倭の五王の正体についてじっくり検証するスレ [無断転載禁止]©2ch.net
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自分の考えとしては倭の五王のうち讃=『褒』田別と武=大泊瀬幼『武』以外は当てはまる天皇はいないと思う
この説を説明するために前提として
天皇の在位年は古事記における干支が正しいのだとしておく
問題の時代における天皇(大王)は恒久的なものではなく、複数並立したり空位時代があるものであるとする
万世一系の演出のため、空位時代を埋める目的で追尊されたり、
はたまた大王としての実力があるにも関わらず認定されない権力者が多くあったことだろう
そのため即位年数を厳密に記述して空位時代がないようにしてある日本書紀の紀年は後の創作だと断定できる
三国史記との一致から推定した応神天皇ことホムダワケの没年は394年。だが倭王讃の記述は413年〜425年
これは矛盾している様だが、実はカラクリがある
(続く) 隋書
開皇二十年(600)、倭王有り。
姓は阿毎。字は多利思北孤。
阿輩[奚隹](「鶏」と同義)弥と号す。
使を遣わして闕に詣る。 隋 581年 - 618年 唐 618年 - 907年
随書東夷伝(656年完成) 600年・607年遣使
俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌 (姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩雞彌
妻は雞彌、太子の名は利歌彌多弗利 男王だがこの時日本は推古朝
推古天皇 在位593年1月15日 - 628年4月15日
舒明天皇 在位629年2月2日 - 641年11月17日
和風諡号は息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと) なお随書では
「都は邪靡堆」「阿蘇山がある」「秦王国っていう中華と変わらん町がある」
という記述があるが日本ではあまり話題にされない模様 >>797
あぁ、どうやら俺は白痴だったようだ
逝ってくるわ つまり7世紀まではヤマト王権の都は九州だったんじゃないかな
江田船山から銘刀が出土するのも当然だ 確定事項なの?
最近までかつて九州王朝が存在してて記紀等はその事実を隠してると思ってたけど
本当に隠したかったのは遷都の事実だったんだろうか >>779
ヒトモドキのにおいがすると、真実を追究せずに逃げ出すのかい。 >>803
お前に言っているんだよ、
池沼か何かなんだろう >>803
百済スレで罵られ続けるのがお前の仕事だぞ無能ヒトモドキ
さっさと帰れ 馬鹿が筋の通らぬ事を公言している。日本全体が議論しなくなった。さすがに、終わったね。 >>807
百済スレで罵られ続けるのがお前の仕事だぞ無能ヒトモドキ
さっさとイビられに帰れよ無能ヒトモドキ >>809
川崎の重度統合失調症症患者「松傾チョンコ」は日の出前に首を吊れ
これまで何度も!何度も!何度も!
繰り返し!繰り返し!繰り返し!
「即死しろ!」と命令されているだろう?
むしろ松傾チョンコへのレスは「首を吊って死ね!」以外にないじゃないか
誰にも相手にされてない=存在する意味がないという事だろう?
なぜ素直に命令をを聞いて首を吊ることができないんだ??
いくら無能な統合失調症症患者のヒトモドキとは言え、
日本語くらい読めるのだろう???
これだけ多くの者達に首を吊れ!と命令されているのだから
さっさとセルフ絞首刑を実行しろよ松傾チョンコ
日の出前に必ず実行しろ!
必ずだぞ!!! >>800
>つまり7世紀まではヤマト王権の都は九州だったんじゃないかな
>江田船山から銘刀が出土するのも当然だ
もはやヤマト王権という名が意味をなさないから、本来の国号と所在地から筑紫倭国でいいよ。 >>813
・ヤマト王権とは別の九州王朝がヤマト王権に征服され吸収された
・九州に存在した王朝が戦争で敗走して畿内に遷都した
どう読めば同じに読めるの 旧唐書は倭国が小国の日本を併せて其の名を奪ったと結論づけてるがな >>815
だからと言って決めつけるのは早計
「国名や和・日本の関係について聞いたけど、あいつらなんか要領得んわ」
とも書かれてる
畿内に遷都して「うちとあんたらと戦った九州の倭は別の国なんですわww」
と謀った可能性もある >>817
間違えた
倭国が小国の日本を併せて其の名を奪ったと結論づけてるのが新唐書
倭国が国号を日本に改めた若しくは小国であった日本が倭国を併合したと書かれてるのが旧唐書 >>818
どちらも旧唐書だよ。
新唐書は神武東征が書かれている。 旧唐書
倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。諸国はこれを畏怖している。
日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した」とも。
新唐書
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。
彦瀲の子の神武が立ち、あらためて「天皇」と呼ぶようになり、都を大和州に遷した。 旧唐書:
「或云日本舊小國,併倭國之地」・・・日本は旧くは小国なれども、倭国の地を併せたり
新唐書:
「或云日本乃小國,為倭所并」・・・日本はすなわち小国にして、倭の併すところと為る
旧唐書は、日本が統一、新唐書は倭が統一 >>800
埼玉県にある稲荷山古墳からも、獲加多支鹵大王と
銘記のある鉄剣が出土してるんですけどね
九州王朝は東国である武蔵国まで支配化に
おいていたのでしょうか >>823
畿内派がタイムマシン使って当時の古墳に入れ込んだんだよ間違いない
そこまでして・・・もう呆れるよね まあ、それは冗談として
7世紀までには普通に関東北部まで進出してたんでしょ九州ヤマト王権は
その200年前に半島進出してドンパチやってるんですぜ? 筒形銅器は古墳時代前期後半以降の畿内と韓半島で共通して出土するが、九州からの出土は少ない
その頃には畿内と韓半島に独自の交流ルートがあったんだろう 百済や新羅に勝って高句麗に負けたのは畿内ヤマト王権ですから >>825
稲荷山古墳から出土した刀剣の銘文にある辛亥年は471年か531年
早くて5世紀後半から遅くても6世紀中頃で7世紀までは下らない 何の根拠もなく「存在が証明できないのだ。」とうめき
妄想フルスロットルで「〜だろう。」と断定したがる
識者らに追い詰められると「〜が妥当。」などとホラを吹いて逃げまどう
しばらくすると記憶喪失で再び同じ思い込みを延々とコピペする
それが キ ナ イ コ シ (主に邪馬台国・神代関連スレでの呼び名)
蔑称も多くあり、半島関連スレでは無能ヒトモドキと呼ばれ
高天原スレではカマチョン(猿芝居ではカモ先生)
海人族スレでは摂津チョン
などスレ毎の呼称も存在する
最近では奥山と呼ばれることもしばしば
特徴としては思い込みが強く、他説を聞き入れる耳がなく
また聞き止める度量もない
そして追い詰められるとテキトーなホラを吹いて
様々なスレを逃げ回り、あらためて妄想を書きなぐる 5世紀の宋書(そうしょ)には、倭王武が宋の天子に送った条章文が引用されている。
倭王武は、第21代 雄略天皇(大泊瀬幼武尊)であるが、
東の55国、西の66国、北は、海を渡りて海北九十五國を平定し国内統一を進めたことが
述べられている。
魏志倭人伝と併せもつと、東も西も北も海を隔てて国があることが分かる。
皆、倭種だと述べられている。唯一四国しか、在り得ないだろう。
この一文から、四国(阿波)から見た、東は近畿、西は九州、北は中国地方を指す。
つまり、雄略天皇が阿波に居た証拠でもある。 >>821
旧唐書:
「或云日本舊小國,併倭國之地」・・・日本は、旧くは小国なれども、倭国の地を併せたり
新唐書:
「或云、日本乃小國,為倭所并」・・・日本は、すなわち小国にして、倭を併すところと為す。
主語は日本、「倭所并」は「為」の目的語
旧唐書は、日本が統一、新唐書も日本が倭を統一。
「為倭所并」は、続日本紀に書かれている697年から698年の九州各城の修理記事。
畿内政権「日本」は九州政権「倭」を占領した。
最終戦は薩摩にて倭王である薩末比売を捕獲。 >>834
「或云、日本乃小國,為倭所并」
これに続き、「故冒其號。」・・・故にその号(日本国号)を冒す(奪った)。
日本が日本国号を奪ったってw 残念! >>835
「或云、日本乃小國,為倭所并」
これに続き、「故冒其號。」・・・故にその号(倭国号)を冒す(おかす・無きものにする)。
