464 名前:日本@名無史さん [sage] :2016/03/10(木) 18:02:57.90
コピペ

漢委奴国王印には、漢の「委奴」国王と記されている。

(1)委奴とは、大倭である
「委奴」は「倭奴」であり、後置修飾法が用いられた、奴(nui)=大+倭、すなわち、大倭であるという。
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/CB/0011/CB00110L001.pdf

(2)委奴は、九州全体である
魏志倭人伝にある通り、倭人は朝鮮半島南部から
九州、そして四国及び本州の一部にもいることが知ら
れていた。
後漢書に、「倭奴國」は「倭國之極南界也」とされるのは、九州がそれらの最南端という意味である。

(3)委奴をイドと誤読した
しかし、倭人は漢委奴国王が読めない。
後に、「委奴」と記された経緯を知らないが漢字は読める人に読ませると、「イド」と読んだ。
伊都国の人は、ワドあるいはワヌイではなくイドということは、九州全体ではなく、この王都がイドなのだ
と誤解するようになり、魏使に、そこをイドと説明した。
魏使は、この実質的な都を伊都国と記した。

(4)魏使が去った後、伊都国は滅ぼされた
魏使がやって来た時、伊都国も奴国もあった。
伊都国は攻められ、志賀島に逃げたが、追いつかれ海に逃る直前、『これだけは敵に渡してなるものか!』
と、咄嗟に印を隠した。

(5)敵は西から攻めてきた
伊都国から船を使わなければ志賀島に上陸できないが、船を使ったなら志賀島に上陸するとは考えにくい。
伊都国の王族は船を使わず、西から攻められ砂地を伝って志賀島に逃亡し、追いつかれる直前、海に身を
投げた。