、本当のところはわからない。
タイムマシンができない限り理由はわからない。
いや、当人に話を聞けたとしても本心かどうかはわからない。
他人の心の中が見えるようにならない限りはわからない。 >>376
光秀が死んだ後に光秀が殺ったことにして報道規制すれば冤罪成立するかもな 現代の感覚で見ると怨恨説とか陰謀説に目が向きがちだけど…
実際は大名・明智家が滅亡の危機に瀕している状況で、その元凶たる人物が偶然にも防備が手薄な状態でいるから突発的に襲撃しただけ
変事以前に各所に手回しした形跡がないことからも計画的なものでないことは明らか
戦国武家の本質が忠義や忠誠なわけがなく、所領と家の存続なことを忘れてはダメ
朝廷、将軍黒幕説なんて京童が笑って転げまわるよ
当時もはや朝廷も将軍もなんの畏敬も持たれてないしかなり冷めた目で民衆から見られてる
現代では悲劇とされる義輝横死も将軍バカだろというような評が流布しているのが室町末期
光秀を唆すようなとはしたかもしれないがそれで動くような武家はいない
あれだけ室町幕府に献金していた毛利家も凋落した鞆幕府を京に復させようなんて気を微塵も見せないし、こちらも変事以前に光秀が接触した形跡なし
本能寺の変に深奥の秘密なんてない 言うほど深い理由なんてないよな
漫画や小説の創作で、現代人はどうしても意味を求めてしまうが、
もっと単純な、
「やれる可能性があるからやった」ってだけだよな
同じ陣営に属しているからと、
信じるものが同じというわけではないし
現代で考えても、
ほとんどの人が犯罪をしないのは、
「犯罪しても総合的に得が少ない」からであって、
その歯止めがほとんどない文明未発達社会では偶然のほうが大きいわけだし。
そういうのは今でも未開発地域を見ればわかることだ。
犯人はいちおう理由を述べるが、結局は「目の前にあったから」だし。 お前が無思慮な人間だからといって、お前以外の人間すべてが無思慮ではないのだよ >現代では悲劇とされる義輝横死も将軍バカだろというような評が流布しているのが室町末期
つまり「信長馬鹿だろ」で終了だな ヨシテルはせめて自分のまわりに軍を作ってから三好やら松永やらに刃向かうべきだった
頭わるい
スロのヨシテルさんはダレもまともに話きいてもらえない 信長も自分の周りに軍を守らせておくべきだったな
まあその守ってくれるはずの軍に殺されるのが信長だがw そうだよな信長はまわりを甘くみてた
謀反対策としてアメが効果的に使われてない
ムチばっかではそりゃ犬も切れるわ >戦国武家の本質が忠義や忠誠なわけがなく、所領と家の存続なことを忘れてはダメ←(笑) 信長なんて散々謀反されてるのだから光秀の際は油断してたのかねえ
せめて信忠にもっと警備させとくべきだったな ちなみに敢えて戦国武家と書いた
戦国武将というと後藤又兵衛のような率いるべき家中が存在しない者もいるから
武将はいいよ身一つで生きられるから
けど武家は無理
というより惣領であっても武家存続に反する行動をすれば放逐されたり殺されるのはフツーのこと >>390
信忠は村井についてっちゃったけど二条御所のほうがだめな防衛施設だと思う そもそも供回りしか連れずに茶会とか
余程畿内は安全だったのか 期待可能性理論・再び。
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/1325367/439553/108074264
芸能人の再起の可能性。
昔は黄金でも【円い四角は円】を覚えないと戻ってこれない。
サンタクロースは殴れなくてもカエサル(ジーザス)は殺せる。
奥さまの期待可能性。
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/1325367/439553/108099310
理想的なキスだっただろうか?
理想的な胸だろうか?
子育てを単純化しすぎたことを謝らなければならなくなるのに。
加筆しました。 BC3C末、徐福一行の故郷、華北では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。 京都消防本部は一昨日の本能寺の失火はは古い扇風機による過熱が原因だと発表した。
なおこの火事により織田信長さん(無職49)他三人の泊まり客が亡くなっている。
京都消防本部は古い扇風機の使用は控えるよう求めている。 >>393
畿内全域ではまだ織田領になって日の浅いところもあったけど、京の都に関しては上洛後は基本的にずっと織田統治で周辺地域はデカイ敵対勢力 >>398 畿内だと興福寺とか根来とか雑賀党位じゃないの。 明智が守ってると思ったんだろ
ボディガードに背かれてはどうしようもない
信長は自領もまともに治められなかった そのボディーガードの給料没収どころか財産まで取り上げといて守ってもらえると思ってたあたり流石にマヌケと言わざるを得ない >>401
没収の事実を証明するような史料って見つかってないんじゃなかった? そうなんだよな
光秀をそこまでないがしろにして方面軍まかせるのは甘すぎる >>403
毛利攻略後は九州なり他の地域任せるから知行地変えるかもぐらいの話話してたかも知れんけどね。
知行地取り上げて遠征軍助けに行けとか言わんだろ、普通に考えて。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルは稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>401
井沢元彦「これだから史料至上主義者って言われんだよ」 徳川襲撃のアイデアは光秀。
そりゃ信長も光秀を蹴っ飛ばすしかない。
あの本は弥助の目撃談がすべて。
悩んでいたのは光秀じゃなく信長の方。
冷静な光秀の判断は正しい。
だが今はその時機じゃない。
例の安土の接待のドタバタも光秀が毒でも仕掛けたかと思ったのだろう。
この信長の不決断が本能寺を招いたのは明白。 日本のほぼ天下人の信長を殺しといて
「これをやったのは細川忠興たちを取り立てたかったからだ、自分は隠退する」
とか整合性もないしおかしくなってたんでしょ
精神病説を支持する 源平交代思想というのがあってな、信長は平氏、光秀は源氏わかるかな、
精神病の工作員がおおいな 好きも嫌いも関係なく今ならやれると思いついたら、
人は、もう発作的に行動に移したくなるもんなのよ
俺も昔、プロレスラーのブッチャーって人を見かけた事あるんだけど
階段を降りる姿を後ろから見た瞬間に、今なら倒せると思う自分を必死に抑えたわ じゃあ、ここでの総意は偶発説って事で良いかな?
とは言え、まったくの偶発でなく
怨恨や野望も元々持ってて、その下地あっての偶発な 本人の自供以外意味のない話に総意ってw
知れた脳みそしてますね 馬に乗らず走ってこいやー、だの
オマエの家から攻めるからなー、だの
いいようにされてるよなコノエ ちょうど昨日、比叡山に参ったが、あんな場所を燃やすなんて
本当にアホだわ
僧侶の怨霊が光秀に宿って二人を破滅させたんだ
天海の法力の仕業だ ついでに帰りに坂本城跡も見てきたが、何の面白みもないな
光秀の像は埴輪みたいに頭身おかしいし、切れ者のイメージを悪くするから
もうちょっと何とかした方が良いだろ ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 比叡山でもなんでも利権問題はもめるよな
信長には信長の立場もあるし、宗教が聖域とかあほらしい 本願寺も比叡山と戦ってたしな。
本願寺の一向一揆の原型は比叡山との戦いにある。
仮に信長と本願寺が組んで延暦寺を攻めていても別に驚かない。
ま、信長という共通の脅威が出てきたから本願寺と延暦寺は和解したけど、
宗教勢力だからとかどーたらとかいう話にはならんよな。 まず寺に付いてるスポンサーを叩いてからの方がいいかねー スポンサーて誰?
寺は自前の領地を持ってたし、信者から吸い上げてたから強かった。
比叡山の場合、加賀と越前に広大な寺領があって、そこで取れた米を京に運ぶ
琵琶湖の水運までも独占していた。
比叡山資本の米屋、酒屋なども京にたくさんあった。 >>430 加賀なんか本願寺ばかりだと思った。興福寺は大和一国持っていたの? >>430
結局アガリを寺社が巻き上げてなかったら信長だって何もしないからなw
堺の町衆に矢銭を何度も課してアガリを巻き上げたりしたのも、アガリは全て俺のモノ他の奴はアガリ取らせんという事で徴税の問題。
幾重にも徴税するから人の暮しが成り立たず、経済も成長しない、徴税したい勢力同士が争う、無駄に金が掛かるというサイクルになっていたからこれを止めるには徴税する主体を減らすのが天下布武の本質だったと思う。 >>432
興福寺は松永久秀に負けるまで大和一国でいいと思う。
松永久秀が爆死した後は信長が大和の検地を行い、寺領が削られていく。
秀吉の時代に更に厳しい検地をされて2万1000石にまで削られる。
江戸幕府はそのまま2万1000石で許した。 鎌倉以降の細々したことを書き出してもしょうがないけど
時々は木沢長政のことも思い出してください、柳本とか言い出すとキリないが… 信長の本能寺直前の心理状況これが大切だ。
安土城での光秀蹴り倒しの一件は光秀こそ家康暗殺の提案者だということではないか。
それを御子孫氏は逆に信長ではないかという。
それに反論した光秀を蹴るという仕儀になるわけだが御子孫氏は無理をしている。
痛いところを突かれ逆上した信長が光秀を蹴る。
その方が自然だ。
だがこのときはまだ計画性があるものとはいえない。
いくら光秀でも弥助は鸚鵡の一種で日本語を解さぬとはいえ、ことは「超機密」だ。
おそらく「家康処遇」というところから始まった話ではないか。
だから本能寺「誤爆説」はありえる。
少なくとも御子孫氏の「安土密会説」よりはリアリティがある。
邪推するに御子孫氏は御先祖様が「間抜け」と揶揄されるの嫌っておられるのではないか。 息子は伊勢の北畠とかへ養子に出してるが
そういえば信雄が怪しいなw >>15
まあ時勢でいけばやがては滅ぶだろうが親不知ルートは大群では不利だから海路を使うしかないが海路補給が滞れば孤立し危険、信濃方面は島津との手紙でわかるが上杉方が安定して勢力を保っている。
阿賀北衆は独力で伊達芦品をすでに蹴散らしているからいまさら同心しないだろう。
つうても本能寺なきゃやがては多方面の増援もあるから10年も戦えばズタボロだね ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 この当時の信長は家康にかなりの負い目を感じていた。
それは例の「信康事件」。
信康が武田と通じていたのではないかという信長の疑問の答えが(過激な)築山殿殺害や信康自害。
それはあくまでも徳川身内の処断であって信長とは関係ない。
逆に家康が信長に恨みを持っていたというなら全くの逆恨みであり言いがかりだ。
とにかく武田が滅びた以上そのことは二人に暗黙の了解がある。
それでも差し引きの心理的負担が信長側に残る。
神経質な信長の心理状況を考えるとそうなる。
その具体的な現われが信忠。
本来なら東国経営に忙殺されなければならない信忠がなぜ京や堺にいるのか。
休息なら岐阜で十分のはず。
研究者もあまりこれに触れないのが不思議。 今日の産経朝刊のオピニオンでも昭和の教科書レベルの信長観をドヤ顔で書かれていたけど、
こういう古臭い事を今更書く奴ってどういう人種なんだろう… >>442
書いたのは経済評論家ですから、「信長に学ぶ部下の操縦法」みたいなものですし
史実かどうかは無関心で『名将言行録』あたりの逸話をもとに自己の考えに引きつけて書くのがむしろ普通ではないでしょうか。
不勉強なのであらためてお尋ねします。当該記事は私も読みました。
古臭いとおっしゃるのはすでに研究の進展で克服されているということでしょうか。
それとも常識化して今さらということでしょうか。ご教示ください。
ついでにつぶやくと、ファシズムの定義はあいまいなようですが、「国家の上に宗教や思想がある体制」というのは初耳でした。 >人々が自由に商売する環境・多くの人がリスクを取って(略)起業できる社会
上念司はこれをインフラと定義し、このインフラが整備されて経済は発展するとしているが
→流通経済の発展は鎌倉期より緩やかに興っており、貨幣経済の浸透であって、座の廃止によるという認識は昭和
昭和の高校教科書レベルの話が続いた後、信長の功績として寺社勢力に対し徹底的な打撃を与えたとする
→信長の寺社対策は一様ではなく、威令に服さないものと従う者では対応が違う
>唐突にファシズム論、意味不明
新段でファシズム論補足、前段は理解できるが、後段は妄想。ただ中国を批判したかっただけかな
その後妄想が続く、寺社勢力や信長による全国的な商業の庇護なんぞ存在しない。“座”と“寺社勢力の利権”の混同か?明確な区別ができていない。
「経済のインフラ」「政教分離」謎用語の羅列が続く
>ポイントは信長が経済のインフラを寺社から奪い取った点
信長が京都を制圧した際、座の保護に留意したことは昭和末期の教科書副読本・資料集で指摘されている
信長=楽座(経済の自由化)は、昭和の教科書
ついでに指摘しておくと、関所の撤廃が国レベルで確認できるのは伊勢と越前で、信長の命で京七口等関所を増設しているし、
楽市は信長の命に服さない寺内町潰しであって経済の自由化を奨励したものではない ご教示ありがとうございます。おおむね理解できました。
信長が座を保護したという昭和の副読本は存じませんが
依然として教材レベルでは関所撤廃や楽市を強調しているようですし
そう言えば信長を例に今こそ規制緩和をというのも見慣れた主張ですね。
ファシズムあたりで中国批判をしたいだけとおっしゃるのも、言われてみればとても納得しました。
再質問で申し訳ありませんが、ファシズムは宗教、思想>国家というのは一般的な考えなのでしょうか? >ファシズムは宗教、思想>国家というのは一般的な考えなのでしょうか?