主語は「日本」のままだよ。
日本が倭国号を無きものにした。 漢文の読み方をもっと勉強しようね! >>837
現代中国人が使う中国語は、7世紀以前の華北平原(中原)で使われていた言語ではない。
7世紀以前の華北平原(中原)で使われていた言語に近い言語を使うのは客家人のみ。
客家語は、日本語の漢音や漢字の用法が似ている。
例:今日(こんにちは 日本語)、今日(客家語)
>>838
「キナチョン」とは何? 韓国のオクキョン遺跡から見つかった水田跡は紀元前11世紀
一方日本最古の菜畑遺跡は紀元前10世紀なので1世紀ほど古い
菜畑遺跡から発掘された農具は韓半島と共通した大陸系磨製石器であった
日本の稲作が半島から伝来なのは間違いなく確定事項 チョンコロはソングンリ遺跡もマジョンリ遺跡もロシアの調査団が炭素年代測定するまで紀元前10世紀にだ!ってホラ吹いてやがったからオクキョンも信用に値しないんだよな。 つまり「うちの方が古いんですよ〜だwww」と
子供みたいな言い合いしてるってこと? そもそも玉?(オクヒョン)遺跡をチョンコロどもが紀元前11世紀だと主張してる根拠は
孔列文土器と突帯文土器がほぼ完全な状態で発掘され、周代のそれに酷似していると言い張ってるからだけであって
中国、日本、ロシアが科学的検証の提案や共同研究を申し入れても全て拒否してる状態なんだよな
>>842の「菜畑遺跡から発掘された農具は韓半島と共通した大陸系磨製石器であった」なんてまるっきりの嘘だし 〜チョンコ(通称:朝鮮ヒトモドキ)ショック死?! 半島はもともと農耕民族化した縄文人に支配統治された地域だった♪〜
朝鮮半島南部は紀元前から菜畑・板付・金隈と同族の農耕縄文人が征服し、大陸からは辰国と認識されていました。
根拠として挙げられるのが、
@半島最古の住居遺構である松菊里住居跡が日本の竪穴式住居の劣化コピーであること、
A半島最古の水田遺構である麻田里の温帯ジャポニカ米が九州島由来であることです。
なお、北部は遼河文明領域であり、ウラル系やツングース系が住んでいたことも判明しています。
寒さに弱い農耕縄文人を尻目に、半島の北緯36度線以北にウラル系や後には漢族系などが流入し、
弥生人(元縄文人)国家である辰国の技術指導を受け入れながら形成されたのが馬韓・辰韓・弁韓・狗邪韓国です。
北緯36度線の壁によって倭人(元弥生人)の影響を直接受けなかった
ツングース系・穢族・プヨ族を併合して高句麗に、
漢族系であった馬韓は百済に、
辰韓と弁韓が併合して倭種の国新羅に、
狗邪韓国が倭人の国として伽耶を含む任那に移行しました。
https://i.imgur.com/cL5IUF5.jpg
百済は元漢民族であったにもかかわらず、倭国本土に媚を売り続けたため、中華化した新羅から大いに反感を買い、唐と組んで逐滅(現代語 絶滅)させられました。
高句麗も滅亡し、任那は本土に撤退、統一新羅になったのですが、白村江の戦いは朝鮮半島から倭人や倭種の引き揚げが目的だったのだろうと推察できます。
その新羅も高麗に滅ぼされ、民族としての倭種の国は半島から消滅してしまいました。
高麗はモンゴル帝国の侵略を受けツングース系とモンゴル系のハイブリッド国家へと変貌を遂げ、現在に至っているのです。 中国って歴史的に日本の事情よくしらないよね。
たとえば、
その土地の統治者の最上位の者にも冊封を許すとか言いながら、
明国は
天皇の臣下で、お公家さんの日野家の後ろ盾でようやっとこ体面を保っていた、足利将軍を、日本国王として冊封したり
天皇の臣下の征夷大将軍の補任を受けた大名の更に支藩の琉球の尚氏を、琉球国王として冊封したり
自国や長年の属国の流民が大半を占めている海賊を「倭寇」と呼んで日本人扱いしたり
更に清国も琉球の状況を全く把握しなかったり
その前の宋(北宋)は皇帝が二代目になってようやっとこ、日本の皇室が、隋・唐の時分に支那に使節を送ってきていた頃から
連続している王朝だと知って感嘆したりとか。
東大寺の僧・「然が宋の趙Q皇帝に謁見して円融天皇までの年代記を献上したが、984年。最初の遣隋使が600年、
最後の遣唐使が839年、趙Qの即位が36歳、宋の初代は12年間統治し、学識に優れた弟・趙Qを非常に重用していたという。
それでも、周辺国の王統の出自すら知らない有様。
ずっと遡って、遣隋使。6世紀末〜7世紀の頭の時期、楊堅皇帝・楊広皇帝はそれぞれ、倭国(日本)の国情・政治制度等々を
問うて、理解不能野蛮すぎるとは言ったそうだが。
更にそこから200年ばかり遡った倭五王、更に200年遡った邪馬台国なんて、ちゃんと正確に伝わってるものなんだろうか? _人人人人人人人人人人人人人人人_
> チョンコロがいるぞ殺せ!! <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄
倭人
三 ( ´・ω)
三 ー(‐∪─→
三 / ̄ ̄ ̄ 》  ̄\
三三 | ナウマン象U ・ | 死にたくないニダ!!!
三 と| ι| | 三┏<;`Д´ >┛
三 /_∧∨ ̄ ̄/_∧U 三 ┛ ┓ 5chのお利口なみなさんへ
満州先生のご本のアマゾンレビューが出ましたのでお知らせします。
(後半のみ抜粋。詳細はアマゾンをご覧ください。)
また本作は邪馬台国論争を解く上でも無視できない必読書である。
なぜなら古代の地理を正確に把握していなければ、
卑弥呼がどこにいたかを論じることはできないからである。
たとえば著者によれば、漢四郡が置かれたのは今の大凌河と遼河の間であり、
楽浪郡と帯方郡は遼河の西にあった。
また著者は前作に引き続き、卑弥呼がいた可能性のある地域について研究し、
新たに四つの候補地を挙げている。
旧唐書の倭国と日本についても、著者は大半の人が気付いていない重要な指摘を行っていて、
それを読めば、旧唐書の倭国とは馬韓であり、馬韓は満州にあったことが分り、
卑弥呼は馬韓の女王であったという浜名寛祐説が正しかったことが分るだろう。 >天皇の臣下で、お公家さんの日野家の後ろ盾でようやっとこ体面を保っていた、
>足利将軍を、日本国王として冊封したり
足利義満は出家して俗世を離れたから(官位を放棄)もう天皇の臣下とは言えない
その上で明の永楽帝に日本国王に冊封された | []_]∧∧
| | |/ 支\
| ( `ハ´) < 餌の時間アル
| ヽ( つと)
|ブリ || (ヽ ) ) ( ̄◎
| ブリッ )し'し' |~~~|
| ⊆=⊇  ̄゛
 ̄ ̄ ̄| | ̄ ̄ ̄ ̄
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ホルホルホル ♪ ̄ ̄ ̄; :  ̄ ̄|
|. ∧_,,∧ .人. |
| <ヽ`∀´> (__) .....|
|:::(つ= ) \ /:::::::|
__∧___ ̄
待ちわびたニダ♪ 旧唐書
「日本國者,倭國之別種也。」
日本国は倭国の別の国号である
→今後はこれまで倭国と呼んでいた国を日本国として記すという説明
「以其國在日邊,故以日本爲名。」
その国が日の出の方角にあるという理由で、日本と名乗るようにした
→あるいはいうの前のここまでが本論であり、これが旧唐書撰者の公式見解
「或曰:倭國自惡其名不雅,改爲日本。」
あるいは曰う、倭国が自らその「倭」が雅でないことを嫌い、国号を日本に改めた
→別伝の紹介:改号の理由の推定 上記の本論と齟齬はない
「或云:日本舊小國,併倭國之地。」
あるいは云う、日本は旧くは小国で、倭国の地を一つの国とした
→別伝の紹介:日本(旧倭国)は最初から全国政権ではなかったが、
倭国の地全体を一つの国とした(併せた)
これは宋書の倭王武の上表文
「自昔祖禰躬甲冑跋渉山川不遑寧處
東征毛人五十五國
西服衆夷六十六國
渡平海北九十五國
王道融泰廓土遐畿」の意訳 朝鮮ヒトモドキ三種の神技
記憶喪失(論破されても半日で忘れる)
文盲病(前後の文脈や論の大局を読めない)
チョンコロ目(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る) >>850さん
>>834は扶余勇と関係あるから扶余勇を調べれば進歩するよ >>855は江上と同じ間違いをしている。
日本がはじめて出てくるのが旧唐書。唐の時代に日本国が現れた。
唐の時代に現れた日本国をなぜ宋書に出てくる国にまでさかのぼれるのだ?
その間の歴史はどうなってるんだい? 漢字の音韻から考察して
最初の倭王の讃は
履中天皇。 >>859
新唐書「咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。」670年の使いの時には日本を号していたことがわかった。
新唐書「子天智立。明年,使者與蝦蛦人偕朝。」では日本を号する記事はないから、日本国号は天智が立った翌年以降、670年以前の間まで絞れる。
倭の五王と日本は何の関係もない。>>855は江上と同じ間違いをしている。 倭が日本に改名しましたって唐代の通典に書いてあるけど 国号日本の成立は通説では天武・持統朝
当然それ以前は倭国と呼ばれるのが当たり前 >>858
朝鮮ヒトモドキ三種の神技
記憶喪失(論破されても半日で忘れる)
文盲病(前後の文脈や論の大局を読めない)
チョンコロ目(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る) 〜プヨもチュモンも日本とは無関係! むしろ半島の伝説はすべて「日本書紀」からパクった妄想だった♪〜
高麗大学の金鉉球と鄭大均の両教授は、
「漢文の書き方から見ても三韓の建国神話は日本書紀を模倣して書かれたものであることは明白であり、
現代の歴史教育における三韓史も日本書紀を土台としつつ、感情的に受け入れられない部分を削除し、
ただ根拠もなく三韓が日本に文化を伝えたと改ざんした捏造史である」と断言しています。
また「日本書紀」に引用されていることを理由に百済三書を事更にもてはやそうとする朝鮮ヒトモドキも多いですが、
朝鮮半島最古の歴史書である三国史記には、「百済開国已来、未有以文字記事、至是得博士高興、始有書記
(百済は開国以来、東普の高興博士が書記を記録するために訪れるまで文字で記録を残したことはなかった)」
と明記されており、こんにちでは百済三書の存在自体の信憑性は低いと断定されています。
加えて朱蒙伝説なるものが神武伝説の元になっていると強弁する朝鮮ヒトモドキも散見されますが、
「論衡」「後漢書」「魏略」に記録されている東明は扶余族の東明であって、
高句麗初代王の東明(朱蒙)と混同するのは彼らの民族的願望であり事実ではありません。
やはり金教授と鄭教授の指摘にあるように、
朱蒙伝説も三国史記編纂時になってから「日本書紀」を模倣して創作された伝説と見るべきでしょう。
なお、百済三書(百済記、百済新撰、百済本記)は日本書紀の引用文献として名前が上がっている以外に存在を証明するものがなく、
「天皇」や「日本」と表現している点、漢音ではなく呉音で表記されている点などを勘案すると、
日本書紀の権威付けのために日本書紀編纂者が創作した文献であり、実在はしていなかったとするのが現在の定説です。 >>865の補足資料
一方の日本(倭国)の文字文化はというと、魏志倭人伝には次のような記述があり、
この時代に既に倭国は文字による外交や政治を行っていたことが理解できます。
「文書・賜遣の物を伝送して女王に詣らしめ」、
「詔書して倭の女王に報じていわく、親魏倭王卑弥呼に制詔す。」、
「今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し」、
「銀印青綬を仮し」、
「詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔をもたらし」、
「倭王、使によって上表し、詔恩を答謝す。」、
「因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄を為(つく)りてこれを告喩す。」、
「檄を以て壹与を告喩す。」
このように魏志倭人伝には繰り返し後漢や魏から詔・詔書が出され、印綬が下賜されたことが記され、
それに対して倭国からは「上表」文が出されています。
従って、弥生時代の倭国は詔書や印に記された文字を理解し、上表文を書くこともできたと断言できるのです。
おそらく日本列島内で最も早く文字(漢字)を受容し、外交・政治に利用していたことに疑いの余地はありません。
よって日本列島内で弥生時代の遺跡や遺物から最も「文字」の痕跡が出現する地域が女王国(邪馬壹国)の
最有力候補と考えるのが、理性的・学問的態度であり、学問的仮説である学説に値します。
筑前中域には次のような文字文化受容の痕跡である遺物が出土しています。
志賀島の金印「漢委奴国王」(57年)、
室見川の銘版「高暘左 王作永宮齊鬲 延光四年五」(125年)、
井原・平原出土の銘文を持つ漢式鏡多数
これらに代表されるように、日本列島内の弥生遺跡中、最も濃厚な文字文化の痕跡を有すのは筑前中域であり、
この地域を邪馬壹国に比定すべきとの結論に至らざるを得ません。 >>859
>日本がはじめて出てくるのが旧唐書。唐の時代に日本国が現れた。
>唐の時代に現れた日本国をなぜ宋書に出てくる国にまでさかのぼれるのだ?
それは>>859の読み違い
大陸史書は先行史書を参照しながら撰述される
旧唐書を撰述するときに、倭も日本も同じ国だと分かった上で、宋書の倭王武の上表文を
参考にして「或云:日本舊小國,併倭國之地」を書いたってこと >>861
唐会要に「則天時。自言其國近日所出。故號日本國。蓋惡其名不雅而改之。」って書いてあるよ
大陸に日本国という国号が伝えられたのは武則天の長安三年(703年)の粟田真人の遣唐使の時だ 邪馬壹國なんてないんだよ
もう古田武彦氏の亡霊は眠らせてやれよ
室見川の銘版
昭和23年7月末に博多湾岸室見川河口近くの西岸で文字が記された文鎮状の金属片が発見された。
「室見川銘板」である。
金属片は銅製で、「高暘左王作永宮斎鬲延光四年五」と刻印されていた。
この中の「延光四年」は漢の年号で西暦125年に当たる。
発見から28年後に実測図を北京大学に送り鑑定を受けた。
鑑定によると記された文字は次のような意味だった。
「高暘左」は中国戦国時代(BC403〜BC221)の銅戈に記された銘文、
「王作永宮斎鬲」は春秋時代(BC770〜BC403)の銅鬲(鼎)に記された銘文、
「延光四年五」は漢代の陶磁器に記された文字。
金属片自体は「清朝人が作った文鎮」であろうという鑑定だった。
銘文の文字は3種類の書体で記されていた。
大篆(周時代の書体)で記された「王作永宮斎鬲」、
小篆(秦時代に創始された書体)で記された「高暘左」、
普通の漢字に近い書体で記された「延光四年五」である。 邪馬台=大和=倭=日本(やまと・ジーベン>ニッポン>にほん) ヤマトの地名だけ九州から畿内に7世紀に移転したのかもよ。 >>867
旧唐書が宋書から採録すれば、「或云」は使わない。 ヤマト→邪馬台
ウォ→ワ→倭 これをヤマトとユニファイ(書紀)
日本とヤマトをユニファイ(書紀)
日本→ジーベン→Jipang→Japan
だろう? >>866
外国との交渉役に、出自的に自国の者を使うというのは、近代以降。ヨーロッパなら17世紀以降、東洋では19世紀後半から。
古今東西、長らく、言葉の違う相手との交渉の場で、こっち側の代表に、交渉する相手方や相手国の近隣国の出自の人を使うというのは、
当たり前に行われてきた。
上古の倭国が、支那との交渉のために、支那から渡ってきた人を使ってたとしても、別段、不思議ではないわけだ。 「聖徳太子」は実際には大王族ではなく
大和政権の外交・内政に多大な貢献をなした外国人への名誉称号だった 畿内に聖徳太子さんおったんやろうけど
隋に喧嘩売ったのは九州のアメタリシヒコさんやろ。 大宰府スレで九州アメタリシヒコからサチヤマ=倭国王説を出しているがボロボロが・・ 那須国造碑
永昌元年(689年)、那須国造で評督に任ぜられた那須直葦提の事績を息子の意志麻呂らが顕彰するために、700年に建立されたものである。
「永昌」という元号は唐のものであるが、日本の元号は686年に天武天皇の崩御により701年の大宝まで停止されていたため、唐の元号を使用したと考えられている。
あるぇー?(・3・)
なんで唐の元号使ってるのかな?ケラケラ 唐の元号は今の西暦使うようなもの。東アジアの国際標準。 というか本当は自前の元号を使いだしたのが大宝律令のあとだってことだろ馬鹿 倭王武は東国平定の英雄倭健命、倭武天皇、獲加多支鹵大王 朝鮮ヒトモドキ三種の神技
記憶喪失(論破されても半日で忘れる)
文盲病(前後の文脈や論の大局を読めない)
チョンコロ目(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る) 晋に従順だった時期に比べて鮮卑は南征、倭は半島の実効支配を目論んでいて南朝(中華)の権威ディスってる 倭と日本列島の古代史とはなんも関係ないやんw
記紀に倭王のこと書いてあるか?
ないだろ
つまりそういうことだw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています