明智光秀はなぜ織田信長に謀反したのか?3 [転載禁止]©2ch.net
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>>726
やっぱり基地外かw
家系図だせよ、ボケ 明智は死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね 実は織田家家臣団が信長暗殺計画を立てたんじゃないの?
んで皆でタイミング測ってたんだよ。
各方面軍が総出で出たタイミングをね。
で、クジ引きで外れ引いた光秀が信長を攻める役に。
そして山崎で負けた体にして、天海としと生き延びた。 光「ちょりーっすwwおひさwww」
家「おひさwwwもうでてきていいのか?www」
光「さすがに大丈夫でしょwww」
家「サルんとこ行ってきたのか?www」
光「むりすwwあそこ脳筋おおいしww殺されるwww」
家「七www本www槍www」
光「しかしww本能寺テラバロスwwww」
家「wwwww」
光「黒幕wwww全っww員www黒幕wwww」
家「サルもwww柴田もwww黒幕www」
光「天下布武wwww誰もとくしねーしwwwww」
家「毛利もwww北条も知ってるwwww」
光「魔王涙目wwww」
家「武田の時の見たらみんな納得したからなwww」
光「誰か損したやついるのか?www」
家「滝っ川www」
光「忍者wwwwww進むも退くもwwww滝川www」
家「後、五郎佐wwwww」
光「だりぃwwwwあいつどうしたの?wwww」
家「サルが後でどうにかするって丸め込んだwwww」
光「バロスwwww」
光「そういや、柴田の噂聞いたけどあれどうしたの?wwww」
家「市にバレタwwww後、サルと取り分でもめたwww」
光「あのビッチかwww」
家「でも、長益も信雄も全部知ってるwww」
光「wwwwwww」
光「台本何処まで進んでるの?wwww」
家「北条討伐wwwその後唐入りwwww」
光「地方大名涙目wwww狸と羽柴の本家だけ無傷wwwww」
家「後は、俺が幕府開いて東国抑えて、サルが西国で折半wwwww」
光「うぇっwwwww征夷大将軍、昔からの名目どおりwwwww」
家「うますwwwww」 家「しかし、長久手は傑作だったわwww」
光「八百長wwwwww信雄名演技すぐるwww」
家「鬼武蔵とか生きてても誰も得しないしなwwww池田うざかったしwww」
光「邪魔者だけ排除できたしなwwwww」
家「しかし、よく毛利とか北条とか説得できたよなwwww」
光「利休wwwwwチートすぎwwwwwwでもあいついろいろ知りすぎてて邪魔じゃね?wwww」
家「北条討伐終わったらサルに殺すように言っとくわwwww」
光「ところでさwwwwちょっと相談あるんだけどwww」
家「なんだよwww」
光「山崎の時八百長の予定だったのに、サルに家臣とか普通に殺されたんだよね。
台本書き直したから今度はサル抜きでやろうぜ。」
家「えっ?」 >>730-731
誰が作ったか知らないけどコレ好きw 浅井長政の居城がオダニ城と聞いて織田2城と思ってたわ 「明智光秀の生涯と丹波 福知山」という本を買いに、
遠く福知山まで行ってきました。
アマゾンで売って欲しいです! news.infoseek.co.jp/article/mainichi_20170912k0000m040159000c
明智光秀:密書の原本発見 本能寺の変直後、反信長派へ 「本能寺」室町幕府再興のため…光秀の手紙発見