上念某がファシズムをどう定義するかにまで容喙する気はないから考え方としては理解できるけど、一般的かと問われれば…
この人の文章は青臭い高校生を想わせる。まともな人間が周囲にいないのか、指導されても矯正を拒否したのか知らないが、
同人活動で上念某を既知の仲間内でしか通用しない文章を、不特定多数の読者がみる新聞紙上で発表するべきじゃないと思う。
全体的な所感としては、司馬や堺屋の小説を念頭に独自の世界観が語られている。
書き手には自明なことなのだろうが、用語をどういう意味で用いているのか上念某を知らない当方には理解できない。
或いは一般的な事を語っているのに、言葉の省略が多すぎて私が読み取れないだけなのかも知れない。
繰り返すけど、この人の文章はスーパーヒーローが世の中の不条理を正し導くという世界観で書かれたもので、
世間を知らない象牙の塔の住人だなという印象。
小説ではなく、鈴木良一氏の『織田信長』を読んでいれば、異なる信長観をもてたかもしれない。
>信長が座を保護したという昭和の副読本は存じません
医者と教師は若い方が良いという言葉があるけど、資料集や副読本を根拠に質問に行ったら、高校の歴史教師はとても嫌な顔をしてくれた思い出。
医者も教師も就職すると日々の雑事に追われて最新の研究成果に接することなく、分からないことは放置して関知しないという理屈は、この歳になると理解できるから困るw 何度も丁寧にありがとうございます。「理解できるけど、一般的かと問われれば…」で納得しました。
小説を念頭に…用語をどういう意味で…は全く同感で、私も「私が読み取れないだけ」と不安になったのが、あれこれお尋ねした理由の一つです。
真面目にとりあうほどの文章でないのに、お手を煩わせました。
私は答えられないことを聞かれたらだいたい「わからない。私が知らないだけかもしれないし、本当にわかっていないのかもしれない」と答えますが
思わず嫌な顔をしないように自戒します。 本能寺の変が今なお行為ではなく動機において謎なのは、それが「二重の下克上」であったからだ。
二重の下克上とは信長・光秀に対する斎藤利三の謀反がこれである。
斎藤利三は光秀に直接謀反を起こしたわけではない。
しかし結果的にそうなった。
斎藤利三が真っ先に磔になったのは光秀の遺命なのだ。
ただ信長と光秀にも(徳川処分をめぐって)微妙な隙間風があったのは事実だ。
だがそれはたんなる政策的な相違にすぎない。 武田を滅ぼした時の打ち上げで、光秀が
甲斐を得たので我らも頑張ったカイがあった、と詰まらん親父ギャグを飛ばして
信長がブチ切れて光秀に暴力ふるったんだよ
酒の席の恨みが爆発したんだな ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 光秀が謀反を起こしたのはそもそもそういう野心家であったのだ
信長のオキニの武将たちを見れば一目瞭然
みんな謀反を起こしているか、過去に起こしたことがある者たちばかり
松永久秀は言うに及ばず、荒木村重、柴田勝家、浅井長政・・・
羽柴秀吉、徳川家康も後日主家を簒奪した
ようはそのような自立心旺盛な野心的な人物が、信長の好みだったのである
その中で光秀のみが献身的な忠義者であったなどと考えられるであろうか 譜代の献身的な忠義者たちを無造作に切り捨てた結果の横死だからな
自業自得と言って良いようなもんだ。 仕方ないだろう
光秀や秀吉レベルがデフォになったら、林や佐久間なんて給料泥棒と同じだよ 小網代の森〜女性の抑圧からの開放。
DeNAレディチャペル。
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/1325367/439553/106771407
「お化粧は全部、試供品です」
教授とデートした女はみんなそう言った。
ナルシシズムがあったんだろうね。
そして、男が好きだったんだろう。
そのうち「自分の足で立てない」ことにショックを受けるよ。でも、働くかどうかは子供の成長に依存しているんだ。
キャサリン・ウィルソンは「女はもっとお洒落を楽しんでいる」とした。
小説、映画などのメディアで社会と積極的に関わろうとする女性像だ。
金持ちと結婚して、若くて知的な息子がいる場面を目にしている。
男の興味の対象でありたいという気持ちを忘れてほしくなかったのだ。
なぜ、低賃金のもとに自分がおかれるのか?それは【理想の人と結婚した】からだろうとされた。
レディースコミックが結婚した女はどうあるべきかを教えていたし、女もそれで満足できた。
キャサリン・マッキノンが考えたものだ。
【この家に私は売られたのね】
イスラム女はベールを被ったのだ。それがファミリーの名声だったから。
家庭内の事情をすべて覆い隠したという意味では自立していた。
テニスでオリンピックに出ようとした女も、やがて妥協を知り、自分にふさわしい漫画を見つける。
【男の欲望になることね】
夢はあきらめても体は残るのよ? 恐怖政治で締め付けていただけだから、ふとしたことで崩壊する。 秀吉がやったこと≒信長がやりたかったこと
家康がやったこと≒光秀がやりたかったこと >>461
あっ!
その視点は初めてだ!
なんか納得〜〜〜〜 光秀は明智幕府を作りたかったわけではない。
ただあまりに信長が自己肥大化したために始末した。
本来は信忠と手を組むのが筋だがこれも殺した。
のちに天海として徳川幕府創立に尽力した。
光秀はNo.2としての自覚があったみる。. いやそれはない
人ころしまくってるしマトモな人間とは思えん
チョンは「たくさんの日本人ころした信長は神」と言うらしいが 戦国時代の大名の中で信長が極端に多く殺したわけでもないがな
勝者はより多く殺すってのはあるが
>>465
光秀は唐攻めをしたくなかったんだよ 朝鮮人が日本のことに口挟むな、って話なんだけど、あの国の人間はかまってちゃんだからなあ >>470
唐攻めに行くのがだれかって話と
信長にしろ秀吉にしろ日本国内の中心地は親族領土にしようとしてたからね 信長はいずれ毛利と手を組んだ秀吉によって中国路あたりで「横死」する。
それが光秀の見立て。
いわば光秀はその秀吉の監視役なのだが腹背の敵に対抗するのは不可能。
むしろ東に向かい徳川を討つべし。
そう安土城で進言したが信長にあっさり蹴っ飛ばされた。
戦国の二人の「合理主義者」はこうして東西に分裂した。. 信長みたいなブラック上司では誰だって嫌になるよ
お前らの「ぼくがかんがえたりそうてきなのぶなが」ならいいけどな 武田を滅ぼした後の打ち上げで
光秀が我らも頑張った的なことを言ったら、信長がブチ切れたからだよ
酔っ払いは、訳分からんところでいきなり切れるから怖い
それは今の時代でも同じだし、400年前でも変わらん
アレキサンダー大王も酔っぱらって部下を殺したって言うよね
命が欲しければ信長を倒すしかなかったんだ 社長が「今日から魔王」とか言いだしてパワハラ三昧だったら殺意わくわ
それでも心に刺さった棘が1,000本になるまで耐えてたんだと思う 武田攻めの帰り道、信長はお供の家臣を自由に帰らせたが
光秀は最後まで信長のお供したんじゃね?
トラブルがあったら二人で帰らないだろう >>481
信長の悪い話は作り話
信長の良い話は事実 明智光秀の母親が人質に取られてるのに
信長がそんなのお構いなし勝手な事をしたので、光秀母が殺されたんだよ
だから光秀は信長に恨みを抱いての 秀吉と家康は自分に都合が良い歴史に改竄したからな
被害者が光秀と信長や 秀吉や家康に限った話じゃねえからわざわざ書かなくてもよい
歴史の基本だ その基本を知らずに後世の作り事をしたり顔で書いてるレスだらけ >>490
そういうバカは指摘してやっても無駄だからほっとけと。 後世の作り事って井沢のことか
あいつマジでバカだからな
信長の政教分離とか平気で大嘘つくからタチ悪い 井沢はツマミ食いだし、それ以前からの講談史観では? 現在のようにどんな宗教団体でも政治に参加できるのが政教分離というものだからな 信長が宴会の席で光秀の頭を見てキンカ頭とかハゲとか馬鹿しまくってたから
光秀が切れたんだよ 怨恨説のためにふくらんでしまったエピソードってことだよな >>501
講談って言うと、長篠の三段射撃とか木津川の戦いの装甲戦艦とか、
あんなの信じてる奴らって本当に頭おかしいよなw 天下に号令をかけるべく、雲霞の如き大軍を率いて上洛しようとした今川義元を、ウツケが奇襲戦法で破ったのはガチ 信長好きな奴ってリアル信長じゃなく「ぼくがかんがえたのぶなが」が好きなだけだよね >>509
リアル信長を知るものはもはやいないからしょうがない >>511
身近な人物に関しても個々人によって評価は変わる >>508
世に言われるレベルではなくて
数倍で罠にはめて奇襲して勝った
普通の勝ち方やけどな >>503
信長様 勝家様 利家様も元気だよ。光秀も
秀吉は解らない。 旧体制復興の為に信長に忍従してただけなんだから義昭追放された時点であの暴力キチガイに従っている理由はない そんな中身のない動機で人は動かねえよ
馬鹿かコイツ 信長がそのまま政権握っていたら日本人は全滅していた 信長父子殺せば少なくとも狭義の天下人とか思ったら魔が差す時もあんじゃね?
軍団長は軒並み最前線に、ついでに家康は堺旅行
信長父子は僅かな共回りで京に滞在
天の意思だと思ったかもしれない 信長は京周辺が自分の勢力圏になったから安心しきっていたんだろ
仮に護衛団がいてもそいつらに命を狙われたら終わる 信長が人ではなく本物の魔族であると見抜いた末の決断だろな 信長の丁髷は肖像画では二つ折りですが
テレビ 時代劇では垂直茶筅髷(志村けんの馬鹿殿)
になってますよね
どっちが本当ですか? 又 垂直茶筅髷は時代劇では2代将軍秀忠までで
3代家光より二つ折り髷になりますよね
これは真実ですか?
よろしくお願いします 茶筅とか、あんなのそれなりに毛髪がないと無理だろ
添木でもしないと立たない 真田丸で家康は70歳越えで細いけど
垂直茶筅髷ですよね
本当は二つ折りだったのかな?
垂直茶筅髷にしないと殿様らしくないので
時代考証無視してオッ立てるんですかね 志村けんの馬鹿殿と同じ演出だったら
ショックですね 茶筅髷を水平から官位を得ると
冠を被るため垂直にするのは何となく理解できます
別名 烏帽子下とも言いますよね 晩年の信長と家康はなぜか似ている。
共に優「秀」なボンクラ息子を持ち西に向かった。
西に向かった家康は幸村に横死寸前まで追い込まれた。
西に向かおうとして「横死」までは至らなかった信長。
信長を「神」に仕立てたのが光秀。
家康を「東照大権現」に仕立てたのが天海。
この辺りの類似も興味深い。 自分の領土である坂本を一生懸命統治して
領民にも名君として慕われてたのに、
信長に、中国地方を攻めてる秀吉の援軍に行って
ついでに分捕った領土に転封だって言われて嫌になったんだよ 林佐渡、佐久間信盛、安藤守就、尚就父子、丹羽右近らの追放を見るにつけ、嘉吉の乱の時もそうだったが、後先考えずに殺られる前にやってしまえ となる。 所詮信長には天下人なんて顔じゃねえよって話ってことだな >>537 でも、滝川は関東管領を任じられたとき旧領の長島城及び北伊勢8郡のうちの5郡
はそのままだったの? 細川の例だと、丹後に引っ越した後、しばらくは旧領もそのままだったが
新領が落ち着くと旧領は召し上げ
滝川の場合は本能寺の頃、決定されてたかどうかわからんけど
伊勢長島は召し上げ予定だったと聞いたことがある >>541
一次や一級史料ではないけど滝川が本拠ごと移すことに
かなり反発したような書かれ方をした史料があるには
あるから多分滝川も細川と同じコースだったと思われ >>542 でも、毛利への使者が秀吉より早くついていたらどうなっただろう。
毛利はどう動くかな? 光秀は馬鹿じゃない信長は阿呆じゃない
しかし工作員のレスはつまらんのー 特にない
毛利やったらほぼ天下統一だし最後の最後に大チャンスが来て魔が差しちゃった >>549 秀吉を追って行って光秀と挟み撃ちか? その次に柴田さてどうなるか?
上杉景勝も北条氏政も後は追うまい。大友宗麟とか島津義久とか長曾我部元親は蚊帳の外だし。 >>549
信長は自国領土すら満足に治められてないんだから天下統一なんて無理だよ >>552 明智の密書が毛利に早くついていれば、戦国時代がいつまで続いていたかわからない。 スペイン語かポルトガル語が公用語に
サッカーが少し強くなる桁違いの美人もチラホラ
独立できるか知らんけど 領地取り上げで新領地敵地切り取りが直接的きっかけだろうな
そこに至るあたりも冷遇、いじめもあったたようだし
粉骨砕身し、それなりに結果出してるのに評価ゼロ扱いの酷い仕打ちで、さらにワンマンで逆らえない命令とかさ
キレるわ
マジで 怨恨説も全否定はできないけど、ちょっと強引に感じるよね
やっぱり朝廷黒幕説かな 特に光秀が他の武将に比べて冷遇されてたってことはないんだよな 殴られただのは絵本太閤記だっけ
ちょっと秀吉よりのネタをもりこんでるよね 信長の部下だった秀吉が信長の死後に信長を悪く言うってことは、
信長は部下の秀吉にも嫌われていたってことだよね。
つまり誰が裏切ってもおかしくないのが信長の政治。 全ては以後の正当性がどうだったかで見ないと間違える 秀吉は自分が信長の、正当な後継者を名乗りたかったのと
信長に謀反した光秀を貶めることに力を注いだわけだよ そもそも歴史に正当性とかいってる時点で間がヌケてる 本能寺の変の後、首尾よく都周辺を制圧できて、秀吉の急襲がなかったと
しても、織田家臣団や同盟者の徳川家康が、光秀の支配下に収まるとは
思えない。「信長を倒せば、光秀の天下」というのは、やや飛躍を感じる。
やはり光秀の背後には朝廷や旧幕府などの伝統的勢力がいて、朝廷・旧幕府
などのもとに戦後処理を考えていたとするほうが妥当ではないか?
