倭の五王の正体についてじっくり検証するスレ [無断転載禁止]©2ch.net
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自分の考えとしては倭の五王のうち讃=『褒』田別と武=大泊瀬幼『武』以外は当てはまる天皇はいないと思う
この説を説明するために前提として
天皇の在位年は古事記における干支が正しいのだとしておく
問題の時代における天皇(大王)は恒久的なものではなく、複数並立したり空位時代があるものであるとする
万世一系の演出のため、空位時代を埋める目的で追尊されたり、
はたまた大王としての実力があるにも関わらず認定されない権力者が多くあったことだろう
そのため即位年数を厳密に記述して空位時代がないようにしてある日本書紀の紀年は後の創作だと断定できる
三国史記との一致から推定した応神天皇ことホムダワケの没年は394年。だが倭王讃の記述は413年〜425年
これは矛盾している様だが、実はカラクリがある
(続く) 倭が日本に改名しましたって唐代の通典に書いてあるけど 国号日本の成立は通説では天武・持統朝
当然それ以前は倭国と呼ばれるのが当たり前 >>858
朝鮮ヒトモドキ三種の神技
記憶喪失(論破されても半日で忘れる)
文盲病(前後の文脈や論の大局を読めない)
チョンコロ目(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る) 〜プヨもチュモンも日本とは無関係! むしろ半島の伝説はすべて「日本書紀」からパクった妄想だった♪〜
高麗大学の金鉉球と鄭大均の両教授は、
「漢文の書き方から見ても三韓の建国神話は日本書紀を模倣して書かれたものであることは明白であり、
現代の歴史教育における三韓史も日本書紀を土台としつつ、感情的に受け入れられない部分を削除し、
ただ根拠もなく三韓が日本に文化を伝えたと改ざんした捏造史である」と断言しています。
また「日本書紀」に引用されていることを理由に百済三書を事更にもてはやそうとする朝鮮ヒトモドキも多いですが、
朝鮮半島最古の歴史書である三国史記には、「百済開国已来、未有以文字記事、至是得博士高興、始有書記
(百済は開国以来、東普の高興博士が書記を記録するために訪れるまで文字で記録を残したことはなかった)」
と明記されており、こんにちでは百済三書の存在自体の信憑性は低いと断定されています。
加えて朱蒙伝説なるものが神武伝説の元になっていると強弁する朝鮮ヒトモドキも散見されますが、
「論衡」「後漢書」「魏略」に記録されている東明は扶余族の東明であって、
高句麗初代王の東明(朱蒙)と混同するのは彼らの民族的願望であり事実ではありません。
やはり金教授と鄭教授の指摘にあるように、
朱蒙伝説も三国史記編纂時になってから「日本書紀」を模倣して創作された伝説と見るべきでしょう。
なお、百済三書(百済記、百済新撰、百済本記)は日本書紀の引用文献として名前が上がっている以外に存在を証明するものがなく、
「天皇」や「日本」と表現している点、漢音ではなく呉音で表記されている点などを勘案すると、
日本書紀の権威付けのために日本書紀編纂者が創作した文献であり、実在はしていなかったとするのが現在の定説です。 >>865の補足資料
一方の日本(倭国)の文字文化はというと、魏志倭人伝には次のような記述があり、
この時代に既に倭国は文字による外交や政治を行っていたことが理解できます。
「文書・賜遣の物を伝送して女王に詣らしめ」、
「詔書して倭の女王に報じていわく、親魏倭王卑弥呼に制詔す。」、
「今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し」、
「銀印青綬を仮し」、
「詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔をもたらし」、
「倭王、使によって上表し、詔恩を答謝す。」、
「因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄を為(つく)りてこれを告喩す。」、
「檄を以て壹与を告喩す。」
このように魏志倭人伝には繰り返し後漢や魏から詔・詔書が出され、印綬が下賜されたことが記され、
それに対して倭国からは「上表」文が出されています。
従って、弥生時代の倭国は詔書や印に記された文字を理解し、上表文を書くこともできたと断言できるのです。
おそらく日本列島内で最も早く文字(漢字)を受容し、外交・政治に利用していたことに疑いの余地はありません。
よって日本列島内で弥生時代の遺跡や遺物から最も「文字」の痕跡が出現する地域が女王国(邪馬壹国)の
最有力候補と考えるのが、理性的・学問的態度であり、学問的仮説である学説に値します。
筑前中域には次のような文字文化受容の痕跡である遺物が出土しています。
志賀島の金印「漢委奴国王」(57年)、
室見川の銘版「高暘左 王作永宮齊鬲 延光四年五」(125年)、
井原・平原出土の銘文を持つ漢式鏡多数
これらに代表されるように、日本列島内の弥生遺跡中、最も濃厚な文字文化の痕跡を有すのは筑前中域であり、
この地域を邪馬壹国に比定すべきとの結論に至らざるを得ません。 >>859
>日本がはじめて出てくるのが旧唐書。唐の時代に日本国が現れた。
>唐の時代に現れた日本国をなぜ宋書に出てくる国にまでさかのぼれるのだ?
