倭の五王の正体についてじっくり検証するスレ [無断転載禁止]©2ch.net
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自分の考えとしては倭の五王のうち讃=『褒』田別と武=大泊瀬幼『武』以外は当てはまる天皇はいないと思う
この説を説明するために前提として
天皇の在位年は古事記における干支が正しいのだとしておく
問題の時代における天皇(大王)は恒久的なものではなく、複数並立したり空位時代があるものであるとする
万世一系の演出のため、空位時代を埋める目的で追尊されたり、
はたまた大王としての実力があるにも関わらず認定されない権力者が多くあったことだろう
そのため即位年数を厳密に記述して空位時代がないようにしてある日本書紀の紀年は後の創作だと断定できる
三国史記との一致から推定した応神天皇ことホムダワケの没年は394年。だが倭王讃の記述は413年〜425年
これは矛盾している様だが、実はカラクリがある
(続く) ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 しかし雄略のポジションがどうもよくわからない。
史実まであんな、いかにも悪人とは思いにくいし。
よしんば、本当に悪人だったとしても
相応の権力持ってれば
当時的な人気は自然と生まれてるだろうし。
悪い事跡なんてのはカットされるもの。
熊本の江田船山古墳や埼玉の稲荷山古墳に
ワカタケルのある銘文が見つかってるんで
相当な範囲の知名度と権力があったはず。
(武についての記述をみても)
本当に都合の悪い人間なら名前ごとカットされそうだし。
カットされない程度の知名度ではあったんだろうな。
にもかかわらず、なぜそこまで悪人に描かれてるのか?
ましてや、記紀が書かれたのは200年もたった後なんだし。
今更、あんな扱いされる理由はなんなのか? 継体から新王朝だからじゃないの?
旧王朝の事は悪く描くのが普通でしょう 仮に継体が本当に応神の血を引いていたとしても
武烈とは血筋がかなり遠いわけだし当時の感覚では王朝交代だったのかもな
出自詐称であればなおさら 継体から新王朝だったとしたら
雄略は倒すべきだと思うんだよね。
(それが武烈の場合でも)
悪しき帝王なら、倒して新王朝たてる大義名分になる。
(真偽はどうあれ継体も応神の子孫って設定なんだし)
それを隠す理由もない。
どっちみち雄略も武烈も直系の子孫は絶えるんだし。
>雄略・武烈(悪人で男系の子孫絶える)
>継体(応神の子孫)
と、簒奪のシナリオ的おぜん立ては整ってるのに
肝心の簒奪が出てこないんだよねぇ。
で、雄略(23年)と武烈(8年)の間に
白髪の天皇(5年)と隠れてた兄弟(3年と11年)の天皇と言う
いかにも創作っぽい三代が続くのも不可解。
やはり、雄略と武烈が同一人物なんだろうか?
(そうすると実際は50年くらいの在位だったのか) 記紀がごまかしてるだけで武烈から簒奪したんだと思うよ
それに納得がいかなかったのが磐井って事じゃあないのか? BC3C末、徐福一行の故郷、江蘇省北部では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。 ずーっと時代が下がって
中華の史書では九州の最大勢力南朝方懐良親王が日本国王と認定されてるくらいだから
案外単なる一勢力でも冊封されてしまえばそう記述されるんちゃうか 継体は簒奪したというよりは、共立された感じだね。
先帝との関係は記紀が嘘を書いていなくても10親等くらいあるんだよね。
もはや、天皇は機関であり、中身は誰でも良かったんだよ。
当時の朝廷は傀儡政権だったということ。 焦らしに焦らして、もう一度推戴した豪族に頭を下げさせる どこの馬の骨とも知れないのを連れて来たから、反対論も多かったんじゃない?
