‘辛亥年七月に記す。乎獲居の大先祖の名前は意富比垝(オオビコ)であり、其の息子の名前は多加利足尼(タガリゾックニ)であり、
其の息子の名前は工已加利獲居(コリガリフェッコ)であり、其の息子の名前は多加披次獲居(タガビシフェッコ)であり、其の息子の名前は多沙鬼獲居(タサギフェッコ)であり、
其の息子の名前は半工比(バラコビ)である。其の息子の名前は加差披余(カサビリ)であり、
其の息子の名前は乎獲居(ホフェッコ)である。

代々武人の首領として大王に仕えて今に至った。獲加多支鹵(フェッカタギロ)大王の官廳が斯鬼(サギ)宮にいる時、天下の統治に助けた。
この劍を百回鍛えてよく利く劍を造らせ、我々が仕えた根原を記す。

獲加’(フェッカ)と‘獲居’(フェッコ)は‘加’(カ)と‘居’(コ)の違いしかないが、これと同じく王と王妃を表わす百濟語の‘於羅珈’(アラガ:王)と‘於陸’(アリゴ:王妃)から見られる‘カ’と‘コ’の一文字のみの違いは偶然でなさそうである。


『三國史記』を見ると‘蓋鹵‘(ケロ)大王のもう一つの名前は‘近蓋婁’(クンケル)であると記されている。

一方、‘支鹵’(キロ)と‘支婁’(キル)は兩方とも‘蓋鹵’(ケロ)の違った表記として考えられる。故にこの名前は‘獲加’である大いなる王の蓋鹵大王を指す吏讀の表記であり、獲加多支鹵大王を記したものとみなされる。

以上によって、‘乎獲居’の先祖七人の名前と彼らが等しく仕えた大王は百濟の大王であることが推察される。