足利義昭のもとに再び室町幕府復活というのであれば、武田・上杉・北条・
毛利を始めとする大名が承認して、体制が固まる可能性が高い。 今すぐに家康を支配下に置きたいとは思ってなかったんだろ 信長信者って本能寺の変という事実を決して認めようとしないのなw ホントなら信長に続いて堺に入ってる家康もほぼ同時に殺したかっただろうな
せめて街道で補足して駿府に戻すつもりはなかっただろ >>571
黒幕次第だよね
>>561
それは短絡的すぎる
プロパカンダ以外はとくに悪く言ってないしな
>>568
光秀ってそこまで保守的な考え方でもなかったから
どうなんだろうね
黒幕がいてうまくやる予定が失敗したってだけではありそう 光秀は天下人は目指してなかったやろ
畿内と京で満足。てか、それ以上は無理無理 信長も京都と畿内周辺が精一杯で日本統一なんか無理無理 光秀も天下統一までは考えてなかっただろ
無理して家康を敵にまわす事は得じゃない 信長討ってそのあとになにするかによっては家康も敵にまわるでしょ
光秀の場合は義昭を再度将軍につけるかねえ 義昭は面倒臭い奴だけど、一応は将軍だし官位取得の窓口でもやらせとけばいいよ
その取り次ぎを光秀がやれば少しはマシな状況に持っていけるかも >>578 光秀が毛利や北条に合力してもらって秀吉と柴田を征伐したなら家康は動かんでしょう。
もし毛利への密書が届いていたら、秀吉は一巻の終わりでしょうね。 >>581 秀吉、うまく撤退できるか? 清水宗治のこととかほっとくの? 後詰めがあるかないかで天地の差だから
毛利に攻められたら、北条に攻められて壊滅状態になった滝川軍と同じ状態になってただろうな
しかし毛利は秀吉を少しも追わず、秀吉が勝った後は毛利は厚遇された
結託してたんじゃないの? >>584 隆景と恵瓊はわからんね。でも、毛利が先に知っていたら元春の追撃を止めることはできんでしょう。 本能寺の変前から安国寺恵瓊とは和議の準備は出来てたって書いてある書物があるらしいね 信長が来るかもしれにいのに、毛利は京に間者とか置いてなかったのか?
来てから考えるつもりだったのか? >>581
やりかた次第でしょ
それでなくても秀吉は信長に援軍要請するくらいの戦局だったんだし
高松城が足を引っ張ってた 引っ張るってか、毛利は高松城を助ける気なんてなかっただろ 助ける気ないなら出張ってはこないでしょ
いや、厳密には捨て石くらいに思ってただろうけど一応かたちだけは救援にきてるわけで。 毛利は山陰が主力で山陽は防御耐性しか引いてなかったから
追撃なんて無理だったんだな >>591 でも、先に信長の死を知ったら元春を止めることを隆景と恵瓊はできんだろう。
これで、秀吉が滝川状態になり光秀は柴田と対峙することになる。
その時の 光秀・勝家との 毛利 北条 家康 上杉 長曾我部 との合従連衡は如何に? >>593 元春を納得させるためには五国(備中・備後・美作・伯耆・出雲)の割譲なしと清水宗治切腹なし位しかないな。
隆景はその条件をのまして「秀吉殿、ご武運を祈る。」とかかっこうをつけそうだな。 >>577
> 光秀も天下統一までは考えてなかっただろ
信長までの「天下」と、秀吉以降の「天下」は違うことが最近の研究でわかった。
信長までの「天下一統」は日本統一ではない。
光秀も日本統一は視野になかったろう。 それだ。信長は日本統一なんか考えていないが、それを実行に移したのは秀吉からだ。 >>595 >>596
仮に、光秀の使者が秀吉に捕まらず毛利が秀吉をあの世行きにした場合、光秀と柴田の対戦になるが、
どちらの勝利かな。 >>598 織田家の後継は? 信雄と信孝以外の誰? 和解するのは柴田相手の話
信長を殺しているので今更信雄信孝もないが柴田と光秀の共同経営というのもありえないので三法師をたてて傀儡政権 光秀の使者が捕まらなくても秀吉は畿内に戻ってきたよ
ちょっと遅くなるから結果は違っただろうけど >>602 戻るにしても、滝川のような戻り方では? それに、柴田が先に信孝・丹羽 細川 筒井 摂津の諸将らと先に光秀を撃ってしまつたら様相はかなり変わってくる。 諸説色々あるが
光秀の使者を捕まえた結果、毛利に情報が渡らなかっただけで
秀吉は別のルートで知ってたから滝川のようにはならない >>601
史実でも家康とらえたくて街道は封鎖したということだけど山越えルートつかう家康には結局関係ない
柴田と組んだ三成は毛利および羽柴を警戒して畿内へのルートに防衛線をひくと思う
孤立してないので細川だの筒井だのも参陣
家康は駿府城に戻るも滝川が武田領にて睨みをきかしているのでうかつに動けない
とりあえず北条と同盟して光秀の動きをみるんじゃないかな
そのうち追い出された織田兄弟が尾張から畿内を攻めるようになるからそれに乗じて武田領をゲット >>573
本能寺後、細川幽斎に出した手紙で、光秀は
畿内を征服した後は、私は隠居する
あとは娘婿の忠興と光秀実子の小十郎に天下は譲る
細川と明智で天下を統治しようみたいな手紙を送ってるじゃん >>605 森長可らは甲斐から逃げ出し、滝川・河尻らは止まるも河尻は切られ、
滝川は命からがら伊勢に返る。
後情勢に関係あるのは、景勝と長曾我部、佐竹あたりかな。東北と九州は関係ないでしょう。 >>604
有名なのは長谷川宗仁ルートだよね
秀吉が黒幕だった場合、コイツは絶対にグルになるはずなのに
何故か千利休にすり替えられてしまう哀れな人 >>604 秀吉も知ってて毛利も早期に知ってた場合、秀吉は領土も清水の命も取らずに撤退しただろうか? そりゃ秀吉の軍勢だけでは高松城は落とせなかったんだから領土も城主の命もとれないでしょ >>611 小早川と恵瓊は領土と清水の命と引き替えに秀吉を返してやるかな。 >>613
返す必要ないかもね
だって織田は倒れて家内は乱れているだろうし
後ろ盾のない羽柴を見逃してやる必要もない
せいぜい帰還した羽柴が光秀ともめて共倒れになれば、とか考えるかもしれんけど。 >>612
書状の花押は光秀が当時使っていた花押とちがう 光秀の花押って15年分くらいだろ?
そんなコロコロ変えたんか?
うっかり前の花押を書いたとか無いのけ? 立花京子 「明智光秀花押の経年変化と光秀文書の年次比定」 『古文書研究』46(1997) 花押は自分発給の文書と証明するもんだから間違えることはないでしょ 伊達政宗とか「花押ミスったけど俺からだから!」とか言ってる書状あったような あれは花押に針さして、針あるの俺のだから、だからちょっと違う いや公文書はあまり変えなかったみたいたが、親しい相手宛ての花押は度々変えてたみたいだし。使い分けで 光秀の子で、坂本城落城直後に死亡が確認された者はいないだろう
行方不明の者が多いが >>624
史料上で確認できる光秀の息子は手紙に見える十五郎だけじゃなかったか
娘婿の明智秀満を明智家の跡取りに考えていた時期もあったようなので
実息子の誕生はだいぶ遅かったとみられる >>626
長男は山崎の戦い当時で元服が済んでいるのだから、遅いというほどでもないだろう >>629 山崎の戦い時光秀は55。40くらいの時の子だね。現代ならざらにある話だが。 光慶という名も本当かどうか分からんし、元服の記録も初陣の記録も無いし。元服してなかったかもよ >>632
長男元服の記録は何の史料に載っている?
中国征討の支援に向かう明智光秀軍に同行していないが
元服しているなら同行するだろう
ガラシャが本能寺の時19歳、十五郎はその弟なので
当時としては十分晩年の子 >>626
>娘婿の明智秀満を明智家の跡取りに考えていた時期もあったようなので
ソースは? >>636
愛宕百韻は8人の出席者で100句の連歌を継いでいったもので
8人で回し詠みして合計100句、1人で何句も詠む
光秀は100句中14句も詠んでいるし他の出席者も同様
しかし光慶なる作者は100句中たった1句、しかも最後の1句のみ
明らかな違和感 見学してた息子に、「せっかくだから、おまえも一句詠んでみ」みたいな あれ100歌で7時間くらいかかるらしいしなー
延々と歌を聞かされた挙げ句に話を振ってくるって凄い罰ゲームよのー 光慶が実在していたか否かから、光慶が歌会に出席していたか否かに論点のすり替えw
それなら
>中国征討の支援に向かう明智光秀軍に同行していないが
このソース教えてくれ 実在はしてたんだろうよ。ただ光慶の名の元ネタが明智軍記なのはどうよ?って感じの話 ・秀吉がそそのかした
・光秀は織田家排除の先兵に使われただけ
・光秀は自分に協力するために秀吉が中国から戻ってきた(準備してたから手際よく戻れた)と思ったら、
自分を討つためでえええええ?????状態に
・光秀討伐後証拠は全て消した
という説に一票 >>644
本能寺の変で誰が一番得をしたかといえば秀吉。
推理小説の犯人でいえばそうなる。
緊急時の戦争にしては泥仕合にもならず、あまりにも手際よすぎ。 >>641
違うだろ
光慶が実在していたかどうかの証明として歌会出席が提示されたから
そもそも歌会に光慶なる人物が出席していたか怪しいと言っている
そんな人物が本当は参加していないなら
光慶がその時代に存在していなかったことになる >>646
家康説あったが秀吉を倒したから家康がやってたってなるかもw 最終的には秀吉が得したけど、本能寺の時点じゃ信孝あたりが得してたんじゃね?
変がなけりゃ当主候補にもならなかったじゃろ ああ、あるかもなあノッブと信忠を排除
ただそれなら信雄もあわせて排除したいな 本能寺の変はフリーメイソンの陰謀だった!!? とかやれそうありそう >>643
鉄砲玉に使われた光秀は生き延び、天海となり豊臣家に復讐。 >>653 四国へ行くのに兵を集めていたのに余り集まらず、変後逃亡される。秀吉が早く帰って来なきゃ
、丹羽ともども討ち死にしてたかも。 5日に信澄を殺してから11日に秀吉と会うまで何をしてたんだ信孝 昔からある説だよね>秀吉共犯説
でも唯一の欠点は光秀がそれを暴露しなかった事だな 唯一というか…
変の直後から秀吉は信長親子が生きてると言いまくるし
光秀は長浜城を占拠してるし
全然協力しとらんがな >>661
山崎の戦いの後、光秀から手紙をもらった武将たちから
関係書類を全部没収して、秀吉が証拠隠滅
「何かしゃべったら畜生塚に埋める」とか脅迫して口封じとかないのかな あるかも知れんが後世に残ってないからな
歴史は秀吉に味方して光秀は謀反のそしりをうけた、そんだけの話だな
まあ秀吉もその後は似たりよったりだが。 >>663
豊臣家の天下がずっと続いたのならともかく山崎の戦いのわずか30年後に滅亡する
そんな口封じをしてたのならそのことが表に出ないことの方が不自然に思う
徳川にとっては絶好の豊臣批判のネタになるし
秀吉も家康もグルと言うのならそこまでは知らん >>663
山崎の戦いの後なら、脅されたって柴田にでも訴えればいいじゃん。喜んで話を聞いてくれるぞ 特別なアンチ秀吉でない限り、勝家まで知らせに行かないだろう
長いものに巻かれる畿内の武将だし 秀吉と光秀の密約があったという前提なら
丹羽は脅迫されたというより、新領地を提示されて懐柔されたかもしらん あまり知られていないが斉藤利三の娘婿は柴田勝全だといわれている
柴田勝家と同族だが明智家に仕え本能寺の変や山崎の戦も明智軍として加わった
光秀滅亡後は堀秀政に仕えたそうだ
斉藤利三の息子の斉藤利治だって生き残って、加藤清正の家臣になったりしている
何を言いたいかというと明智光秀が滅亡したからといって
明智家重臣の血縁者が全滅したわけじゃない ガラシャだっている 口封じはできない そうかも
だがそこであえて理由づけをしてみると、
勝全と利宗は就職先確保のために無言をつらぬいた。
ガラシャはDV夫によって監視つき幽閉状態 >>670
そもそも春日局という究極の勝ち組がいるしな なんとなくここら(明智、秀吉、家康、公家、信長に怨みをもつ皆さまや縁者等)
みんなグルだったような気がしなくもない
で、殺してとりあえずリセット
あとは予測通り各々言いたい放題やりたい放題で混乱 >>663
鶴松の出生を揶揄する落書が書かれて秀吉激怒
処分したことまで後世に残ってるぞ
都合の悪いことは残さないようにしようとしても
完全な焚書坑儒など不可能だろう
>>672
秀吉が主君殺しに加担していたのならば
家康はそれを理由に豊臣を滅ぼすべくもっと宣伝したと思うね
光秀に加担していた可能性は秀吉よりも家康のほうが高いだろう
謎の伊賀越え、直前まで家康と行動を共にしていた
穴山梅雪の変死→家康の息子が武田家を継ぐ、など変な話多すぎる こんなもの拾ってきたけど結構これってあり得るんじゃね?