もしかすると磐井らの方がまだ血縁が、近かったのかもしれない。 磐井の墓とされる岩戸山古墳と継体の墓とされる今城塚古墳は相似形だから両者は元来仲間。
どこの馬の骨とも知れぬ奴が当時埴輪技術の革新と拡散を見せていた尾張氏の娘を娶れるわけがない。 尾張氏との婚姻関係は「天下取る前」と考えられます。 継体は当時、ぜんぜん人気なかったんじゃないかなぁって思う
>男大迹王
>迹
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/123356/meaning/m0u/
>〈セキ〉足あと。あと。「行迹・事迹」
>[補説]「跡」と通用。
大いなる跡継ぎとか、ふざけた名前つけてる時点で
(たぶん即位後に名乗ったんだろうけど)
雄略の人気にあやかろうとしてたんじゃないかと思う。
古事記とかみるに雄略はゼウスばりに女好きの逸話がある。
実際、本人が女好きだった可能性もあるけど。
こういうのはむしろ他の理由からじゃないかと思う。
ようは地方豪族が「実はうちの王子は雄略の落とし種」とか、
「実は三代前の先祖が雄略だった」とか言ったのが発生源じゃないかと。
(こういうのは言ったもん勝ち。特に当人が亡くなった後は)
人気がある人物だったからこそ、そういう女好きの逸話が作られてしまい。
そういう噂が多いと「あいつなら、どれほど落とし種がいっぱい
いても不思議ない」と、さらなる信憑性をうむ。
で、そういう自称・雄略の子孫たちが反旗を翻してくると
厄介だったんで、いっそ記紀じゃ悪人にしてしまったのかも。 BC3C末、徐福一行の故郷、華北では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。 さして根拠があるわけではないが、継体が完全な簒奪者なら正統性がないから、継体系統が権威化するまでに数世代は必要と思う。
それなら蘇我氏が簒奪してもおかしくない。特に馬子が殺した崇峻は継体の孫に過ぎず、母は蘇我氏だから前王朝の血は祖母からしか引いていない。
逆に言うと、すでに皇統は蘇我氏の力を以ってしても簒奪できないほど権威化し、継体も多少は簒奪的なことをしたかもしれないが
皇統の血は引いていたと考えた方が、流れとしてはスムーズと思う。 雄略後の大和は後漢末の漢室状態で、継体は劉姓の王の一人の立ち位置じゃないか 雄略は本人はけっこうやり手で権力握って独裁体制築いたが
直系がすぐ滅んだあたり秦の政と似てるんだよなあ >>333
330だけど、そんなイメージ。劉邦から後漢末まで四百年経ってるから、継体はかなりましだと思うけど。 >>326
継体という諡号と奇しくも同じ意味になるね 継体の擁立はむしろ傀儡というか、卑弥呼の共立を思い浮かべるね。
簒奪とは程遠いな。
彼は声がかからなければ、一生を越の王様で過ごしたはず。 馬韓しか無かった朝鮮半島へ移民が流れて来たんだから馬韓以外に辰韓だけでよかったはずなのに
朝鮮半島南部は古くから九州倭国の豪族が進出してたから統一国家としては百済と新羅しか出来ずに
朝鮮半島南部は九州と同様に小国に分かれてて当然だったと思う
倭の五王は伽耶の五王を指して元々九州にいた豪族が朝鮮南部に勢力を伸ばした豪族のことじゃないかと
韓国の歴史では伽耶の王が日本の歴史だと九州出身の豪族となって人物像がリンクしてると思う BC3C末、徐福一行の故郷、華北では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。 実態としてはその通りなのだろうが、その九州の豪族とやらが実は天孫族であり、三種の神器を受け継いでいるので、豪族という呼び名は相応しくないかもね。 おそらく
讃→仁徳天皇
珍→反正天皇
済→允恭天皇
興→安康天皇
武→雄略天皇
だろう。
履中天皇は即位後の元嘉7年に朝貢したが
このときは宋の記録漏れか逸失で王名が残らず
その後の「弟珍立」は「前王(履中天皇)の弟」
の紹介の記録であって「讃(仁徳天皇)の弟」
の意味ではなかったんだろうよ。 誉田別/品陀真若王(応神天皇)
大雀命(仁徳天皇)
----皇后・磐之媛(葛城)の子----
去釆穂別(履中天皇)
住吉仲皇子
瑞歯別(反正天皇)
雄朝津間椎子宿禰(允恭天皇)
----忍坂大中姫の子----
木梨軽皇子
穴穂皇子(安康天皇)
大長谷若建命(雄略天皇) >>344
そんな辻褄合わせがありなら何でもありになるな。 まあでもどっちかor両方の記述に誤認がある可能性は高いし現状は何でもアリなんだよな
・河内に古墳があるからこの葛城系王統に海洋進出傾向を感じる
・讃と誉は意味が似てるから誉田っぽい
・(若)タケルだから武っぽい
今んとここのくらいのものすごい脆弱な同定方法しか 今ある通説はどれも辻褄合わせなんやで
じゃあ何が出れば決定的な確証とできるんだろうか
纏向遺跡がでても邪馬台国九州説を喧伝する人がいる現状では
征東将軍印でも出ない限り無理かも 検証するには材料が足りなさすぎんよ
考古学的論証をするには馬韓、辰韓、弁韓、慕韓、秦韓の発掘と連動しないといけなくなりそうだからなかなか至難 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>1
根本的な問題として、日本書紀が何で万世一系を演出する必要があるん?
隣の中国では王朝なんてコロコロ変わってるんだし、本当に万世一系じゃないなら
その通りに書けばいいだけじゃん。 隣の中国の、易姓革命で王朝がコロコロ変わる様子を見て、「これじゃいかん。うちの王朝が永遠に続くようにしよう」と企んだ、とするのが説得力のある見解。
「天孫」「万世一系」「天皇家からの姓の排除」がワンセットで記紀に組み込んであるのがその仕掛けと考えられる。 日本書紀が万世一系を主張するものだという価値観そのものが昭和の遺物だ。
記紀をよめば、筑紫倭国の王統を継ぐことが正統性の証だった。
畿内大和が正式に倭国の筑紫倭国の権威を継承するためには、史書で筑紫倭国との関係を示す必要があった。 >>354
その通り書いてもいいけど(≒改ざんしないという書の信憑性を重んじる思想)
血統が続いてることに尊厳を感じる社会があって
神話から続いてるをテーマにしようと考えた人がいたんちゃう? >>350
みつるとかすくうとか和音に当てるのはちょっと理がないと思った
あと宿禰はのちに姓ともなる一種の称号的なものでそこも苦しいかなと竹内宿禰とかもいるし
ところでそれを読んでて通説に対して疑問に思ったのは
ワケ、ミコト、ミコ、スクネ、ミコトと称号的な物が遷移するのはなんなんだろうと
その違いに対しての論考がなされてないんじゃないかと思った 日本書紀や古事記で雄略天皇だけ五胡十六国のキチガイ君主みたいな扱いになってるのが不穏 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 詳しくは知らないけど和風諡号そのものをもっと丁寧に分析した方がいいんじゃないかなあ
和風諡号は本名っぽいの、地名、称号っぽいの、修飾っぽいの、あたりの組み合わせでできている
雄略なら大は修飾、初瀬は地名、幼武が本名といった具合。安康、継体は本名っぽいのだけ
(ただし皇族の本名は乳母氏族の名字をつけることが多いので区別しにくい)
ワケ、スクネは本名の一部で末尾につける称号っぽいのと考えたらいいのかな
スクネは>>359も言ってるけど、稲荷山鉄剣に出てくるぐらいだし個人特定の力は弱い
允恭の場合は本名にあたる部分がわかりにくいが、対中用の名をつくる時にスクネを基にはしないと思う
定説は済=允恭だが名前の説明はうまくできてないみたいだな。確かに難しい 称号的な物の統一感のなさは並列の別伝(本なのか口伝なのか歌なのか)を組み合わせなんだろなと思うわ
A伝にはワケの歴史
B伝はミコトの歴史
C伝はスクネの歴史
D伝はヒコ/ヒノミコの歴史
E伝はイラツコ/イラツメの歴史
F伝は皇子という比較的新しく成立した歴史みたいな感じで
日本書記の書き癖の研究みたいな感じでそのへんを解明できたらもう少し前進するんかな そういや、記紀の「高等批評」って聞いたことないな。 >>365
う〜ん、まあ、同意できないなら
それはそれでいいんじゃないかと。
こういうのはひとそれぞれだし。
自分的には自説で問題ないと思ってるんで。 倭王讃は応神天皇じゃないか?
自分はヤマト絶対でも九州王朝でもなく、中間に真実があると考える。
つまりヤマト側ではナントカ将軍とか倭国王はどうでも良くて、外国から珍しい宝が入ってくればそれでよく、そのための手段は九州に任せていたのではないか。
讃、済、武などはおそらく九州側でヤマトの大王を漢訳してつけた名前で、日本書紀に記録が無いのは当然である。
ただ430年の使者は例外的にヤマトが直接派遣したもので、そのため応神紀(310年)と仁徳紀(370年)に記録が残ったのだろう。宋書でも倭国王の名前は書いていない。
安康・雄略の時代も直接派遣と間接派遣が混じっていると思われる。 「讃」は「ホム(誉める)」の漢訳ではないかと古くから言われているが、「珍」は大阪の「珍県(チヌノアガタ)」「チヌの海=大阪湾」から来ているのではないか。難波に都した仁徳天皇にふさわしい。
「済」は「スクネ」(スク=助ける、救う)の漢訳と思われる。「興」は調査中。 夷蛮の王の民族名と漢名の間に関連なんて
ないのが普通。
ましてや一代ごとに法則性もバラバラの
駄洒落レベルのこじつけなんて
ナンセンスもいいところ。 でも珍王は珍県の墓で今も珍海を見つめているのであった・・ それに、名前は決め手にはならない。あくまで年代が重要で、430年の遣使の特異性が注目される。
日本書紀の応神37年と41年の「呉」遣使記事は、初めてっぽいから413年の遣使に対応するに違いないと思っていた。
ところがよく考えると応神41年は西暦310年で、430年から120年=干支二巡繰り上げられている。
また仁徳58年は370年で、430年から干支一巡繰り上げられている。
そこから430年はヤマトじきじきの派遣ではなかったかと思ったわけ。
それ以前の「讃」は応神、以後の「珍」は仁徳ということになる。 「讃」などの名は筑紫(水沼君?)でつけられたもので、応神や雄略は呉国の正式な国名「宋」も知らず、王と皇帝の区別も知らなかった。というより関心が無かったのだろう。
将軍の序列まで熟知していた筑紫とは大違いだったようだ。 応神37年の遣使は413年とする考えも有り得る。
その場合「讃」は仁徳となり、「珍」は履中または反正となる。 ・倭王武≠雄略天皇、倭王武≠獲加多支鹵大王、雄略天皇≠獲加多支鹵大王
・倭王武=雄略天皇=獲加多支鹵大王
・倭王武≠(雄略天皇=獲加多支鹵大王)
・(倭王武=獲加多支鹵大王)≠雄略天皇
・(倭王武=雄略天皇)≠獲加多支鹵大王
どれ? 倭武だとヤマトタケルだけどな。
倭武天皇だと雄略天皇だと言う。
この時代の説明は嘘だらけだ。 ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの
導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆ >>356
お、いいね
俺もそんな感じ
それプラス天武の権威付けだな(だがこれは編纂者が抵抗した跡があるような……) >>356
>史書で筑紫倭国との関係を示す必要があった
どこにも筑紫倭国なんて出てこないじゃん 筑紫の日向において三代の王が即位したことが記載されている。 伊都国には歴代の王墓がある。しかし歴代の王が存在することはわかっても 名前なんかわかるわけないと思っていた。
「宋史」・外国伝・日本国という正史が存在する。 宋の時代に日本から宋に海を渡った人がいるそうだ。
その人物がおみやげとして古代日本の成り立ちともいえる記録を持って行ったそうだ。 それを更に記録したものが「宋史」・外国伝・日本国だ。
そこには驚く内容が書かれていた。 「およそ二十三世、筑紫の日向宮に都があった」と書かれていたのだ。
記紀にでてくる尊が次々に登場し中にはアマテラスまで書かれている。
左に書かれている各名前は現代知られているものとは 所々違う部分もあるが全体としては同じ。 天照大神は十九番目にでてくる。
その後二十一番目に日向三代の一代、天津彦彦火火瓊々杵尊(ニニギノミコト) が書かれていて、 日向二代、彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)、日向三代、彦波瀲武廬鳥茲鳥草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)
と「二十三世」の最後は日向三代が占められて書かれている。
現在、縄文時代の次は弥生時代。
弥生時代は東京の弥生という地名からきている のは有名な話だけど、この「二十三世」が筑紫の日向宮に都があった時代というのは 日向時代とか伊都国時代という時代区分があってもおかしくないと思う。 なぜ讃とか珍とか中国風に名乗ったのだろうか。隋書倭国伝に出てくる倭王である阿毎多利思北孤は日本風なのに。 何度も使者や将軍を送って話は通じてるんだから名乗ったろ?
任官に名は記載すると思うぞ。 交渉の便宜上としても。姓は王が与える立場だから無いけど。
和風も後の漢風も諡号だし、身内がのりちゃんって呼んでたからコレとか無理w
で、倭王讃 朝貢。 征東将軍任官だろ。
5世紀、倭の讃王〜倭の武王まで、南朝と半島軍事利権交渉で朝貢した。
南北朝時代であり、南朝は遼東や朝鮮半島どころか黄河以北にも影響力は無い。
結局負けるし。 遼東は高句麗の最盛期であり北朝はこっちの方に手を焼いた。
倭国は古く漢、魏と冊封関係にあったが、日本は倭国を滅ぼし半島にも軍事侵攻した。
南朝であれば和平半島利権交渉は成功するに決まっている。
この間の歴史は日本側は空白であるが、それは600年以降の隋唐史対応によると
結局大陸を支配した北朝に南朝の同盟国であった事を配慮する姿勢をとったと思われる。
記紀は白村江敗戦をもって半島利権を放棄したことを受け
九州を歴史上固有の日本領とする為に書かれた。
この間の史実は倭の五王記、広開土王碑位しか実証は無いが
記紀でも、嘘っぽい天皇年紀以外であっても
任那割譲、磐井の乱、仏教公伝、五経博来日、百済の七支刀献上
など、これを裏付けする史実は見受けられる。
倭の五王記について、成立期の推古帝即位、聖徳太子の存在ですら怪しい記紀で
100から200年前の倭の五王を比定するのは、単純に見て愚行と言える。
この間年表に書ける、歴史上の事実の裏付けが中国史でしか残っていないのが実情。 成りすましというより、そもそも日本人じゃないんじゃない? 『聖化 日神 日霊 津』
の話ばかりなのは、どういう事なの?
天帝より授かったと書いてない? 日本では河童?河伯
キュウリの葉、葱の華の写っている写真 単に中華相手には中国風の名前を名乗るのが粋だったんだよ。
そして倭の五王は九州北部の筑紫倭国の王。 >>389
卑弥呼時代の弥生渡来人が日本人かというと若干疑問で
対馬海峡両岸に国境というか国体国家が無かったわけだけど、公孫氏の韓四郡は中国辺境だろ。
400年は関東以西で日本国家が形成した古墳時代だからなぁ〜?
663年で唐との国境を確定させる前だったとしても
日本人になってると判断して良いんじゃないかな?
奈良遷都以降なら、今の日本でも同祖だし。
倭の五王の出港地ってどこだろ?
ま、対馬航路抑えてれば大阪〜小倉、博多で船乗り換えりゃ一緒か? 筑紫倭国の王とか、バカの脳内にしか存在しない空想妄想国家かw 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。 当時の日本の状況として
300年以降高句麗の台頭で漢四郡が無くなって百済建国の背後で高句麗と戦争した。
400年には高句麗馬や牛が国内全土に広がって、
甲斐、信濃、武蔵、上州に御牧が成立で国司前方後円墳に高句麗牧童の墳墓も伴う。
古墳時代で大和王権確立期だろ。
邪馬台国がこれを為したというのが九州王朝東遷説だろ?
狗奴国との紛争で消えかけの帯方郡役人介入させて王権相続でもめる国じゃ無理だろ?
以降
倭の五王終了500年には半島は百済新羅の傀儡独立国になってて、
腹心百済に任那割譲で磐井の乱から半島冊封の方向性とかで皇子の人質化だろ。
で、隋唐成立で高句麗滅亡から半島属国化の663年には百済移民や皇子にお引き取りいただいたってことだ。
倭の五王は国土成立期のいい仕事してると思うんだが
中国外交が南朝だったから、白村江敗戦で記録を消したと思うね。
歴史は繰り返すっていうか、日本が台湾領有や朝鮮併合したのと似てね?
現代史は消えないけどwww 古代史も直視すべきだね。
半島配慮の戦前学者の子分には無理な注文か? 他のスレにも書いているんだけど、
アタマのビョーインに行ったほうが良いぞ 奴隷なら奴隷らしくしろ!
と言っている人もいなかった
倭人に対して言っていた それと『倭猿』
倭猿は、本当に、どうしようもないな
と言っている人がいたり 同じようなサル?でも、
いろいろあって、系統が違うとか
猿田彦というスレ参照
>それは違うサルタさんでしょ
という書き込み 他のスレにも書いたけど、
あの棒術??などは系統が違う チェーンソーのゲーム
渡来人どもめ〜と言っているでしょ、
敵の台詞 北斗の拳、
北斗、南斗?
主人公と同じような台詞を言っていたり、
お前はもう死んでいる、既に死んでいる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています