チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実

チョンコはソングンリ遺跡の通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されていることや、同遺跡からの炭化米の出土を根拠に「ウリたちが竪穴式住居も稲作も倭人に教えてやったニダ〜」とホルホルしているが、大きな勘違いまたは意図的な思い込みです。

ソングンリ遺跡は1975年に発見され、そこで発見された竪穴式住居は1977年に「松菊里型住居」と名付けられました。
一方、板付遺跡でいわゆる弥生時代の調査が始まったのが1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始しました。
学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に発掘し名称をつけた韓国側研究者を尊重し、現在でもこの名称を用いているに過ぎません。

現時点までの炭素年代測定で判明しているのは、
菜畑遺跡の住居跡ならびに水田遺構が紀元前900年頃
板付遺跡の住居跡ならびに水田遺構が紀元前600年頃
ソングンリ遺跡の住居跡は紀元前500年頃です。

なお、現時点でソングンリ遺跡に水田遺構は見つかっておらず、炭化米出土に留まっており、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡(紀元前300年頃)です。

また「松菊里型住居」とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています。
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと。

これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です。
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません。
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ遺跡の住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます。

国際的視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断言できるでしょう。