倭の五王の正体についてじっくり検証するスレ [無断転載禁止]©2ch.net
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自分の考えとしては倭の五王のうち讃=『褒』田別と武=大泊瀬幼『武』以外は当てはまる天皇はいないと思う
この説を説明するために前提として
天皇の在位年は古事記における干支が正しいのだとしておく
問題の時代における天皇(大王)は恒久的なものではなく、複数並立したり空位時代があるものであるとする
万世一系の演出のため、空位時代を埋める目的で追尊されたり、
はたまた大王としての実力があるにも関わらず認定されない権力者が多くあったことだろう
そのため即位年数を厳密に記述して空位時代がないようにしてある日本書紀の紀年は後の創作だと断定できる
三国史記との一致から推定した応神天皇ことホムダワケの没年は394年。だが倭王讃の記述は413年〜425年
これは矛盾している様だが、実はカラクリがある
(続く) 五王の当てはめは適当すぎだろ
武は雄略ではないし、讃も応神・仁徳・履中のどれでもない 記紀に載ってないんだからそもそも天皇じゃないんじゃない? 朝鮮半島や山東半島に住む倭人の王の可能性もあるよね 応神天皇と倭王讃の関係を説明するために、古墳時代における皇統とは何かについて私見を述べる
皇統の継承のことを天つ日嗣(あまつひつぎ)と言うのだが、
「ひつぎ」とは即ち「棺」であり、すべての責任をとる最高責任者、
天下に何か悪いことがあったら全部こいつの所為ですから殺して棺に入れて人柱として埋めてしまいなさい、
そんなニュアンスがありそうだ
でもって、実は応神天皇本人は倭王賛として入貢する前に死んでいる
だが政そのものは問題がない。なぜなら息子である大山守命と大雀命(後の仁徳天皇)が皇位に就かないままで分担して政治を行っていたからだ
(古事記には「「大山守命(オホヤマモリノミコト)は山海の政せよ。大雀命(オホサザキノミコト)は食国(ヲスクニ)の政を執りて白したまへ。宇遅能和紀郎子(ウヂノワキイラツコ)は、天津日継(アマツヒツギ)を知らしめせ」とのりたまひき」とある)
二人の皇子は父の築いた帝国を分割しないためにわざと大王を名乗らずにいた
(記紀には互いに譲り合ったとある)
だから「天つ棺」は依然応神天皇のままである
するとどうだろう。倭王として中華王朝へ朝貢するために名乗る名は応神天皇=賛にせざるをえなくなるのだ
倭王賛の正体、
それは父の名を借りて王位を拒んだ後に仁徳天皇と追尊されることになる皇子とその異母兄大山守皇子なのである >>2
武と賛は名前の意味と活動年代と活動範囲が一致している
他は記紀にある天皇ではない
最大の候補は筑紫国造だ
履中〜安康にかけて記紀の記述は殆どが畿内での出来事となっているのだが
これが仁徳天皇の死によってついに大和朝廷が崩壊し、地方政権が再独立したからだろう
実は一つだけこの頃の筑紫についての記述を見つけたんだが
それが日本書紀の履中天皇5年で「於筑紫所居三神、見于宮中、言「何奪我民矣、吾今慚汝。」於是、禱而不祠。」とある
きっとこれは筑紫の分裂を示すものだろう >>7
その場合、応神崩甲午を394年、仁徳崩丁卯を427年とするしかないでそ
普通に讃=仁徳じゃ何が都合わるいの? >>8
そんなに年がら年中特筆大書すべき事件が全国的に起こるわけないだろ 仁徳天皇が皇子のままでいたという説をとると、記紀での応神天皇との混乱・重複の理由がそこにあるとわかる訳です
んで、大山守皇子がぬっ殺されて、皇太子の菟道稚郎子と大雀皇子との間で王位の譲り合いをした後、最後まで生きていた大雀皇子が仁徳天皇として認定を受けました
古事記の干支によれば仁徳の子履中の在位が427-432年、その弟反正が432-437年
ここまではいい
だがその弟の允恭の在位年が古事記には載っていない
なので允恭天皇とその次の(即位3年で誅殺された)安康天皇は雄略天皇との間を埋め合わせるために別の資料から切り張りして認定した天皇なのだとわかる
允恭天皇の治世は日本書紀によると42年も続く安定政権で、(あれほど新羅を目の敵にする記紀の中で珍しく)親新羅だったことが伺える
きっとこの頃の畿内は地方政権として小さくまとまり、関門海峡を筑紫に塞がれたために日本海側から新羅と交流していたのだろう
朝鮮半島へ渡るのも安全な玄界灘ではなく日本海の荒波を超えていく、それも古代の未熟な造船技術で
「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」を名乗るには苦しすぎる
その一方で筑紫では大陸との交易を独占して富が蓄えられることになる
そうなると邪馬台国が一大卒を置く以前の奴国と同じ状態に復したともいうことができる
もしかすると「倭王讃没し、弟珍立つ」は中央での権力争いに敗れた皇子が筑紫に逃れて権力を握った事を示すのかもしれないが、推測の域は出ない
>>9
当時は殯の風習があった
陵に葬られるまでは完全に死んだことにはならない
大王が死なないなら後継者争いは起こらない→優しい世界
ちょうど今の時代でも創価学会では池田大作の死が公然の秘密な様に
>>11
そんなレベルではない
以前は盛んに蝦夷が入貢したり朝鮮半島で軍事活動していたのが、絶無といえるくらいにまでなくなった >>10
「大和朝廷は順調に空白の古墳時代を何事もなく拡大しました」説では倭の五王が何者かを説明できず
「ウリナラは古代チョッパリなんかに支配されたことはないニダ」説への反論の手口すら限られてしまう
だがまず一般的な九州王朝説はトンデモで到底受け入れられない
九州が日本列島の主要地域だった時代は邪馬台国が奴国を制圧したときに終わった
邪馬台国は大和、神武東征のモデルとなった出来事は3世紀後半に起きて、
西都原と纒向から同時多発的に前方後円墳体制が拡散して大和朝廷が首長社会から領域国家へと変貌を遂げた
5世紀初頭、倭人が倭と外国の境を自分たちで気にし始めた時、「倭王珍」により統一の試みがなされた
だがその変革は失敗に終わり、大和朝廷は一度瓦解した(考古学的裏付けがあるのかは知らんけどたぶん)
この時に九州の地方政権が珍・済・興を名乗って従前の大和朝廷の外交を引き継いだ(または奴国時代のやり方を復活した)
その再征服は「倭王武」ことワカタケル大王によって為された
こんな感じに
一時的な実質的多元王朝、もしくはヤマト王権一時不在説の存在を考えてみるのもいいんじゃないかな? 倭国と言ってる時点で北部九州と南朝鮮王朝
で大阪まで進出してた可能性高くても 首都は伊都 ネットで調べたところ、倭の五王は朝鮮半島にいたそうだ。
日本の歴史とは関係ない。 464 名前:日本@名無史さん [sage] :2016/03/10(木) 18:02:57.90
コピペ
漢委奴国王印には、漢の「委奴」国王と記されている。
(1)委奴とは、大倭である
「委奴」は「倭奴」であり、後置修飾法が用いられた、奴(nui)=大+倭、すなわち、大倭であるという。
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/CB/0011/CB00110L001.pdf
(2)委奴は、九州全体である
魏志倭人伝にある通り、倭人は朝鮮半島南部から
九州、そして四国及び本州の一部にもいることが知ら
れていた。
後漢書に、「倭奴國」は「倭國之極南界也」とされるのは、九州がそれらの最南端という意味である。
(3)委奴をイドと誤読した
しかし、倭人は漢委奴国王が読めない。
後に、「委奴」と記された経緯を知らないが漢字は読める人に読ませると、「イド」と読んだ。
伊都国の人は、ワドあるいはワヌイではなくイドということは、九州全体ではなく、この王都がイドなのだ
と誤解するようになり、魏使に、そこをイドと説明した。
魏使は、この実質的な都を伊都国と記した。
(4)魏使が去った後、伊都国は滅ぼされた
魏使がやって来た時、伊都国も奴国もあった。
