倭の五王の正体についてじっくり検証するスレ [無断転載禁止]©2ch.net
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自分の考えとしては倭の五王のうち讃=『褒』田別と武=大泊瀬幼『武』以外は当てはまる天皇はいないと思う
この説を説明するために前提として
天皇の在位年は古事記における干支が正しいのだとしておく
問題の時代における天皇(大王)は恒久的なものではなく、複数並立したり空位時代があるものであるとする
万世一系の演出のため、空位時代を埋める目的で追尊されたり、
はたまた大王としての実力があるにも関わらず認定されない権力者が多くあったことだろう
そのため即位年数を厳密に記述して空位時代がないようにしてある日本書紀の紀年は後の創作だと断定できる
三国史記との一致から推定した応神天皇ことホムダワケの没年は394年。だが倭王讃の記述は413年〜425年
これは矛盾している様だが、実はカラクリがある
(続く) >>236
当初高句麗で後から高麗に変えたってきいたぞ カン丘倹碑文では単に句麗
高麗と自称するようになったのは長寿王の頃 天皇家って姓が無いっていうのが定説だけど
倭五王って外交用に倭を姓として使ってる
倭隋っていうのも使者で出てくるし多分一族なんだろうな
やっぱ天皇家とは別の系統の王朝なのかな 倭の五王と天皇家が別物なんじゃね?
それか天皇家権力が確立した時点で姓がなくなった >>240
九州王朝だろうね。
落ちぶれた分家が畿内に流れ着いて大化けした。 継体天皇の家系が「落ちぶれた」「流れ着いて」だと?
どんだけアグレッシブな落ちぶれた分家の流れ着き方やねんwww >>242 > 姓はアメ 名はタリシヒコ//
隋書「俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌」とあり、姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩雞彌という。
『新唐書』卷220列傳第145 東夷 日本に「用明 亦曰目多利思比孤直隋開皇末 始與中國通」
新唐書は弁慶薙刀読みになってるね。
中国では一字姓が一般的なので、姓が阿なら、名前は目多利思比孤だな藁、といった処だ。
毎が目で置き換わってるのも態となのであり、チャンと理由もある。
孝安が天安、敏達が海達、推古が雄古、てのも態とであり、やはり理由がある。 >>240
> 天皇家って姓が無いっていうのが定説だけど 倭五王って外交用に倭を姓として使ってる//
倭王武または倭国王武なのだから、倭は姓ではないね。「倭讚」の時点では王に叙任されていないので、倭王讃ではない。
倭隋って、珍に従ってきた連中、くらいの意味じゃないかな。宋書の時点では随という国号も爵位も存在しないんだから、随は普通名詞に思える。
なお、讃珍済興武は、履中反正允恭安康雄略にあたり、祖禰は仲哀にあたる。 とある説によると、出雲の系統だよ
スサノオの家の一族
日本海側〜東北
あの平安時代の話
「何々だと、ここに書かれている」というか
「スサノオが言った」という書き込みがあったでしょ 阿部
こういう名字は何なんだろう
凄く古い家なのでは? >>247 > とある説によると、出雲の系統だよ//
倭の五王が? 出雲って中国の史書には、投馬国としてしか登場してないよ。
張政が偶々立ち寄ったので記録が残ることになった。何故か?