https://news.infoseek.co.jp/article/20170912_yol_oyt1t50009/
明智光秀(?〜1582年)が織田信長(1534〜82年)を討った1582年(天正10年)の本能寺の変は
室町幕府の再興を目指したクーデターだったことを示す光秀の書状の原本が見つかったと、
三重大の藤田達生教授(日本中近世史)を中心とする調査チームが11日発表した。
書状については東京大史料 編纂 所に写しが保管されているが、今回の発見でクーデター説の内容が裏付けられたとしている。
書状は、岐阜県美濃加茂市の美濃加茂市民ミュージアムが所蔵する「(天正10年)6月12日付
土橋重治宛光秀書状」(縦11・5センチ、横56・7センチ)で、本能寺の変の10日後、反信長派の
土豪・土橋重治に宛てられた。光秀の 花押 (サイン)があることから本人の文書と認められ、
筆跡も本人の可能性が高いという。 美濃加茂でとっくに展示されてた
いまさら発見だのクーデタだの言われても 写しが以前からあって、原本がやっと見つかったというニュースだからな
写す過程で改竄があったかの調査には使えるだろう >>740
密書の原本発見 本能寺の変直後、反信長派へ
https://mainichi.jp/articles/20170912/k00/00m/040/159000c
◆本文
仰せのように今まで音信がありませんでしたが<初信であることの慣用表現>、
上意(将軍)への奔走を命じられたことをお示しいただき、ありがたく存じます。
しかしながら(将軍の)ご入洛の件につきましては既に承諾しています。
そのようにご理解されて、ご奔走されることが肝要です。
一、雑賀衆が当方に味方されることについては、ありがたく存じます。ますますそのように心得られて、相談するべきこと。
一、高野衆・根来衆・雑賀衆が相談され、和泉・河内(ともに大阪府)方面まで出陣されることはもっともなことです。恩賞については当家の家老とそちらが話し合い、後々まで互いに良好な関係が続くように、相談するべきこと。
一、近江(滋賀県)・美濃(岐阜県南部)までことごとく平定することを命じ、それがかないました。ご心配されることはありません。なお使者が口上で申すでしょう。
◆追伸=書状では冒頭にあり
なお、必ず(将軍の)ご入洛のことについては、ご奔走されることが大切です。
詳細は上意(将軍)からご命じになられるということです。
委細につきましては(私からは)申し上げられません。
訳・藤田教授 藤田先生がどういうお立場か忘れたけど
室町幕府再興のためかどうかはこれでは何とも言えないな。 室町幕府再興なんて大義名分で上洛した、でき星大名がいたな。
確かうつけとかいう渾名だった。 >藤田先生がどういうお立場か忘れた
好意的に評すれば、朝日新聞系文化人。
Eテレの低学年向け歴史番組で、秀吉を徹底的に扱き下ろしてるけど、台本を書いたのは藤田と言われても全く違和感がない。
秀吉嫌い。近代の朝鮮併合も秀吉が原因と言っちゃってる『秀吉神話をくつがえす』 (講談社現代新書)人。
秀吉の九州・小田原攻めでも針小棒大の典型のような論理や決めつけで「秀吉は駄目」を連呼。
結論があって、それに都合の良い材料で自説を展開させる「曲学阿世の徒」。
藤田が原本と確認したと言われても… 本能寺の変の前年に亡くなってるよね
やっぱり、妻木煕子の実妹だと思う
美人だったんじゃないかな?
光秀と煕子の結婚の時の逸話にも妹が登場するし
光秀は濃姫といとこ同士だった説があるけど
濃姫の侍女として仕えてたところを信長にみそめられて側室になっていたのでは?