伊都国は攻められ、志賀島に逃げたが、追いつかれ海に逃る直前、『これだけは敵に渡してなるものか!』
と、咄嗟に印を隠した。
(5)敵は西から攻めてきた
伊都国から船を使わなければ志賀島に上陸できないが、船を使ったなら志賀島に上陸するとは考えにくい。
伊都国の王族は船を使わず、西から攻められ砂地を伝って志賀島に逃亡し、追いつかれる直前、海に身を
投げた。 >>14-15
任那と倭は倭王の称号の中で別々の領域として扱われている
朝鮮側の正史を見ても対馬は倭の地で釜山は韓の地とはっきり分かれている
倭王は朝鮮人だなんて下手な電波は飛ばしてはいけない
讃と武に関しては名前に明らかな一致があり全国規模で権力を拡げた記録のある大和の大王を差し置いて倭王を名乗れる訳がない
それ以外に関してはアリだ
特に倭王珍、ここで初めて「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」を自称するのだが
これは倭に対立王がいて唯一の王朝ではないために中華王朝の承認を以てして正当性を主張したからだ
珍の入貢は438年、この前年437年に反正天皇が崩御
次代の允恭天皇は古事記ではなぜか前の代とは違い干支による紀年がなされておらず、どれだけの期間の在位なのかが不明だ
これは史料の記録された宮殿が異なる(皇統を争って分裂した)からだろう
自分としては末子相続として允恭天皇、長子相続として履中天皇とが並び立った対立天皇時代が仁徳天皇の死後にあったと考えている
そして允恭天皇の後は次兄の反正天皇が継ぎ、その後は畿内での権力を引き継げずに消滅したか地方へ落ち延びたかした
允恭天皇は末の子で若いために兄たちよりも長く生き、結果として反正天皇の次の天皇として認定されるに至った
だが允恭天皇の記録には一切筑紫や半島への権力行使はない
それどころか新羅と仲良しこよし
応神朝の権力は引き継いでいない >>16
「委奴」の「委」は「ヰ」
「伊」は「イ」
漢語での元々の発音が違うし、日本語でもこれが一緒になったのは平安時代以降
「奴」を「ド」と読むのは唐代の長安音
この頃はまだ脱鼻音化は起きていない
言語歴史学的に全く歯牙にも掛けられない与太話(ゴミ) 卑弥呼は称号であって固有名詞ではないというが
しかし台与は固有名詞だろ
トヨという名で女王に相当するのは記紀では飯豊女王しかいない
そうすると卑弥呼と台与の間にいた男王は清寧天皇ってことになる
そうすると卑弥呼は
1、雄略天皇の后妃のうちの誰か
2、雄略の皇女(=清寧の姉妹)のうちの誰か
のどちらかでしかありえないな。
当然、雄略は倭王武よりもずっと前の人物ということになり
倭王武が雄略ではありえないw >>20
雄略天皇はそんな新羅も高句麗も百済もない時代にはいない
韓国語で万葉集は解けるニダ並みの頭悪い恥ずかしいパズルはよせ
そもそも「台与」を勝手に「トヨ」と呼んでいるのは後世の日本人だけに過ぎない
今の日本語の音韻で言ったら「チヨ」とか「チエ」かもしれん
記紀に出ているのが「邪馬台国」ではない以上、天皇家のご先祖様認定の対象にはならない
いい加減に目を覚ませ >>21
ま〜たそうやって他人をニダ呼ばわりか。誹謗中傷はニダビトの始まりだぞw
1行ごとに反論できるが面倒くせぇなぁ >>21
1)雄略天皇はそんな新羅も高句麗も百済もない時代にはいない
2)「台与」を今の日本語の音韻で言ったら「チヨ」とか「チエ」
3)記紀に出ているのが「邪馬台国」ではない
↑どれに反論してほしいか一つに絞れ >>22
恥ずかしい間違いパズルで悦に浸るのが新羅人の始まりでそwwwwwwwwww
畝傍山をウネメハヤって言って采女をレイプしたんだと疑いをかけられるほど古代からなーんも変わってない素行の悪さよwwwwww >>23
釣り針大きすぎwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww だから>>21に釣られてやろうといってるんだが?
>>21がいってるのは要するに>>23であげた3点なわけだろ >>26
スレと関係ないんだけどさ、俺「釣り」とか「釣り師」っていうのは、
釣り師 ↓
. /| ←竿
○ / |
. (Vヽ/ |
<> |
゙'゙":"''"''':'';;':,':;.:.,.,__|_________
|
餌(疑似餌)→.§ >゚++< 〜
の組み合わせだと思ってたんだけど、
最近自称釣り師がダイレクトで自分の本音を攻撃されて「釣れた!」とか
言ってるの多いよね。
これは、どっちかというと、
,〜〜〜〜〜〜 、
|\ ( 釣れたよ〜・・・)
| \ `〜〜〜v〜〜〜´
し \
゙'゙":"''"''':'';;':,':;.:.,., ヽ○ノ
~~~~~|~~~~~~~ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ト>゚++<
ノ)
かと思うんだけど、どうよ? 高句麗と戦争してたくらいだから、倭の五王は朝鮮半島にいたんだろ。
日本から軍隊を送れるわけがないんだから。 >>30
いたとしても親征によってであって本拠地は日本列島、すくなくとも筑紫だ
倭王を名乗っていてそれに付随する称号の中の半島の諸国が倭とは別々になっているのだからな
古事記の神功皇后の記述に「新羅国は御馬甘(ミマカイ)と定め」とあり
応神天皇陵の陪塚とされる古墳からも馬具が出土しているのを見るに
応神天皇ことホムダワケは新羅から大量に馬を仕入れて全国的な覇権を確立したことが伺える
(それ以前は騎馬が一般的ではなく軍事勢力の拡大が徒歩圏に限られていた)
倭王讃が朝鮮半島にコネクションのある人物だということ自体には異論はないが
朝鮮よりも広い日本の中で大和までは間違いなく勢力下に収めるられる場所が最大の軍事拠点だと考えなければならない
それは瀬戸内と対馬海峡の両方を海運で急行できる筑紫以外にはあり得ない
ホムダワケが葬られた地は古市古墳群だろうが一番長くいた地は九州北部だったことだろう(実際子供時代はそこにいたことになっているわけだし) >>32
雄略は応神の子孫ということにされているものの
古事記の中の人からの異様な嫌われ様は確かに怪しい
応神〜反正が一つの王朝で、雄略と武烈(そしてもしかすればヤマトタケルのモデルとなった人物)でまた一つの王朝、
清寧は空白地帯にいた大和で最高責任者だった王ですらない宿禰、顕宗と仁賢は…あれはなんだろうね実在したとしても関西地方の首長レベルかな 古代朝鮮王朝時代劇見てると
フィクション強めでいいから
倭王時代劇見てみたい気がする >>31
>(それ以前は騎馬が一般的ではなく軍事勢力の拡大が徒歩圏に限られていた)
はぁ?通勤じゃあるまいし何言ってるんだか
地中海諸国を初めて統一したローマ帝国の軍団もほとんど歩兵ばかりだぞ >>30
辛卯年(391年)以来倭が海を渡りて百済新羅を破り臣民と為す(公開土王碑文)
新羅本紀によると対馬に軍営が置かれていたんだそうで >>37
ローマ帝国の移動手段は船だろう
沿岸航海術で行ける範囲を言えばローマの地中海がヤマトの瀬戸内海に相当する 日本国
記録の上に置いて「日本」の名称が最初に登場するのは任那日本府である。その実体は諸説あるが、
そのころの我が国の国名は「日本」国ではなく「倭」国だったから、「日本」というのは朝鮮南部に
存在した小国の名かあるいは地名だったのではないか。おそらく木満致はその地を中心に任那を支
配していたのでは。その木満致が倭国に渡来し、蘇我氏となり、天皇家になった。その後、天皇家は
先祖の地にちなみ「倭国」を「日本国」に改めたのではないだろうか。そう考えれば「旧唐書」にあ
る「日本国は倭国の別種なり・・・・・日本は旧小国、倭国の地を併せた」との記載と符合する。
http://www.ookuninushiden.com/newpage63.html >>39
ガリア戦記とか読んでみろよ徒歩でガリア地方を横断してゲルマンまで行ってるぞ 日本という名称が史書にあらわれるのは任那が滅んだ(562年)のずっと後で時代が合わない
釈日本紀では任那日本府のことを任那之倭宰と呼んでいることから恐らくこれが当時の呼称だったと思われる >>42
任那は滅んでも、まだ百済と結託して復興しようとしていたんだろ。
白村江で諦めて、いっそここを日本にしようということになった。
何れにせよ、日本はもともと任那の一部であったという事実は揺るがない。 >>41
ゲルマニアなんか支配維持できなかったやんけ
>>42-43
コピペ荒らしのネタに反応すんなよ はぁ?任那滅亡とか白村江から100年前の話だろ
異斯夫によって王族も含めてすべて新羅に連行されたから跡形もない >>44
ガリアの全地域を完全征服したしゲルマニアもカエサルが領土の編入したインフェリオルとスペリオルは
その後数百年にわたって維持されてるが 4世紀以前の日本にはローマの様な馬車の通る道がない
ローマ街道に相当する駅伝制と街道の整備は8世紀まで待たれる カエサルが遠征したころのガリア地域とかそもそも道路自体存在しない未開エリアだが 古墳が全国で同じように作られていた時代には日本は中央政権によって全国統一されていたってことだよね
そしてそれを達成するには陸路や海路で長距離移動をしていたということにもなる
でなければ勝手にあちこちの集落で墓なる物を作ってみたらたまたま同じ古墳なる物でしたってのはありえないからね フランク王国時代に入っても殆ど街道が整備されてなかったため物流は水路頼み
パリやウィーン、ニームといったほとんどの町が真ん中を河が貫通するように造られているのはそのため >>49
アッピア街道で紀元前4世紀
その調子で征服地に道を作り続ければその先さらにその先へとさらなる征服が可能
征服よりもその後の維持のためのインフラ整備の方がずっと重要
>>50
祭祀王として制度を共有するということであって
軍事王として広範囲を支配するやり方が始まるのは倭王讃からだ 高句麗や渤海とかだだっ広いわりにやたら山ばかりだけどどうやって統治していたのか不思議だわ 税の運搬の手段は?とか各集落の位置はどうやって把握してた?とか疑問が尽きないわ 丸都山城とかえらく山奥にあるけどあそこまでどうやって運んだんだ
敦化もすごい山奥にあるぞ >>58
どこが?
丸都山城は太い鴨緑江がすぐ近くを流れてるし
敦化に至っては差し渡し50qくらいある大阪平野並みに広い盆地の中じゃないか 例えばさぁ高句麗は5世紀には長春市にあった扶余を版図に加えてるけどそこからどうやって税を運搬していたんだ
http://cfile23.uf.tistory.com/image/2317B24E533E35FE10CC39
間には長白山脈があって陸路は使えない
鴨緑江使うとしても一旦遼河を下って山東半島を一周しなければならない
こんな遠隔地を恒常的に統治できたのはなぜか? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>60
高句麗が征服したのはどっかの近場にあった東扶余であって長春にいた扶余ではない なぜ北朝鮮辺りが、
そんなに偉そうにしているんだ??
と思われているず こんな話ばかりなんだけど
「三國志に部族の長のようなキャラクターいただろw」
邪馬台国?天皇? 三國志の時代?
あの当時だから…部族の長でも、凄い人物だったのでは、頭も良かった? その部族の長より
ワニさん、ワニさん、言われている人
この人物のほうが、アレなのでは?? ま、王仁さんは百済から貢がれて来たからな
当時ありもしない千字文教えたりといろいろとアレ もののけ姫
それと、あの粉雪(アニメ)の動画?
なぜ同じなんだろう ありもしない とも言い切れないけど
成立以前は確かだが、もしかすると別の千字文の存在も比定できないし、
何でそんなこと記録に残ったかの史料批判もいる おそらく王仁さんのほうだと思う
あの震災後も
「聖人でも殺したのか」
「親戚でも殺されたのか?」
このような書き込みを見たからね あの写真があるでしょ
老婆「むかーし伊達郡というところに住んでいたんだよ」
ちなみに珍走、右翼?のような集団との付き合いはない 倭国が漢字をやり取りしていたのは、2000年前からだぞ。
だって、その時代から中国の王朝と外交していたわけだから。
ただ、国内的に広く漢字を国語として採用してなかっただけで、
外交とか貿易には、必然的に漢字を使用するからな。 老婆談
「当時の職業はわからない」
「馬に乗り、城に通っていた」
「本(書)なんかも沢山あったんだよ。
泥棒に入られたり。掛け軸や壺なんかも、あげたり、売ったり」
「それから、こっちに(いま住んでいるところ)に出て来たんだよ」 本当の話
「家では蚕を飼って、機織り」(そのような家の人と結婚)
「広瀬座、そこに行っては芝居ばかり観ていた」 数年前の、とあるスレッド
謎の曲??
戦争を知らない〜 僕らは〜
中華一番〜 >>63
いやいや牟頭婁墓碑から北扶余が5世紀初頭に北扶余の併呑されていたのは明らか
隋に備えて作った千里の長城も吉林省の農安まで伸びていることが確認されているしな つまり長寿王の治世には北は扶余の首都があった農安から南は中原高句麗碑のある現在の忠州市まで南北900キロに及ぶ規模にまで版図が拡大していたわけだが
山ばかりでろくに街道もなかった当時一体どうやって高句麗は統治していたんだろう >>78
あんたの目は節穴か?
東北平原との間を二密河沿いの沖積平野がつないでいて馬が楽々走れる余裕のある幅広い天然の切り通しになっている
https://goo.gl/maps/436mJ5j7SG32 首都のある集安の国内城から二密河まで馬を使っていける道はねえよ
唯一渾江が通じているが船しか通れない
当時の高句麗に船あったかと思ったけどそういや南朝にも朝貢してたな 古代は統治なんてそんな大袈裟なものじゃないだろ
実際は細々と暮らしてる部落だらけで反乱も独立もしないだろうし政権が勝手に組み入れてるだけだよ
地図上の国内地域を全て回ってるわけではないだろうし全てに駐屯させてるわけでもないでしょうね >高句麗の強靭な馬
なんだそりゃ
蒙古馬の突然変異でもいたのか?
コレイヤンファンタジーもいいかげんにしろ http://cfile10.uf.tistory.com/image/1308AC4050B8E4280D9E8B
高句麗の城の分布図見てるとこんなとこに築いてどうすんだって山奥までびっしり作ってるな
人口すかすかだろうによくやるわ 普通に考えて城の多いところが当時人口密度高かったんだろ 全国の八幡宮の総本社は応神天皇陵に隣接する誉田八幡宮ではなくなぜか豊前の宇佐神宮になっている
その祭神は八幡大神(応神天皇)に加え、比売大神(宗像三女神)、神功皇后
いづれも筑紫に縁が深い
治世の大部分を畿内で過ごさなかったからだろうか
特に宗像三女神に関しては日本書紀の履中天皇五年に「何奪我民矣、吾今慚汝。」と言って筑紫の民を奪った大和朝廷を咎めている
この記述から、履中天皇を戴いた大和の権力は宗像氏に認められなかったことが伺える
また、日本書紀での応神天皇の崩御した場所も明宮なのか大隅宮なのか釈然としないことも気になる
「既而率其三婦女、以至津國及于武庫而天皇崩之、不及。」の部分だけを読むと天皇が三婦女を連れてくる途中に武庫で死んだとも読めてしまう
本当は応神天皇こと倭王賛は古事記に記された推定没年394年よりも後も生き続け、
この年に息子たちに大和朝廷の運営を任せ自らは九州に本拠を置いて朝鮮半島と畿内両方を監督したと考えるのはどうだろう? >>88
あれが応神天皇陵という根拠も今のところ薄弱だけどね。なんで河内の古墳が
あんなに巨大化したのかも、今のところ不明だけど。
>息子たちに大和朝廷の運営を任せ自らは九州に本拠を置いて朝鮮半島と畿内両
方を監督したと考えるのはどうだろう?
なるほどだけど、そもそも応神が九州を根拠にしながら大和に出て行った理由が
よくわからない。それほど当時九州が大和に軍事力で圧倒していたとは思えない
が。仏教導入の始祖としても、やはり物足りない。大和が出馬を乞うたならわか
らないでも無いが。 >>89
>そもそも応神が九州を根拠にしながら大和に出て行った理由が
>よくわからない。
むしろ逆に軍事力で敵わないからこそ、交易ルートを押さえていてもご機嫌取りが必要だったんじゃないかね
だから港湾や治水の公共事業を大々的に行って収入を民へ還元した(巨大な陵墓は掘削された土を盛って作られた)
もし関門海峡を封鎖できるのをいいことに好き勝手やれば瀬戸内の大和・吉備・日向が連合して筑紫は討伐されてしまう
それに朝鮮半島での戦いのためには列島の人的資源が不可欠だ
両端の目的地と途中の経由地とが同一の政権の傘下となれば、
治安も維持され、ヒト・カネ・モノも円滑に行き来する
応神朝の成立にはどうも海人の宗像氏が深く関わっているみたいに見える
大陸と大和とを結ぶ航路の守護者として祀り上げられたのだろう
そもそも九州王朝説などというバカ話をでっち上げなくても父親の仲哀天皇の宮殿は福岡と下関にあったと伝えられている
朝鮮半島で民間軍事会社も営んでいた関門地方の凄腕ビジネスマンが海運業者にヘッドハンティングされて大和でゼネコンをやり始めた
今風に言えばこんな感じ ヒト・カネ・モノって言葉おじさんはほんと好きやな
第一次産業主体の地産地消社会で人や物の交流はほとんどないし当時の日本に貨幣経済はそんざいしないだろ ヒト(兵士と労働者)
カネ(金属)
モノ(食料)
地産地消社会から初めて盛んな人や物の交流に脱皮させたからこそ
あのでっかい陵ができたんだぜ
ああそうそう、治水工事の労働者は新羅からも来てたそうだよ
堀江と茨田堤を築造する件で「是歲、新羅人朝貢、則勞於是役」だとさ
朝鮮人強制徴用の一番最初の例だから韓国は仁徳天皇に謝罪と賠償を請求しなきゃ モノ(食料)って当時の日本は村落間で食料を輸出や輸入してたりしてたのか?
鉄製農具も普及するのは平安時代になってからで金属の需要はほとんどない
大王ですら目と鼻の先に精々デカい土盛りやちっさい堤防を作る程度で街道や水運が整備されたり形跡もない
だから戸籍も必要なかったわけだ つまり大王すらローカル権威にすぎず大和朝廷は首長の寄り合いにしか過ぎない
だから文字も戸籍も官僚制度も普及しなかった
大体その例えっておかしくないか?
オッサンの大好きな経営学のヒト・モノ・カネとは大きくニュアンスがずれてるんじゃないの >>93
古事記に「大雀命(オホサザキノミコト)は食国(ヲスクニ)の政を執りて白したまへ」とある
食国とは朝廷に食料を提供する各地方のこと
運送手段は海運があればそれで充分
この頃は陸上交通の不便な場所は支配下に入っていない >>94
外交文書は大和で独自に書かれずに九州で全てを監督する倭王讃が作った
と言ったら?
(オッサンってなんやねん(´・ω・`)ショボーン) 結局は実在天皇を崇人天皇からにするか応神天皇からにするかで全てが変わる >>99
記紀の作られた目的の一つとして、朝廷の傘下の各氏族の出自について天皇家と関わりを示し、朝廷の支配の正当性をアピールすることがある
仲哀天皇までの天皇も氏族の伝承として伝えてきた祖先の名前としては実在したとみていい
ただもちろん名前だけ合ってる天皇の事績は必ずしも事実だったり時系列が合っていたりする訳ではない
けれどもある程度の史実の反映もあったりもする
例えば四道将軍のうち、北陸へ遣わされた大彦命は日本書紀では引き返していて、
丹波道主命は山陰道がその先の出雲まであるにもかかわらず丹波止まり
この征服されなかった領域は丁度四隅突出型墳丘墓の分布域と重なる(いわゆる出雲王権説な) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています