倭の五王の正体についてじっくり検証するスレ [無断転載禁止]©2ch.net
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自分の考えとしては倭の五王のうち讃=『褒』田別と武=大泊瀬幼『武』以外は当てはまる天皇はいないと思う
この説を説明するために前提として
天皇の在位年は古事記における干支が正しいのだとしておく
問題の時代における天皇(大王)は恒久的なものではなく、複数並立したり空位時代があるものであるとする
万世一系の演出のため、空位時代を埋める目的で追尊されたり、
はたまた大王としての実力があるにも関わらず認定されない権力者が多くあったことだろう
そのため即位年数を厳密に記述して空位時代がないようにしてある日本書紀の紀年は後の創作だと断定できる
三国史記との一致から推定した応神天皇ことホムダワケの没年は394年。だが倭王讃の記述は413年〜425年
これは矛盾している様だが、実はカラクリがある
(続く) ヤマトタケルとかは複数の人物の事績が混同されていると言われているが、それも意図的ではなく、そうなってしまったというのが正しいのではないか。 日本書紀は天皇が征服した土地の姫をレイプする話ばっかりで胸糞悪くなる 熊襲建(クマソタケル)→熊素建→肥素建→肥本建→日本武尊 タケルは王を意味する尊称だったのだろう。
熊襲タケルは倭王であったが、自らを倒した小碓尊を倭王の資格がある勇者と認めたのだろう。
ちなみに記紀で筑紫のタケルと明記されるのは、八咫の鏡を持つ神夏磯姫である。
タケルは梟帥とも書き、筑紫の梟帥は大宰の帥、大率と同義語である(率と帥は同義語)。 >>899
日本書記は天皇の年齢が100歳超えてたり、明らかのおかしい面はある。
しかしそれがなぜなのかを考えるのが楽しいわけだ。
君のような、サヨク学者の言うがまま人間なんて、
何が楽しくて歴史に興味を持ってるのか逆に聞きたい。
サヨク学者は「神武天皇なんていない」というのが天皇制に対しての最も効率の良い攻撃だと知ってて攻撃してるのだからね。 もう1000年も昔のことなんだから政治的偏向を捨てて
澄んだ心の目で真実を探そうとしてみたらどうだろうか? 池沼ウヨ共は機能的非識字だからまともな本を読む能力が無い
だから当然記紀も万葉集も読んでいないし
本居宣長も新井白石が何を言っていたかもさっぱり理解できない
同じ池沼のweb上のウワゴトやwikipediaや糞掲示板の文言の片言隻句を
オツムでこねくり回してやっぱりウワゴトを垂れるだけ 倭の五王は倭国王、日本王、百済王、新羅王、高句麗王 ヤマトタケル時代の景行天皇なんて
書紀では日本史上最も活躍した天皇みたいな書き方だけど
古事記じゃ空気だもんな
タケルも含めて四道将軍たちのエピソードをまとめた感じ >>913
バカ発見wwwwwwwwww
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 ̄ >>914
明治より前では関東まで下向したことのある数少ない天皇だぞ。 >>773
以前>>344で書き込んだ者だが、
>>773のまとめは、大体私のイメージにも近い。
私のイメージは、
・1世紀ころ倭国の中心地は奴国
奴国が本州含め倭国を全体的に支配していたかは
わからないが、覇者(≒筑紫島(九州)北部の
支配的存在)であった可能性は高いと考えている。
後漢書に出てくる2世紀後半の倭国大乱は
奴国の敗北衰亡(覇権崩壊)のことではないか。
・邪馬台国は神武東征により建国
神武天皇は、伊都国出身で、紀元前1世紀か
紀元後1世紀ころ、大和地域に武力侵攻し
邪馬台国を建国したのではないか。
開化天皇までの邪馬台国は、地方国家(豪族)
レベルで、徐々に強国化、機内周辺に支配地域を
広げていたかもしれないが、倭国全体を支配
していたわけではない。 ・卑弥呼は邪馬台国の女王ではない
2世紀ころまで先進地域は九州北部であり
本州は後進的であったが、九州北部は倭国
大乱により衰退する。
一方、地方大国化していた邪馬台国は
比較的戦禍を免れ、邪馬台国を中心として
新たな国家連合が形成されたのではないか。
卑弥呼は、邪馬台国出身で、新たな国家
連合の女王として共立されたが、一地方国家
としての邪馬台国の国王まで兼ねていた
わけではなかった。
このため、記紀には、天皇としては卑弥呼の
存在が残っていない。
ただし、後漢書の卑弥呼と魏志の卑弥呼が
同一人物であるかはわからない。
連合国家において実質的指導者であった
のは邪馬台国の国王(天皇)であり、崇神
天皇の時代には連合国家の国王とも位置付け
られるようになった。 卑弥呼は倭国王であり、邪馬台国はその王都。
魏志倭人伝を無視して妄想を繰り広げても意味はない。 >>1
讃は履中天皇(イザホワケ)だよ
弟の珍が反正天皇(ミズハワケ)
讃に対する記述に「高句麗とともに中国に朝貢」って書いてある
倭王讃は高句麗と連携してたんだよ
履中天皇は「大兄ミズハワケ」で「大兄」というのは高句麗の官位名
つまり履中天皇は倭王族と高句麗の官位を兼職してたってことだよ >>8
履中天皇のときに、「筑紫に税を求めたが神の怒りを買い皇后が死んだ」とある
履中天皇(倭王讃)時代に、ヤマトは筑紫を支配できていない
また、倭王珍の記述として
倭王珍が安東将軍に叙せられたのに対し
倭隋は平西将軍に叙せられてる
安東将軍=東の支配者=ヤマトの王
平西将軍=西の支配者=筑紫の王
と見なせる
ヤマトと筑紫はこの時代、ヤマト優勢ではあるが支配関係ではなく属国に近い同盟関係 磐井の乱で継体天皇は屯倉一つを手に入れただけ。
筑紫の君の息子が継承して筑紫倭国の国体は守られた。 九州王朝は位置的に難しいと思うぞ。
そもそも北九州が天下を治めるというのに無理がある。
もし仮に天下を取ったら、すぐに移動しただろう。 >>922
嘘は良くない。大兄は長兄という意味だよ。 天智天皇より前の倭王は大伴氏や蘇我氏の豪族達に推戴された王。卑弥呼と一緒。 古代史はトンデモ史観に占拠されているから、うんざりする。 >>927
三韓出兵(広開土王碑)による高句麗との交流開始とともに「大兄」のつく皇族が出現
高句麗滅亡とともに「大兄」のつく皇族はいなくなる
この歴史的事実をどう捉えるか >>925
その屯倉は博多湾だからな
つまり最大の貿易港であり国力の生命線をヤマトに抑えられた
事実上の完全従属だよ 古田の多元王朝論は面白いんだけど、
残念ながら
九州vsヤマトではなく、
ヤマトvsヤマトの多元王朝なんだよ
ヤマトの勢力が分裂してそれぞれで勝手に年号を制定したり(いわゆる古田の言う九州年号)都を立てて律令を作ったり、銅銭(富本銭)を作ったりしてたわけだ
それが壬申の乱〜大宝律令〜記紀の制定でやっと落ち着く、という流れ 博多湾抑えられたら長崎か熊本のほうから貿易しなきゃいけない
これはキツイと思うよ
北九州宗像あたりは古くからヤマト側だし >>933
宗像三女神が守護した天孫は筑紫の日向で豊葦原中国の王になった。
ヤマトが何だって? 宗像が古くから云々というのは6世紀の話か。
あまり古くないな。 >>936
いや、つまり古くから天孫族(後の畿内天皇家)に付き従ってたってことじゃん 何よりの証拠は、沖ノ島が聖地になってるってことだわな
博多制圧前は畿内政権は沖ノ島ルートしか使えなかったってこと
普通は博多湾→壱岐→対馬→朝鮮半島と行くはず
それをわざわざ宗像→沖ノ島→朝鮮半島というルートを通って交易していたのは
そのルートしか通れなかったということだよ
で、博多制圧すると沖ノ島は実用的な交易のための港としては見捨てられ、宗教的な場所になっていく >>937
その頃はまだヤマトは関係ないだろ。
時系列がデタラメだぞ。
宗像が支持したのは筑紫の王権だよ。 高天原の語義は「高貴なる海の城」
沖ノ島が高天原そのものなんだよ。
そこから宗像氏族に守られて天孫が筑紫の倭王となり、志賀島の大山祇や綿津見などの先代の倭王家と婚姻したというさ。
その時点では畿内はもう一人の天孫である饒速日が交野に降臨して開拓中だった。
その末裔の尾張氏のさらに末端の誰かが纒向にいた。 >>940
記紀のみをベースにしたストーリーは基本的には史実性は薄いと考えたほうがいいよ
俺は>>922>>923>>930なんかでも
日本の記紀、中国側の歴史書、高句麗の広開土王碑を横断的に見て、より真実に近い歴史をあぶり出してるでしょ? >>941
別に他の史書と矛盾しないなら記紀でも構わないはず。
他の時代とゴッチャにするから矛盾しているように見えてしまう。
沖ノ島の祭祀が長く続けられた理由として、そこが高天原だと考えられていたからだとするのは無理のない推測だよ。
そして記紀では宗像は筑紫に降臨した天孫族を支持した最大勢力として描かれている。 少なくとも、時代を特定せずに「畿内政権」と使うのは迂闊だし、それを安易に沖ノ島に繋げるのも正しいようには見えない。 >>942
沖ノ島は小さい島だよ
金属が取れるわけでもない
高天原は高句麗か公孫氏で、朝鮮半島の付け根当たりの地域のことだと思うぞ
高天原=高句麗=タカミムスビ神
と考えると「高」の一致性がある
公孫氏は卑弥呼とのつながりがある
公孫氏政権が崩壊したとき、つながりのある倭国に残党が逃げてきてたと考えることもできる
ニニギもそうだけど、国見で「ここはカラクニがよく見える」と喜んでたり
どうも大陸側にふるさとがありそうなことは匂わせてるわな >>944
高は修飾語かと。
邇邇芸が喜んでいたのは、博多が通商に有利だったから、で説明できる。
故郷の沖ノ島より便利だからね。
キーになるのは、なぜ沖ノ島の祭祀が重要視されていたかだよ。
主要交通路から外れたら、祭りそのものを続ける動機が薄れる。
しかし何百年も熱心に祭祀は続けられた。
しかもそれを取り仕切ったのは、天照から祭祀を任された宗像氏族だ。
宗像の本拠地があくまでも九州側なら、沖ノ島は何だ?
