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歴史学者「磯田道史」を語るスレ [転載禁止]©2ch.net

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0001日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/29(土) 21:59:05.63
今メディアで引っ張りダコの若手研究者。専門は近世・近代の日本。静岡文化芸術大学教授。

文化政策学部 教員紹介 > 磯田 道史
http://www.suac.ac.jp/education/teacher/culture/isoda.htm

代表著書
武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新
近世大名家臣団の社会構造
無私の日本人

現在のレギュラー番組と連載
英雄たちの選択 NHK BSプレミアム
http://www4.nhk.or.jp/heroes/
安住紳一郎の日曜天国 TBSラジオ ※毎年10月頃に出演
http://www.tbsradio.jp/nichiten/index.xml
磯田道史のちょっと家康(いえやす)み 広報はままつ
http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/koho2/pr/kouhou_all/1410/ieyasumi.html
磯田道史の古今をちこち 読売新聞
0584白馬青牛 ◆sKm0uQPecU
垢版 |
2017/05/12(金) 02:39:23.47
>>578
さて、浜通りの戊辰戦争で功利主義の大村益次郎はどう指揮するんか?
結局戦闘で勝利を得るんは、戦術の常識から外れて、敵さんへの思いもせん非常識な攻撃することなんよ。
http://www.hodaka-kenich.com/history/2014/05/01133931.php
{戊辰戦争で、仙台藩が最大の犠牲者を出したのは、ここよりもひとつ前、浜通りの戦い『駒ヶ岳の
戦い』である。熾烈な激戦となり、仙台藩は数百人の死者を出している。のみならず、官軍側も、
多くの犠牲者を出している。
 広島側の資料を見ると、戦場が「駒ヶ岳山麓」の水田地帯だった。すさまじい仙台の猛攻に
対して遮蔽になるものがない。敵から丸見えの広い田園地帯で行われた。仙台藩が総力をかけた、
猛烈なる防戦で、一兵も進めない状態に陥っている。
 芸州・神機隊が「ここは駒ヶ岳の関門に向って、正面突破を図ろう」と提案した。すると、
「長州藩の隊長はこれには周章(うろたえ)てしまった」と記す。
下関で四か国と戦い、第二次征長でも練磨の、戦い巧者の長州がおびえるほど、仙台藩は強かったのだ。仙台藩は大小砲を激発し「筑前藩も猶予して進まず」。
「この激戦は環視(みているだけ)では解決できず。敵の飛弾を犯し、切り込まざるは利なし。抜刀し突撃するべきだ」
 神機隊はそう主張するが、長州藩、筑前藩の両隊長はついに動かなかった。
『先鋒の神機隊は突貫、突撃した』
 初めのうちは長州・筑前は無謀だと笑っていた。それが驚きになり、やがて賞賛に変わったのだ。
『われらは駒ヶ岳の砲台に登り詰めた。そして、縦横に敵兵を斬殺していく。乱殺に遭った敵は、
兵器や屍を放棄して、仙台藩はことごとく敗走していく』
0585白馬青牛 ◆sKm0uQPecU
垢版 |
2017/05/12(金) 02:41:09.79
>>578
 実際、相馬方面でも広島の神機隊は最強じゃったよ。緒戦からして、7月23日〜26日に至る、
広野の激戦で神機隊は、 44名の死傷者 (死者十数名)が出とる。8月20日、士官以下軍夫計
193名の派遣となった訳じゃ。緒戦に犠牲が多いんは、戦場の常であるが、 広島神機隊は、
「7月24日、賊の砲台を突貫し、抜刀攻撃で縦横に斬殺し、我兵遂に先登、広野駅を占領。
ただし神機隊の進撃が激しすぎるため、総督府より、「進撃すべからず」の命が伝えられる。
25日朝、 敵兵は広野北西本通から、戦いを挑んで来たが、そのつど撃退。前線の芸州・因州
あわせて六百数十名に対し、同盟軍は十数倍に近く、入れ替わり新手の兵を繰り出し猛烈な反撃を
開始した。26日、因州兵が後退したため、神機隊は孤軍奮闘となった。しかし新たに戦線に
投入された長州、岩国の兵約400名が海上より広野海岸に到着。海岸寄りに対峙した敵に
攻撃をはじめた。その機を失せず、神機隊は左翼に対峙していた米沢藩の部隊に突撃し、敵砲台を
奪取した。奥羽同盟軍は広野を完全に放棄し退いた。」
広島神機隊「駒ヶ峰の激戦」じゃが、寡兵の神機隊が、他の官軍諸藩兵がその無暴を嗤笑する中、
「剣を抜き吶喊して突撃を為し、躍りて駒ヶ峰関門前なる敵の砲台に登り、縦横斬殺し、賊兵は
死屍を捨て 遁走せり。」 四日後は駒ヶ峰奪回をはかる奥羽同盟軍が大挙襲来し、
「賊兵頗る猛烈なりしが、我も亦寡兵を以て奮戦し、遂に旗巻嶺下に撃退し、」
「本通の筑前長州両兵苦戦するを以て応援の命阿り、我兵直に進て奮戦し本通の砲台を奪う。」等
激闘した。
四条総督より特に「芸州(広島)藩は毎戦能く奮戦艱苦して賊軍を挫く。 其の軍事上の好機を
致す、深く大慶に存する所」との沙汰を賜った。
0586白馬青牛 ◆sKm0uQPecU
垢版 |
2017/05/12(金) 02:43:49.12
>>578
広島県の安芸の賀茂、豊田の芸南と備後の壮丁の福山連隊も、無謀な正面激突で激戦で勝利したし。
「シンゴラで、タイ軍連隊夫人の尻を射って、程度を下げていたので、ここでは闘牛のように暴れ回った。
敵前で橋を渡るなどということは、常識はずれだ。せっかく連隊主力が上流で渡河したのだから、そのコースを
利用するのが常道である。が、本道上に待機していた一部隊は、本隊が対岸で戦闘を始めると、やにわに橋を
突っ走って行ったのである。どういう考えだったのか、それは判らない。 「たいしたこたァ、にゃァ(ない)」
と、思ったのだろう。 しかし、この無謀な突撃で、橋梁付近が一大乱戦場になったのは事実だ。
大戦果には必ず、こういう常識はずれの行動が付随していることが多い。捨て身になって奮戦していた
グルカ兵が、この緒戦に敗れてからは、日本軍の姿さえ見れば、逃散するか、両手を頭上に上げてゴム林から
出て来たのは、この最初の一撃がいかに痛烈であったかの証明であろう。」
『市川少佐は仰天した。(またか!)と思った。しかし今度だけは無茶だ! とも思った。しかし、
放ってはおけない。「各部隊前へ!」より他になかった…。
 仙台幼年学校の区隊長から、この歩兵十一連隊(広島)の第三大隊に転任して来た市川正は、
しばしば戦理に合わぬ攻撃法をやらかす部下たちを、ほとんどあきれていた。
(これが伝統と言うものだろう!)と、そう思うより他なかった。
 彼らは、ー中、小隊長から一兵まで、平生はまるで平凡だった。
しかし、激戦場にぶつかると、てんで頼もしかった。勝つこと以外には何も考えていないのだった。
「とにかく、こうしましょうや」と提案する中隊長たちの方法は、てんで敵を無視していた。
けれどもそれは百発百中、成功するのだった。』
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