それは>>859の読み違い
大陸史書は先行史書を参照しながら撰述される
旧唐書を撰述するときに、倭も日本も同じ国だと分かった上で、宋書の倭王武の上表文を
参考にして「或云:日本舊小國,併倭國之地」を書いたってこと >>861
唐会要に「則天時。自言其國近日所出。故號日本國。蓋惡其名不雅而改之。」って書いてあるよ
大陸に日本国という国号が伝えられたのは武則天の長安三年(703年)の粟田真人の遣唐使の時だ 邪馬壹國なんてないんだよ
もう古田武彦氏の亡霊は眠らせてやれよ
室見川の銘版
昭和23年7月末に博多湾岸室見川河口近くの西岸で文字が記された文鎮状の金属片が発見された。
「室見川銘板」である。
金属片は銅製で、「高暘左王作永宮斎鬲延光四年五」と刻印されていた。
この中の「延光四年」は漢の年号で西暦125年に当たる。
発見から28年後に実測図を北京大学に送り鑑定を受けた。
鑑定によると記された文字は次のような意味だった。
「高暘左」は中国戦国時代(BC403〜BC221)の銅戈に記された銘文、
「王作永宮斎鬲」は春秋時代(BC770〜BC403)の銅鬲(鼎)に記された銘文、
「延光四年五」は漢代の陶磁器に記された文字。
金属片自体は「清朝人が作った文鎮」であろうという鑑定だった。
銘文の文字は3種類の書体で記されていた。
大篆(周時代の書体)で記された「王作永宮斎鬲」、
小篆(秦時代に創始された書体)で記された「高暘左」、
普通の漢字に近い書体で記された「延光四年五」である。 邪馬台=大和=倭=日本(やまと・ジーベン>ニッポン>にほん) ヤマトの地名だけ九州から畿内に7世紀に移転したのかもよ。 >>867
旧唐書が宋書から採録すれば、「或云」は使わない。 ヤマト→邪馬台
ウォ→ワ→倭 これをヤマトとユニファイ(書紀)
日本とヤマトをユニファイ(書紀)
日本→ジーベン→Jipang→Japan
だろう? >>866
外国との交渉役に、出自的に自国の者を使うというのは、近代以降。ヨーロッパなら17世紀以降、東洋では19世紀後半から。
古今東西、長らく、言葉の違う相手との交渉の場で、こっち側の代表に、交渉する相手方や相手国の近隣国の出自の人を使うというのは、
当たり前に行われてきた。
上古の倭国が、支那との交渉のために、支那から渡ってきた人を使ってたとしても、別段、不思議ではないわけだ。 「聖徳太子」は実際には大王族ではなく
大和政権の外交・内政に多大な貢献をなした外国人への名誉称号だった 畿内に聖徳太子さんおったんやろうけど
隋に喧嘩売ったのは九州のアメタリシヒコさんやろ。 大宰府スレで九州アメタリシヒコからサチヤマ=倭国王説を出しているがボロボロが・・ 那須国造碑
永昌元年(689年)、那須国造で評督に任ぜられた那須直葦提の事績を息子の意志麻呂らが顕彰するために、700年に建立されたものである。
「永昌」という元号は唐のものであるが、日本の元号は686年に天武天皇の崩御により701年の大宝まで停止されていたため、唐の元号を使用したと考えられている。
あるぇー?(・3・)
なんで唐の元号使ってるのかな?ケラケラ 唐の元号は今の西暦使うようなもの。東アジアの国際標準。 というか本当は自前の元号を使いだしたのが大宝律令のあとだってことだろ馬鹿 倭王武は東国平定の英雄倭健命、倭武天皇、獲加多支鹵大王 朝鮮ヒトモドキ三種の神技
記憶喪失(論破されても半日で忘れる)
文盲病(前後の文脈や論の大局を読めない)
チョンコロ目(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る) 晋に従順だった時期に比べて鮮卑は南征、倭は半島の実効支配を目論んでいて南朝(中華)の権威ディスってる 倭と日本列島の古代史とはなんも関係ないやんw
