北条家が承久の乱で朝廷を滅ぼしたら [転載禁止]©2ch.net
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後家人は、従っただろうし、義時の権威を頼朝を完全に超えたのではないだろうか? 頼朝正室の北条政子がいなかったら、負けていたと思うよ
政子の下には結集するけど、
御家人の筆頭北条義時の下には結集しないだろう 政子の存在は大きいな
旗揚げ前からの頼朝の嫁だから、彼女の存在そのものが頼朝に近いんだよな。
しかも根っからの坂東の女だから御家人と同根だし。 後鳥羽院系の皇統断絶、新天皇も擁立せず三種の神器を鎌倉に接収とか過激な事やれば
延暦寺・興福寺とかの寺社勢力が一斉に反乱起こすよ
似たような状況を強いてあげれば清盛の福原遷都だと思うが
あの時もそれまで平氏と仲の良かった延暦寺との関係が悪化して
それが平氏政権崩壊の一因になってる
公家や西国武士団が誰か天皇家の縁者を新天皇に擁立して結局朝廷が復活するだけと思うね
つまり実際に幕府が朝廷に対して取った処置は概ね妥当で、あれが幕府の力の限界だった 三種の神器が絡むと、三河に陣を張って足利氏をはじめてとした源氏や安達氏は、天皇方に付くだろう
三河を突破出来るわけない 足利と安達が手を結んで敵対するなら、北条にとってはやっかいだな
いくさもゆるくないよ
ひょっとして負けるんじゃないの まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 朝廷の中にも西園寺公経など鎌倉支持の公家もいたし、北条氏と親戚関係の
公家もいた。鎌倉方は朝廷のすべてと敵対していたわけではない。
また、摂関家出身の九条頼経を主君としていただいていた。朝廷の持つ価値の
すべてを否定していたわけではない。
朝廷そのものを打倒するという発想はなかったのではないか? >>16
各地に新皇が乱立
いいねえそれw。日本史も興味豊かな歴史になってたことだろう。
はっきり言ってローマ帝国だって5人ぐらい皇帝が並び立ったこともあったし、
日本だってそんな歴史が展開したとしても全く驚かないw >>18
さあ。どうかな。
当時の板東の氏族意識はやっぱり男系を中心とした血族を中心としてるんじゃないかな。
政子だって、あくまで平政子だからね。本質的に北条一門の人なんじゃないかな。
倒幕の詔勅だって義時が相手だし、承久の乱は本質的に上皇が北条一門を討とうとして、
返り討ちにあったってことだろう。 >>26
奥羽に義経、関東東海の鎌倉政権、北陸山陰の木曽
近畿関西の院(朝廷)、山陽四国九州の平家
の分裂が固定化してれば今頃日本列島は5ヶ国だった 木曽が健在だったら畿内周辺も木曽の支配下じゃないの 平家は安徳天皇を伴っていたので、九州・対馬・壱岐・琉球を制圧すれば、
正統性のある地方政権として存続できただろう。
大宰府あたりに平知盛を総大将とする前線基地を築き、本州への反撃を狙う。
琉球・八重山・与那国あたりに平宗盛の本陣を築き、安徳天皇や建礼門院の
御座所を設ければ、防衛も万全だろう。 >>30
まったく同意。
でも木曽だって奥州藤原だって状況次第では存続可能だったよ 義経の非常識な戦術がなかったらそうなっていた
いくさでルール違反したらまずいでしょう
漕ぎ手を打つのは卑怯だよ
今でいえば核兵器を使うやってはいけない戦術
非難されて、いくさの後は誰からも相手にされなくなるよ >>32
結局、その後、総スカンを食らって孤立したしね
頼朝打倒の院宣をもらっても、誰も、義経の下に集まらなかった つーか、結果的に安徳天皇や三種の神器の一つを海に沈めてしまったのは
非常にまずいでしょう
必ずや神罰が下されますよ
この神罰は義経に総大将を命じた頼朝の子孫にまでも及ぶ事となる! 木曽義仲からの和議を平家は受け入れるべきであった。義仲と同盟を結んで
鎌倉方に対抗すれば、挽回のチャンスは広がっていた。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>36
それ以前の問題として頼朝の講和案を受けいれりゃ良かった。
しかし東国は源氏といっても東北は奥州藤原氏が確保してるから関東〜東海道だけ。
甲斐源氏の所領とか考えると実質関東だけが頼朝の属地だろ。
頼朝はそんな条件で講和してよかったのか? ■源頼朝・足利義兼(初代足利氏)と三河の藤姓熱田大宮司家
三河の藤姓熱田大宮司家
・家祖:藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)
・系図:藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))
☆源頼朝、★足利義兼
藤原実範
・藤原成季
・藤原季綱(三河守)→@へ
・藤原季重
・藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→Cへ
・藤原行綱
・興義
・実慶
・三位女→高橋惟康(伊勢新二郎大夫、三河国加茂郡高橋庄(八条院領目録にあり)領主)
@藤原季綱
・藤原友実→Aへ
・藤原実兼→藤原通憲(信西)→女子→源義康(検非違使、陸奥守)か?→足利義兼(初代足利氏)
・藤原悦子(鳥羽天皇乳母)
・他多数
A藤原友実
・藤原能兼→藤原範季(後白河院近臣、順徳天皇の外祖父、源範頼養父)→Bへ
・女子→源頼政(上西門院に出仕、伊豆守、源三位)→C
・他多数 B藤原範季
・源範頼(養子、三河守)→源範円(正法寺(三河国宝飯郡)僧)→吉見為頼(初代吉見氏)
・藤原範時(八条院蔵人)
・藤原範茂(子孫は高倉家(羽林家))
・藤原重子(修明門院、順徳天皇母)→順徳天皇
・藤原範光(養子(実父は藤原範兼)、後鳥羽院近臣)
:藤原範子(養女(実父は藤原範兼)、後鳥羽天皇乳母、土御門天皇外祖母)→源在子→土御門天皇
・藤原兼子(養女(実父は藤原範兼)、後鳥羽天皇乳母)
・他多数
C源頼政
・源仲綱(大内守護)→有綱(伊豆守)→女子(源義経室)
・源国政(初代山県氏)
・源兼綱(実父は頼政兄の頼行)→大河内顕綱(初代大河内氏(三河国額田郡大河内)か?)
・源頼兼(大内守護)
・源広綱(実兄の仲綱に養子入り、駿河守)
・二条院讃岐
D藤原季兼
・藤原季範(蔵人所雑色、初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→Eへ
・藤原憲実(法眼)→藤原仲経(九条院蔵人、玄番助大夫、美濃国土岐多良庄地頭)
・女子→二階堂行政(鎌倉幕府の政所令・後に別当、初代二階堂氏) E藤原季範
・藤原範忠(後白河院上北面、大宮司、三河国滝山寺大檀那、室は美福門院女房上総)→Fへ
・藤原範信(式部丞、上野介、大宮司(星野大宮司)、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野))→Gへ
・藤原範雅(後白河院上北面、大宮司)→Hへ
・藤原範綱(大学助大夫)
・藤原範智 (法眼、園城寺)→三位局(源実朝御所縫殿別当)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)
・粟田口長暹(法眼、三河国滝山寺、仁和寺、守覚法親王近習)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
☆由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進、征夷大将軍)
★女子(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(初代足利氏、八条院蔵人、上総介)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)
F藤原範忠
・藤原忠季(大宮司、刑部丞、蔵人所雑色)→藤原忠兼(備中守、大宮司)→海東忠成(猶子、大江広元の四男、初代海東氏、大宮司)
・野田清季(大宮司(野田二郎大宮司)、三河国野田城主、初代野田氏(三河国設楽郡野田))→野田朝季(鷹司冠者)→野田朝氏(大宮司、室は足利義兼の娘)
・藤原能季(相模守)
・藤原範高(検非違使、蔵人所、大宮司)
・寛伝(額田僧都、日光山満願寺19世座主、三河国滝山寺)
・任暁(仁和寺)
★女子→足利義兼(初代足利氏、八条院蔵人、上総介)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)
G藤原範信
・藤原範清(検非違使、上西門院蔵人、星野左衛門大夫、頼朝右大将拝賀先駆)
・藤原憲朝(八条院判官代、駿河守、初代千秋氏(三河国設楽郡千秋))→藤原範俊(左馬助、大学助、源実朝近習)
・藤原信綱(駿河守、尾張国海東郡地頭)
・藤原信雅(高松院蔵人)
・藤原憲行
・藤原実豪(延暦寺権僧正) 一ノ谷へ向かう追討軍は源氏方1(一、二千余騎・・・『玉葉』)に対して、平家方は10(数万、二万余騎・・・『玉葉』)。
その時の寿永三年の関東は関東飢饉という状況で兵糧調達困難により兵が不足していた。
おまけに地の利、城郭戦という有利な状況があったのにも関わらず、平家は惨敗を喫した。
結局平家の敗因は単に弱いから。
いくら兵力差があったといっても水鳥の羽音(『山槐記』)で逃げ出すとか兵失格だしw
九州でも上陸できずに鎮西武士にシッ、シッと軽くあしらわれた。
すぐに敵前逃亡するわで、やる気なさすぎw スーパーの駐車場の車を置くところにショピングカート置きっぱなしにするなよ
バックしようとしたら危うくぶつかるところだったわ
何でこうなんだろうな、中川の貧乏土人のクズは 源頼朝と平家が和解していれば、勢力は均衡し、奥州藤原氏も存続する。
甲斐源氏など各地の源氏も独立勢力として残る。
それぞれが朝廷から官位を受けてゆるやかに日本国を形成していったのだろう。 >>44
その数字は明らかに事実と異なる誇張と見るべきだろう
頼朝が木曽と睨み合った時の兵力差は木曽の3000に対して頼朝は10万だぞ
源氏の大勝利を大げさに書くために源氏を過少、平家を過大に書いてるんだよ >>47
わざわざ小細工する必要が『玉葉』側にあると? まあ後白河がなりふり構ってられなかったような状況だからな
工作が存在し、かなり独断的に行われたと仮定すれば、
知らされてない人間は官軍不利を認識するから過大な表現を用いることもあるだろ 玉葉で10万なんて聞いたことないけど官軍1000に関しては合戦直前に書かれたもので合戦後に書かれたものじゃないだろ
兵数や平氏軍の動向についても複数の記述があり、色んな風説が乱れ飛んでたことがうかがえるし
記述のウェイトは平氏が大軍を率いて近日上洛するという緊迫した情勢にあり、その状況の説明として掲げられた兵数に意味があるかという話だな それよりさ、信頼が二条天皇を手放さなかったら、歴史はどう変わっていただろう 天皇は地面の上を歩かず筵の上を歩く(筵道という)が
二条天皇が内裏から脱出する時は長い筵がなく、短い筵を2枚用意して
1枚ぶん歩いたらそれを前に持ってきて、という事を繰り返してようやく脱出した
短い筵さえなければ、確かに歴史が変わっていたかも知れん 三条殿を大勢の血で穢したという事績が残る限り必ず糾弾の対象になりそう
信頼はいずれ排除されたんじゃないの そんなことをしたら執権たる自分の権威の大本の将軍職を任命する人がいなくなるから、結果的に自分の首を絞めることになるだろ 御家人が同意できるのは上皇配流まで。朝廷廃止まではついていけない。
そこまで暴走する北条は御家人からみれば王莽や童卓と映る。南北朝時代と戦国時代が
同時に起こるとんでもないカオスになるだろう。 ◆まず中学校レベルの基礎知識を思い出しましょう。鎌倉期の封建社会は鎌倉殿と武士たちの
御恩と奉公の関係で成り立っている。鎌倉殿に所領安堵を受けるために主従関係を結び、
鎌倉殿の家人を「御家人」と呼ぶ。九条頼経と御家人たちは主従関係にある。
得宗家と御家人は主従関係にはない。ここまではわかりますよね。
宮騒動(1146年)宝治合戦(1147年)を経て、北条氏の幕府内の権力が
固まってきますが、北条一門内での得宗家の優位性が確立できず、
摂家将軍を廃した後は皇子を鎌倉殿に迎えます。三浦氏を討滅した後でも、
得宗家は他の御家人たちとは同輩・横の関係であり、これを縦の関係、つまり主従関係にまで
変えるのはまだ政治力不足であったわけです。
ーーー(このあとも活け神解説は続きます。)ーーー ーーーどうして、北条氏は鎌倉殿になれなかったのですか?−−−
◆御家人たちの身分意識の中では、自分たちの主君とは京都からやってくる軍事貴族で
なければならないのです。戦国時代になると少し事情が変わりますが
鎌倉時代にはまだ平安時代の身分観が残っていたと考えられます。
関東の大豪族たちの主君には源氏もしくはそれと同等以上の家柄でないと彼らは心服できません。
また、4代以降 鎌倉殿は名目上の存在となり、
実力ある者が自分たちの上に来て独裁者になることを忌避したのもあるでしょう。
いずれにせよ、得宗家が自分たちの主君にあるというのはちょっと考えられないことです。
この中世の身分意識は、朝廷(天皇)との血統的な距離を基準にしています。
摂家将軍・皇族将軍はもちろん、先祖の功徳と自らの手腕で鎌倉殿に就いた源頼朝も
例外ではありません。北条氏はこの貴種のハードルを越えられなかった、
と結論付けてよいでしょうね。 ――――承久の乱のときに朝廷をつぶせばよかったのでは?――――
◆いい質問ですねえ。日本の身分意識は全て天皇に帰着しますので、こことの関係を
上手く清算できれば、得宗家は東国武士たちの主君になれたかもしれません。
結果論から行くと朝廷をつぶせなかった。そもそも承久の乱と言うのは
後鳥羽上皇周辺の貴族たちが中心で、五摂家や西園寺などの有力貴族・寺社勢力は
これに反対でした。動員された兵力も畿内を中心とする西国御家人で朝廷と幕府の一部不満分子の
決起に留まり、朝廷全体の総力を挙げての討幕戦争ではなかったんですね。
つまり公武の全面戦争・総力戦ではなかったために、北条氏は朝廷勢力の解体が図れませんでした。
国衙領は依然朝廷の支配地であり、一旦没収された長講堂領(上皇領)も返還されています。
得宗専制が確立する霜月騒動以前の鎌倉幕府は有力御家人による合議制で運営され、
北条氏の覇権が完全とは言い切れません。こんな状況で北条氏が朝廷をつぶすなどというのは
難しかったと思われます。
活け神さん、よく解りました。
ということで、スレッドを終了します。 終了はまだ早い。朝廷はすでに滅んでいたんだよ。
69 :日本@名無史さん:2014/08/15(金) 23:44:10.41
承久の乱が起きる前までの北条家なら確かにそうだろうけど、
承久の乱で 【朝廷を事実上滅ぼした】ことで 北条義時の権威は頼朝に匹敵するくらい絶大なものになった。
その義時や後継者が高い官位を望んでも他の御家人は別に反発なんてしなかったと思うよ。
高い官位なんて欲しくなかったんだろ。
158 :日本@名無史さん:2014/10/07(火) 18:14:40.56
承久の乱で誰がどう考えても【北条義時が朝廷を滅ぼしてしまった】から
以後形式はともかく実質は得宗家(義時の後継者)が天下人になってしまった。
義時はそこまで考えてなかったろうね。 >朝廷はすでに滅んでいたんだよ。
滅んでいたということなので、スレッドを終了します。 予想通りのレスだな、この童貞野郎。これでも読みやがれ、えいっ!
714 :日本@名無史さん:2014/10/13(月) 17:08:55.32
>>712
承久の乱の過小評価だ、あんたは。
承久の乱は【朝廷が武力で滅ぼされた】というのが客観的事象だ。
武力で圧倒されて上皇や天皇が全員配流されたというのは朝廷の滅亡と評価するしかない事象だ。
781 :日本@名無史さん:2014/10/17(金) 11:37:17.92
組織が一丸となってなければ倒されたことにならないとか理解できない理屈だな。
治天の君という朝廷の最高責任者が反対者を拘束してまで行った戦いの結果は
組織に帰属すると考えるのが常識だろ。
だからこそ反対者も居たわけで。
【朝廷が実質的に滅んだ】ことを認めたくないからそんな理解不能な理屈を
展開しているのか?