そういう繋がりだと光秀は割と近い親戚だし、信長の厚い信頼と、スピード出世した理由にもなる 谷口研語氏は筒井順慶の東国転封を想定して、
与力大名の解体が原因だったと言ってるね 正親町院ににらまれると必ず殺されるな
主上恐るべし かごめ紋忌部氏で検索したら俺のツィッターが出てきてびっくりしたぞ なんとなくだが自分「では」判断しきれていなかった所はあったに思う
寧ろ周囲の誰かによる「讒言」でそうなった
「あれ?もしかして本能寺って今手薄っすよね?」とか 義輝、義昭と足利将軍が10年経たない間に廃されてるわけで、
同じことが信長に起きたとしてもそう驚くにはあたらない 室町幕府再興という一次史料が発見された以上
それを否定する裏付けがないのであれば
室町幕府再興が謀反の理由になるでしょう 雑賀衆を味方につけるために
光秀が自分は将軍と同盟していると言ってる可能性も大
本能寺の変の前から光秀が義昭を擁していたならともかく
そもそも義昭は毛利にいたんだし 個人的な意見だけど、平手政秀が自害したのは斎藤道三との外交で面目が立たなかったことが原因だと思う。
命をかけて信長を婿養子に勧めて婚姻を成立させたにも関わらず、信長を大うつけに育ててしまったことへの絶望
同じように、光秀も長宗我部との外交で面目が丸つぶれになって信長に失望、見切りをつけたんだよきっと うつけと言っても平手が腹切るほどのうつけかどうかは… >>762
信長は斎藤道三の婿ではあるけど道三と養子縁組はしていないので
「婿養子(これは妻の親と養子縁組して妻の実家を継ぐ場合)」ではない
そもそも信長が大うつけで道三に対して面目ないと思うならば婚約解消が先であって
平手が自殺したところで信長と濃姫の婚儀は滞りなく行われているし >>764
1548 平手政秀が信長と濃姫の婚姻を取り纏める
1549 濃姫が信長に嫁ぐ
1549 斎藤道三と信長が正徳寺で会見
1553 平手政秀が自害
平手が自殺した時、濃姫は既に信長に嫁いでるんだが。婚約解消ってなんぞ? 普通に平手の息子と揉めたのを収めるためじゃね?
信秀が生きてたら何とかなったかもしれないけど、信秀が死んで信長は当主になってたし >>765
なら尚更
道三は道長に直接会ってその人となりを認め
可愛がっている(後に美濃譲り状を出すほどに)
のに平出が切腹するはずもない >>767
美濃譲り状は1556年に道三が死ぬ間際に出したもの。
平手政秀が自害したのはその3年前
だからそれを平手政秀が知っている理由がない。
信長の人となりを認めたエピソードで有名なのが、
「我が子たちはあのうつけ(信長)の門前に馬をつなぐようになる」だけど、
これは家臣に語っただけだからやはり平手政秀は知る由もない。 >>768
美濃譲り状は「のちに」と書いてあるだろw
斎藤道三と信長の対面は平出が生きてるときじゃないか
対面を終えた道三は「俺の子や孫はあのうつけに仕えることになるだろう」
と信長を高く評価した >>765
斎藤道三が信長は大うつけだと判断したなら
同盟解消して濃姫を美濃へ連れ帰るだろう
尾張が持つかも危ないし娘の命が危ないし >>770
うん、斎藤道三は信長を大うつけだと判断していないし、誰もそんな書き込みしてないね。
>>769
>「我が子たちはあのうつけ(信長)の門前に馬をつなぐようになる」だけど、
これは家臣に語っただけだからやはり平手政秀は知る由もない。
ここ読んだ? >>772
>平手政秀が自害したのは斎藤道三との外交で
>面目が立たなかったことが原因だと思う。
>命をかけて信長を婿養子に勧めて婚姻を成立させたにも関わらず、
>信長を大うつけに育ててしまったことへの絶望
これの根拠は?
平手が斎藤道三との外交で失敗したと思ったと
書いてある一次史料を上げてよ 濃姫は義龍が殺したんだよ!
道三の娘だから憎かったんだろ? >>776
義龍は道三の実子説もあるからなあ。
義龍は道三と道三の正室腹の子で弟の孫四郎は殺したが
さすがに非戦闘要員の姉妹まで殺すとは思えない。
姉妹たちはそれぞれ他家へ嫁いでいたし。 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
8GD6A 濃姫は親父の殺害にショックを受けて自殺したか、上記に書いてある通り義龍に殺されたか
どっちかじゃないか? >>779
義龍が織田信長が寝泊まりする織田の城の奥御殿に忍びを遣わして
その正室を殺したらタダじゃ済まんだろうw
ただし斎藤道三死後信長が濃姫を離縁して義龍に返したというのならば
その限りではないが 織田信長が構想していた海外進出は、どんなものだったのか?
その1. 第2のイエズス会≠フ翼賛を得た壮大な征服計画だった!
キリスト千年王国を叶えるべく2000隻を超える膨大な 数の軍船を建造し、
明朝中国を手始めにインド、西アジア までも視野の内に入れたものだった。
信長の構想は、一次資料たるイエズス会の『1582年日本年報追加』に、
そしてまた、ほぼ同文が『日本史』に見える。引いてみよう。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/t-saito_world/docum_03_world/w01_nobunaga_basic/12a_nobu-kaigai-sinshutu.html
信長は毛利を平定し、日本六十六カ国の絶対君主となった暁には、
一大艦隊を編成してシナを武力で征服し、諸国を自らの子息たちに
分ち与える考え(計画)であった。(括弧内は「年報追加」における文言)
秀吉は、関白に任官された天正13年(1585年)、早くも唐入りを表明していたことが、
家臣の一柳末安へ宛てた朱印状で確認できる。
それには、「秀吉、日本国は申すに及ばず、唐国迄仰せ附けられ候心に候歟」とある。
本能寺の変からわずか3年後、九州、関東、東北が未だ服属していない段階であるにもかかわらず、だ。 すなわち千年王国の君主、いわば神軍の長、大天使ミカエルの化身として後継キリストに
擬したデウスの剣こそ 「我、信長なり」 と段々と神学論にのめり込んだのだろう。
信長は日本の伝統的秩序に囚われずこれ等を破壊し、世界の大天使ミカエルを目指した。
秀吉や守旧派、光秀、家康、日本史好きでは到底理解できず、信長の真似事をするのが精々、
秀吉は朝鮮出兵で失敗し、家康は死後「権現様」として日光に祀られた。 明智光秀が率いていたのは足利幕府軍な訳で、
織田軍には、足利幕府軍として参加していたにしか過ぎない。
ただ、斉藤道三正室、小見の方は叔母さん、
その娘、帰蝶は従兄妹だし、信長の生母、
土田御前は明智家の家臣の娘。
木曽川上流の明智家と下流の港、津島の代官の織田家は、
ビジネスで交流があったのは間違いないだろうし、
身内に近い存在だったのは間違いないだろう。
斉藤道三失脚後、長山城を攻め落とされた後、
明智光秀の祖父、明智光継は数年生きていた様で、
そのつてをつたって若狭武田氏を頼って落ち延びていったのは想像できる。
その後に幕府でどういう役割をこなして幕府軍をまとめる存在になって行ったのか。
お手紙将軍の足利義昭やら、有職故事に通じる光秀や、
膨大な文書を処理していた幕府にいて、史料が残っていないと言う事はあるまい。
明智光秀の半生が謎だという事が謎であり、
それなりのところを当たれば、膨大な史料が発見される可能性が高いと言えるだろう。 若狭武田氏とは足利義昭の姉婿が武田義統であり、
その縁でつながっている様だ・ >>783
明智軍記にある通り光秀が明智城主・明智光安の嫡男で
道三正室・小見の方の甥、濃姫の従弟といういいところの坊ちゃんなら
三好三人衆から命を狙われている将軍就任前の足利義昭のお供でをして
田舎を放浪したりしないだろ
光秀は細川藤孝の中間で藤孝の命令で義昭に付けられたんだし >>782
信長は天下人として失敗しているんだが
秀吉や家康は成功してるんだが >>785
放浪してたり朝倉仕官した話は
本能寺の変から100年後くらいに書かれた「明智軍記」に載っている話で信憑性無いよ
最近は研究者の人は否定的みたいだ
足軽というのも、役人名簿に後日付け足して書かれているのが疑われてる
細川藤孝の中間はよくわからないけど、本能寺の変後に書かれた記録で確か敵対してた人の記録だったような?