28 :日本@名無史さん 2015/06/01(月) 06:20:52.76
武田埋蔵金と信玄の墓(ただし一部)は富士五湖のどこか。
大久保長安の埋蔵金は河内地域〜富士南麓にかけてのどこか。
信長の首は富士山麓のどこか。
信長の倅2人の首は旧武蔵地域のどこか。
ココ→【本能寺の変は信長は秀吉&クロカンが、信忠は家康&正信が糸引き人
それぞれ実は別働隊を編成していてつなぎが利三】
本物の光秀は殺されていて京に入ったのはニセ者。
以上前に霊感ある奴が酔っ払った勢いで吐いた霊視結果
信じるか信じないかはあなた次第 まあ確かにあり得なくもないかなあ…
というか別動隊はある意味盲点だったわ 西山本門寺にもあるけどね
私的には建勲神社の方が面白い >>681
小和田哲男さん一押しの説やろ
小和田さんは歴史学者のなかではかなりまともな部類にはいる >>681
というかその建勲神社が船岡山なんじゃがのw >>684
武功夜話を偽書よばわりするようなのは最低の部類にはいる 織田信長と生駒吉乃のあつあつぶりについて少しは語れ、ばかちん 大河ドラマの推察を邪推w
もともと足利将軍家の信長の与力だった明智は義昭追放をよく思っていなかった
毛利氏は織田軍が全軍をあげて進行してきた場合、織田20万の兵に対して五万の
寡兵でしかなく、また独立した国人衆を束ね切る自信もなかったので、織田軍と
の早期講和を狙っていたが、信長に講和の意思がなかったので、当時毛利領に逃
走していた義昭を通じて明智光秀に内応し、信長を討ち果たした際に和議を速や
かに締結した恩のある豊臣政権との友好関係を通じて命脈を保った >>692
前野家文書にあるようにアツアツであるなら4年もの間
病気であることすら知らないなんてあり得んだろ
その生駒の一族だってほとんど信雄の北畠入りの時に一緒に
行くよう命じられて本拠地から離されてるじゃん
信忠の生母だって本当に生駒だったのかかなり怪しいんだし 生駒吉乃は南朝の末裔であった、うんうん
ということで信忠は南朝の末裔ということになる、うんうん 信忠の生母は身分はそれほど高くないが、濃姫の強力な推薦があった
のかもしれない ヒキコモリかどうかは分からんが、結婚から信忠誕生まで7年くらいあるしな。気は使ってたんじゃないかね? なんとなくだが信忠と信房は同腹で濃姫ないし斎藤家と
それなりの関わりがあった人のような気がするなあ
そして他スレにあった信忠と池田之助は双子で話に興味あり 狡兎死して走狗烹らるになると思って謀反を起こしたに一票 織田家が崩壊したのは、信長だけではなく、嫡子の信忠も同時に落命してしまった
ことによるが、光秀は信長だけではなく、信忠も確実に討ち取る計算があったの
だろうか?
本能寺の包囲は完璧で、信長は確実に討ち取ったが、信忠はたまたま討ち取れた
ようにも見える(逃げられる可能性もあった)。
もし信忠に逃げられていたら、秀吉ではなく、信忠が家中の軍勢を結集して、
光秀討伐に動いた可能性が高い。 >>702 信忠と一緒にいた有楽は逃げることに成功したが。
大阪にいた信孝と丹羽は四国出兵軍を集めるのに苦労していたが、信忠に兵が集まる? 信忠はすぐには兵を集めることはできないかも知れないが、柴田・丹羽・
滝川などの重臣、同盟者の徳川も、やがて信忠のもとに集まってくるの
ではないだろうか。秀吉もその流れに呼応せざるを得まい
本能寺の変の当時、信長は形式上はすでに隠居しており、織田家の当主は
信忠であったことも重視すべきだ >>702
光秀がそんな甘いかなあ。
二条城は当時全然固くなかったから、ふつーに落ちるし。
まあ末弟の信包は逃げたけどね。 >>704 近くに信孝がい、宿老の丹羽がいたのに明智追討の兵をすぐにあげていないし。
高山とか中川ら摂津の諸将が信孝のもとに参集せず秀吉のもとに集まっている。 もし信忠が生き延びていれば、一時的に他の兄弟や秀吉が個別の動きを示した
としても、織田家中はいずれ信忠のもとに収斂する。
信忠はすでの織田家の当主であり(信長は当時はすでに隠居)、信忠が信長の
後継者であることに異論のある重臣はいないからだ。
だから、光秀が一時的に都を制圧したとしても、いずれ織田家の総軍と対決
することになってしまい、勝ち目はないのではないか?
光秀の本能寺襲撃と二条城攻めには、温度差があるように感じる。
光秀の作戦は、そもそも計画性が欠如しているように見えるのだが、どうだろうか? だから光秀は信忠を殺すのが必要だと認識していたからきっちり殺したんだろうし
それでも信長を殺すのが重要という優先順位もつけていたわけで
完全に計画的だったんじゃないの? >>708
>光秀の本能寺襲撃と二条城攻めには、温度差があるように感じる。
霊視とやらによるとこうらしい
28 :日本@名無史さん 2015/06/01(月) 06:20:52.76
武田埋蔵金と信玄の墓(ただし一部)は富士五湖のどこか。
大久保長安の埋蔵金は河内地域〜富士南麓にかけてのどこか。
信長の首は富士山麓のどこか。
信長の倅2人の首は旧武蔵地域のどこか。
→本能寺の変は信長は秀吉&クロカンが、信忠は家康&正信が糸引き人
→それぞれ実は別働隊を編成していてつなぎが利三。
→本物の光秀は殺されていて京に入ったのはニセ者。
以上前に霊感ある奴が酔っ払った勢いで吐いた霊視結果
信じるか信じないかはあなた次第 むしろ秀吉や家康は兎も角も別動隊編成で動いたとする方が
二条新御所襲撃については辻褄が合うような気がしなくもない 秘密予言 「イスラム教徒が核兵器を持つ日が必ずやってくる!」
「イスラム教徒のテロリスト」が、近未来、
「アメリカ政府が開発した小型核爆弾」を強奪する!!
「カバンのような形をした小型核爆弾!一人で持ち運べる核兵器!
イスラム教徒は、「アタッシュケース型・小型核爆弾」を、
世界中の首都にしかけ、大爆発させる!!
世界中の首都で核兵器が爆発し・・・キノコ雲が見える!!
女は失神し、男は震え上がるだろう!!アメリカは、恐怖で震え上がる!!
今なら間に合う!!「小型核爆弾」を解体しなさい!!
そうすれば、運命はかわる!アメリカ人よ、未来をかえなさい!!
未来はかえられる!!「旧約の神」が未来をかえさせる!!
神がそうさせる!!神が未来をかえさせるのだ!!
ミカエル >>713
襲撃したのが偽物光秀だったとすれば変後の計画性あったのかよ
みたいな点もとりあえず解消できそうな…
変後の細川宛書状と他の光秀発給文書との筆跡鑑定って
やったことあったっけ? >>707
中国攻めで手いっぱいの秀吉に何が出来るんだ? >>708
信長・信忠がやっていた大名を一つずつ虱潰しでは天下統一できなかっただろう
それで諸大名は秀吉のもとに集結したわけだ
それでも織田家臣団は信忠一人が生きている以上これに忠誠尽くさなければならなかったというならば
織田を敗る別の勢力が出てきたかもしれんしな
それこそ伊達やら黒田やらはやる気ならあったしな 朝廷が関与してるにきまってるだろ、ゴミ工作員がなーに寝ぼけたこと
いってんだよ! >>720
どういう風に関与してたんだ?
あの時代の朝廷に武家の指導者を決める力はなかったが。 >>721
やっぱり工作員だったか
生駒吉乃について述べよ(10点満点 >>722
馬鹿がいついてるなw
吉乃という名前は武功夜話にしか出てこないが
なぜその名前を引用したのか述べよ(10点満点 じゅ、10かよ
俺なんか偏差値38もあんだぞ、バカにすんじゃねぇ >>723
なーに興奮してんだよ、吉乃様は南朝の末裔なのである、つまり信長は
南朝復興を目指したのである、反論がなかったので認めたということである >>726
やっぱり基地外かw
家系図だせよ、ボケ 明智は死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね 実は織田家家臣団が信長暗殺計画を立てたんじゃないの?
んで皆でタイミング測ってたんだよ。
各方面軍が総出で出たタイミングをね。
で、クジ引きで外れ引いた光秀が信長を攻める役に。
そして山崎で負けた体にして、天海としと生き延びた。 光「ちょりーっすwwおひさwww」
家「おひさwwwもうでてきていいのか?www」
光「さすがに大丈夫でしょwww」
家「サルんとこ行ってきたのか?www」
光「むりすwwあそこ脳筋おおいしww殺されるwww」
家「七www本www槍www」
光「しかしww本能寺テラバロスwwww」
家「wwwww」
光「黒幕wwww全っww員www黒幕wwww」
家「サルもwww柴田もwww黒幕www」
光「天下布武wwww誰もとくしねーしwwwww」
家「毛利もwww北条も知ってるwwww」
光「魔王涙目wwww」
家「武田の時の見たらみんな納得したからなwww」
光「誰か損したやついるのか?www」
家「滝っ川www」
光「忍者wwwwww進むも退くもwwww滝川www」
家「後、五郎佐wwwww」
光「だりぃwwwwあいつどうしたの?wwww」
家「サルが後でどうにかするって丸め込んだwwww」
光「バロスwwww」
光「そういや、柴田の噂聞いたけどあれどうしたの?wwww」
家「市にバレタwwww後、サルと取り分でもめたwww」
光「あのビッチかwww」
家「でも、長益も信雄も全部知ってるwww」
光「wwwwwww」
光「台本何処まで進んでるの?wwww」
家「北条討伐wwwその後唐入りwwww」
光「地方大名涙目wwww狸と羽柴の本家だけ無傷wwwww」
家「後は、俺が幕府開いて東国抑えて、サルが西国で折半wwwww」
光「うぇっwwwww征夷大将軍、昔からの名目どおりwwwww」
家「うますwwwww」 家「しかし、長久手は傑作だったわwww」
光「八百長wwwwww信雄名演技すぐるwww」
家「鬼武蔵とか生きてても誰も得しないしなwwww池田うざかったしwww」
光「邪魔者だけ排除できたしなwwwww」
家「しかし、よく毛利とか北条とか説得できたよなwwww」
光「利休wwwwwチートすぎwwwwwwでもあいついろいろ知りすぎてて邪魔じゃね?wwww」
家「北条討伐終わったらサルに殺すように言っとくわwwww」
光「ところでさwwwwちょっと相談あるんだけどwww」
家「なんだよwww」
光「山崎の時八百長の予定だったのに、サルに家臣とか普通に殺されたんだよね。
台本書き直したから今度はサル抜きでやろうぜ。」
家「えっ?」 >>730-731
誰が作ったか知らないけどコレ好きw 浅井長政の居城がオダニ城と聞いて織田2城と思ってたわ 「明智光秀の生涯と丹波 福知山」という本を買いに、
遠く福知山まで行ってきました。
アマゾンで売って欲しいです! news.infoseek.co.jp/article/mainichi_20170912k0000m040159000c
明智光秀:密書の原本発見 本能寺の変直後、反信長派へ 「本能寺」室町幕府再興のため…光秀の手紙発見
https://news.infoseek.co.jp/article/20170912_yol_oyt1t50009/
明智光秀(?〜1582年)が織田信長(1534〜82年)を討った1582年(天正10年)の本能寺の変は
室町幕府の再興を目指したクーデターだったことを示す光秀の書状の原本が見つかったと、
三重大の藤田達生教授(日本中近世史)を中心とする調査チームが11日発表した。
書状については東京大史料 編纂 所に写しが保管されているが、今回の発見でクーデター説の内容が裏付けられたとしている。
書状は、岐阜県美濃加茂市の美濃加茂市民ミュージアムが所蔵する「(天正10年)6月12日付
土橋重治宛光秀書状」(縦11・5センチ、横56・7センチ)で、本能寺の変の10日後、反信長派の
土豪・土橋重治に宛てられた。光秀の 花押 (サイン)があることから本人の文書と認められ、
筆跡も本人の可能性が高いという。 美濃加茂でとっくに展示されてた
いまさら発見だのクーデタだの言われても 写しが以前からあって、原本がやっと見つかったというニュースだからな
写す過程で改竄があったかの調査には使えるだろう >>740
密書の原本発見 本能寺の変直後、反信長派へ
https://mainichi.jp/articles/20170912/k00/00m/040/159000c
◆本文
仰せのように今まで音信がありませんでしたが<初信であることの慣用表現>、
上意(将軍)への奔走を命じられたことをお示しいただき、ありがたく存じます。
しかしながら(将軍の)ご入洛の件につきましては既に承諾しています。
そのようにご理解されて、ご奔走されることが肝要です。
一、雑賀衆が当方に味方されることについては、ありがたく存じます。ますますそのように心得られて、相談するべきこと。
一、高野衆・根来衆・雑賀衆が相談され、和泉・河内(ともに大阪府)方面まで出陣されることはもっともなことです。恩賞については当家の家老とそちらが話し合い、後々まで互いに良好な関係が続くように、相談するべきこと。
一、近江(滋賀県)・美濃(岐阜県南部)までことごとく平定することを命じ、それがかないました。ご心配されることはありません。なお使者が口上で申すでしょう。
◆追伸=書状では冒頭にあり
なお、必ず(将軍の)ご入洛のことについては、ご奔走されることが大切です。
詳細は上意(将軍)からご命じになられるということです。
委細につきましては(私からは)申し上げられません。
訳・藤田教授 藤田先生がどういうお立場か忘れたけど
室町幕府再興のためかどうかはこれでは何とも言えないな。 室町幕府再興なんて大義名分で上洛した、でき星大名がいたな。
確かうつけとかいう渾名だった。 >藤田先生がどういうお立場か忘れた
好意的に評すれば、朝日新聞系文化人。
Eテレの低学年向け歴史番組で、秀吉を徹底的に扱き下ろしてるけど、台本を書いたのは藤田と言われても全く違和感がない。
秀吉嫌い。近代の朝鮮併合も秀吉が原因と言っちゃってる『秀吉神話をくつがえす』 (講談社現代新書)人。
秀吉の九州・小田原攻めでも針小棒大の典型のような論理や決めつけで「秀吉は駄目」を連呼。
結論があって、それに都合の良い材料で自説を展開させる「曲学阿世の徒」。
藤田が原本と確認したと言われても… 本能寺の変の前年に亡くなってるよね
やっぱり、妻木煕子の実妹だと思う
美人だったんじゃないかな?
光秀と煕子の結婚の時の逸話にも妹が登場するし
光秀は濃姫といとこ同士だった説があるけど
濃姫の侍女として仕えてたところを信長にみそめられて側室になっていたのでは?
そういう繋がりだと光秀は割と近い親戚だし、信長の厚い信頼と、スピード出世した理由にもなる 谷口研語氏は筒井順慶の東国転封を想定して、
与力大名の解体が原因だったと言ってるね 正親町院ににらまれると必ず殺されるな
主上恐るべし かごめ紋忌部氏で検索したら俺のツィッターが出てきてびっくりしたぞ なんとなくだが自分「では」判断しきれていなかった所はあったに思う
寧ろ周囲の誰かによる「讒言」でそうなった
「あれ?もしかして本能寺って今手薄っすよね?」とか 義輝、義昭と足利将軍が10年経たない間に廃されてるわけで、
同じことが信長に起きたとしてもそう驚くにはあたらない 室町幕府再興という一次史料が発見された以上
それを否定する裏付けがないのであれば
室町幕府再興が謀反の理由になるでしょう 雑賀衆を味方につけるために
光秀が自分は将軍と同盟していると言ってる可能性も大
本能寺の変の前から光秀が義昭を擁していたならともかく
そもそも義昭は毛利にいたんだし 個人的な意見だけど、平手政秀が自害したのは斎藤道三との外交で面目が立たなかったことが原因だと思う。
命をかけて信長を婿養子に勧めて婚姻を成立させたにも関わらず、信長を大うつけに育ててしまったことへの絶望
同じように、光秀も長宗我部との外交で面目が丸つぶれになって信長に失望、見切りをつけたんだよきっと うつけと言っても平手が腹切るほどのうつけかどうかは… >>762
信長は斎藤道三の婿ではあるけど道三と養子縁組はしていないので
「婿養子(これは妻の親と養子縁組して妻の実家を継ぐ場合)」ではない
そもそも信長が大うつけで道三に対して面目ないと思うならば婚約解消が先であって
平手が自殺したところで信長と濃姫の婚儀は滞りなく行われているし >>764
1548 平手政秀が信長と濃姫の婚姻を取り纏める
1549 濃姫が信長に嫁ぐ
1549 斎藤道三と信長が正徳寺で会見
1553 平手政秀が自害
平手が自殺した時、濃姫は既に信長に嫁いでるんだが。婚約解消ってなんぞ? 普通に平手の息子と揉めたのを収めるためじゃね?
信秀が生きてたら何とかなったかもしれないけど、信秀が死んで信長は当主になってたし >>765
なら尚更
道三は道長に直接会ってその人となりを認め
可愛がっている(後に美濃譲り状を出すほどに)
のに平出が切腹するはずもない >>767
美濃譲り状は1556年に道三が死ぬ間際に出したもの。
平手政秀が自害したのはその3年前
だからそれを平手政秀が知っている理由がない。
信長の人となりを認めたエピソードで有名なのが、
「我が子たちはあのうつけ(信長)の門前に馬をつなぐようになる」だけど、
これは家臣に語っただけだからやはり平手政秀は知る由もない。 >>768
美濃譲り状は「のちに」と書いてあるだろw
斎藤道三と信長の対面は平出が生きてるときじゃないか
対面を終えた道三は「俺の子や孫はあのうつけに仕えることになるだろう」
と信長を高く評価した >>765
斎藤道三が信長は大うつけだと判断したなら
同盟解消して濃姫を美濃へ連れ帰るだろう
尾張が持つかも危ないし娘の命が危ないし >>770
うん、斎藤道三は信長を大うつけだと判断していないし、誰もそんな書き込みしてないね。
>>769
>「我が子たちはあのうつけ(信長)の門前に馬をつなぐようになる」だけど、
これは家臣に語っただけだからやはり平手政秀は知る由もない。
ここ読んだ? >>772
>平手政秀が自害したのは斎藤道三との外交で
>面目が立たなかったことが原因だと思う。
>命をかけて信長を婿養子に勧めて婚姻を成立させたにも関わらず、
>信長を大うつけに育ててしまったことへの絶望
これの根拠は?
平手が斎藤道三との外交で失敗したと思ったと
書いてある一次史料を上げてよ 濃姫は義龍が殺したんだよ!
道三の娘だから憎かったんだろ? >>776
義龍は道三の実子説もあるからなあ。
義龍は道三と道三の正室腹の子で弟の孫四郎は殺したが
さすがに非戦闘要員の姉妹まで殺すとは思えない。
姉妹たちはそれぞれ他家へ嫁いでいたし。 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
8GD6A 濃姫は親父の殺害にショックを受けて自殺したか、上記に書いてある通り義龍に殺されたか
どっちかじゃないか? >>779
義龍が織田信長が寝泊まりする織田の城の奥御殿に忍びを遣わして
その正室を殺したらタダじゃ済まんだろうw
ただし斎藤道三死後信長が濃姫を離縁して義龍に返したというのならば
その限りではないが 織田信長が構想していた海外進出は、どんなものだったのか?
その1. 第2のイエズス会≠フ翼賛を得た壮大な征服計画だった!
キリスト千年王国を叶えるべく2000隻を超える膨大な 数の軍船を建造し、
明朝中国を手始めにインド、西アジア までも視野の内に入れたものだった。
信長の構想は、一次資料たるイエズス会の『1582年日本年報追加』に、
そしてまた、ほぼ同文が『日本史』に見える。引いてみよう。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/t-saito_world/docum_03_world/w01_nobunaga_basic/12a_nobu-kaigai-sinshutu.html
信長は毛利を平定し、日本六十六カ国の絶対君主となった暁には、
一大艦隊を編成してシナを武力で征服し、諸国を自らの子息たちに
分ち与える考え(計画)であった。(括弧内は「年報追加」における文言)
秀吉は、関白に任官された天正13年(1585年)、早くも唐入りを表明していたことが、
家臣の一柳末安へ宛てた朱印状で確認できる。
それには、「秀吉、日本国は申すに及ばず、唐国迄仰せ附けられ候心に候歟」とある。
本能寺の変からわずか3年後、九州、関東、東北が未だ服属していない段階であるにもかかわらず、だ。 すなわち千年王国の君主、いわば神軍の長、大天使ミカエルの化身として後継キリストに
擬したデウスの剣こそ 「我、信長なり」 と段々と神学論にのめり込んだのだろう。
信長は日本の伝統的秩序に囚われずこれ等を破壊し、世界の大天使ミカエルを目指した。
秀吉や守旧派、光秀、家康、日本史好きでは到底理解できず、信長の真似事をするのが精々、
秀吉は朝鮮出兵で失敗し、家康は死後「権現様」として日光に祀られた。 明智光秀が率いていたのは足利幕府軍な訳で、
織田軍には、足利幕府軍として参加していたにしか過ぎない。
ただ、斉藤道三正室、小見の方は叔母さん、
その娘、帰蝶は従兄妹だし、信長の生母、
土田御前は明智家の家臣の娘。
木曽川上流の明智家と下流の港、津島の代官の織田家は、
ビジネスで交流があったのは間違いないだろうし、
身内に近い存在だったのは間違いないだろう。
斉藤道三失脚後、長山城を攻め落とされた後、
明智光秀の祖父、明智光継は数年生きていた様で、
そのつてをつたって若狭武田氏を頼って落ち延びていったのは想像できる。
その後に幕府でどういう役割をこなして幕府軍をまとめる存在になって行ったのか。
お手紙将軍の足利義昭やら、有職故事に通じる光秀や、
膨大な文書を処理していた幕府にいて、史料が残っていないと言う事はあるまい。
明智光秀の半生が謎だという事が謎であり、
それなりのところを当たれば、膨大な史料が発見される可能性が高いと言えるだろう。 若狭武田氏とは足利義昭の姉婿が武田義統であり、
その縁でつながっている様だ・ >>783
明智軍記にある通り光秀が明智城主・明智光安の嫡男で
道三正室・小見の方の甥、濃姫の従弟といういいところの坊ちゃんなら
三好三人衆から命を狙われている将軍就任前の足利義昭のお供でをして
田舎を放浪したりしないだろ
光秀は細川藤孝の中間で藤孝の命令で義昭に付けられたんだし >>782
信長は天下人として失敗しているんだが
秀吉や家康は成功してるんだが >>785
放浪してたり朝倉仕官した話は
本能寺の変から100年後くらいに書かれた「明智軍記」に載っている話で信憑性無いよ
最近は研究者の人は否定的みたいだ
足軽というのも、役人名簿に後日付け足して書かれているのが疑われてる
細川藤孝の中間はよくわからないけど、本能寺の変後に書かれた記録で確か敵対してた人の記録だったような?
没落してた家柄だけど
元々はいいとこのお坊ちゃんだったと思う
教養あったという事は家柄が良かったという事に等しいし
信長の家来になる前に、京都の幕府奉公衆の屋敷が立ち並ぶ場所に屋敷があった
公家がお正月参りをした日記にある
足利義昭が京都に入る時、信長は光秀の屋敷を宿所としてたくらいだから大きい屋敷だったはず
先祖代々の屋敷だったのでは? ちなみに滋賀・福井関連の歴史上の人物
大友皇子……大海人皇子との壬申の乱に敗れ自害
木曽義仲……源義経との戦いに敗れ、近江の瀬田で泥田で動けなくなったところを
矢が深く貫通し無念の最後
新田義貞……足利尊氏との戦いに敗れ、越前にて討ち死に
朝倉義景…織田信長との戦いに敗れ、越前一乗谷にて自害
明智光秀……山崎の合戦に敗れ、百姓に竹槍で刺され落命
柴田勝家……秀吉との戦いに敗れ、越前北の庄にて自害
石田三成……関ヶ原の合戦に敗れ斬首
井伊直弼……桜田門にて浪士達の襲撃を受け、最後は薩摩脱藩浪士により首を落とされる。
なんか呪われてるといえば呪われてるような気もするし。光秀謀反の原因とかも、やれ朝廷がどう
怨恨がどういう前に、こういう角度から見たら面白いかもな >>789
滋賀関連で憤死したやつの代表である信長をシレッと忘れてんぞ >>787
光秀が京都に大きな先祖代々の邸を構えていたなら
相応の大名だったと思うがそういった史料が何もない
朝倉仕官は史実なのにその間、京都の馬鹿でかい屋敷がどうしてた?
だいたい光秀が京都に大屋敷を構える大名なら
そこへ足利義昭を迎え入れればよいのであって
田舎の越前まで義昭を連れて放浪する意味がない >>794
朝倉士官が史実って何の資料にあるの?
初出は本能寺の変から100年後くらいの「明智軍記」では?
細川家記の「綿考輯録」も本能寺の変から200年後くらいで明智軍記を参考にしてるし
当時書かれた「言継卿記」によれば
永禄13年(元亀元年)正月には光秀の屋敷は幕府奉公衆や公家の邸宅がある一等地に屋敷があったのは間違いないよ
信長の京都滞在中、明智の屋敷を宿所にしてたとも記述がある
光秀自身がこの時、どんな地位だったかわからないけど
土岐明智氏は元々幕府奉公衆だったから
そんな豪華な京屋敷があるのは先祖代々のものなのかな?と思っただけ
足利義昭は命狙われてたから信長無しでは京都に入れなかったのでしょう?
単に家屋の設備が無いからとかでなく >>796
「言継卿記」2月30日
信長が上洛し、言継と一緒に光秀のところへ行った。
「言継卿記」7月5日
信長が上洛し、義昭のところへ参上。次に光秀のところへ行った。
>光秀の屋敷は幕府奉公衆や公家の邸宅がある一等地に屋敷があったのは間違いないよ
この記述はどこにある? >>796
永禄11年 信長が足利義昭を奉じて上洛
永禄12年 信長、足利義昭のために二条御所を造営
永禄13年 この頃、光秀の屋敷が洛中にあった
織田信長は主にこの頃岐阜城にいたため
自分が上洛した際の屋敷を洛中に作り
留守居として光秀を置いていただけともとれるし
光秀が自腹で先祖代々の豪華な京屋敷を所持していた
とまでは読めない >>799
私の見た書き下し文は
「言継卿記」2月30日の記述は
「信長、岐阜城より上洛し、明智邸を宿所となして泊まり、三月一日に禁裏へ伺候」
「言継卿記」7月5日の記述は
「七月四日に上洛し、七日まで、信長は近習四、五騎、徒士三十人ばかりと共に、明智邸に滞在した。」
となってて、明智邸の原文は「明智十兵衛所」
これは信長の屋敷とかでなく、明智光秀の私邸という意味らしいよ
光秀はこの2年後に坂本城を建てる
安土城の次に豪勢な城だとフロイスは言ってたけど
光秀は裕福だったのでは?と主張してる人もいるよね あと、「言継卿記」の永禄13年の年頭挨拶の記述は「路次次第」(行った道順)で記されていて
わかりやすいの見つからなかったけど
「十三年一月廿六日、
甲午、雨降、自未刻晴、天一ヽヽ、○未下刻(14:30頃)より奉公衆方、年頭之禮に罷向、路次次第、
竹内治部 少輔(濃州へ下向云々)、三淵大和守、同彌四郎、一色式部少輔、曽我兵庫頭(助乗)、
明智十兵衛(濃州へ下向云々)、摂津守(下京)、大和治部少輔、朽木刑部少輔(酒之)、竹田法印、同治部卿、荒川與三、三福寺、清和院、
眞下式部少輔、疋田彌九郎(父入 道出合)、松林院等也、○今日當番代倉部參了、」
と記されてるみたいです
光秀以外の名前は御供衆や御部屋衆などだそうです >>800
上洛時の為に自分の屋敷を作ったなら、この年の2回だけでなくもっと使うだろうし
足利義昭の側近達が多く住む所に信長が宿所を建てるなど絶対無いと思う
信長はこの2回の前後は妙覚寺、相国寺、本能寺などを使ってるようだ(ほとんどが妙覚寺)
信長が自分の上洛時の為に作った二条御新造は誠仁親王に献上するまで何度も使っている
戦もしてて忙しいだろうにかなり頻繁に上洛してるのでびっくりしたよ >>804
足利義昭自体、信長が上洛して将軍職に就けたものだし
将軍御所も焼失して跡形もなかったことから信長が新造している
義昭付き家臣たちの屋敷も信長の援助だろう
(将軍御所がないのに側近たちは皆洛中の先祖代々の豪邸に住んでいたと妄想してる?)
で、光秀が信長家臣になったのはいつだと思ってる?
光秀は信長直臣になる以前、幕府直臣ではなく幕府直臣である細川藤孝の中間だよね これはみんな思い込みだが明智光秀自身は信長の家臣にはなっていなかった。幕府同盟軍みたいな形で信長に組み込まれた。 >>795
禄以外にもいろいろ援助してもらっていたんじゃね?
本能寺挟んでいるからなかったことにされている可能性もある
その細川も実際は傍流の傍流で出自に関して結構怪しいという噂もあるね… >>806
光秀が没落した足利義昭に同行もせずに
信長のもとで禄を貰い自分だけ豪勢に暮らしていたのに 幕府同盟軍も何もない
没落した義昭を自分のところにかくまってた毛利を見習え >>809
光秀は義昭が都落ちするかなり前に信長に鞍替えしてるよ
不信ではあるもののまだ義昭を見放してないような時
細川は、信長家臣となる時、手土産に義昭裏切ってますよーと告げ口したと思う(初期の書状のやりとりがそんな感じする)
その後、信長は確信を持って義昭を追放したと思う
同行しなかったのはその後で幕臣やめて光秀臣下になった伊勢氏とか 明智光秀は縁者に何人もの連歌師がいたらしい
その素養があるから「ときは今、天が下しる五月哉」もよめた とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
FDN また、新説とは別に、研究の結果、人物の評価が一変しつつある例もある。
その代表は、誰あろう、日本史上最大のスーパースター・織田信長だ。
南蛮趣味の甲冑に身を包んで自ら「第六天魔王」と称し、古臭い常識を躊躇なく破壊する戦国の革命児。
長らく、そう語られてきた信長だが、近年の研究成果から垣間見える人物像は、それとはかけ離れたものだ。
「信長は、朝廷や寺社など、既存の権威に対して非常に気を遣う人だったことが分かっています。
皇居の修理や皇太子の元服費用を負担し、困窮する公家たちの借金をチャラにしたりと、常に尊重していますね。
一方、対立したといわれる寺社勢力に関しても、既得権益を守るために一揆を主導して歯向かった本願寺との戦いが
有名になっただけで、他の寺社はむしろ手厚く保護し、人心の安定に役立てています」(前同)
悪名高い比叡山延暦寺の焼き討ちにも、実は信長自身は慎重だったという。
「敵対勢力をかくまったということで火はかけましたが、よく言う抜き打ちでの皆殺しではなく、1年以上前に予告し、
威嚇程度にいくつかの建物を焼いただけ。このときは、むしろ家臣の明智光秀のほうがイケイケだったようです」(前同)
比叡山焼き討ち後、その所領の多くは“実行犯”光秀のものとなったが、光秀は延暦寺に残された領地まで横領し、
信長に「返してあげなさい」と命じられたりもしている。
「クレイジーな主君についていけず、本能寺で反旗を翻した“良識の人”として描かれることも多い光秀ですが、
実はかなりしたたかでクセのある人物だったようです。2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』は、
こうした最新の研究を反映しているらしく、楽しみですね」(歴史専門誌記者)
https://news.infoseek.co.jp/article/taishu_60236/?p=1 しょせん凡人にはわからない天才だよ信長は
信長より俺のほうが偉いって凡人は必ず現れるけどねw 別に俺と信長は比較対象でも何でもないし
むしろ俺と比較対象になるほど信長の小物感がよくわかるわwww 光秀は細川親子や筒井順慶の動向を見誤ったし、秀吉が毛利と電撃和解することも誤算だった
それにしても柴田勝家・織田信雄・徳川家康の連合と戦っても勝てるはずはないのに、なにゆえ本能寺の変を起こしたのか
家康あたりが事前に支持を与えていないと動かなかった気がするよ 黒田官兵衛の神道大麻の販売
今は医療大麻オイルとして一部成分が認められてます
https://plaza.rakuten.co.jp/denkyupikaso/diary/201806090001/
黒田のインテリさは山崎の戦いで毛利の旗だけをすぐさま借りて旗揚げて、毛利を味方につけたと明智を錯覚させ、3時間で戦いを終わらせたところにあります
今は娯楽として販売されてます
ちなみに日銀にもなれば何もしなくてもお金が入ってくるんですよ 森蘭丸が主犯
動機は信長との痴話げんかによる無理心中 信長が家康を暗殺なんて昔からあるトンデモ説の一つであって
あほらしすぎるから言う人がいなくなっていたんだよ 漫画アプリで信長を殺した男を読んだ
笑うくらい明智がイケメンの正義の人で秀吉が性格の悪いサルに描かれてた
引くわw >>820
最近では信長と家康の仲は言われている程じゃなかったという
見方も出てきているから真面目に検証してみる価値はある 家康が一番怪しいな
どのみち信長体制は限界に来てたと思うけど なんか黒幕説の容疑者たちって光秀被害者の会員ばかりな気がする
正親町天皇
→比叡山焼き討ち後に朝廷の廬山寺や曼殊院など三門跡の領地を横領されて 信長に抗議したら 勅使を買収
足利義昭
上記の件で光秀を制止したが、無視された挙げ句東寺の下久世庄の一職にしたのに金を払わず、挙げ句に地子銭止めたら、信長に叱責させた
吉田兼見
吉田山の吉田神社本山を光秀の進言で宿舎にされかけた 黒幕がいてもいなくても光秀が信長をころしたかったのは変わらない 明智が正義の人だって・・
正義の人が百姓に殺されるなんて
凄惨で馬鹿丸出しな死に様する
訳がないじゃん 勝ってるなら、反乱や謀反ではないだろう。挙兵の時期から。豊臣が怪しいな。その範疇。 安部龍太郎の説
ポルトガルが国破れてスペインに併合されたのが関係している
大きくなったスペインの後ろ盾でザビエルが明国征服に出兵しろと信長に要求、断られた後本能寺
キリシタン大名を動員しようとしたが、一向一揆を知っている秀吉に追っ払われてしまった
当時は蒸気船発明以前でく、欧州やインドから中国まで大兵力を送る手段がなかった 明智光秀は足利幕府の家臣団を束ねてる訳で、
やはり奉公衆だったんじゃないのか??
無名の浪人がそんな事が出来ますかね??
伊勢氏なんか、名門中の名門だからな。
そんな名家が、光秀と心中する理由は?? 伊勢貞興の子孫は代々徳川に遣えた。
斎藤利三の娘は春日の局。
やはり、足利幕府の奉公衆と言う形で、
徳川家とつながってくるのではないだろうか。 >>833
絶対に光秀の子孫も徳川幕府に仕えていたと思うんだよね
だけど素性を隠して仕えてると思う 光秀に人望が無かったというより
なんだかんだ信長に結構人望があったということかも? 武田攻めの時 天皇から快川国師を傷つけないように言われていたのに恵林寺の山門で
他の僧侶と共に焼き殺した。土岐源氏の英雄なのだが明智光秀も土岐源氏。 >>837
これは大きな動機の一つだと思う
信長って仏教徒をたくさん殺してるよね
だから、どこだかの寺で見つかった当時の書物に(信長を打った)光秀は英雄だと書き残されているんだと思う 比叡山は光秀が首謀者なんだが。
鎌倉時代から土岐家と比叡山はバトルを繰り返していたから、
相当な恨みがあったらしい。 >>838
信長はすべての仏教と仲悪かったわけじゃないぞ
安土城内に総見寺を建てるくらい臨済宗とは仲良しだし
京へ行ったときの定宿にしていた本能寺は日蓮宗で超仲良しだった
快川は臨済宗の僧で本来信長と宗教的には合致していたのだが
甲斐武田家菩提寺の住職で残党を匿ったために焼き討ちされた
もっとも信長は武田勝頼の首が得られれば引き上げたため
甲斐に残って残党狩りして焼き討ちしたのは織田信忠だが 快川は記録が古いほど火定とされているから
焼殺とも焼き討ちとも厳密には違う
火定や水定のように(仏教的に)正当な理由で
自ら涅槃に向かう行為で死んだ場合とそれ以外で死んだ場合では
過去帳の書き方もかわる
言い換えればむやみに使わん用語 >>840
確か切腹した平手のために政秀寺も造っていますね。 >>841
織田信忠が甲斐武田家菩提寺・恵林寺を焼き討ちしたのは事実だろ
快川が燃え盛る三門の上に自ら立ち「火もまた涼し」と偈を唱えながら
自ら火中に身を投じたというのは伝説に近く後世の脚色とされる 火定→妙心寺、向嶽寺、恵林寺(史料、過去帳、位牌裏書すべて)
焼討→恵林寺(江戸期以降史料)
焼死→向嶽寺(〃)
てな感じだから火定でいいんじゃね?
確かに信忠は焼き討ちをしたがそれが直接の死因とするのは
火定というしっかりとした記録がある以上厳しいぞ
まあ焼き討ちされたとする方が後世の倫理的には都合がいいのだろうけどな >>847
司馬遼太郎の「国盗り物語」はそんな感じの話になってるが
濃姫も本能寺当時は生きてたところで48歳だからな
光秀と引き裂かれた14歳の時に美少女だったとしても
今更54歳の光秀と48歳の濃姫が燃え上がるのかよ >>848
今でも老人ホームで老人同士の恋が生まれているぞ >>849
配偶者に先立たれ高齢になってから初めて出会ったならだが
光秀と濃姫など10代の頃から想い合っていた設定で
なぜ50前後になってからなんだよ >>842
本能寺は早くから種子島に布教しておりその関係から鉄砲・火薬の入手につき信長と繋がったんじゃないか。 >>851
信長は堺の商人から鉄砲を買い付けていた
千利休は鉄砲商人でもあった(利休から信長が鉄砲を買った書状が残る)
本能寺が鉄砲広めたわけじゃない 明智にとっては信長は武士の師範だ。反乱のような迫害心理より、中は悪くないからやりあうんだ
。日本の歴史は日本に売れないな。世界史
の文脈に引用されているはずだ。 明智にとっては信長は武士の師範だ。反乱のような迫害心理より、仲は悪くないからやりあうんだ
。日本の歴史は日本に売れないな。世界史
の文脈に引用されているはずだ。 >>847
多分本能寺の時点で死んでるか、織田家にいないよ
お濃は 最近出た本を見てわかるが、藤田達生ってまだ、義昭黒幕説を諦めていないんだな
見苦しい 藤田は秀吉関連でも、結論ありきで状況証拠や妄想で決めつけているからな
一度決めたらなかなか軌道修正なんかできんのだろう Amazonに藤田の説を未だに信じてるヤツがいるが、
細川や筒井を説得するのになぜ、義昭の名を出さないのか、これで終わりだよな 家康暗殺の司令に悩んだ光秀が、
信長殺しを実行した。
筒井順慶は落ち延びる家康を
奈良領内で待ち伏せる役だったのだろう。
それで家康は筒井順慶に庇護を求めず、
甲賀伊賀ルートで落ち延びて行った。 >>1
パワハラ上司に対する逆襲じゃないの?
まあ今の日本だと、パワハラ上司に対しては最悪会社を辞めるという選択肢も
あるけど、
明智光秀の場合、辞めるという選択肢は取れないだろう?
となると殺すしか選択肢がないわけで、 >>859
自称子孫説に影響されたのか知らんが、家康暗殺なんて非現実的
落ち延びる家康を、って明智は失敗する前提なの? 信長の寝たばこで本能寺が全焼して
消火に駆け付けた明智軍が犯人を誤射したら信長だったんだよ 明智光秀「俺って本能寺の変を
起こして凄いでしょ?」
こんなん自慢していて
明智光秀自身もファンも痛い
アホにしか見えないわ! >>860
光秀は生涯に何度もコロコロと主君を変えており辞めると言う手はもちろんあったよ
主君の足利義昭が信長に追放されたとき
直臣の光秀はこれについていくという方法が妥当だったのに
信長の直臣になることを自ら志願して旧主君の義昭を見捨てたし
信長を裏切ろうとした荒木村重の説得に行ったとき一緒に挙兵することもできたのに
村重の息子に嫁いでいた娘だけ取り返して荒木と手切れし信長のところへ帰ったし >>861
光秀が打ち逃す可能性を考慮して、筒井順慶を配備していたし、
実際、伊賀越え前に、明智領に駆け込もうとしていたのを見ても、
明智は家康暗殺を裏切った、
筒井は引き続き家康暗殺の任についていると言う判断だったのだろう。 >>866
どうしても謀略にこだわりたいらしいが、信長が家康を殺したいのなら安土でやればいい
なぜ、安土で殺さないの? 徳川家康饗応役の光秀を信長が激怒した一件がある。
この激怒した原因が、今も不明だが、
家康に毒を盛って等で、暗殺する事にしくじったからと考えれば理解できる。
それで饗応役にも関わらず、途中解任、
後は兵による実力行使を命じられたのだろう。
当日の明智軍の兵士達も、
家康を殺る為に行軍していると思っていた事が判っているからな。 家康を安土で仕留め損ねた事が、
筒井を配備する用意周到さに結びついたのだろう。 あとさあ、謀略にこだわるとか言われても困るんだよねえ。
本能寺の変自体が謀略なんだから。 >>871
そんなお前にオススメの本がある
鈴木眞哉・藤本正行「新版 信長は謀略で殺されたのか」(洋泉社歴史新書)
この本を読んでもまだ、謀略だと主張したいのなら、もう仕方がない 部下に叛かれない、そんな当たり前のことも出来ないバカ信長。 >>867
仮に家康暗殺計画があったとしてきめたのがいつだったかで
変わってくるんじゃね?
もし安土より後に決めたのならやりようもない 浜松の家康には、関東の北条氏政の牽制として東海道を守って貰わなければいけないので、信長が安土で自ら膳を運んで歓待した家康&梅雪を殺すことはありえない。
四国説が最有力。
長曾我部の恭順の意を無視して、家臣団に人気の高い三七信孝@大坂城に成敗させようとしたから、
光秀が信孝大坂出陣の前日、その出鼻を挫くように本能寺を襲ってる。
つまり四国攻めがなければ(長曾我部安堵なら)本能寺の変は起こらなかった➡それが原因というこつ。 北條が敵対するとは限らないだろ
約束を自らは破らない信長が娘をやると申し出た以上
北條を敵対前提で考察するのは無理があるんじゃね まあ松姫が信忠の元にくるなどの前提が必要とはいえ
北条の方が自然と血縁関係になるから使えるんだよな…
武田姉妹をはさめば信忠と氏直は叔父甥関係、娘を嫁がせれば
義兄弟と二重の濃い血縁関係になる 中国四国攻略を巡っては、織田家中で、阿波の【三好&秀吉】vs土佐の【長曾我部&明智】の争いが先鋭化、
輝元に身を寄せていた元主君・義昭の密命を受けて、光秀が本能寺で丸腰の信長・信忠父子を討ち、長曾我部と【三好&秀吉】を挟み撃ちし、義昭を京都に呼び戻して将軍職に就け、自らは管領として補佐役に回ろうとした、という四国説&義昭黒幕説の混合説もあるyo! >>879
ハイブリッド説面白いw
たしかに、かつて義昭に仕えていた細川藤孝・忠興(三女ガラシャの婿)父子が味方を断った途端に、光秀が急に勢いをなくしたのも、荒唐無稽に見える義昭黒幕説がなかなか消えない理由だろう。
かと言って、四国説だけでは弱すぎる。
藤孝は義昭なんかとっくに見限っていたろうし、光秀も義昭を傀儡として利用価値しか認めていなかっただろう。
フロイスの記述を読むと、人を欺くのが凄く得意な光秀は、自分が将軍になるより、ナンバー2として天下の実権を握った方が得だと考えるタイプのように思われる。
まず信長を討ち、長曾我部と組んで最大のライバル・秀吉を討ち、(元就の遺言で中央に野心がない)毛利とは和睦して義昭を都に呼び戻して将軍職に復帰させ、
柴田・丹羽・滝川など織田の譜代家臣団は臣従しなければ(信長が上洛しない朝倉義景に対してそうしたように)将軍義昭の逆賊として討つつもりだったのだろう。 細川・上杉始め、諸大名が光秀に全く味方しなかったのは、もちろん信長が生きていた場合の報復を恐れてのことだろうが、
それに加え(どうせまた低能な義昭を担ぐ気だろ?それじゃ戦国乱世に逆戻りジャンか!)という閉塞感があってのことではニャアか? >>880
義昭は信長が死んだ時点でも現任の将軍だよ >>880 >>881 >>882
そうなると、義昭黒幕説というより義昭利用説だぬ >>880
まぁ、四国説+義昭再利用 のハイブリッドが妥当な線かもな
自称子孫のトンデモ説はないわw というか家康の暗殺云々は明智氏が本を出したことでメジャーに
なっただけのことでそれ以前から指摘されることはあったんだよ
だから書簡研究が再び盛んになったこともあって信長と家康の仲について
再検証がなされていたりもする >>880 >>882
光秀だけでなく、山崎・賤ヶ岳を制した秀吉も、義昭を利用しようとしていたからな。
養子にしてもらって、将軍足利秀吉として大坂幕府を開こうとしていた(後陽成天皇のの大坂遷都構想まであった)。
義昭が断ったから、仕方なく武家関白・豊臣秀吉になっただけで。
怨恨説はじめ、本能寺の変に関してはいろいろな憶測は可能だが、結局は、大坂城にいる信孝の四国出陣式の当日、信長・信忠父子が丸腰で揃った(もう二度とないだろう)千載一遇のチャンスを逸するわけにはいかなかったことに尽きる。
しかし…信長や同僚家臣たちの手前、事前準備や根回しが不可能だったことが光秀の運命を狂わせた。すなわち、
1.頼りにしていた足利幕府元重臣細川藤孝・上杉景勝が、織田方の報復を恐れて味方を断った。
2.光秀の誠心誠意の仲介で信長への臣従を決めた肝心の長曾我部が、まさかの展開に戸惑って動けなかった(光秀も事前に計画を漏らせなかったため)。
3.(前年に長浜から播磨・但馬への国替えで、姫路を本拠にしていた)秀吉が、電光石火で備中高松から引き返してきた。 >>886
そこで本能寺を襲えば、ビンゴ!だもんねw
積年の屈辱や怨恨、長曾我部、など色々な原因に、出来心が加わってやっちゃったんだろうね >>1
陰謀論は否定したほうが良い。アカデミックの世界では、陰謀論を言うとバカにされる。
というのは理由があって、明智光秀の前後の行動に一貫性が全くないから。
非常に場当たり的というか。。。
明智光秀は、本能寺の変の時に、京都を完全封鎖してなかった。
だから、織田家の家督を継承していた織田信忠は、その気があれば逃げられた。
光秀の立場からしたら、信忠を取り逃したら、クーデターが失敗になるので、
普通ならば、京都を完全封鎖しないといけないのに、それをしてなかった。
また、明智光秀の本能寺の変直後で残っている数少ない書状などで、
場当たり的な対応が目立っている。 明智光秀は頭良いけど、一方で平気で人を裏切るタイプ。
前に細川藤孝に仕えていたこともあるが、藤孝の使者として織田信長に会ったら
そのまま、あっさり信長に仕官して、藤孝には返事もよこさなかった。
そういう不義理なことを平気でするタイプで、上昇志向も強い。
本能寺の変も、突発的なクーデーターで、目の前のチャンスが訪れたので、
つい、出来心でやっちまったクーデーター。 安土の信長だけでなく、岐阜の信忠まで…鴨がネギを背負って歩いてたわけだからねw
最高の獲物を前にして、ついハンターとしての狩猟本能が出ちゃったんだろうw 由緒正しき土岐(岐阜の語源)源氏の明智と、成り上がりの尾張守護代(留守番家老)の信長では家格が違うし、
国盗りゲーム真っ最中の戦国乱世という時代背景、社会全体を覆っていた混沌とした空気も見逃せない。
9歳年下の元足軽大将・羽柴秀吉の配下で、毛利攻めに加わるよう命令されて、鬼と出るか蛇と出るかの一発勝負に出たんだろう
【時(土岐源氏)は今 雨が下しる(天が「下知」る=天下に号令をかける) 五月かな】
「賽は投げられた」光秀は、亀山城を(西ではなく)東に向かい、桂川(ルビコン川)を渡った…orz (信長の家臣までは、まぁよい。でも秀吉の家臣扱い...絶対に許せん!)光秀、心の声 従来、信長が討たれた元本能寺は、四条堀川の東北、東西1丁(109m)×南北2丁(218m)で、
現在の徳川二条城の大手門に面した堀川通りの1丁東、油小路〜西洞院までの東西1丁(109m)、
八坂神社から続く四条通りの一丁北、錦小路〜(1丁)〜蛸薬師〜(1丁)〜六角通りまでの2丁分(218m)。
南半分は元・本能寺の堂塔伽藍、北半分に信長の書院や奥表御殿を配置して、周囲を水濠で囲んでいたとされてきたが、
去年2018年、マンション建て替え工事の際、北半分を発掘調査した結果、建物の痕跡はなく、畑だったことが判明。
つまり蛸薬師〜錦小路の南半分1丁四方に、信長の書院も収まっており、北半分の畑に光秀は大軍を展開し、信長を無防備に近い背後から襲ったと見られることが判った。
https://www.sankei.com/west/photos/180120/wst1801200078-p2.html >>885
信長に隠れて織田と武田の決裂工作するぐらいだから
(謙信からの打診もあったのかもしれん、書簡あるぐらいだし)
実際は言われている程の仲じゃなかったのかもな… それがバレて暗殺方向だった可能性も否定できないわけか…
もし信長がそれ知っていての安土のアレだと考えるとまじ恐ろしいな
人間本気で怒ると罵倒とか暴力とかじゃなく笑顔で接するもんらしい >>814
1年前のレスですがこの逆説は信憑性があるのですか >>885
自称子孫の珍説は、全く鳴かず飛ばずのスカだったな >>895
河尻死んじゃって詳細がわからなくなってしまっているけど
織田方が武田と徳川のことについてどこまで情報をつかんでいたかで
変わってくることもあるんだっけか
そういえば静岡県の郷土史家が機関誌で河尻(織田)から発給された書状が
発見されたりそういう話があるのは県内における武田支配分内でも徳川の影響が
小さいエリアに集中する傾向が見受けられることを疑問指摘していた なぜ明智が信長に謀反起こしたか俺っち知ってるよ
実際心のタイムリープして当日の朝、京で見てきたからね
凄かったよ水色の旗の数が、そこらじゅうにあんの
そいや信忠逃げればいいじゃんとかいうけど、信忠の家来にスパイいたから
無理だったんだよね、むしろ信長囲めたのもそのスパイによるところが大きかった
京の鷹司家のあお >>904
やっぱり身分の低い者をたくさん雇い過ぎたな なんとかのおお返しとかもう絶対やん知ってたやろみたいなwww
これタブーなのか知らんけど絶対に語られないよなwwww 侵略や虐殺、人権弾圧をしてはいけないことは子供でもわかる。そんなことをする人は、いささか社会人としての常識に欠けるのではないか? >>910
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', `'' ''' ´ l | お前それ戦国時代でも同じ事言えんの?
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東部の裾野市では当時から信貞は甲斐善光寺へ向かう途中に
家康に殺されたと伝わっているそうだしキナ臭いね そもそも如何に有能とはいえ中途採用の外様である光秀を重臣筆頭にした信長が悪い
同じく中途採用外様の荒木を出世させその後謀反起こされて痛い目に遭ったことを忘れたのかとか >>914
秀吉は中途採用になるんかな?
信長に仕える前に松下に仕えているし。 2020年の大河ドラマの主人公は、明智光秀。その生涯は、多くの謎に包まれている――。
●美濃源氏の名門・土岐氏の一族出身だった!?
●将軍になる前の足利義昭に仕えた足軽衆の一人!?
●織田信長の正室・帰蝶(濃姫)とは縁戚関係だった!?
●比叡山焼討ちで率先して、なで斬りを行なった!?
●行政官僚としては優秀だったが、戦さ下手だった!?
●ルイス・フロイスからの評価が辛辣だった理由は?
●戦さに次ぐ戦さによって、過労で倒れていた!?
●本能寺の変を起こした動機は、書状に書いてある!?
最新研究を元に黒鉄ヒロシ先生が、漫画で"一筆両断"!
織田信長の史料としてよく知られている『信長公記』に対抗して、著者独特の語り口で、縦横無尽に明智光秀を描く、まさに"光秀公記"というべき作品。 >>915
秀吉は中途採用といっても20代前半から信長のところにいたからなあ
40過ぎてから中途採用の光秀は当時の平均年齢から言えば
とっくに初老の域に入ってからの主君替えだし >>918
>黒鉄ヒロシ先生
>黒鉄ヒロシ先生
>黒鉄ヒロシ先生 >>916
秀吉は尾張出身だし下っ端からの叩き上げだから外様ではないと思うな >>922
親の代はともかく(信長だって親の代まで斯波氏の家臣であったため)
丹羽長秀本人は15歳の元服当時から織田信長にしか仕えたことがなく
外様ではないだろう 濃尾平野から中山道への出入り口(要衝)土岐は岐阜の語源だからね 岐阜は「土岐の高台」という意味か…沢彦和尚GJ!
ちなみに、
阜の十を取り除いた上半分は、何かが上下に折り重なってる様子で、岩石が折り重なるような断崖絶壁の高台に建つ、岐阜城に相応しい。 土→安土(安らかな土岐)
岐→岐阜(土岐の高台)
信長は、道三と超名門土岐源氏の明智小見の娘である正室(美)濃に贅沢させるために、豪華絢爛なお城を建ててたんだよw
細川藤孝と共に将軍義昭の元側近だった光秀が信長に仕えたのは、従妹の正室(美)濃がいたからで、信忠が濃姫の実子でなかったから本能寺の変を起した
怨恨(領地召し上げ&秀吉配下に)説、四国説、義昭黒幕説、衝動(鴨ネギ)説など、色々あっただろうが、信忠が濃姫の実子だったら、光秀は変を起さなかったかもしれない
明智光継(子→孫)
→光綱(兄)→光秀
→小見(妹)→帰蝶 …信忠(養子) 最高の参謀・光秀を召し抱えたことで、光秀の助言に従って天下統一を実行し、晴れて「向かうところ敵なし」の天下人になれた信長だが、光秀が武田滅亡の祝勝会でつい「我(ら)も骨が折った甲斐がござった」と本音を漏らしてしまったことで、
その瞬間、信長は、自分が光秀の天下(再)統一計画を実行するための操り人形(手先)にされただけだったことに気付いてしまったw
それ以降、信長の「光秀憎し」の感情が抑えられなくなり、光秀の仲介で恭順の意を示してきた四国長曾我部への対応を(逆切れ的に)変え、三男信孝の武功とするべく征伐することに決めた。
京都巨椋池畔・槙島城の変で信長が主君義昭を追放したように、本能寺の変で光秀が主君信長を誅した。
違いは主君が正式に(天皇の家来である)将軍職に就いていたかどうかに過ぎず、
このスレに集う賢兄姉なら、かつての「義昭-信長」の関係がそのまま「信長-光秀」の構図に置き換わっただけであることに気付かれよう。
つまり(信長家臣では光秀以外に主導できなかっただろう)↓「三官(関白・太政大臣・将軍)推任」を信長が受けていたら、本能寺の変は起きなかった(最悪でも生け捕り→畿内を追放されていた)はず。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%81%B7%E6%8E%A8%E4%BB%BB%E5%95%8F%E9%A1%8C >>929 >>930
岐阜城の金箔瓦や豪華な庭は
信長がルイス・フロイスらの訪問客に自ら案内して自慢していたもので
濃姫関係ないんだが
濃姫隔離スレの奴が出張してきてるなw 山崎の戦いでは負けた明智が悪いんだって!
勝った側は何も悪くないって。 信長は本能寺の変まで何度も裏切り、謀反をやられていた
松永久秀、荒木村重、浅井親子等彼らはすべて非尾張衆
尾張衆は信長の尾張統一以後は誰も背かなかった
光秀の軍団に与力としての尾張衆がいなかったのが信長を殺せた理由 いや、本能寺の変で襲撃した雑兵たちは誰を殺すのか聞かされておらず
信長の命令で家康を殺しに行くと思ってたんだろ
実際、山崎の戦いでは偉いことになったと秀吉の大軍を前に総崩れ >>937
毛利に匿われていた足利義昭と光秀が連絡とってた形跡なし
そもそも都落ちする義昭を見捨てて信長の直臣になることを選んだのは光秀だし 光秀は本能寺後慌てて各地に援軍の手紙送りまくってるんだが
そのときに自分は毛利の家来になりました
毛利に義昭公の後見人をお願いしていますと書けば済む話 足利の家来にはなっても毛利の家来にはならないんじゃあない? >>943
足利義昭の身柄は毛利が預かってるのだから
毛利と交渉しなければ義昭と連絡とらせてもらえない 織田の天下はどこまで続いたんだろう?
光秀がいなかったら
豊臣の天下は家康と和睦して家来にせず、完全に潰していれば秀頼までは安泰だったのでは? 秀吉と義昭の関係もそんなに悪くはなかったんだよな
将軍になるために養子縁組をお願いしたが断られる話は大河ドラマを鵜呑みにしてたな
秀吉は将軍よりもずっと格上の関白になったわけだからね >>945
家康と北條が組んだらやっかいだ。
秀吉・毛利・上杉VS家康・北條・伊達・島津でどうかな? >>947
本気で何度でもいけば秀吉の勝ちは間違いないと思うけどな
ただし母親や妹までも差し出して和睦したのは相当に家康を恐れたのは確かだ
正宗にとっては家康が生き延びて、後に徳川幕府でも指折りの大名になれたんだから、家康が1度軍門に下ったのは幸運だったな
秀吉は毛利も上杉も徳川も、自分の子飼いよりも上の扱いをした
でも家康はまるで逆なんだな
前田はまつを人質にはだしたものの生き残り、黒田もいい扱いをうけたのは加藤や福島と違って息子の代になってたからだろう まだ誰も書かれてない本能寺の変における動機と言うか経緯の証拠ならあるけど
次のスレ言ったら書いてもいいかな >>949
天下人を目指す秀吉は信長がやり残した九州、四国征討が残っていたので
そっちにかなりの軍隊をさかねばならず家康にかまってる暇がなかったんだよ
その点、地方大名にすぎない家康はすべての軍隊を秀吉戦に差し向けたわけで
母と妹をやれば説得できると分かってたからそっちは母と妹に任せた
家康が豊臣政権で太閤の義弟としてのし上がるきっかけにはなったが
朝日姫は1年半ほどで母の看病を理由に家康のもとを逃げ出し
以降は兄秀吉の聚楽第で大政所とともに暮らしてここで没した
恐れていたというほどではないと思う
家康も秀吉が生きてる頃には豊臣姓を名乗り
秀吉に最も近い身内として豊臣家の一員としてふるまっていた 家康暗殺を託された光秀が悩んだ結果、信長を殺したというのが真相。 >>952
自称光秀子孫・明智憲三郎はそう言ってるな
信長から家康殺害を命じられた光秀
しかし心優しい光秀は家康が可哀相で仕方なく
深く思い悩んだ末にこのことを家康に打ち明ける
家康が出した結論「一緒に信長を討ちましょう」
本能寺の変は光秀家康共謀(首謀者は家康)だと言ってる >>951
もちろん本気でかかれば秀吉の勝利はまちがいなかっただろうね
家康も勝てるとみたら和睦はしないだろうから
でも江戸に引っ込めたのはやはり恐れたからじゃないのかな? >>953
家康が事変後全く光秀に協力して無いのがおかしいだろ。秀吉に漁夫の利取らせても家康にはなんのメリットも無いから。家康が秀吉に光秀が撃たれるのを黙って眺めてたのは説明出来ない。 よこだが
家康は旧武田領での火事場泥棒が忙しかったんじゃねぃ 全部知ってた家康なら秀吉の天下の世界で家康の立場が保証されるように裏工作ぐらいしてるはずだけどな。
小牧・長久手みたいな事態にならないように手回しできたはずだがそれもしてない。
明智憲三郎史観では伊賀越えは無かったようだが知ってて火事場泥棒図った割には手際が悪いし、秀吉にまんまと天下取らせてるのはやはりおかしい所。
武田領の火事場泥棒はともかく秀吉天下の期間は家康にとっても本意ではなかったはず 家康は伊賀越えの後、すぐに兵を出しているけど、明智説ではこれも光秀支援のためということなのか?
本読んでないからわからん 巷に溢れ出した光秀本、お勧めがどれですか?
基本的な知識があったり本能寺の変について一定程度以上学んでいる人は、
乃至政彦氏本なんか、好いかもと思いますが。
それとも安定の金子拓氏?
吉川歴文ライブラリーを信頼して諏訪勝則氏本? やはり金子拓氏のが良かった
乃至氏のは史料解釈が?となるとこがあったかな
惟任性の解釈のところはちょっと面白かったけど
諏訪氏桐野氏藤田氏早島氏のは出るの来月だよね >>961
藤田の名前なんか出すなよ
義昭黒幕説にいまだにこだわってるのに 962アンカーミス
〇 >>960
× >>961 乃至政彦のはネットからパクっただけ至るところに記事書かれてる >>875
この頃の織田に氏政を牽制する必要なんてまずないんだがな…
娘をやると自ら北条に言っているんだからそうなれば
むしろ邪魔なのは家康と梅雪だよ
まあ松姫が生きているのが判明したことで各々の目論見が
良くも悪くも変わったのも否めんけどな 藤田達生の「本能寺の変」を立ち読みした
文庫版のための新章を追加しているが、
鈴木、藤本らに論破されたという認識はないらしい >>967
氏直の生母は信玄の正妻腹の娘で梅雪嫁の姉なんで
穴山は利用価値あるとみるかないとみるかだね
夫婦そろって武田という看板に妙な執着があったみたいだから
結局粛清コースをたどりそうな感じだが…
家康はそういう意味ではすでに論外なんだよな >>969
氏直の生母・黄梅院は三国同盟で武田から北条に嫁いだが
氏直が5歳の時に武田信玄が同盟を破って北条領に侵攻したため離縁され
氏直を北条へ置いて武田に返されている
武田へ返された黄梅院は失意のままそれから間もなく20代で早世
母が武田出身とはいえ氏直幼少期に離縁された上に早世しているため
あまり氏直と武田の縁は強くないと思う 縁が薄くなっても流れる血は変えられんのよ
実際北条は氏直には武田の血も流れているからと変後の
甲信統治をめぐる徳川とのケンカでその正当性を言ってる >>972
それは変後のどさくさに紛れて武田領を占領した家康に
俺の土地だからよこせというための口実というだけだろう
だいたい今川氏真だって母親は武田信玄の実姉で
武田の血を引いているのだから
それを言いだしたら氏真にも武田領を割譲しないといけない というか当時の考え方的に早くに死んで縁が薄いどうのなんて
当事者同士の感情でしかないわけで政治外交ではそこらはドライ
縁薄かろうと付き合いなかろうと使えるものは引っ張り出してくる
口実や外交折衝の定石みたいなもん
甲信については信忠生存時の話だったと思うからそれにのっかるけど
当たり前だが最終的に松姫の意向が強く反映される形をとっただろう
これに北条がどうのっかかったか興味あり 家康は光秀から暗殺の事は知らされてはいなかったのだろうが、
信長によって殺される可能性は十分考えていた。
その為に、暗殺の指令を受けているはずの筒井領を通らず、
光秀が分捕った甲賀伊賀ルートを選択したのだろう。
その後の家康の筒井家に対する扱いを見ても、
筒井家が家康暗殺を待ち構えていた事が分かる。 >>928
義父(道三)城→岐阜城 の駄洒落もあるでょw 本屋に藤田達生の光秀本があった
義昭黒幕説でミソを付けたのに、恥の上塗り 吉川弘文館の新刊
谷口克広「信長と家康の軍事同盟」
諏訪勝則「明智光秀の生涯」
ここでも、藤田達生の義昭黒幕説は否定されてる
藤田は学会でも、誰も賛成してくれない説を唱えて、空しくならないのか? 鞆幕府を過大評価し過ぎてもう戻れなくなってしまったんや…
>>981
その2冊近所の紀伊国屋に売ってなかったわ
谷口氏のは前に学研新書で出てた「信長と家康―清須同盟の実体」とは別物なん? >>982
谷口の本は「信長と家康」の再刊本だよ
オレはツタヤで取り寄せて買った 明智光秀は土岐源氏、織田信長は桓武平氏
源氏VS平氏でもある。 川並衆、熱田衆、津島衆は南朝の勢力
つまり尾張南朝 かごめの歌のうしろの正面は徳川家康
徳川家康は北朝支持 津島神社は浪合記、江南は武功夜話
南朝本であるがゆえに捏造歴史家からはトンでも扱いを受けている。
実にけしからん!!! 邪馬台国畿内説や本能寺単独説のトンデモは徹底的に叩く >>985
なんで信長は藤原氏を止めた。
源平交代論か? 諏訪本と乃至本 どちらを読むべきですか? あるいは早島本ですか? 金子≧早島>>諏訪>>>>>>>>>>>>藤田>>>>乃至
※個人の感想です >>992
源平交代思想ですね
はたして令和は源氏か平氏か?
令和の語源は大宰府の宮だから源氏か 源氏物語の舞台は大宰府の宮
万葉集のほとんどは九州 >>994 「金子」は、光秀の前半生を対象外にしているのがネック。
できれば新書ではないボリュームで読みたいから、「早島」も選ばないかな。妻木氏強調もちょっと違和感あるし。
「藤田」は過去に関連する著作2本読んでいるから今回はスルー。
「諏訪」と「乃至」、その比較はどうですか? 乃至説は判らんこともないな。
信長≒北条氏得宗で、源氏将軍を神輿としつつ、その権力代行者として実質的な支配者になると。 八月一日の安土での馬揃えの箇所を「御奉公として御馬を召させられ」と解釈して御奉公の対象を義昭嫡男としてるけど…
直前の信長の装束について「御笠にて御ほふこふめされ」と対に近衛殿や一門衆の装束について
「御笠にて思い思い何れも御ほふこふにて御馬めさせられ」というように皆が着飾ってたって言ってるだけだし
先学の指摘に倣いと言って奉公の対象を義尋を充ててるけど久野雅司氏は二月二十八日の京での馬揃えに義尋が参加してる
と指摘してるだけで八月の安土での馬揃えについては言及してないし色々と???な所が多いんだよな乃至氏のは… このスレッドは1000を超えました。
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