宗像に祭祀を任せた天照本人がいたところだろうと考えられるわけだ。
天照の高天原であれば、数百年にもわたり祭りを続けた理由が納得できるだろう? 阿麻氐留(アマテル)神社があるのは対馬
壱岐には月読神社がある >>945
沖ノ島は小さい島だから
倭国を征服するほどの勢力が住んでたとは思えない
対馬、壱岐のほうが三貴子にゆかりのある神社が多く残ってる >>946
対馬が高天原でアマテラス
壱岐が月夜見
海原の統治を任されたスサノオは海を渡って日本列島へ
っていうオハナシは想定できると思う 根の国(黄泉の国)が新羅で常世の国が公孫氏だろう
公孫氏の末裔が常世連を名乗ってる ただ、じゃあ三貴子はどこから対馬に来たのか、という話になる 魏志韓伝に倭と韓は公孫氏に属したとはっきり書いてある
公孫氏が滅亡したから魏に使者を送ったのが卑弥呼
卑弥呼は公孫氏に属してた時代があった
そして韓とは「公孫氏の属国仲間」だった
公孫氏の王宮でのパーティーなんかにら倭の使者は韓の使者とともに参加し、恭しく挨拶などをすることもあっただろう 逆に公孫氏の使者が倭を訪問し、倭政府を監視したり税金や貢ぎ物を取り立てて帰る、なんてこともあっただろう
九州からは3世紀の硯が見つかっている >>949
>公孫氏の末裔が常世連を名乗ってる
へえ。
これは面白いね。 >>950
三貴人は筑紫の日向の小戸の生まれだったはず。
そこから壱岐対馬へ渡ったのだろう。
本来の倭王の王統は、筑紫の大山祇綿津見の兄弟だったはず。
邇邇芸は大山祇の娘を娶っており、女系では相続が成立している。 >>955
じゃあなんで国譲りで日向に天孫降臨するんだよ
ただ故地に帰ってきただけじゃねーか 天から降臨してきたのだから
その場所は「地」のはず
宗方の沖に「地」という地名の場所があるのだから
そこに来たのが始まり
そこから九州島に着いた地点に宗像神社がある
自然に考えるとそこが出発点 >>956
傍系が主流に返り咲いたんだよ。
記紀では天皇家につながるアマテラスを重視しているが、その世代の倭王は志賀島の綿津見だろうね。 カルチャーラジオ 歴史再発見
ラジオ第2 毎週火曜 午後8時30分 | 再放送 毎週火曜 午前10時
https://www4.nhk.or.jp/P1927/
まず倭の五王からはじまった >>926
その移動の過程が神武東征なんだろ。
九州北端に近い岡田で策を練って本格的に制圧開始ってのも、古事記では1年くらいの短期間のように書いてるけれど
戦費や同盟者を集めるためにもっと長いこと腰を落ち着けて統治してたんではないんかな。 岡田の宮には大王がいたんだろ
大王に挨拶にいって、支援の約束を取り付けて、広島→近畿と移動した
支援の約束の証拠品が「天羽羽矢」だろ 天羽羽矢は先に畿内を征服した饒速日も持っていたから、高天原時代の名残だよ。
少なくとも岡田で手に入れたわけではない。 ニギハヤヒが九州出身なのは大国主編で匂わせてるだろ
大物主(ニギハヤヒ)と出会う場面 九州ではなく、どちらも高天原の子孫なんだよ。
天神の子と表現されているだろ?
天津神(海の王)であるアマテラスの末裔だ。
岡田の王の出自は不明だし。 出自は不明なのではなく、天皇家原理主義上正体を書くことが出来なかった 「神武天皇に上司がいた」だなんて書くわけにはいかないからな 饒速日も大叔父だ。
神武は饒速日を頼って筑紫を出た。
敵対した長髄彦を倒したのも饒速日。
ヤマト王権の祭祀と軍事の実権を掌握していたのは、饒速日の末裔の物部氏。 >>951
時代が違いすぎるだろ。
元が攻めてきたのは記紀の編纂された時代から500年も後じゃないか >>949
常世連(公孫氏)→常世国
松野連(姫氏)→末廬国? 倭の五王を、2〜300年後の、創作の記紀の天皇に比定するんじゃなくて
実年代で存在した倭王、讃珍済興武を実在する、大王古墳で比定した方が良いと思う。
古墳の実年代が最大の鍵。
記紀の天皇制の世襲一統は推古天皇には遡れそうもない。 >>901
おまえの100年前の先祖の話を聞かせて >>901
>そこで間違うかなあ?
ほんの少し前の民主党政権なんてなかったも同然の扱いだし、今年の桜を見る会の出席者もわからない。
100年も前のことなら当事者がいないから創作し放題。
わからなくなったのではなく、わからないようにしたんだよ。 倭の五王は北朝にはなんで朝貢しなかったんだろう?百済や新羅は南北両朝に朝貢しているのに。 >>976
山東が南朝に支配されたからだぞ
山東勢力に気付かれないように北朝に向かうのは無理だからな >>973
支那が日本の事情なんてちゃんと理解してんだろうか?
正使を送ってやり取りしていた隋唐の時分のことを晋や宋の王様が知らないんだし。
最後の遣唐使が帰ってきたのが839年、晋が唐に取って代わったのが936年、晋の編纂した唐書の日本の記載はデタラメ放題。
宋の二代目の王様、使節が隋の煬帝にナマイキこいた時代から日本の王統が途切れず続いていると知るのが、即位から18年後。
兄貴の初代皇帝の即位から24年後だぞ。兄貴が王様になったとき33歳だぞ。オヤジの生きていた時分は学問を好む本の虫だったと
伝わってるくらいなのに、45歳まで日本の国体がどんなふうなのかしらんかったんだぞ。
市舶司とか置いて船が盛んに往来するような新しめの時代でもそんな調子だぞ。
倭の五王と記紀の天皇とは無関係
どのように頑張っても比定は不可能ww
つか日本側の名前なんて後付じゃんw
ヤマトはもともと山門だしw 当時の記録として実在していた。
ただ、後世の記録からは抹消されている? 413年 東晋 義熙9 ? 高句麗・倭国及び西南夷の銅頭大師が安帝に貢物を献ずる。 (『晋書』安帝紀、『太平御覧』) 421年 宋 永初2 讃 宋に朝献し、武帝から除授の詔をうける。「安東将軍倭国王」。(『宋書』夷蛮伝) 425年 宋 元嘉2「 讃 」司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる。(『宋書』夷蛮伝) 430年 宋 元嘉7「 讃?」 1月、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる。(『宋書』文帝紀) 438年 宋 元嘉15 珍 これより先(後の意味以下同)、倭王讃没し、弟珍立つ。この年、宋に朝献し、
自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、
正式の任命を求める。(『宋書』夷蛮伝)
4月、宋文帝、珍を「安東将軍倭国王」とする。(『宋書』文帝紀)
珍はまた、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にされんことを求め、許される。(『宋書』夷蛮伝) 443年 宋 元嘉20「 済」 宋・文帝に朝献して、「安東将軍倭国王」とされる。(『宋書』夷蛮伝) 451年 宋 元嘉28「 済 」宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」
を加号される。安東将軍はもとのまま。(『宋書』倭国伝)
7月、「安東大将軍」に進号する。(『宋書』文帝紀)
また、上った23人も宋朝から将軍号・郡太守号を与えられる。(『宋書』夷蛮伝) 400年〜500年で日本の王は漢名を名乗った。
記紀は後付けの偽史。
比定できないなら、漢名の倭の五王の方が史実なんだが?
記紀が日本史だと、事実、史実には絶対到達しないよ。 460年 宋 大明4 「済?」 12月、孝武帝へ遣使して貢物を献ずる。 462年 宋 大明6 「興」 3月、宋・孝武帝、済の世子の興を「安東将軍倭国王」とする。(『宋書』孝武帝紀、倭国伝) 477年 宋 昇明1 「興(武)」 11月、遣使して貢物を献ずる。(『宋書』順帝紀)
これより先、興没して弟の武立つ。
「武」は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」
と称する。(『宋書』夷蛮伝) 478年 宋 昇明2 「武」 上表して、自ら「開府儀同三司」[注 5]と称し、叙正を求める。
順帝、「武」を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする。
(『宋書』順帝紀)(「武」と明記したもので初めて) 479年 南斉 建元1「 武」 南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武を「鎮東大将軍」
(征東将軍)に進号。(『南斉書』倭国伝) 502年 梁 天監1 「武」 4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を「征東大将軍」に進号する。(『梁書』武帝紀) このスレッドは1000を超えました。
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