記紀に倭王のこと書いてあるか?
ないだろ
つまりそういうことだw >>890
支那の記録がデタラメなんだろ。
私費入境・私貿易が盛んにおこなわれるようになった宋の時代にも、皇帝が日本の王統を知らず、入境してきた東大寺の僧が謁見した際に、
隋唐の頃に国使を送ってきた倭国の王朝が今も続いているとそこで初めて聞き知ったというし、その500年くらい後の明時代には、源義満を
国王と誤認するありさま。
隋に使いを送ってきた王の名前も「阿毎多利思北孤」と誤認していて、新唐書で痛々しいつじつま合わせをしている有様。
全く以ってデタラメだらけ。
そんなものが紀元前の日本の状況を正しく伝えてるはず無いわな。 今どき書紀の記事信じてる知恵遅れがいることにまず驚くわw >>899
古事記が献上されたのが元明天皇期(712年)、古事記の記載に基づくと、隋使を出したのが推古天皇期(600年〜618年)。
つまり、古事記には112年前〜94年前前の出来事として、遣隋使を記載している。
今から100年前後前というと、ハーグ条約(112年前)、第一次世界大戦(105年前)、流感(スペイン風邪)で死者多数・シベリア出兵(101年前)、
パリ講和会議・朝鮮半島三一独立運動(100年前)『女工哀史』発刊・相撲協会発足・男性普通選挙(94年前)……と、まあ、こんな感じ。
そんなに古い話ではないだろ。
直で体験した話を集めるのは死去や老年性痴呆で殆ど無理だろうが、子や孫が体験した本人から伝え聞いて知っているくらいの年数だ。
そこで間違うかなあ? 記と紀で内容に違いがあるので不正確な部分もあるだろうが、当時の歴史認識をそのまま反映しているのであろう。
記紀だから信じないのなら、聖徳太子もいなかったし(それはそれで構わないが)、仁徳天皇もいなかった(大山古墳は関係ないらしいが)。 ヤマトタケルとかは複数の人物の事績が混同されていると言われているが、それも意図的ではなく、そうなってしまったというのが正しいのではないか。 日本書紀は天皇が征服した土地の姫をレイプする話ばっかりで胸糞悪くなる 熊襲建(クマソタケル)→熊素建→肥素建→肥本建→日本武尊 タケルは王を意味する尊称だったのだろう。
熊襲タケルは倭王であったが、自らを倒した小碓尊を倭王の資格がある勇者と認めたのだろう。
ちなみに記紀で筑紫のタケルと明記されるのは、八咫の鏡を持つ神夏磯姫である。
タケルは梟帥とも書き、筑紫の梟帥は大宰の帥、大率と同義語である(率と帥は同義語)。 >>899
日本書記は天皇の年齢が100歳超えてたり、明らかのおかしい面はある。
しかしそれがなぜなのかを考えるのが楽しいわけだ。
君のような、サヨク学者の言うがまま人間なんて、
何が楽しくて歴史に興味を持ってるのか逆に聞きたい。
サヨク学者は「神武天皇なんていない」というのが天皇制に対しての最も効率の良い攻撃だと知ってて攻撃してるのだからね。 もう1000年も昔のことなんだから政治的偏向を捨てて
澄んだ心の目で真実を探そうとしてみたらどうだろうか? 池沼ウヨ共は機能的非識字だからまともな本を読む能力が無い
だから当然記紀も万葉集も読んでいないし
本居宣長も新井白石が何を言っていたかもさっぱり理解できない
同じ池沼のweb上のウワゴトやwikipediaや糞掲示板の文言の片言隻句を
オツムでこねくり回してやっぱりウワゴトを垂れるだけ 倭の五王は倭国王、日本王、百済王、新羅王、高句麗王 ヤマトタケル時代の景行天皇なんて
書紀では日本史上最も活躍した天皇みたいな書き方だけど
古事記じゃ空気だもんな
タケルも含めて四道将軍たちのエピソードをまとめた感じ >>913
バカ発見wwwwwwwwww
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', ヽ ヽ ,/ }
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 ̄ >>914
明治より前では関東まで下向したことのある数少ない天皇だぞ。 >>773
以前>>344で書き込んだ者だが、
>>773のまとめは、大体私のイメージにも近い。
私のイメージは、
・1世紀ころ倭国の中心地は奴国
奴国が本州含め倭国を全体的に支配していたかは
わからないが、覇者(≒筑紫島(九州)北部の
支配的存在)であった可能性は高いと考えている。
後漢書に出てくる2世紀後半の倭国大乱は
奴国の敗北衰亡(覇権崩壊)のことではないか。
・邪馬台国は神武東征により建国
神武天皇は、伊都国出身で、紀元前1世紀か
紀元後1世紀ころ、大和地域に武力侵攻し
邪馬台国を建国したのではないか。
開化天皇までの邪馬台国は、地方国家(豪族)
レベルで、徐々に強国化、機内周辺に支配地域を
広げていたかもしれないが、倭国全体を支配
していたわけではない。 ・卑弥呼は邪馬台国の女王ではない
2世紀ころまで先進地域は九州北部であり
本州は後進的であったが、九州北部は倭国
大乱により衰退する。
一方、地方大国化していた邪馬台国は
比較的戦禍を免れ、邪馬台国を中心として
新たな国家連合が形成されたのではないか。
卑弥呼は、邪馬台国出身で、新たな国家
連合の女王として共立されたが、一地方国家
としての邪馬台国の国王まで兼ねていた
わけではなかった。
このため、記紀には、天皇としては卑弥呼の
存在が残っていない。
ただし、後漢書の卑弥呼と魏志の卑弥呼が
同一人物であるかはわからない。
連合国家において実質的指導者であった
のは邪馬台国の国王(天皇)であり、崇神
天皇の時代には連合国家の国王とも位置付け
られるようになった。 卑弥呼は倭国王であり、邪馬台国はその王都。
魏志倭人伝を無視して妄想を繰り広げても意味はない。 >>1
讃は履中天皇(イザホワケ)だよ
弟の珍が反正天皇(ミズハワケ)
讃に対する記述に「高句麗とともに中国に朝貢」って書いてある
倭王讃は高句麗と連携してたんだよ
履中天皇は「大兄ミズハワケ」で「大兄」というのは高句麗の官位名
つまり履中天皇は倭王族と高句麗の官位を兼職してたってことだよ >>8
履中天皇のときに、「筑紫に税を求めたが神の怒りを買い皇后が死んだ」とある
履中天皇(倭王讃)時代に、ヤマトは筑紫を支配できていない
また、倭王珍の記述として
倭王珍が安東将軍に叙せられたのに対し
倭隋は平西将軍に叙せられてる
安東将軍=東の支配者=ヤマトの王
平西将軍=西の支配者=筑紫の王
と見なせる
ヤマトと筑紫はこの時代、ヤマト優勢ではあるが支配関係ではなく属国に近い同盟関係 磐井の乱で継体天皇は屯倉一つを手に入れただけ。
筑紫の君の息子が継承して筑紫倭国の国体は守られた。 九州王朝は位置的に難しいと思うぞ。
そもそも北九州が天下を治めるというのに無理がある。
もし仮に天下を取ったら、すぐに移動しただろう。 >>922
嘘は良くない。大兄は長兄という意味だよ。 天智天皇より前の倭王は大伴氏や蘇我氏の豪族達に推戴された王。卑弥呼と一緒。 古代史はトンデモ史観に占拠されているから、うんざりする。 >>927
三韓出兵(広開土王碑)による高句麗との交流開始とともに「大兄」のつく皇族が出現
高句麗滅亡とともに「大兄」のつく皇族はいなくなる
この歴史的事実をどう捉えるか >>925
その屯倉は博多湾だからな
つまり最大の貿易港であり国力の生命線をヤマトに抑えられた
事実上の完全従属だよ 古田の多元王朝論は面白いんだけど、
残念ながら
九州vsヤマトではなく、
ヤマトvsヤマトの多元王朝なんだよ
ヤマトの勢力が分裂してそれぞれで勝手に年号を制定したり(いわゆる古田の言う九州年号)都を立てて律令を作ったり、銅銭(富本銭)を作ったりしてたわけだ
それが壬申の乱〜大宝律令〜記紀の制定でやっと落ち着く、という流れ 博多湾抑えられたら長崎か熊本のほうから貿易しなきゃいけない
これはキツイと思うよ
北九州宗像あたりは古くからヤマト側だし >>933
宗像三女神が守護した天孫は筑紫の日向で豊葦原中国の王になった。
ヤマトが何だって? 宗像が古くから云々というのは6世紀の話か。
あまり古くないな。 >>936
いや、つまり古くから天孫族(後の畿内天皇家)に付き従ってたってことじゃん 何よりの証拠は、沖ノ島が聖地になってるってことだわな
博多制圧前は畿内政権は沖ノ島ルートしか使えなかったってこと
普通は博多湾→壱岐→対馬→朝鮮半島と行くはず
それをわざわざ宗像→沖ノ島→朝鮮半島というルートを通って交易していたのは
そのルートしか通れなかったということだよ
で、博多制圧すると沖ノ島は実用的な交易のための港としては見捨てられ、宗教的な場所になっていく >>937
その頃はまだヤマトは関係ないだろ。
時系列がデタラメだぞ。
宗像が支持したのは筑紫の王権だよ。 高天原の語義は「高貴なる海の城」
沖ノ島が高天原そのものなんだよ。
そこから宗像氏族に守られて天孫が筑紫の倭王となり、志賀島の大山祇や綿津見などの先代の倭王家と婚姻したというさ。
その時点では畿内はもう一人の天孫である饒速日が交野に降臨して開拓中だった。
その末裔の尾張氏のさらに末端の誰かが纒向にいた。 >>940
記紀のみをベースにしたストーリーは基本的には史実性は薄いと考えたほうがいいよ
俺は>>922>>923>>930なんかでも
日本の記紀、中国側の歴史書、高句麗の広開土王碑を横断的に見て、より真実に近い歴史をあぶり出してるでしょ? >>941
別に他の史書と矛盾しないなら記紀でも構わないはず。
他の時代とゴッチャにするから矛盾しているように見えてしまう。
沖ノ島の祭祀が長く続けられた理由として、そこが高天原だと考えられていたからだとするのは無理のない推測だよ。
そして記紀では宗像は筑紫に降臨した天孫族を支持した最大勢力として描かれている。 少なくとも、時代を特定せずに「畿内政権」と使うのは迂闊だし、それを安易に沖ノ島に繋げるのも正しいようには見えない。 >>942
沖ノ島は小さい島だよ
金属が取れるわけでもない
高天原は高句麗か公孫氏で、朝鮮半島の付け根当たりの地域のことだと思うぞ
高天原=高句麗=タカミムスビ神
と考えると「高」の一致性がある
公孫氏は卑弥呼とのつながりがある
公孫氏政権が崩壊したとき、つながりのある倭国に残党が逃げてきてたと考えることもできる
ニニギもそうだけど、国見で「ここはカラクニがよく見える」と喜んでたり
どうも大陸側にふるさとがありそうなことは匂わせてるわな >>944
高は修飾語かと。
邇邇芸が喜んでいたのは、博多が通商に有利だったから、で説明できる。
故郷の沖ノ島より便利だからね。
キーになるのは、なぜ沖ノ島の祭祀が重要視されていたかだよ。
主要交通路から外れたら、祭りそのものを続ける動機が薄れる。
しかし何百年も熱心に祭祀は続けられた。
しかもそれを取り仕切ったのは、天照から祭祀を任された宗像氏族だ。
宗像の本拠地があくまでも九州側なら、沖ノ島は何だ?
宗像に祭祀を任せた天照本人がいたところだろうと考えられるわけだ。
天照の高天原であれば、数百年にもわたり祭りを続けた理由が納得できるだろう? 阿麻氐留(アマテル)神社があるのは対馬
壱岐には月読神社がある >>945
沖ノ島は小さい島だから
倭国を征服するほどの勢力が住んでたとは思えない
対馬、壱岐のほうが三貴子にゆかりのある神社が多く残ってる >>946
対馬が高天原でアマテラス
壱岐が月夜見
海原の統治を任されたスサノオは海を渡って日本列島へ
っていうオハナシは想定できると思う 根の国(黄泉の国)が新羅で常世の国が公孫氏だろう
公孫氏の末裔が常世連を名乗ってる ただ、じゃあ三貴子はどこから対馬に来たのか、という話になる 魏志韓伝に倭と韓は公孫氏に属したとはっきり書いてある
公孫氏が滅亡したから魏に使者を送ったのが卑弥呼
卑弥呼は公孫氏に属してた時代があった
そして韓とは「公孫氏の属国仲間」だった
公孫氏の王宮でのパーティーなんかにら倭の使者は韓の使者とともに参加し、恭しく挨拶などをすることもあっただろう 逆に公孫氏の使者が倭を訪問し、倭政府を監視したり税金や貢ぎ物を取り立てて帰る、なんてこともあっただろう
九州からは3世紀の硯が見つかっている >>949
>公孫氏の末裔が常世連を名乗ってる
へえ。
これは面白いね。 >>950
三貴人は筑紫の日向の小戸の生まれだったはず。
そこから壱岐対馬へ渡ったのだろう。
本来の倭王の王統は、筑紫の大山祇綿津見の兄弟だったはず。
邇邇芸は大山祇の娘を娶っており、女系では相続が成立している。 >>955
じゃあなんで国譲りで日向に天孫降臨するんだよ
ただ故地に帰ってきただけじゃねーか 天から降臨してきたのだから
その場所は「地」のはず
宗方の沖に「地」という地名の場所があるのだから
そこに来たのが始まり
そこから九州島に着いた地点に宗像神社がある
自然に考えるとそこが出発点 >>956
傍系が主流に返り咲いたんだよ。
記紀では天皇家につながるアマテラスを重視しているが、その世代の倭王は志賀島の綿津見だろうね。 カルチャーラジオ 歴史再発見
ラジオ第2 毎週火曜 午後8時30分 | 再放送 毎週火曜 午前10時
https://www4.nhk.or.jp/P1927/
まず倭の五王からはじまった >>926
その移動の過程が神武東征なんだろ。
九州北端に近い岡田で策を練って本格的に制圧開始ってのも、古事記では1年くらいの短期間のように書いてるけれど
戦費や同盟者を集めるためにもっと長いこと腰を落ち着けて統治してたんではないんかな。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。