714 :日本@名無史さん:2014/10/13(月) 17:08:55.32
>>712 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり BS-TBS にっぽん!歴史鑑定.htm
http://www.bs-tbs.co.jp/genre/detail/?mid=kanteiより
11月23日放送
#33「後鳥羽上皇はなぜ乱を起こしたのか?」 承久の乱も、農業団体の反乱みたいなもんだからな。
自分の農地の権利が確認できれば、あとはどうでもよかったんだろ。 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
U4BN5 北条オタが一斉蜂起しだしたwwwwwww
なんで北条スレを一斉にアゲてんだよwwww ただ北条一族というのは徳川一族や足利一族や藤原一族より異質すぎる。
やはり承久の乱が影響してるのかな とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
BJG ◇中公新書
「承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱」坂井孝一 著
平成30年12月20日刊行
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2018/12/102517.html
◇文春新書
「承久の乱 日本史のターニングポイント」本郷和人 著
平成31年1月18日刊行
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166611997
「上皇の日本史」は同じ刊行日で同じ題名だったが、
同業者同士、調整しないのかねw 2冊読了。
院政スレに書いた「上皇の日本史」と同じ傾向があるようで、
坂井本は、「承久の乱」の経過説明、
本郷本は、「承久の乱」論。 むしろ欧米の日本史好きからは、
徳川家康が豊臣を滅ぼした後に大軍で京都に攻め込んで、天皇を滅ぼすor
家康自身が天皇になることはできたんじゃないか?なぜしなかったのか?ということに
興味を惹かれるらしい ナポレオンがヨーロッパを制圧した後に大軍でローマに攻め込んで、教皇を滅ぼすor
ナポレオン自身が教皇になることはできたんじゃないか?なぜしなかったのか? ローマ教皇は宗教的権威だろ
日本で言えば出雲大社神主みたいなものだ
日本国王(倭国王)である天皇とは性格が違う 関東地方を制した平将門が新皇と名乗った
日本史ではイレギュラーなことだが、世界史ではこっちのほうが自然なのだろう
天皇観は日本独特なもので面白いと思うね 北条義時が平将門を真似て天皇(新皇)になったら、
三浦足利千葉宇都宮など有力御家人が従わないだろう 北条は関東御家人の中でも家柄が低いから鎌倉殿になれなかった。
鎌倉殿になれなかったからついぞ将軍になれなかった。
将軍にスラなれない北条が皇位につくなど無理
大体 「朝廷を滅ぼす」の意味がワカラン。北条オタの>1は承久の乱を勘違いしている。
承久の乱は後鳥羽一派のフライングであって、朝廷総体は動かなかった。だから、御家人は義時に味方した。
貴族・寺社・非御家人全部に対する殲滅戦に付き合う御家人などいない。御家人はつねに損得勘定で動く。
承久の乱は北条についたほうが自分らに利益があると判断しただけ。 >>86
例え朝廷総意の北条義時追討であっても承久の乱時点では
もう東国御家人は朝廷側には付かないよ
和田合戦の勝利で義時の権力が確立する以前に追討すべきだったな 天皇方についた武士は所領を没収されたと習ったけど、
それって、何かの台帳に登録された名前を削除したの?
削除する権限は幕府方にあるの? https://www.jiji.com/jc/article?k=2020102800453
承久の乱絵巻、80年ぶり発見 京都文化博物館〔地域〕
2020年10月28日10時41分
後鳥羽上皇が鎌倉幕府の北条義時の追討を命じ敗れた「承久の乱」を描いた
「承久記絵巻」が約80年ぶりに発見された。
和歌山県高野山の龍光院が所蔵し、1939年に博物館で展示されてから所在が分からなくなっていた。
承久記絵巻は全6巻で、各巻の長さは約15メートル、縦は約50センチ。
義時と御家人の協議や宇治川合戦など36場面が詞書きとともに描かれている。
今年1月、個人で所有していると聞いた京都文化博物館(京都市中京区)の学芸員が、
木箱に絵巻が入れられているのを発見した。
紙の質や装飾などから江戸時代初期のものとみられるという。
承久の乱の経緯に関する絵巻は他に残っていない。
同館は来年4〜5月、特別展で全巻を公開する予定。
https://www.jiji.com/news2/kiji_photos/202010/20201028bo01_p.jpg ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています