倭の五王の正体についてじっくり検証するスレ [無断転載禁止]©2ch.net
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
自分の考えとしては倭の五王のうち讃=『褒』田別と武=大泊瀬幼『武』以外は当てはまる天皇はいないと思う
この説を説明するために前提として
天皇の在位年は古事記における干支が正しいのだとしておく
問題の時代における天皇(大王)は恒久的なものではなく、複数並立したり空位時代があるものであるとする
万世一系の演出のため、空位時代を埋める目的で追尊されたり、
はたまた大王としての実力があるにも関わらず認定されない権力者が多くあったことだろう
そのため即位年数を厳密に記述して空位時代がないようにしてある日本書紀の紀年は後の創作だと断定できる
三国史記との一致から推定した応神天皇ことホムダワケの没年は394年。だが倭王讃の記述は413年〜425年
これは矛盾している様だが、実はカラクリがある
(続く) >>837
現代中国人が使う中国語は、7世紀以前の華北平原(中原)で使われていた言語ではない。
7世紀以前の華北平原(中原)で使われていた言語に近い言語を使うのは客家人のみ。
客家語は、日本語の漢音や漢字の用法が似ている。
例:今日(こんにちは 日本語)、今日(客家語)
>>838
「キナチョン」とは何? 韓国のオクキョン遺跡から見つかった水田跡は紀元前11世紀
一方日本最古の菜畑遺跡は紀元前10世紀なので1世紀ほど古い
菜畑遺跡から発掘された農具は韓半島と共通した大陸系磨製石器であった
日本の稲作が半島から伝来なのは間違いなく確定事項 チョンコロはソングンリ遺跡もマジョンリ遺跡もロシアの調査団が炭素年代測定するまで紀元前10世紀にだ!ってホラ吹いてやがったからオクキョンも信用に値しないんだよな。 つまり「うちの方が古いんですよ〜だwww」と
子供みたいな言い合いしてるってこと? そもそも玉?(オクヒョン)遺跡をチョンコロどもが紀元前11世紀だと主張してる根拠は
孔列文土器と突帯文土器がほぼ完全な状態で発掘され、周代のそれに酷似していると言い張ってるからだけであって
中国、日本、ロシアが科学的検証の提案や共同研究を申し入れても全て拒否してる状態なんだよな
>>842の「菜畑遺跡から発掘された農具は韓半島と共通した大陸系磨製石器であった」なんてまるっきりの嘘だし 〜チョンコ(通称:朝鮮ヒトモドキ)ショック死?! 半島はもともと農耕民族化した縄文人に支配統治された地域だった♪〜
朝鮮半島南部は紀元前から菜畑・板付・金隈と同族の農耕縄文人が征服し、大陸からは辰国と認識されていました。
根拠として挙げられるのが、
@半島最古の住居遺構である松菊里住居跡が日本の竪穴式住居の劣化コピーであること、
A半島最古の水田遺構である麻田里の温帯ジャポニカ米が九州島由来であることです。
なお、北部は遼河文明領域であり、ウラル系やツングース系が住んでいたことも判明しています。
寒さに弱い農耕縄文人を尻目に、半島の北緯36度線以北にウラル系や後には漢族系などが流入し、
弥生人(元縄文人)国家である辰国の技術指導を受け入れながら形成されたのが馬韓・辰韓・弁韓・狗邪韓国です。
北緯36度線の壁によって倭人(元弥生人)の影響を直接受けなかった
ツングース系・穢族・プヨ族を併合して高句麗に、
漢族系であった馬韓は百済に、
辰韓と弁韓が併合して倭種の国新羅に、
狗邪韓国が倭人の国として伽耶を含む任那に移行しました。
https://i.imgur.com/cL5IUF5.jpg
百済は元漢民族であったにもかかわらず、倭国本土に媚を売り続けたため、中華化した新羅から大いに反感を買い、唐と組んで逐滅(現代語 絶滅)させられました。
高句麗も滅亡し、任那は本土に撤退、統一新羅になったのですが、白村江の戦いは朝鮮半島から倭人や倭種の引き揚げが目的だったのだろうと推察できます。
その新羅も高麗に滅ぼされ、民族としての倭種の国は半島から消滅してしまいました。
高麗はモンゴル帝国の侵略を受けツングース系とモンゴル系のハイブリッド国家へと変貌を遂げ、現在に至っているのです。 中国って歴史的に日本の事情よくしらないよね。
たとえば、
その土地の統治者の最上位の者にも冊封を許すとか言いながら、
明国は
天皇の臣下で、お公家さんの日野家の後ろ盾でようやっとこ体面を保っていた、足利将軍を、日本国王として冊封したり
天皇の臣下の征夷大将軍の補任を受けた大名の更に支藩の琉球の尚氏を、琉球国王として冊封したり
自国や長年の属国の流民が大半を占めている海賊を「倭寇」と呼んで日本人扱いしたり
更に清国も琉球の状況を全く把握しなかったり
その前の宋(北宋)は皇帝が二代目になってようやっとこ、日本の皇室が、隋・唐の時分に支那に使節を送ってきていた頃から
連続している王朝だと知って感嘆したりとか。
東大寺の僧・「然が宋の趙Q皇帝に謁見して円融天皇までの年代記を献上したが、984年。最初の遣隋使が600年、
最後の遣唐使が839年、趙Qの即位が36歳、宋の初代は12年間統治し、学識に優れた弟・趙Qを非常に重用していたという。
それでも、周辺国の王統の出自すら知らない有様。
ずっと遡って、遣隋使。6世紀末〜7世紀の頭の時期、楊堅皇帝・楊広皇帝はそれぞれ、倭国(日本)の国情・政治制度等々を
問うて、理解不能野蛮すぎるとは言ったそうだが。
更にそこから200年ばかり遡った倭五王、更に200年遡った邪馬台国なんて、ちゃんと正確に伝わってるものなんだろうか? _人人人人人人人人人人人人人人人_
> チョンコロがいるぞ殺せ!! <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄
倭人
三 ( ´・ω)
三 ー(‐∪─→
三 / ̄ ̄ ̄ 》  ̄\
三三 | ナウマン象U ・ | 死にたくないニダ!!!
三 と| ι| | 三┏<;`Д´ >┛
三 /_∧∨ ̄ ̄/_∧U 三 ┛ ┓ 5chのお利口なみなさんへ
満州先生のご本のアマゾンレビューが出ましたのでお知らせします。
(後半のみ抜粋。詳細はアマゾンをご覧ください。)
また本作は邪馬台国論争を解く上でも無視できない必読書である。
なぜなら古代の地理を正確に把握していなければ、
卑弥呼がどこにいたかを論じることはできないからである。
たとえば著者によれば、漢四郡が置かれたのは今の大凌河と遼河の間であり、
楽浪郡と帯方郡は遼河の西にあった。
また著者は前作に引き続き、卑弥呼がいた可能性のある地域について研究し、
新たに四つの候補地を挙げている。
旧唐書の倭国と日本についても、著者は大半の人が気付いていない重要な指摘を行っていて、
それを読めば、旧唐書の倭国とは馬韓であり、馬韓は満州にあったことが分り、
卑弥呼は馬韓の女王であったという浜名寛祐説が正しかったことが分るだろう。 >天皇の臣下で、お公家さんの日野家の後ろ盾でようやっとこ体面を保っていた、
>足利将軍を、日本国王として冊封したり
足利義満は出家して俗世を離れたから(官位を放棄)もう天皇の臣下とは言えない
その上で明の永楽帝に日本国王に冊封された | []_]∧∧
| | |/ 支\
| ( `ハ´) < 餌の時間アル
| ヽ( つと)
|ブリ || (ヽ ) ) ( ̄◎
| ブリッ )し'し' |~~~|
| ⊆=⊇  ̄゛
 ̄ ̄ ̄| | ̄ ̄ ̄ ̄
| |
|; : |
|●|
ホルホルホル ♪ ̄ ̄ ̄; :  ̄ ̄|
|. ∧_,,∧ .人. |
| <ヽ`∀´> (__) .....|
|:::(つ= ) \ /:::::::|
__∧___ ̄
待ちわびたニダ♪ 旧唐書
「日本國者,倭國之別種也。」
日本国は倭国の別の国号である
→今後はこれまで倭国と呼んでいた国を日本国として記すという説明
「以其國在日邊,故以日本爲名。」
その国が日の出の方角にあるという理由で、日本と名乗るようにした
→あるいはいうの前のここまでが本論であり、これが旧唐書撰者の公式見解
「或曰:倭國自惡其名不雅,改爲日本。」
あるいは曰う、倭国が自らその「倭」が雅でないことを嫌い、国号を日本に改めた
→別伝の紹介:改号の理由の推定 上記の本論と齟齬はない
「或云:日本舊小國,併倭國之地。」
あるいは云う、日本は旧くは小国で、倭国の地を一つの国とした
→別伝の紹介:日本(旧倭国)は最初から全国政権ではなかったが、
倭国の地全体を一つの国とした(併せた)
これは宋書の倭王武の上表文
「自昔祖禰躬甲冑跋渉山川不遑寧處
東征毛人五十五國
西服衆夷六十六國
渡平海北九十五國
王道融泰廓土遐畿」の意訳 朝鮮ヒトモドキ三種の神技
記憶喪失(論破されても半日で忘れる)
文盲病(前後の文脈や論の大局を読めない)
チョンコロ目(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る) >>850さん
>>834は扶余勇と関係あるから扶余勇を調べれば進歩するよ >>855は江上と同じ間違いをしている。
日本がはじめて出てくるのが旧唐書。唐の時代に日本国が現れた。
唐の時代に現れた日本国をなぜ宋書に出てくる国にまでさかのぼれるのだ?
その間の歴史はどうなってるんだい? 漢字の音韻から考察して
最初の倭王の讃は
履中天皇。 >>859
新唐書「咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。」670年の使いの時には日本を号していたことがわかった。
新唐書「子天智立。明年,使者與蝦蛦人偕朝。」では日本を号する記事はないから、日本国号は天智が立った翌年以降、670年以前の間まで絞れる。
倭の五王と日本は何の関係もない。>>855は江上と同じ間違いをしている。 倭が日本に改名しましたって唐代の通典に書いてあるけど 国号日本の成立は通説では天武・持統朝
当然それ以前は倭国と呼ばれるのが当たり前 >>858
朝鮮ヒトモドキ三種の神技
記憶喪失(論破されても半日で忘れる)
文盲病(前後の文脈や論の大局を読めない)
チョンコロ目(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る) 〜プヨもチュモンも日本とは無関係! むしろ半島の伝説はすべて「日本書紀」からパクった妄想だった♪〜
高麗大学の金鉉球と鄭大均の両教授は、
「漢文の書き方から見ても三韓の建国神話は日本書紀を模倣して書かれたものであることは明白であり、
現代の歴史教育における三韓史も日本書紀を土台としつつ、感情的に受け入れられない部分を削除し、
ただ根拠もなく三韓が日本に文化を伝えたと改ざんした捏造史である」と断言しています。
また「日本書紀」に引用されていることを理由に百済三書を事更にもてはやそうとする朝鮮ヒトモドキも多いですが、
朝鮮半島最古の歴史書である三国史記には、「百済開国已来、未有以文字記事、至是得博士高興、始有書記
(百済は開国以来、東普の高興博士が書記を記録するために訪れるまで文字で記録を残したことはなかった)」
と明記されており、こんにちでは百済三書の存在自体の信憑性は低いと断定されています。
加えて朱蒙伝説なるものが神武伝説の元になっていると強弁する朝鮮ヒトモドキも散見されますが、
「論衡」「後漢書」「魏略」に記録されている東明は扶余族の東明であって、
高句麗初代王の東明(朱蒙)と混同するのは彼らの民族的願望であり事実ではありません。
やはり金教授と鄭教授の指摘にあるように、
朱蒙伝説も三国史記編纂時になってから「日本書紀」を模倣して創作された伝説と見るべきでしょう。
なお、百済三書(百済記、百済新撰、百済本記)は日本書紀の引用文献として名前が上がっている以外に存在を証明するものがなく、
「天皇」や「日本」と表現している点、漢音ではなく呉音で表記されている点などを勘案すると、
日本書紀の権威付けのために日本書紀編纂者が創作した文献であり、実在はしていなかったとするのが現在の定説です。 >>865の補足資料
一方の日本(倭国)の文字文化はというと、魏志倭人伝には次のような記述があり、
この時代に既に倭国は文字による外交や政治を行っていたことが理解できます。
「文書・賜遣の物を伝送して女王に詣らしめ」、
「詔書して倭の女王に報じていわく、親魏倭王卑弥呼に制詔す。」、
「今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し」、
「銀印青綬を仮し」、
「詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔をもたらし」、
「倭王、使によって上表し、詔恩を答謝す。」、
「因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄を為(つく)りてこれを告喩す。」、
「檄を以て壹与を告喩す。」
このように魏志倭人伝には繰り返し後漢や魏から詔・詔書が出され、印綬が下賜されたことが記され、
それに対して倭国からは「上表」文が出されています。
従って、弥生時代の倭国は詔書や印に記された文字を理解し、上表文を書くこともできたと断言できるのです。
おそらく日本列島内で最も早く文字(漢字)を受容し、外交・政治に利用していたことに疑いの余地はありません。
よって日本列島内で弥生時代の遺跡や遺物から最も「文字」の痕跡が出現する地域が女王国(邪馬壹国)の
最有力候補と考えるのが、理性的・学問的態度であり、学問的仮説である学説に値します。
筑前中域には次のような文字文化受容の痕跡である遺物が出土しています。
志賀島の金印「漢委奴国王」(57年)、
室見川の銘版「高暘左 王作永宮齊鬲 延光四年五」(125年)、
井原・平原出土の銘文を持つ漢式鏡多数
これらに代表されるように、日本列島内の弥生遺跡中、最も濃厚な文字文化の痕跡を有すのは筑前中域であり、
この地域を邪馬壹国に比定すべきとの結論に至らざるを得ません。 >>859
>日本がはじめて出てくるのが旧唐書。唐の時代に日本国が現れた。
>唐の時代に現れた日本国をなぜ宋書に出てくる国にまでさかのぼれるのだ?
それは>>859の読み違い
大陸史書は先行史書を参照しながら撰述される
旧唐書を撰述するときに、倭も日本も同じ国だと分かった上で、宋書の倭王武の上表文を
参考にして「或云:日本舊小國,併倭國之地」を書いたってこと >>861
唐会要に「則天時。自言其國近日所出。故號日本國。蓋惡其名不雅而改之。」って書いてあるよ
大陸に日本国という国号が伝えられたのは武則天の長安三年(703年)の粟田真人の遣唐使の時だ 邪馬壹國なんてないんだよ
もう古田武彦氏の亡霊は眠らせてやれよ
室見川の銘版
昭和23年7月末に博多湾岸室見川河口近くの西岸で文字が記された文鎮状の金属片が発見された。
「室見川銘板」である。
金属片は銅製で、「高暘左王作永宮斎鬲延光四年五」と刻印されていた。
この中の「延光四年」は漢の年号で西暦125年に当たる。
発見から28年後に実測図を北京大学に送り鑑定を受けた。
鑑定によると記された文字は次のような意味だった。
「高暘左」は中国戦国時代(BC403〜BC221)の銅戈に記された銘文、
「王作永宮斎鬲」は春秋時代(BC770〜BC403)の銅鬲(鼎)に記された銘文、
「延光四年五」は漢代の陶磁器に記された文字。
金属片自体は「清朝人が作った文鎮」であろうという鑑定だった。
銘文の文字は3種類の書体で記されていた。
大篆(周時代の書体)で記された「王作永宮斎鬲」、
小篆(秦時代に創始された書体)で記された「高暘左」、
普通の漢字に近い書体で記された「延光四年五」である。 邪馬台=大和=倭=日本(やまと・ジーベン>ニッポン>にほん) ヤマトの地名だけ九州から畿内に7世紀に移転したのかもよ。 >>867
旧唐書が宋書から採録すれば、「或云」は使わない。 ヤマト→邪馬台
ウォ→ワ→倭 これをヤマトとユニファイ(書紀)
日本とヤマトをユニファイ(書紀)
日本→ジーベン→Jipang→Japan
だろう? >>866
外国との交渉役に、出自的に自国の者を使うというのは、近代以降。ヨーロッパなら17世紀以降、東洋では19世紀後半から。
古今東西、長らく、言葉の違う相手との交渉の場で、こっち側の代表に、交渉する相手方や相手国の近隣国の出自の人を使うというのは、
当たり前に行われてきた。
上古の倭国が、支那との交渉のために、支那から渡ってきた人を使ってたとしても、別段、不思議ではないわけだ。 「聖徳太子」は実際には大王族ではなく
大和政権の外交・内政に多大な貢献をなした外国人への名誉称号だった 畿内に聖徳太子さんおったんやろうけど
隋に喧嘩売ったのは九州のアメタリシヒコさんやろ。 大宰府スレで九州アメタリシヒコからサチヤマ=倭国王説を出しているがボロボロが・・ 那須国造碑
永昌元年(689年)、那須国造で評督に任ぜられた那須直葦提の事績を息子の意志麻呂らが顕彰するために、700年に建立されたものである。
「永昌」という元号は唐のものであるが、日本の元号は686年に天武天皇の崩御により701年の大宝まで停止されていたため、唐の元号を使用したと考えられている。
あるぇー?(・3・)
なんで唐の元号使ってるのかな?ケラケラ 唐の元号は今の西暦使うようなもの。東アジアの国際標準。 というか本当は自前の元号を使いだしたのが大宝律令のあとだってことだろ馬鹿 倭王武は東国平定の英雄倭健命、倭武天皇、獲加多支鹵大王 朝鮮ヒトモドキ三種の神技
記憶喪失(論破されても半日で忘れる)
文盲病(前後の文脈や論の大局を読めない)
チョンコロ目(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る) 晋に従順だった時期に比べて鮮卑は南征、倭は半島の実効支配を目論んでいて南朝(中華)の権威ディスってる 倭と日本列島の古代史とはなんも関係ないやんw
記紀に倭王のこと書いてあるか?
ないだろ
つまりそういうことだw >>890
支那の記録がデタラメなんだろ。
私費入境・私貿易が盛んにおこなわれるようになった宋の時代にも、皇帝が日本の王統を知らず、入境してきた東大寺の僧が謁見した際に、
隋唐の頃に国使を送ってきた倭国の王朝が今も続いているとそこで初めて聞き知ったというし、その500年くらい後の明時代には、源義満を
国王と誤認するありさま。
隋に使いを送ってきた王の名前も「阿毎多利思北孤」と誤認していて、新唐書で痛々しいつじつま合わせをしている有様。
全く以ってデタラメだらけ。
そんなものが紀元前の日本の状況を正しく伝えてるはず無いわな。 今どき書紀の記事信じてる知恵遅れがいることにまず驚くわw >>899
古事記が献上されたのが元明天皇期(712年)、古事記の記載に基づくと、隋使を出したのが推古天皇期(600年〜618年)。
つまり、古事記には112年前〜94年前前の出来事として、遣隋使を記載している。
今から100年前後前というと、ハーグ条約(112年前)、第一次世界大戦(105年前)、流感(スペイン風邪)で死者多数・シベリア出兵(101年前)、
パリ講和会議・朝鮮半島三一独立運動(100年前)『女工哀史』発刊・相撲協会発足・男性普通選挙(94年前)……と、まあ、こんな感じ。
そんなに古い話ではないだろ。
直で体験した話を集めるのは死去や老年性痴呆で殆ど無理だろうが、子や孫が体験した本人から伝え聞いて知っているくらいの年数だ。
そこで間違うかなあ? 記と紀で内容に違いがあるので不正確な部分もあるだろうが、当時の歴史認識をそのまま反映しているのであろう。
記紀だから信じないのなら、聖徳太子もいなかったし(それはそれで構わないが)、仁徳天皇もいなかった(大山古墳は関係ないらしいが)。 ヤマトタケルとかは複数の人物の事績が混同されていると言われているが、それも意図的ではなく、そうなってしまったというのが正しいのではないか。 日本書紀は天皇が征服した土地の姫をレイプする話ばっかりで胸糞悪くなる 熊襲建(クマソタケル)→熊素建→肥素建→肥本建→日本武尊 タケルは王を意味する尊称だったのだろう。
熊襲タケルは倭王であったが、自らを倒した小碓尊を倭王の資格がある勇者と認めたのだろう。
ちなみに記紀で筑紫のタケルと明記されるのは、八咫の鏡を持つ神夏磯姫である。
タケルは梟帥とも書き、筑紫の梟帥は大宰の帥、大率と同義語である(率と帥は同義語)。 >>899
日本書記は天皇の年齢が100歳超えてたり、明らかのおかしい面はある。
しかしそれがなぜなのかを考えるのが楽しいわけだ。
君のような、サヨク学者の言うがまま人間なんて、
何が楽しくて歴史に興味を持ってるのか逆に聞きたい。
サヨク学者は「神武天皇なんていない」というのが天皇制に対しての最も効率の良い攻撃だと知ってて攻撃してるのだからね。 もう1000年も昔のことなんだから政治的偏向を捨てて
澄んだ心の目で真実を探そうとしてみたらどうだろうか? 池沼ウヨ共は機能的非識字だからまともな本を読む能力が無い
だから当然記紀も万葉集も読んでいないし
本居宣長も新井白石が何を言っていたかもさっぱり理解できない
同じ池沼のweb上のウワゴトやwikipediaや糞掲示板の文言の片言隻句を
オツムでこねくり回してやっぱりウワゴトを垂れるだけ 倭の五王は倭国王、日本王、百済王、新羅王、高句麗王 ヤマトタケル時代の景行天皇なんて
書紀では日本史上最も活躍した天皇みたいな書き方だけど
古事記じゃ空気だもんな
タケルも含めて四道将軍たちのエピソードをまとめた感じ >>913
バカ発見wwwwwwwwww
____
/_ノ ヽ、_\. ━━┓┃┃
,. -- 、, o゚((●)) ((●))゚o ┃ ━━━━━━━━
,―<,__ ヽ::::⌒(__人__)⌒::::: \ ┃ ┃┃┃
/ ヽ ゝ'゚ ≦ 三 ゚。 ゚ ┛
__| }。≧ 三 ==-
/ ヽ, / { -ァ, ≧=- 。
{ Y----‐┬´ 、レ,、 >三 。゚ ・ ゚
/'、 ヽ |ー´ ヽ`Vヾ ヾ ≧
.{ ヽ ヽ lヽ_!´ ヽ。・イハ 、、 `ミ 。 ゚ 。 ・
', ヽ ヽ ,/ }
ヽ ヽ 、,__./ __/
\ ヽ__/,' _ /
\__.'! 〈 _, '
 ̄ >>914
明治より前では関東まで下向したことのある数少ない天皇だぞ。 >>773
以前>>344で書き込んだ者だが、
>>773のまとめは、大体私のイメージにも近い。
私のイメージは、
・1世紀ころ倭国の中心地は奴国
奴国が本州含め倭国を全体的に支配していたかは
わからないが、覇者(≒筑紫島(九州)北部の
支配的存在)であった可能性は高いと考えている。
後漢書に出てくる2世紀後半の倭国大乱は
奴国の敗北衰亡(覇権崩壊)のことではないか。
・邪馬台国は神武東征により建国
神武天皇は、伊都国出身で、紀元前1世紀か
紀元後1世紀ころ、大和地域に武力侵攻し
邪馬台国を建国したのではないか。
開化天皇までの邪馬台国は、地方国家(豪族)
レベルで、徐々に強国化、機内周辺に支配地域を
広げていたかもしれないが、倭国全体を支配
していたわけではない。 ・卑弥呼は邪馬台国の女王ではない
2世紀ころまで先進地域は九州北部であり
本州は後進的であったが、九州北部は倭国
大乱により衰退する。
一方、地方大国化していた邪馬台国は
比較的戦禍を免れ、邪馬台国を中心として
新たな国家連合が形成されたのではないか。
卑弥呼は、邪馬台国出身で、新たな国家
連合の女王として共立されたが、一地方国家
としての邪馬台国の国王まで兼ねていた
わけではなかった。
このため、記紀には、天皇としては卑弥呼の
存在が残っていない。
ただし、後漢書の卑弥呼と魏志の卑弥呼が
同一人物であるかはわからない。
連合国家において実質的指導者であった
のは邪馬台国の国王(天皇)であり、崇神
天皇の時代には連合国家の国王とも位置付け
られるようになった。 卑弥呼は倭国王であり、邪馬台国はその王都。
魏志倭人伝を無視して妄想を繰り広げても意味はない。 >>1
讃は履中天皇(イザホワケ)だよ
弟の珍が反正天皇(ミズハワケ)
讃に対する記述に「高句麗とともに中国に朝貢」って書いてある
倭王讃は高句麗と連携してたんだよ
履中天皇は「大兄ミズハワケ」で「大兄」というのは高句麗の官位名
つまり履中天皇は倭王族と高句麗の官位を兼職してたってことだよ >>8
履中天皇のときに、「筑紫に税を求めたが神の怒りを買い皇后が死んだ」とある
履中天皇(倭王讃)時代に、ヤマトは筑紫を支配できていない
また、倭王珍の記述として
倭王珍が安東将軍に叙せられたのに対し
倭隋は平西将軍に叙せられてる
安東将軍=東の支配者=ヤマトの王
平西将軍=西の支配者=筑紫の王
と見なせる
ヤマトと筑紫はこの時代、ヤマト優勢ではあるが支配関係ではなく属国に近い同盟関係 磐井の乱で継体天皇は屯倉一つを手に入れただけ。
筑紫の君の息子が継承して筑紫倭国の国体は守られた。 九州王朝は位置的に難しいと思うぞ。
そもそも北九州が天下を治めるというのに無理がある。
もし仮に天下を取ったら、すぐに移動しただろう。 >>922
嘘は良くない。大兄は長兄という意味だよ。 天智天皇より前の倭王は大伴氏や蘇我氏の豪族達に推戴された王。卑弥呼と一緒。 古代史はトンデモ史観に占拠されているから、うんざりする。 >>927
三韓出兵(広開土王碑)による高句麗との交流開始とともに「大兄」のつく皇族が出現
高句麗滅亡とともに「大兄」のつく皇族はいなくなる
この歴史的事実をどう捉えるか >>925
その屯倉は博多湾だからな
つまり最大の貿易港であり国力の生命線をヤマトに抑えられた
事実上の完全従属だよ 古田の多元王朝論は面白いんだけど、
残念ながら
九州vsヤマトではなく、
ヤマトvsヤマトの多元王朝なんだよ
ヤマトの勢力が分裂してそれぞれで勝手に年号を制定したり(いわゆる古田の言う九州年号)都を立てて律令を作ったり、銅銭(富本銭)を作ったりしてたわけだ
それが壬申の乱〜大宝律令〜記紀の制定でやっと落ち着く、という流れ 博多湾抑えられたら長崎か熊本のほうから貿易しなきゃいけない
これはキツイと思うよ
北九州宗像あたりは古くからヤマト側だし >>933
宗像三女神が守護した天孫は筑紫の日向で豊葦原中国の王になった。
ヤマトが何だって? 宗像が古くから云々というのは6世紀の話か。
あまり古くないな。 レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。