倭の五王の正体についてじっくり検証するスレ [無断転載禁止]©2ch.net
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自分の考えとしては倭の五王のうち讃=『褒』田別と武=大泊瀬幼『武』以外は当てはまる天皇はいないと思う
この説を説明するために前提として
天皇の在位年は古事記における干支が正しいのだとしておく
問題の時代における天皇(大王)は恒久的なものではなく、複数並立したり空位時代があるものであるとする
万世一系の演出のため、空位時代を埋める目的で追尊されたり、
はたまた大王としての実力があるにも関わらず認定されない権力者が多くあったことだろう
そのため即位年数を厳密に記述して空位時代がないようにしてある日本書紀の紀年は後の創作だと断定できる
三国史記との一致から推定した応神天皇ことホムダワケの没年は394年。だが倭王讃の記述は413年〜425年
これは矛盾している様だが、実はカラクリがある
(続く) 魏志韓伝に倭と韓は公孫氏に属したとはっきり書いてある
公孫氏が滅亡したから魏に使者を送ったのが卑弥呼
卑弥呼は公孫氏に属してた時代があった
そして韓とは「公孫氏の属国仲間」だった
公孫氏の王宮でのパーティーなんかにら倭の使者は韓の使者とともに参加し、恭しく挨拶などをすることもあっただろう 逆に公孫氏の使者が倭を訪問し、倭政府を監視したり税金や貢ぎ物を取り立てて帰る、なんてこともあっただろう
九州からは3世紀の硯が見つかっている >>949
>公孫氏の末裔が常世連を名乗ってる
へえ。
これは面白いね。 >>950
三貴人は筑紫の日向の小戸の生まれだったはず。
そこから壱岐対馬へ渡ったのだろう。
本来の倭王の王統は、筑紫の大山祇綿津見の兄弟だったはず。
邇邇芸は大山祇の娘を娶っており、女系では相続が成立している。 >>955
じゃあなんで国譲りで日向に天孫降臨するんだよ
ただ故地に帰ってきただけじゃねーか 天から降臨してきたのだから
その場所は「地」のはず
宗方の沖に「地」という地名の場所があるのだから
そこに来たのが始まり
そこから九州島に着いた地点に宗像神社がある
自然に考えるとそこが出発点 >>956
傍系が主流に返り咲いたんだよ。
記紀では天皇家につながるアマテラスを重視しているが、その世代の倭王は志賀島の綿津見だろうね。 カルチャーラジオ 歴史再発見
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まず倭の五王からはじまった >>926
その移動の過程が神武東征なんだろ。
九州北端に近い岡田で策を練って本格的に制圧開始ってのも、古事記では1年くらいの短期間のように書いてるけれど
戦費や同盟者を集めるためにもっと長いこと腰を落ち着けて統治してたんではないんかな。 岡田の宮には大王がいたんだろ
大王に挨拶にいって、支援の約束を取り付けて、広島→近畿と移動した
支援の約束の証拠品が「天羽羽矢」だろ 天羽羽矢は先に畿内を征服した饒速日も持っていたから、高天原時代の名残だよ。
少なくとも岡田で手に入れたわけではない。 ニギハヤヒが九州出身なのは大国主編で匂わせてるだろ
大物主(ニギハヤヒ)と出会う場面 九州ではなく、どちらも高天原の子孫なんだよ。
天神の子と表現されているだろ?
天津神(海の王)であるアマテラスの末裔だ。
岡田の王の出自は不明だし。 出自は不明なのではなく、天皇家原理主義上正体を書くことが出来なかった 「神武天皇に上司がいた」だなんて書くわけにはいかないからな 饒速日も大叔父だ。
神武は饒速日を頼って筑紫を出た。
敵対した長髄彦を倒したのも饒速日。
ヤマト王権の祭祀と軍事の実権を掌握していたのは、饒速日の末裔の物部氏。 >>951
時代が違いすぎるだろ。
元が攻めてきたのは記紀の編纂された時代から500年も後じゃないか >>949
常世連(公孫氏)→常世国
松野連(姫氏)→末廬国? 倭の五王を、2〜300年後の、創作の記紀の天皇に比定するんじゃなくて
実年代で存在した倭王、讃珍済興武を実在する、大王古墳で比定した方が良いと思う。
古墳の実年代が最大の鍵。
記紀の天皇制の世襲一統は推古天皇には遡れそうもない。 >>901
おまえの100年前の先祖の話を聞かせて >>901
>そこで間違うかなあ?
ほんの少し前の民主党政権なんてなかったも同然の扱いだし、今年の桜を見る会の出席者もわからない。
100年も前のことなら当事者がいないから創作し放題。
わからなくなったのではなく、わからないようにしたんだよ。 倭の五王は北朝にはなんで朝貢しなかったんだろう?百済や新羅は南北両朝に朝貢しているのに。 >>976
山東が南朝に支配されたからだぞ
山東勢力に気付かれないように北朝に向かうのは無理だからな >>973
支那が日本の事情なんてちゃんと理解してんだろうか?
正使を送ってやり取りしていた隋唐の時分のことを晋や宋の王様が知らないんだし。
最後の遣唐使が帰ってきたのが839年、晋が唐に取って代わったのが936年、晋の編纂した唐書の日本の記載はデタラメ放題。
宋の二代目の王様、使節が隋の煬帝にナマイキこいた時代から日本の王統が途切れず続いていると知るのが、即位から18年後。
兄貴の初代皇帝の即位から24年後だぞ。兄貴が王様になったとき33歳だぞ。オヤジの生きていた時分は学問を好む本の虫だったと
伝わってるくらいなのに、45歳まで日本の国体がどんなふうなのかしらんかったんだぞ。
市舶司とか置いて船が盛んに往来するような新しめの時代でもそんな調子だぞ。
倭の五王と記紀の天皇とは無関係
どのように頑張っても比定は不可能ww
つか日本側の名前なんて後付じゃんw
ヤマトはもともと山門だしw 当時の記録として実在していた。
ただ、後世の記録からは抹消されている? 413年 東晋 義熙9 ? 高句麗・倭国及び西南夷の銅頭大師が安帝に貢物を献ずる。 (『晋書』安帝紀、『太平御覧』) 421年 宋 永初2 讃 宋に朝献し、武帝から除授の詔をうける。「安東将軍倭国王」。(『宋書』夷蛮伝) 425年 宋 元嘉2「 讃 」司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる。(『宋書』夷蛮伝) 430年 宋 元嘉7「 讃?」 1月、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる。(『宋書』文帝紀) 438年 宋 元嘉15 珍 これより先(後の意味以下同)、倭王讃没し、弟珍立つ。この年、宋に朝献し、
自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、
正式の任命を求める。(『宋書』夷蛮伝)
4月、宋文帝、珍を「安東将軍倭国王」とする。(『宋書』文帝紀)
珍はまた、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にされんことを求め、許される。(『宋書』夷蛮伝) 443年 宋 元嘉20「 済」 宋・文帝に朝献して、「安東将軍倭国王」とされる。(『宋書』夷蛮伝) 451年 宋 元嘉28「 済 」宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」
を加号される。安東将軍はもとのまま。(『宋書』倭国伝)
7月、「安東大将軍」に進号する。(『宋書』文帝紀)
また、上った23人も宋朝から将軍号・郡太守号を与えられる。(『宋書』夷蛮伝) 400年〜500年で日本の王は漢名を名乗った。
記紀は後付けの偽史。
比定できないなら、漢名の倭の五王の方が史実なんだが?
記紀が日本史だと、事実、史実には絶対到達しないよ。 460年 宋 大明4 「済?」 12月、孝武帝へ遣使して貢物を献ずる。 462年 宋 大明6 「興」 3月、宋・孝武帝、済の世子の興を「安東将軍倭国王」とする。(『宋書』孝武帝紀、倭国伝) 477年 宋 昇明1 「興(武)」 11月、遣使して貢物を献ずる。(『宋書』順帝紀)
これより先、興没して弟の武立つ。
「武」は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」
と称する。(『宋書』夷蛮伝) 478年 宋 昇明2 「武」 上表して、自ら「開府儀同三司」[注 5]と称し、叙正を求める。
順帝、「武」を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする。
(『宋書』順帝紀)(「武」と明記したもので初めて) 479年 南斉 建元1「 武」 南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武を「鎮東大将軍」
(征東将軍)に進号。(『南斉書』倭国伝) 502年 梁 天監1 「武」 4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を「征東大将軍」に進号する。(『梁書』武帝紀) このスレッドは1000を超えました。
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