没落してた家柄だけど
元々はいいとこのお坊ちゃんだったと思う
教養あったという事は家柄が良かったという事に等しいし
信長の家来になる前に、京都の幕府奉公衆の屋敷が立ち並ぶ場所に屋敷があった
公家がお正月参りをした日記にある
足利義昭が京都に入る時、信長は光秀の屋敷を宿所としてたくらいだから大きい屋敷だったはず
先祖代々の屋敷だったのでは? ちなみに滋賀・福井関連の歴史上の人物
大友皇子……大海人皇子との壬申の乱に敗れ自害
木曽義仲……源義経との戦いに敗れ、近江の瀬田で泥田で動けなくなったところを
矢が深く貫通し無念の最後
新田義貞……足利尊氏との戦いに敗れ、越前にて討ち死に
朝倉義景…織田信長との戦いに敗れ、越前一乗谷にて自害
明智光秀……山崎の合戦に敗れ、百姓に竹槍で刺され落命
柴田勝家……秀吉との戦いに敗れ、越前北の庄にて自害
石田三成……関ヶ原の合戦に敗れ斬首
井伊直弼……桜田門にて浪士達の襲撃を受け、最後は薩摩脱藩浪士により首を落とされる。
なんか呪われてるといえば呪われてるような気もするし。光秀謀反の原因とかも、やれ朝廷がどう
怨恨がどういう前に、こういう角度から見たら面白いかもな >>789
滋賀関連で憤死したやつの代表である信長をシレッと忘れてんぞ >>787
光秀が京都に大きな先祖代々の邸を構えていたなら
相応の大名だったと思うがそういった史料が何もない
朝倉仕官は史実なのにその間、京都の馬鹿でかい屋敷がどうしてた?
だいたい光秀が京都に大屋敷を構える大名なら
そこへ足利義昭を迎え入れればよいのであって
田舎の越前まで義昭を連れて放浪する意味がない >>794
朝倉士官が史実って何の資料にあるの?
初出は本能寺の変から100年後くらいの「明智軍記」では?
細川家記の「綿考輯録」も本能寺の変から200年後くらいで明智軍記を参考にしてるし
当時書かれた「言継卿記」によれば
永禄13年(元亀元年)正月には光秀の屋敷は幕府奉公衆や公家の邸宅がある一等地に屋敷があったのは間違いないよ
信長の京都滞在中、明智の屋敷を宿所にしてたとも記述がある
光秀自身がこの時、どんな地位だったかわからないけど
土岐明智氏は元々幕府奉公衆だったから
そんな豪華な京屋敷があるのは先祖代々のものなのかな?と思っただけ
足利義昭は命狙われてたから信長無しでは京都に入れなかったのでしょう?
単に家屋の設備が無いからとかでなく >>796
「言継卿記」2月30日
信長が上洛し、言継と一緒に光秀のところへ行った。
「言継卿記」7月5日
信長が上洛し、義昭のところへ参上。次に光秀のところへ行った。
>光秀の屋敷は幕府奉公衆や公家の邸宅がある一等地に屋敷があったのは間違いないよ
この記述はどこにある? >>796
永禄11年 信長が足利義昭を奉じて上洛
永禄12年 信長、足利義昭のために二条御所を造営
永禄13年 この頃、光秀の屋敷が洛中にあった
織田信長は主にこの頃岐阜城にいたため
自分が上洛した際の屋敷を洛中に作り
留守居として光秀を置いていただけともとれるし
光秀が自腹で先祖代々の豪華な京屋敷を所持していた
とまでは読めない >>799
私の見た書き下し文は
「言継卿記」2月30日の記述は
「信長、岐阜城より上洛し、明智邸を宿所となして泊まり、三月一日に禁裏へ伺候」
「言継卿記」7月5日の記述は
「七月四日に上洛し、七日まで、信長は近習四、五騎、徒士三十人ばかりと共に、明智邸に滞在した。」
となってて、明智邸の原文は「明智十兵衛所」
これは信長の屋敷とかでなく、明智光秀の私邸という意味らしいよ
光秀はこの2年後に坂本城を建てる
安土城の次に豪勢な城だとフロイスは言ってたけど
光秀は裕福だったのでは?と主張してる人もいるよね あと、「言継卿記」の永禄13年の年頭挨拶の記述は「路次次第」(行った道順)で記されていて
わかりやすいの見つからなかったけど
「十三年一月廿六日、
甲午、雨降、自未刻晴、天一ヽヽ、○未下刻(14:30頃)より奉公衆方、年頭之禮に罷向、路次次第、
竹内治部 少輔(濃州へ下向云々)、三淵大和守、同彌四郎、一色式部少輔、曽我兵庫頭(助乗)、
明智十兵衛(濃州へ下向云々)、摂津守(下京)、大和治部少輔、朽木刑部少輔(酒之)、竹田法印、同治部卿、荒川與三、三福寺、清和院、
眞下式部少輔、疋田彌九郎(父入 道出合)、松林院等也、○今日當番代倉部參了、」
と記されてるみたいです
光秀以外の名前は御供衆や御部屋衆などだそうです >>800
上洛時の為に自分の屋敷を作ったなら、この年の2回だけでなくもっと使うだろうし
足利義昭の側近達が多く住む所に信長が宿所を建てるなど絶対無いと思う
信長はこの2回の前後は妙覚寺、相国寺、本能寺などを使ってるようだ(ほとんどが妙覚寺)
信長が自分の上洛時の為に作った二条御新造は誠仁親王に献上するまで何度も使っている
戦もしてて忙しいだろうにかなり頻繁に上洛してるのでびっくりしたよ >>804
足利義昭自体、信長が上洛して将軍職に就けたものだし
将軍御所も焼失して跡形もなかったことから信長が新造している
義昭付き家臣たちの屋敷も信長の援助だろう
(将軍御所がないのに側近たちは皆洛中の先祖代々の豪邸に住んでいたと妄想してる?)
で、光秀が信長家臣になったのはいつだと思ってる?
光秀は信長直臣になる以前、幕府直臣ではなく幕府直臣である細川藤孝の中間だよね これはみんな思い込みだが明智光秀自身は信長の家臣にはなっていなかった。幕府同盟軍みたいな形で信長に組み込まれた。 >>795
禄以外にもいろいろ援助してもらっていたんじゃね?
本能寺挟んでいるからなかったことにされている可能性もある
その細川も実際は傍流の傍流で出自に関して結構怪しいという噂もあるね… >>806
光秀が没落した足利義昭に同行もせずに
信長のもとで禄を貰い自分だけ豪勢に暮らしていたのに 幕府同盟軍も何もない
没落した義昭を自分のところにかくまってた毛利を見習え >>809
光秀は義昭が都落ちするかなり前に信長に鞍替えしてるよ
不信ではあるもののまだ義昭を見放してないような時
細川は、信長家臣となる時、手土産に義昭裏切ってますよーと告げ口したと思う(初期の書状のやりとりがそんな感じする)
その後、信長は確信を持って義昭を追放したと思う
同行しなかったのはその後で幕臣やめて光秀臣下になった伊勢氏とか 明智光秀は縁者に何人もの連歌師がいたらしい
その素養があるから「ときは今、天が下しる五月哉」もよめた とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
FDN また、新説とは別に、研究の結果、人物の評価が一変しつつある例もある。
その代表は、誰あろう、日本史上最大のスーパースター・織田信長だ。
南蛮趣味の甲冑に身を包んで自ら「第六天魔王」と称し、古臭い常識を躊躇なく破壊する戦国の革命児。
長らく、そう語られてきた信長だが、近年の研究成果から垣間見える人物像は、それとはかけ離れたものだ。
「信長は、朝廷や寺社など、既存の権威に対して非常に気を遣う人だったことが分かっています。
皇居の修理や皇太子の元服費用を負担し、困窮する公家たちの借金をチャラにしたりと、常に尊重していますね。
一方、対立したといわれる寺社勢力に関しても、既得権益を守るために一揆を主導して歯向かった本願寺との戦いが
有名になっただけで、他の寺社はむしろ手厚く保護し、人心の安定に役立てています」(前同)
悪名高い比叡山延暦寺の焼き討ちにも、実は信長自身は慎重だったという。
「敵対勢力をかくまったということで火はかけましたが、よく言う抜き打ちでの皆殺しではなく、1年以上前に予告し、
威嚇程度にいくつかの建物を焼いただけ。このときは、むしろ家臣の明智光秀のほうがイケイケだったようです」(前同)
比叡山焼き討ち後、その所領の多くは“実行犯”光秀のものとなったが、光秀は延暦寺に残された領地まで横領し、
信長に「返してあげなさい」と命じられたりもしている。
「クレイジーな主君についていけず、本能寺で反旗を翻した“良識の人”として描かれることも多い光秀ですが、
実はかなりしたたかでクセのある人物だったようです。2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』は、
こうした最新の研究を反映しているらしく、楽しみですね」(歴史専門誌記者)
https://news.infoseek.co.jp/article/taishu_60236/?p=1 しょせん凡人にはわからない天才だよ信長は
信長より俺のほうが偉いって凡人は必ず現れるけどねw 別に俺と信長は比較対象でも何でもないし
むしろ俺と比較対象になるほど信長の小物感がよくわかるわwww 光秀は細川親子や筒井順慶の動向を見誤ったし、秀吉が毛利と電撃和解することも誤算だった
それにしても柴田勝家・織田信雄・徳川家康の連合と戦っても勝てるはずはないのに、なにゆえ本能寺の変を起こしたのか
家康あたりが事前に支持を与えていないと動かなかった気がするよ 黒田官兵衛の神道大麻の販売
今は医療大麻オイルとして一部成分が認められてます
https://plaza.rakuten.co.jp/denkyupikaso/diary/201806090001/
黒田のインテリさは山崎の戦いで毛利の旗だけをすぐさま借りて旗揚げて、毛利を味方につけたと明智を錯覚させ、3時間で戦いを終わらせたところにあります
今は娯楽として販売されてます
ちなみに日銀にもなれば何もしなくてもお金が入ってくるんですよ 森蘭丸が主犯
動機は信長との痴話げんかによる無理心中 信長が家康を暗殺なんて昔からあるトンデモ説の一つであって
あほらしすぎるから言う人がいなくなっていたんだよ 漫画アプリで信長を殺した男を読んだ
笑うくらい明智がイケメンの正義の人で秀吉が性格の悪いサルに描かれてた
引くわw >>820
最近では信長と家康の仲は言われている程じゃなかったという
見方も出てきているから真面目に検証してみる価値はある 家康が一番怪しいな
どのみち信長体制は限界に来てたと思うけど なんか黒幕説の容疑者たちって光秀被害者の会員ばかりな気がする
正親町天皇
→比叡山焼き討ち後に朝廷の廬山寺や曼殊院など三門跡の領地を横領されて 信長に抗議したら 勅使を買収
足利義昭
上記の件で光秀を制止したが、無視された挙げ句東寺の下久世庄の一職にしたのに金を払わず、挙げ句に地子銭止めたら、信長に叱責させた
吉田兼見
吉田山の吉田神社本山を光秀の進言で宿舎にされかけた 黒幕がいてもいなくても光秀が信長をころしたかったのは変わらない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています