「あらたへの藤原かうへに」
御殿(藤原宮)は、藤原のほとりに造営されたが、枕詞からそこは「あらたへ」と関係する土地であろう。
鴨島町は和名抄にいう旧「麻植郡(おえぐん)」である。いうまでもなく麻植郡は阿波忌部の本貫地である。
紀の神代一書にも天石窟(あまのいわや)の神事に、粟国の忌部の遠祖天日鷲が作(は)ける木綿(ゆう)を懸(とりし)でて」とみえる。
この阿波忌部の職業は天皇祭祀中、最も重要な大嘗祭において如何なく発揮されており、その調進物の中で、大嘗祭内陣に奉供される「麁布」が最も重要とされている。
このように阿波麻植郡の鴨島の地は、阿波忌部が麁布をつくるまさに聖地である。この麻植郡の聖地を説明するのに、枕詞「あらたへの」が用いられたのである。
しかも天皇にとって最も神聖で、最もめでたい品、皇祖天照大神が織らしめたという衣(あらたへ)を最上の賛辞として、柿本人麻呂が持統天皇に捧げたというのがこの歌の神髄である。
持統天皇は、持統6年、新益京の造営が奈良盆地で進む中、自らの治世中は、皇祖神から授けられた百敷(ももしき)の倭(阿波)にとどまりたいと決意し、鴨島の地(藤原宮地)で地鎮祭を行った。
これを天神地祇あらゆる民がことほぎ、御殿の造営に我を忘れ奉仕した様子がこの歌である。  @阿波