最高の参謀・光秀を召し抱えたことで、光秀の助言に従って天下統一を実行し、晴れて「向かうところ敵なし」の天下人になれた信長だが、光秀が武田滅亡の祝勝会でつい「我(ら)も骨が折った甲斐がござった」と本音を漏らしてしまったことで、
その瞬間、信長は、自分が光秀の天下(再)統一計画を実行するための操り人形(手先)にされただけだったことに気付いてしまったw
それ以降、信長の「光秀憎し」の感情が抑えられなくなり、光秀の仲介で恭順の意を示してきた四国長曾我部への対応を(逆切れ的に)変え、三男信孝の武功とするべく征伐することに決めた。
京都巨椋池畔・槙島城の変で信長が主君義昭を追放したように、本能寺の変で光秀が主君信長を誅した。
違いは主君が正式に(天皇の家来である)将軍職に就いていたかどうかに過ぎず、
このスレに集う賢兄姉なら、かつての「義昭-信長」の関係がそのまま「信長-光秀」の構図に置き換わっただけであることに気付かれよう。
つまり(信長家臣では光秀以外に主導できなかっただろう)↓「三官(関白・太政大臣・将軍)推任」を信長が受けていたら、本能寺の変は起きなかった(最悪でも生け捕り→畿内を追放されていた)はず。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%81%B7%E6%8E%A8%E4%BB%BB%E5%95%8F%E9%A1%8C