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倭の五王の正体についてじっくり検証するスレ [無断転載禁止]©2ch.net

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0001日本@名無史さん
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2016/03/10(木) 03:04:56.04
自分の考えとしては倭の五王のうち讃=『褒』田別と武=大泊瀬幼『武』以外は当てはまる天皇はいないと思う


この説を説明するために前提として
天皇の在位年は古事記における干支が正しいのだとしておく

問題の時代における天皇(大王)は恒久的なものではなく、複数並立したり空位時代があるものであるとする
万世一系の演出のため、空位時代を埋める目的で追尊されたり、
はたまた大王としての実力があるにも関わらず認定されない権力者が多くあったことだろう
そのため即位年数を厳密に記述して空位時代がないようにしてある日本書紀の紀年は後の創作だと断定できる

三国史記との一致から推定した応神天皇ことホムダワケの没年は394年。だが倭王讃の記述は413年〜425年
これは矛盾している様だが、実はカラクリがある
(続く)
0002日本@名無史さん
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2016/03/10(木) 03:07:55.14
五王の当てはめは適当すぎだろ
武は雄略ではないし、讃も応神・仁徳・履中のどれでもない
0003日本@名無史さん
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2016/03/10(木) 03:10:40.64
記紀に載ってないんだからそもそも天皇じゃないんじゃない?
0007日本@名無史さん
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2016/03/10(木) 03:30:52.84
応神天皇と倭王讃の関係を説明するために、古墳時代における皇統とは何かについて私見を述べる

皇統の継承のことを天つ日嗣(あまつひつぎ)と言うのだが、
「ひつぎ」とは即ち「棺」であり、すべての責任をとる最高責任者、
天下に何か悪いことがあったら全部こいつの所為ですから殺して棺に入れて人柱として埋めてしまいなさい、
そんなニュアンスがありそうだ

でもって、実は応神天皇本人は倭王賛として入貢する前に死んでいる
だが政そのものは問題がない。なぜなら息子である大山守命と大雀命(後の仁徳天皇)が皇位に就かないままで分担して政治を行っていたからだ
(古事記には「「大山守命(オホヤマモリノミコト)は山海の政せよ。大雀命(オホサザキノミコト)は食国(ヲスクニ)の政を執りて白したまへ。宇遅能和紀郎子(ウヂノワキイラツコ)は、天津日継(アマツヒツギ)を知らしめせ」とのりたまひき」とある)

二人の皇子は父の築いた帝国を分割しないためにわざと大王を名乗らずにいた
(記紀には互いに譲り合ったとある)
だから「天つ棺」は依然応神天皇のままである

するとどうだろう。倭王として中華王朝へ朝貢するために名乗る名は応神天皇=賛にせざるをえなくなるのだ

倭王賛の正体、
それは父の名を借りて王位を拒んだ後に仁徳天皇と追尊されることになる皇子とその異母兄大山守皇子なのである
0008日本@名無史さん
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2016/03/10(木) 03:51:15.33
>>2
武と賛は名前の意味と活動年代と活動範囲が一致している
他は記紀にある天皇ではない
最大の候補は筑紫国造だ

履中〜安康にかけて記紀の記述は殆どが畿内での出来事となっているのだが
これが仁徳天皇の死によってついに大和朝廷が崩壊し、地方政権が再独立したからだろう

実は一つだけこの頃の筑紫についての記述を見つけたんだが
それが日本書紀の履中天皇5年で「於筑紫所居三神、見于宮中、言「何奪我民矣、吾今慚汝。」於是、禱而不祠。」とある
きっとこれは筑紫の分裂を示すものだろう
0009日本@名無史さん
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2016/03/10(木) 03:56:30.08
>>7
その場合、応神崩甲午を394年、仁徳崩丁卯を427年とするしかないでそ
普通に讃=仁徳じゃ何が都合わるいの?
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