行ってみたら肝心の邪馬台国が「更相誅殺、當時殺千餘人」といった状況だったからだ。
> スサノオの家の一族//
スサノオって出雲の大国主の下にに流竄されたのであって、出雲とは関係のない神様だよ。
> あの平安時代の話 「何々だと、ここに書かれている」というか 「スサノオが言った」という書き込みがあったでしょ//
そんな茫漠としたハナシにでしょなんて同意を求められても知らんがな。 違う違う
畿内の邪馬台国では戦争はしていない
倭国大乱の痕跡は九州でしか見つかっていないだろ
邪馬台国と女王国が別物、すなわち不弥国こそが卑弥呼の女王国であった証だ 「物部」が何やらと書いてあるでしょ、
その後、乗っ取られたという伝承があったり
『広瀬座』 伊達郡 川俣町 小手子の話 あの民家園だよな〜
「馬宿が」という謎の解説
・馬場
・小野
・鈴木 『福島県民家園』
『広瀬座』に『市川』という名も見えるはず 『先代旧事本紀』偽書扱い
「俺よりも凄い家(歴史)があるのが嫌だ」という単純な理由だと思う >>252
> 違う違う 畿内の邪馬台国では戦争はしていない 倭国大乱の痕跡は九州でしか見つかっていないだろ//
はァ? そりゃ私の>>251 に対してかね。
倭国大乱って「桓、靈閨C倭國大亂,更相攻伐,歴年無主」だろ。2世紀末の話だ。
「更相誅殺、當時殺千餘人」は女王卑弥呼から男王、そしてトヨちゃんに至る3世紀半ばの話だよ。
オメは全然ダメダメだね。
なお、魏志倭人伝では時間軸の特定できない倭国大乱を、范曄は後漢書にて「桓、靈閨vと特定して呉れている。
その前のクダリである「安帝永初元年,倭國王帥升等」も、極めて重要な補足だね。
> 邪馬台国と女王国が別物、すなわち不弥国こそが卑弥呼の女王国であった証だ//
九州王朝国なぞ存在しない。 >>257
それで反論のつもりか?
邪馬台国はそれが台与のときかその次かは知らないが
「女王」の居場所が移ったのだよ
それは3世紀後半のいずれかの時期だ
ただしこの「女王」とは中華王朝側から認定される女王のことで
おそらく卑弥呼が九州で生きていた時代以前から畿内の邪馬台国には延々と女系継承の女王(とその配偶者がなる男王)がいた筈だ おそらく弥生時代のクニにおいて、男王と女王の役割は異なっていた筈だ
すなわち
男王は国内の治安を守り、軍勢を率いて外征を行う
女王は生産物の徴収と再分配を司る
男系継承と女系継承の権力がかつては日本列島中にあった筈だろう
それらは空白の4世紀の間、政略結婚による統合が繰り返された
だからこそ、各地に言い伝えられる妻争いの伝説は熾烈を極めたのだ
その最たるものが畿内の邪馬台国の女王権と日向の不呼国の男王権の合体だ
http://yamado.up.n.seesaa.net/yamado/image/kuni.jpg?d=a1
不呼国はヒコ(彦)国=神武天皇ら天孫族の国、不弥国はヒメ(姫)国=神功皇后こと卑弥呼の国
この比定は偶然の一致ではないぞ >>258 > それで反論のつもりか?//
はァ? 小莫迦にしただけですが。
> おそらく卑弥呼が九州で生きていた時代//
九州王朝国なぞ存在しない。
>>259 > おそらく弥生時代のクニにおいて、男王と女王の役割は異なっていた筈だ//
全て卑弥呼に委譲されたのが邪馬台国なんだよ。まぁ、実務は重臣達の参画もあったとしてもね。 >>260
>九州王朝国なぞ存在しない。
ソースなき反論は反論に値せず
女王国の卑弥呼が天皇家や邪馬台国と血のつながりがあるとは一言も言ってはいないぞ
万世一系を下敷きとして東遷などとうつつを抜かす九州王朝説なる妄言とは異なるものだ むかーしから万世一系なんて言ってる人はいないよ
言っている人がいるなら
「頭が、おかしいんじゃないのか?」としか言えない 王権のある土地は代ごとに移り変わる
2世紀前半の倭奴国、これを仮に、
今でいう福岡市を中心とする奴国が九州北部と山口に至る広い範囲を納めていた
「大奴国時代」だとしておこうか
それが崩壊して「倭国大乱」が勃発
2世紀後半に倭奴国は統一を失い、いくつもの国に分裂
やがて宗像〜筑豊地方にあった小国の女王・卑弥呼が倭国代表に選ばれる
これが250年頃まで続く「女王国時代」
卑弥呼の死後、再び内乱を経て台与が立つ
おそらくは関門海峡の好古都国がその都
3世紀後半の「好古都国時代」
それと並行して瀬戸内の西端の「不呼国」
すなわち天孫族のウガヤフキアエズ朝から一人の王子が
瀬戸内の東端の卑弥呼とは無関係な女王が治める大国「邪馬台国」へと
(おそらくは投馬国=出雲の彌彌那利(ミミナリ)=耳成(ミミナシ))激しい妻争いの末、婿入りする
陳寿の没年である297年までのいずれかの時期に帯方郡からの使者(その記録はない)がやってきて
邪馬台国の女王を倭王認定し、ついでに女王国以南=博多湾周辺以外の各国を回って名前と順番を記録した
これが「邪馬台国時代」、すなわち大和王権の成立期
台与はおそらくこの時期に大和王権の王へ嫁に行ったのだろう
もしくはウガヤフキアエズ朝の王かも知れないし
両方をとって日向から大和へ東遷した王なのかもしれない
そのことを反映するのが第四代・懿徳天皇の后である天豊津媛命の名だ >>180
いろんなスレで何度も貼るからもうNGですわ。 1 人あたり約 14 万個所の DNA 塩基多型を用いて日本人の集団構造を解明
病気のかかりやすさ、薬の副作用の有無は、私たちそれぞれで違っています。この
個人の体質の違いの遺伝的な要因を明らかにして、それぞれの人の特質に見合った治
療を行うオーダーメイド医療がスタートしています。心筋梗塞、糖尿病、関節リュウ
マチなど、さまざま疾患の原因遺伝子を同定するために、ゲノム全体をカバーする
塩基多型(SNP)を使った関連解析が、わが国はかりか世界規模で展開されています。
わが国では、この研究の中心となっているバイオバンクジャパンが、約 30 万人の日
本人の DNA、血清を集め、情報基盤としての役割を果たしています。
この研究を推進してきた理研ゲノム医科学研究センターは、これらの情報を活用し
て、大部分の日本人が2 つのクラスター、本土クラスターと琉球クラスターに大別で
きることを明らかにしました。この結果は、従来から提唱されていた日本人集団の
「二重構造説」と矛盾しない内容です。2つのクラスターの間の SNP の頻度の違い
は小さいのですが、耳垢のタイプを決める SNP や髪の毛の太さに関わる SNP の頻度
には明らかな違いがありました。また、本土の中でも遺伝的な地域差があることが
明確になりました。
http://www.riken.jp/~/media/riken/pr/press/2008/20080926_1/20080926_1.pdf >>267 > 人あたり約 14 万個所の DNA 塩基多型を用いて日本人の集団構造を解明//
個体の情報から集団への帰属を推し量るのは無理だね。 >病気のかかりやすさ、薬の副作用の有無は、私たちそれぞれで違っています。この
個人の体質の違いの遺伝的な要因を明らかにして、それぞれの人の特質に見合った治
療を行うオーダーメイド医療か?スタートしています。心筋梗塞、糖尿病、関節リュウ
マチなど、さまざま疾患の原因遺伝子を同定するために、ゲノム全体をカバーする塩基多型(SNP)を使った関連解析が
染色体上の有意な遺伝子と連鎖しまくってるというか有意な遺伝子そのものだなぁ すごく意味深な記述を隋書で発見
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun9-zuisho.htm
> 開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。
>上令所司訪其風俗。使者言倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰:「此太無義理。」於是訓令改之。
> 開皇二十年(600年)、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、遣使を王宮に詣でさせる。上(天子)は所司に、そこの風俗を尋ねさせた。
>使者が言うには、倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす、天が未だ明けない時、出でて聴政し、結跏趺坐(けっかふざ=座禅に於ける坐相)し、
>日が昇れば、すなわち政務を停め、我が弟に委ねるという。高祖が曰く「これはとても道理ではない」。ここに於いて訓令でこれを改めさせる。
「天」は九州の倭王、「日」は大和の天皇
「天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟」とはかつて九州に中央政権があったのを後発の畿内が奪取したという意味だろう
五王は大和が独立していたときも筑紫に拠って使者を送ったことだろう >>270
俺様曰:「此太無義理。」とても道理ではない。九州王朝国なぞ存在しない。 ヤマトとタニワが合体したのが「アマタリシヒコ」(天足彦国押人命) >>271
おまいはきもちわるい
>>272
意味不明! >>273 > おまいはきもちわるい//
オメには思考力がなさそうだな。まぁ、莫迦ってのはオメの個性なの鴨試練が、身の程は弁えな。 >>275 > 開皇20年てことは580年が0年だな//
元号に0年ってないんだが敢えて云えば、580年は大定 (北周)0年
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%9A_(%E5%8C%97%E5%91%A8)
このケース(同じ年に元年が2回)、日本では以下の2例だけみたいだね。
朱鳥: 天武天皇15年7月20日(686年8月14日)〜朱鳥元年9月9日(686年10月1日):前後の元号なし
天平感宝: 天平21年4月14日(749年5月4日)〜天平感宝元年7月2日(749年8月19日):天平勝宝元年
なお2年まである暦仁は、嘉禎4年11月23日(1238年12月30日)〜暦仁2年2月7日(1239年3月13日)なので、期間としては天平感宝より短い。
最短元号年は宝亀12年1月1日の一日だけ(狙ったっぽい)。他にもひと月もたなかった元号年はいくつかあるが、各々いわく付きみたいだね。
関連:日本の元号一覧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B7%E4%B8%80%E8%A6%A7_(%E6%97%A5%E6%9C%AC) 確かに、天と日の兄弟の例えって意味深だよな
実際に記紀による兄弟争いのあらましばっかでさ
ほんとは兄弟ではなく古代の兄弟部族争いだったんじゃないかなぁ 韓国では捏造としか思えない時代考証限りなくゼロでもドラマを作る。まあ、文字を読まない国民教育
を兼ねているんだろう。ところが日本ではそうはいかない。ある程度信憑性が無いとドラマ化すら出来ない。
これが日本の良いところではあるが、景気浮揚効果を狙って少々の架空はアリにしてこの時代をドラマ化
したらどうだろうか。他にも架空アリならいろいろドラマ化出来ると思う。これが良いことかどうかは確かに
疑問はあるが視聴したいコンテンツが増えれば確かに景気は良くなる 視聴したいコンテンツが増えるぐらいで景気が良くなるんなら苦労はしねえよ ヒッグス粒子の名付け親は韓国人とか言い出したしな
まじで意味わからん
もう消滅して欲しい >>278
戦国武将よろしく九州の倭王と血で血を洗う合戦を繰り広げる大和の大王の姿を見てみたくもある 大国主あたりで山陰とは戦争を繰り広げていたようだが、
九州は筑前での戦がすっぽりと抜けている。
筑後、肥前、豊前、日向、大隅は戦の話があるな。
肥後は軍勢連れて巡幸した話があるが、
戦争は回避された模様。 漢字の音韻が参考になるんだよ、倭の五王にしても、邪馬台国にしても。
中国人は、倭人の発音を聞いて、適当な音を当てているから。 >>278 > 韓国では捏造としか思えない時代考証限りなくゼロでもドラマを作る//
>>280 > ヒッグス粒子の名付け親は韓国人とか言い出したしな//
神武の即位がBC660 ってのがまさにそれなんだよ、実はね。あと、明日香って命名もそれっぽい。 倭の5王なんてそもそも推定する動作そのものがおかしい。宮内庁を説得して天皇陵を発掘すれば
終りだろ。なのにああでもないこうでもない。これが科学的態度と言えるのか。天皇家の遠い先祖の
墓には違いないが国民的な合意を経て例えば500年以内の先祖の墓発掘はダメとか制限を設ける
べきだろう。発掘すれば解ることを推定などと、歴史学者の怠慢には呆れるばかりだ。 > 発掘してもわからないことはわからない
そういうことは発掘してから言うべきだな。物理的に出来ることもせずに言うべきことではない。 >発掘すれば解ることを推定などと、
>そういうことは発掘してから言うべきだな。物理的に出来ることもせずに言うべきことではない。
言ってることが変わってるよw
遺跡保護の現状について勉強してね まあ現実的にはすぐに発掘は難しい。しかし歴史学者の努力の何百分の一かはこういう政治的なこと
にも向けられるべきだと思う。歴史探究に命を賭けている学徒もいるんだろ。遺跡保護はすべきだが
学究とは分けられるべき。そうでないと本当の学究の徒が可哀想ではないか。 本当の学究の徒ならば発掘調査が遺跡の破壊行為であることは重々承知している
よって自らのエゴで未来に伝えるべき遺産を破壊しようとは考えない 歴史学者が政治的な動きに首を突っ込んだ結果が、1960年代の真っ赤っ赤な業績の山だな。 どちらにせよ朝鮮人が偉かったのではない
九州の倭王が朝鮮半島の王たちの上に立ってすべてを支配するために戦ったのだ
韓人は7000年前に九州から渡ってきた縄文人の子孫であり韓国は本来、日本の分国とでもいうべき存在だった
そもそも「日本」とは、ヤマトタケルを日本武と書くように、元来は大和のこと
任那日本府とはそれまで九州の倭人が支配していた半島南部を大和から支配しようという魂胆で置かれた軍営だと考えると全て辻褄が合う
大和と新羅にとって百済と筑紫は統一を阻む邪魔モノであり、対馬海峡での政治的分断は双方にとってメリットがあった
加えて唐朝にとっても北東辺で覇を唱える高句麗は目の上のタンコブであり、半島の蛮族どもを帰順させてしまいたい
列島と大陸とを行き来した海人たちは東亜三国各々の統一の思惑のために犠牲となったのだ しかも当時の朝鮮半島に住んでた民族と
いまの半島人とは民族的にもつながりはない
だから在日パヨクがホルホルする根拠がまったくない 朝鮮人の本当の先祖は日本人だからな
なんか朝鮮半島から日本人が来たとかあたりまえの様に吹聴されてるけど
12000年前から7000年前くらいまであそこは人間の住むところでなかったらしい
最初に半島で見つかった土器も縄文に類似したものだし、朝鮮語は普通に日本列島の縄文文化起源よ 無文土器時代(むもんどきじだい)は、朝鮮半島の考古学的な時代区分である。
紀元前1500年から300年頃に及ぶ。この時代の典型的な土器が、表面に模様を持た
ない様式であることから命名された。
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/jyousei03.html
弥生時代は、朝鮮半島の無文土器時代(青銅器時代〜初期鉄器時代)から原三国時代に相当します。朝鮮半島
では紀元前1500年頃中国大陸より農耕が伝わり、紀元前700年頃には青銅器が、弥生時代が始まる紀元前300
年頃には鉄器が伝わり普及しました。後期の無文土器は日本列島でも北部九州地方をはじめとする弥生時代の
遺跡から数多く出土しており、弥生時代の稲作農耕や金属文化の流入に朝鮮半島からの人々が関わったことを
示唆しています。 吉野ヶ里遺跡でも、朝鮮系の無文土器が多数出土しています。
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/img/img11.jpg >>297
韓国における諸説
2005年に韓国のイ・ホンギュソウル大医大教授は「韓-ロシア ユーラシア文化フォーラム」で「韓国人は北方モンゴロイドのエベンキ族と南方原住民の血が混ざって形成された民族」との説を唱えた[3]。
[3] ^ “バイカル少数民族 「アリラン」「スリラン」の単語を使用” (韓国語版). 聯合ニュース (2005年8月14日). 2015年9月22日閲覧。
2chソース(核爆) 「日本列島3人類集団の遺伝的近縁性」
平成24年11月1日
東京大学大学院医学系研究科
総合研究大学院大学
今回、研究グループは、ヒトゲノム中のSNP(単一塩基多型を示す100万塩基サイトを
一挙に調べることができるシステムを用いて、アイヌ人36個体分、琉球人35個体分を
含む日本列島人のDNA分析を行った。
その結果、アイヌ人と琉球人が遺伝的にもっとも近縁であり、両者の中間に位置する
本土人は、琉球人に次いでアイヌ人に近いことが示された。
一方、本土人は集団としては韓国人と同じクラスターに属することも分かった。
http://www.u-tokyo.ac.jp/public/public01_241101_j.html 珍=額田大中彦皇子
済=住吉仲皇子
史学界でこの西條勉氏の説を支持している人いるの?
字訓による比定だとしても、名前に冠せられた地名部分
からの比定になると意味を成さないと思うのだが。 日本書紀がなんで120年ズラしたのかと疑問だった。
神功皇后(没年269年)を卑弥呼(没年247年)にするなら、
もっと没年を近い年代に出来ただろう。
120年を140年にすりゃ良いんだから。
(実在しなかったろうけど、仮にいたとしても、
神功皇后の時代に干支なんてまだ無かったろうし。
ありもしなかった干支に固執する理由がわからない)
日本書紀の編集者は、雄略から神功皇后までの
他の天皇の在位年は平気で動かしてるわけだ?
ましてや、そこら個々の天皇の事跡や在位なんてのも
はなから怪しい訳だ。
そこらの時代付近で、いじれそうな候補は他にいっぱいあったはず。
卑弥呼の没年のがよっぽど信ぴょう性高い以上、
むしろ卑弥呼の没年と神功皇后の没年をきっちり合わせて
その他付近の天皇の年代を調整しそうなもの……
なぜ、一番肝心そうな所が中途半端な120年の歩み寄りなのか?
逆になぜ、その間の天皇の在位をいじれちゃうのか?
と、つらつら考えてたんだけど。ようは、もっと単純な話だった。
考えるに、編集の第一段階で干支を決めていって。
(細かく時代設定を決めていくのが日本書紀の課題でもある)
いったん最後までやった後、また見直し再考していったんだろう。
ただ、どっかで数字を手直ししたいと思っても
全部、書き直すとしたら大変な労力になる。 だから、変えるとしたら60年ごとに書き換えていく。
干支は60年一周し、元に戻るから。その60の法則さえ守っておけば、
他の場所は書き換えなくて済む。
(それで、全体が1200年だったのが2400年になろうと、どうでも言い話。
少なくとも、最低限のつじつまは合う)
再編集段階で140年繰り上げたいと思ったからこそ、
労力的に妥協して120年にしといた訳だ。
逆に言えば、日本書紀の時代考証なんて
その程度の信ぴょう性なんだろうね。
正確さより、労力的な妥協がある。
(もちろん、古事記だって似たようなもんだろう)
「なんらかの方法で正確な数値を記録してたはずだ」
なんて期待はしちゃいけない。
おそらく干支が入って来たのも
雄略時代の西暦450年ぐらいあたりだろう。
(当時からして、逆算して推定できる過去年数も、
そっから大して離れてなかったろう。おそらくは
応神の王がいたとかまでしか、わかってなかったんじゃないかな)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B2%E6%94%AF#.E5.B9.B2.E6.94.AF.E7.B4.80.E5.B9.B4.E3.81.A8.E6.97.A5.E6.9C.AC ある記念に、その事がらみの日記をつけてみようと決めた。
関連のある過去に向かって何があったかを順々に思い出していき、
記録していったら、ちょうど1年分になった。
ところが、ふと先週の水曜日にあった事を書き忘れていた事に気付いた。
個々のイベントは時系列に順序があるので、
その日の事を書き忘れていたと言う事はすべて一日分ずれるはず。
まあ仕方ないと思って全部、日付けを書き直していった。
手書きだったので、一年分の日付けを書き直すのは本当に骨が折れた。
ところが、どうやら先月の月末にあった事も書き忘れてた事に気付いた。
やっと11か月分の日付けを書き直した所で、また先々月に抜けた日を見つけた。
10か月分の書き直しを……。 数年後、また「記念の順々思い出し日記」をつける事にした。
けど、今度はもっと手抜きをしようと思う。
今度は「曜日日記」にし、正確な日付けを書き込まない事にした。
あくまで「あのイベントは何曜日だった」とだけ書き込んでいくんだ。
(「月曜だったイベントAの三日前のイベントBは
金曜だったな。その六日前のイベントCは〜」って感じでね)
イベントはほとんど穴があく日がないので、
(一週間、まるごとなにも無かったって週は無い)
後ろから何週目にあたる何曜日かさえわかれば、後から逆算で日にちもわかる。
こうしてつけて行ったら、また一年分になった。
案のごとく、抜けてる日があった。でも今回は1日抜けてたら、
それを1週間抜けてたと取らえて、該当箇所に当てはめていこうと思うんだ。
例えば先月の月末の1日の木曜日が抜けてたら、
その木曜日を含む1週間をまるごと挿入しちゃう。
月火水〜(月火水)〜木〜(金土日)〜金土日
そうすると、どっか抜けた日があっても、
その前後の曜日を書き直す必要は無くなる。
たとえば、日記の一番過去になる日が金曜日だったなら、
途中でどれほど抜け日(一週間ごと)を挿入しても金曜日のままだ。
もちろん、抜けてる日が何個もあれば、
その抜け日の数ごとに、日記の長さが一週間ずつ増えてく。
記録としちゃ、ぜんぜん正確じゃない。
でも良いじゃないか、いちいち手直しするのはもうコリゴリさ。
日記を書き上げたって気持ちさえあれば十分なんだよ。
…干支を60年ごと加えるってのは、ちょうどこういう感じ。 ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 しかし雄略のポジションがどうもよくわからない。
史実まであんな、いかにも悪人とは思いにくいし。
よしんば、本当に悪人だったとしても
相応の権力持ってれば
当時的な人気は自然と生まれてるだろうし。
悪い事跡なんてのはカットされるもの。
熊本の江田船山古墳や埼玉の稲荷山古墳に
ワカタケルのある銘文が見つかってるんで
相当な範囲の知名度と権力があったはず。
(武についての記述をみても)
本当に都合の悪い人間なら名前ごとカットされそうだし。
カットされない程度の知名度ではあったんだろうな。
にもかかわらず、なぜそこまで悪人に描かれてるのか?
ましてや、記紀が書かれたのは200年もたった後なんだし。
今更、あんな扱いされる理由はなんなのか? 継体から新王朝だからじゃないの?
旧王朝の事は悪く描くのが普通でしょう 仮に継体が本当に応神の血を引いていたとしても
武烈とは血筋がかなり遠いわけだし当時の感覚では王朝交代だったのかもな
出自詐称であればなおさら 継体から新王朝だったとしたら
雄略は倒すべきだと思うんだよね。
(それが武烈の場合でも)
悪しき帝王なら、倒して新王朝たてる大義名分になる。
(真偽はどうあれ継体も応神の子孫って設定なんだし)
それを隠す理由もない。
どっちみち雄略も武烈も直系の子孫は絶えるんだし。
>雄略・武烈(悪人で男系の子孫絶える)
>継体(応神の子孫)
と、簒奪のシナリオ的おぜん立ては整ってるのに
肝心の簒奪が出てこないんだよねぇ。
で、雄略(23年)と武烈(8年)の間に
白髪の天皇(5年)と隠れてた兄弟(3年と11年)の天皇と言う
いかにも創作っぽい三代が続くのも不可解。
やはり、雄略と武烈が同一人物なんだろうか?
(そうすると実際は50年くらいの在位だったのか) 記紀がごまかしてるだけで武烈から簒奪したんだと思うよ
それに納得がいかなかったのが磐井って事じゃあないのか? BC3C末、徐福一行の故郷、江蘇省北部では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。 ずーっと時代が下がって
中華の史書では九州の最大勢力南朝方懐良親王が日本国王と認定されてるくらいだから
案外単なる一勢力でも冊封されてしまえばそう記述されるんちゃうか 継体は簒奪したというよりは、共立された感じだね。
先帝との関係は記紀が嘘を書いていなくても10親等くらいあるんだよね。
もはや、天皇は機関であり、中身は誰でも良かったんだよ。
当時の朝廷は傀儡政権だったということ。 焦らしに焦らして、もう一度推戴した豪族に頭を下げさせる どこの馬の骨とも知れないのを連れて来たから、反対論も多かったんじゃない?
もしかすると磐井らの方がまだ血縁が、近かったのかもしれない。 磐井の墓とされる岩戸山古墳と継体の墓とされる今城塚古墳は相似形だから両者は元来仲間。
どこの馬の骨とも知れぬ奴が当時埴輪技術の革新と拡散を見せていた尾張氏の娘を娶れるわけがない。 尾張氏との婚姻関係は「天下取る前」と考えられます。 継体は当時、ぜんぜん人気なかったんじゃないかなぁって思う
>男大迹王
>迹
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/123356/meaning/m0u/
>〈セキ〉足あと。あと。「行迹・事迹」
>[補説]「跡」と通用。
大いなる跡継ぎとか、ふざけた名前つけてる時点で
(たぶん即位後に名乗ったんだろうけど)
雄略の人気にあやかろうとしてたんじゃないかと思う。
古事記とかみるに雄略はゼウスばりに女好きの逸話がある。
実際、本人が女好きだった可能性もあるけど。
こういうのはむしろ他の理由からじゃないかと思う。
ようは地方豪族が「実はうちの王子は雄略の落とし種」とか、
「実は三代前の先祖が雄略だった」とか言ったのが発生源じゃないかと。
(こういうのは言ったもん勝ち。特に当人が亡くなった後は)
人気がある人物だったからこそ、そういう女好きの逸話が作られてしまい。
そういう噂が多いと「あいつなら、どれほど落とし種がいっぱい
いても不思議ない」と、さらなる信憑性をうむ。
で、そういう自称・雄略の子孫たちが反旗を翻してくると
厄介だったんで、いっそ記紀じゃ悪人にしてしまったのかも。 BC3C末、徐福一行の故郷、華北では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。 さして根拠があるわけではないが、継体が完全な簒奪者なら正統性がないから、継体系統が権威化するまでに数世代は必要と思う。
それなら蘇我氏が簒奪してもおかしくない。特に馬子が殺した崇峻は継体の孫に過ぎず、母は蘇我氏だから前王朝の血は祖母からしか引いていない。
逆に言うと、すでに皇統は蘇我氏の力を以ってしても簒奪できないほど権威化し、継体も多少は簒奪的なことをしたかもしれないが
皇統の血は引いていたと考えた方が、流れとしてはスムーズと思う。 雄略後の大和は後漢末の漢室状態で、継体は劉姓の王の一人の立ち位置じゃないか 雄略は本人はけっこうやり手で権力握って独裁体制築いたが
直系がすぐ滅んだあたり秦の政と似てるんだよなあ >>333
330だけど、そんなイメージ。劉邦から後漢末まで四百年経ってるから、継体はかなりましだと思うけど。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています